「南無アッバ」を生きる ホーム »2008年09月
2008年09月の記事一覧

絶版本がプレビューできます  

拙著『今を生きることば』と『やわらかな生き方』が部分プレヴューできるようになりました。


category: ○お知らせ・報告

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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6.わが「思い」も御手のなか-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

『風』誌連載の「福音ばなし」をまとめ直した最新刊『イエスの福音にたたずむ』(日本キリスト教団出版局)において、井上神父はイエスの受難物語に関連して、次のように語っています。

<イエスさまは、アッバの望んでおられることを何よりもまず大切にして生きておられたのですが、これは大変なことです。私たちが、苦しいことや悲しいこと、別れなど、すべてそういうものをなるべく避けて生きていたいと思うことは当然なことなのです。

しかし、それをアッバがお望みになった時には「南無アッバの心」で、アッバからお受けすることができる力と恵み、そして、アッバがほんとうに私たちの人生を通して人々に働いておられるのだということを心からそうなのだなと思えることは、お恵みでしかないのです。そのお恵みをいただけるようにこの受難物語を読みながら思います。>(「イエスの最後の場面」二〇三頁)

ここにはまず、イエスにならい、わたしたちの苦しみや悲しみも、もしアッバがお望みになる時が来たなら、「南無アッバの心」でそれをお受けする「力と恵み」を願うことが勧められています。

そしてそのことと同時に井上神父はもう一つ、非常に大切なことを明確に述べているのです。それは、アッバがわたしたちの人生を通して働いてくださっていることを「心からそうなのだと思える」――納得すること自体が、アッバからの「お恵み」なのだということです。

少し敷衍します。前述したように、「心の底」とは無意識です。右の「心から」とは「心の底から」つまり「無意識から」と置き換えてよいでしょう。そこから「・・・・そうなのだと思える」のは、無意識から浮かび上がってきたものが、表層意識としての「私」に自覚されるということです。すなわち、「心からそうなのだと思える」とは、無意識から表層意識までも含めた「心」全体で納得する、ということです。先の「聖書講座」最後の願い、「心と体全体で受け止められる」というのも、同じ意味だと思います。

しかし、その「心」全体がどう思うかは「お恵みでしかない」――アッバの御手にあるということです。なぜなら、わたしたちの人生がアッバの働きの場であるなら、その一部である「心の思い」も、本来すっぽりアッバの御手の中にあるはずだからです。そして「お恵みでしかない」ということは、表層意識としての「私」がどう思うかさえも、お任せすることを含むのです。そのことを承知した上で、「そのお恵みをいただけるように」願うということです。

確かに、わたしたちが十分「心と体」でイエスの福音を受け止めるには、長い道のりを要するでしょう。しかし、事あるごとに、「南無アッバ」「南無アッバ」と唱える――ままならないわたしたちの「心の思い」をもアッバに委ねる。このことは、求道者として常に立ち返るべき忠言のように思います。(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 不安感と恐怖感

janre: 心と身体

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5.「南無アッバ」に向かって-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 「聖書講座」をしめくくるこの部分は、時間にして約十五分という短いものですが、『フィリピの信徒への手紙』から説き起こし、パウロの姿勢、芭蕉や良寛からの学び、そして苦しみや死の意味にまで及んでいます。井上神父がこれまでさまざまな著作や講演で繰り返し語ってきたことが、平易にまとめられており、〝「書き言葉」と「話し言葉」が極端に違う〟と自らいう神父ですが、その趣旨はきわめて明瞭です。

すなわち、イエスの生涯を頂点として、パウロの生き様、あるいは自然のなかで無心に咲き、散っていく草花に象徴されるように、わたしたちの人生は、本来わたしたちの手中にはなく、神(アッバ)が、ご自身の業を現出させる場なのだ、ということ。

そのことをしっかり自覚して生きることの意味と大切さ。そして、その喜びと平安を説いています。本稿ではこれまで、井上神学の多様性と一貫性について随時指摘してきたつもりですが、右にみたアッバの主導性と自己相対化原理――アッバ中心主義は、神父のすべての著作・講演に通奏低音のように常に響いている基調といえましょう。

 とはいえ、井上神父が指摘するように、わたしたちを回心に導くのは、深層意識的体験であり、その点でいえば、神(アッバ)は、わたしたちの無意識に働きかけるものです。ということは、なかなか「私」の表層意識や感覚にまでは上っては来ないかもしれない。ここに、わたしたちの人生は神の働きの場なのだという道理はわかっていても、心底で捉え切れない――否、心底に響いているはずの神の声がしばしば「私」に自覚できない、ややもすれば確信が持てない、という不安が起こるのです。

それゆえ井上神父は最後に、「それが頭でわかるだけではだめで、心と体全体で受け止められるようになりたい」と、求道者を代弁して自らも願いを表明しているのだと思います。そして、「頭だけではなく、心と体で」という言い方が、まさに前述した聖書の「学者読み」「体験読み」に対応していることに、わたしたちは気づくのです。

一九九四年の「聖書講座」はここで終っていますが、神父の求道はこの「願い」を述べただけに留まらず、これを実現すべく、その後も己に正直に、真摯な模索、努力が地道に続けられます。それは具体的には、日本人の感性に訴える「祈り」を求める道のりだったのではないかと、筆者はみています。その結実が数年後に辿り着くことになる(神父の言葉では〝流されついた〟)「南無アッバ」という事態なのです。このことについては、またあとで改めて触れてみたいと思います。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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4.死を通して働く神-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 わたしはこの句から、やはり思い出すのは、イエス様の生涯です。イエス様の十字架の死というものほど、おそらく、人間の生涯の中で、あれほどの大きな苦悩と、あれだけ大きな屈辱感――ほんとうにみんなの前で裸にされて、吊るされるわけです。おそらく、それくらいなら、死んだ方がいいとわれわれは考えるんじゃないかと思います。そういう大きな屈辱ですね。それから、弟子たちからも見捨てられて、弟子たちがみんな逃げてしまう。女性の弟子たちも慰めに出てこない。そういう孤独です。人間の人生として考えられる最も深い孤独と屈辱と苦悩が、あの十字架の死に凝結しているわけです。

 しかしまさに、そのイエス様の泥だらけになった、その十字架の死において、救いが、神様の救いの業が現存している。ご自分の業を現しておられるのです。ですから、イエス様のその死に比べれば、わたしたちの人生は恵まれていて暖かなものです。

 ひとりの人の死を通して神様が、ほんとうに働かれるというのは、たいへん不思議なものです。わたくしのような仕事をしていて、人の死というものに接していると(わかるのですが)、人間の死というのは、その人が死んでから不思議な力を残すものです。それはもちろん、イエス様の死と比べるようなものではないですけれども、しかしとても不思議なものだなあ、ということを感じさせられる。それはやはりその人の死を通して、神様が人々に働きかけておられるものなんだろう、というふうに思います。

 そういう意味で、信仰の目というものがもたらしてくれるもの、それは人間の目から見るとマイナスでしかない、マイナスのイエス様の死というものが持っている意味、それは神様がそこにおいて働かれる、イエス様ご自身が言っておられるように、イエス様ご自身の人生は御父の御旨を果たすためのもの、御父がご自分の業を御子の生涯において果たされるわけであり、わたしたち一人ひとりの人生においても、神様がご自分の業をなさるということです。

 それがなかなか頭でわかるだけではだめで、やはり心と体全体で受け止められるようになりたいと、わたくしも願っているわけです。それが、信仰の世界がもたらしてくれる平和と喜びというものではないかと思っています。>


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性

janre: 心と身体

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3.芭蕉、良寛から-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 そういう意味で、日本人としてわたくし流にこれを理解させてもらいますと、芭蕉の句に――わたしの好きな句ですけれども、

