「南無アッバ」を生きる ホーム »2010年09月
2010年09月の記事一覧

大覚寺体験 p.109-111  

「20年近く前」といいますから、
フランスから日本に帰国した頃の話だと思います。

京都嵯峨野の「大覚寺」で、
大きな宗教体験をします。

それは、
生命への戦慄的感動、
生の繰り返しを眺める自分の生命の不思議さ、
「大きな不思議な力」によって「大きな生命の流れ」が
自分を乗せていく思いだった、
といいます。

人が生まれるということを、
医学的な合理主義では解けない、
宗教的な意味に目覚めた、
ということかもしれません。

大きな生命の流れに身を任す自分。。。

遠藤さんの「深い河」と
美空ひばりの「川の流れのように」を思い出しました。
(井上師は「ひばり」ファンです)


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無と風 107-109  

無を荘子・芭蕉・一遍から「風」をキーワードに理解します。

「荘子」の地籟・天籟のたとえ
-それぞれに特有の音をたてさせる天籟のように、
われらの喜怒哀楽・動物の鳴き声も、
すべて見えない何かによって生命を奏でている。

芭蕉「奥の細道」の冒頭「片雲の風」、
あるいは「風雲の情」「心匠の風雲」などは、
「天籟の風」を意識している。

一遍は「・・・・・居住を風にまかせ」
と記す。

「風」あるいは、「プネウマ」は
ご存知のとおり、井上師の機関誌の名称にも使われている。
神父の中ではいつも意識されているキーワード。

「神の国」理解に「無」がかかせず、
さらにそれは「風」をもって深まる。
注目すべきは、
その例証が、東洋の古典にあるということ。


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神の国は「流れ」「無」による理解 p.104-106   

神に国は吾らを包む「根源の大生命の流れ」であり、
その永遠の生命の流れは、吾らを包み込んで流れ始めている。

この流れに身をゆだねよ、そのとき、真の完成、喜び、愛を
味わうことができる。

これがイエスのメッセージ。

この神の国を理解するには、
「無」を理解するのが有益、と神父は言う。

古言〝火は火を焼かず、水は水を流さず〟
=A即非A(鈴木大拙)

私が私であるのは、私ではない「スッカラカン」による
→対象化できない無
→無我となり、行じ体験するほかない

ここでも、井上師の体験主義的キリスト教が
発想の根底にあることがわかる。


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神の国は実現している p.101-104  

前回に見たように、
自ずから成る神の国は、
さらに、驚くべきことに、
イエスのおいては、完全な形で実現していることが示されます。

それは当時のユダヤ教での2つの「神の国」概念を超えるものでした。

そしてそれは、
イエスの中に充満して、
いわば、
「泉が地上に湧き出るように、梅の花から自然に快い香りがたちのぼるように、
そこから愛が私たちのいのちと生活に匂いでていくのです。」(103)

主役はあくまで、
神の国そのものにあります。


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09/25のツイートまとめ  

yohaku5

あいにくの天気になってしましましたが、四谷の講座http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-1421.htmlは、予定どおり行います。出席くださる方は、風雨にお気をつけて、おいでください。(エルもすいてるでしょう。。。。)
09-25 06:31



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「神の国」を「たとえ」る-『日本とイエスの顔』98-101  

イエスの公的第一声、
神の「バシレイア」が近づいたを解説し、
「神の国」=「天の国」=「生命」=「永遠の生命」に導く。

イエスは「神の国」を定義せず、すべて「たとえ」で語った。

その理由
①吾らがその中に包まれていること→外に立って言葉で概念化できない(第1章参照)
また、わたしたちが寄って立つ根源そのものだから。

②当時の生活実感から説くため
(これは、他のラビも行っていた。)

そして、以下、その具体的たとえとして、
3つの「種」のたとえ、
すなわち「からし種」「パン種」「ひそかに育つ種」に学ぶ。

共通点:神の国は、人間の力でなく、自らの力で成長する根源の力・原事実
→わたしたちに、童心に返って受け入れることをすすめる
=イエスのメッセージ


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09/23のツイートまとめ  

yohaku5

勝手ながら、「井上神父の本を読む」-『日本とイエスの顔』-は、こちらのブログhttp://yohaku5.blog6.fc2.com/に移動して、続けます。よろしくお願いします。コメントもブログの方へ。
09-23 09:12



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「アッバ」なる神 『日本とイエスの顔』92-97  

早いものです。第4章も今日で読了。

ちょっとずつやってるのですが、やはり、読者が具体的にいる、
というのは、ほんとうに励みになります。
皆様、ありがとうございます。

今後とも、
ときどきで結構ですから、
合いの手を入れてください!

さて、きょうは、第4章のしめくくり。

この章は、前章からの続きで、
前半、ちょっと難しいギリシア哲学の話などが出ましたが、
後半は、井上神学のキーワード「アッバ」に集中します。

予断ですが、わたしはかつて、この井上神学を、
「アッバ神学」と名づけましたが、
このネーミングは、神父ご自身も喜んでくださいました。

そして、今日の学び。
二つの代表的な、イエス様が残した<たとえ>で、
「アッバ」なる神を、説明しています。

2つとも、「ルカ」の15章からですが、
井上神学では、そのほかとくに、10章、18章が重要です。


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ツイッターからこちらへ移動  

過去ログhttp://twilog.org/yohaku5から移転してきました。

やはり、ちょっと長い文章、説明には、ブログの方が、使い勝手がいい。

ので、ころころ変わってすいませんが、しばらくは、ここで続けてみます。

コメントも、こちらへ書き込んでください。


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09/22のツイートまとめ  

yohaku5

(昨日の一部訂正)すなわち、「アッバ」は、イエス御自身が使っていたアラム語であり、本来幼児語で、今の日本で言えば、「パパ」「おとうちゃん」に当たる言葉。ユダヤ教の「怒りと罰と裁き」の神に対して、イエスは「アッバ」と呼び掛けたのです。
09-22 06:37

『日本とイエスの顔』86-92 アッバの意味する所を、初めて、まとまった聖書敷衍訳によって、深めています。http://yasuraoka.cocolog-nifty.com/toma/2005/12/post_5031.html こうした反論もありますが、
09-22 17:56

「南無アッバ」は、イエスにとってのアバが同じように私たちにとってもアバなのだということが、イエスが身をもって教えようとした大切な一事(ガラティア4・6、ローマ8・15)であったことを考え併せると、
09-22 17:59

イエスの意に添うのは、「南無イエス・キリスト」ではなく、「南無アッバ」でいいのではないかと、私は思います。
09-22 17:59



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