「南無アッバ」を生きる ホーム »2008年06月
2008年06月の記事一覧

2008年3月発表作品  

「麦」より

広場に座して
ルカ7・31-35

虎落笛聞きて遊行の道遥か

御言葉を蒔く
ルカ8・4-15

首筋の齢隠せず秋彼岸

十二人の旅
ルカ9・1-6

青き踏む回峰行の気分もて

ヘロデ、イエスに会いたがる
ルカ9・7-9

彼岸明け道よぎる犬と目の合うて

天使ら昇降する
ヨハネ1・47-51

明け切らぬ御堂に灯しミカエル祭

アッバミサ
幼子に示す知恵
ルカ10・17-24

花蕎麦や倒れしままに咲き盛り

からし種一粒ほどの信仰
ルカ17・5-10

宵闇に出口は見えずとも信ず


category: 平田栄一求道詩歌(2)

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

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2008年2月発表作品  

「麦」より

迎えに出でよ
マタイ25:1-13

花婿と夜道を下る夏の果て

聖者よ、かまわないでくれ!
ルカ4・31-37

ままならぬことのあれこれ秋の暮

ときに叱り、癒し、そして去る
ルカ4・38-44

白秋の風に溶けたるイエスかな

イエスの弟子とは
ルカ14・25-33

腰すえて日々を担えや秋の雲

悲しみの聖母
ヨハネ19・25-27

人類なら愛せそうです秋を行く

どこまでも探し回る神
ルカ15:1-10

十字架の高きを流る羊雲


category: 平田栄一求道詩歌(2)

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

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2008年1月発表作品  

2008年1月 麦
救いへの道のり
申命記10:12-22
二度とかたくなになってはならない。(:16)
マタイ17:22-27
彼らをつまずかせないようにしよう。(:27)

つまずきの石取り去られ盆の道

自分を低くし、子供のようになる人が天国へ入る
マタイ18:1-14

殊のほか静かに暮れしコルベ祭

イエスは、火と分裂をもたらすために来た
ルカ12:49-53

死蝉の吹き寄せられし垣根かな

永遠の命を得るには。。。
マタイ19:16-22

蝉しぐれ天に宝を積む如く

見かけた者は、だれでも招かれる
マタイ22:1-14

末席の気楽さが好き夏の宴

教師はキリスト一人だけ
マタイ23:1-12

ガラシャ忌を一人下山の道辿る

百人隊長の信仰
ルカ7・1-10

仰ぎ見る十字架優し敬老日

若者よ、起きなさい
ルカ7・11-17

復活の予兆あちこち露月の忌


category: 平田栄一求道詩歌(2)

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

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求道詩歌とキリスト教「余白の風」第150号  

プリント版

2008年 6月発行
Copyright©2005余白・平田栄一,All rights reserved.

主宰作品   蓮田市 平田栄一

形なき神に形を与えたる掟に勝る愛というもの

悪霊が豚に移りてなだれ込む海の青さを忘れじと思う

自分だけ安全圏から語ること神はときどき許し給えり

わが詩集夜毎開くと微笑んだ君は寂しく縊死を遂げたり

気がかりがわけなく氷解するような朝の青空道行く人ら

歌に読む死の際数多涯もなし吾が死の恐れ薄められしも

夕暮れは眼の底から冷えてきて悲しい記憶ばかりを起こす


自分の十字架を負う    ルカ14・25~33
日にひとつ覚悟のありて冬隣

どこまでも探す神   ルカ15・1~10
立冬の光ゆらゆらコップ酒

からし種一粒の信仰   ルカ17・1~6
老木の芽吹きを風が見届けし

清められた一人は、神を賛美しながら戻ってきた。  ルカ17・11~19
転生はあるやもしれず冬の虹

「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」ルカ18・35~43
脇役を生き生き演じ文化祭

わたしの家は、祈りの家  ルカ19・45~48
名所なき古里が好き新嘗祭

尼寺にひとり詣でる復活祭

春雷の中に佇む天女かな

死後説くにもっともらしく木下闇

魔が差したという他ない蜃気楼

明急ぐ白き指から湯灌かな

二の腕に痒み走りて夏の月

髪洗う昨日の日記つけてから

三一の主日を流る羊雲

結社という死語飛び交うや初句会

妻と行くミサは降られて聖体祭

苔の花一坪の世を照らすなり

笑顔見て労報われし母子草

豆腐屋が過ぎて春霖強まれリ

風が出て白き日曜暮れにけり

三兄弟揃う杯春の宵

春茜ヒト七色にときめきぬ

神の子を集める神が弥生尽

アブラムがアブラハムへと木の芽時

枯れかけた花が見頃の裏通り

菜の花を抱きて暗し仏国土



作品とエッセイ(*主宰寸感)

