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第5回四谷講座ノート 2010-8-21 井上神学の体験主義・実践主義(4)  

テキストp.14
永遠の命に至る「実践指導書」として聖書を読むためには、「~について知る」概念的理解と「~を知る」という体験的理解のちがいを把握すること。その区別はベルクソンからのものであることを見てきました。
ここで一気に、ベルクソンの続きをやると、とても後1,2時間では終わらないので、テキストに戻って先へ進むことにします。そのうちまた、出てくるので、その時々に少しずつベルクソンについても学んでいこう。

「序にかえて」続
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p.15【朗読】(1)
①数年後・・・・
前述の大学4年が1977年、井上師との出会い1980年=3年後ということ。その間、転職など――『すべて』プロローグに就職浪人時代に井上師とどう出会ったかを書いたので、今までも話したことはありますが、興味あるかた読んでね。

②体験の裏づけ
直接的にはリジューのテレジアについていくことだが、その前のベルクソンとの出会いや青年期の慰問体験を含むと考えられる。
→過去を包含していく現在

→さっそくまた、井上師がベルグソンに教えられたことが思い出される。すなわち
(ベルクソン曰く)「人間は因果律に縛られた自由のない機械などでなく、常に自由による選択を生きている。一人の過去が、A→B→Cと必然帰結するという考えは、雪だるま式に過去を現在に包含しつつ質的に変化している生の歩みを、全く等質な空間に投影している誤りから来る。」(余白旅p29)――生きるということ、「ものを知る」ということを教えられた井上青年。

③大きな衝撃
私としても、ここで改めてベルクソン学んで、井上師の体験知の強い裏付けを知り、連載書いた時より、もっと納得ができた気がする。

【朗読】(2)
④ヒルティの実践性
これは前にも触れましたが、やはり井上師の実践性とは違う。
ヒルティ:聖書の書いてある通りの実践奨励――ストア主義的キリスト教、山上の説教、飢えた牧師(井上談)
井上師:聖書は実践指導書ではあるが、「イエスの姿勢を真似ろ――個々の行為でなく」――井上師はむしろ危険性指摘――「風」85号連載(26)見てね。その姿勢の内実が最も良く現わされているのが、
⑤リジューのテレジア~受洗

【朗読】(3)
出会い~受洗~渡仏
ここでまた、テレジアばかりやってると、うんと時間がかかりますが、最低限だけ触れる。
井上神父にとってのテレジア・・・・2009年の暮にのったカトリック新聞でもインタビュー、また、司祭叙階金祝ミサでも、「私の人生は、リジューの聖テレジアに始まり、聖テレジアに終わるのですね」と締めくくっている。

テレジア・リジュー(1873~1897)19C末、アランソン→wiki資料
  カルメル会15歳入会-24歳、肺結核死去
   自叙伝、20世紀数百万部
50年かかるのを28年で列聖1925年。
33人の教会博士に1997年。

(1)出会い
1942年ころ 旧制東京高等学校(のち東大に包括)の寮――1年は原則全寮制――に入ったばかりの頃、初めて教会へ。・・・・しかし、(以下、補充は『風のなか』「リジューのテレーズをめぐって」より)うろうろ、信者になり切れず-抵抗感と違和感、その重大な理由の一つ=「罪と罰」の問題→個人的でなく、日本人共通の誤解-藤村。芥川「神の愛は信じられず、神の罰だけを信じる」(『人間失格』)。「祟りの文化」(山折、キリシタン史講座のこと)は仏教より根深い。正宗白鳥「内村のような求安は味わえなかった。」奇跡や教皇の無謬より「やはり、「ねたみと怒りと罰の神」への恐れと抵抗が、もっとも強く心の奥に根づいていたことは否めないような気がする。」(p.94)-平田まったく同感!家のこと少々。

