「南無アッバ」を生きる ホーム »2009年12月
2009年12月の記事一覧

ヨハネ1・1-18  

初めから言(ことば)はありぬ言から命の光輝きぬ


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-2.<たとえ>に触発された動機  

『日本とイエスの顔』を出した井上神父は、その直後に『私の中のキリスト』を発刊しています。この本は現在、残念ながら絶版になっており、新しい人の中にはお読みでない方も多いかと思いますので、少しくわしくみていくことにします。

この中で神父は、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を引用しながら、次のように語っています。

<私自身信者になってから数年というものは、自分ではイエスの教えを生きようとしているつもりで、実はパリサイ派の姿勢に近づいてしまっていることに全く気づかなかったのでした。

フランスのリヨンの町の灯りがきれいに見おろせるフルビエールの丘の修道院の一室で、ある夜読んだ次の『新約聖書』の一節が、私にそれまでの生き方の間違いを教えてくれたのでした。>(二二頁。以下同書引用は頁数のみ記す)

これは、日本において、「イエスの姿勢とはおよそ縁遠い、イエスの敵対者(ファリサイ派:筆者注)のイメージが何故キリスト信者のイメージになってしまったのか」(二一頁)という自問の直後の告白です。

ここでわたしたちは、井上神父のこの回心体験が、リジューのテレジアに出会い、その生き方・求道性に惹かれてフランスへ渡ってから、なお数年を経た後のことであったということに、注目したいと思います。

<弱ければ弱いほど、みじめであればあるほど、不完全であればあるほど、神はその人を愛してゆたかな恵みを下さるのだ。童心に立ち返って、只ひたすらにこの神の深い憐れみの愛を信頼すること――それだけでよいのだ。エゴイズムや汚れなどというものは、神のふところに飛び込みさえすれば神がご自身できれいにしてくださるのだ。>(七三~七四頁)

ダメな人ほど愛してくださる神に信頼するということ、それは「人を見下し、裁く」ことからは最も遠いことのように思われます。しかし、この「幼子の道」を貫いたテレジアに惹かれた神父でさえ、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>からの気づき――回心体験に至るまでには、数年の歳月を要したということなのです。

井上神父がテレジアに出会ったのが一九四七年、当該回心体験がリヨンでのことだとすると一九五三年、ローマでのことだとすれば一九五四年で、その間六,七年が経過していることになります。

このことは、わたしたちの求道生活に大きなヒントを与えてくれているように思います。それは第一に、わたしたちが「自分ではイエスの教えを生きようとしているつもりで、実はパリサイ派の姿勢に近づいてしまっている」――ファリサイ的な律法主義、あるいはそこから生まれる、「人を見下し、裁く」というエゴイズム=罪に、いかに陥りやすいか、ということ。

第二に、罪の無意識性のゆえに、そのことに「全く気づかない」――知らずにわたしたちは人を裁き、見下してしまっている、それがわたしたちの常態だということです。〝人はよほど心していないと、イエス的であるよりファリサイ的になる〟とは、井上神父がよく口にする言葉ですが、これは、自身の右のような体験から実感をもって発せられた言葉であったことが確認できます。

さらにいえば、「それまでの生き方の間違いを教えてくれた」のは、「ある夜読んだ『新約聖書』の一節」だったというわけですが、それがなぜ、その時、そのようにしてであったのか、だれも(おそらく神父自身も)答えられません。それはもう、アッバのお計らい、お恵みとしかいいようがない。

つまり、わたしたちが自らの間違いや罪に気づき、回心するには、わたしたちの努力をこえた御力がなくてはならないということ。このようなことは頭ではわかっていても、現実にはなかなか実感できないものです。神父のこの回心体験は、こうしたアッバのお導きをも、はっきりとわたしたちに示してくれているように思います。
その上で井上神父は述べます。

<私にはどうしても納得できない、現在までの歪んだキリスト教のイメージを打ち破って、ここ二十数年来、私なりに一筋にイエスを追い求めてきた結果、やっと朧げながらつかみえた真実のイエスの姿と教え、少なくとも私にとっての真実のキリスト教の風景というものを、私はこの本のなかにえがきだしてみたいと思っています。>(二三頁)

第一部でもわたしはこの言葉を取り上げ、「この弁は『私の中のキリスト』にかぎらず、『日本とイエスの顔』以来、井上神父の全著作・全活動の根本的動機となっている」(『心の琴線に触れるイエス』一二一頁)といいました。

今ここで、右の神父の言葉をもう一度捉えなおすと、「真実のイエスの姿と教え」「真実のキリスト教の風景」をえがきだしたいという神父の「全著作・全活動の根本的動機」は、当該<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>による回心体験に強く触発されたものであったということができるのはないでしょうか。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

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(24)『私の中のキリスト』における<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>-1.「悲愛」から「南無アッバ」へ  

「裁かない愛」「石を投げない愛」・・・・「~でない愛」=「為さざる愛」は、「為す愛」を誇りにして前面に押し出してきた西欧型キリスト教からみれば、消極的で後ろ向きの感が否めないかもしれません。

