「南無アッバ」を生きる ホーム »2018年10月
2018年10月の記事一覧

10/29のツイートまとめ  

yohaku5

第100回記念講座に来て下さった皆さん、本当にありがとうございます。頂いた立派なお花、妻が感激して、3つに分けて生けてくれました。これからも、よろしくお願いいたします。南無アッバ! https://t.co/YH4YZz3bpL
10-29 10:50

来月も、求道俳句を使って、井上神父の信仰を学びます。 https://t.co/U2Wa0M5Qmx
10-29 10:53

今回、出席できなかった方も、どうぞお出で下さい。 https://t.co/5zmYeb1TEa
10-29 11:00



category: ツイッター記事

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10/28のツイートまとめ  

yohaku5

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ10:52より) #今週の聖書
10-28 08:11



category: ツイッター記事

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「すべきこと」と「したいこと」  

今生き032
今生き033


category: エッセイ詩集

tag: 今を生きることば,
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10/26のツイートまとめ  

yohaku5

明日、予定通り、第100回「南無アッバの集い&平田講座」を行います。https://t.co/k1oAii59Wb
10-26 09:21



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要約・平田講座22--100回記念特集  

<テキスト『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)>

十字架のいろいろな意味を一覧し、井上神父の十字架=共苦の頂点を確認しました。

その上で、「信じる」とは何かをめぐり、カール・ラーナーをとっかかりにします。

p.34.5-E
<カール・ラーナーという現代のカトリック教会を代表する神学者は、次のように述べています。

「救いの意義の原初的な経験とは、ただ単純素朴に、『われわれは救われた、なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ、このことによって神が御自分の救いの意志を、歴史の上で現実的に、撤回不可能な形で世界的に実在させたからである』という経験であった。

これに対して、外から持ち込まれた解釈は、一つの可能性ではあるが、だからと言って絶対に不可欠なものではない。」

(百瀬文晃訳『キリスト教とは何か』三七六頁)>


彼の大きな働きは、他宗教との対話へ道を開いたことで、包括主義という立場が象徴的です。


キーワードとして「無名のキリスト者」という言葉があります。

これは、ラーナーの用語で、キリスト信仰を告白していなくても、客観的にキリストの救いに参与している人がいるということです。

井上神父もこの用語について「風」八一号で、「無記名のキリスト者」として「洗礼」の必要性に関して、一文を書いています。


それを要約すると――

1.洗礼はイエスの生前でなく、復活後にはじまった。


2.イエス以前の旧約時代の人はどうなるか?

→「自覚的信仰eplicit」に対して、「含蓄的信仰implicit」--神を信じ、神のことはなんでも受け入れる--によって救われる。

例えば、「望みの洗礼」=自覚がなくても聖霊の働きに誠実に開かれた心を持てば救われる。


3.救いの基本は「自我の明け渡し」にかかっている。

4.「記名のキリスト者」と「無記名のキリスト者」の違いは救いの可否ではなく、同じ「キリストの体」を構成するなかの「役割」の問題である。

--以上です。


百瀬文晃神父は、井上神学に通じる、「下からの神学」を重視する神学者です。

例えば、イエスはなぜ十字架にかかったのかを説明する場合、「上からの神学」では、「罪人の罪を贖うため」、というふうに、即目的論(for)や神学的意味に持っていきますが、「下からの神学」では、「悲愛を貫いたから」(井上)というように、まず一般の人が理解できるように理由(by)や歴史的原因を説いていきます。


ラーナーの『キリスト教とは何か』を訳した百瀬神父の「解説」には、「未来の神学、また日本の神学のためにこそ、ラーナーの神学から多くのことを学び得る」とあります。


つづく


category: 南無アッバの集い&四谷講座

tag: 心の琴線に触れるイエス,
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10/25のツイートまとめ  

yohaku5

要約・平田講座21--100回記念特集 https://t.co/pdLOzHZmwF
10-25 21:27



category: ツイッター記事

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要約・平田講座21--100回記念特集  

<テキスト『心の琴線に触れるイエス』>

前回から十字架を悲愛=共苦の頂点とみる井上神学の意味を探っています。

その比較のため、ローマ帝国、ユダヤ教、そしてパウロなどの考えを学んできました。

もう一つ補足しますと、十字架を私たちに対する招き、抱擁とみる見方があります。

ミサの第二奉献文叙唱に「・・・・人々をあなたの民とするために、手を広げて苦難に身をゆだね・・・・」というのがそれで、マザーテレサなどもしばしば言及していたと思います。


p.33.1-E
<十字架による救いというものの「ニュアンスの置き方」が、質問をする牧師さんたちのキリスト教とは違うということです。けっして罪の問題そのものに関心がないわけではありませんが、こと十字架の受けとめ方という点でいえば、ここでも井上神学においては罪の問題よりも苦しみの問題に重心があるといってよいでしょう。>


十字架即贖罪という一義的な意味づけをするのではなく、共苦=悲愛の象徴、頂点と受けとめる方が、日本人には受けとめ易いと思います。


p.34.1-4
<■救いの原初的経験

たしかにキリスト教とは、「イエスをキリスト(唯一の救い主)」ととらえる信仰であることは間違いないのですが、その捉え方が問題なのです。

イエスを「信じる」というときの内実が問題になるわけです。>


「信仰」というとき、「信じるときの内実」とは、「何を」信じるかだけでなく、「どう」信じるかも含みます。

またこう自問しているとき、すでに私たちは「自分」中心の問いを発しているのかもしれません。

これが転換しないと、真の信仰にはならない。


ルターは「信仰のみ」と言いましたが、そのときの「信仰」とは、「神によって働く信仰」という意味だと自註しています。


『ガラテヤの信徒への手紙』五章六節を、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と訳していますが、ギリシア語原典は「ディ・アガ‘ペース」で、愛を介して(手段・媒介・原因)働く信仰ということです。

この愛は神からの愛とも受け取れます。

ちなみにTEVという英語聖書は「what matters is faith that works through love.」とあり、この愛がどこからの愛とは書いていませんが、スルー=その愛を「通して」働く信仰という意味合いを明確にしています。


そもそも信仰=ピスティスは、むしろ「信頼」というべきでしょう。

井上神父様もそうだし、最近注目されている「ケセン語訳」聖書の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)氏なども「信頼」と訳すべきと言っています。

あちら様が主体で「お任せ」すること。

そう訳し変えただけで、ずいぶん日本語のニュアンスが違ってくる。

さっきの「おまえは何をどう信じるか」といったときの気負いもなくなる、という気がします。


話はそれますが、『マルコによる福音書』一章一五節は、ふつう、「・・・・福音を信じなさい」と訳していた所を、岩波訳聖書では「・・・・福音の中で信ぜよ」と、「福音」を信じる対象でなく、信仰者が置かれている「場」しています。

原語のギリシア語では「ピステウエテ・エン・トー・エウアンゲリオー」ですが、田川建三訳も「なかで」と訳しています。

日本人には、この方がピンと来るように思います。


つづく


category: 南無アッバの集い&四谷講座

tag: 心の琴線に触れるイエス,
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立ち会う勇気  

今生き038
今生き039
今生き040


category: エッセイ詩集

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今生き034
今生き035
今生き036


category: エッセイ詩集

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10/22のツイートまとめ  

yohaku5

@mitakaforest 井上神父の歌声、忘れられませんね! 私が住む町も、やはり夕方4時に、夕焼け小焼けが流れます。おもわず、替え歌を口ずさんでしまいます。笑「あっばー、あっばー、なむあっばー」ってね。
10-22 08:18



category: ツイッター記事

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南無アッバの集い&平田講座

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