「南無アッバ」を生きる ホーム »2012年02月
2012年02月の記事一覧

(30)-19 旧約と新約との断絶  

こう考えますと、なぜ神父がこの「書き下ろし」をかの講演集に収録したかったのか、また、穿ってみれば今回わざわざ、わたしにコンツェルマンの名をあげて、ルカの救済史観への留保を示唆したのか、という理由がよりよく理解できるように思います。

すなわち、井上神父は編集史研究の成果により、新旧約の連続・直線的発展性を強調するルカの救済史観をこえた所に、アッバのやさしさ――イエスの母性的神観を確信していった、ということです。


この点が、従来の教会が新旧約の連続・直線的発展性にもとづく神学を基本としてきたこととの大きな違いです。

この意味では、新約聖書を「旧約の成就」として見る、というこれまでのキリスト教観をも見直すことになるでしょう。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-18 深化する神学  

本題『人はなぜ生きるか』の「私にとっての聖書」(一九八五年)に戻って考えますと、このエッセイが書かれたのは、『日本とイエスの顔』(一九七六年)の初版から九年目、さきの「あとがき」(一九九〇年)の五年前です。

ということはこの一文は、右に述べたような「確信」が、井上神父のなかで「ますます」強くなっていった時期に書かれたものということになります。


井上神学が、最初から固定的なものではなく、井上神父の思想や体験と共に、深化し発展していったということ。

私たちが20数冊の著作を読むときには、そのことも頭に入れておきたい。

昔、井上師に、「Aの本にはこう書いてありますが、Bにはああ書いてありますが。。。。」みたいなことを聞いて、お叱りを受けたことがありました。(笑)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-17 アッバに賭ける  

このバイアス部分をできるかぎり元の形に還元していくことによって、イエス本来の人となりや言動が垣間見えてくる――井上神父が「編集史研究」の成果によって「ますます」強くした「確信」とは、このようにして得られたものと思われます。


こうしたことは手探りの、気の遠くなるほど手間のかかる、大変な仕事でしょう。

また、私たちのような凡夫でさえ、相反するような性格や気質、考えを持ち合わせた「この人間--未知なるもの」です。

とすれば、どんなにか研究が進んでも、イエスの本質に関する議論は絶えないとも思われます。

しかし、ああかもしれない、こうともいえる、では信仰を生きることはできない。

そこにはどうしても「賭け」の要素は残るのだと思います。

そして、井上師は「アッバ」というキーワードに賭けた。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-16 福音書はバイアスがかかっている  

すなわち福音書記者マルコにはマルコの、マタイにはマタイの編集目的や関心があり、その方針にそって、伝承の取捨選択・構成がなされ、ときには加筆修正や削除など、伝承そのものを「変える必要」もあったということです。

大まかに言えば、それぞれの伝承は福音書記者の意図や関心によって、さまざまなバイアス(偏り)がかけられて編集されたわけです。


人間的な意図が聖書に反映されていることは、否めない。

ただ、そのように編集された聖書が「聖なる」書ではない、ということは簡単には言えないでしょう。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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予告:今週2月25日(土)南無アッバの集い&平田講座(第22回)  

メニュー(予定)
・南無アッバの祈り
・講座:カール・ラーナーの神学
・分かち合い
・風の家の祈り

講座後はカトリック喫茶エルへ。

くわしくは、このブログサイドバーをご覧ください。


category: 南無アッバの集い&四谷講座

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(30)-15 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって ( 『風』第89号 )  

さらに、それらの伝承は客観的時系列的に福音書として編集されたのではなく、各福音書記者がそれぞれの意図

――ここでも個人というよりは所属する共同体の「目的」――を持って現在の形にまとめられたということ。

それを明らかにしたのが「編集史研究」です。




井上神父は、「様式史」と「編集史」の関係を、石庭にたとえています。

すなわち、石庭を眺めたとき、「この石はどこから持ってきたのだろう」と考えるのが、様式史研究。

「これらの石はどういう意図で配置されたのだろう」と考えるのが、編集史研究。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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02/24のツイートまとめ  

yohaku5

@mozu_san 「福音を場」として、ということは、あちら様が一方的におみ風様をシャワーようにそそいでくださって、神の国が始まっている。そのなかでアッバに信頼しきりなさい、ということだと思います。
02-24 11:32



category: ツイッター記事

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第194号(18)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

話はそれますが、『マルコによる福音書』一章一五節は、ふつう、「・・・・福音を信じなさい」と訳していた所を、岩波訳聖書では「・・・・福音の中で信ぜよ」と、「福音」を信じる対象でなく、信仰者が置かれている「場」としています。

原語のギリシア語では「ピステウエテ・エン・トー・エウアンゲリオー」ですが、田川建三訳も「なかで」と訳しています。日本人には、この方がピンと来るように思います。


以上、194号おわり


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第194号(17)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

そもそも信仰=ピスティスは、むしろ「信頼」というべきでしょう。

井上神父様もそうだし、最近注目されている「ケセン語訳」聖書の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)氏なども「信頼」と訳すべきと言っています。

あちら様が主体で「お任せ」すること。そう訳し変えただけで、ずいぶん日本語のニュアンスが違ってくる。

さっきの「おまえは何をどう信じるか」といったときの気負いもなくなる、という気がします。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第194号(16)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

『ガラテヤの信徒への手紙』五章六節を、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と訳していますが、ギリシア語原典は「ディ・アガ‘ペース」で、愛を介して(手段・媒介・原因)働く信仰ということです。

この愛は神からの愛とも受け取れます。

ちなみにTEVという英語聖書は「what matters is faith that works through love.」とあり、この愛がどこからの愛とは書いていませんが、スルー=その愛を「通して」働く信仰という意味合いを明確にしています。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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