「南無アッバ」を生きる ホーム »2012年04月
2012年04月の記事一覧

(31)-16 統一性のない聖書  

井上「いや、変化じゃなくて、それが確信というか、そういう〔悲愛の〕方だったんだと……。
福音書というのは、実にいろんな視野から書かれていて、それだけ読んだら矛盾している言葉が、うじゃうじゃあるわけです。


田川建三さんだったか、聖書にはあらゆる対になる反対の思想が入っている、というようなことを言ってましたね。
加藤隆さんだったかは、新約思想を統一するのは不可能だ、というようなことも言ってます。


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(31)-15 クリスチャンイメージの変化  

(〔 〕内は平田の補足)
<聞き手「でも、イエス様のそういう姿〔悲愛が一番大事で、必ずしも掟を守ることではない〕というのは、聖書のなかやいろいろなものに書かれている、テレーズもそうですが、わかっておられる部分もあるわけですよね。それが、法然を経ることによって、変化してきたということでしょうか?」


現在の平均的な日本人であれば、キリスト教が「掟」と結びつく、という発想はそんなに強くないんじゃないかと、わたし個人は、周囲の知り合いをみて思います。

禁欲的だ、という感じも薄れているように思う。

クリスチャンのイメージは、一般人に近づいているのですかね?


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04/28のツイートまとめ  

yohaku5

@mozu_san 興味深いですね。
04-28 09:49

@mozu_san 日本人と比較してどうなんだろう?
04-28 09:51

本日予定通り、四谷講座開催します。http://t.co/tB6XuULu
04-28 09:54

@mozu_san なるほど。もっとくわしくないと状況が読めないね。
04-28 09:57

@mozu_san ただ、量もさることながら、野菜の種類も違うと何かが違う?とか。。。面白い。
04-28 09:58

@qta_tokiwa RTありがとうございます。年度当初でへなへなしていますが、南無アッバでやってきまーす♪
04-28 10:09

@NK3737 いや、わたしが言いたいのは、野菜が豊富かどうかじゃなくて、その食べてる野菜の種類が違うと、どこか性格とか民族性が変わってくるのかなあ、ということなんです。
04-28 20:39



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(31)-14 NHK「すべては風のなかに」  

一四 「確信」までの時間

ここでわたしは、二〇〇六年にNHK教育テレビで放映されたインタビュー「すべては風のなかに」での井上神父の言葉を再び思い出すのです。

本稿でもすでに紹介したところですが、その一部をもう一度抜粋してみます。


ネット検索したら、この番組を文章に起こしてくださっているサイトhttp://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-314.htmを見つけました。
サイトからは連絡先がわからないので、勝手ながら、ここでお礼を申し上げるとともに、リンクさせていただきます。


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(31)-13 宿題の書  

受洗後も父性的・道徳的キリスト教観から抜け出られないでいたわたし自身をいま振り返ると、こうした当時の井上神父の心情に改めて親近感を覚えるとともに、わたしの不躾な問いに対する、一見そっけない返答の背景にも、神父のたゆまぬ求道的苦難があったのだ、ということを感じざるをえません。


まこと、遠藤周作さんが書いていたように、福音書は私たちに宿題を差し出す書物ですね。

奇跡、復活、神観・・・・・。

もっとも、仏教も上座部仏教が日本に入ってきたら、どうなったのでしょう?


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04/26のツイートまとめ  

yohaku5

@qta_tokiwa 聖書のみことばに、実存的に向き合う、という大切さですね。ありがとうございます。南無アッバ
04-26 09:49

@mikotoba_bot イエスの御手は、今も、私たちを通して働かれる。南無アッバ
04-26 09:52



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(31)-12 マリア信仰の発展  

当時神父の心はたしかに、テレジアから教えられた「赤子・童心」――「アッバの求道性」に「がっちり捕えられて」おり、「少しもゆらいではいなかった」ことは事実でしょう。

しかし一方で、福音書の中に散見する旧約的父性の神を思わせるイエスの言葉との葛藤を持ち合わせおり、そうしたジレンマのなかで、あの〝やさしいイエス〟発言があったのだ、ということを知ったのです。


西欧に伝わったキリスト教が、マリア信仰を拡大していったのも、福音書に残る父性的表現に対する緩和剤だったのかもしれない。


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04/25のツイートまとめ  

yohaku5

@NK3737 あれはいい番組だったのですが、NHKの著作権との関係で、DVDとかにするのは断念したのです。
04-25 07:16



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(31)-11 神父の正直な葛藤  

繰り返しますが、かの「シンポジウム」(一九八二年一月)で神父は、

<私のイエスはやさしいのです。イエスのまなざしはやさしいわけですよ。> 

と発言しています。

しかし右の述懐によれば、「天才パウロ」と出会う(同年二月頃と推定)前の神父は、そうしたやさしいイエスには「似合わない」「旧約の裁きの神ヤーウェを思わせるような師イエスの言動や言葉」に、「どうにもならない袋小路に追いつめられていくというようなあせり」を感じていたというのです。

ということは(わずかの時間差ですが)、先の発言は、そうした「あせり」を感じつつなされたものと推察できるのです。


おそらくその時間差は、1~3ヶ月程だったのではないか。

いずれにしろ時間の長さより、神父が葛藤の中で「私のイエスはやさしいのだ」と発言したことが、私には親近感を持たせてくれたのでした。


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(31)-10 恐さから優しさを見抜く目  

例えば、遊女や徴税人といった、当時の社会では罪人、駄目人間の代表と目されていた人たちをも、悲愛のまなざしで手をひろげてあたたかく迎え入れている師イエスの生き方に対して、それとはどうも似合わない、むしろ嵐と火の中でシナイ山頂に降下する旧約の裁きの神ヤーウェを思わせるような師イエスの言動や言葉が、また福音書の中には見出されるのを認めざるをえなかったからである。>(一〇~一一頁)


だからこそ、というべきか。テレジアのように、その恐い福音書?のなかから、やさしいアッバの本質を見抜いた目、というのは、学者ではなく、幼子のような、小さな求道者だからこそのことだったのかもしれない。


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