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2013年08月の記事一覧

俳句で学ぶキリスト教「余白の風」第204号-2013年9月発行  

日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

瀧野悦子(京都)
どの子にも守護の天使や夏休
炎天に生徒見守る聖母像
朝涼やパウロと刻む十字墓
夕立にヘルプヘルプよ南無アッバ

*①②「どの子にも守護の天使」がいる、「聖母子像」が「生徒」を「見守」っている、という作者の暖かいまなざし自体が、子供たちを見守っている。短い句にも人格が表れる。

赤松久子(高知)
のら猫の姿ちらほら夏の夕
片陰を主に従ひて女たち
マグダレナ終の住処は山と聞く
蝉しぐれ浴びつつ祈る南無アッバ

自分が築いていくのではあるが/その自分が築いていく生涯が/神の働きの場であるということが/どれだけ体の中に入っているかが問題/と、神父さまはおっしゃった/南無アッバ

*いつも沢山の句をありがとうございます。選句前の作品は保管しています。俳句は必ずスランプが誰にでも来るので、作れるときにどんどん作り込んでください。

井口萬里子(三浦)
花陰に鶏鳴きて驚きぬペテロが否みし鶏鳴教会
ガリラヤに月影おぼろキリストも遠蛙聞き祈りたるらむ
一点と思ふわが身もやがて消え在るは黄河の流れのみなる

*③黄河への旅のなかで、「一点」の「我」へのこだわりが消滅した・・・体験をされた由。復活の「キリスト」に出会った「ペトロ」の回心体験が想像されます。

片岡惇子(名古屋)
向日葵の裏葉に痛みそっと置き
天国にも定席有りや夏椿
人救ふ人の心や夏椿
蝉時雨一人生かさる主の心

*連日の猛暑・酷暑のなか「出来ることを日常として過ごしています」とのおたより。至言です。この厳しさのなかで「主の心」にアーメンと祈るとき、「一人生かさる」意味が見えてくる。

小林昌子(甲斐市)
「ルルドへの行進」の絵のよな宵の空瞬くうちに色は移りて
「ルルドへの巡礼」絵の空清しくてそも妻二億隠す哀しき

故平山画伯の絵の空に、暮春のころの夕から夜にかけて移りゆく、ほんの一瞬の空の色合いが重なるようなときがあります。以来毎年、春が暮れていくころのそんな空を懐かしく見上げてきました。

*シルクロードの印象的な絵を書いた平山郁夫画伯ですね。求道(俳句)詩歌は、人間の弱さや荒みも歌うべきだと思っています。②も敢えて載せさせて頂きました。

佐藤淡丘(豊田)
木下闇こころの憂きを置きて去る
人混みの炎昼にゐて呼気吸気
古民家にのっと現わる黒揚羽
かなかなやよせてはかえすかのくにへ

五月から月一回のわりで、「遠藤周作を読む会」が南山大学の一室で始まりました。呼びかけは、南山宗教文化研究所の教授・キム金承哲先生。その都度十四、五名の人々(年輩者、男女半々)が集まります。温和な金先生に連なり、主要作品の中から一作品を皆で選び、手を上げた気さくな人が、前もって「レジュメ」を作り、その日の話し合いの下敷きとしています。

先回は、『満潮の時刻』が採り上げられ、キリストの「まなざし眼」・犬のめ眼・九官鳥のめ眼等「眼」についての活発な意見が出て楽しい会となりました。「余白の風」の井上神学から学んだ私は幸い、キリストのまなざし(共苦・悲愛)に通ずる何かを感じたひとときでした。南無アッバ。感謝。

藤居康二郎(竹原)
孫たちと笑いの中の西瓜わり感謝のうちに南無アッバアーメン

*お子さんやお孫さんたちと近くの海に海水浴に行かれた時の御作。第五句(結句)が破調になっている(九音)件ですが、五音(定型)+四音なので、このままで気になりません。