名古屋市  片岡惇子

ビア・ドロローサ(十字架の道)
雷雲や十字架の石の道歩く

我十字架あまりに軽き薔薇の刺


エルサレム~ベツレヘム
戦争と平和背をあわせ琵琶熟す

心の壁外せば神の地芙蓉咲く


ガリラヤ湖
主が招く手湖を歩かん夏光る

溺れんとす我にイエスの掌夏の湖


ダボール山
向日葵の一面続き変容の山

エマオ
心燃ゆエマオのミサや夏盛り

聖書の勉強を始め、思いにかられイスラエル巡礼に。
厳しい出入国検閲で緊張し、エルサレムのホテルに着いた時は、疲労は頂点に。スタートすると元気が出て喜びが沸騰。

ついに、イエス様の地に来ることが出来た。生かされている喜び。しかし、イスラエルは、聖書から描いていた地とは違い、オリーブ山も高級住宅が並び、高層住宅が聳え立っています。

十字架の道行きの両側には商店が並び、ガリラヤ湖の周辺は、リゾート地。街の全ての建物が石灰岩で美しく、遺跡と調和していてほっとしました。

黒い帽子に黒いスーツの男性、長いスカートの女性等、何千年もの習慣を守っている人たちがいるかと思えば、肌を晒けて闊歩する女性たち。どっと押し寄せている巡礼団・観光客。人種、宗教の違う人たちが共存、平和で繁栄の道を進んでいる。

花柘榴、ばら、夾竹桃、ブーゲンビリア等花園。琵琶、バナナ、西瓜、マンゴー等果物は豊富。その中で、どこへ行っても銃を持った兵士が目立ち、マグマを抱えた地であることを思い知らされます。

巡礼中は毎日ごミサ。記念の教会、時には修道院の庭で、涼しい風を受けながらのミサ。時にグレゴリアン聖歌が聞こえて来て、胸に沁みます。

ここに在ることの感謝。ミサの中で、特別な願いの祈りをして来ました。憎しみから解放されて許しあい、世界に平和をと。パレスチナ自治区となっているベツレヘムで、幼い少女が、小さな手を重ねて物乞いをしていた姿は痛く心に残っています。

*まこと有意義な巡礼旅行でしたね。たくさんの驚きと喜び、そして悲しい現実も・・・・全部込みで学んでこられた。そして全部がアッバの御手の中のこと。南無アッバ。

―――――――――

豊田市  佐藤淡丘

全島の屋根低くしてさみだるる

かたつむり信じるものは堕ちもせで

鉄線花たおやかに垂れショパン聴く

恥じらひて葉うらをみせる風薫る

転(まろ)びても天に恥じずよ実梅落つ


私の憩の丘(自称・会神の丘)に次のような立看板をかけさせて貰いました。

 この石の
   上を過ぎる
 小鳥たちよ
   しばしここに
 翼をやすめよ
         南吉

板切れに黒ペンキを塗り白文字。日本の足を柵に括りつけ、そばの大石(直径約一メートルの台座)の南東の方向にひっそりと揚げました。

新見南吉(詩人・童話作家・昭和十八年没享年二九歳)の詩「墓碑銘」より拝借した一節であります。この看板は、どうゆう訳か、一ヶ月も経つのにどなたも毀しません。

小鳥たちも寄って来て、いつもより大きく囃し立てているようです。今回、童話の森「新見南吉記念館」(愛知県半田市)を訪ねた想い入れが実現したのです。ああ、なんとうれしい。

*掲げられた南吉の詩と御諸句が、ぴったり呼吸が合っているように思います。第二句、アッバに全面信頼するものは、たとえ虫でも守られる。

――――――――

秦野市  長谷川末子

丹沢の山が消えた
雨雲が消した

相模川に釣竿が並ぶ
釣人の思いは

散歩道に卯の花が咲いた
純白さと香り

御業の不思議
秘密が一杯


*「天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる・・・・」(詩編)を思い出しました。そのアッバの御業をしっかり見つめている作者の目が輝く。

