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2009年03月の記事一覧

第160号2009年4月発行  

求道俳句で南無アッバ「余白の風」
Copyright©2005余白・平田栄一,All rights reserved.

蓮田市  平田栄一

臨月のマリアに温き冬至かな

ここに来てぐっと禿げたる冬の山

迷い出た羊の泳ぐ冬銀河

追伸に追伸重ね聖母の日

英訳の昔話を聞く暖炉

カレンダー少し傾ぎて師走入り

ずんだ餅食みて小春の夫婦旅



作品とおたより(*主宰寸感)

文京区  大木孝子

鏡餅まくらふたつがままならぬ

冬あをぞら何の果てなる腫れ瞼

光芒をたどれば寂し梅の花

綿あめの粘粘(ねばねば)春の寒さかな
  「野守」三五号より

日増しに春光が強くなってまいります。
我が家のテラスには、昨年秋に蒔いた菜の花やれんげが今にも咲きそうです。
いつもいろいろとお世話になっております。

先日、「風のプネウマ」の山根さんの御文の中で、井上神父様の、堀辰雄の日本的感性の世界への共感のところを拝読しながら、昨夏、堀辰雄夫人とのおしゃべりを思い出しておりました。

堀多恵子夫人は、九十五歳で、追分にご健在でいらっしゃいます。主人の仕事の関係で、四十年以上のお付き合いになりますが、沢山の随筆をご執筆しておられますが、「この歳になって、最後のエッセイ集をどうしても大木さんに手伝って欲しい」とおっしゃられ、今、準備中です。

夏、夫人との毎日のおしゃべりは、何よりの楽しみですが、お歳にかかわらず、記憶力抜群で、それは澱みなく水が流れるがごとく、当時の沢山の作家の方々との交流の記憶は、微細にわたって鮮烈です。

今回、エッセイ集に予定している原稿の一つ、『美・私の一点――堀辰雄の病床に』がありまして、ボッティチェリの「マニフィカトの聖母」の写真が添えられてありました。

「おばちゃま、このエッセイはとても深いわね。」と私が申し上げますと、いろいろお話しくださいました。

「主人はね、病状が襲ってくる不安の中でね、キリスト教の神であったときも、仏であったときもあったの。キリストは近寄りがたいから、その母マリアを求める方が、ずっとそうした信仰の世界に入ってゆきやすいだろうなあ。お前が、カトリックの教徒だったら、僕はもっと楽に神様を信じていたかも知れないね。軽井沢のパウロ教会で、野村英夫(堀辰雄の弟子で繊細な美しい詩人です。)がいつの間にか洗礼を受けて、素直に、カトリック教徒になって羨ましいよと言っていたのよ」

「いつもヴィーナス誕生の絵が暖炉の上に飾ってあってね。僕は、マリアとガブリエルを受胎告知のように扱うのじゃなくて、クロオデルのマリアの御告げのように、あの二つのもの、人間的なものと神的なものととの挨拶を、小さいできごとのように歌い上げてみたい。今、住んでいる高原のさびしい村での、春先の頃の、小さなできごととしてね。」

「あの受胎告知の持っている一番美しいところ、人間的なものの中への、神的なものの闖入としてねと、言ったのよね。」

私は、「おばちゃま、素敵な話ね。この寂れた追分の山村と、西洋的な美の融合ね。作品として実現できなかったけど、人知れずに砂金のように、どこかでそれが、さりげなく実現されているかもよ。高められて上昇されたものが、この地にきっとあるような気がする。」と夢中で話しました。

毎日、私は追分の村を散歩しながら、堀辰雄が愛した半跏思惟像を眺めたり、飯盛女塚を探したり、黍畑が風に騒ぐ穂垂れを摑みながら、思いめぐらせました。

森羅万象に神々を感じる日本人の感性こそ、ひょっとしたら、マリアの受胎そのものを、丸ごと信じられる素晴らしい力なのではないかしらなどと思いめぐらせました。

面影橋の井上神父様をひとりでお訪ねしたのは、花時でしたが、神父様は、主人と小林秀雄先生や、河上徹太郎先生や福永武彦先生方との交流をお知りになりと、とても懐かしそうに目を細めておられましたが、それは、神父様に、若き日の動かしがたい精神遍歴の炎との接点がおありだったからなのだと、今頃になって分かりました。