平田栄一(蓮田)
言わずもがな心に収め山椒魚
断腸の思い憐れみ神の春

寄贈誌より
「こみち」二五七号・魚住るみ子
残生の春彩るや赤き家具
緑陰や男のまどい団居将棋盤

*「団居」に「惑い」を連想してしまう私です(笑)。「こみち」今号の「神学生プロフィール」思わず読み入ってしまいました。召命とは・・・。

「驢馬」・詫和子
病みてなほ気丈な母や春行けり
パラソルをたたみ合掌友送る

「日矢」五八二、三号・新堀邦司
高麗王の降り来る音ぞ青嵐
父の日の近し散髪済ませけり
ほうたるに逢ひたき宵となりにけり

*①埼玉県人なら遠足で一度は行く古い神社。②なぜか「父」と「散髪」は合う。父になった自分が父を思い出しながら髪を刈られている。③「ほうたる」にはなかなか会えなくなった時代の寂しさ。

「祭演」四五号・神野紗希
愛が足りないミモザが塀をはみ出して
現世いま歪みはじめる花筏

*これらの句に出てくる「愛」や「現世」をキリスト者として読んでみると、また新しい発見があるように思います。

南無アッバの集い&平田講座要約(第二九回 上)

お知らせ:荒木千恵子(本誌会員)
 「風の家」須波分会をスタートします!
私たち日本人の心の琴線にふれる「イエスの顔」をさがして、イエスの福音のよろこびを知りたい、日本の土地にイエスの福音の芽が育ちますように。
毎月最終日曜日午後一時~三時
「風の家」の須波分室の集いをチコの部屋ではじめます(無料)。どなたでもどうぞいらっしゃいませ。なごやかな、ほんのりとした分かち合いができますように。南無アッバ。
連絡先:広島県三原市須波二の五の三五
Tel:0848・67・8161

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。このブログサイドバーをご覧ください。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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アッバ讃句コーナー(四)=「風」第90号  

主のご復活おめでとうございます。

 東日本大震災三・一一から一年、今この一年を振り返るさまざまな表現活動がなされています。短詩型文学では俳人である長谷川櫂さんが『震災歌集』(中央公論新社)を出したことや、それまで短歌や俳句をまったく作ったことのない被災者が、次々と溢れる思いをこの小さな器に載せて表現している状況が紹介されています(朝日新聞二月二〇日、「短歌」三月号等)。

 湧き上がる思い、やるせなさ、人の優しさ・・・・これらを表現したい、伝えたい、記録しておきたい。そのとき俳句や短歌はやはり、日本人に最も身近な表現手段なのだと、改めて感じています。
 
枝四方に生きよ生きよと枯木立  瀧野悦子
咲き満つるおいきざくら老木桜に抱かるる  相原恭子

老いにまつわる二句。前句は老いの諦観どころか、若きを叱咤励ます元気。
後句は、カトリック六甲教会・二水会合同句集から。

浅ましの老木桜やあす翌が日に  小林一茶
を踏まえた作かと思われます。ただ、この俳諧歌には、「或る山寺に/うつろ木の一なん有ける/今にも枯るゝばかりなるが/さすが春のしるしにや/三ツ四ツふたつ つぼみけるを」とありますが、恭子さんの句では、「咲き満つる」満開! 私たちをも抱きとってくれるほどの頼もしさ。

井上神父に「一本の老木」という詩があります。昨年六月立川教会で、この詩を紹介しながら、久々の講演がありました。以下はその要約です。
――――――――――
「神様が主人公の私たちの人生」
井上洋治神父(立川教会11年9月広報より)

学生時代に出会ったリジューの聖テレジアの霊性に惹かれて以来、生涯を通して聖テレジアの後姿を追いかけて生きてきたように思います。私は聖テレジアの弟子として八四歳という老年を迎え、長いマラソンの最後に競技場へ入ってきたような今、八四歳ならではの話をしたいと思います。

 「厳しい冬の青空を背にして葉を落とし
  たった一本でこんなところに立っている
  老木よ」、で始まるこの詩は風の家を始めた五十代半ばの張り切っていた時代に書きました。
若い自分が寒さに震えて立っている老木の姿に感動して書いたのですが、今私はその老木になっています。外から老いを眺めることと、実際に老いを背負って生きていることは全く異なります。