しかしそれは、これまでの文脈にそって言いかえれば、自らを「わきまえ」、自我を「ひかえる」愛ともいえるのです。そうであればこのことは、ケノーシス・タペイノース的姿勢に通じることはもちろん、井上神父が常々強調する、宗教による自己相対化にも直結する事柄となります。

またここで改めて気づくのは、この「わきまえ」「ひかえる」悲愛の姿はすでに論じた、井上神学における「申し訳なさ」という罪意識にも対応するように思います。さらに、こうした「~ない愛」という否定詞で表現される愛は直接的な言葉からまず、キリスト教における否定神学を連想させ、また井上神学における、東洋的な無、神聖なる無といったものへの関心をも連想させます。

「裁かない」こと、「判断留保」、「ひかえ」、「わきまえ」、これらはいいかえれば、「南無アッバ」――アッバにお委せするということです。そして、「南無アッバ」は、わたしたちそれぞれのままならない心の思いをも、アッバに委ねることを含むものでした(『すべてはアッバに御手に』第九章)。

ここで「わたしたち」とは当然、自分自身だけでなく、それこそままならない他者を含めてのことです。その「思い」を南無アッバするとは、具体的には「わきまえ」の姿勢――他者の心の思いに対する「判断留保」として現れてくるということなのです。そこには思いやりに通じる愛があります。

本稿第二部では、井上神学――アッバ神学における「罪」や「復活」を中心に考察することによって、「南無アッバ」にたどり着きましたが、今ここでわたしたちは、アガペー――「悲愛」について思いめぐらすことによって、やはり「南無アッバ」へとくぐり出ることになるのです。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

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ルカ2・22-35  

シメオンという高齢者みまかりぬイエスを腕に抱きて後に


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 聖書・キリスト教

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09年12月南無アッバミサ報告  

お天気に恵まれ--文字通り、小春日和--井上神父様もお元気です。
ミサ前講話は平田栄一「人も変わる、教会も変わる

ミサ後講話は、井上神父様が、これからの日本のキリスト教への3つの提言を話され、
最後に賛美歌として、「替え歌赤とんぼ」を歌われました。

皆様、よいクリスマス、よいお年を!


category: 井上神父の思い出

thread: 聖書・キリスト教

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第168号 2009年 12月発行   

求道詩歌で南無アッバ
Copyright©1990余白 平田栄一,All rights reserved.

*本誌は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、うたをとおして、共に道を求め、祈り合うための月刊誌です。


井上洋治神父のうた *主宰寸感

――一筋の道――
イエスさまにお会いしたい/イエスさまのお声をきいてみたい//その思いにとらわれ/弱ってしまった目をいたわりながら/今日も歩く/一筋の冬枯れの道//でも/アッバ アッバ 南無アッバ/これでいいのですよね/おみ風さまの薫りのなかを/歩ませて頂いているんですものね
(『アッバ讃美』より)

*目には見えないイエス様にお会いしたい、耳には聞こえぬイエス様のお声を聴いてみたい・・・・高齢の神父と共に、キリスト者すべての最大の願いでしょう。しかしアッバさまは言います「ほら、あなたはもう、わたしの薫りの只中にいるじゃないか」と。それでいいのですよね。


主宰近詠

蓮田市  平田栄一

アルコールシュシュッとかける両の手に持たざる者の幸いのあり

膀胱の辺りがピクピク波打ちて今年も秋の深まりを知る

宝積寺からはディーゼル走らせていよいよ深き仁井田の森へ

里山の森を抜ければ大金の白き駅舎は懐かしく見ゆ

隣席の学者然たる老人に話しかけたき秋の図書館

神に在る意味は知られず遠花火

狂おしきまでに闇の秋澄めり

デニーズの暗き点りや虹の果て

妬み持ち穴惑いたり夜の底

希語聖書一日半句茶の花忌

ガラシャ忌や代理母女児を産みにけり

隣人に堅きアリバイ冬薔薇

自分とは自然の分身梅雨寒し

梅雨らしき雨が終日ミサ答え

兄妹のような夫婦に南吹く

夥しき雀を抱ける夏野かな

棒立ちの鵜飼咳く南無アッバ

真夏日や日大坂を転げ落ち

うかうかとする間に青葉書を閉じる

美しきポリープですね夕凪げり

平和祭主の変容を祝ぎぬ

古傷や微かに疼きチヌス祭

子を認め得ぬ親として秋愁う

程々に神の働く九月かな



うたとエッセイ

豊田市  佐藤淡丘

北の星大きく育つ夜寒かな

冬満月俳句手帳を野に開く

己が枝鳴らして落つる木の実かな

ナイル河モーセの徒渉芒原

冬の蝶高さを計る胸の裡


 ちょっと宣伝めいた話になりますが、お許し下さい。NHK「ラジオ深夜便」の最終便、午前四時六分から始まる「こころの時代」は欠かさず聴くことにしています。

それも携帯ラジオのイヤホーンを耳に、歩くこと約二十分「会神の丘」まで、これに専念するのです。布団の中で聴くのと異なり、居眠りを避ける効果があります。先日も「森のイスキア」の開拓者、佐藤初女(はつめ)さん(八八歳)のカトリック信者としての奉仕活動のさまを耳をダンボにして聴き入ったものです。

