「南無アッバ」を生きる ホーム »2015年11月
2015年11月の記事一覧

主と共に担う労苦や棕櫚を剥ぐ  マタ6・34  

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新約を「共に」で結ぶ文化の日  黙22・21
共にいるアバの涙や雨寒し  黙21・3-4
千年の後の復活松手入れ  黙20・5
御言葉を日々賜りて馬肥ゆる  黙19・13-14
バビロンの町埋め尽くす柿落ち葉  黙18・18
小羊に木枯らし1号はや吹けり  黙17・14
雹の降るハルマゲドンという所  黙16・16、21
小羊の歌を聞きたり柿紅葉  黙15・3
刈入れし初穂の実り秋の空  黙14・15
小羊の命は永久に冬近し  黙13・8
荒野ゆく鷲の翼や眩しかり  黙12・14
天にある御座開かれし暮の秋  黙11・19
御使が虹を戴く頭かな  黙10・1
地上へといなご産みたる煙かな  黙9・3
天使らのラッパ響けり秋の空  黙8・6
小羊が牧者となりて行く枯野  黙7・17
小羊の封印開く秋の日よ  黙6・1
小羊に弱さと栄光秋深し  黙5・12
秋冷や御旨によりて生かされり  黙4・10
主の声に戸を開けるとき木の実落つ  黙3・20
十字架に奥義を見たり秋の風  黙2・10
やや寒やヨハネの黙示読み初めり  黙1・1
ユダの書に晩秋の木の影うすし  ユダ12
旅人をもてなす心秋深し  三ヨハ8
キリストの肉の救いや馬肥ゆる  二ヨハ7
世と共に歩むイエスや蛇穴に  一ヨハ5・5
キリストが肉となりたる秋の雲  一ヨハ4・2
苦をくぐり御子に似てくる渡り鳥  一ヨハ3・2
世の欲は過ぎ去りゆかん赤まんま  一ヨハ2・17
手に触れし命の言竹の春  一ヨハ1・1
主にありてひと日は千年流れ星  二ペト3・8
試練から救い出す神木の実落つ  二ペト2・9
主の聞ける天からの声さわやかに  二ペト1・18
わが恥は主の十字架に秋の水  一ペト5・10
御心に沿う苦しみや敬老日  一ペト4・19
苦にありて主をあがめよと地虫鳴く  一ペト3・14-15
十字架の傷の癒しや天高し  一ペト2・24
信仰の実りは救い竹の春  一ペト1・9
秋の雨祈り心を誘いたり  ヤコ5・18
近づけば神が近づく神無月  ヤコ4・8
秋晴れや平和のうちに義の実蒔く  ヤコ3・18
憐れみは裁きを越える台風禍  ヤコ2・13
御言葉を行う意味を秋に問う  ヤコ1・22
旅人をもてなす天使秋の雨  ヘブ13・2
まっすぐな道は花野に続きおり ヘブ12・13
信仰は希望と愛の糧なりや  ヘブ11・1
大胆に神に近づけくつわむし  ヘブ10・22
万民に救いの希望秋彼岸  ヘブ9・28
主によりて不義ゆるされし秋の雨  ヘブ8・12
今生きてとりなすイエス葉月雨  ヘブ7・25
望みこそ人の救いや八月尽  ヘブ6・11
苦によりて学ぶ従順破(や)れ芭蕉  ヘブ5・8
主と共にあずかる弱さ水澄めり  ヘブ4・15
御言葉に心を晒せ初紅葉  ヘブ4・12-13
キリストに連なる救い秋涼し   ヘブ3・14
亀鳴きてイエスの道に従えり  マコ10・52
金持ちも御国に入れる秋の雨  マコ10・27
神にあり一つとなりし秋の雲  マコ10・8
吾が内にあるつまずきや秋の夜  マコ9・43
ヨセフへのお告げは夢に帰り花  マタ2・21
神共にいるうれしさや紅葉濃し  マタ1・23
もう何も言わずにおこう冬の月  マタ1・18-24
十字架の知恵を求めよ四十雀  知7・7-11
義の人の苦しむ定め水秋急ぐ  イザ53・10
小春日の道静かなり神の山  詩24・3
箱舟の北窓ふさぐノアの妻  創6・18
このままに救う神あり冬立ちぬ  創5・29
破れ笠カインに付けし印かな  創4・15
いちじくの葉に隠れたる命かな  創3・7
エデンより川流れ来る星祭  創2・10
良きもののみ造りし神の神無月  創1・31


category: 求道俳句のすすめ

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アッバ讃句コーナー(第12回)   

「風」第99号2015年秋掲載

*選者コメント

遠き日の一日を借りて田水張る  佐藤淡丘(豊田)
梅雨寒や心の棘のありどころ
蝸牛殻に潮騒宿しをり
青あらし水甕の水溢れざる
あぢさゐとひらがなでかくうなじかな

 井上神父さまが、お亡くなりになられても「アッバ神学」は、今も私の中に生きています。その実践の場は、早朝の「会神の丘」であります。自分を無にして、キリストへの「信入」です。
 キリストの中へ自分を棄てる。そのとき、みたまの力により、塵芥のように大地に溶け込み、心から「南無アッバ」と唱え、そして癒されてゆくのです。アーメン、南無アッバ。

*③「蝸牛」にとっての「潮騒」は、それこそ数億年の遠い記憶かもしれません。⑤最近、初孫娘が生れました。こんな光景がいつ見られるのか、楽しみです。

平和旬間バトンを握り南無アッバ  F・フランシスカ(八王子)
九条が揺れる震度に目を覚ます
十字架の平和しみじみと八月
留守番をしたと嵩増す夏の草
熱風の街生かされているふしぎ
緑蔭の清風に会う南無アッバ

*②公民館だよりに、「九条守れ」の句を載せなかったことで世論が沸騰している。市は「世論を二分するテーマは避けるべき」と勝手に判断する前に、全公務員に課せられている「(「この」=現行)憲法尊重擁護の義務」(九九条)があることを忘れてはならない。

忘れ易きなづき脳を励まし記憶をたどる あれは あの時 南無アッバ 魚住るみ子(練馬)
嬰児はすとんと寝入りぬ母を呼び泣きゐしものを母の乳足らひ 南無アッバ
春深しバス停二つまどろみぬ

*①「老いは今まで頂いてきたものを一つずつお返し申し上げる時」と井上神父は常々おっしゃっていました。その寂しさのなかにあっても「南無アッバ」②老いる程に、私たちはこの「嬰児」の単純さ、素直さに学ぶべきなのでしょう。

向日葵や果てるところに君がゐる  片岡惇子(名古屋)
壊れゆく命を包み百日紅
百日紅風に逆らひ瞬に散る
蝉時雨半音下げて祈りの刻
八月や言葉失ひロザリオ繰る
八月やどの道行くも焦げ臭き

*どの句にも日常と非日常の対比が巧みに表現されている。④「蝉」も「祈りの刻」には音程を変える。⑤「ロザリオ」を唱え始めてしばらくすると、心と頭が澄み切ってきて唱える「言葉を失う」時がある。共感。

学童の声に負けじと苗育つ  西川珪子(一宮)
うすものや母の墓なり南無アッバ
戦なき世を願ふ八月の水
大き種抱へる枇杷の原罪は

*近年とみに暑い日本の夏は、考えさせられる事件や話題も多い。③集団的自衛権、原子力発電所再稼動問題・・・「八月」の死者の声いかに。④「大き種」に象徴される人間の「罪」。むろん「枇杷」に責任はない。

飛び去らず我に寄り来る蛍かな  ユックリン(広島)
飛び立てず我に寄り添う蛍火よ

*二句並べての出句、味わいの違いを考えさせられる。①強い「蛍」②弱い「蛍」という印象がまずあって、しかし、「寄り来る」より「寄り添う」方に、人生同伴者の親近感は深いかと。

著作集伝へ行くらむ師の思ひ  赤松久子(高知)
師とつま亡夫と同じ命日桃の花
指細り結婚リング右の手に
ヘルパーと別れを惜しむ五月闇
愛らしき地産地消の苺かな
友よりのトマト食みつつ南無アッバ

    使えなくなったカード(詩)
 神父さまにさし上げようと/用意していたイースター・カード//お目にご負担がかからないようにと/考えに考えぬいた短い言葉の下書き//それらを地上に残して/ あなたは/ アッバのみ許に行ってしまわれた。//下書きは破ってしまったけれど/このカードは誰にもあげず/ずっととっておきますね。/ 南無アッバ