 老いというのは若いときには自分のものだと思っていた視力や健康を少しずつ神様にお返ししながら生きているということです。人の為に何かする、役に立つという根底の生きがいすらお返ししています。若い人に“老い”というものをどうしても理解してもらえない、一人ぼっちになってしまうという恐れもあります。年のせいで団欒の中に入れない、大勢の中の孤独感は辛いものです。ついこの前までできていたことができなくなるのも辛いです。そうしたことで落ち込んだ時には地動説を唱えたコペルニクス的転換が必要です。

 アウシュビッツに収容されていた精神科医のヴィクトル・フランクル著、「夜と霧」は人間の限界状態の中で書かれたものです。自分が人に何ができるか、喜んでもらえるかということを考えていては収容所では生き延びることはできません。何もできないけれど、苦しいけれど、家族や友人が私にどう生きて欲しいと思っているか、その人たちの眼差しを感じられれば生き延びることができたというのです。

 私たちに何ができるか、役立つかを考えることが難しい時に、他者(神様)の眼差しを思い、その眼差しを受け止めれば、そこに人生の意味が現れてきます。現実に何もできなくなっても、他者の気持ちを受け入れるところに人生の意味があるのです。

 “自分が何をするか、社会で役立つか”ではなく、神様がその人を通して何を伝えようとしておられるのか、神が望まれることをする場が人生なのです。粗大ゴミになっていく自分になんの意味があるのかと思い煩わず、神が私という作品を作りそれを使って神の望みを示しておられるということに気付き、考えをそのように転換しなければ、老いの虚しさはなくなりません。

 聖テレジアは神が作られた大自然の中の小さな白い花になり、神が語られることを示していきました。
 「南無アッバ」と唱えてアッバ、お父ちゃんに全てを無心にお任せして生きていきましょう。
 「山路きて なにやらゆかし すみれ草」
――――――――――
 その他の作品を紹介します。

  寄り添ひて咲く山茶花の絆かな  西川珪子
  子規庵の玻璃に明治の冬日影  広谷和文
  実行は難しいです南無アッバ  フランシスカ井上
  春雷や旅の終りを告げ知らす  片岡惇子
十二月八日の空やレノンの忌  新堀邦司
  老いの手におふだ札を握る四旬節  赤松久子
冬のバラおおせのごとし南無アッバ  佐藤悦子
短夜や眠れずひたすら南無アッバ  喜多正規
  天までの梯子となりし焚火かな  佐藤淡丘
  負ひきれぬ罪多けれど春近し  長谷川末子
  祈念せし彼岸の人よ初電話  石川れい子
  救はれて洗礼受けし思ひなり更くる夜星のきらめきて止まず  井口萬里子
  南無アッバ望月輝やき空を統ぶ満たされ祈らむ平安をこそ  魚住るみ子
  実名と事細かなる願い事日夜聞きおり絵馬の神様  平田栄一

 ――アッバ讃句応募規定――
 井上神父の「アッバ讃句」にならい、皆さんの南無アッバの祈りを短い求道詩歌にしてお送りください。「風」読者であればどなたでも応募できます(無料)。「~~南無アッバ」という形のほか、俳句・短歌・川柳・自由律・一行詩などでもけっこうです。採否選者一


category: アッバ讃句コーナー

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本日13:30四谷講座あります。  

少し涼しくなるといいですね。
お気をつけてお出かけください。
南無アッバ


category: 南無アッバの集い&四谷講座

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アッバ讃句コーナー(第三回)  

「風」第89号より

 クリスマスおめでとうございます。今号にはたくさんの作品をお寄せいただきました。日本人であれば小学校以来、俳句や短歌のようなものは必ずどこかで作ったことがある、といいますが、今回頂いたお手紙のなかにも「日記に書きとめておいたもの」とか、「昔の手帳にあった句を直して」などとあり、短詩型がいかに日本人の心性に親しいものであるかが伺われます。ぜひ続けておつくりください。
 
