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2013年07月の記事一覧

07/28のツイートまとめ  

yohaku5

谷大二司教がさいたま教区長を辞任!7月27日付、との発表が本日の主日ミサで司祭からありました。一般信者にとっては寝耳に水、突然のことで、びっくりしています。
07-28 10:05



category: ツイッター記事

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日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きるための求道俳句誌「余白の風」第203号-2013年7月発行  

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)
佐藤淡丘(豊田)
雲切れて夏のつばめは天のもの
明易し魚跳ねてより水平ら
立葵ある晴れた日の君なりき
薫風をお盆にのせて運びくる
聖水の頭に染みゐたり樟若葉

   青空
 ここはプロテスタントの教会。聖霊降臨の日、一人の青年が洗礼の恵みをうけた。
 毎水曜日の夜、牧師を囲んでの祈祷会に彼がひょっこり現れて約一年。自動車会社の開発技術員という。多忙な職場にもめげず熱心に通い続けた。
 受洗式のパーテイの席上、彼は言った。「私は行き詰まったとか、病に罹ったから教会に救いを求めたのではありません。イエス・キリストというお方を知りたかったのです。」と顔を真っ直ぐに上げて、男らしく語ったのが印象的でした。私の所属しているカトリック教会は、ここ四、五年若者の受洗がひとりもありません。なんと言いましょうか。新鮮な一日でありました。南無アッバ。

*少子化の時代、若者がイエス様を慕って教会へ来るのは貴重なこと。しかしアッバの導きに年齢は無関係。ルカ伝のシメオンやアンナ、ヨハネ伝のニコデモなど、神様の網は疎にして漏らさず。

瀧野悦子(京都)
父の日のなにはともあれ南無アッバ
梁太き堂のイエスや梅雨深む
団欒の真中にアッバ夏の夜
十薬の花の白さよ南無アッバ
南無アッバいのちふくらむめだかの子

*句作再開の由。詠みたい時が詠み時。アッバの促しを抑えることはできません。ちなみに私は日々の祈りとして、新約聖書一章の黙想と求道俳句一句作を自らに課しています。

塚田明人(坂城)
亡き母が愛でて育てし赤ツツジ今年も庭でそっと見守る
明日のこと心配いらぬまかせよと兄なるイエス我が肩たたく
天の慈父乏しき汝をも抱きしめて御霊を注ぎ汝を導く
何事も思い悩まず懇ろに主と語りつつ御国へ歩まむ

*カラー版の「イエスの小さき花通信」を楽しみにしています。母を思う歌、見事な絵画、そして水野源三さんの詩の紹介等々、手作りの温もりと励ましを頂いています。

赤松久子(高知)
アッバの目背に感じつつ床を拭く
歩けなくなる日の予感南無アッバ
通院が仕事となりし夏日かな
ヘルパーは愛犬の死に耐へてをり
山桃やいつしか馴れし土佐ことば

*老いの不安やヘルパーさんとの交流の中で、しっかりとわが道を生きておられる久子さんの姿が、御作に反映しています。あたたかな「アッバの目」をいつも感じていたいものです。

井口萬里子(三浦)
時を超え神父の声がキリストの声に聞こゆる漁りの浜
洞窟に祈る老婆のつぶやきがミサ黙祷の合間に聞こゆ
跪くペトロにイエスの指す行手彫像影絵の湖のさざなみ

*アッバの思い、イエスの御心はどのように伝わっていくのでしょう。「神父」や「老婆」や「ペトロ」あるいは自然――いずれも日常のありふれた出来事をとおして。そして罪深い私たち自身をも通して。

魚住るみ子(練馬)
北国へ赴任の君へ毛糸の手袋風邪ひきたまふな南無アッバ
南無アッバうすづく空の水浅黄西より茜明日をのぞ希まむ

*遠い地へ「君」を見送る心――寂しさ、心配、思いやり。しかし今見上げる「茜」の「空」は、遠くにいる「君」の上にも続いているのだ。そう思うときのアッバのまなざし。

片岡惇子(名古屋)
母の日や遺影の母の鼻動く
天国の門見つからず蝶遊ぶ
雨模様紫陽花の芽に時動く
理不尽な悲しみ背負い蝸牛
十薬の闇深まりて白くなり

*①「鼻動く」②「蝶遊ぶ」③「時動く」など、動きのある御作が揃う。①亡くなられたお母様はいたずら好きか(笑)。新鮮な表現。②「天国の門」が「見つからず」焦るのではなく、探す過程を楽しむがごとき「蝶」には、余裕がある。
 