こうした各界の名士のお話を、あとあとまで心の底に溜め置くことが出来るかと言うと、残念ながら殆ど忘れています。でもこの貴重な心の糧を少しでも受け止めようと、今朝も楽しみながら暗闇の中をせっせと歩き続けています。最近どういう訳か暗闇がとても好きになりました。ゴメンナサイ。

<訂正:前月号句中「×荒野」「○芒野」>

*私は「ラジオ深夜便」を小さくかけたまま、睡眠しています。よく眠れます。ラジオはいいですね。往年の深夜放送族がそのまま、深夜便ファンになっていくのでしょう。


立川市  新堀邦司

まるまると肥えて小布施の秋なすび

北斎と栗名月の小布施かな

蕎麦刈つて干して信濃の日和かな

遠浅間花野の中を小海線

(「日矢」十二月号より)

*<北斎>の句、「日矢」主宰の山崎房子氏の評より抜粋させていただきます。<「栗名月」は「後の月、十三夜」のことで、名月の頃よりも澄んで、ものを思わする名残りの月だ。作者は十三夜の小布施で、北斎に思いを馳せている。まるで北斎と共に、十三夜を眺めている気持ちになった。>


一宮市  西川珪子

冬瓜の眠る居場所を隅にきめ

腰低く飲む名水や紅葉落つ

散り急ぐことなかりしや山紅葉

紅葉山一つにあらず風の道

十字切る特老の人菊一輪

部屋部屋に菊活け心豊かなり


十一月十一、十二と一宮教会・小さき者の会(老人会)より一泊で恵那の紅葉山と杉原千畝記念館を見学して来ました。国境を越えた千畝の人間愛にふれ、命のビザを手にしたユダヤの人々の足跡をたどり、千畝の偉大さを痛感しました。大きな感動を覚え、いつの日か世界が一つになり平和な地球が訪れるといいなあと思った旅でした。感謝

*<紅葉山>の句、「一つにあらず」が上下句にかかり、意味深長です。アッバの作品としての「紅葉山」の多様性を語るとともに、それをもたらすおみ風さまの働き方の多様性、とも受け取れるからです。


秦野市  長谷川末子

戻り花水仙二輪の不思議かな

「おはよう」の声大きくて小春の日

侘人の集合団地冬ぬくく

がさごそと終日落葉プラタナス

脱皮せし一年坊主落葉ける

老二人あふれ溢れる恵み受く

  ふふふ
秦野は温暖/雪見ぬ盆地/山に囲まれ/緑地帯/貧しくたって/低価格/福祉も後押し/住み易い/隣近所も十人十色/あれこれあって面白い


*「あれこれある」ことを、「面白い」と言えるのは、そう簡単なことでないのが普通。でもそこを「ふふふ」といなせる温かなまなざしを感じます。「福祉も後押し」という感謝の念も見逃せない。人生は味わうことに意義がある。


文京区  大木孝子

人間界蹴って高きに登りけり

憐憫といふなめら火を戀ひにけり

ねんごろに低き畝あり冬うらら

愛馬用井戸のだんまり石蕗の花

生きるとは音を生むこと冬の鳥


*孝子句には鮮やかな色が見えることが多いが、今回たまたま選んだ句には、音が聞こえてきそうな(あるいは沈黙の)句がそろった。「人間界を蹴る」音、「なめらび」の静けさ――


名古屋市  片岡惇子

落葉して来たるを待つや躊躇いつ

白菊や光を引いてマリア様

数病を重ねてめぐみ冬立ちぬ

銀杏落葉病の量の軽くなり

大根の並(な)べて首出し願うこと

葉牡丹の黙の息より詩編読む

雪蛍罪を受け入れ塵となる


*様々な課題や病を負うて歳を重ねる。「躊躇」し堂々巡りする思いもあるでしょう。しかし、その只中に「重ねてめぐみ」あることを実感できる、それこそお恵み。それは一人一人に与えられるものなのですね。


後 記
 私にとって今年は、父の他界(三月)にはじまり、『すべてはアッバの御手に』上梓、政権交代にともない今となっては無駄になりそうな教員免許更新講習、「井上神父の言葉に出会う」講座(八月)など、予期しないことを含め、めまぐるしい一年でした。

 しかし、髪が薄くなった以外は、大きな病気もせず、健康面ではまこと有り難い一年でもありました。昨年の長男に次いで、二男が就職し、夕食時はちょっと淋しくなりましたが。

 アッバのお導きに感謝したいと思います。皆様もどうぞ、よいクリスマス、お正月をお迎えください。
なお、私事ながら、喪中にて新年のご挨拶はひかえさせていただきます。


*どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任) 
*締切=毎月末
*年会費二千円(半年千円 誌代送料共)
*投稿先 ブログ「南無アッバ」を生きるから余白メールへ。

見本誌A4両面刷り1枚


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 聖書・キリスト教

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