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2008年01月の記事一覧

高校倫理「キリスト教」授業録3-第145号  

五 都合の悪い言葉ほど史的事実!?

「ある人が(イエスの所に)走り寄って、ひざまずいて尋ねた。」(一七節)
という記述からは、この人のそのときの気持ちが察せられます。

かなり焦りというか、せっぱつまった感じです。

また、「ひざまずいて」というのですから、
この人はイエスを尊敬していたんでしょうね。

今まで話したことはなかったんだろうけど、
うわさで伝え聞いたりしてイエスのことはだいたい知っていた、
すごい人らしい・・・・そんな感じでしょう。

そして呼びかける、「善い先生!」と。

やっぱりイエスを尊敬していたことを思わせる言葉です。

ところが、イエスはこの呼びかけに対して、
「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。
神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(一八節)と答えます。

このイエスの最初の反応は、どうだろう?

すぐ思いつくのは、イエスの謙虚さ、謙遜ってことだね。

「自分は『善い先生』などと呼ばれるほどの者じゃないよ・・・・」という、
偉い先生だからこその謙虚さ――。

ただぼくは、それだけのことなのかな?
と勘ぐっちゃいます。

何かもう少し深い意味が隠されてやしないか・・・・どうだろう?

さっきもいったように、福音書というのは、
「イエスをキリスト(救い主)」と証言し、
またその信仰を強めるために書かれた書物でした。

とすれば、それを書いている著者、つまりこの場合は「マルコ」
――その他にもマタイ、ルカ、ヨハネなどがいます――
福音書記者にとっても、
読者である原始キリスト教団(初期のキリスト教会)の人たちにとっても、
イエスは当然、「善い先生」だったはずだよね。

ところがそれを否定するような言葉が、イエスの口から出た――。

これは、「イエスこそキリストだ、神の子だ」と宣言する福音書の趣旨や目的、
原始教団の信仰に、あまり都合のいい言葉じゃない。

でも面白いことに、そういう言葉が福音書には、
ところどころ残っているのです。

さっきぼくは、福音書というのは
「伝記のような体裁をとった信仰宣言書」といったけど、
その意味は、
ぼくたちが普通にいう「伝記」や「歴史書」とはちょっとちがうということです。

つまり、年表を文章にしたようなかたちで、
何年の何月何日に何があって、イエスはこう言った、
次には何々をした・・・・というように、いわゆる5W1Hを時間順(時系列)に、
歴史的事実を述べていく、というようなことには、
あまり関心が払われていないのです。

むしろ、福音書記者は、「イエス=キリスト」を宣言するために、
集めた資料を、けっこう自由に再構成しています。

こういう話を聞くと、たぶんきみたちがすぐ気にするのは、
イエスはマリアが処女だったのに生まれたとか、
奇跡を起こして水の上を歩いたとか、ただでさえ信じられないのに、
そのうえ信仰のために史実(歴史的事実)をねじ曲げたような本が、
いったいどれだけ信用できるか、ってことじゃないですか?

これ、「福音書の史実性」という古くから議論されてきた問題です。

だけど逆に言えば、こういう福音書、
あるいは新約聖書全体の性格から考えると、
「おれは、善い先生なんかじゃないよ」みたいな、
キリスト教にとって一見都合の悪いように思える記事ほど、
史実性が高い、とはいえないだろうか。

典型的なのは、ペトロや弟子たちの裏切りの場面――

弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
(『マルコによる福音書』一四章五〇節)

イエスの死後、初期キリスト教会のトップとなっていった弟子たちが、
まっさきにイエスを裏切って、逃げてしまった、と書かれているのです。

こんなことは、どう見ても教会にとって都合のいいことじゃない。

権威が傷つくでしょ。

そういうことを、ちゃんと記録しているのです。

これは明らかに史的事実だと思います。

同じように、さっきのイエスの言葉、
「なぜ、わたしを『善い』と言うのか・・・・」というのも、
実際イエスが語ったそのままの言葉なんじゃないかと思います。

当時の教会や信者に都合の悪いような言葉が、イエス自身の口から実際に出て、
多くの人が憶えていた。

だから、簡単に削ったり、変えたりできなかったと推測されるからです。

それだけに大きな意味を持っていると、ぼくは考えます。

だから、このイエスの否定の言葉をもう少し、つっこんで考えてみたい。

単にイエスの謙遜の思いから発した言葉じゃない、ということをね。
(つづく)