  山路来て何やらゆかしすみれ草

という句がありますね。あるいは、

  よく見れば薺花咲く垣根かな

という句とかね。生きとし生けるものは、それぞれの命を生きている。それで、何が芭蕉の心を打っているかというと、山道に来て、小さな「すみれ」の花が咲いている。「すみれ」の花は一生懸命、無心にそこで咲いている。でも、たくさん人が通って来て、うんと褒めてくれればいいとか、あるいは、こんな所で咲かないで、もっとたくさんの人が褒めてくれるような所で咲きたいとか、そういうことはなく、じっとそこに咲いている。だから「すみれ」はもっと大きな命の働き――芭蕉の言葉で言えば、「造化」です、造化の営み・・・・。「造化に従い、造化に還れ」というのは、芭蕉の俳諧の精神だと思いますけど、この造化に従って造化に還っている「すみれ」の姿というものが、芭蕉の心を打っている。

 「薺」――ペンペン草というのは、人間の視点から見ると、雑草だ、たいしたものじゃない。人間の目から見ると、桜や梅はきれいで、バラはすばらしいということになる。ぺんぺん草はだめだ、ということになる。しかし実際には、大自然の命が自らを表現している場としては、ペンペン草もすみれも桜も梅もかわりはない。人間の小さな計らいから見ると、そこに差が出てくるというだけであります。

 すなわち、大自然の命が自らを表現する場、その大きな神様の営みを表現する場としてのわたしたちの人生。信仰がもたらしてくれるもの、それは、そういうことが見えてくることだと思います。

 そういう意味で、一本のペンペン草、一本のすみれとして、大きな大自然の命に生かされ、大きな大自然の命が自らを表現している場として自分の人生が見えてくるということが、非常に重要なことなのだと思います。

 そうすれば、たとえば、元気でいっしょうけんめい働いて、たくさんのものを作ったり、たくさんの人を助けたり、あるいはいろいろなものを書いたりしている、人間の目から見て、ほんとうによく働いている人と、あるいは、もう病気になってしまって、寝込んでしまい、何にもできない、他人の世話になるばかりである――。そのような状態が、片方の人はよく働いている、片方はよく働いていない、というようなのは、非常に小さな見方であって、そういう人の孤独な苦しみのなかでこそ、神様の業は、もっと鮮やかに実現されていくかもしれない。

 それは、神様がご自分の働きを現前させる場なのだから、人間がチャカチャカ動いて、代議士になってどうとか、社長になってどうとか、というのと、寝たきりと――神様の現前させる場としてみたら、どっちがどうかわからない。

 ということがわかれば、どんなに歳をとって孤独になり、苦しみだけが襲って来ても、パウロが言うように、この苦しみとこの屈辱のなかで、神様の業が実現されていく場なのだと思えば、その苦しみには大きな意味が出てくるはずです。この苦しみに、孤独や屈辱に意味がなかったら、わたしたちは耐えられないのです。これは、フランクルも言っています。しかし意味が出てきた場合、わたしたちはそれに耐えることができる。

 実際たとえば、子供のためにやることなら、どんな苦しいことでも耐えられるでしょう。しかし、何のための苦しみだかわからなかったら、耐えられなくなる――。
 これも非常に好きな、わたしがよくいう、良寛さんが死ぬときに口ずさんだ句ですけれども、

  裏を見せ表を見せて散る紅葉

 裏を見せたら笑われるだろうとか、そんなことをやっていれば黒いどぶのなかに落っこちちゃうだろう、みんなが笑うだろう、ということはなく、ただ大きな風に任せて散っていく紅葉が、はじめてわたしたちに大きな秋の風を告げる。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 短歌

janre: 小説・文学

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2.「聖書講座」の結び-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 「無意識の信仰」――無意識に働くアッバの主導性への信頼、という点で、もう一箇所取り上げておきたいのが、次の聖句です。

 <あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(『フィリピの信徒への手紙』一章六節)

 ここには前句とちがい、無意識の「思い」を直接連想させるような言葉は使われていませんが、わたしたちの「中で」決定的にアッバが主役となる人生への信頼と「確信」が、述べられています。

 井上神父は一九九四年(六七歳)、十一回にわたって行われた「聖書講座」の最終回、「信仰の世界がもたらしてくれるもの」と題した講話の最後の部分で、この聖句を引用しながら、大変印象的な話をしています。講座全体をしめくくるに相応しい内容、語り口で、筆者自身も何十回となく聴いているところです。お聞きでない読者も多いと思いますので、ここで少し長くなりますが、その最後の部分のテープを起こしながら、ごいっしょに味わってみたいと思います。

(注:以下は、筆者自身がテープを聞きながら、できるだけ忠実に文字に置き換えましたが、趣旨を損ねない範囲で反復などを省略したり、意味が通りやすいように若干の加筆をするなど、適宜編集部分があることをお断りしておきます。途中の小見出しも筆者によるものです。

 なお、インターネットにより、この「聖書講座」全十一巻を聞くことができます。
http://page.freett.com/yohaku5info/index.htm)

 <・・・・(『フィリピの信徒への手紙』一章六節を)お祈りのときしっかり黙想してください。

 この句は、男子の信者が司祭に叙階される時に、司教が一人ひとりに向かっていう言葉です。あなたの中で善い業を始められた神様が、あなたの中でその業を完成してくださる、というのですから、主語はもう「わたくし」ではないのです。神様がわたしにおいて、その業をなさる。これは、司祭職とは限らず、すべてわたしたちの人生は、全部そうなんです。・・・・わたしたちの人生は神様がはじめられた業を、神様が完成なさる。そうすると、わたしたちが自分で見て、こうするとか、ああする、こうしたいというのではない。神様がなさる。

 『コリントの信徒への手紙二』四章一〇~一一節には、こういうパウロの言葉があります。
 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」

 これは、何千キロの伝道旅行をして、山賊に会ったり、反対者に殺されそうになったり、海では遭難したり、様々な苦しみを経てきた彼が初めて言えることです。すなわち、この自分の苦しみというものは、イエス様の命が現れるため――自分を表現するための自分の人生でもないし、自分の苦しみでもない。それは、イエス様がご自分の命を現わされるということなのだ、というわけですね。これは主語が逆転している・・・・。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 宗教・信仰

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1.ヤーウェとアッバの主導性-第20回すべてはアッバの御手に-『風』誌第79号  

 前回は、意識的「私」に対する無意識の他者性について言及しました。少し敷衍すると、一般的に「意識」が言語・時間・社会(世間)・理性的特徴を持つのに対して、「無意識」は、視覚・無時間・非社会・感情的特徴を持っているといいます。また、「無意識」はいわば「駄々っ子」のようなもので、「意識」はその「保護者」の役割を果たしている、などというたとえが使われることもあります。いずれにしろ、「私」意識には届かない奥深さ――深層意識が、わたしたちの行動、人生に、重大な影響を及ぼしていることは、まちがいないでしょう。

 遠藤氏が指摘したように、この無意識――阿頼耶識には、人間の「ひそかな欲望」がつまっており、それは、表層意識として自覚される「私」には、思いも寄らない、おどろおどろしい感情なのかもしれません。昨今世間を騒がしている、一般の目からは理解しがたい殺傷事件などにも、無意識のなかに蓄積(抑圧)された感情噴出の怖さが想像されます。

 にもかかわらず、新約時代の人々は、遠藤氏と同じように、無意識に働きかけて、人を動かす、アッバの絶対的主導性を信じていたのだと思います。前回引用した『エフェソの信徒への手紙』の他の箇所からも、そのことがうかがえます。

 <わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に・・・・。>(三章二〇節)