井上神父様の数々のお言葉は、いつもどこかで緊張を伴った信仰のあり方を、ゆるやかに遊水池へ導いて下さるのを感じます。その遊水池にこそ、鳥や野の花や、木々や浮雲や風が映しだされて、信仰がやわらかい息吹を取り戻せるような気がしています。

夜な夜な、迷いや、むなしさや哀しみが襲ってきて、必死に祈ることも多く、俳句にもその汚濁が顔を出しますが、それとて目を逸らさず、ありのままを詠んでゆくしかないと思っています。

神様は、「そうかそうか、仕方ないなあ」と嘆きながらも、許してくださっていると、勝手に思い込んでいます。祈りと共に、いつしか浄化されてゆくことを信じています。

*文学者やその周りの人たちとの交流のなかから、また日常に忍び込むアッバの妙なる御心を感じます。


渋谷区  杉浦まさと

手にかろきこと復活の卵かな

春の月ともにエマオへ旅行かむ

はや三位一体の朝ミサ若葉

岩窟のマリア濡れけり虹二重

バラ窓に闇穿ちたる良夜かな

金木犀さやかに溢れくる聖歌


  「カルメル会修道女の対話」を観て

帰天せよサルヴェ・レジーナ天高し

クリスマス会へぬ人より点しゆく

聖しこの夜を更くるまで歌やまず

暁の星天津乙女の飾かな

母と子の影をひとつや初茜

鳩一羽初日に溶けてしまひけり

受難節児が玩ぶ縄目かな


*初めての御出句ありがとうございます。典礼暦の様々な場面が浮かびます。


立川市  新堀那司

王の墓ことに落花のしきりなり


  伯父の一人は還らず

敗戦忌老いることなき遺影かな

青空と百万本の彼岸花

茶の花や父母を恋ひ泣きし日も

ご先祖の墓も仲良く日向ぼこ
  「日矢」〇九・三号「高麗郷」より

*私も、最近父を亡くしてから、お墓というものについて、よく考えるようになりました。


東京都  外野愛子

自分の見たくない/自分の知りたくない/光景に蓋をする//沢山の触れられたくない/思い出がある/ほんの少しのきっかけで/開いてしまう//開けば不幸になるパンドラの箱//全てを見た後/希望が底に残っている//苦しくても/開けば全てが変わる


*「自分」が見たくない「自分」。しかし、その「底」には「希望」がある。まだ「残っている」。アッバの働く場。


秦野市  長谷川末子

塩焼の鰊は馳走春昼餉

春野菜どっと溢れて目は泳ぎ

空仰ぐ白木蓮と紫木蓮

野も山も霞々に羽根の欲し

春の水鯉を遊ばせ眠らせて

午前二時一人占めする春の月

春雪の草木白し赤一輪

   桜
あんなに固かった蕾/つくし程の蕾になった/未だ冷たい春風よ/枝が揺れ耐えている/一つ咲いて百に千になる/朝はまぶしく夜は妖しく/ああその日は近い/花吹雪に泣く日が近い


*俳句と詩がマッチして、春の喜びを謳歌しています。


福岡市  牧山おさみ

  全てはあなたに

人を許す気持ちが足らない。/人から許される、喜びを知らない。/人を許さないのは、自分を許さない事。/人から許されないのは、人を許して居ないから。/どうか、見つめてあなたの心。/ケンカして仲直り出来た、子供のころ。/全ては、あなたに戻る。/全ては、あの日帰る。//何かを拾おうとして、何も捨てない。/抱えこむばかりで、何も捨てない。/気が重いのは、抱え過ぎているから。/何も貰えないのは、もう抱えきれないから。/どうか、見つめてあなたの心。/何も知らず無邪気だった、子供のころ。/全ては、あなたに戻る。/全ては、あなたに帰る。//夢を見るヤツを、馬鹿だと笑い。/理想を話すヤツを、馬鹿だと笑う。/振り向けば自分に、夢が無い。/気がつけば自分に、理想が無い。/どうか、見つめてあなたの心。/明日を夢見て走っていた、子供のころ。/全ては、あなたに戻る。/全ては、あなたに帰る。//全ては、あなたに戻る。/全ては、あなたに帰る。


