「南無アッバ」を生きる ホーム »2008年12月
2008年12月の記事一覧

過ぎ行くものの中にアッバの慈しみを見出す  

081231
ヨハネ1
1ヨハネ2


category: 日記・音声・小話

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

何にても御ミサが一番大晦日  栄一  

本当に大事なことは何かと考えて。。。。


category: ○雑記

thread: 求道俳句

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

冬休み日毎のミサに生かされて  栄一  

B081230
世にある欲は過ぎ去るが、神の御心を行う人は、永遠に生きる。
1ヨハネ2
ルカ2



category: 日記・音声・小話

thread: 求道俳句

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

BC キリスト教の「愛」は「掟」(おきて)ですか?(質問)  

081229
主の降誕第5日
1ヨハネ2
ルカ2


category: 日記・音声・小話

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

幼子はたくましく育ち、知恵に満ちていた  

聖家族
081228
創世記15
ヘブライ11
ルカ2


category: 日記・音声・小話

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

AB 聞いたもの、目で見たもの、手で触れた福音  

聖ヨハネ使徒福音記者
081227
1ヨハネ1:1-4
ヨハネ20:2-8


category: 日記・音声・小話

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

5.自己相対化から自己無化へ-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 同じく『フィリピの信徒への手紙』の「キリスト賛歌」について、井上神父は処女作『日本とイエスの顔』のなかでは、次のように述べています。

<イエスの心は、完全に永遠の生命-場に感応し、神の愛に充満して、太陽の光を受けて輝く透明にすんだ水晶のようでした。だからこそ、人間の心の哀しみや重荷をそのままの己れの心に映しとることができたのであり、血と泥にまみれた一見もっともみじめな人間の姿となって、カルワリオの丘の上で倒れたのでした。>
(第八章「幼子の心・無心」)

ここでも神父は、前掲書と同じようにイエスを、「太陽の光を受けて輝く透明にすんだ水晶」にたとえています。このたとえについても、また改めて触れたいと思いますが、いまは、これが先程来の神性・人性の統合とともに、三位一体をも視野に入れた優れた象徴的表現である、ということを述べるに留めておきます。

またいうまでもなく井上神父が、「血と泥にまみれた一見もっともみじめな人間の姿・・・・」と語るとき、イエスのあの「ただの叫び」が神父の念頭にあったことはまちがいないでしょう。

そのうえで神父は、続けて次のように述べます。

<その心を、パウロは、このピリピ(フィリピ)の教会に宛てた書簡の中で、〝己れを無にして〟という表現であらわしています。

原文のギリシア語はケノーシスという言葉ですが、このケノーシスという言葉に、神の御旨にすべてをあずけきって、プネウマ(聖霊)の動きのままになりきっている、スッカラカンの、底というもののない、ひろびろとしたイエスの心が、よくいいあらわされていると思います。>
(同)

「水晶」にたとえられるイエスの心は、「己れを無にする」「ケノーシス」(自己無化)的姿勢であるというのです。

アガペーなどと比べると、ケノーシスという言葉自体は、一般のキリスト教信者の間でもそれほどポピュラーではなく、井上神父の著作のなかでも多く使われてはいないのですが、わたしは、この言葉が示す内容は、日本人のキリスト教理解、とくに井上神学においては、重要なキーワードになるのではないかと、最近思うようになりました。

「悲愛」とならんで、「自己相対化」が井上神学の重要なキーワードであり、その究極の姿は、神を「アッバ」とよぶイエスの姿勢にあった、とわたしは述べてきました(『心の琴線に触れるイエス』一〇二頁他)。

いまこのケノーシスによってわたしたちは、より鮮明に、アッバに対するイエスの姿勢を思いめぐらすことができるのではないでしょうか。

すなわち、ケノーシスはアッバに完全に聴従し、自己相対化を徹底したところでイエスが行き着いた「自己無化・自己放棄」であり、先の『フィリピの信徒への手紙』によれば、それゆえにアッバの栄光を受け、わたしたちのキリストともなったのでした。

ここに、イエスにおける神性・人性が統合され、「水晶」としてわたしたちへアッバの光を届ける契機がもたらされたのでした。

そして、この究極の自己相対化すなわちケノーシス(自己無化)を、わたしたち日本人の感性で井上神学的に捉えなおすならば、それはまさに、すべてをアッバに委ねる「南無アッバ」の究極的な姿といえるのだと思います。
(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

4.神・人をつなぐもの-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 聖書学上これらの聖句の解釈は、細部にわたっておよそどの部分にも、さまざまな論説や争いがあるようですが、ここではそうした議論に深入りしようとは思いません。

むしろわたしは便宜上、かなり強引なことを承知のうえで、右の各聖句のうち、イエスの神性が強く表現されていると思われる箇所には  線を、おもに人性を象徴すると思わる箇所には  線をつけてみました。

