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2009年04月の記事一覧

2009年4月18日アッバミサ前講話をアップしました  

平田栄一「父のまなざし、イエスのまなざし」
「風の家」の声からアクセスできます。



category: 井上神父の思い出

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6.罪の無意識性と他者性-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

「大罪・小罪」といった教会的な区分や、その「罪」の構成要件にどのように自由意志がかかわるか、といったような議論は、わたしにはあまり興味がありません。むしろ、個々の罪を犯す根本にあるもの(原罪)が、表層的な「私」意識には手の届かぬ深層意識に、如何ともしがたく浸透しているということの実感――リアリティから、出発したいと思うのです。井上神父の右のような語り口は、そのことを的確に指し示しているものといえましょう。

神父は同書『日本とイエスの顔』前半で、<アダムとエヴァ>の物語を引きながら、次のように語っています。

<アダムとエヴァの物語において、作者は、私たちひとりびとりの人間の生そのものには、自分たちの力だけではどうにもならないどろどろした汚れがこびりついているのだ、その自分でも気づかない汚さのために、私たちの生を私たちの生たらしめている根底、宇宙を貫いて流れている永遠の生命に浸りきることができず、そこから人生の底に沈殿する深い言いしれない哀しみや悲劇がうまれてくるのだ、ということを言おうとしているのだと思います。>(第二章「聖書を読むにあたって」三四~三五頁)

わたしたちの生にこびりついた「汚れ」である罪が、「自分たちの力だけではどうにもならない」ものなのだ、だからこそイエスが来て、ゆるしが与えられる。それがキリスト教の救いの基本であり、多くの聖職者や信者は繰り返し、このことを確認します。

そのうえで、井上神父や遠藤周作氏の信仰にはさらに、その「汚さ」に「自分でも気づかない」――<罪の無意識性>が強調されているように思えます。氏や神父の信仰における<無意識の他者性>ということについては、すでに述べてきましたが、今この二つのことを考えあわせるとさらに、<罪の他者性>という事態が浮かび上がってくるのです。それは、表層的な「私」意識ではどうすることもできない――意識的なコントロールはおろか、意識そのものができないのですから――そういう不気味で恐ろしい世界が、自分の深い所に巣くっているということ。底無しの井戸の暗がりに向かって、「罪よ、汚れよ、おまえのことで、私に何の責任があるのだ?!」とでも、叫びたくなるような狂おしさを、わたしたちは感ぜずにはおれません。

しかし、こうした罪の現実--罪のリアリティを踏まえながら遠藤氏や井上神父は、その同じ無意識という場に働く、アッバの力にも、それ以上に信頼しているということを忘れてはなりません。その確信ゆえに、罪人――新約聖書中であれ、わたしたちに対してであれ――に向けられた神父のまなざしは、静かなやさしさに満ちています。先の引用文では、「他人を審くことに心の痛みを覚えぬ程に傷つき汚れている」という、労いともとれる物言いに、そのことがはっきり表れていると、わたしは思います。そしてそのまなざしは、イエスのそれを彷彿とさせるものです。(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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5.「人の心」に巣くうもの-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

右引用箇所の数行のちには、『ルカによる福音書』一八章一一節がもう一度、脚注として触れられています。

<人の心には餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界が巣くっている。他人を見下げることに幸福を覚え(17)、人の目にある塵を見て己れの目にある梁を見ず(18)、他人を審くことに心の痛みを覚えぬ程に傷つき汚れている人の心は、自らも知らぬ間に神に代わって人を審く暴挙をおこなうであろう(19)。>

 右文中の脚注(17)が当該聖句、

<ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。>
に対応しているわけです。

 「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく」正しいはずの「ファリサイ派の人」のどこに問題があるのでしょうか。それは、「わたしはほかの人たちのように、」また、「この徴税人のような者でもない」という、