その後、前回お話しましたように、お母様の津久井の実家でベルグソンに出会い、東工大を退学して、
1947年:東大文西洋哲学科入学
同年、7歳上の姉、サンモール修道会(現幼きイエス会)入会。姉の願い、東大カトリック研究会
また、上智大デュモリン神父「キリスト教入門講座」参加
    └1905~1995『禅の歴史』
 奇跡・トマス哲学への抵抗感――資料

しかし、デュモリン神父はテレジアの紹介者であり、そんなときに『小さき花』(シルベン・ブスケ訳)に出会う。姉が置いて行った自叙伝、秋の終わりに読む。


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第4回四谷講座ノート 2010-7-24  

1.前回まで
井上神学の一特徴としての体験主義・実践主義――青年時代、ハンセン病院慰問体験――ルカ18によるリヨン回心体験、26歳――実践指導書としての聖書――理性知と体験知――ベルクソンの影響大――ゼノンの逆理・アキレスと亀

2.アンリ・ベルグソン

(1)出会い
『余白の旅』「白い道」より――東京大空襲3/10家消失→終戦時、津久井(現・神奈川県相模原市津久井町-八王子より奥の山村)母の実家。

 中学上級からニヒリズム-戦争より生の無意味感-原子の海の小さな塊としての人生or波打ち際の砂粒←科学信仰からの恐怖だった-楽しみに無関係に凄まじい「無意味な灰色の原子の大海の大津波」

 代々庄屋、豪華な門構え、離れ借りる一家、従兄弟の本好き、三畳いっぱいの本、『時間と自由』(岩波文庫)-ベルグソン(30歳の著作)との出会い、「自由」二文字に飛びつく、「砂漠でオアシス」「救助隊の明かり」――井上自殺留まる、恩人。「因果律」的思考の呪縛からの救い。

その他の主著『創造的進化』、『物質と記憶』(1896)難解、『道徳と宗教の二源泉』『笑い』
「風」76号では、出会いの後つぎのようにいう。P.42 【開く】
ベルグソンの(「形而上学入門」によると)

(2)対象の二つの捉え方
A.「分析」的方法:要素還元論、総合→科学(記号による固定化、対象の周囲を巡るのみ、相対的)
B.「直観」的方法:直接、内側に、内から全体へ(無媒介的に事物に入る。その意味で絶対的認識。)意識は直観によってのみ認識しうる。

例として:腕を動かす――外から腕の動きを見る=A方法。だが自分の腕を動かす=B方法。
バレリーナやパリのスナップ写真、死んだ魚。

CF:西田幾多郎の「純粋経験」とどう違うか?『善の研究』巻頭ページ――認識以前「反省による規定が加わる以前の直接的経験」(岩波哲学)

人生は無意味な原子の海でなく、希望に満ちている、と19歳「よし!生きよう」(TV)。
『時間と自由』原題は「意識の直接所与に関する試論――(新訳)「意識に直接与えられたもの(とは時間や自由のこと)についての試論」――訳文を通して働くアッバに御業。

(新訳「訳者あとがき」によると、このタイトルは、1910年英訳するときにつけられた。しかし、訳者は「ベルクソンと緊密に連絡を取り合いながら訳語を推敲した」らしいから、本人もタイトル納得していたろう、私見。)
「風」76号後半は、科学信仰に抗って「美しいキリスト」にかけたドストエフスキーの話と自分を対比している。
なぜそこまでベルクソンに惚れたか、さらに、考えてみます。

(以下、『西洋哲学史』(有斐閣叢書)第10章より)
(3)「生の哲学」
の系譜に属す――歴史的には、19C末期から20世紀の第一次世界大戦前後、ヘーゲルなど汎論理主義のドイツ観念論=実在を理性・概念のみで把握しようとする=への反発から出た。――Lebensphilophie=人間生命・生活・人生についての哲学。それは、ソクラテス(B.C470-399)の「汝自身を知れ」に繋がる哲学的人間学――自己探求、自己省察など。――(私見)井上はキリスト教に出会う前から、こうした人生論的哲学に惹かれた。青年期の興味関心は「持続」すると思う。

(現象学とともに)特性は、
①反合理主義 ②反啓蒙主義 ③反理性主義 ④反科学主義
したがって、非合理主義・ロマン主義・神秘主義(ベルグソン自身カトリック傾倒へ)さらに、民族主義・歴史主義・文学活動を背景。

但し、理性否定でなく、より根源の生をみつめる。→体験・直観重視――ここですでに井上神学につながる。安易な演繹的理解、普遍的原理に統合しようとする誘惑を排除、個々の民族、個々の生のダイナミズムを重視――井上師の日本人重視に通じる――他民族の神学も大切に。さいたま教区多国籍教会めざす・・・

―――ここまで第4回―――


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故郷では歓迎されない神の人 私の心の故郷を探る  

ルカ4:24-30


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震災後の強風のなか集いたる十人アッバへ心は一つ  

共に祈り、分かち合い、時に涙ぐみ、笑い合う仲間のいる幸せ


category: ○求道詩歌

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第11回四谷講座速報  

震災後で交通機関がまだ不便で、また風が強いなか、10名の方が集って下さり、講座と分かち合いが充実感をもって行われました。


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03/26のツイートまとめ  

yohaku5

本日の四谷講座h、予定通り実施します。お気をつけてお出かけください。http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-1611.html #namuabba
03-26 06:26

本日講座参加の皆様、寒風の中、ありがとうございました。 #namuabba
03-26 20:09



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南無アッバの集い・井上洋治神父の言葉に出会う=毎月開催します!  

「風編集室」では、南無アッバの集い&平田の講座「井上神父の言葉に出会う」を次の日程で行います。
途中から、または1回のみの受講も可能です。
日程:2011年
4月30日(土)、5月28日(土)、6月25日(土)
7月23日(土)、8月27日(土)、9月24日(土)
10月29日(土)、11月26日(土)、12月17日(土)

2012年
1月28日(土)、2月25日(土)、3月24日(土)
時間:13:30~15:00
場所:幼きイエス会(ニコラバレ)104会議室(03-3261-0825 四谷駅麹町口前)地図
講師:平田栄一
受講料:各回1,000円 当日、受付にてお支払いください。
内容:「風」誌連載「井上神父の言葉に出会う」第一部をまとめた下記文庫を補足しながら、井上洋治神父の説く日本人のキリスト信仰について考え、分かち合います。
テキスト:『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫 525円 当日販売もあります。)
問合せ:平田栄一 ℡・fax 048-769-4095 メール
 *事前申し込みがなくても、参加可能です。
山根道公さんの講座はこちらから。


最後の南無アッバミサ(10.10.16)、香部屋にて、井上神父と平田
2010-10inoue-hirata_c.jpg


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講座:井上神父の言葉に出会うノート 第3回 2010-5-22  

井上神学の体験主義・実践主義(2)
導入:この講座の経緯・・・・
講義といっても、「わたしが出会った井上師・・・・」、考えるきっかけ作り+分わかち合い

1.前回まで
 前回は『心』p.10、井上神父の聖書との出会いということから、井上神父の青年時代に経験した
ハンセン病院慰問での聖書体験

ルカ18章によるリヨンでの回心(1953年 26歳)
という、私見までお話ししました。

2.補足
今日はこのことから補足しますと、やはり(私見)なのですが、井上神父が『わが師』(2005年)
「福音書=イエスのまなざしによる回心物語」
という視点を持ったのも、ハンセン病院体験に遠因あるのではないか、
つまり、聖書を介し、
イエスを裏切った弟子の罪とゆるし体験

ハンセン病者から受けた井上の自己嫌悪とゆるし体験――心情的理解・体験的共感「病人」のゆるし
→イエスのまなざしを予感として準備(平田想像)
→井上神学における罪意識の萌芽
・・・・罪については、■「罪」と「ゆるし」の諸相で改めてまとめます。

