「南無アッバ」を生きる ホーム »2012年01月
2012年01月の記事一覧

(30)-10 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって ( 『風』第89号 )  

右の内村や新渡戸の例、また「ミッションスクール」の道徳重視の教育、あるいは背教・離教していった文学者の例等々、「倫理・道徳」面を強調していった近代日本のキリスト教――それは同時に、神観という点では、父性原理の強い神の強調という結果をも生んだのだと思います。

井上神父が指摘する、ユダヤ教とキリスト教を同一視する誤解は、こうした事情も背景となって生まれたものと考えられます。


私の講座にも、若きころミッションスクールに通った、という方が来ていらっしゃいますが、
キリスト教は厳しいものだ、という印象を持ち続けていた人が少なくないです。

倫理・道徳の強調→父性原理の神→前に出て行く行為=「為す愛」の奨励。

井上神学・アッバ神学は、母性原理→受身的信頼=「為さざる愛」の重視。

こんな図式が頭に浮かびます。

「人生は哀しく、受け入れるものだ」という、井上師の言葉は印象的です。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-9 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって   

こうした内村や新渡戸の例は、アッバの福音の本質とは別のところで、国家政策の「壁」にぶち当たった日本のキリスト教が、しだいにその倫理的側面を強調し、道徳化していった様子を示しています。

そして山折氏は、この項の結論として、次のように述べます。

<キリスト教は、倫理・道徳として、あるいは・教育・文学として日本の社会に浸透していった。けれども、現実的な勢力としては大きな広がりを見せなかったため、日本の社会に根本的な変化を生むことはなかった。

また、社会批判の役割を十分に果たすこともなかった。>

(同書、二八八頁)


イエスの福音が、一般的な道徳や教育上の徳目として社会に解消されてしまった、という見方もできよう。

こうなると、イエスの固有性、聖書の福音の固有性=「ここはイエスでなければだめなのだ」という、必要性すらなくなる危険があった。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-8 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって   

また、内村と同じ札幌農学校出でクエーカー派の信仰をもつ新渡戸稲造については、次のように言います。

<新渡戸はキリスト教の信仰をもっていたにもかかわらず、それを積極的に布教しようとは考えなかった。

おそらく、内村が直面した壁を意識してのことだろう。彼が選択したのは、信仰としてのキリスト教をそのまま伝えるかわりに、キリスト教の精神を修養という形に変化させ、それを伝える試みであった。

新渡戸がアメリカ留学中に英文で執筆した『武士道』にしても、ベルギーの法学者、ラブレーから、日本の学校では宗教なしにどうやって道徳を教えるのかと問われ、即答できなかったのが執筆のきっかけだった。

新渡戸は、侍の道徳規範を武士道という形で示すことで、ラブレーの質問に答えようとしたのである。>

(同書、二八五頁)


キリスト教を、「修養」「道徳」として教えようとしたことが、知識階級や学校教育としては受け入れられたが、日本人には、ラディカルな福音の本質を見失わせる結果となったのではないか。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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第21回南無アッバの集い&平田講座報告  

ご参加くださった皆様、寒い中をお出かけくださり、ありがとうございます。
また、お越しかなわなかった方のために、ご報告します。

今日のテキスト:『心の琴線に触れるイエス』p.33
<井上神父は、イエスの十字架を、人間の罪の犠牲(サクリファイス)としてよりも、「私たち一人一人の人生の苦しみをそこでいわばmitleidenして(共に担って)くれた」もの、あるいは「汚れを取り去った、神との調和を回復した」ものとして受け取っています。

十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛(「悲」は「共に」悲しむの意を含む)の頂点に位置するものと考えているのです。

ですから、「井上神学には十字架がない」ということにはならないのです。

十字架による救いというものの「ニュアンスの置き方」が、あの質問をした牧師さんたちのキリスト教とは違うということです。

けっして罪の問題そのものに関心がないわけではありませんが(この点に関してはいずれ改めて論じたいと思います)、こと十字架の受けとめ方という点に立てば、ここでも井上神学には罪の問題よりも苦しみの問題に重心があるといってよいでしょう。>


今日の学び
前回から、十字架=「共苦」すなわち「悲愛」の頂点と見る井上神学=アッバ神学との比較で、古来からの十字架の様々な意味を検討しています。

日本人の感性で、イエスの十字架にどう、実感を持って意味を見出すか、分かち合って行きたい思います。


category: 南無アッバの集い&四谷講座

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(30)-7 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって   

本稿では明治以降の道徳主義的なキリスト教の問題について縷々触れてきました(拙著『心の琴線に触れるイエス』第四章ほか)が、仏教学者・山折哲雄氏はこの点について、次のように述べています。

明治政府という世俗的権力は、キリスト教という宗教的権力の支配下に置かれかねないことを警戒し、その侵入を防ごうとした。

それゆえ、キリスト教を「宗教として」「そのまま」日本の近代社会に浸透させようとした内村鑑三は、「不敬事件」に象徴されるような壁にぶつかることになる。

(『日本人の宗教とは何か』「キリスト教の展開」二〇〇八年、太陽出版)


