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(25)『イエスのまなざし』における<「ファリサイ派と徴税人」のたとえ>-2010年春「風」第84号  

大地のように私たちを包むもの

次に、一九八一年に出版された『イエスのまなざし』を見てみましょう。この本は、前出『日本とイエスの顔』、『私の中のキリスト』あるいは『余白の旅』といった書き下ろしとはちがい、井上神父がさまざまな機会に発表してきた論文や短文をまとめた、初のエッセイ集です。一九六三年から一九七九年まで、十七年間に書かれたものを二部構成にして、それぞれ六本ずつ時代順にまとめられています。したがって、年代的には前諸著作より遡るものがほとんどです。件の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>(以下、単に<たとえ>とも)については、二箇所で言及しています。

まず、第二部の三番目におさめられたエッセイ「大地のように私たちを包むもの」(『世紀』一九六八年一一月初出)には、次のように書かれています。

<またイエスさまの<パリサイ人と取税人>のたとえ話を思いだしてみましょう(ルカの福音書一八章一〇~一四節)。ゆすりもしないし、姦淫もしないし、二度断食し、よく神殿の維持費をおさめているパリサイ人が、この取税人のようでないことを感謝しますといって神殿でお祈りしたのにたいし、取税人のほうは、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」といってお祈りをしたのです。そしてイエスさまは、この取税人のほうをみこころにかなう者だとおっしゃいました。

イエスさまが一番のぞまれたことは、私たちが心から素直に、天の御父の御前に頭を下げる姿勢だったように思われます。>(一七四頁、以下同書からの引用は頁のみ記載)

ここには、「頭を下げる」ことこそが、イエスが第一とした姿勢であることが明言されており、最初に見た『日本とイエスの顔』の聖書敷衍訳部分と同じ主張がなされていると考えられます(「風」第八一号三七頁)。すなわちそれは、自らを「ひかえる」ケノーシス・タペイノース的姿勢の奨励です。この直後に、『ヨハネによる福音書』八章のペリコーペ<姦通の女>での言葉で、「他人をさばく」ことが、「頭をさげる」姿勢と真っ向から対立することを強調しているのも、前掲書と同様です。

ただここでは、右に述べたように、この神学的エッセイ「大地のように私たちを包むもの」が、前作までのような書き下ろし単行本の一章ではなく、もともと独立した文章としてカトリック雑誌に掲載されたものである、という点に注目したいと思います。たとえこれが、一四ページ程の短いエッセイではあっても、否、それだからこそ長い文章とは違った意味で、神父の主張が凝縮されていると思われるからです。このなかで、井上神父が何を言おうとしているのか、その文脈のなかで、<たとえ>がどのような位置にあるかを、探ってみましょう。これまで見てきた諸著作における、<たとえ>の占める位置とは違うものが見えてくるかもしれません。

先に述べたように、このエッセイが書かれたのが一九六八年ということであれば、井上神父の最初の著書『日本とイエスの顔』出版から遡ること八年前、ということになります。とすれば、おそらく、当該<たとえ>に言及した文章して、まとまった形で残っている最古のものとなるわけで、その意味でも興味深いものがあります。

そしてもう一点、拙稿を第一部からお読みくださっている方はお気づきかもしれませんが、六八年といえば、神父の『キリスト教から見た死の意味』という小論が書かれた年でもあるのです(拙著『心の琴線に触れるイエス』六七頁以下参照)。このなかで神父は、「死は人生の完成の時」である、という希望に満ちた論考を展開しています。しかし同時に、拙著でも指摘したように、この時期(一九六六~七〇年)は、日野の豊田教会に主任司祭として赴任し、さまざまな現実的問題に直面して苦労していたときでもあります。具体的に、日本人キリスト者・求道者を目の前に、共に考え、共に生きなければならない、という立場にあったのです。わたしは、そのときの心情が『キリスト教から見た死の意味』と同様、この時期に書いたエッセイ「大地のように私たちを包むもの」にも、微妙ににじみ出ているのではないかと思うのです。