テキスト『心――』に戻ります。
p12
3.■ヒルティを読む
就職難、三田『幸福論』
『眠られぬ夜』、当時はキリスト教抜きで、
ストア派エピクテトス、マルクス・アウレリウスに惹かれ、
実践的キリスト教「イエスの教えを実行せよ、納得したら信じよ」――実践的、その日に使えると思った。
しかし挫折、強くないとついていけない。-ヒルティの限界:ストア主義的キリスト教
p14
4.■聖書は実践指導書
井上『日本』引用⇒「ものを知る」ということの意味
知識で「~について」知っても、「ほんとうの意味でものを知る」ことにならない。
『日本』第1章「ことばといのち」
井上、言葉へのこだわり――いろいろな所に書いている
先のハンセン病院体験――聖書・イエスとの出会いのすぐ後に、次のように書いています。お読みします。『すべて』お持ちならp55にも引用
「ふつう私たちがものを知るのには、二通りの方法があります。概念、言葉によって知る場合と、体験によって知る場合です。たとえばスキー・・・・   
しかし概念や言葉だけでは、そのものについて知ることはできても、ほんとうの意味で、ものを知るということはできないと思います。」(選書版「日本」p.14 やはり傍点あり。)
「ついて知る」ことVS「を知る」の違い
以下、この章では「ことば」を巡ってあれこれ考察し、最後の方に、さっき『心』に引用した言葉が述べられている。
⇒これについては平田はさきの『すべて』p55で「罪がわかるとはどういうことか、をめぐって論じた。
私「浪花節的キリスト教」の所で引用した。
  └怒られると思ったが、前の「演歌」と同じ
――井上神父は、理性・個を重視する(理性知)西欧近代の危険性と体験重視(体験知)の日本の発想を見直すことを指摘。
もう少し、かいつまんで『日本』第1章追ってみよう。
さっきのスキーの話のあとに、
(p.15)旅-井上にとっての旅=一人自然と触れ合うこと-石ころ一つでも-飛鳥寺の橘寺(奈良県高市たけち郡明日香村、現在天台宗、聖徳太子誕生地と伝う。推古天皇開創606年-1864再興、太子建立-四天王寺・法隆寺・中宮寺など)七寺の一)へ
-(始めての短歌)-飛鳥へどう行くか-実践指導書=ガイドブック-(p17)新約聖書は
①私たちへの問いかけの書物-宿題-遠藤
②どうしたら永遠の生命に至れるかの実践指導書
-しかしガイドブック・理論書・言葉は本当の意味で教えることはできない。
ここで、ベルグソンという哲学者が出てきます。

5.ベルグソンの教え
ゼノンの逆理(パラドクス):8つ伝えられている。『時間と自由』第2章で論破。(岩波文庫、(1889年学位論文、新訳2001年)
エレアのゼノン=BC5Cギリシア自然哲学――自然を解釈・説明する哲学――者。政治活動で死?
主張「実在は感覚や経験を超えた不生不滅不変浮動の一者なり、変化も運動も存在しない」――師パルメニデス(エレア学派の粗)を弁護VS万物流転のヘラクレイトス思想と対立。
パラドクスの特徴:結論は「そんなばかな!」と思うが、論証過程は一見「なるほど」と思う点。
「運動のパラドクス」の一つ
他例:「飛んでいる矢は止まっている」
ある時間、ある場所にある矢は、わずかな時間に区切って見れば、わずかしか動かない。これをどんどん短くすれば、矢は動く時間がない。次の瞬間も同じ理由で留まる。

-アキレスと亀(10m/s 対 1cm/s)図示
←1/100s・・・亀←・・・・・・・・10s・・・・・・・・・アキレス
10秒後、1/100秒後・・・・
ベルクソンは、無限に分割できる空間とちがって分割できない運動を、静止した点の集りと見る間違いを指摘。「実在は常に持続し動いている」(日本p.18)――この「持続」キーワード
-スナップ写真は躍動しているバレリーナの実相を静止的にしかとらえられないp18-静止画像は運動そのものではない。