 たしかに、旧約聖書にも、
 <天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。>(『イザヤ書』五五章九節)

といった、神(ヤーウェ)の絶対的主導性を表す思想が根本にあります。しかし同時に、ヤーウェの「道」、その「思い」に従わなかった者、悔い改めなかった者には、相応の罰が科せられる、という考えも強いのです。

 一方、新約聖書――イエスにおいては、あくまで「アッバ」とよべる神の主導性であり、旧約の根本にある「裁きと罰」の父性原理を超克しています。井上神父は、『わが師イエスの生涯』で、

 <いかに師イエスの生涯と教えが旧約思想を否定、超克したものであったか・・・・。>(三一頁)
 <師イエスの生涯と教えは、この嶮(けわ)しい、近づき難いユダヤ教の神観の否定と、超克の上にこそ成り立っている。>(三三頁)

と、繰り返し述べています。このことを、先の『エフェソの信徒への手紙』三章の聖句にあてはめていうなら、まず人間の弱さ、罪深さを受け入れるアッバが根底にあって、そのうえで、「わたしたちの内に働く御力によって」自らの主導性を発揮される神、という点に旧約とのニュアンスの違いがあります。上から(外から)働く絶対神ヤーウェと、「内に働く」悲愛の神アッバの違い、ともいえるでしょう。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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求道俳句とキリスト教「余白の風」第153号2008年9月発行  

Copyright©2005余白平田栄一,All rightsreserved.

主宰近詠  蓮田市 平田栄一

バス停にバス一本をやり過ごし見入るスミレやかすかに震え

心底より笑えぬ心一つあり一つ消えてはまた一つ出づ

入稿を終えし書斎片づけて余命幾ばくの清しさに居る

木漏れ日に木々らじっくり思い出を語り合うてはそよ風に揺れ

夕闇の書斎に茂吉を貪れば階下に弾けるギターの哀し


わたしたちキリスト教俳人同士が互いに求道俳句を研磨し合うほかに、キリスト者でない方からの批評も、興味深く、また大いに参考になるものです。以下、拙句歌について最近頂いたコメントを、少しく紹介させていただきます。

ステファノ忌嘘押し通す子の痛み 栄一

「殉教者ステファノの忌日がいつなのか不明にして知らないが、教会にとっては大事な日なのでしょう。子の嘘を嘘と知りつつ聞いてやる。子の痛みはそのまま作者の心の痛み。教職にあられるクリスチャン俳人の胸にしみる一句である。」(「麦」八月号・綾野道江)

夕暮れは眼の底から冷えてきて悲しい記憶ばかりを起こす  栄一

「上句がたいへん美しく感覚的。視覚と触覚が働いているいい歌だと思った。どのような悲しい記憶かはわからないが、起こすという他動詞を結句に置いたところに力がある。ある長さの人生を歩んできた人のゆうぐれの眼を思う。」(「未来」八月号・菅洋子)


こちらは、ネット掲載記事から

「――日本文学とキリスト教――
俳人シリーズ第三回 平田栄一  
  
■作者について
現在作句を続けているカトリックの方で、文壇的には無名に近いが、信仰のよくうかがわれる平易でわかりやすい句を書き、ネット上でも多く発表している。

キリスト教の俳誌を同人と主宰したり、自他のキリスト教に係わる俳句を集めて解説した著作「俳句でキリスト教」(サンパウロ社)を書いたりしている。

求道俳句でキリスト教に親しんでもらう活動のほか、井上洋治神父の日本人の風土に合った神学も紹介している。「心の琴線に触れるイエス」(聖母文庫)など。

■作品
つまずきの石取り去られ盆の道

蝉しぐれ天に宝を積む如く

末席の気安さが好き夏の宴

希望というパン賜りぬ夏のミサ

夏期講習マルタマリアと揺れ動く

主のもとに駆け寄る夢や昼寝醒め

夏の雲湧いては四方へ遣わされ

ガダラの豚なだれ込みたる夏怒濤

白秋の風に溶けたるイエスかな

人類なら愛せそうです秋を行く

十字架の高きを流る羊雲

仰ぎ見る十字架優し敬老日


(常盤台バプテスト教会・お話:大田雅一)