日本人の神様

このエッセイは四つに分かれ、それぞれには次のような小見出しが付されています。

日本人の神様
大地いじょうのかた
十字架
東と西を越えるもの

分量的には各々一~三頁程ですが、二番目の「大地いじょうのかた」だけは七頁に及んでおり、<たとえ>はこのなかで言及されています。

まず「日本人の神様」で、「ある学生」が井上神父に言った言葉からこのエッセイが起こされます。その要旨は、〝宗教は死ぬときに考えるものであって、それまでは精一杯生きればいい。宗教が掟や約束で人間を縛るのは悪だ〟というものです。

しかし神父は、この「身勝手な考え方」によって、「日本人のものの考え方」や「感じ方」にふれた気がする、といいます。

<キリストをじっと見つめることをやめずに、しかも私のもつ日本人の感覚を大切にして生きぬいてみること――これが私の残りの人生に課せられた課題だと思っているのです。>(一六八頁)

直後このように述べ、一般的な日本人が持っているふつうの感覚を大切にしながら、二つのJ――日本人とキリスト教を生きようという決意を表明しています。このあたりに、さきに述べた状況にある井上神父の心情が、垣間見えるように思います。

そして、堀辰雄の「大和路信濃路」の一節や「自然はいつもやさしく私をつつんでくれます」といった学生の言葉に共感しながら、最初の項をまとめます。

<私にとっても、神さまというのは人間のように自分の前に立ちはだかり自分を問いつめてくるものではなく、自ら神さまの地位にとってかわろうとしないかぎり、どこまでも私を暖かくつつみこんでくださるかたなのです。大地のように大きく、暖かく、すべてをつつみこんでくださるかたなのです。・・・・そして、苦しめられても傷つけられても、神さまの地位にとってかわろうとしないかぎり、最後には暖かく私たちをつつんでくださるその神さまの愛の光のうちに素直に頭を下げること――そこに・・・・深い喜びと生き甲斐が生まれてくるのだと思います>(一六九~一七〇頁)

ここには、神はわたしたちに寄り添い、大地のように大きく包みこんでくださっているのだ、という日本人的とも東洋的ともいうべき、即自然的神観がはっきりと示されています。そして右傍線部分に注意してみると、こうした暖かな神の対極にあるものとして「自分の前に立ちはだかり自分を問いつめてくる」ような人間が措定され、また神の愛に包まれる条件として、「自ら神さまの地位にとってかわろうとしないかぎり」ということが繰り返し述べられていることに気がつきます。

他者の前に「立ちはだかり、問い詰めてくる」人間、「神の地位にとってかわり」他者をさばく――これこそイエスが最も嫌った、唯一の罪、エゴイズムといってよいでしょう――それは、あたかも「徴税人」を尻目に、神殿の前の方で祈りをささげていた、あの「ファリサイ派の人」の姿ではないでしょうか。それに対して、神の悲愛の光のうちに、「素直に頭を下げる」人間とは、あの「徴税人」を髣髴とさせるのです。

このように「日本人の神様」は、日本的感性になじむ神観を展開しながら、次項で言及する<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を先取りした形でまとめられていることがわかります。

大地いじょうのかた

前項を受けて本論となるのが、最も頁を割いている「大地いじょうのかた」です。

ここに特徴的と思われるのは、「傷つける」「傷つけられる」といったように、「傷」という言葉を多用していることです。拙稿第二二回の結びで、井上神父が『日本とイエスの顔』のなかで、『ルカによる福音書』一八章の当該<たとえ>を脚注引用しながら記述している箇所について、わたしは次のように述べました。すなわち、「他人を審くことに心の痛みを覚えぬ程に傷つき汚れている」という、労いともとれる物言いに、罪人――新約聖書中であれ、わたしたちに対してであれ――に向けられた神父のまなざしは、静かなやさしさに満ちており、そのまなざしは、イエスのそれを彷彿とさせるものである、と。本項の「傷」はこの「傷」に結びつくものと思われます。

ですから、ここではこの言葉を手掛かりに、<たとえ>に至る神父の考えをたどってみたいと思います。

まず、神は「私たちの前にあるものではない」――対象化して理性によって把握できるものではなく、むしろ「後ろから下からすっぽり私をつつんでくださるかた」であることを確認します。このあたりには、西欧的な個と個の対立を前提とした神学ではなく、いわるゆ「場の神学」が提唱されていると思われます。それが「自然のふところ」といったかたちで結びつく点に、井上神父の汎在神論の特徴を見ることができます。

ところが、その「自然は私たちを傷つけることはなく」また「私たちに傷つけられることもない」。したがって、自然は「一時的に私たちの心をいやしてくれ」「甘えの感情を満足させてくれ」ても、「大地のような心にまで近づけ高めてくれることはない」といいます。神父はここに、「自然」そのものの、わたしたちに対する限界を見ているのです。

これに対して「人間」は、互いに「傷つけ」たり「傷つけられ」たりもするが、「いやし」「いやされる」関係でもある――心の交流によって、「私たちを高め」あるいは「ひき下げる」ものだといいます。つまり、「傷」と「いやし」という視点に立つと、自然と人間は互いに一方的であるのに対し、人間同士は双方向的であるということです。

そしてこれら「自然」「人間」との比較において、三番目に「神さま」について言及します。

<神さまとは、私たちによって傷つけられつつ、しかもなお、どこまでも頭を下げる私たちを暖かくつつみこんでくださるかたであり、かわることのない平和と喜びの大地のような心にまで、傷つけられることによって、やがては私たちを高めてくださるかたなのです。>(一七二頁)

これらを整理してみます。

①自然と人間・・・・一時的「いやし」をもたらしてくれても、「傷つけ」「傷つけられる」関係にはない。――人間を高めることはない。

②人間と人間・・・・「いやし」「いやされ」また「傷つけ」「傷つけられる」関係。――人間を高めもひき下げもする。

③神と人間・・・・神はわたしたちに「傷つけられつつ、しかもなおどこまでも」「あたたかくつつみこんでくださる」――御自身傷つけられることによって人間を高めてくれる。

この三者の関係については、最後の章「東と西を越えるもの」でもとりあげられます。すなわち、①「人間――自然」は「甘えと陶酔の関係」であり、その「延長線上に人間――神という関係をとらえたのが、美と情を中心とする日本の精神風土の伝統である」。また、②「人間――人間」は「恐怖と対立の関係」であり、その「延長線上に人間――神という関係をとらえたのが、知性と分析を中心とする西欧の精神風土の伝統であった」。

そしてこの二つのとらえ方に対応する神のイメージを、次のように具体的に示します。

①「悪いことをしたって何をしたってかまわない。隣人を傷つけてもいい、なんでもそのままゆるしてあげる」というかた。

②「いくらあやまったって、行ないがなおらなければ決してゆるしはしないぞ」というかた。

これは、信仰か行いかという、古くからいわれている問題を想起させるものですが、神父はそのどちらも「おかしい」といい、結論として、次のようにまとめます。

③<この両方ともに一面的であって、真の人と神さまの関係はもっと動的なものであり、人間――人間の関係のようなものとして初めは出発しながら、人間が自己の汚濁の深さを自覚し、それを神さまの前に投げだすことによって、それによってのみ、最後に、人間――自然のような、しかし、もはや甘えという言葉によってあらわすには不十分な関係に高められていくものなのです。>(一八〇頁)

真の「人間――神」の関係は、「人間――人間」のような関係から出発し、単に甘えとはいえない「人間――自然」の関係へと高められる、すなわち、①、②の関係が昇華されて③の関係へと変化する、そのように「動的」――ダイナミックなものだといいます。

ここで注目すべきことは、そのように「高められる」――昇華される契機となるのが、右傍線「自己の汚濁の深さを自覚し、それを神さまの前に投げだすこと」だといっている点です。この点を神父は「それによってのみ」と強調し、次のように、このエッセイの結語においても繰り返しています。

<愛とは、小我の殻を突き破って、相手と生存をわけあうことです。そして小我の殻を突き破るためには、私たちは私たちをその殻のなかにとじこめている、どろどろとこびりついた汚濁を自覚し、それを素直に神さまの前に投げださなければならないのです。>(同)