*マタイ伝の厳しい言葉も、こんな風に理解したらどうだろう、と思わされました。


名古屋市  片岡惇子

春嵐パウロの語るを今聴きし

奇の数は割れずに何処春霞

悲しみを聴いて話して下萌ゆる

十字架の道に花びら白く散り

愛が呼ぶ愛に生かされ桜咲く

乱舞する花の命を飲みほして

さらさらと散る花童子の紅となり


*「悲しみを」の句、人と人との大きな触れ合いは、喜び以上に「悲しみ」の交流にあるのかもしれない。


豊田市  佐藤淡丘

春の星えくぼとなりて浮かびをり

幹に垂れ判じ絵となる春の雨

そよ風のビギンを聴きて入学す

星蝕を春暁にみる独りかな

駆ける子のカインの末裔青き踏む


 今年も枕草子の<春はあけぼの>の季節がやってまいりました。そうした中で、二つの天体の妙に遭遇しました。その一つ、それは『星蝕』です。残照の月(下弦)が星(金星)を食べてしまいました。もう一つは、宇宙衛星です。

若田さん等の搭乗する宇宙船、エンデバー号が三等星ぐらいの光の粒になって、東から西へと飛んでゆくのです。これも不思議な感動をもって眺めました。沈黙の世界がもたらす早朝の丘は、まさに恵みです。

*「星蝕」と「エンデバー」、すばらしい発見であると同時に、まさに「お恵み」ですね。


一宮市  西川珪子

衰退の織物町の遠き春

陽の当らぬ場所にも春の気配して

旅に出て見たしと思う春日和り

目覚しを止めて春眠心地よし

我がためにチョコ一つ買うバレンタインデー


*求道俳句らしいキーワードがなくても、この場では、アッバの御手の中で詠うようです。
――――――――――――――――
ちょっとあとがき:沢山のご投稿をありがとうございます。文字が小さめになってしまい、ご容赦ください。ほころび始めた桜が、朝晩の寒さで咲くのをためらっているような陽気です。新年度を迎え、復活祭も真近かです。ご自愛ください。

本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、俳句を中心として、共に道を求め、祈り合うための月刊誌です。どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)○締切=毎月末○年会費二千円(半年千円 誌代・送料共
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category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第159号2009年3月発行  

求道俳句で南無アッバ
Copyright©2005余白平田栄一,All rights reserved.


蓮田市  平田栄一

貧しい人に福音を      ルカ4・16~30

秋草や小花咲かすも咲かさぬも

イエス、弟子を集める ルカ6・12~19

秋湿りユダも呼ばれし山の朝

イエス、弟子たちを見て ルカ6・20~26

長雨をくぐりて人の道を説く

光現れる      ルカ8・16~18

秋分や待ちくたびれし季の動く

この世の賜物 信仰の戦い  ルカ16・19~31
Ⅰテモテ6・11~16

信じ得ぬゆえの祈りか九月尽

人の子に枕する所なし  ルカ9・57~62

蛇笏忌や人情噺ちょいと落ち

立ちて行け         ルカ17・11~19

早ミサへ鉄道の日の始発乗り


作品とおたより(*主宰寸感)

東京都  外野愛子

手から砂が/こぼれ落ちるように//時間は儚く過ぎてゆく//こぼれ落ちた砂は/城をつくり/私達の過去を表す//儚く過ぎ去っていく/時間の中で/私達はけん命に生きていく//私達はあと何回/砂の城を作るのだろうか

*わたしたちの目には「儚く過ぎてゆく」ように見える「時間」を、アッバはもっと大きな「手」で受け止めてくださっているかも……。


練馬区  魚住るみ子

列福されし殉教者司祭の足跡を古文書の中に見出たりと

(福者ディオゴ結城了雪 一六三六年)

