「南無アッバ」を生きる ホーム »2010年03月
2010年03月の記事一覧

03/26のツイートまとめ  

yohaku5

カトリック新聞届きました! #namuabba
03-26 05:48



category: 『日本とイエスの顔』

tb: 0   cm: 0

03/21のツイートまとめ  

yohaku5

車はどうだろう?
03-21 05:35

私もこれから、車で出かけます。。。。大丈夫かな?
03-21 05:54

だめなら、戻ってきます<危険<あおられる
03-21 05:54



category: 『日本とイエスの顔』

tb: 0   cm: 0

03/20のツイートまとめ  

yohaku5

I have Just returned from a church.
03-20 08:31

But a mass has not held early this morning.
03-20 08:32

I was so disapointed that I read the Scripture alone.
03-20 08:34



category: 『日本とイエスの顔』

tb: 0   cm: 0

03/15のツイートまとめ  

yohaku5

よしm飯だ
03-15 11:47

ああ、それは何となく憶えてる。それが10月だったか。しかし、老いたる友への手紙そのものが、遺言として聞いてくれ、ってことだったのかな? #namuabba
03-15 11:54



category: 『日本とイエスの顔』

tb: 0   cm: 0

03/14のツイートまとめ  

yohaku5

メモでも結構ですので #namuabba
03-14 18:48

え?10月が「老いたる友への手紙」なの? #namuabba
03-14 20:56

問題は、10月なんだ #namuabba
03-14 20:57



category: 『日本とイエスの顔』

tb: 0   cm: 0

03/13のツイートまとめ  

yohaku5

どうざんしょ #namuabba
03-13 21:46

ひさしぶりの #namuabba
03-13 21:47

おうとうねがいます。CQCQ #namuabba
03-13 21:47

今日の南無アッバミサは、いかがでしたか? #namuabba
03-13 21:49

ずうと、でていなかったツイッターですので #namuabba
03-13 21:50

とりあえず、いろいろしゃべってみる #namuabba
03-13 21:50



category: 『日本とイエスの顔』

tb: 0   cm: 0

第171号 2010年3月発行  

*本誌は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、詩歌を中心として、共に道を求め、祈り合うための会誌です。


井上洋治神父のうた

朝食のあとかたづけ
 お皿こわして南無アッバ

洗濯日和
 からすも一緒に南無アッバ


*前号に引き続き『アッバ讃美』から。カトリック司祭が独身だということを、日本では知らない人も多い。動けるうちは身の周りの一切を自分でこなす。傍目にも大変な仕事。掲句、そうした一人住まいの情景を素直にうたう。前句、なぜか現代版「古池や・・・」を連想させる。後句、「洗濯日和」の明るさと「からす」のコントラストのユーモア。


作品とエッセイ(*主宰句評)

名古屋市  片岡惇子
灰うけて泥道走る梅咲きぬ
梅一輪落ちるを受けて重さかな
紅椿受容の姿七分咲き
鳥帰る放蕩息子の帰りみち
青き踏む唯一の道はまだ遠き
春の月十字架の道暗くして


*毎年、四旬節には回心・悔い改めということが強調されますが、それは「放蕩息子」を手放しで迎えるアッバの御心への信頼――「南無アッバ」があってのこと。そこを忘れると福音(よき知らせ)の本質を忘れた自己嫌悪に陥ってしまう。


豊田市  佐藤淡丘
踏青やイエスの服に触れしごと
ちりちりと風にちりちり犬ふぐり
末黒野(すぐろの)に小さなエンピツ立ててみる
目を瞑り手の平で受く春の雪
万物の影ゆらぎゐて水温む


春風に促されて年毎に聖地エルサレムに、巡礼してみたい欲望にかられます。この年齢で未だ一度も訪れたことがないと言うと、多少奇異な目で見られ、われながら切ない思いをすることがあります。

そんなとき、マザー・テレサの次のような文章に出会いました。「遠いところにイエス様を探すのはおやめなさい。」「イエス様は、そこにはおられません。」「イエス様は、あなたのそばにあなたと共におられるのです。」これぞ小さな私のために下さった、慰みにも似た応援歌でした。これからも胸の中におられる、イエス様を大事に、だいじに生きることにしました。

*エルサレムに行ければそれも幸いでしょうが、そうでなくてもこの国の「青き踏む」とき「イエスの服に触れる」ことだってできる。引用されたマザーの言葉からそんなことを思わされました。


立川市  新堀邦司
祝婚の日の決まりけり千代の春
初暦まづ祝婚の日を記す
花婿となる日の近し屠蘇祝ふ
三日はやわが煩悩の目覚めたり
菜をきざむ音かろやかに七日かな


*「花婿」ご子息でしょうか。おめでとうございます。春から縁起がいい、のひと言ですね。それでも「三日」には「煩悩」が出るのが、わたしたちの現実。キリスト者である氏が「煩悩」と言い切った所が妙。しかし女性はこの現実を軽やかに乗り切る、五句目。


一宮市  西川珪子
夥しき雀飛立つ冬田かな
皆老いて話のはずむ干大根
魂の淋しき極み風花よ
美学とは山茶花雪に抱かれし
ラザロ村マリアの抱く病人(ひと)の雪
鎧のごときコルセット外す春隣り


私どもの教会は、六五歳以上の有志の方で「小さき者の会」と云う会があり、毎月一回ミサの後に集まり聖書研究等を行っています(現在は一五名位)。今はアルフォンス・デーケン先生の「よく生き・よく笑い・よき死と出会う」の本をもとに、話し合いを行っています。死にはそれぞれの型があり、先生は三つに分けて書いておられました。

 よき死を迎えるための準備をしっかりしなければ・・・・とこの頃、特に考えるようになって来ました。
<祈り>よき死と出会えますように、南無アッバ!

*一句目、「夥しき雀」の一羽として、天の国へ「飛立つ」ときが誰にでも、必ず訪れるのですね。頭でわかっているのと実際に死という未知の体験に直面するのとはあまりにも違う――死の準備、こちら(蓮田)でも3/13デーケン神父様の講演があり、妻が申し込んでいました。


秦野市  長谷川末子
委ねきり眠りに入るや冬の夜
「ありがとう」笑み一杯の黄水仙
沈丁の姿は見えずかほりくる
早咲きの桜小さく白々と
青帽の園児の集ひいぬふぐり


平安の時
二人住いの老夫婦/別れはやがて訪れる/今日一日の大事さを/口には出さず分かってる//寝る前交す「おやすみ」の/言葉で仕合せ感じます/神様今日も憐みを給わりました/感謝です

*感謝は最高の祈り。なぜなら感謝するとき人は神に否応無く心を開いているから。それだけに素直に感謝できることはそう多くない。末子さんの「ありがとう」「感謝」はお恵みであり、才能かもしれない。


蓮田市  平田栄一
「御言葉は実現した」と主は言えりステンドグラスに差し来る朝日  ルカ4・14~22

御心にすがりて病癒されし人の行く末いかにありなん  ルカ5・12~16

民衆の列に連なるあの方こそ人の子なりや水に洗われ  ルカ3・15~22

福音は「正しい人」で改頁「ではなく君を招く」と続く  マルコ2・13~17

ガリラヤのカナに始まる主の御業いくたり聞きし吾もきょう聞く  ヨハネ2・1~11



文京区  大木孝子
わが影のしばし犯せり冬牡丹
懐疑派の手にもあもあと蒲穂絮
大寒や皇帝ダリアうなだれて
吹き降りを待つきさらぎの筑波石
しらほねのごとき十字架海は春