自己の汚れを自覚すること、そして、それを神の前に投げ出すこと、この二点が、小我の殻を破って、相手と共生する「(悲)愛」の関係に不可欠だという結語をもって、このエッセイは終わります。

<アッバ、利己主義に汚れているわたしたちの心を、あなたの悲愛の息吹きで洗い清めてください。>

他所でもすでに紹介しましたが、「汚れの自覚」と聞いたとき、毎月の南無アッバミサにおいでくださっている方は、「風の家の祈り」の、この祈り出しをすぐ思い浮かべることでしょう。利己主義、エゴイズム、すなわち罪の自覚ということも、またそれが「悲愛の息吹で洗い清め」られるために、「素直に神の前に投げ出す」ことも、やはりケノーシス・タペイノース的姿勢があってはじめて可能となります。

ここでも、前項「日本人の神様」で先取りして述べられていたように、「神さまにあたたかくつつみこんで」いただくためには、「どこまでも頭を下げる」という、ケノーシス・タペイノースに連なる、あの「徴税人」の謙虚な姿勢が大切であるということが、繰り返されるのです。
 
罪の自覚と十字架

ところが、言うほど簡単に謙虚な姿勢をとれないのがわたしたちの現実です。どうすればわたしたちは、このように「素直」な姿勢に少しでも近づけるのでしょうか。この点について井上神父は、エッセイの中でわたしたちに大きなヒントを与えてくれます。「大地いじょうのかた」に戻って見てみましょう。

<どこまでも、どこまでも、私たちをつつみこんでくださる神さまが天の御父であり、私たちによって傷つけられておられる神さまが、十字架の御子イエスさまの御姿なのではないでしょうか。>(一七二頁)

神父は、自然相手のように一方通行でもなく、人間同士のようにお互い様の関係でもない、神はわたしたちに傷つけられつつ、なおわたしたちを暖かく包みこみ、やがて高めて下さる。その神の姿こそ、十字架のイエスの姿だといいます。エッセイ中、ここではじめて「十字架」に言及します。そしてこのあと「十字架」という一項目も置いています。

ここで再び、『フィリピの信徒への手紙』二章の「キリスト賛歌」を思い出してみましょう。イエスのケノーシス的姿勢はその十字架をもって最高潮に達したのでした。そしてそれは、わたしたちの救いの根拠となるイエスの「人性と神性を結び合わせ、統合する要」でもありました(拙著『すべてはアッバの御手に』一六九頁以下参照)。

エッセイではこの十字架の「御姿」に気づくために、

<・・・・人は何等かのかたちで、つねに他人を傷つけ、苦しめながら生きているのだという厳粛な事実に私たちは、思いをはせるべきだと思うのです。

そこに初めて、十字架上のイエスさまの御姿が私たちの前にあらわれてくるのです。>(一七三頁)

と述べています。

すなわち、日常のなかで「あまりにも身近な大事なことを忘れがち」なわたしたちが、いま、思い起こさなければならないものは、「つねに他人を傷つけている」自分の姿であり、その「傷つけ」「苦しめ」ている「厳粛な事実」が、イエスの十字架に結び合わされていく契機になる、と説いているのです。

この直後井上神父は、マタイによる福音書九章一三節、

<わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです>

という、イエスの言葉をあげるとともに、ここで初めて<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>に言及し、

<イエスさまが一番のぞまれたことは、私たちが心から素直に、天の御父の御前に頭を下げる姿勢だった>(一七四頁)

と述べます。そしてさらに、『ヨハネによる福音書』八章の<姦淫の女>や『ローマの信徒への手紙』二章の言葉を引用し、人をさばくことがイエスの愛から遠いことにも触れます。

<どんなに正しいことをおこなっていると自分で思った時でさえ、私の中には、どろどろとした汚い身勝手な世界がこびりついているのであり、またそれによって傷つけられている人々がいるのだということ、多くの場合それさえ気づかずに自らのみを正しいと思いこんでいるということ――このことを身にしみて私に教えてくださったことに、最近私はしみじみと十字架のイエスさまの私への愛を痛感しているのです。>(一七五頁)