セミナリヨに学びし少年司祭とし終の探索穴吊りの刑に

殉教者はいとも尊しさりながら転びし弱さを主はみそなはす


*「転びし弱さを主はみそなはす」殉教者から学ぶことは、現代にもたくさんあるように思います。


秦野市  長谷川末子

  草月展
古流の好きな私が/草月展に急ぎます/一歩入って驚いた/一畳分に一作品/合作ですが大胆な/作品どんどん続きます/竹、松、枯木、ハゼの木も/花は百種を越えている/百合に水仙、寒椿/ばら、霞草、胡蝶蘭/白梅、紅梅、さんしゅの木/アネモネ、ジュリアン、チューリップ/どれもどっさりてんこ盛り/竹に接がれて葉が生えて/下は白砂ハワイです/手造り自転車籠二つ/真白な花に赤いばら一つ/囲いがあってリンゴが見える/ツリーのような木があって/パプリカ一杯吊ってある/星の位置にはブロッコリー/どの作品も奇抜だが/バランスとれて美しい/雄大さとあやうさと/共存していて楽しくて/抱きつきたくはないけれど/飛びつきたいと思います/二月初めの寒の内/心は桜の舞う下に


*音楽でいえば、さながらオーケストラの賑わいと絶妙なバランス。そして心は、春へ……。


名古屋市  片岡惇子

梅の香や無心にわきし命なり

白梅や煌めく命同伴者

梅の花ほろりと落ちてアッバの掌

白梅や紅梅は母に手向けたり

沈丁花仄かな光取り込みし

犬ふぐり青き真珠の瞳かな

沈黙の大きな余白椿落つ


 私の住んでる地域は、生産緑地地域になっていて、まだところどころ畑が残っていますが、農作物を作っているところは少なく、梅の木が植わっているところが多いようです。二月に入りますと、ちらほらと梅が咲き始めます。私の家の近くにも何本かの白梅が、夕闇の中にほんのりと浮かんで、仕事の疲れを癒してくれます。微かな香りも好きです。控え目な色と香りが、華やかではないけれど、重なってしっかりとその存在を感じさせてくれます。

 家から少し足を延ばすと、紅白の梅の木が何本も植えられたところが有ります。競い合っているようですが、お互いの美しさを引き立たせているように思えます。紅梅の一枝をいただいたので、父母の墓に持って行きました。カトリックの墓に入った二人。今はどこにいるのでしょうか。

*こちらも、アッバの自然に対する思いが、句文によくにじみ出ています。梅には桜とはまた違った、静かな味わいがありますね。母上父上がお喜びでしょう。


豊田市  佐藤淡丘

霾るや盆地の底を深くする

朧夜の駅音近し旅の宿

麦青む師弟こもごも一列に

陽のしずか嘗て来た径春隣

余寒かな鋸引く音の冴えてゐし


 一月の末、娘が働いている、東チモールという国に行ってきました。この国はどこにあるのか、と云いますと、インドネシアの東にあり、バリから飛行機で東に約一時間半の所です。人口は約九〇万人、四国と同じぐらいの島です。気候は赤道直下で暑いですが、バリ島より湿気がなく爽やかです。ポルトガルの植民地、旧日本軍の占領、インドネシアの侵略等々永く苦しい時代を撥ね除け、独立を勝ち得た建国七年の若い国であります。

 アジアの最貧国といわれる環境の中で、満足な食事も難しい中で、よくしゃべり、よく笑い、逞しく生きており、笑顔がとても魅力的な国民です。今回一〇日間の滞在をどう過ごすか予め考え、聖書と一冊の本を持ってゆくことにしました。一冊の本は、井上洋治神父の『イエスの福音にたたずむ』です。娘が村の保健施設で働いている時間、独りの私はこのゆったりとした時の流れの中で、思う存分緑陰タイムを楽しむことが出来たわけです。

 雨季の晴れ間は、正にガリラヤの丘を彷彿させるような、やわらかな高原のみどりに囲まれ、聖書の世界そのものでした。蚊に刺されないよう(マラリア病が多発)注意を払いながらも、時折り本から目を離し、天に顔を上げ「南無アッバ」と祈り、「おみ風さま」

に頬を撫でてもらったりしたものです。こうして、二冊の本は我ながら大成功でした。反対に、持参した俳句手帳は、季語と事象が正反対になるため、一句も出来ず失敗に終りました。神の慈しみで満ち溢れる若い句に、東チモールに平和あれと祈りつつ、小さな旅を終えました。「南無アッバ」