*④それが今生の「別れ」にならないとも限らない。井上神父に最後にお会いしたとき、不自由な身体をおして見送ってくれた。神父は「最期」と覚悟していたのかもしれない。

鳥たちは瑞枝に歌ひ復活祭  新堀邦司(昭島)
復活祭の花を献げて父母の墓
地ビールの名も「深大寺」ほろ苦し
父の日や少し濃い目のウイスキー

「風」(井上洋治神父追悼特集)を一晩で読ませていただきました。一度もお会いする機会がなかったのに、井上洋治神父様のお人柄と「南無アッバ」の信仰を身近に感じることができました。読み終えて、私も思わず「南無アッバ」と口に出してしまいました。「南無アッバ」は、神様の寛やかな愛に包まれていることへの心からの感謝が込められた言葉ですね。
 神様への全幅の信頼から発せられた言葉ですね。よほど身近に神様の存在(共在)を感じられなければこの言葉は口にできないと思います。
 井上神父様のご提言の中で、「下からの神学」「即自然的神観」には共鳴するものがあります。

*新堀さん、ありがとうございます。このところ、生前は井上神父と直接面識のなかった何人もの方から、このように神父を慕うお言葉を頂いており、心より感謝申し上げます。

桑の木に登れば見える主の姿  平田栄一(蓮田)
患難は望みを産めり秋の山

 ――アッバ讃句応募規定――
 井上神父の「アッバ讃句」にならい、皆さんの南無アッバの祈りを短い求道詩歌にしてお送りください。「風」読者であればどなたでも応募できます(無料)。「~~南無アッバ」という形のほか、俳句・短歌・川柳・自由律・一行詩などでもけっこうです。採否選者一任。投稿先=平田栄一


category: アッバ讃句コーナー

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第217号:2015年11月発行:求道俳句をつくりましょう!  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

練馬・魚住るみ子
南無アッバ想ひ出話に花咲かす端居に仰ぐ良夜かな
かぐや姫の宮居はいづこ南無アッバ望月のおも面は変らぬものを
  『風の道』
咲き満てる枝垂れの花のうすべにの滝幾筋と流るる大樹

*①健康情報学の中山健夫は、東日本大震災に関連して、「『過ぎたことは忘れよ、前を見て生きよ』的な他者の『励まし』による過去の記憶の消去、未来志向の強要は、・・・混迷にある人々の生きる力の回復を妨げたことはなかっただろうか。」(『死生学入門』放送大学、七三頁)と述べている。「想ひ出話」は、生きていくために貴重な栄養なのだと思う。

豊田・佐藤淡丘
万物を逆さに映す秋の水
水源を訪ねその日も花野かな

国木田独歩の「武蔵野」を本棚からひょっと出し、次の文章をみつけました。
「一路人影なし、独り歩み、黙思口吟、足にまかせて近郊をめぐる」と。なるほど、こちらは三河路だが、独歩の言う武蔵野に似ているところもある。里山は楢林が低い森を連ね、その窪みを遠く北の山塊を水源として、疎水が流れている。又、独歩曰く、「一つの小径を往き、たちまち三条に分かるるところに出たなら困るに及ばない、君の杖を立ててその倒れた方に往きたまえ。」と、このぶらり歩きがいかにも独歩らしい。晩秋の一日、少し真似ることにしました。

 山は暮れ野は黄昏の薄かな(文中)まま
独歩のような甘さと「感興」こそ味わうことができませんでしたが、なんとなく満足のゆく一日でした。南無アッバ

*「君の杖を立ててその倒れた方に往きたまえ」の一節は、わたしも好きな一節です。正宗白鳥は「武蔵野」を読んで、これなら自分も書けると思って、小説を書き出したとか。①自然を見たままに写生する。巧まない巧みさが真骨頂かと。

一宮・西川珪子
明日より今日のひかりの秋桜
台風の去りし青空神のもの
魂の帰り来るみち彼岸花
部屋に来しちちろの声を送り出す

*全句、時間の流れの中でつかむ希望に満ちる。①「明日より今日」、②「台風」と後の「青空」、③「魂」の帰途、そして④「ちちろ」を見送る。

高知・赤松久子
多摩川を渡るそよ風南無アッバ
バチカンにオラショが響く南無アッバ
秋色に胸染まりけり南無アッバ
秋の雲空いっぱいに南無アッバ

*「~~南無アッバ」の井上神父が遺した「アッバ讃句」形式は、今や求道俳句の基本として定着しました。どうぞ、初心の方も作ってみてください。きっと心休まりますよ。

名古屋・片岡惇子
芒野をしみじみ染める夕日かな
腹からの怒り圧さえる虫時雨
満月や遺影の母の笑みもまた
十月や頑固な心説き聞かされ
ロザリオの繰る手の皺や秋日和
柿熟す去るもの去りて南無アッバ

*井上神父が生前「人生は哀しいものだ」と言っていたのを思い出す。歳をとる度にその意味がわかってくるように思う。それは、悲しみの中にも「しみじみ」とした味わいがあるような――福音的な哀しみであるように思う。