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 考えること

janre: その他

tag: イエス,アッバ,聖書,俳句,キリスト教,井上神父,キリスト,マリア,
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八木重吉『神を呼ぼう』読書案内-第145号  



私は

基督の奇蹟をみんな詩にうたいたい

マグダラのマリアが

貴い油を彼の足にぬったことをうたいたい

出来ることなら

基督の一生を力一杯詩にうたいたい

そして

私の詩がいけないとこなされても

一人でも多く基督について考える人が出来たら

私のよろこびはどんなだろう        



昭和初年の「ノートA」に書かれていた「願」という詩。

生前一冊の詩集しか残さなかった重吉。

しかも、その『秋の瞳』には、自身の完成度という尺度からか、

いわゆる信仰詩は、ほとんどとられていない。

しかし、この「願」を一読すれば、重吉の行き着いた地点がわかる。
すなわち、

基督の一生を力一杯詩にうたいたい

という思いであったことは、間違いあるまい。

 この詩が、八木重吉著・鈴木俊郎編『神を呼ぼう』(新教出版)の巻頭に掲げられている。

日本におけるキリスト教詩の原点は、重吉にあるといわれる。


重吉はこの詩のなかで、

「基督の奇蹟をみんな詩にうたい」「マグダラのマリア」とイエスの交流を「うたい」、

最後に「基督の一生を」「うたい」切りたいというのだ。イエスをうたい、

聖書をうたうこと、そこに詩人としての第一の生きがいを持つ。

キリスト教文学者であれば、ジャンルを問わず、

多かれ少なかれこうした願いは共通しているのではないだろうか。

たとえ、どんなに罪や悪を描いても、けっきょくはキリストの香が、

コントラストに浮き出てくる、キリスト教文学とはそのようなものなのだと思う。

その上で、自分の作品が「いけない」「だめだ」と批判されたとしても、

そのことをきっかけとして、キリストについて考える人が、

一人でも出てきたら、どんなにうれしいだろうか、

それでいいのだ、と結んでいる。

あらゆる正しい宗教に共通する第一の目標は、自己相対化である。

あちら様(神仏)が主で、こちらが従。

そのことによって、生きることに軽みが出てくる。

軽薄ではない、肩の力が抜けるということ。

自分の仕事がどんなにけなされ、軽蔑され、そのことでプライドが傷ついても、

あちら様が主であることが伝わるなら、「私のよろこびはどんなだろう」というのだ。

ここにわたしは、創作主体としての喜びと、自己相対化――救いへの道という、

いわば文学と信仰という、従来二律背反として論じられてきた課題への

実作者としての解決姿勢を見るのである。


わたしの持っているのは、新書版一九七九年二〇刷のものだが、

ちょうど生涯の霊的師・井上神父に出会う頃入手したのだった。

爾来繰り返し愛読している。

とくに信仰がぐらついたとき、迷ったときには、巻頭から一気に読む。

全一七〇頁の薄い詩集だが、たいていは、最後まで行く前に、

目の前が開けてくるような気がする。

たれか、重吉の詩は、日本人の福音書だと言った人が居た――。

至言と思う。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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作品とエッセイ-第145号 2008年1月発行  

(*主宰寸感)

名古屋市  片岡惇子

今年も白と薄紅色の小振りの葉牡丹を一株ずつ買って、小さな柿の木の下に地植えをしました。

これで正月の準備完了。葉牡丹は、広辞苑にはヨーロッパ原産、キャベツの一品種とあります。

白、黄、紫紅、鮮紅、淡紅など、どの葉の色も美しく、いつも迷います。

その葉の縮緬状のやわらかさは、優しく包みこんでくれるようで、安らぎを与えてくれます。

その葉に降りて、光っている朝露の美しさも、又、特別です。

これは、私への恵みなのですが、目の悪い私には、ダイヤモンドのように映ります。

私の所属する平針教会の御聖体台の後方の窓は、幼子を中心に渦巻にはめられたステンドグラスで出来ています。

夕日が落ちて、暗くなっていくその瞬間の美しさには、感動します。

闇の中に光をみるのです。葉牡丹をみると、その情景と重なります。(07/12/25)

葱刻む日常の中に祈りかな

*まな板に飽かずトントントン・・・・リズムも心地よい。細部と単純な繰り返しの中に、神が宿る。

謙遜や枯菊に幽か香の残り

*その「枯菊」もすばらしいですが、その「幽か」な香に気づく作者の心持がうれしいです。

枯葦やなびく彼方に創世記

*三句目、「枯葦」の向うの原初世界とも、イザヤ書の「傷ついた葦・・・・」からの発想とも、奥深い。

葉ぼたんの静かに包む神の影
          (神の影=奥村一郎選集⑥より)

葉ぼたんや貧しき人の宿となり

*エッセイと響きあって、読者の理解と発想を助けてくれます。一見簡素な葉牡丹の魅力を教えていただきました。


豊田市 佐藤淡丘

 私は「切通」が好きである。この切通を広辞苑で引くと、次のように書いてあります。

「山・丘・廊下など切り開いて通した通路」

 幼い頃、隣りの部落との間にこの切通が掘られ、トロッコが行き交っていたのを覚えている。

工事の人が居ないときなど、トロッコに触れたり、両側の斜面に現われた粘土層を切り取ったりしてよく遊んだものである。

 これに似かよった切通が、毎朝通う「会神の丘」の途中にあるのです。

登り勾配の下から見上げる切通の狭い空は、ここを先途とばかり寒星の住処(すみか)となり美しく輝くのである。

 抜け出る先は、北斗七星がひしゃくの柄を少し傾けて待ってくれています。

まさに、「南無アッバ」の世界が続くのです。(07/12/29)

短日や満たされぬもの持ち帰る

*淡丘氏の句は、いつも、連作としても優れて読ませます。

日が短くなると、心急くものがありますね。

下りたれば一瞬にして冬田かな

*切通を下って、目の前に広がる一面の冬田。爽快ですらあります。

駆くる間に白息となる犬の貌

*犬に引っ張られるように、切通をゆく。なぜか、佐藤春夫の「田園の憂鬱」など思い出します。

巻き戻すゼンマイじかけ冬の鵙

*しぐさか声か、「冬の鵙」を「ゼンマイじかけ」とは巧みな表現ですね。

手を挙げて寒星に触る切通

*星に手の届きそうな空気のなかに住んでおられるのが、羨ましい。

関町教会報「こみち」235号より 
練馬区 魚住るみ子

新涼や肌に覚えてうらさみし

*「新涼」は清々しさだけでなく、同時に、季節が秋へと動く寂しさがある。微妙な心の振れを表現。 

マスカット灯のもとに映ゆ誕生日

*果物屋さんに並んでいたか、お家のテーブルに盛られた「マスカット」か、この「灯」はきっと黄味帯びた白熱灯のように想像します。

  水仙花
ゆるされてわが身はありやうなだれて水仙の花唇に触る

*「うなだれた」「わが身」を、「水仙の花」が受け止めてくれているような、安らかな境地。

「野守」三〇号より 
文京区  大木孝子

銀杏を踏む忸怩(じくじ)たる夕まぐれ

*何に対してか「忸怩」たる思いを抱いた作者。

その遣る瀬無さを「銀杏」が受け止めてくれる。

人と自然の交流を、夕闇がそっと包む。

花ひひらぎほんとはさびし神様も

*中下は、キリスト者であればこそ、ドキッとする感慨かもしれない。

「も」がポイント――神がわたしたちに寄り添う、友(共)なるアッバであればこそ。


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 俳句

janre: 小説・文学

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主宰作品-求道俳句とキリスト教 余白の風 第145号 2008年1月発行  

Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights  reserved.