作品とエッセイ(*主宰寸感)

豊田市  佐藤淡丘

きりぎりす鳴けリ工場跡地錆ぶ

校門の幾日閉じて晩夏かな

二階より聴くこほろぎの一夜かな

秋風や十字大きく切るがよい

うれしさよ虫の音われに問ふごとく


   小さな慰め
 ケイタイなるものから解放されて、やがて五年近くになります。その分交際範囲も狭まったでしょうが、殊更不自由なことはありません。これに同調するかのように、パソコン、テレビ等の映像の世界からも遠退くようにしていて、まさに化石人間に近い生活をしています。

 手紙は縦書き便箋にペン書き、電子辞書も使わず、分厚い「広辞苑」と漢和辞典をよっこらしょ、と引いて筋トレの一助としています。

 新しい情報は専らラジオ、新聞はコラム欄と社説だけにさせてもらい、日々頂いた時間の半分を福祉施設の掃除ボランティアに使わせて貰うという今の生活リズムは、神さまからの恵みそのものと思っています。南無アッバ。

*ケイタイは、わたしも「解放」というか、最初から持ったことがありません。主義主張があるわけではなく、なくても困らないので持たないだけです。ですから、あれをいつも肌身離さず持つ生活が、想像するに、すごく煩わしい気がするのです。

 むしろ今、気に入って持ち歩いているのは、バイブルサイズのシステム手帳です。これを、当然のように携帯を愛用している家族に見せたら、「そんなもの持ち歩いて、面倒じゃない?」って首を傾げられました。ますます人それぞれの時代なんでしょうね。

 それにしても、淡丘氏の「化石人間」徹底振りは恐れ入ります(笑)。不要なものを削った挙句の「ボランティア」や「生活リズム」とは、まさにアッバからの「お恵み」なのですね。秋を迎える静けさと前向きな句柄に共感します。


名古屋市  片岡惇子

両の手に真珠となりし玉の汗

打水やこだわり捨てて風の立つ

伝わらぬ意思の愛しき蝉時雨

夏の薔薇散りて知りたる主の心

神在りとさやかに見えず秋の風


 名古屋市には、一人くらしの高齢の方に、申し出により電話を設置し、その後ボランティアにより安否の電話をする「安心電話」という制度があります。たまたま、この電話相談員の募集があり、応募、初めて二十数名の方にお電話しました。

数分の会話ですが、一日中話すこともなく過ごされる方にとって、会話することは嬉しいことではないかと、私の経験から察しられます。

初回でありながら困難な相談を受けました。生きることの辛さを感じさせられましたが、少しでも暖かいコミュニケーションを持つことが出来ればと思います。神様が、又、私に働く場所を与えて下さいました。

*「安心電話」とは、なるほどやり方によっては、素晴らしい愛の行いになるのですね。

 このお話から、わたしは「マルタとマリア」のエピソードを思い出しました(ルカによる福音書一〇章)。忙しく立ち働くマルタに対して、イエス様は次のように言います。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。

マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(四一節)イエス様が「必要なことはただ一つ」という、その「良い方」とは、この文脈で言えば、「主の足もとに座って、その話に聞き入」ることですね。この時、ご自分の話を、マリアに熱心に聞いてもらえたイエス様は、正直うれしかったと思うのです。

わたしなどは、マリアと正反対で、相手の話を待たずについつい自分からしゃべってしまう方なので、片岡さんのような聞き上手な方を尊敬します。そのお人柄が今回の句にも出ています。とくに、「主の心」「神在り」の二句、求道俳句として優れています。


