「南無アッバ」を生きる ホーム »2011年11月
2011年11月の記事一覧

ローマ10:9-18  

主の御名を呼ぶ者は皆救われる冬晴れに聞く子らの歓声

みじめであればあるほど神様は慈しんでくださいます。(リジューのテレジア)


category: 求道俳句のすすめ

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ルカ10:21-24  

幼子のごとき者には示される御国の秘密おでんが煮える


category: 求道俳句のすすめ

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マタイ8:5-11  

かの日には主に信頼を置く者が天の国にて宴会に着く

このペリコーペは、
①願い出るのは、イスラエルでない異邦人(ローマ兵)→異邦人に開かれた福音
②イエスは病人に会わずに癒す→時空を超える福音
③他者(上官)の信仰で癒される→とりなしの祈りの有効性
などの点で、イエス死後の教会に希望と励ましをあたえただろう。


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thread: 聖書・キリスト教

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第19回南無アッバの集い&平田講座(報告)  

11月26日(土)
出席者16名。
とくに、広島や会津など、遠方からおいでくださった方々、ありがとうございました。


テキスト『心の琴線に触れるイエス』p.32-33

十字架から復活へ

さて、その上で井上神父は、どちらかといえば「十字架というよりも復活」を救いの中心に置くと、先の佐古氏との対談で述べています。これはどういうことなのでしょうか。

そこでまず、井上神父が十字架をどういうものとしてとらえているのか、を見てみましょう。

井上神父は、牧師さんたちの集会で講演をしたとき必ず出るのが、「井上神学には十字架がないのではないか?」という質問だいいます。十字架がなければイエス教ではあってもキリスト教ではなくなってしまう、という心配が根底にあるのでしょう。井上神学に対して疑問を投げかける牧師さんたちが考えるキリスト教は、佐古氏に代表されるように、わが罪の自覚とイエスの十字架の犠牲・贖罪、それが救いの中心にあるようです。

しかし井上神父は、イエスの十字架を、人間の罪の犠牲(サクリファイス)としてよりも、「私たち一人一人の人生の苦しみをそこでいわばmitleidenして(共に担って)くれた」もの、あるいは「汚れを取り去った、神との調和を回復した」ものとして受け取っています。十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛(「悲」は「共に」悲しむの意を含む)の頂点に位置するものと考えているのです。

ですから、「井上神学には十字架がない」ということにはならないのです。


講座後は、いつものように、カトリック喫茶エルで楽しいおしゃべりの時間をすごしました。
南無アッバ


category: 南無アッバの集い&四谷講座

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ルカ21:34-36  

かの日には信頼持ちて人の子の前に立つらん祈り目覚めよ


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『世界の名著18 ルター』より  

ラディカルなパウロをさらにラディカルにルター頼もし「キリスト者の自由」


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ルカ21:20-28  

身を起こし頭を上げよ解放の時は近づく災禍の年に

年間典礼暦最後のこの週に、
3.11のあった今年を振り返ります。


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ルカ21:12-19 詩19:8  

髪の毛の一本さえも慈しむ神の定めの計り難しも


category: 求道俳句のすすめ

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ルカ21:5-11  

終末の遅延を告げる福音を今朝憂いなき秋晴れに聞く


category: 求道俳句のすすめ

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ルカ21:1-4  

金でなく神に信頼したことをイエスは褒めり寡婦の献金


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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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