主宰作品  蓮田市 平田栄一

永遠の命 マタイ19・16~22

蝉しぐれ天に宝を積む如く


教師キリスト マタイ23・1~12

ガラシャ忌を一人下山の道辿る


救いへの道 マタイ17・22~27

つまずきの石取り去られ盆の道


火と分裂 ルカ12・49~53

死蝉の吹き寄せられし垣根かな


招かれる マタイ22・1~14

末席の気楽さが好き夏の宴


子供のように マタイ18・1~14

殊のほか静かに暮れしコルベ祭

「自分を低くして、この子供のようになる人が、

天の国でいちばん偉いのだ」

とイエスは言います。

強制収容所という極限状況のなかで、

淡々とその使命を果たした聖者コルベ。

わたしたちが学ぶべきは、

結果としての仕事の大きさではなく、

それぞれが与えられた場の中で、

謙虚に自分の使命を果たす、

ということではないでしょうか。



――わたしの選んだ句――平田栄一薦

クリスチャンにて軍歌が得意さるすべり  大口元通

日本の一般読者は、「クリスチャン」と「軍歌」に

二物衝撃を感じるかもしれない。

クリスチャンといえば、禁酒禁煙・博愛主義・・・・

といったイメージが、まだ根強いからだ。

しかしそうであれば、ブッシュがイラクに聖戦?

という報復をしかけたりすることはないだろう。
        
「麦」〇八年一月号より)


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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2008年1月5日 ミサ前講話:山根道公「クリスマスにちなんで」  

http://page.freett.com/yohaku5
からアクセスできます。


category: 井上神父の思い出

thread: クリスマス

janre: ライフ

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第2部(18)史実から真実へ5.罪意識の前提性(「風」第77号連載2007年冬)  

ここで読者は、本稿第二部の最初の部分で筆者が述べたことを

思い出してくださるかもしれません。

<今わたしたちは、イエスの「復活」について考えているわけですが・・・・

(井上神父は)弟子たちの復活体験の前提には、

イエスを「裏切った」がゆえの「自己嫌悪、恐怖感、不安・・・・暗黒」

さらに「会わす顔がない」「赦されるはずはない」という

いわば後ろめたさ・罪悪感があるというのです。

これは説得力のある「推測」であると同時に、重要な指摘です。

なぜならわたしにはこの辺りに、聖書が語る「罪」と井上神父の、

ひいては日本人の「罪意識」とを結ぶ鍵があると思えるからです。>

(第六八号(十一)三九頁「復活の前にあるもの」)

 筆者はこのように述べて、以下、井上神学では、

日本人の罪意識が「申し訳なさ」や「エゴイズム」、

ないしは「恥」にもつながる、広い意味を持つものとして受け取られている、

と解釈したのでした。


 先に引用したエマオの「二人の弟子」たちの「絶望と自己嫌悪・・・・

師を見捨て、裏切ってお慰めにもでなかった自分たちの卑怯さと、

だらしなさに、後悔の念に打ちひしがれ・・・・

重く、暗い心」といった心理描写のなかでは、

井上神父は直接「罪」という言葉を使ってはいません。

しかし明らかにここには、本稿で述べてきた、

広義の罪意識が表現されている、と筆者はみています。

そして、この「罪意識の広義性」と並んで、いま確認しておきたいのは、

<エマオの旅人>を含めた「復活者顕現物語」の解釈において、

井上神父は、弟子たちの「復活体験の前提」として、

こうした罪意識について詳述している、という点です。

このことから、弟子たちの罪意識が前提となって、彼らの深層意識に、

「先生は、自分(たち)をゆるしてくださっている(いた)のだ!」という、

イエスの「ゆるしのまなざし」への気づき――強烈な宗教体験が生起し、

決定的な回心へと導かれていったのだ、と考えられるのです。

先の、「復活のキリストは、対象化できない、

個々の体験でしか捉えられない原事実」

-非対象・個別・体験的-ということの意味は、

こうした事情をも含むものではないでしょうか。

「罪意識の広義性」とならんで、

この、復活体験における「罪意識の前提性」とでもいうべき構造は、

「イエスの復活とは何か」を理解しようとするわたしたちに、

大きな示唆を与えてくれているように思います。

(つづく)

本稿について、井上神父からの一言
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category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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第2部(18)史実から真実へ4.エマオの旅人(「風」第77号連載2007年冬)  

 井上神父のライフワーク完成の書ともいうべき『わが師イエスの生涯』でも、

外的史実と内的真実とを区別しながら、次のように語っています。

<河合隼雄の言うように、物語とは、初めに物語作者の深層意識に

到底言葉では言い表せないような強いインパクトを持った

深層意識的原体験の事実というものが与えられ、

それが表層意識に浮かびあがって来て心全体につながり、

また人にも伝えようとして言葉となり展開されていったものだとすれば、

確かに物語は歴史的事実とは言えないかもしれないが、

しかしその物語の奥には、深層意識的原体験の事実とも呼べるものが

横たわっているはずである。

いまこの深層意識的原体験の事実を「真実」という言葉で表現してみれば、

物語は歴史的事実を伝えていないかもしれないが、

しかしその奥には深い真実が秘められているのである。>
(一五頁)

右の「歴史的事実」(外的史実)と「深層意識的原体験の事実」

=内的「真実」とを区別する考え方は、

本章冒頭のレオン・デュフールの言葉や、

遠藤周作氏の聖書解釈にも通じるところですが

(『イエスの生涯』第九章、第十三章など)、

井上神父は右書の最終章、

一一章「師イエスの逮捕と死と復活」においても、

「復活者顕現物語」として<エマオの旅人>

(『ルカによる福音書』二四章一三~三五節)を、

この考え方にもとづいて読み解いています。

<エマオの旅人>以下の「復活者顕現物語」は、

『ルカによる福音書』とそれに続く『使徒言行録』を結ぶ扇の要にあたり、

記者ルカにとって重要なペリコーペであったことは間違いないでしょう。

また、井上神父が「生命を削る思いで書き上げた」

『わが師イエスの生涯』の最後「復活」の項で<エマオの旅人>を

中心に語るということは、神父にとってもこのペリコーペが、

「復活者顕現物語」のなかでも最も思い入れがある話だからではないでしょうか。

筆者個人としても、この物語は大変美しく、

かつ最も示唆に富んだものだと思っています。

私事ながら、先年出版した拙著『俳句でキリスト教』(サンパウロ)でも、

このペリコーペを、

旅びとや夏ゆふぐれの主に見ゆ

という、山口誓子の印象的な句とともに取り上げました。

<ふつうに「復活者顕現物語」とよばれている物語は、

史実をそのまま語ったものではない。すでに述べたように物語は、

深層意識に強いインパクトを受けた物語作者の宗教体験が、

日常意識の座にのぼってくるときにとる形式である。>
(『わが師――』一九〇頁)

右のように井上神父はまず、前述した「史実」と「真実」の関係を、

復活者顕現物語のなかで展開される「史実」と「物語」形式の関係として確認します。

その上で、<弟子たちに現れる>や<イエスとトマス>と同様、

<エマオの旅人>の「二人の弟子」が置かれていた状況から、

その当時の彼らの心境を、ていねいに「推測」します。

すなわち、『ルカによる福音書』に淡々と描かれた、ほんの二節、

<ちょうどこの日、二人の弟子が、

エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

この一切の出来事について話し合っていた。>
(二四章一三、一四節)

という記述を、最後の晩餐からイエスの十字架死の状況までも最大限考慮に入れ、

その「行間」が読み取られていきます。いわく、

<二人の師の弟子が、絶望と自己嫌悪にとらわれて、

重い心と足をひきずりながら、エマオという村にむかって歩いている。

この二人の弟子は十二弟子とはちがって、師と同じ席にいたわけではないが、

しかし「ゆるしの晩餐」にはあずからせていただいた弟子たちである。

だからこそ十二人の弟子と同じく師イエスが十字架を背負って

血まみれになってお倒れになったときも、師を見捨て、

裏切ってお慰めにもでなかった自分たちの卑怯さと、だらしなさに、

後悔の念に打ちひしがれ、シャロンの野の夕暮れよりも、

もっともっと重く、暗い心と足をひきずりながら歩いていたのである。>
(一八九~一九〇頁)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 宗教・信仰

janre: 学問・文化・芸術

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