『都市群像』・島一木
聖母にと赤い薔薇切る大輪を
聖水やほのかに薔薇の匂ふなり
*「薔薇」と「聖母」は切っても切れない間柄。そうするとイエス様の象徴はブドウの木か、アネモネでしょうか。

「日矢」六〇八~一〇号・新堀邦司
睡蓮の目覚むる頃か雨上がる
天心に昇りて開く花火かな
供へたる季節の花や吾亦紅
*③「妻に」と詞書あり。新堀氏にとって亡き奥様は、過去の人ではない。これからも巡る「季節」を共に生きている。

「こみち」二六六号・小熊坂満邦
無人駅出て万緑の中に居り
隣席の赤子大泣き梅雨に入る
*二句結び付け、中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」を連想しました。明るい未来が望めます。

新約聖書一章一句・蓮田・平田栄一
もう何も言わずにおこう冬の月――マタ1・18~24
新約を「共に」で結ぶ文化の日――黙22・21
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-2616.html


平田講座要約(第37~38回)
テキスト『心の琴線に触れるイエス』


p・50
「神の痛み」とは、神の愛にそむいた罪人である人間にそそがれる神の愛の現実である、といいます。それは「包むべからざる者を包み」込もうとするがゆえに、傷つき痛む愛です。その神の痛みが、人間のあらゆる痛みを包み、解決する。これが、十字架の救いの内的構造であり、直接的な神の愛にそむいた罪人も、神の痛みに基礎づけられた愛のなかでは、従順な者として征服される‥‥。こうした考えに立つ北森神学は、西欧の神学に対する戦後日本のオリジナルな神学として、教会内部に大きな影響力をもってきたといえるでしょう。


人間=罪人→十字架→解決
       ↓
  包み込む痛み:イエス=神の愛

こういう神学を、一般の日本人はどう感じるでしょうか? 痛々しさと同時に、「おまえは悪者だ!」といわれているようで――実際みな罪人ではあるのですが、萎縮してしまうのではないでしょうか。(昔、井上神父に私が、「申し訳ない」という罪意識では、萎縮してしまうのではないか、という質問をしたことがありました。そのとき神父は、頭を下げて萎える人間は、信頼が足りないのだ、といった趣旨のことをお答えになりました。)

青野先生や井上神学は、なぜそうならないか? と考えますと、もちろん根底に、アッバへの信頼ということがあるのですが、それと、北森神学にはない「共苦」という発想があるからではないでしょうか。この「共に」という視点がないと、罪人の私が単独者として法廷に立たされ、糾弾されている、という恐怖・不安を持つのだと思います。青野神学では、罪人のまま、不信仰のまま受け入れる神、すなわち井上神父のいう「アッバ」が強調されています。

<第38回>


この北森神学と井上神学については、「日本カトリシズムの原点と成熟」と題して、一九八二年一月に行われた國學院大學日本文化研究所主催のシンポジウムで興味深い意見が交換されているので、それを参考に述べてみたいと思います(戸田義雄編『日本カトリシズムと文学』Ⅳ 大明堂)。


前回、井上神父が重視する「キリストの体」論と「初穂」理論との関連を見、比較として北森神学と比べ出しました。
戸田先生(1918-2006年)は国学院大学の先生ですが、このご本では「井上山脈」と称して、遠藤周作や高橋たか子を始め、多くのカトリック作家が井上神学の影響を受けていることを指摘しています。井上神父は、この戸田先生が真正面からアッバ神学を取り上げてくださったことに、大変感謝していました。

パネリストの一人、石川耕一郎氏(昭和大学教授・旧約聖書学)は、日本人へのキリスト教伝道の問題意識、苦心という点では、井上神学と北森神学が共通性を持っているといいます。しかし、その似ている二者のキーワード「悲愛」と「神の痛み」とを比べてみると、むしろ違いの方が際だって感じられる、というのです(後述)。

このシンポジウムで出会った石川先生から、一ヶ月後に井上神父は『天才パウロ』という、サムエル・サンドメルという人の本のコピーをもらうわけです。この本は邦訳がありませんから、石川先生は全部コピーしてくれたのですね。それだけ、井上神父にぜひ読んでもらいたいと思われたのかもしれません。相当な量です。私は原書の復刻版をインターネットで取り寄せましたが、大判二四〇頁の本です。

南無アッバの集い&平田講座、於:四谷ニコラバレ、日時11/28(土)13時半、12/26(土)同

―――――「余白の風」入会案内―――――
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