秦野市   長谷川末子

一匹じゃ淋しいでしょう赤とんぼ

あり合せ並べる夕餉虫の声

茄子が来て煮付を分ける団地かな

秋雨は山の彼方のお蔵まで

慈雨去りて歓喜の如き蝉時雨

主とペテロ湖渡る秋の波

新約をくみ取れぬ儘夜長かな

花茗荷姉妹召されし庭に生ふ

秋すだれ選句の席に影落し

秋茄子を漬けて糟糠の妻となり

秋の夜情ある友と長話

葉鶏頭気の合ふ友と大笑ひ

鰯雲羽音残して鳥一つ

法師蝉むくろとなりて吾のもの

導かれ御手にすがりつ老夫婦


CDを有難う御座いました。メロディが時々浮かんで参ります。時間をかけて拝聴いたします。『俳句でキリスト教』を改めて拝読して居ります。世界の人々がお互いの違いを尊重して、大きな輪となって大庭に入りたいと思いました。

これからも教えて下さいますように。少しずつ心が開いて行く思いです。今一度俳句に戻りたいと考えています。前頭葉をゆり動かしたいと思って居ります。改めて御指導下さいます様に御願い申し上げます。

*茄子が来て煮付を分ける団地かな  末子

 いわゆるマンションではない「団地」生活というのは、どこか郷愁があって、昭和の良き人情が残っているような気がします。堅実で落ち着いた生活の模様が、諸句に素直に表現されています。

 まとまった本の形では個人句集を出していないわたしにとっては、『俳句でキリスト教』が、約二〇年の求道俳句生活――ライフワークのまとめといっていいと思います。あそこに俳句や信仰について学んだことや言いたいことを、ほとんど盛り込んだつもりです。再読まことにありがとうございます。

 今ご投句くださっている方々は、みなわたしにとっては人生の大先輩方です。こうして編集している自分が一番学ばせていただいているなあ、と実感します。


一宮市  西川珪子

蹲居の波紋やさしき浴衣会

眼を閉じて懺悔の祈り遠花火

磨き上げるメダイの鎖り被昇天

蟻の列崩せし罪を祈りに入れ

大き目の項垂れてゆく向日葵は

ひとときの夏物語鵜飼かな


*<浴衣会>のくつろいだ気分に応えるかのように、蹲居の波が揺れている。

<遠花火>にアッバの光、声を聞きながら、静かな祈りが捧げられます。

<メダイ>の鎖――ロザリオの鎖が連想され、永井隆さんや原爆のことへ・・・・「被昇天」効いています。

<蟻の列>のような小さな者への愛情。良寛さんを思い浮かべました。

<向日葵>が炎天下、わたしたちに代わって祈ってくれます。

<鵜飼>の姿に、ひと夏の思い出がよみがえる。

カトリック俳人の短い黙想話:余白

以下は、去る八月一〇日~三一日まで、「毎日のミサ」(カトリック中央協議会発行)をテキストに、一回五~七分の短い個人的黙想話をインターネットにアップしたもの(音声)から起こしました。

「気前のいい神」

八月二〇日(水)聖ベルナルド記念日

(エゼキエル書三四・一~一一、詩編二三、マタイによる福音書二〇・一~一六)

聖ベルナルドは十二世紀前半、教会の分裂を修復すべく、平和と一致のために活躍しました。
その記念日にちなんで、今日全体の朗読テーマは「牧者」になっているのだと思います。

第一朗読のエゼキエル書では、神自らが、ご「自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と宣言されます。それを受けて、詩編は二三、典礼聖歌は、私の大好きな一二三番が歌われます。

そして福音の方では、このところずっと続けて読まれている「マタイによる福音書」から、「ぶどう園の労働者」のたとえが読まれます。このたとえは、ある意味でむずかしいとよく言われます。すなわち、わたしたちが馴染んでいる、現代の一般的な労働条件からは、なかなか推測しにくい話として有名なのです。

このペリコーペは、天の国では「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(二〇・一六)という言葉で話が締めくくられていますけれど、その前の節では、ぶどう園の主人が、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。

それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」という言葉を最後に言うわけですね。このぶどう園の「主人」を「アッバ」と置き換えてみますと、非常に気前のいい神様、アッバというのは出し惜しみをしない方である、ということになる。そういうことを、今日は黙想の種にしてみたいと思います。

これはちょっとめずらしい黙想ネタかもしれませんけど、イエス様は、他の箇所、たとえば「マタイ福音書」の山上の垂訓でも〝アッバは正しい者にも悪い者の上にも、同じように雨を降らせ、太陽を昇らせてくださる〟(五・四五)というようなこともおっしゃっています。

こういうことから、神様の考える平等性、公平さというものと、わたしたちが一般的に、政治や経済社会のなかで考える平等性や公平とは、ちょっとズレがあるということを知っておくべきではないか、と思うのです。

わたしたちは、人間の常識で、平等とか不平等とか、こちらが良いとか悪いとか、分別をつけようとするわけですが、神様には別の基準といいますか、むしろわたしたちの考えるような基準はないといった方がいいかもしれません。

そういう意味での「気前の良さ」というものを、常にアッバはお持ちになっている、そのことをわきまえるべきではないか、と思うのです。

これもなかなか、わたしたちには頭で考えてわかるような「気前の良さ」ではないかもしれません。であればなおさら、わたしたちは「南無アッバ、南無アッバ」ということで、「どうぞ神様の基準でわたしたちを見てください」とお任せするということですね。

それも安心して――つまり裁く、裁かれるということではなくて、神様の基準の目から見たときには、すべての人が平等に、公平に置かれていくんだ、ということを希望を持って、わたしたちも黙想し、お祈りしていきたいと思います。


井上洋治『イエスの福音にたたずむ』

 井上洋治神父様の新刊が出ました。長い間主宰誌「風」(プネウマ)に連載してきた「福音ばなし」に、加筆訂正した、説教集です。

 井上神父様は、これまで多くの著作を出してこられましたが、説教集としてまとまった本は初めてだと思います。もともと実際に話された内容なので、非常にわかりやすく、またミサ中の説教ですから、簡潔に要点をついています。

 構成がイエス様の御降誕から始まり復活へと、福音書の順番になっており、先年出された『わが師イエスの生涯』と並行して読むなら、南無アッバの心が少しずつ醸成されていくように思います。(日本基督教団出版局)


後 記

*本誌「余白の風」年会費の件につきましては、皆様にご協力いただけることになり、心よりお礼申し上げます。今回の件だけでなく、日頃から原稿とともに、皆様からいつも暖かなお声を掛けていただき、小さな会ながら、ここまで十八年余り続けてきて、ほんとうによかった、そしてなんと贅沢で有難いことだったか、と改めて感謝しております。
今後ともよろしくお願いいたします。

*「余白の風」既刊号の残部があります。
 号数指定には応じられませんが、所属の教会やお知り合いに配布用として、お申し出頂ければ、無料でお送りいたします。希望総数をお知らせください。

*上記「カトリック俳人の短い黙想話」のCDを、ご希望の方に手作りします。
①〇八年八月一〇~一九日版
②〇八年八月二〇~三一日版
の別をお知らせください。(一枚送料共千円)
*①は今回会費納入してくださった方に無料配布したものです。
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主宰著作『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)、『俳句でキリスト教』(サンパウロ)他。
本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は、井上洋治神父の提唱する「南無アッバの心」を生きるため、俳句を中心として、共に道を求め、祈り合うための機関誌です。どなたでも、賛同される方の参加をお待ちしています。(原稿採否主宰一任)

○締切=毎月末
○年会費二千円(半年千円 A4版誌代・送料共)
○投稿先 郵送またはHP「今を生きることば」から。
購読ご希望の方は、余白メールでお申し込みください。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

janre: 学問・文化・芸術

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日本人にわかるキリスト教を求めて

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