「南無アッバ」を生きる ホーム »2011年04月
2011年04月の記事一覧

連休の初めは近くの公園で「毎日のミサ」を一人唱えり  

復活の金曜日。よくました。忙しかった4月の疲れを癒しましょう。


category: ○求道詩歌

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講座録音の一部をYoutubeに公開しました  

http://www.youtube.com/watch?v=I1e-hX_XOgE


category: 南無アッバの集い&四谷講座

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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04/20のツイートまとめ  

yohaku5

@mitakaforest 今号の「風」にあるとおり、体調よければ、6月の25周年には出られると思います。 #namuabba
04-20 00:03



category: ツイッター記事

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第11回四谷講座ノート 2011-3-26/2.井上神学の救済論(4)   

○はじめに:東日本大震災の話と「南無アッバの祈り」

○前回まで
p. 21-22
【緑本=テキスト『心の琴線に触れるイエス』L】この最後の「・・・・」も原文のままですが、ここは、かなり井上神父の心情――井上神学の特徴になる重要な発言です。まず「ニュアンスの置き方」――重点の置き方が違うと断っていますが、その微妙なニュアンスの違いが、神学にも感覚的にも、大きな違いとなって受け取られる。

○ここから
 井上師の、この発言の冒頭の所p.21、イエスは「私たちのために死んでくださった」という。佐古さんと同じようでいて、そうじゃない。佐古さんは「おれじゃないか」(2行目)、井上師は「私たち」→だから、次のページp.22の5行目「自分」こそ「が傷つけたという感じが弱い」という。

 佐古さんの信仰は、ある意味、典型的なプロテスタント的――一対一で神なり十字架と向き合う。井上師はそういう意味じゃ「私たち」と、対峙すべき神と自分との間に緩衝材が入ってしまっている、という批判があるかもしれない。それが、マリアを入れてくるようなカトリック的ともいえるかも。

これも以前にも話したかもしれないけど、内村とかが強調した劇的回心は非常に個人的に、「ああ、この私こそがイエスを十字架に貼り付けた~!」そういう回心が、正しいとされている。
 
ちょっと脱線しますが、デュルケーム(1858~1917)っていうフランスの哲学者がいました。社会学に貢献。
『自殺論』--幸福度を自殺率ではかる。

(wiki)デュルケームによれば
横軸○地理的にみると:農村よりも都市、既婚者よりも未婚者の自殺率が高いなどと言ったように個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるとしている。

縦軸○歴史的に見ると:面白いのは、戦争中が一番自殺率低い。で
○宗教的にみると:ユダヤ教徒よりもカトリック教徒、カトリック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高く、
cf:「うちの宗教」VS「私の宗教」

ただし、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の誤りが証明され、デュルケームが指摘するほどに大きな違いがないことが明らかになっている。したがって、宗教上の教義の違いが自殺率へ影響を与えるものではなく、近代化によって集団・社会の結束度が弱まってきた結果として起こってきたものと考えられる。

そして、緑本に戻ります。
 井上師に対して、佐古さんがp.22中ほど、この「・・・・」は、「この問題はおそらく次の伝道論で出るかと思うのですが」が省略されていて
【緑M】以前の井上師の言葉にあった「犠牲」(サクリファイス)に反応しています。で、
【緑N】この辺から二人の違いがはっきりしてきます。次の「・・・・」の省略は、ちょっと長いのですが、お読みします。

【パ=『パウロを語る』189O】今度は井上師が、前回紹介した、佐古さんの「関係概念」を応用する形で、神-人関係の罪と義の「正しさ」に「美」美しさ――「調和の美」、という「観念がぴったりくる」という。このへんは、青本の最初の方=第1章「美をめぐって」p.21あたりで、あとでまた触れていきますが、井上師は神道的な「穢れ」を罪とみる。日本的発想です。

そして佐古さん、
【緑P】佐古さんは、罪→義の十字架の「犠牲」の意味を最重視する。
井上師は、罪の「汚れを取り去り」、神との美の「調和を回復した」――だから、「十字架より復活」ということでしょう。
cf
佐古:罪→十字架(犠牲)→義(正しさ)回復
井上:罪→復活(昇天)→義(美しさ)回復

 こんなふうに整理できるかもしれません。
緑p.23へ行ってまた「・・・・」の所をお読みします。
【パ190Q】井上師と佐古さんの、さきのような違いは、カト・プロ関係ないという。信仰の「とらえ方」と「強調点」がちがうと、井上師はいう。佐古さんも「受けとめ方のニュアンスが違う」と、微妙な言い方。すると井上師はそうした微妙な違いは「血」にも関係するだろうと、ここで「十字架の血」というキーワードを巡って話が展開する。で緑本に戻って、
p.23 l.3
【緑R】と、佐古さんは先の「犠牲」と同様、「十字架の血」というのが日本人伝道に向いてないと思っている井上師に、突っ込んできます。で、井上師が
【緑S】「十字架の血」から連想するものに着いていけないと、正直にいう。この「・・・・」のところは、こう書いてあります。

【パ191 T】この「小学校の女の子」の話は、国学院の戸田義雄先生編『日本カトリシズムと文学』に収められた、1982年(S57)のシンポジウムのなかでも触れています。それだと「小学校3年生」ということになっています。小さい頃から聖書の話を聞かされ、十字架を見慣れている環境かどうか、というのも大きいでしょうが、リアリティとシンボライズの関係なんかも、民族・文化で相当受け取り方がちがうんじゃないか。

 それで思い出すのは、ムーミンの絵とか、子供向けの動物の描き方の違い――欧米と日本――幽霊とかホラーなんかの怖さの違い・・・。
 いずれにしろ、物質的にリアルであっても、福音の本質を見失うような嫌悪感は問題。

○おわりに:「風の家の祈り」唱和


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04/17のツイートまとめ  

yohaku5

@mari_nee どもども
04-17 18:56



category: ツイッター記事

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歴史的イエスを一切語らないパウロの信仰義認は眩し  

パウロの天才


category: ○求道詩歌

thread: 求道詩歌

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ケリュグマの奥にまします歴史的イエスは霞むされど囁く  

様式史研究


category: ○求道詩歌

thread: 求道詩歌

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妬みには「キリストの体」不安には「南無アッバ」とう処方箋がある  

度々思い出そう


category: ○求道詩歌

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第10回四谷講座ノート 2011-2-26/2.井上神学の救済論(3)  

○前回まで
p.20
■佐古・井上対談
【レジメにそって、簡単に流れを追う】
井上cf佐古 いろいろ見た。
とくに、井上師の 信仰=行為 とか、
義認をめぐって、井上:母性、佐古;父性的
など。
(そして、『パ――』の話は、p.183)レジメ

9.永遠の生命――復活と十字架
という所に行く。佐古さんの調べでは、旧約には「神を信仰する」というのはあまり出てこない、「従う」というのはある。どこまでも「行為」「律法」に従う、守る。

そのあと改めて、佐古さんはロマ書7:24【聖書開く】をとりあげ、井上師もこの「死に定められた体」が、旧約にはない「永遠の生命」という問題と関係するといい、さらに二人は、これも旧約ではバビロン捕囚(B.C.586-538)以降、ファリサイ派に出てくる、という。だからパウロには「復活」がある。サドカイ派じゃない。それが念頭にあって、「誰が救ってくれるのか」25節と自問したとき「イエス・キリストを通して神が救ってくれた」と答えを出した、と井上師はいいます。「その場合の・・・・」と続く。

そういうわけで、「その場合」というのは、こういう経緯――ローマ7章の「パウロの福音信仰の本質」をめぐって二人の間になされた意見を前提に、話が進んでいくわけです。
そのとき佐古さんは、「十字架」を重視するということです。
 
それで、テキスト緑本に戻ります。
p.20
【緑D朗読】ポイントとして、救いはイエス「ご自身」=生涯ということ。
その次の「・・・・」省略は、原典『パウロを語る』p.187では、
【パE朗読】ここは、おそらく井上師が復活論で大きな影響を受けているレオンデュフールの説に依拠していると思われます。すなわち、

十字架=高挙(昇天)⇒復活(『イエスの復活とその福音』p.87復活=昇天、p.95十字架=高挙)
『日本』p.148「復活は対象化・概念化できないから、その「体験の絶対性」ゆえ、様々な表現とる。「復活」はエルサレム教団、「高挙」はガリラヤ・ヘレニズム教団という図式です。本来一つのことが、3つの表現をとった、という。

そして、その「・・・・」の次
【緑F朗読】ここでは、十字架と復活は、もちろん重要だが、それはキリストの救いの「最終点」で、かつどちらかというと「復活」重視ということ。

†<復活
テキストp.21へ行って、すると佐古さんが、また「・・・・」の所
【パ朗読G】十字架と復活は表裏一体で、自分は復活から十字架へ、つまり「表から入って裏へ出た」という。「そうすると
【緑H朗読】「罪」深くて「惨めな人間」である「私」がイエスを十字架にかけた、と、ロマ書のあのパウロの嘆きと同じところが強調される。
 それに対して、井上師が答える
【緑I朗読】佐古氏の自分の罪-十字架という発想でなく、十字架が共苦、しかも「これからの」=これから後の将来の苦しみを「すでに」受け取ってくれた――将来を先取りした過去――ということ言っています。十字架の現在化ということ。それに対して佐古氏
【緑J朗読】と同意します。

 さらに井上師が敷衍する
【緑K】ここの「・・・・」は原文のままですが、何が省略されたのか? その後ろを読むとなんとなくわかる。
【緑L】この最後の「・・・・」も原文のままですが、ここは、かなり井上神父の心情――井上神学の特徴になる重要な発言です。まず「ニュアンスの置き方」――重点の置き方が違うと断っていますが、その微妙なニュアンスの違いが、神学にも感覚的にも、大きな違いとなって受け取られる。


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04/15のツイートまとめ  

yohaku5

@mitakaforest お久しぶりですね。貴女こそお忙しいことでしょう。私は4月から夜間勤務になり、体調が今ひとつです。いずれ慣れればと思います。貴女もご自愛ください。 #namuabba
04-15 07:53

まことに、いかなる時も、心底「南無アッバ」が出てくれば、それが信心の完成と言っても過言ではない、普遍的信仰などないのかもしれませんが、そんなことを思います。 #namuabba
04-15 07:55

@mitakaforest 貴女の言葉には、私の方こそが、いつも励まされます。まとまったものがアップできないので、こうして講座のノートを無造作に載せたのですが、少しでもお役に立てて幸いです。問題なり、わかりにくい所があったら、ご指摘ください。 #namuabba
04-15 07:58

@mari_nee ありがとうございます。感謝です。 #namuabba
04-15 21:38



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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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