「それと気づかない」罪の無意識性、また「身勝手な」罪の他者性ということについてはすでに述べました(第二十二回)。さきほどは、こうした事態によって、わたしたちが他人を傷つけ、苦しめながら生きている事実に「思いをはせる」とき、「そこに初めて」十字架上のイエスの姿が現前すると述べられました。しかしここでは逆に、罪の無意識性や他者性によって他者を傷つけていることを「私に教えてくださった」のが、とりもなおさず「十字架のイエスさまの私への愛」なのだといっているのです。

他者を傷つけていることが「厳粛な事実」であり、そこに「思いをはせるべき」ではあるのですが、わたしたちは――それこそ罪の無意識性・他者性のゆえに、自分の力で十分に思いをはせることができないのです。かえって、わたしたちがイエスの「十字架の死」を思いめぐらすことによって、罪の深さを知るということ。

<たとえ>はこの罪の自覚と十字架の関係をちょうど逆転させる位置におかれ、その役割を果していると思われるのです。逆も真なり。現実には、人を傷つけていることへの思い=罪の自覚→十字架、十字架→罪の自覚、この双方向の繰り返しによって、わたしたちは次第に、

<人を傷つけながら生きているということは、とりもなおさずイエスさまの御心を傷つけながら生きているということ>(同)

にほかならないということを知るようになるのではないでしょうか。そして、

<そこにはじめて、深々と頭をさげる信仰の姿勢が生まれてくるのでしょう>(同)

(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

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求道詩歌の歴史をたどる  

http://abba.seesaa.net/
「余白の風」1990年 創刊号~


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 求道詩歌

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第176号 2010年8月発行  

井上洋治神父の提唱する、日本人のキリスト信仰を生きるために

井上洋治神父のうた

――救急車のさいれん――

右に左にそそり立つ/高層ビルのコンクリートの壁/そのコンクリート砂漠の大都会の真中にある/猫のひたいほどの/小さな 小さな緑の空地/それでも/この小さな空地で/風とたわむれている いちょうのけやき//重い、だるいからだをかかえて/ぼくは 今朝も/アッバのおはからいに感謝しながら/いっときの静けさをあじわっていた//と/全く突然に/まさにつんざくような/救急車のサイレンがきこえてきた/あっというまに/現実にひきもどされたぼくは/我が身を振り返り/思わず アッバに/感謝の祈りを捧げた/でも そのあと/ふっと気づいて/車中の人に思いをはせ//あわてて/ぼくは つけくわえた/「アッバ 車中の人もよろしくお願いしますね」//窓外の空地の木々たちも/何だか笑いながら/一緒に/〝南無アッバ〟と、となえてくれているみたいだった/アッバ 南無アッバ  

二〇〇九年二月のある朝

*「風」84号巻頭詩。井上神父の詩に〝無技巧の技巧〟とでもいうべき魅力を感じるのは、私だけであろうか。「コンクリート砂漠」のなかの、風や草木、自分、隣人をストレートに歌って何の技巧もない。だが、人工物の中で「風とたわむれる」自然、その脇で生身の「だるいからだをかかえた」自分、それを「アッバのおはからい」と「感謝」する、という、汎在神論的信仰の具体が示されている。

しかし間髪いれず「救急車」で運ばれる「車中の人」へのとりなしの祈りを忘れない――「共に」という悲愛の具体がある。そこに無理や背伸びや理屈はない。どこまでも正直でストレート。そして結句は、そうした自分や隣人を、「笑いながら」包み込んで、「一緒に〝南無アッバ〟と、となえてくれる」「空地の木々」に視点が戻る、そこにキリストをみるように。


会員作品とエッセイ(*主宰寸感)

稲城市  石川れい子

父は生誕一〇〇余年

 南無南無アッバ 南無アッバ
 能登の農家の次男坊、中学合格叱られて、勘当されて他家の子に。昼間手伝い、夜は夜具の、中で勉学夢捨てず、お国のためと憧れの海軍士官へまっしぐら。首席で通し卒業に、恩賜の短剣賜はれり。
 国敗れて山河あり。戦後は公職追放で、物物交換、畑づくり、南瓜と芋で食いつなぎ、やうやく造船技師として、ドックで働く二十年。老ひても勉学怠らず、特許庁の翻訳を、続ける父の背中かな。
 神の計画愛深く、息子娘をミッションの学校に入れしが信仰の、恵みいただく縁となる。月日は流れ、病得て、神の学びを病院で、遂に受洗のお恵みを、還暦の頃賜はれり。
 八十歳でこれまでの、自分史まとめ遺言書献体手続済ませ後、八十七歳で帰天せり。

献体の父見送りて茄子の花

炎天下被爆の聖母マリア像

*人の一生の不思議、人の死が残すもの・・・・アッバのなさる御業は計り知れない。


文京区  大木孝子

風の家まで風に押されて薄紅葉

花ひひらぎほんとはさびし神様も

磔刑の御身やはらにかげろへり

*第四句集『蟲狩』より。第一句には「井上洋治神父様」と前書き。各句のなかにはっとさせる発見がある。


名古屋市  片岡惇子

神の内芙蓉咲きては散り行きぬ

伝え切れぬ寂しさありて西瓜割る

蜘蛛の網に何か残して落ちて行く

*「伝え切れぬ」「何か」はきっとアッバ「神の内」にあり、何でもご存知です。信頼しましょう。


大和市  佐藤悦子

天青くヒマワリの花咲く如し娘の霊名はフランシスカなり

オオカミも小鳥もそばにやってくるフランシスコの太陽の讃歌(うた)

以前、日本で一番人気がある聖人は、アッシジのフランシスコと聞いたことがあります。日本人の自然観や心情とフランシスコの霊性は、通い合うものが多いのでしょうか。そこで久し振りに『古都アッシジの聖フランシスコ』(講談社)の写真集を開いてみました。

「小さき貧者である吟遊詩人 フランシスコにとって聖書の言葉は、そのままの実感でした。自然を自分の見方で詩にしましたから、素朴な人々に影響を与えました。後世のアッシジの信心詣りは、そこへ行って自然を賛美するということでもありました」(文・小川国夫)

*私事ですが、わたしの霊名もアッシジのフランシスコ。ちなみに妻はクララ。


豊田市  佐藤淡丘

語るかに空蝉の背割れてゐし

木下闇ころがり出づるものはなし

神ぞ知るたった一羽の帰燕かな

「そもそも日常は報われぬことの繰り返し」だと、その昔先輩から教えられたことを、ふと想い出しました。早朝の丘での祈り。日々施設での掃除夫としての祈り。はたまた、家庭祭壇での祈り。これらが何らかの成果を求めての祈りだったらどうでしょう。きっと不満しか生じないことでしょう。

交換取引でない祈り、即ち、恵みは恵まれる方が恵みたいときに与えて下さる。ただ、それだけのことと思うように、やっとなりました。今日も消夏法の一つ、「南無アッバ」を三回唱えました。

*「報い」ということのレベルや範囲を、小さな自我をこえて、アッバにお任せしたいものです。


京都市  瀧野悦子

白日傘クルクル六十路南無アッバ

TシャツにLOVEの一文字南無アッバ

ころころと笑ふシスター南無アッバ

お仲間に入れていただけうれしく存じます。気負いなく素直な句詩歌・・・・皆様から祈りの優しい風をもらいました。とにかく出句を。いゃーのびく作句出来て楽しいです。いつもなら推敲を重ね、主宰の言われている点に注意して、類句に気をつけアレコレ・・・・なのですが。神様との語らいを句に出来るなんて楽しいです。