*読み手として、四旬節を意識しながら「野守」39号から選ばせていただきました。「わが影」の罪の自覚から「吹き降り」に洗われ、やがて「しらほねのごとき十字架」を仰ぐ主人公の姿が、鮮やかな色彩とともに髣髴としてきます。


「山上の説教」をどう読むか:余白
去る3月6日、四谷で講座「井上神父の言葉に出会う」の第二回目を行いました。その折、ある方から「裁き」ということについて質問がありました。

典礼暦はいま受難節真っただ中で、教会では「悔い改め」「回心」が強調されています。「風」連載にも書きましたが、とくに日本人がキリスト教に入りにくい大きな原因に、倫理、あるいは道徳の強調ということがあると思います。わたし自身もそうでしたから。

そこで、キリスト教倫理の問題を考えるのに、大きなヒントとなるであろう、エレミアス著『新約聖書の中心的使信』(新教出版社一〇三〇円)からまとめます。

キリスト者ならだれでも知っている有名な「山上の説教(垂訓)」。これに一度もつまずいたことがないという人はおそらくいないのではないか。「人々の弱さ、欠点、罪を裁くことなく、まずこれらを受け入れられた御子イエス」(風の家の祈り)が、なぜあんな厳しいことをおっしゃったのか、エレミアスは、よく知られている三つの答えを上げる。

①「完全主義的解釈」――「あなたが祝福を受けるために、これらすべてを行わなければならない」
②「実行不可能説」――「これらすべてをあなたは本当は行わなければならないのだ。みなさい。あなたは何とあわれなことか」
③「中間倫理的理解」――「今こそ気をつけなさい。最後の勝利は近づいている」

エレミアスは、右の三つを慎重に否定しながら、次のようにいう。実はイエスの言葉には、それぞれ「あるものが先立っている」(101頁、傍点原文)のだと。たとえば、「あなたがたは世の光である」(マタイ5・14)。これだけ聞けば、だれが自信を持って「はい」と言えるか。

しかしこれを、「わたし(イエス)は世の光である」(ヨハネ8・12)という御言葉を「前提とするならば、ただちに深い意味をもって来る」と。また、「もしあなたがたが人々のあやまちを赦さないならば、あなたがたの天の父もあなたがたを赦して下さらないであろう。」(マタイ6・16)という「互恵主義の法則」のような言葉も、同じ言葉が出てくる一八章から、「神はお前を赦したのだ。

お前も赦すべきではないか」という、神が先行して吾らの罪をどこまでも赦して下さっている、という赦しの先立ちの原理が貫かれていることに気づく。

結局、「極端な言い方が許されるならば、山上の説教のすべての言葉には<あなたの罪は赦された>(マタイ9・2)という前置文を補わなければならない。」(105頁)すなわち「福音が先立っているのだ。もっと正確にいうならば、山上の説教の中に集められているイエスの語録は、福音の一部なのである。「赦しによる励まし」「神の支配の象徴、しるし、例」(108頁)なのである。

「神の国では、必死の努力は必要ない。その光は自然に輝くのだ、とイエスは言われるのである。」(109頁)
山上の説教は「イエスの弟子たちに律法の足かせをはめようとしているのではなく、これらのイエスの言葉は生きられた信仰を述べているのである。

すなわち、あなたは赦されており、神の子であり、神の国に入れられているのだ、というのである。義の太陽はあなたの生活の上にも上った。あなたはもはや自分自身のものではなく、暗黒に輝く神の都の一部なのだ。今やあなたは、あがなわれた神の子の感謝から新しい生活が生まれるということを経験することができる。これが山上の説教の意味なのである。」(110~111頁)
――――――――――――――――
*初心の方はもちろん、どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)
*締切=毎月末 *年会費二千円(半年千円 誌代送料共)
*入会案内 余白メールへ。
*ご意見ご感想をお寄せ下さい。
yohakunokaze-mihon_convert.jpg見本誌A4判両面刷1枚


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 求道詩歌

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop