「南無アッバ」を生きる ホーム »2008年02月
2008年02月の記事一覧

後記-第146号-p.6  

*いままで原稿締切日を設けていなかったのですが、投稿の目安になるかと思いますので、一応、わかりやすく毎月末を区切りとしたいと思います。

ただし遅れても、今まで通り、編集に間に合う範囲で、翌月号に載せますので、厳密なものではありません。

何でも規定は少ない方がいい――ファリサイ派にならないためにも(笑)ゆるやかにいきましょう。

*お知り合いで、実作はしないけれども短詩形や日本のキリスト教に興味があるという方、いらっしゃいましたら、ご連絡ください。本誌を送らせていただきます。
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本誌「余白の風」(一九九〇年創刊)は短詩型文学(俳句・短歌等)を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。

毎月発行しています。
どなたでもご自由に投句・感想等をお寄せください。(採否主宰一任)

○締切=毎月末。

○会費は無料です。

○投稿先:ホームページ「今を生きることば」


主宰著作
『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫 五二五円)、
『俳句でキリスト教』(サンパウロ 一六八〇円)、
『雨音のなかに』(ヨルダン社 一三六五円)、
『人の思いをこえて』(同 一六八〇円)ほか。

第146号終
次号をおたのしみに。
発行は、3月7日頃を予定しています。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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味わいたい言葉-第146号-p.5  

岡井隆
短歌を作るだけでなく、なぜ自分が短歌を選んだのか。
また、他の歌人とは違ってこのような歌を作るのはなぜなのか。

特になにか新しい試行やこだわりをし続けるときには、そのことを他者に向かって表明すること。

論と作とを両輪のように動かすことは、特に短歌のような小詩型が現代の文学全体の中で存在するのに必要なのである。

(「未来」08・1)

*短詩型であるからこそ、「論と作とを両輪」として推し進めるということ。
作品の作り放しを戒める言葉として、受け取りました。
私たち、「求道詩歌」をめざす者としては、常に作品と信仰の在り処を確かめたいものです。

→p.6へ


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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作品とエッセイ-第146号-p.4  

初日の出・二題  豊田市 佐藤淡丘

俳句初学のころ、次のような句を作った覚えがあります。

 初日の出顔に温かいと言ったか

 愚息がまだ幼い頃、洋上に上がる初日を観にいった時、昇り切った太陽を見て「父ちゃん顔があったかいね」と言った。右はその儘を句にしたものである。

句のよしあし善悪はともかく三十年を経た今も、その情景は鮮明にたどることができます。
 以来早起きの好きな私は、この初日の出を折にふれ眺め続けて来ました。
今年も初日をみて左の句を作りました。

  連嶺を離れてなほも初日かな

 初日の出を拝みに近隣の方々が沢山周りにいました。金色の太陽が山並を離れるにつれ人々は踵を返すようにして帰ってゆきます。

あの曙光の瞬間を忘れたかのように。でもこの日の太陽は営々として働き続けるのです。しかも、無償の愛をこめて。南無アッバ。

元旦の宇宙美わし神と和す

しずかなる夜景みつめて二日かな

寒林に礼儀正しく陽が沈む

大いなる底が連なる枯野かな

凩を抜け来て眼美しき


*四句目・・アッバは太陽のように、天からお恵みを注ぐと同時に、「大いなる底」からも、ずっと私たちを持ち上げ、育んでくださっている。

「枯野」の下では、その「底が連なって」いるとは、意味深長な句心。

→p.5


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 俳句

janre: 小説・文学

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作品とエッセイ-第146号-p.3  

名古屋市  片岡惇子

森司教様始め四名の神父様の講話とごミサそして、分ち合いと、箱根で二泊三日の贅沢な時間をいただきました。

テーマは、「キリストは現代の福音になるか」学ぶ者は六十名。講話の後、六,七名に分かれ、分ち合いをしました。

現代こそキリストが必要であることの認識は一致しています。そのキリストの福音=生き方をいかに伝えるか、実践するかについて、それぞれが努力している日々、しかし、伝わらない。

変わらない無力感。
森司教様の最後のまとめ――神は人間を喜び輝くために創って下さった。いつもその原点は、人間の喜ぶ姿が見たいという神。

弱い人たちが弾き飛ばされている現代。そういう人たちと響き合う心。これこそ福音。弾き飛ばされた人と共に一緒に食事をする。これを目指して生きること――

外は雪。そして、枯枝にうっすらと積もった雪は、一面の薄墨桜。美しく輝いていました。今、ここにいさせていただいている私。感謝。

時満ちて来る時とは冬の虹

どうでも良きこと持ち越して新年や

口閉ざし聴けば吹雪きし荒野の声

綿虫や実態求め凝縮す

外は雪福音学ぶ私在り

良しと神喜び跳る風花や

小さき窓一月の月招きけり

尾張野に大根太く天仰ぐ


*森司教様は、井上神父がカテドラルにおられた時、ごいっしょだった方です。私も度々井上師からお話をお聞きしました。

「自然」と「聖書」とわかちあい、よい学びをされましたね。一連の御句、その情景が浮かびます。

→p.4


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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作品とエッセイ-「余白の風」第146号-p.2  

(*主宰寸感)

秦野市  長谷川末子

全身に恩寵満つる初明り

樹々の間の閃光見たり初日の出

元旦の晴れ渡りたる粛として

七十路の迷ひなき身や今朝の春

太巻きを造りて孫待つ去年今年

 松の内
数羽の鷺が空を舞う/枯枝に赤い若枝が/野路にははこべ、なずな等/近くの寺に蠟梅が/土手には蕾の水仙も/何と仕合せ御恵みを/両手一杯受けてます
 
 晝食
老いた二人の晝食は/思い出話に花が咲く/いい事悲しみあったけど/五十年目も過ぎました/「あはは」と笑う事もあり/のんびり暮す毎日を/忍耐強く支えられ/守る神様いらっしゃる


*自然をアッバからの「御恵み」として、素直に受け取る姿。この気持ちは、日本人は非常に大きいのではないでしょうか。紆余曲折があったからこそ、「思い出」が輝いていく。平坦なら幸せとは限らない、という人生の逆説を教えられます。

→p.3


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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キリスト教と求道句歌「余白の風」第146号-p.1  

2008年
2月発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights  reserved.

主宰作品  蓮田市 平田栄一

迎えに出でよ        マタイ25:1~13

花婿と夜道を下る夏の果て

聖者よ、かまわないでくれ!  ルカ4・31~37

ままならぬことのあれこれ秋の暮

ときに叱り、癒し、そして去る ルカ4・38~44

白秋の風に溶けたるイエスかな

イエスの弟子とは    ルカ14・25~33

腰すえて日々を担えや秋の雲

悲しみの聖母      ヨハネ19・25~27

人類なら愛せそうです秋を行く

どこまでも探し回る神    ルカ15:1~10

十字架の高きを流る羊雲

*今年も、もう四旬節です。
「日々」「ままならぬことのあれこれ」あるのが人生。

しかしむしろ、その思うようにならないところに、アッバへの願いとお任せの心が生じ、また思わぬ時と所にアッバの御心御力を悟らされる、という体験をしばしばさせて頂けます。

皆様、お体ご自愛のうえ、各自の意向にそって祈りましょう。

→p.2


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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キリスト教関連現代詩歌コレクション(1)  

使徒パウロ磔刑のその人を見しというや冴えて眠り待つ霜夜のねむり   近藤芳美

磔刑のその人を見しもののいのち誰さえ一生(ひとよ)負うことの上   同


昭和63年『磔刑』より。
歴史的には、パウロが人間イエスの処刑に直接立ち会っていたとは考えられない。
が、信仰的に十字架と復活のイエスに出会った者の人生を変えずにはおかない。

寡黙をば守り行かむ日読みつげる旧約の世界を独り愛して   同

昭和29年『冬の銀河』より。
旧約的ダンディズムとでもいうべきものに対する共鳴感か。

いくたびか激しきしぐれ降り過ぎてかかる日によむエレミヤの哀歌   同

グレゴリオ聖歌の中に澄む鐘に二人居る夜を涙ぐむ妻   同


昭和35年『喚声』より。
60年安保の年。

宗教の賞味期限を説く人の背後に見えて鳥は鳴きおり   大島史洋

短歌研究」06.9第42回「短歌研究賞」受賞対象作品より。
受賞対象33首のタイトル「賞味期限」のいわれとなる一首。
宗教の賞味期限を説く」のだから、この「人」は、宗教は相対的なものと考えているのだろう。
馬場あき子氏は、「「賞味期限」という通用語も、痛烈な考現学的風俗語として登用されたのだろう。・・・・ユニークであるだけでなく、今日的現象へのシニカルな怒気さえ感じられて面白い」と講評している。

結論は常に平凡 宗教の根本にある祈りと言えば   同

宗教者としては何とも反応に窮す。いずれにしろ、「結論」が「常に平凡」なのは、なーんだ、と思うかもしれないけど、安心もするのではないか。

わが母はもしやの隠れ切支丹 天草島の香にぞ親しむ  高松秀明

山姥に抱かれし男の子キリストは愛みなぎれる乳房まさぐる

幾たびか足に踏まれし一ならむくらき「踏み絵」に口づけてみよ

大いなる聖杯あればあかき血をのみたる鳥は霧に飛翔す

くりぬける柱の洞に秘められし聖母、ロザリオ影のなきまま
隠れ聖壇ひらきて十字きる右手ふいに払はれ汚辱の奔る

天草は草も十字架(クルス)に咲きたたせ小さき冥府をそこここに見す


短歌現代」06.9「天草そして佐世保」10句より。
四郎の故里では、草花も十字架の形に咲いている。その一つ一つにも、キリシタンの信仰、迫害の凄惨を見て取る作者。
時代を超えた信仰の証は、そこここに現存する。

月曜日のニコライ堂は黙り込む   わたなべ柊

「豈」39号より。
主日の翌日は、原則司祭の休日。これではあまりに浅い解釈だが、現象として静かなのを通り越して、意志的に「黙り込む」ところに、句のポイントがある。
作者は、「大井川のほとりに」暮らし、「また新たな気分で短歌や詩とは全く異なる俳句の形式に眩惑されながら・・・・」と言っているから、様々な詩形式を体験した上での俳句なのだろう。

とっぷりと樹液に満ちた肉体が起きあがるときわれは夕闇   加藤治郎

短歌研究」06.9作品連載4「モドレ」より。
直接はエロスを歌った連作の一首で、キリスト教関連のキーワードは含まないが、「肉体が起きあがる」から復活を連想させる。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

janre: 学問・文化・芸術

tag: 加藤治郎,肉体,エロス,キリスト教,短歌,宗教,風俗,俳句,ニコライ堂,キリシタン,
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一月十五日  

ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。

(サムエル記上一章一五節:九~二〇節参照)

ずっと子供のいなかったハンナが主に懇願し、ついに男子(サムエル)を授かるくだりです。

夫エルカナにいくら慰められても、やはり、子供を持っているペニナに見下された劣等感、恥は拭い去れなかったのかもしれません。

しかし、動機は何であれ、「主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」
「訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」(一六節)という、
ハンナの率直な信頼の態度を、神は「よし」とされたのです。

また、その願いがかなう前に、「彼女の表情はもはや前のようではなかった」(一八節)
――悩ましいものではなかったという点にも注目しましょう。

ハンナが明るくなったのは、自分を偽らず、主に率直に願いを注ぎ出し、
さらに、祭司エリに「安心して帰りなさい」(一七節)と声をかけられたからでしょう。

このようにわたしたちは、神=アッバへの絶対信頼と、他者との関わりの中で癒されていくということを、今日は学びたいと思います。

冬晴れをゆるり歩めるイエスかな  栄一


category: 今日、心に残った言葉

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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