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2012年05月の記事一覧

23-12 「余白の風」196号に載せた要約のつづき全部です  

処女作『日本とイエスの顔』の第一章は「ことばといのち」。

そこでは、講座でもやった「ゼノンの逆理」――アキレスと亀の競争――バレリーナの躍動感はスナップの細切れ写真ではわからない、という――理性知と体験知の対比――そのすぐ後に、「理性の言葉や概念」は各民族によって、切り口が違うといっています。

言葉で説明することの便利と限界ということ。個々の「言葉」を直訳・逐語的に一対一で対応させても伝わらない。

井上神父は、日本人にわかる「言葉」として翻訳する。例:「愛」→「悲愛」、「聖霊」→「おみ風さま」など。

しかし「贖罪」(罪を贖う)「犠牲」(罪人のために死んだ)などはめったに口にしない。これらをどう表すか。

二九頁に引用した「至らなさ」というのは井上神父のいう罪の要素の一つ。

また、私は『すべてはアッバの御手に』で井上神父の言う罪を、「申し訳なさ」「エゴイズム」とも分析した。

こういういくつかの要素、エレメントをもったニュアンスが神父の「罪」意識の内容です。

最近、日本語への翻訳の試みとしては山浦玄嗣さんの「ケセン語訳聖書」などもあります。

心に残ることば *余白

V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』より

「人間の不完全性にこそ意味がある」(52)

「それぞれ違った仕方で、『自分なりに』不完全なのだ」(53)

「ひとりひとりの人間が、なんらかの仕方でかけがえがなく、代替不可能で、代わりのない存在になるのです。」(53~54)

*不完全性は人の代替不可能性を示唆する。また、パウロのキリストの体論を想起させる。

次回南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ
6/23(土)


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23-10 文化間のニュアンス  

井上神父が、よく使うたとえですが、時計とか机とかいう個物の「言葉」なら一対一対応で翻訳して意味を伝えられる。
しかし、ちょっと精神的な「表現」になると、そのニュアンスを伝えるのは文化間では難しい。

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23-9 ■現代日本の神学を  

井上神父はまず、日本人には日本人の神学を、という発想の理由を述べます。
この前提として、翻訳の問題がある。すなわち「言葉の翻訳」「表現の翻訳」という問題。


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23-8 インカルの方向  

救いのunity(唯一性)は、その表現のuniformity(画一性)とは違う。
だから多様な文化内開花インカルチュレーションを認めることになるわけです。


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05/24のツイートまとめ  

yohaku5

@mitakaforest いつもブログに来てくださり、ありがとうございます。今、五木寛之の『親鸞』を読んでいますが、まさに、正直に「救い」とは何か、己を偽らずに求道していくことが、宗教者の矜持なのだと思います。私にとっては井上師は、その先達と思っています。
05-24 15:55

@mitakaforest 明後日、お気をつけてお出かけください。お待ちしています。
05-24 15:56



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23-7 救い表現の多様性  

この「原初的経験」から出てくる救済論は、どれも「外から」の「解釈」だとラーナーはいう。
つまり「単純素朴」な救いの現事実からみれば、表現の多様性があっていいということ。


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23-6 ラーナーと井上神学  

まずアッバの、すべての人を救いたいという意思ありき、ということです。
このへんも主体があくまでアッバというところなど、井上神学によく通じます。


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05/22のツイートまとめ  

yohaku5

@nn_kawagisi RTありがとうございます。お元気そうですね。南無アッバ
05-22 09:59



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金環日食=埼玉県蓮田市から  

自宅から見た金環日食。
雲が薄くかかってたので、返って肉眼でそのまま見え、カメラにもしっかり収まったのでした。ラッキー!
時間表示は2分くらい進んでいます。
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category: その他

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23-5 無意識の信仰  

こういう構造があるから、ラーナーの「無名のキリスト者」とか「包括主義」というのは、キリスト教の明示的意識的信仰がなくても、いわば無意識でキリストに従っていれば救われるっていうことにつながるのだと思います。


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