これら両性がイエスにおいてどのようにか――混合・変化・分割・分離なく統一(カルケドン定式)されているというのです。人性を象徴する部分には、今回問題にしてきた「激しい叫び声」――「断末魔の大声」も含まれています。

 そしてもう一歩、わたし自身の想像を交えた考えを述べさせていただくなら、これら人性と神性を結び合わせ、統合する――カルケドン式には「混合」されないわけですが――いわば扇の要に当たる部分が、右聖句中の、  線部分なのではないかと思うのです。

すなわちイエスは、「自分を無にして、僕の身分となり」「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」を示し(フィリピ)、「祈りと願いとをささげ、畏れ敬う態度」をとり、また「多くの苦しみによって従順を学ばれ」(ヘブライ)たということ。

こうしたイエスの姿勢が、とりもなおさず、わたしたちの「救い」の根源たるイエスの「真の人」かつ「真の神」を立ち現わしたのだということです。

井上神父は、『新約聖書のイエス像』のなかで、神父の精神史に決定的な影響を与えたリジューのテレジアを紹介した後、『フィリピの信徒への手紙』の右の箇所に触れながら、次のように語っています。

<イエスの生涯は、己を無にして神の意を、すなわち私たち人類を神のふところに導き入れよという神の意を、十字架の死をもいとわずに生きぬいた生涯であったがゆえに、ちょうど太陽の光を受けて透明に輝いている水晶のように、父なる神のアガペーの深さと大きさを反映させている生涯でもあったのである。>
(一六二~一六三頁)

 イエスは、「己を無にして神の意を生き抜いた」がゆえに、「水晶のように」アッバの悲愛をそのまま映し出した生涯でもあったというのです。

そして、このようなイエスにあずかり、ならうわたしたちも、

<神の愛の支配に己を委ねる度合いに応じて、私たちの心の錆はおとされ、私たちの生活をとおして神の愛がにじみでていくことになる。そしてそれはとりもなおさず、永遠の生命がすでに私たちのうちではじまったということにほかならない。>
(八八頁)

のです。
 こうして、アッバからイエス、イエスからわたしたちへと、永遠の命、悲愛をもたらす要となったのが、イエスの、徹底して「己を無にし」、アッバの意志に徹底的に「従順」を示す姿勢だったのではないかと考えられるのです。

この態度こそ神性・人性の要となって、わたしたちの救いの根拠となったのだと思います。
(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

3.「ただそれだけ」をめぐって-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 その上で、もう少し考えてみたいと思います。
<私という、アッバの作品の仕上げとしての死は、どのような形でしめくくられるのかまったく分かりません。最後は「南無アッバ」と祈りながら、イエスさまにつきそわれてアッバにお迎えいただけるという願いを持ってはいます。

しかし、そんなことは何もできない、祈りも忘れたようなぶざまな死に方であっても「おみ風さま」(プネウマ)が必ずイエスさまとご一緒に、私の代わりに祈ってくださると信じています。

アッバのしてくださることというのは、私たちが考えたり願ったりすることよりも、もっともっと深くて、もっともっと大きいので、ただ南無の心でお任せしてゆったりと力を抜いていけばいいのだと思います。>(『イエスの福音にたたずむ』一〇四頁)

右のように井上神父が自身のことを語るとき、その脳裏には、イエスのあの「断末魔の叫び」があったように、わたしには思われます。もっとも神父に限らず、キリスト者が「死」を考えるとき、まず思い浮かべるのがイエスの死であることは、自然なことかもしれません。

その「叫び」は傍から見れば、あたかも「祈りも忘れたようなぶざまな死に方」ではなかったでしょうか。人間イエスとして、あの苦しみのなかで、意識的に何かの意図をもって叫んだり、語ったりするような余裕などなかっただろうし、それは人として当然のことだった。この一文は、そう考えている神父から発せられた言葉のように思えてならないのです。

 <おそらく師は、一人の人間の断末魔の叫びとして大きな声をだされた。ただそれだけのことだろう。>

 人間イエスが「祈りも忘れたような」「断末魔の叫びとして大声を出された」、「ただそれだけ」だからこそ、「ぶざまな死に方」しかできない「ただそれだけ」のわたしたちにも、「おみ風さまが必ずイエスさまとご一緒に、私の代わりに祈ってくださる」という信仰を、井上神父は表明できるのだと思います。

とすれば、イエスの「断末魔の叫び」は、人間として「ただそれだけ」であったからこそ、わたしたちの救いになったともいえるのです。

 ここまできてわたしは、十字架のあの「叫び」を「断末魔の大声ただそれだけ」と聞き、井上神父に肩透かしを食わされたように思っていたことが、(逆説的ですが)実は大変大きな意味をもっていたのだと、気づくのです。

つまり、「ただそれだけ」をキーワードとして、わたしたちとイエスの人性がつながるということです。
 井上神父が現代日本のキリスト教神学の必要性を説くとき、キリスト教の「救い」表現の多様性を示唆する、カールラーナーの次の言葉がありました。