<自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している>(九節)
態度にある、とイエスはいうのです。このことを井上神父は、「他人を見下げることに幸福を覚え」る態度としてまとめ、さらに(18)『マタイによる福音書七章三節<人を裁くな>や(19)『ヨハネによる福音書』八章三~一一節<姦通の女>にもとづいて、自分の真の姿を見ようとせず、「神に代わって」「人を審くこと」こそ、イエスが最も嫌った姿勢であると強調します。ということは、他者を審かないことが、イエスのいう正しさであり、それは「ひかえ」の姿勢そのものということになります。

このように、脚注(14)を巡ってはおもに自分の生き方として、また(17)では他者との関係で、タペイノース的「ひかえ」が奨励されていると考えられます。

 そしてここでとくに注目しておきたいのは、「ファリサイ派」の姿勢の根底にあるものに対する井上神父の言及の仕方です。すなわちまず、「人の心」――ということは「ファリサイ派」だけでなく、わたしたちすべての「心」――の根底には、「餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界が巣くっている」ということ。これをひとことで「罪」=エゴイズムと括っても差し支えないでしょう。そして、そういう「人の心」は「自らも知らぬ間に」神に代わって人を審いてしまうという点です。

 このことからわたしたちすべての罪が、表層意識としての自己意志ではどうしようもないほど深いところ――無意識に巣くっており、それゆえ「自らも知らぬ間に」――無意識裡に他者を見下げ、裁き、幸福を覚えてしまうという結果を生んでいることを知るのです。遠藤周作氏は、無意識が「我々のひそかな欲望」のいっぱいつまっている「汚れた場所」だと指摘しました(本稿第一九回参照)。つまりそれは、無意識に罪の根(「原罪」というべきでしょうか)が巣くっているという指摘ではなかったでしょうか。これまで罪(意識)のさまざまな側面――広義性・前提性・普遍性・具体性等々を見てきましたが、右のような井上神父の考察や遠藤氏の言葉から、今ここでさらに、<罪の無意識性>ということを指摘したいと思います。


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4.「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

 <9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」>(『ルカによる福音書』一八章九~一四節)

まず、井上神父の処女作『日本とイエスの顔』から見ていきましょう。
最初に右のペリコーペに触れるのは、次のような文脈においてです。

<・・・・神はまずパパなのだ。私にとっても、そしてあなたがたにとっても(11)。
それが信じられるようになるためには、あなたがたは、どんなに苦しくとも悲しくとも、またどんなに現実が不合理に見えようとも、勇気をだし、心を改め(12)、知恵ある者のように振舞わず(13)、小賢しい人間のさかしらを捨て、ただひたすら神の前に手を合わせ頭を下げねばならぬ(14)。・・・・>(第四章「イエスの神・アバ」八八頁:北洋選書版)

井上神父の注目すべき業績のひとつとして、これまで神学者とよばれる人たちが、おそらく聖句翻訳の逐語的正確さを優先したために顧みなかったような、現代日本語による、思い切った聖書敷衍訳、あるいは意訳の工夫があることは、すでに述べたとおりです(『心の琴線に触れるイエス』第七章「文学になった神学」)。そのまとまった形での最初の試みが、右の箇所を含む三頁にわたって書かれた文章です。

この箇所では、神が「パパ(アッバ)」と親しく呼べる、慈父のような方だということ、そして、その神に「ただひたすら」「頭を下げ、〝よろしくお願いします〟と祈れば、どんな人でも救いに預かれるのだ、という確信に満ちた訳になっています。そして文中には三十四箇所にも及ぶ丁寧な参照聖句註が付されており、右引用部分についてはそれぞれ、(11)マルコ14:36・ローマ8:15、(12)マルコ1:15、(13)マタイ11:25、(14)ルカ18:10-14となっています。

こうして参照聖句と照らし合わせながら、井上神父の意訳を読んでいくと、いま話題にしている<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>について、神父が処女作――著作のはじめから、端的に何を言いたかったのかが、明らかとなります。すなわち、「神はまずパパ(アッバ)なのだ」から、「小賢しい人間のさかしらを捨て、ただひたすら神の前に手を合わせ頭を下げ」ればいいのだ、ということです。文脈上、文言は「・・・・頭を下げねばならぬ」となっていますが、本来は、おまかせするだけでいいのだ、それ以外にないのだというのが、神父の本意だと、わたしは思っています。

 この部分は、右に引用したように、当該ペリコーペへの言及が、脚注という形で出てくるので、うっかりすると読みすごしてしまいます。しかしイエスのこのたとえを、神父がどのように受取ったかを端的に示した箇所、しかもそれが処女作における初出という点でも、重要なものだと思います。「小賢しい人間のさかしらを捨て」「頭を下げ」るとは、人間理性の限界を「わきまえ」、そのはからいを「ひかえる」というケノーシス・タペイノース的態度の基本をなすものです。そして、「ただひたすら神の前に手を合わせ」るとは、その具体的行為――心の中で手を合わせるということも含め――祈りであり、わたしたちを悲愛へと向かわせる契機にほかなりません。

これがのちに、「南無アッバ」という、文字通り具体的な祈りの言葉――「献祷」となって結実することになるわけですが、もちろんこの時点(一九七六年以前)では、井上神父自身そこまで見越していたわけではなかったでしょう。それゆえにこそ、こうした細部において、神父の無意識の一念にアッバが働きかけ、ついには「南無アッバ」へと導いていったのではないか、わたしにはそう思えてならないのです。


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3.「わきまえ」「ひかえる」姿勢-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

これまで述べてきたように、井上神父の「わきまえ」の姿勢とは具体的には、他宗教や他者に対する自己判断の留保――「ひかえ」の姿勢として現れます。それは井上神学の根底をなす日本的感性の基層といって過言はでなく、したがってさまざまな面に表出されていますが、ここでは、わたしなりの判断で、この方向性が顕著に示されている例を二つあげてみたいと思います。

それは、『ルカによる福音書』一八章の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>と、一〇章の<善いサマリア人>のたとえです。この二つは、井上神父の諸著作のなかでも、おそらく最も多く引用されている聖書箇所の一つだと思います。この事実だけをみても、井上神学の中でとりわけ重要なペリコーペであることがわかりますが、昔わたしは直接、井上神父から〝・・・・あえていえば『ルカ』の一〇章と一八章に、キリスト教が要約されていると思っている〟と聞いたことがあるのです。

ちょうど受洗前後で、真剣に聖書を読みだした頃でした。今考えれば、神父に学びはじめたばかりで、聖書のポイントとしての<あれかこれか>がつかめず、<あれもこれも>に右往左往していた時期だったのだと思います(ここにいう<あれかこれか>・・・・については本稿第十六回参照)。しかしこの戸惑いは、わたしに限らず、ひとりで聖書を読もうとしたとき、多くの人が一度は経験するものではないでしょうか。ところが当時のわたしは、神父に〝ポイントはここだよ〟と指摘され、該当箇所を読んでも、正直なところ、それほどピンとはこなかったのです。

しかし今ここで、この文脈――ケノーシス~タペイノース~わきまえ~ひかえ・・・・という文脈で改めて取り上げようとするとき、ようやく、あの時の井上神父のアドバイスの真意が解せるような気がしています。

ちなみに『ルカによる福音書』一八章は、<「やもめと裁判官」のたとえ>(一~八節)、<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>(九~一四節)、<子供を祝福する>(一五~一七節)、<金持ちの議員>(一八~三〇節)・・・・というペリコーペの配列になっています。また一〇章は、<七十二人を派遣する>(一~一二節)、<悔い改めない町を叱る>(一三~一六節)、<七十二人、帰って来る>(一七~二〇節)、<喜びにあふれる>(二一~二四節)、<善いサマリア人>(二五~三七節)、<マルタとマリア>(三八~四二節)と並んでいます。

これらの配列の仕方も、ルカの編集意図を探るうえで、重要な資料となります。そして、井上神父が「『ルカ』10章と一八章・・・・」といったのは、これら全体を念頭に置いてのことだったと思われます。


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2.道徳主義をこえる視点-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