最近よく、ベルグソンも話す井上、金祝でも。
そこで、少しベルグソンについて、補足。
神父が最近書いたものでは、「風」76号2007年「漂流――「南無アッバ」まで(1)――」で、
「南無アッバの祈りの岸辺に流され着くまでに、アッバが私のために用意しておいてくださっていた、数多くの感謝の思いを捧げたい方々」として、6項目8人を上げている――ベルグソン、テレーズ、グレゴリオ・パラマス、ヨアヒム・エレミアス――その一人。「命の恩人」としてる。


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講座:井上神父の言葉に出会うノート 第2回 2010-3-6  

私が、アッバの集い・講座で使ったノートの要約です。
わかりにくいと思いますが、いろいろな理由で参加できない人たちのために、
講座の雰囲気だけでも感じ取っていただければ幸いです。
そして、いつか、ごいっしょに、集いを共にできることを、お祈りします。


○はじめに
調べてみたら、「井上神学」の語源は私(平田)のようです(笑)
それは、ユニークな神学。10年前のネット社会では異端視されることもあった。
井上神学のめざすところをひとことでいうと、「日本人のためのキリスト教の仕立て直し」――遠藤さんと共通。
この「仕立て直し」は、ジャン・ダイエルー(1905~74)の言葉。
1929~イエズス会、1969~パウロ6世により枢機卿、・第2バチカン公会議で顧問として活躍、『歴史の神秘に関する試論(エッセイ)』(1953、邦訳なしか)など。
井上神父はリヨン修道院からカトリック大学へ通っていた頃、日本人のままキリスト者になれる確信。
ダニエルーの手に入りやすいものは、『キリスト教史1』(上智大学中世思想研究所 平凡社11巻本)
井上師が帰国後に遠藤さんを訪ね(1958年)
-日本人のままでキリスト教を生きよう-遠藤さんは5年前に2.5年の滞仏生活を切り上げ、日本人と西欧キリスト教の距離を描く「アデンまで」「白い人」「黄色い人」など、それまで西欧キリスト教(一神教)VS日本(汎神論)の距離から一歩踏み出す覚悟――踏み石になる決意。
では、テキスト『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)のそって、いきます。
○序にかえて
p5
■最初の宗教体験
今日のテーマ:井上神学「体験主義・実践主義」を中心に見てみたい。
平田のことは(端折る)-神主が身近にいる環境-日本的?大きな仏壇・神棚-祝詞-足しびれ-あくび
見えない神への畏れとなぜか哀しみ-素朴な信仰
エピソード:最近のこと――父の一周忌法事、法外なお布施なのに同じ寺に頼み、文句をいう母の宗教感覚は?畏れ・祟り信仰?-参照:井沢元彦『逆説の日本史』
(身体不調と不安・過去を振り返る・人生の方向性を求めて)
p8
■聖書との出会い
(ギデオン協会聖書・サークル活動から・不器用なM君と聖書)
p10
ハンセン病院体験 10代後半~20歳か
(『日本』第1章ことばといのち)
「人生を完全に変えてしまった聖書・イエスとの出会い」を回想
p11
(M君と「病人」) リヨンでの回心(1953)へ
(聖書への期待と予感)
<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>(ルカ18:9~14)による回心
-いま連載中
⇒回心に導く原体験が「ハンセン病院体験」にあるのではないか(平田推測)
少なくとも一端ある
「風」82号連載p.39(23)
■井上神父の回心体験
――かいつまんで説明、引用部中心に。
■回心への原体験(「風」82号)
さっきの引用の直前にこうある⇒ 読む42頁(『日本』13頁)こわいものにでもさわるような態度しかとれなかった自己嫌悪と患者にゆるされている体験
多感な井上青年の貴重な体験
以上、2010-3-6
以下、2010-5-22



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03/17のツイートまとめ  

yohaku5

節電かセブンの缶コーヒーが生温かった。#jishin
03-17 06:34

うちは点いてる隣の家は消えている計画停電の不思議#jishin
03-17 21:43



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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

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