*「霾る」(つちふる)「大風が土砂を空に巻き上げて降らせ暗くなること」(漢語林)。小さな国で、生き生き生きていく人々の生活感に学ばされます。ダンディズムの効いた句も冴えています。お嬢様のご活躍とご健康を祈ります。


井上洋治神父の本を読む(二)お話:余白

 三月一日、日曜日、四旬節の第一主日になりました。ちょうど、季節も弥生となり、まだまだ寒い日が続きますが、早く暖かくなることを期待しまして、また、特にご病気の方の回復のためにお祈りをしながら、今日の福音を読んでいきたいと思います。

 今日は、『マルコによる福音書』一章一二節から一五節が読まれます。非常に短い福音箇所ですが、いろいろな内容が凝縮されているところです。ルカやマタイは、ここのところを敷衍しながら書いています。

 この中に、イエス様が四〇日間荒れ野に留まって、サタンから誘惑を受けられた、という話が出てきます。ここの部分を今日は、少しクローズアップして、お話してみたいと思います。この部分については、井上神父様の『イエスの福音にたたずむ』という御本の中に、三九頁から「三つの誘惑」と題して、お説教が載っております。以下、それに基づいて、お話します。

 イエス様が「感覚的な欲望」あるいは「権力欲」に関する誘惑を、サタン=悪魔から受けた、という話が出てきます。この三つの誘惑というのが、たとえば「豊かなパン」とか、「ローマ帝国からの独立」といった、政治的なメシア、政治的なキリストを待望する誘惑であったのだ、と神父様はおっしゃっています。いわゆる「聖戦」ということです。

 この聖戦への期待というものをイエス様は退けられたのです。なぜなら、アッバと呼べる神様は、善い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせる方だからです。

ところが民衆の要求は、いわば、神様の顔に泥を塗っているローマ帝国=悪い者に対して罰を下す「はずだ」という考え方で進んでいる。従って、サタンの誘惑は民衆の誘惑でもあった、というわけです。そしてそれはまた、弟子たちからのイエス様に対する誘惑でもあったと、神父様はいいます。それがイエス様が十字架にかかる前のペトロに対して、「退け、サタン」という、非常に強い言葉――この言葉は悪魔の誘惑を、イエス様が拒否したときと同じなのです。そうするとここでは、サタン=ペトロという図式になってる。

そうまでしてイエス様が、なぜ、彼らの要求を拒否したか――がっかりさせたか、それは、アッバと呼べる方の御心が何であったか、ということが、イエス様にはしっかりと啓示されていたからです。

わたしたちの日常を振り返りますと、こうなら必ずこうなる「はず」――神様が必ずこうしてくれる「はず」だという、自分たちの願望を、神様に押し付けてしまいがちです。そういう危険性があります。しかし最終的にはわたしたちは神様の御旨にしたがっていくべき者です。どんなに願っても、病気や事故やいろいろな不幸から逃れられない部分があるわけです。そういうときには、わたしたちができるだけアッバの御旨を受け入れることができるように、その恵みを願っていく――

もっといいますと、一時わたしたちは、この現実の中ではがっかりすることがたくさんあるかもしれません。自分の能力、自分の苦手なことや人を避けたい、これらは人間として当然の欲求だと思います。しかし避け得ない現実の中に、何か、アッバの御心が、隠されているんだ、秘められているんだ、最終的にもっともっと大きな賜物が与えられるんだ、そういう希望をわたしたちは持って生きていきなさい――そういうふうに今日の福音、また井上神父様は語られているのではないか、そう思いました。アッバ、アッバ、南無アッバ。


本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバ」の心を生きるため、俳句を中心として、共に道を求め、祈り合うための月刊誌です。どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)
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落胆の中にも御心あり  

p.39「三つの誘惑」
39「三つの誘惑」
イエスに対する荒れ野での誘惑は、弟子や民衆の「聖戦」に対する期待でした。

しかし、自分の願いや欲望ではなく--当面は落胆しても、南無アッバ--アッバの御旨を受け入れることを、イエス様は生涯をかけて示されたのでした。


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