〇九年一〇月の「南無アッバミサ」前の小講話でもお話ししましたが、今年で七年目を迎えた本連載のなかで、最も大きな反響があったのは、「道徳主義をこえて」(『心の琴線に触れるイエス』第六章)と題して一文を書かせていただいたときでした。わたし自身の体験からも、また身の回りの求道者の声からも、あのとき書いたこと――井上神父が〝日本人は倫理に(言及されると)弱い〟といったことへの賛同――は、現在も変わりません。

しかし今、わたしたち日本人が伝統的に馴染みのある謙遜という徳から出発し、イエスの「謙遜」へと、共感・親近感をもって曲がりなりにも連なろうとする――受難を頂点とするケノーシス的生涯を黙想するとき、キリスト教、否、イエスの倫理へと新たなアプローチができるのではないかと考えるのです。それがどのような形で現れてくるかは、これからの日本人キリスト者一人ひとりの課題なのでしょうが、実は現時点でも、わたしたちに大きなヒントが示されているように思います。

それはほかでもない、すでに二度にわたって述べてきた、井上神父の「求道者として」の、あるいは「人として」の「わきまえ」の姿勢です。前回までに述べた、他宗教に対する判断留保、あるいは他者の臨終の思いに対する留保、自分を「わきまえ」「ひかえる」そうした姿勢は、「傲慢」や「失礼」というレベルをこえて、おそらく、日本人がキリスト教を自然な感性において、受け止められるかどうかの試金石になるのではないか、わたしはそう考えるのです。わたしたちの「わきまえ」の姿勢がイエスの「謙遜」にならうものとなり、自己相対化からイエスの自己無化へとつながれていく・・・・。こうしてアッバの救いにあずかるものとなるということです。


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1.ケノーシスからタペイノースへ-第22回「謙遜」という在り方-『風』誌第81号  

さらにこのケノーシス的態度は、「謙遜」(タペイノース:『マタイによる福音書』一一章二九節など)に直結するものです。「謙遜の徳」などというと、何やら古めかしい語感がありますが、たとえば次のように説明されています。

<〔謙遜は、〕新約ではキリストの受肉や受難というケノーシス的生涯に収斂する。・・・・ギリシア倫理学が無視した謙遜は教父時代から中世にかけ最重要な徳と考えられた。・・・・謙遜こそ神がよしとする人間の在り方であった。・・・・それはキリスト教的貧しさと同義で現代の人格や共同体形成に必須な人間的在り方を示す。>(『岩波キリスト教辞典』三七四頁)

御存知のとおり、日本では伝統的に謙遜が大切な美徳と考えられてきました。(もちろん、東洋全般をはじめ、他の文化圏でもこの概念は存在するのでしょうが、文化交流において、よく西欧人に理解しがたい資質として日本的謙遜があげられるように、その親近性や特異性において、他国以上に意識されてきた国民的徳なのだと思います。)

そしていま、イエスの「受肉」から「受難」にいたるケノーシス的生涯そのものが、完全な謙遜を体現したものであったことを確認するに及び、わたしには感慨あらたなるものがあるのです。すなわち、古代ギリシア・ローマ世界において省みられなかった徳としての「謙遜」が、「アガペー」や「アッバ」のように、イエスによって発見され、あるいは掘り起こされ、現実に完全なまでに生きられたということ。そしてなにより、このイエスの「謙遜」が、古来わたしたち日本人が重視してきた伝統的徳としての謙遜と、少なくとも方向性において重なり合う所があるのではないかということ。こう考えるとき、日本人としてイエスを、あるいはイエスの教えを、より身近に感じることができる喜びが、おのずと湧いてくるのです。

読者のなかにはたとえば、イエスの「謙遜」は、「受肉や受難というケノーシス的生涯に収斂する」ダイナミックで積極的なものであり、日本人の謙遜は、どちらかというと静的消極的意味合いが強いという見方もあるかもしれません。また、現代日本においては、謙遜の徳はもはや本来の意味を失い、政治の世界などでわずかに世間的ポーズとして、形骸化した残滓を見るばかりである、などといった批判があるやもしれません。しかしわたしは、日本的謙遜がそうした消極性あるいは形式化の問題を孕みつつも、イエスの教えを生きるために、「神がよしとする人間の在り方」として、大きな可能性を持つものと期待しています。


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