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2018年09月の記事一覧

7.罪と苦しみ  

イエスによる救いについて、旧約聖書の『イザヤ書』五三章は預言的に語っています。

有名な「主(苦難)の僕」に関する次の箇所から引用してみましょう。

(マタイ八・一七参照)


「彼(苦難の僕)が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであった‥‥(四節)

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって

  わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(五節)」


「主の僕」(キリスト教の解釈ではイエス)が背負ったのは、わたしたちの「病」や「痛み」(四節)であり、「背き」や「咎」(五節)であったとされています。

ここで「病」や「痛み」を〝苦しみ〟全般ととらえ、「背き」や「咎」は〝罪〟と読み替えてもよいと思います。

七十人訳聖書も、「この人はわたしたちの罪を担い、わたしたちのために苦しみを受けた」と訳しています。

するとイエスが担いかつ癒したのは、わたしたちの苦しみと罪の両方ということになります。


ユダヤ教世界では一般に、罪は苦しみの原因であり、苦しみは罪の結果と考えられていました。

ですからイエスの弟子たちが一人の盲人を見たとき、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(ヨハネ九・二)と質問したのです。

罪と苦しみはいわば比例関係にあると考えられていたのです。

(もちろんそれだけでは割り切れないからこそ『ヨブ記』のように、〝善人がなぜ苦しむのか〟という問題も提起されてはいたのですが。)

このときイエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない」(九・三)と宣言し、罪と苦しみの因果関係を明確に否定されたのですが、いずれにしろイエスは、人々の罪と苦しみの両方をひっくるめて背負い、癒す「神の子」として受け取られたわけです。

実際、福音書にある病気治癒の奇跡が行われるときには多くの場合、同時に罪のゆるしの宣言がイエスによって行われていることからも、このことは明らかです。

罪のゆるしと苦しみの解決、これはどちらもキリスト信仰の重大関心事であることに違いありません。


ただ問題は、この二つの課題に対するまさに「ニュアンスの置き方」なのです。

イエスによる救いについて、わたしの罪、人類の罪という問題の解決を中心に語るなら、十字架の犠牲、イエスの贖罪を強調するキリスト教になるでしょう。

これは先の対談にもとづいていえば、佐古氏がイエスによる救いには、「どうしても十字架を置かずにいられない」と語った視点、あるいはパウロがユダヤ人に対して語った視点に代表されます。


一方、井上神父の場合は、イエスによる救いはまず、「イエス・キリストご自身」にあり、十字架と復活は「キリストの救いの業のいわば最終点」である、というのです。


つづく


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6.佐古・井上対談  

ここで思い出されるのは、井上神父と文芸評論家かつ牧師である佐古純一郎氏との対談集『パウロを語る』のなかにある次のくだりです。

井上神学の特徴が的確にわかりやすく述べられており、また本論でも以後、度々触れることになるので、少し長くなりますが抜粋してみたいと思います。


佐古「‥‥イエス・キリストを通して神が救ってくださったという、そのところに私はどうしても十字架を置かずにいられないんです。」

井上「私は、十字架というか、救ってくれたものはやっぱりイエス・キリストご自身で、
‥‥
だから、十字架と復活というのは――もちろん十字架と復活がなければどうにもならないわけですけれども、それはキリストの救いの業のいわば最終点であって、そこが佐古さんとニュアンスのかけ方がちょっと違うんだと思うのですけれども、私は十字架というよりも、やっぱり復活じゃないかと思うんですがね。」

佐古「‥‥イエスはいったい何で殺されてしまったかということになっちゃうと、イエスをあんな苦しみに遭わせたのはおれじゃないかというところに出てきて、やっぱり罪の、『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう』という問題が出てきているんですな、私なんかは。」

井上「私はね、むしろ、イエスの十字架というのは私たち一人一人の人生の苦しみをそこでいわばmitleidenして(共に担って)くれたという感じです。

これからの私たち一人一人の苦しみというものを、あそこにおいてイエスはすでに受け取って、神様のもとにさし出してくださっているんだという感じです。」

佐古「そのことは、まったくそうですわ。」

井上「だから、『惨めな』というか‥‥。

もちろん、私たちのために死んでくださったというのはあるわけですけれども、そのときのニュアンスの置き方ですかね。例えばパウロとヨハネを並べると、パウロは、ユダヤ人に対してだと思うのですけど、もっぱら犠牲とかそういう面を強調しますね。