平田栄一(蓮田)
信ありて罪は赦さる春の闇
憎らしき彼も神の子春愁い
聖櫃の開け放たれし聖土曜

寄贈誌より
『驢馬』・佃里美
小学生青田の風を描いてをり
隅田川祖父泳ぎたる震災忌
「日矢」五八〇号・新堀邦司
母泣くやバラの花束胸に抱き
初孫と仰ぎて今日の桜かな

*新刊『武と愛の人 新島八重の生涯』(里文出版、一六〇〇円+税)は、八重とキリスト教の出会いが語られ、興味深い力作。ぜひ御一読を。お子様の御結婚やお孫さんのご誕生など、益々ご活躍の邦司兄。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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南無アッバの集い&平田講座(第二八回)要約  

2012・9・15=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

キリスト教における「救い」表現を日本的に考えよう、ということから、日本人キリスト者の例を見てきました。そして最後は遠藤周作さんの『侍』から、日本的信仰の方向性を考えました。

p・38
■復活において完成する救い
佐古純一郎牧師の神学では、わが「罪」の解決に重点があり、それにはまずイエスの「十字架」が必要であるといいます。こうしてそれは「贖い」信仰を強調するものでした。一方井上神学は、「苦」るしみに目が向けられ、そのためには十字架を含めたイエスの「全生涯」に注目することになります。ここから共苦(悲愛)を中心とする神学が展開されます。その結果、どちらかというと「十字架より復活」というニュアンスが強くなります。

ちょっと補足になるかどうか、最近わたしは、青野太潮先生というパウロ研究者(前回触れた田川建三さんのICU=国際基督教大学での教え子)の「十字架の逆説」という考えに惹かれています。その青野先生によると、「十字架」が「贖罪」に直結するという記述は、実は新約聖書には一つもない!というのです。そうではなくて、イエスの「死」が「贖罪」に結びつく。だから少なくともパウロ神学を考えるときは、まずイエスの十字架と死は区別しなければならない、と。

さらに余談ですが、作家の高村薫さん――『マークスの山』の直木賞作家ですが、この方が「中央公論」五月号で、「宗教は日本を救うか」というテーマで書いています。そこで御自身が浄土真宗に生まれ、カトリックからプロテスタントを経て――この方もICU卒ですが――高村氏が、なぜ最後に禅宗に行ったかということを振り返って述べており、大変興味深く、傾聴に値します。

その中で、日本人はなぜキリスト信者にならないのか、という問いに、「原罪」や「贖い」という考え方を受け入れがたいこと、そして「摂理」信仰も受け入れられない、といったことを体験的に述べています。
わたしには、先の青野先生の主張と共に、この高村氏の考えも井上神学を補足しているように思われます。


category: 南無アッバの集い&四谷講座

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本日、予定通り、四谷講座おこないます  

お暑い中ですが、お気をつけてお出でください。
初めての方、未信者の方ほか、
井上洋治神父の提唱する、
日本的キリスト教に興味のある方なら
どなたでもどうぞ!

くわしくはサイドバーをご覧ください。


category: 南無アッバの集い&四谷講座

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ヨハネ5:4  

ベトザタの池にさざ波さみだるる


category: 求道俳句のすすめ

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ヨハネ4:50  

御言葉の一つを信じ夏至越えり


category: 求道俳句のすすめ

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ヨハネ3:1-21  

ニコデモに真理を語る夏の夜


category: 求道俳句のすすめ

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ヨハネ2:15  

梅雨出水鞭持てる主の宮清め


category: 求道俳句のすすめ

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ヨハネ1:48  

いちじくの木下に座するナタナエル


category: 求道俳句のすすめ

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ルカ24  

『ルカ』終えり夏休みまで一週間


category: 求道俳句のすすめ

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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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