天皇制=世俗>宗教をめざす明治政府。
しかし、内村は純粋に、無邪気に、ノンポリ的に、キリスト教国を夢見ていたかもしれない。
不敬事件で見せた、頭を下げたような下げないような曖昧さは、そういう内村の戸惑いを象徴しているようにも思える。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-6 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって  

それ以来神父は様々な学びの中で、青春時代の自分だけでなく、

<母性原理の強い神こそは、まさに共通に日本の人々が求めているものであることを段々と確信するに至った>(同)

のでした。

この日本人の、母性神要求に対して、日本に直輸入された「比較的父性原理の強い」西欧型キリスト教(会)は、十分に応えることができなかったばかりか、

<ユダヤ教とキリスト教を区別なく十把ひとからげにとらえ、ユダヤ教が砂漠の宗教だからキリスト教も砂漠の宗教だ>(二五二頁)

という印象を与えてしまった所に、大きな問題があったのです。


この点で私は、前にも書いたが、新約聖書を素手で読んだときの印象を、忘れることができない。
たしかに有難い話ではあるが、この倫理的な堅さというか、厳しさには着いていけないと思った。
本来イエスの福音の本質は、その道徳性ではない、とわかるまでは、ずいぶんと時間がかかった。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-5 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって  

一〇 テレジアからテレジアへ

この「最大の問題」に対する回答の中で、井上神父はまず、本章「六 悩みの歳月」でも取り上げたエッセイ「リジューのテレーズをめぐって」(『風のなかの想い』所収)を書いたときはじめて、自分がテレーズに惹かれた理由がわかったといいます。

それは、井上青年が空しい青春時代に必死に求めていたものが、

<母性原理の強い神の、慈しみ深く暖かな悲愛の御手>(二五〇頁)

であり、比較的父性原理の強い西欧キリスト教のなかにあって、

<まさにテレーズは、その全生涯で母性原理の強い神の憐れみを讃えあげた、極めて稀な人物だった>(同)

ということです。


井上神父はマリア信仰(崇敬)について語ることはほとんどない。
それは、その否定ではなく、イエスのなかにマリア的なものを見ている、ということです。

それにしても、日本的なものを求めて、その開眼が、テレジアという、西欧を一歩も出たことのない少女に触発された、ということは、興味深い。


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(30)-4 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって  

すなわち、『新約聖書』を実践指導書としてとらえたことに対する批判、神を「無」としてとらえることへの疑問、そして最後が、いま話題にしている、

<「イエスのとらえた神理解」に対する私の考え方であり、そこから生じてくる「旧約」と「新約」の関係の問題>(二四九頁)

です。

そしてこの最後のものについて神父は、

<やはり私が提出している問題の最大のもの>(同)

と自ら述べています。


3点とも、いろいろな批判にさらされましたが、どれも、日本人がその感性でキリスト教に求道しようとすれば、意識するとしないとにかかわらず、つまずきとなる事柄に対応しています。


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(30)-3 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって  

この点については前号で、「旧約」-「新約」間を連続・発展とみるルカの「救済史観」を留保する井上神父の考えに触れましたが、まさに極めて大切なことなので、ここで補足・確認しておきたいと思います。

この書き下ろしエッセイ「私にとっての聖書」(一九八五年)から五年後の一九九〇年に、井上神父自ら「思想と生活の原点」と明言する、処女作『日本とイエスの顔』(初版一九七六年)の再々版が、日本キリスト教団出版局から出版されています。

その「あとがき」では、この十四年間を振り返り、

<もちろん現在でもなお私は「日本におけるイエスの顔」を求め続けている一介の求道者にすぎない・・(略)
・・しかし私としては、日本人キリスト者としてこの信仰以外には生きられないというぎりぎりの線を生きているつもりであるし、この際、今までの思索に対してなされてきた幾つかの批判に対してここで答えておきたい>(二四七頁)

として、井上神父は三つの点について回答しています。


この14年間に、煮詰まっていった井上師の思想、その確信を、開示していく。
私たち日本だけに暮らしてきた者には、井上師ほどの実感をもっては、感じられないかもしれないが、無意識のうちに、私たちが求めている信仰の持ち方の特色が、述べられていく。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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(30)-2 『風』第89号 井上洋治著『人はなぜ生きるか』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐって  

のちに井上神父は、「旧約」神観の否定・超克の上にイエスの教えがある(『わが師イエスの生涯』三三頁他)ことを、明言していきますが、その前提として、新旧約聖書に表れた神観の違いを「明白」にすべきだということ。

ここにすでに、新旧約聖書の連続性より断絶性を強調する井上神学の特徴が見てとれます。
それはまた同時に、日本人のキリスト教理解、ひいては伝道に「極めて大切」であるというのです。


イエス様は命をかけて、「アッバ」と呼べる神の母性原理を説いたわけですが、
井上師ご自身も、上のような「断絶性」や母性を語るに、破門すら覚悟した時期もあったのです。

そう考えると、昨年の岡田大司教との対談など、感慨深いものがあります。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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