ヨハネの場合は、むしろギリシャ教父たちが言うように、こちらに来てくださって、みんなをぞろぞろと愛で包んで、また向こうに戻ってくださったという感じがありますよね。

だから、私はそっちのほうがどうも考えやすいというか、何か、私の人生を先につかまえてくださって、これからの死の苦しみを、もうすでに先に一緒に歩んでくださって、もう行ってくださったから、私の人生は保障されているというか、キリストがもっていってくださった。


自分が、実際は罪人なんですけれども、だけど自分が傷つけたというか、そういう感じが弱いというんでしょうか。むしろ向こうのほうがやってくださっているという‥‥。」

佐古「‥‥井上さんは、伝道をなさいますときに、犠牲ということはどの程度お話になられますか。」

井上「私は非常に少ないです。」

佐古「そこだな、やっぱり」

‥‥‥‥

佐古「そうしますと、十字架のイエスの死ということをそれほど深刻に犠牲として意味づけるということは必ずしもなさいませんね。」

井上「ええ、むしろ汚れを取り去った、神との調和を回復したという感じだと思います。」

‥‥‥‥

佐古「‥‥ローマ人にはローマ人のごとく、日本人には日本人のごとくということがパウロの伝道の根底にあるとしたら、井上さんは十字架の血ということはあまり伝道の大きなテーマにはなさいませんね。」

井上「私自身が辟易するわけなんですね。ちょっと、どぎつくて。‥‥

私自身が血というと何か血生臭いという感じで、ちょっと辟易する感じがありますね、正直言って。

だから私はいつも十字架で思うんですけど、復活の、秋の空のような、すうっと澄んだ、平安の中にある十字架がほしいですね。

もし私が本当に芸術家だったら、私はそういう十字架をつくってみたいと思います。

十字架だけで、復活がないでしょう、普通は。教会の屋根の上でも、十字架だけが立っているでしょう。私は、あれはちょっとおかしいと思うんです。復活に包まれていなきゃいけないと思うんです。」

佐古「それはそうです。」

井上「だから、十字架を見ているとき、その十字架のありがたさが、やっぱり後ろの御父の大らかな、それこそ秋の空のような静寂に包まれているというのがいいですね、私はやっぱり。」

佐古「それはよくわかります。井上さんのほうが文学者だね。美意識ですよ。(笑)」
(一八六~一九〇頁)

これは、キリスト信仰の根幹である〝イエスによる救い〟をめぐって、佐古・井上両氏の「ニュアンスの置き方」の微妙な違いがよく出ている対話なので、わたしの記憶に強く残っているのです。


つづく


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09/28のツイートまとめ  

yohaku5

@mitakaforest いつもありがとうございます。『心の琴線に触れるイエス』と『今を生きることば』を振り返りながら、アップしています。現在の心での追加などもあるかもしれません。ご自由に、ご意見をいただければ幸いです。
09-28 06:38



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5.U先生の思い出  

先年、わたしの高校時代の恩師U先生が亡くなりました。

フランス政府から功労賞をもらうほど語学教育に心血をそそいでこられた方で、退職後まだ間もない六十代半ばでした。

先生の生き方にあこがれて教職をめざした教え子は数知れません。

わたしもその一人といってよいでしょう。

説教や改まった指導はまったくせず、後ろ姿で自然に生徒を導いていく、そんな理想的な教師でした。


U先生は後半生を、ジャンヌダルクの研究に捧げていました。

そうした生活のなかで長い間カトリックに関心を持ちつづけ、親しくしていた神父もいたのですが、けっきょく受洗には至りませんでした。


二十年ほど前、わたしがカトリックになったことを報告に行くと、「君、よく決心したなあ」といたく感心されてしまい、わたしは、「そんな大変なこと(受洗)をしてしまったのかな?」と少々不安にもなったものです。

しかし思い返してみると、いつだったかお酒を飲んでいるときU先生はわたしに、「自分がカトリックに(これだけ関心を持ちながらも)ならないのは、(罪を)懺悔(告解)しなければならないから‥‥」と寂しそうな顔でぽつりと漏らしたのを聞いたことがあるのです。


先生は数年前病に倒れ、その後洗礼を希望したまま亡くなりました。

不治を宣告されてしばらくは、毎日数十回も「葉っぱのフレディ」の朗読テープを繰り返し聴いていた、といいます。


葬儀後わたしは奥様から、「カトリックへの求道は主人の遺言のようであり、自分もずっと考えていたことなのです」と告げられました。

そのとき、やはり二十年近く前わたしが転職の相談に伺った際、お宅のテーブルの上に読み差しの井上洋治著『愛をみつける』が置いてあるのに気づくと、先生が「‥‥ああ、これは妻が読んでいるんだ」と言ったことを思い出しました。


その奥様から先日、一つの質問を受けました。

「実は、今わたしの最大の関心事は、大好きだった夫に死後再会できるのだろうかということなの‥‥。」

その上で、「キリスト教の〝復活〟ってどういうことなんでしょうね?」という問いなのです。

わたしは「やっぱり来たな」と思いました。

それは、わたし自身が初対面の井上神父にいきなり質問したのも、「(井上)先生、復活とはどういうことですか?」というものだったからです。



こうしてU先生の思い出と現在の奥様の心情を考え合わせてみると、わたしのなかに様々な想いが去来します。

U先生はずっと〝罪〟の問題を考えていたのではないだろうか、そして晩年は病苦と闘ってこられた。

また奥様は娘さんたちが嫁いでしまった家に独りいて、老いのなかで〝復活〟に関心をもっておられる。

わたしにはこうした一連のことが日本人として率直に、キリスト教の根本を問うているもののように思えてならないのです。


罪、病苦、老い、復活‥‥わたしたちが直面するこうした現実問題にキリスト教はどう答えられるのだろうか、と改めて考えさせられたのでした。

つづく


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目 標 は 遠 く に  

何 事 に も 時 が あ り 、 天 の 下 の 出 来 事 に は す べ て 定 め ら れ た 時 が あ る 。

( コヘ レト 3 ・ 1)



ど ん な に 焦 っ て 努 力 し て も 、

す べ て の 物 に は 時 機 が あ リ ま す 。


今 日 し た こ と の 効 果 を

す ぐ に 確かめたいという 気 持ちは 山 々 で すが、

木 や 草 も 一 朝 一夕で花咲くわけではありません。


動 物 や 人 間 も し か リ 。


場 合 に よ っ て は 、

今 日 無 理 す れ ば で き る こ と を

明 日 に 延 ば す 勇 気 も 必 要 で す 。



焦 り を 感 し た ら 、

遠 く に 目 標 を 置 い て み ま し よ う 。


遠 く の 目 標 は 、

今 抱 い て い る 焦 り 、 小 さ な 自 我 か ら

私 た ち を 解 放 し 、 自 由 に す る で し よ う 。


そ れ は 、 目 標 が 遠 い と こ ろ に あ る ほ ど

そ れ だ け 目 先 の 利 害 を 超 え て 、

純 粋 性 を 保 ち や す い か ら で す 。


『今を生きることば』より)


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4.聖書は実践指導書  

「どんなに多くの書物を読み、知識をたくわえ、そこへ行く道を知っていても、そこへ向けて出発しようという一念を起こさない人は、ほんとうの意味でそのものを知ることはできないでしょう。


聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践的指導書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。」

(『日本とイエスの顔』三O頁)


数年後、井上神父に出会い、この言葉が神父自ら(新約)聖書を「一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こ」してきた体験に裏づけられたものであることを知って、わたしは大きな衝撃を受けました。

「聖書は信仰の書である」とか、「聖書は心で読め」とかはよく聞きますが、「聖書は実践的指導書である」と身をもって断言できる人がどれだけいるだろうか・・・・
ここにヒルティが指摘したキリスト教の、聖書の実践性を生きぬいた神父の姿を目の当たりにして、わたしは感動せずにはいられませんでした。


井上神父はリジューのテレジアの生き方に魅せられて、「どこまでもテレジアを追いかけることによって、テレジアの掴みえたものを自分のものにしてみようと決心し」(『余白の旅』三九頁)洗礼を受けます。

そして「とにかく力の限り、いけるところまでこの白い道の上を歩いていこう」と、彼女と同じカルメル会に入会し、フランスで七年半の修道生活を送ります。

この一途さに、神父の抜き差しならぬ求道心と実行力を見て取ることができます。

まさに生涯をかけて聖書を生きようとしたのです。


つづく
(『心の琴線に触れるイエス』より)


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個性的に生きるには  

個 性 の 時 代 だ と い い ま す。


生 き 方 に し て も 芸 術 に し て も 、

他 人 に は な い 個 性 的 な も の が よ し と さ れ ま す 。


そ れ は そ れ で 異 論 は な い の で す が 、

問 題 は 、

ど う す れ ば 真 に 個 性 的 に 生 き ら れ る か と い う こ と で す 。


逆 説 的 な 言 い 方 で す が 、

個 性 や 独 創 性 を 出 そ う と し て 躍 起 に な る こ と を

む し ろ や め て 、

自 分 の 心 の 目 に ほ ん も の と 映 っ た こ と を

そ の ま ま 素 直 に 表 現 し よ う と し て み ま し よ う 。


そ う し た 努 力 を た ん ね ん に 続 け て い く う ち に 、

自 分 に し か な い 個 性 的 な 生 き 方 や 作 品 を 生 み 出 し て い る こ と に 、

き っ と 気がつ く で し よう 。


(『今を生きることば』より)


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3.ヒルティを読む  

わたしが聖書の内容やイエスの教えに具体的に出会ったのは、四年生になってからです。

大学に在学していた一九七四~七八年は、二度のオイル・ショックにすっぽり挟まれた時期で、卒業する頃はそれまでと打って変わって就職はままならなくなっていました。

いくつかの企業を訪問してはみましたが、ぜひともと思えるような働き口は見つかりません。

友人も皆一様に苦戦していました。


暗い気持ちで過ごしていたとき、三田の学生生協の小さな書店でふと目にとまったのが、カール・ヒルティの『幸福論』(岩波文庫)でした。

それまでも、アランやラッセル、トルストイなどの『幸福論』や『人生論』を、そのタイトルに惹かれて読んではいました。

しかし今度は就職難という自分の現実を目の前にして、一生の仕事とは、本当の生きがいとは何なのだろうか、と本気で考えざるを得なくなっていたのです。

そして、あの受験時代に自らに課した「大学四年間のうちに、確たる人生の方向性を見出す」という課題が、まったく解決していないことに改めて気づかされ、呆然としました。


ヒルティは『幸福論』のなかで、幸福について実際の人間生活に即し具体的・実践的に語っており、私は貪るように読み進みました。



「働きのよろこびは、自分でよく考え、実際に経験することからしか生まれない。

それは教訓からも、また、残念ながら、毎日証明されるように、実例からも、決して生まれはしない。」

(「仕事の上手な仕方」)


「ただの遊戯でなく、真の仕事ならどんなもの
であっても必ず、真面目にそれに没頭すれば間もなく興味がわいてくるという性質を持っている。」

(同)


「自由に至る道は、われわれの力の及ばない物をすべて軽視することにある」

(「エピクテトス」)



こうした言葉が、焦るわたしの気持ちを楽にしてくれました。


ヒルティは、自己教育を達成することのできる「ただ二つの方法は、ストア主義とキリスト教である」と断言します。

そして後者に関しては、福音書のイエスの教えを素直に受け入れ実行してみよ、そしてその真実をためし、それによって心によろこびが与えられることを経験できたなら、その教えを信じたらよい、と勧めます。

わたしは、このようにヒルティが自信をもって説く〝実践的〟キリスト教に接して、しだいに、聖書を本気で読んでみようと思うようになったのです。

わたしがはっきり「聖書に出会った」と言えるのは、この時であったと思います。


(つづく)

(『心の琴線に触れるイエス』より)


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09/23のツイートまとめ  

yohaku5

神はわたしの助け、わたしのいのちの支え。(詩編54:6より) #今週の聖書
09-23 13:13



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努力のまえに  

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。

何とかして捕らえようと努めているのです。

(フィリピ3:12)



何はともあれ、

自分と他者を受け入れること。


愛の第一歩はここから始まります。


受け入れることは、

あきらめとは違います。


自分の今のままを受け入れてしまうと、

何も努力しなくなる、

あるいは相手をそのまま受け入れてしまえば、

相手にとっても進歩がなくなってしまうのではないかと

心配するかもしれませんが、

ほんとうの意味で心から自他を受け入れたとき、

おのずと自分も相手も変容していくのです。


その地点から、

地に足のついた努力が始まります。


(『今を生きることば』より)


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