――――――――――

相模原市  柳瀬佳枝

哀しみを土に埋めて花一輪

向日葵のやうな修道僧草原に立つ

講堂の如来さまに春の色

雨が寄り添つてくれる春だ

道を説く愛しきあなた神のごと沈黙ありなば狂ほしき御手

月夜
悲しいことがありました
とても悲しいことでした
ひとりぼつちがさみしくて
お空を見上げていのります
月夜が悲しむ夜でした

うれしいことがありました
とてもうれしいことでした
だれかにそつと話したくて
お空にむかつて話します
夜風がやさしい夜でした


*詩形・文体にこだわらず、いろいろ試してみてください。私自身、求道詩歌という考えで実験しています。道を求める文体、という一点でわたしたちは共通項を持っています。

――――――――――

福岡市  牧山 おさみ

最近どうも、若い頃よりも昔からの自分を振り返る事が多くなりました。私は、小さい時から、夕日を見ると泣いていたそうです。赤ん坊には、夕暮れ惜しみをする子は多いらしいのですが自分は、特に酷かったと聞きました。

子供の頃に見た夕日は、きっと自分の心そのものだったんだ!最近そう感じる事が多くなりました。そして今でも・・・・。その夕日は、私の心の中で何時も自分に向かって差し込んでいます。なんだか、秋の夕暮れの様に!

自分は、この心の夕日を沈める為に、生まれて来たのかも?そして、やがて来る日の出に備える為に・・・・

でも、その心の日の出を見ることが出来るのは、私自身では無いかも知れない!?とも、最近感じる様になって来ました。

次の魂・・・?
普通カトリックでは、輪廻転生は教えませんし、自分も俄かには信じがたい部分です。が、もしこんな考え方を見たり、聞いたりしてその日の出は、俺の為、私の為、と、思ってくれる人が居るならそれはそれで、実質的輪廻転生かもね?(笑)なんて、思ったりもします。何でも良いんですよぉ、きっと。老いるまで、死ぬまで心に持ち続けて、その答えを探す。これが人生!

人はなぜ、老いて死ぬのかを考えた事が有りますか? 多数の人は病気で、多数の人は事故で、またある人は事件に巻き込まれ、ある人は自ら・・・・病気で余命幾許も無い老人の見舞いに行くと、苦しそうでは有るのですが何故か思うのです。私はこの臨終の苦しみに耐えられるか?と。

そう、人が老いて死んでゆくのは、正しく臨終の苦しみに耐える為、と、仮説を立てれば、すべては納得行くのではないでしょうか? ご老人は大体、若者よりも目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、歳をとるにつれ人は大半が、若い頃よりも体の機能が衰えてきます。これは多分社会的にはもどかしく、若い人には煩わしい事なのかも知れません。

しかし意味が有るんです。人は、年老いても体の機能が若いままだと、きっとあの臨終の苦しみには耐えきれないのだと思うのです。逆に老いて体の機能が衰えたからこそ、苦しみに耐えられるのではないか?

何時も生きながら、死を考える毎日で有りたいです。

*牧山さんは通称「まっきー」。随分前にインターネットを通して知り合った鉄道マンです。アッバミサにもはるばる九州から来てくださいました。

プリント版
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category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 短歌

janre: 小説・文学

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浄土真宗における「機法」  

機=こちら 凡夫 人
法=あちら 仏  神

向うから来るしか何も出来ないことを才市は、
「名号が当る」
<アッバの主導性に類比>

または、
「南無(機)がわたしで阿弥陀(法)が親で、これが親子の南無阿弥陀仏」
<神人の父子関係、アッバの親近性に類比>

また
「なむあみだぶはみだのいき(息)、わたしや、あなたのいきに、とられて、なむあみだぶつ」という。
<神の主体性と聖霊(プネウマ)=おみ風さま>

機が全く法に摂取せられる。
しかし機は無にならず、「ざんぎ」「かんぎ」慈悲を感じる。
機法は「一即多・多即一」――才市の体験的自覚
(~p.50)


category: 鈴木大拙『妙好人』

thread: スピリチュアル

janre: 心と身体

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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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