*アッバのふところで「のびく作句」この姿勢も求道詩歌の特徴ですね。


立川市  新堀邦司

飛梅も葉陰に青き実を結び  大宰府天満宮

幾千の絵馬を鳴らして青嵐

玄海の幸を肴や冷し酒

*「日矢」8月号より。同誌連載、氏の「人物歳時記」が楽しみ。御祖父・愛月様の<老梅は支へ柱にもたれ咲く>が心に沁みる。


一宮市  西川珪子

漆黒の闇にほたるの乱舞して

戦争は嫌です清流蛍川

魂鎮まる長篠の原ほたる飛ぶ

仏法僧で有名な鳳来寺山近くの湯谷温泉に行きました。近くには長篠の合戦跡があり、夜は蛍狩りならぬ蛍乱舞を心ゆくまで楽しみ遠き日の情景が蘇ってきました。

*学生時代ひとりで、リュック担いで南木曾から鳳来寺山まで、自然歩道を歩いたことを思い出します。


秦野市  長谷川末子

レンちゃん

二年になって背が伸びた/妹、弟やんちゃです/子育て母さん忙しい/時々大声聞こえます/日本生れの子供達/親の会話はベトナム語/学校好きのレンちゃんは/国語算数よく出きて/スポーツ給食共に好き/いつも身ぎれい髪束ね/一人一人が個性的/素早い行動目は澄んで/ふと恥しい私です。

 丹沢の山を毎日眺めています。日毎に変る姿に神の御技を感じます。

*結句に思いがこもる。日本人が忘れたもの。学ぶべきが日常に溢れている。


蓮田市  平田栄一

何処にか大安心があるような夜がうきうきと更けにけるかも

ベルクソンの「持続」を思う夕間暮れ妻の作りし酢豚が匂う


高校倫理「キリスト教」授業録6-平田栄一

こうしたことをふまえて、以下、ぼくがこの話を、ちょっと大胆に意訳・敷衍(ふえん)(意味・趣旨などをことばを付け加えて、くわしく説明すること)して現代的にアレンジしてみます。
 もとの『マルコによる福音書』(10章17~31節)の話と比べながら読んでみてください。
                *
 ある金持ちの青年がイエスのもとに来て、真剣な面持ちで尋ねました。
 ――先生、どうか教えてください。ほんとうに人間らしく、生き生きと生きていくにはどうしたらいいのでしょう。
 イエスは答えました。
 ――きみはすべきことを知っているじゃないか。

 青年はいぶかしげに言いました。
 ――先生、わたしは世間の常識をわきまえ、親の言いつけもすべて守ってきたつもりです。学問を怠らず、目上の人たちにも礼をつくしてきました。しかしなぜか・・・・これでいいのだろうか、これがほんとうの自分の生き方なのだろうか?と、ふと不安に思うことがあるのです。心からの安心感がないのです。

 イエスはそんな彼をじっと見つめ、心から同情し、そして言いました。
 ――きみの気持ちはわたしによくわかる。君は誠実で勤勉だし、心もやさしい。でもきみには一つだけ欠けていることがありはしないだろうか?

 ――えっ! どんなことですか? いままでのわたしにどんな落ち度があるというのでしょう? どこかまちがいがあるのでしょうか?

――これから家にすぐ帰って、きみが親から受け継いでずっと大切にしてきた持ち物を全部売り払って、そのお金を貧しい人たちに分けてしまいなさい。そのとき、きみはほんとうに自由になるだろう。わたしについてくるとはそういうことなんだよ。(つづく)


後 記:余白

*会員の皆様、暑中お見舞い申し上げます。

*井上神父様その他の方から、前号についてコメントを頂きました。「うれしく、楽しく読ませて頂きました」、「いい句が多くなったね」といったお言葉です。会員が多くなってやむなく選句させていただいているところですが、こうした評判は励みになります。

*お願いがあります。私信との区別、また誤植防止のためにも、できるだけ投稿部分については原稿用紙をご使用ください。
  

*本誌は、井上洋治神父の提唱する日本人のキリスト信仰を生きるため、詩歌を中心として、共に道を求め、祈り合うための会誌です。
*初心の方はもちろん、どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)
*締切=毎月末 *年会費二千円(半年千円 誌代送料共)
*入会案内 余白メールへ。
*ご意見ご感想をお寄せ下さい。
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