<(キリスト教の)救いの原初的経験とは、単純に「われわれは救われた、なぜなら、われわれと同じこの人間(イエス)が救われたから」というものであった。>(『心の琴線に触れるイエス』三四頁参照)

やや教義解説めいてしまいますが、右のように言える――「われわれが救われ」るためには、イエスに神人両性、すなわち、わたしたちと同質であるという人性と、アッバと同質であるという神性が前提となる、というのが伝統的なキリスト教会の教えです。

<キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。>(『フィリピの信徒への手紙』二章六~九節)

あるいは、

<キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
>(『ヘブライ人への手紙』五章七~一〇節)

そしてこの手紙の著者は、

<この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。>(四章一五節)
と、説いています。

 『フィリピの信徒への手紙』のいわゆる「キリスト讃歌」はともかく、井上神学をみるのに、旧約的色彩の強い『ヘブライ人への手紙』を持って来るのは、やや場違いな気もするのですが、キリストの神人性が短い聖句のなかに、鮮明に出てくる箇所と思われるので、あえて引用しました。(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

2.人としてわきまえる-第21回ケノーシス的生き方-『風』誌第80号  

 では、当該『マルコによる福音書』一六章三四節についてはどうなのでしょう。
わたしはここで、先に引用した井上神父の言葉の後半に注目してみたいと思います。

神父は、「一人の人間の死に際の叫びがどういう意図でなされたのかを推論することは、たとえ誰に対しても、失礼なこと」と述べていました。

すなわち、人間イエスを含め、臨終の「叫び」の「意図」をあれこれ詮索すること自体が、死に行く人に対して「失礼」なことだと言っているわけです。

本稿(十七)では、井上神父の他宗教に対する態度について述べました。そのなかでわたしは、
<(多元主義的な考え方は)たしかに理想的かもしれないし、人当たりもいいかもしれない。

しかし、南無の心で、自分が相対的な者、有限ないち「プレヤー」に過ぎないと自覚したとき、右のような断言は、「神様の地位に自分を押し上げる」「傲慢」ともなりかねない>

という井上神父の言葉をもとに、神父が他宗教に対して判断留保の態度を取るのは、「一求道者としてのわきまえ」であると述べたのでした。

 あらためて辞書を引いてみますと、「わきまえ」(弁え)とは、
<物事の違いを見分けること。弁別。道理をよく知っていること。心得。つぐない。弁償>(大辞泉)
といった意味があります。実際の用例としては「分をわきまえる」などといった使い方がよくされます。

そしてこういうときは多く場合言外に、自分(我)(の意見や考え)を「ひかえる」(控える)、あるいは「出過ぎない」といった意味合いが込められていることが多いのではないでしょうか。

わたしはまず、井上神父の自分を「わきまえ」「ひかえる」姿勢が、当該〝叫びの意図推論問題〟についても貫かれているのではないか、と考えるのです。

すなわち、一求道者として、安易に他宗教との関係を判断することを留保したように、ここでも一人の人間として、臨終の叫びの意図をあれこれ推論することを留保し、ひかえた、ということです。

当事者としてそれによって生き抜いたこともない他者の信仰を云々できないように、わたしたちが生きられない他者の人生の終末の思いについて「推論」すること、それ自体が「傲慢」であり、「失礼」なことだからです。

それは、前者の「求道者としてのわきまえ」に比するなら、井上神父の「人としてのわきまえ」ともいうべき姿勢といえるでしょう。

 私事にわたりますが、わたしは小学生のとき祖母を亡くしました。彼女が臨終のとき発した言葉は、小学生のわたしには大変ショックなものでした。

それは、わたしが勝手に想像したようなドラマチックなものではなく、「あの気丈で優しかった祖母がなぜ・・・・」と疑問を抱く――他言することが憚られるような言葉だったからです。

しかし人間の死の現実とはそういうもの、少なくともそういうものを含むものだと思うのです。おそらく、こうした経験はわたしだけでなく、どなたかの死を看取ったことがある方なら、しばしば経験するところではないでしょうか。

あの臨終のひとことが、何か大きな意図をもって発せられたのだろうか、ましてやそこに、その人の人生が集約される、などということはそう簡単には言えません。

同じことが、少なくとも人間イエスに対しては言えるのだと思います。井上神父は、そうした人間存在のリアリティを知ったうえで、イエスの「断末魔の叫び」を「ただそれだけ」と受け取ったのではなかったでしょうか。

それは神父の、人間としてのまなざしの優しさを物語るものでもあるように思えます。
と同時に、「叫び」の「意図」を「推論」しようとすること自体が「傲慢」であり、「失礼」なことと主張する井上神父の姿勢には、何事も理性で分析しようとする主知主義への反発を、垣間見ることもできるのではないでしょうか。
(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop