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求道俳句とキリスト教「余白の風」第144号  

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2007年 12月発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights  reserved.

主宰作品  蓮田市 平田栄一

日盛りを御言葉楚々と歩み来る

どくだみに分け入る勇気昭和ゆく

希望というパン賜りぬ夏のミサ

天網に余命を委す法師蝉

よろよろと羽蟻出でたり旅枕

御巣鷹忌人は使命に生くものか

(「麦」十二月号より)


悪霊の願い マタイ8

ガダラの豚なだれ込みたる夏怒濤


イエスの権威 マタイ9 創世記22

ままならぬ世に大輪の虹かかる


福音の逆説

人の幸不幸は問えず道おしえ


新しい酒は新しい皮袋に

ミサ終えて甘きビールの香りかな


72人を遣わす ルカ10

白靴の平和の使徒や歩み来る


女性を癒す マタイ9

病葉の熱の在り処やアバの御手


悪霊の頭 

片陰にイエスの業を覗き見る


聖ベネディクト祭 マタイ10

十二使徒送り出すとき梅雨の雷


使徒の派遣

夏の雲湧いては四方へ遣わされ


鳩のように素直になりなさい マタイ10

朝霧の深き淵より鳩の翔つ

人の子の歩める街や霧深し


髪の毛一本も忘れられない

講壇に誰の一髪梅雨じめり


善いサマリア人のたとえ ルカ10

台風の針路や如何にろばの旅


娘は母に マタイ10

若くない母娘連れ添う台風一過

 マタイ11

度々の奇跡は見えず五月闇


「幼子の道」とは 

梅雨寒や遠くて近きアバの道


疲れた者は、私のもとに来なさい

主のもとに駆け寄る夢や昼寝醒め


麦の穂を摘んで マタイ12

麦の穂のつんつん青きアバの風


傷ついた葦を折らず

傷ついた葦にやさしき梅雨の闇


聖句あり ルカ10

夏期講習マルタマリアと揺れ動く


    (「豈」四五号より)



作品とエッセイ(*主宰寸感)

豊田市  佐藤淡丘

  あかときや寒菊として固まれり

*「あかとき」=暁に映える寒菊の凛とした姿勢が清々しいですね。

  いちょう散る全校生徒教室に

*黄落の中を駆け抜ける子供たち。秋はさみしいばかりではありません。

  冬の虫小さな記憶奏でをり

*「小さな記憶」に「虫」の一生がが詰まっているのでしょう。

  遠き日の渡り廊下や片時雨

*学校の「渡り廊下」でしょうか。木造校舎のなかを駆け回っていたあの頃・・・・。

  街灯の続くさみしさしぐれゐて

*いつもの「丘」に行く途中でしょうか。時雨の中に点々と続く「街灯」。「さみしさを」抜けた、その向こうに期待が広がる・・・・。


日の出の刻は、四時半の起床にまだ早い。いつものように、丘の上に登る道筋は慣れたとは言え、まだまだ暗闇である。
でも道のあちこちに、寒菊が闇に白く浮かび上がり、私のこころを楽しませてくれます。

そっと近づき、手で束ね顔を寄せるのです。冷気の中で放つ芳香は、寒菊が闇に白く浮かび上がり、私のこころを楽しませてくれます。
そっと近づき、手で束ね顔を寄せるのです。冷気の中で放つ芳香は、寒菊ならではの純粋なものを秘めており、暫し顔を埋めて、自然界の恵みに感謝の気持ちを表わす、そんなひとときでもあります。

温室栽培の菊から香りが消えて久しいですが、夜空に耐えた寒菊ならではの不思議な魅力にとりつかれている今日このごろです。(淡丘)



名古屋市  片岡惇子

ひたすらに歩みし道に柿熟す

*「柿」は「人生」でもありましょう。甘く、ときに渋く色づく、それもよし。

  我が背を父が抱きし秋茜

*幼い時は肉親の「父」が、そして信仰を持ってからは、「アッバ」が抱いてくださる。

  しがらみを解きて発つ日の十三夜

*完全に解放されるのは天国へ旅立つときなのでしょうね。

  香ばしきホスティア戴く天高し

*教会によって、微妙にホスチアの味が違うのも、楽しいもの。

  石蕗の花確たるものと出会いけり

*うちの「石蕗」は今が盛りです。そして、長く咲き続けます。どことなく安心感のある黄色い花。

  冬の薔薇マザーテレサの笑顔透け

*寒い日にもキリリと咲く強い花。まさにマザーの的確な形容。

  黄落や新たな命の主の祈り

*「黄落」は終末ではなく、「新たな命」の始まりを告げるのですね。

  凍てし月放蕩息子待つ父や

*愚息を三人抱えた身である私には、ストレートに響く。

  落葉や神に囚われ自由となり

*そうかー、「神に囚われる」ことが、本当の「自由」なのですね。

  小春日やバベルの塔より読み始む

*人間の歩みを考えるには、「バベルの塔」は、最も示唆に富んでいる。


秦野市  長谷川末子

  紙おむつ持参の旅や小春の日

*済んでみれば子育ても、こんな時期が一番楽しかったのですね。

  時雨きて富士は箱根の奥に消ゆ

*こんなに近くまで来ているのに、「富士」が見えない、という経験、わたしもあります。

  湖も暮れて感謝の冬の宿

*町も山も、日暮れ時の静けさは、朝明けとはまた違った味わいが。
冬のくらし

「起きろ!」「嫌だ」が始まって
勝った時には六時起き
負けた時には六時半
慌てて正座の十五分
朝食支度はあれとこれ
頭はすっきり葱きざむ
炊きたて御飯と味噌汁と
鮭と煮豆と梅干しと。
洗濯、掃除買物と
昼食準備と続きます
外は冬晴れ落葉路
山茶花冬ばら野紺菊
丹沢ぐっと迫ってる
生きてる幸せ有難さ
お腹もぐうと鳴ってきた。

*余命幾許と告げられた、ある作家がどこかに書いていました。そういうとき懐かしく思い出されるのは、日常の何気ない風景だと。

善き人も悪しき人にも太陽と慈雨降り注ぐ主を仰がむ

*善人が先でも悪人が先でもないのですね。同じようにアッバは大事にしてくださる。

喜びは恵みも深き大能の神に許され子とせられると

*アッバの懐――どんな泥だらけでも、裸で飛び込めば、すっかりきれいにしてくれるお風呂の様。

あの人も此の人も皆主の子なり手を取り合ひて大路を行かむ

*一首目が十字架の縦棒とすれば、この歌は横棒を歌っていますね。「生きとし生ける者と手をつなぎ・・・」。

無償にて盡きぬ泉の一掬ひ愚かな吾も神の子となる

*ヨハネ伝「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4・14)

冬空に月と星々輝きぬ造られし主を讃へ奉りて

*詩編「天は神の栄光を語り/大空は御手の業を示す。」(19・2)


――句集『あやめ占』より――

文京区  大木孝子

赤きロザリオ空に翳さむ小鳥の死

冬雲は雲母(きら)引き童貞聖マリア

もう疲れたもくれんの錆懺悔

嫩らかな野摘の草や聖週間

受洗

春光や我名マグダレナ・ソフィア・バラ

夫卓也

汝はヤコブ掌にアネモネを溢れしめ

しらほねのごとき十字架海は春

*十一月のアッバミサにて、初めてお話した孝子さんの第二句集から、抜粋させていただきました。おそらく受洗前後の作品かと思われますが、死、憧れ、迷い、苦しみ、生きる意味を模索しながら、彷徨う姿が偲ばれます。

「赤きロザリオ」「雲母」「もくれん」「アネモネ」そして「しらほね」のような「十字架」など、色彩・陰陽コントラストの鮮明な句が印象的で、作者の一途な性格を物語っているように、初対面に等しい間柄ながら、勝手に想像しています。

それでいて、やさしさ――それは大きな病を重ねておられるご夫君との生活から醸成され、にじみ出てくるもと、これも勝手な私の推測ですが――が、どの句にも通低音のように、響いています。じっくり、読み込みたい句集です。(槐書房 三千円)



『心の琴線に触れるイエス』を読んで

松江 淳

『心の琴線に触れるイエス』を拝読致しました。『わが師イエスの生涯』は、もう一度丁寧に読み直してみたいと思っていたところでした。

その前に『心の琴線に触れるイエス』に出会えて、今までばらばらに頭に詰め込んできた知識が心のなかでつながるような、なるほどなあ、と思うところが多く、大変勉強になりました。

井上神父のお言葉、
「復活の、秋の空のような、すうっと澄んだ、平安の中にある十字架がほしいですね。・・・・復活に包まれていなきゃいけないと思うんです。」

は、私の心に「すうっと」浸透したように感じました。要理を学び受洗した後も、キリスト者として頂けた喜びを感じながらも、十字架上の死と復活が一つの出来事であると頭で理解しようとしながらも、どこか今ひとつ自分の信仰の核になりきっていなかった大事なものが、「これだったのか」という思いでした。

償いや贖いよりも初穂となられたキリストに重点を置き、救いの本質を見出されるお考えは、私たちに大きく両手を広げ招いてくださっているイグナチオ教会大聖堂中央のイエス様を思い出させ、私たちも御子を通して全能の神に迎え入れて頂けるのだという安心感を与えてくれます。

「神の御手にあげられたイエスが、三次元の次元を超えた永遠の次元において、今も私たちを見守っていてくださるということ」を、より身近に感じられる十字架を通して、イエス様が、「生きとし生けるもの

(は)みな人間も含めてみんな手をつないで生きている存在」を「イエスを包み込んでいる更に大きな、何か手みたいなもの」に向かって「ぞろぞろと愛で包んで」連れて行ってくださる、という大きな安心感です。

イエスの復活が「神様の記憶に残る」ことだというのは、非常に判りやすく心強いことですが、私は何か特別に「神様の記憶に残る」ような立派なことは到底できそうもありません。自分の生計を立て、二人の子供を光の子として生涯歩んでくれるよう育てることで精一杯と思います。

ただ、私はイエスに従う者の復活をも信じますから、二〇××年のいつの日か、自分が人生の舞台で「役割を精一杯演じ」、「役割を終えて舞台を降りる時」、イエスが「こちらに来てくださって(私を含む)みんなをぞろぞろと愛で包んで、また向こうに戻ってくださ」ることだけで充分感謝なことであり、「ぞろぞろと愛で包んで」頂けること自体が「復活」のように思われます。

御父にご認識頂けても頂けなくても、大きな掌に迎え入れて頂けること自体に感謝をもって、人生の完成である死に希望をもって臨めるような残りの人生を過ごしたいものです。人類共通の、そして生きとし生けるもの全ての御父の「大きな暖かな掌の中で、一つの役割を生きている自分の幸せを、頭でではなく、

しみじみと肌で感じ」、「わたしたちの人生の主人公は神さま」であることを忘れないように、できれば特に弱い人の味方になれるような生き方を今から選ぶようにせねばと思います。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエス様が仰っていますから。


主宰著作
『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫 五二五円)、
『俳句でキリスト教』(サンパウロ 一六八〇円)、
『雨音のなかに』(ヨルダン社 一三六五円)、
『人の思いをこえて』(同 一六八〇円)ほか。


後 記:栄一

今年も早いものでもう師走、そして待降節です。
「余白の風」も今年最後の号をお届けすることになりました。

今号は、かつて私が代父をさせていただいた、川越教会の松江淳さんからのお手紙も、ご承諾いただいて、載せさせて頂きました。拙著を大変丁寧にお読みいただき、井上神学をご理解くださっている様子、恐縮です。

皆様からの作品も充実しており、蛇足のようですが、一句ごとにコメントをつけてしまいました。的外れなものがありましたら、ご勘弁ください。

ついでに主宰からのお願いですが、皆さまもお互いの作品に対して、一言でもけっこうですので、ぜひコメントをいただけると有難いし、共に励ましになるかと思います。ここは、ご存じのとおり、難しい俳論を戦わせるような場ではありませんので、信仰生活や日常からの素直な句感想をお願いできればと思います。

この時期になりますと、わたしはよく、井上神父の「クリスマスが語りかけるもの」というエッセイ(講演集『人はなぜ生きるか』講談社)を読み返します。

これは、拙著『心の琴線に触れるイエス』でも取り上げましたが(四一頁以下)、待降節の黙想として、その引用部分から採録させていただきます。

「私たちキリスト者は、私たちが神のみ手に摂取されるしあわせをつかみえたのは、神が馬小屋から十字架までのあの色あせた、苦しみのスッテンテンのイエスの生涯を通してであったと信じています。

そしてそれはとりもなおさず、寝たきりの老人の生活が私たちの目にはどんなに悲惨と屈辱と無意味な苦しみの生活にみえようとも、神はそのような生活を通して人々の心に働きかけるのだということを信じているということであります。

・・・・キリスト者にとって、私たちの生活の苦悩と挫折と屈辱は、すべてそれを素直に受容する限り、イエスの十字架の死の苦悩と屈辱にあずかるものだからです。」(一九七~八頁)

――――――――――――――――

本誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想等をお寄せください。

(採否主宰一任)会費無料。

○投稿先:ホームページ「今を生きることば」

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