  儘ならぬ人の世と聞く神在す  長谷川末子

 上中句と下句の断絶にどきりとします。自分としては、あれこれ誠実に努力してきたつもりなのに結果がでない「儘ならぬ人の世」。人生は、世間はその繰り返し。そして気がつくと、身体も心もくたびれ果てている、まさに儘ならぬ状態。しかしそのとき作者は「神在す」現実に気づいたというのです。儘ならない――自我が満たされないからこそ神がいる――わたしたちの狭い自我をこえて、アッバは必ず「万事益となるように働き給う」(ローマ八・二八)と受け取る信仰。

  南無アッバうさぎのやうにサクサクとレタスの歯ざはり今日が始まる  魚住るみ子

 朝の静けさのなかで、うさぎのようにレタスをサクサク食べる、それだけで幸福を感じられる作者の穏やかな人柄。そして今日一日を「南無アッバ」の心で過ごそうという、真摯な祈りと覚悟が垣間見えます。

  秋の風声さまざまに運びくる  佐藤淡丘

 おみ風さまが、秋にふさわしい声を運んでくる。風(プネウマ)そのものは聞くことも見ることもできませんが、アッバのお作りになった、あらゆる作品が風に応えて音をたてる。わたしたちが耳を澄ませば、その共鳴音を聞くことができます。

天高し呼気に合わせて南無アッバ  喜多正規
あらし台風の夜独り唱ふる南無アッバ  赤松久子

万物がおみ風さまに共鳴して声をあげるとき、思わずわたしたちもこの大合唱に参加せずにはいられなくなります。

てんにいます/おんちちうえをよびて/おんちちうえさま/おんちちうえさまととなえまつる/いずるいきによび/入りきたるいきによびたてまつる/われはみなをよぶばかりのものにてあり(八木重吉)

いつでもどこでも南無アッバ!

秋夜長レクチオ・ディヴィナのヨハネ伝  佐藤悦子
教はりて来し会場に傘つぼめ入ればロマ書の輪読きこゆ  井口萬里子

「レクチオ・ディヴィナ」=聖なる読書。究極の祈りは聖書を只ゆっくり読むこと、ともいわれます。受洗間もない頃、わたしは井上神父に「どんなふうに祈ったらいいでしょう?」とお聞きしました。すると神父は「たとえば、聖書を一日何ページとか決めて読めばいい」とアドバイスしてくださったことを憶えています。わかってもわからなくても、毎日少しずつ。

 その他の作品をご紹介します。紙面の都合でお寄せいただいた全ての作品を載せることはできませんが、それらは次回以降の候補作品として預からせていただきます。

吾亦紅アッバに托す二つの忌  田中七子
秋高し体重計の針の先  石川れい子
うなだれしコスモスの種風に飛び  片岡惇子
マリアとマルタマリアになれずちちろ虫  瀧野悦子
いも粥をすすり原爆記念の日  新堀邦司
病葉の散る一瞬を祈りつつ  西川珪子
夏落葉うつくしき影ひき連れて  大木孝子
聖霊の包みし中の分かち合い  フランシスカ井上
ハリスト正教会にて購いし新約聖書は文語にござる  平田栄一

 ――アッバ讃句応募規定――
 井上神父の「アッバ讃句」にならい、皆さんの南無アッバの祈りを短い求道詩歌にしてお送りください。「風」読者であればどなたでも応募できます(無料)。「~~南無アッバ」という形のほか、俳句・短歌・川柳・自由律・一行詩などでもけっこうです。採否選者一任。


category: アッバ讃句コーナー

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アッバ讃句コーナー(第二回)  

今年五月に『求道俳句集』を私家版で発行しました(本文末尾参照)。おかげさまで多くの方にお読みいただき、大変うれしく、この場を借りて御礼申し上げます。

ところで、その読者の少なからぬ方から度々耳にしたのが、「私も少し勉強させて頂きます」という声でした。自分としては、楽しみながらの求道=「道楽」として始めた俳句・短歌だったので、「うーん、勉強ですか?」と、正直ちょっと驚いたのでした。(しかし、「求道俳句」という、わたしのネーミングにどこか堅いイメージが付き纏うのかも・・・・。)

それで今回は、全く初心の方を対象に、「求道詩歌の作り方」のようなものをご紹介したいと思います。今後は「私も俳句で遊んでみます!」という声が多くなることを期待して。(以下、「余白の風」入会希望者に配布している文章を要約します。)
―――――――――――――――――――――
 求道詩歌にご興味をいただきありがとうございます。
 ここでは、初心の方のために、私なりに簡単な作り方のヒントを述べてみたいと思います。

 一、求道詩歌とは
 ひとことで言うなら、「道を求める心から詠む詩歌」といえます。普通の俳句や短歌とどうちがうのか、とよく聞かれますが、最初は違いを意識せず、自由に詠めばいいのです。あえていうなら、普通の詩歌より、少し聖書の言葉を取り入れたり、神や信仰を意識した詩歌を作ってみましょう、という運動です。

二、どのように作るのか
あなたがすでに、俳句・短歌などを作っておられるなら、いままでよりちょっと生き方や信仰、求道ということを意識しながら作ってみましょう。
もしあなたが初心の方なら、次のような作り方を例として、あげておきます。わたしが実践しているやり方です。

①神に向かう――聖書の一段落か一節をゆっくり読んで黙想し、印象に残った言葉を書き出してみる。典礼暦に沿った箇所がいいかもしれません。

 例えば、これを書いている今日は「受難の火曜日」なので、「ヨハネによる福音書」一三章二一~三三節、三六~三八節などから「裏切り」「ユダ」「ペトロ」・・・

②自分に向かう――ときに吾にかえって身辺を見渡し、気づいたことを書きとめてみる。
「今朝の空は澄み渡っている」・・・・

 ③右の二つを工夫してつなげてみる。
【ユダとペトロの裏切り今朝の空すみわたる】――このままで、自由律作品としてもよいでしょう。
【ユダペトロ裏切りの空すみわたる】――五七五に整えて俳句になりました。

④もうひと工夫(推敲)
 ここで聖書に戻ると、場面は「夜」です。そこで、
【ユダ仰ぐ裏切りの月澄み渡る】――「空」を「月」に替えて、また一句。
さらに、
【裏切りし弟子をみつめるまなざしは朧の月をこえて清けし】――こんな短歌にもなりました。
三、継続は祈り
だれでも最初からうまくはできません。自分のスタイルを限定せず、いろいろためしてみましょう。極論をいえば、あれこれ工夫したあげく、作品が完成しなくてもいいのです。工夫していく過程そのものが「祈り」なのですから。
―――――――――――――――――――――
では、今号のアッバ讃句歌をご紹介します。
月明かり一本松を照らしゆくイーハトーブや南無南無アッバ  佐藤悦子
音もなく風をもてくる黒揚羽  佐藤淡丘
わたしは/わたしの聖堂に/ゆっくりすわる  竹原陽子
庇まで伸びて曲った今年竹  西川珪子
網戸渡る風の姿は見へねども  長谷川末子
春の野に縄文の風吹きにけり  広谷和文
父の日や南無南無アッバ南無アッバ  石川れい子
気が付けば余白の風に酔っている  フランシスカ井上
天命を待ち侘びている蝸牛  片岡惇子
この国に嗚呼鎮魂の桜咲く  新堀邦司
伏しがちの春ともなりぬ水たひら  大木孝子
鯉のぼり石けりの輪描き並べ遊びし跡へ月明の南無アッバ  魚住るみ子
スーちゃんの逝きたる翌日わが句集最終稿を入稿せしも  平田栄一

 ――アッバ讃句応募規定――
 井上神父の「アッバ讃句」にならい、皆さんの南無アッバの祈りを短い求道詩歌にしてお送りください。「~~南無アッバ」という形のほか、俳句・短歌・川柳・自由律・一行詩などでもけっこうです。(採否選者一任)
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新刊・平田栄一『求道俳句集』(私家製 B6版九七頁)定価五〇〇円。ご注文は平田まで


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第1回アッバ讃句コーナー(「風」第87号より連載開始)  

編集室からの要望により、このコーナーを新設し、担当させて頂くことになりました、平田です。よろしくお願い致します。
詩心と求道ということが古来、日本の伝統の中では切っても切れない、表裏一体の密接な関係にあったことは、井上神父も西行、芭蕉、良寛などをとりあげ、しばしば言及してきたところです。
神父ご自身も、

 朝 目覚め 命なりけり南無アッバ   (『南無の心に生きる』あとがき)
 自己嫌悪そっとさしだし南無アッバ       〃

などのアッバ讃句をはじめ、多くの詩を発表してきました。
そして、「風の家」運動が、井上神父から私たち在世間キリスト者にバトンタッチされようとしている今、イエス様、アッバを慕うすべての人が南無の心を育くむ具体的な活動が求められています。それはまた、わたしが提唱してきた求道詩歌運動の目指す所でもあります。その一つの具体的な試み、祈りの場としてこの「アッバ讃句コーナー」がお役に立てれば幸いです。皆様のアッバ讃句をお待ちしています。
では、さっそく今号の作品をご紹介しましょう。

ふりしきるふりしきる雪南無アッバ  石川れい子

「ふりしきる」のリフレインと五七五の定型感が、しんしんと降る雪のリズムを刻んでいます。「ふりしきる」をひらがなにしたところも、雪の純白や柔らかさを表現するには効果的ですね。この雪のように、アッバに無心に委ねる心を起こしたいものです。
種田山頭火の有名な句に、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(修証義)と詞書して
 生死のなかの雪ふりしきる  (大正一五年)
というのがあるのを思い出しました。

隠し味の塩になれよと説きたまふつつしみ歩まむ南無南無アッバ  魚住るみ子

「山上の説教」(『マタイによる福音書』五章)にまつわるアッバ讃歌としての短歌です。まさに「隠し味」が効いて、「つつしみ歩まむ」作者の人柄がよく出ています。ここでまた思い出される名句に、
勇気こそ地の塩なれや梅真白  中村草田男
というのがあるのですが、よくみるとこの『マタイ』の箇所は、

地の塩になれとは言わず地の塩であるとぞ言えりイエスは吾に  平田栄一

というように、〝おまえたちは、そのままで「地の塩」なんだよ〟とも読めるんですね。その「塩気」がなくなるのはたしかに問題ですが、だからといって偽善的に神様の前に、良い子に振る舞うのは本末転倒です。わたしたちの原点はどこまでも「アッバ!おとうさまー、よろしくお願します」という、アッバの御前に素直に頭を下げる者――あの「徴税人」(『ルカによる福音書』一八章)の祈りでありたいと思います。
以下、お寄せいただいた他の作品から選びます。俳句や短歌ははじめてという方は、どうぞ参考にしてみてください。

南無アッバ祈れば嬉し春の夜  藤田治子
暁の空に向かいて南無アッバ今日一日を委ねまつらん  佐藤悦子
闇ひらく神の光に春うらら  片岡惇子
春の星天の笑くぼとなりたまふ  佐藤淡丘
紅梅の幹も紅なり神の業  西川珪子
余生にも日の当たりけり帰り花  新堀邦司
初東風に雲満たされて波アッパ  河口儀子
本当のことはほんとに言えないの元気元気と強がりの君  瀧野悦子
夕焼けに満たされ帰る南無アッバ  井上文子
胸中に棲む人ひとり冬の銅鑼  大木孝子
日々の糧今日も賜る冬温し  長谷川末子
折り紙の朝顔咲ける老いの家  岩崎姫公子
アリョーシャの国へ白鳥帰りけり  広谷和文

 先ほども触れたアッバに対するわたしたちの態度と同様、アッバ讃句(歌)も上手下手を気にするのではなく、南無の心を第一として素直に表現してみましょう。
 ――アッバ讃句応募規定――
 井上神父の「アッバ讃句」にならい、皆さんの南無アッバの祈りを短い求道詩歌にしてお送りください。「~~南無アッバ」という形のほか、俳句・短歌・川柳・自由律・一行詩などでもけっこうです。(採否選者一任)


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