「南無アッバ」を生きる ホーム »2007年12月
2007年12月の記事一覧

年越しに手桶一つを買い来たる  栄一  

ヨハネ1・1-18
言は肉となった



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category: 平田栄一求道詩歌(3)

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第2部(18)史実から真実へ3.もう一度十字架を・・・・(「風」第77号2007年冬掲載)  

先に見たように井上神父は、『ルカによる福音書』二四章の

「復活者顕現物語」において、よく問題にされる

――少なくとも、筆者の経験では、

キリスト教初心の方から必ず受ける質問のひとつ

――イエスの三次元的可視性(外的史実)をこえて、

弟子たちとの食事場面に注目し、

そこからイエスの「ゆるし」(内的真実)を重視する神学を展開していました。

この「ゆるし」によって、弟子たちに真の回心

――イエスに対する信仰=信頼が生まれた、とみています。

これと同じように、

『ヨハネによる福音書』の<イエスとトマス>のペリコーペにおいても、

右のような外的史実問題をこえて、井上神父独自の読み

――求道者としてのユニークな読み方

――行間読みがなされていると思うのです。

それはとくに、トマスとイエスの次のやりとりの解釈によくあらわれています。

<25・・・・トマスは言った。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

・・・・27それから(イエスは)、トマスに言われた。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」>

井上神父はまず、二五節の言葉を口にしたときのトマスの心境を、

ていねいに推し量ります。

「一緒に行って先生と死のう」とまで言いながら、

結局裏切り見捨ててしまったことへの自己嫌悪と絶望感の深さ。

他の弟子は復活したイエスに出会い、

ゆるしを得て福音の喜びに有頂天になっているのに、

自分だけはのけ者にされているという孤独。

二五節には、

こうした「筆舌に尽くしがたい」「トマスの苦悩」が込められている、

と神父は「推測」します。

その上で二七節について、次のように述べています。

<これは非常に大変なことだと思います。

というのは、手をわき腹に入れるということは、

先生のあの十字架上での肉体的な苦しみを、

今一度先生の体に起こさせるということだからです。

おまえがそんなに信じないならば、わたしはもう一度、

十字架上のあの苦しみを受けてもいいよ、

だからおまえはわたしのこの傷の中にしっかり手を入れなさい、

と先生がトマスにおっしゃっているということなのです。

これはまったくすばらしい先生のお言葉であり、

本当に考えられないほどの深いイエスさまの悲愛のまなざしを

示しているといえましょう。」

(『福音書を読む旅』二七五頁)

この「手をわき腹に入れる」という行為を、

言語の表層的意味

―三次元的可視性―対象化―外的史実の文脈で捉えようとすれば、

このような解釈は出てこないでしょう。

もしそうした視点に立つなら、

その後トマスは自分の手(指)をイエスの脇腹に入れて、

どこまで復活体を確かめられたのだろうか、

などと際限のない史的推測が繰り返されることになるのではないでしょうか。

そこをそうせず、「おまえのためなら、もう一度あの十字架を、

あの苦しみを引き受けるよ」と、

トマスに対する「本当に考えられないほどの深いイエスさまの悲愛のまなざし」

――内的真実として受け取るということ。

それは、トマスとイエスのやりとりを、第三者、

傍観者としてわきから眺めるのではなく、

この二人の関係の中に実存的体験的に関わろうとする井上神父の

「求道者としての読み方」から出てくるのだと、わたしは思います。

と同時に、こうした解釈は、これまで見てきた井上神学の諸特徴

――共苦的性格、文学性、浪花節的特質等々といった

日本的感性に通じるものであり、

福音のなかに具体的に生きる日本人キリスト者として、アッバの前に立つ

――否むしろ、アッバに寄り添われている神父の姿を髣髴とさせるものなのです。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: クリスマス

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冬ぬくし一歩一歩を味おうて  栄一  

マタイ2・13-23
聖家族

昨日今日は、ずいぶん暖かかったですね。
夕方、散歩に出たとき、作った句です。
踏みしめる土のやわらかさが、それだけで、
なんとなく、うれしかったです。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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第2部(18)史実から真実へ2.イエスとトマス(「風」第77号2007年冬掲載)  

『福音書を読む旅』で取り上げられている「復活者顕現物語」の中からもうひとつ、

井上神父の行間読みの特徴がよく出ていると、わたしが常々思っている箇所、

<イエスとトマス>(『ヨハネによる福音書』二〇章二四~二九節)の話に触れておきたいと思います。
   
<24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、

彼らと一緒にいなかった。

25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、

トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われた。

27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、

わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、

わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。

見ないのに信じる人は、幸いである。」>
   
このペリコーぺは、その直前の『ヨハネによる福音書』二〇章一九節から

二三節の<イエス、弟子たちに現れる>を受けて書かれていると考えられます。

そしてこの並行箇所が、先に取り上げた『ルカによる福音書』二四章三六節以下の

<弟子たちに現れる>になっているのです。

したがって、この<イエスとトマス>の箇所では、

やはりイエスの復活体の可視性、

さらに「指を釘跡に入れ」「手をそのわき腹に入れ」などの語から、

(少なくとも現在の日本語訳聖書の文字面を追うならば)読者の関心は自然に、

可視・可触を含めた復活体の外見的史実へとひきつけられるのではないでしょうか。

すなわち、トマスは他の弟子たちといっしょにいなかったので、

復活のイエス顕現に立ち会えず、

「わたしたちは主を見た(顕現された)」(二五節)という

他の弟子たちの証言を信じようとしません。

しかしその後トマスにもイエスが顕現されて、十字架の傷を確認させ、

「・・・・信じる者になりなさい」と諭す。

そしてこのペリコーぺの結論として、

「見ない(顕現されない)のに信じる人は、幸いである」と、

教訓的に一般化されます。

このように、わたしたちは、福音書の文字面を追っていけば、

つい「信仰」の「神話的」「表象的」言語性を忘れ、

復活体の外的史実性をめぐるペリコーペとして読んでしまうわけです。

このことは見方をかえれば、それだけ、

「イエスは死んだままではない!」という、

初期キリスト者の熱い思いを反映しているのだ、ともいえるのですが――。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: クリスマス

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初穂なる主の奉献や札納  栄一  

ルカ2・22-35
世を照らす光


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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第2部(18)史実から真実へ1.史実と真実(「風」第77号2007年冬掲載)  

<信仰は当初から、「神話的」言語、または表象的言語で、

実存的実在を表していたのである。

実存的実在が深い体験としてある場合には、

通常の合理的言語の枠を越えるのである。>

(レオン・デュフール著『イエスの復活とその福音』八〇頁、三保元訳、新教出版社、オンデマンド版)

レオン・デュフールは、このように、信仰の内実は、

「神話的言語」「表象的言語」で語られるものであって、

通常わたしたちが使う「合理的言語の枠を越える」ものである、といいます。

したがって、右書における氏の詳細な復活論は一貫して、

新約聖書の「表象的言語」――象徴性を読み解くことを中心に展開しています。

井上神父の復活論は、神父自ら語るように、

このレオン・デュフールから大きな影響を受けています。

<・・・・復活したキリストは、それ自体は本来、

歴史的なナザレのイエスのように目に見える、対象化しうるものではなくて、

普通の肉眼には見えず、また対象化することもできないのです。

復活のキリストは体験する以外にとらええない原事実です。

だからこそ、人によって、復活のキリストとの出会いの体験を、

生前のイエスの姿として、旅人の姿として、

あるいはまた強烈な光としてあらわしたのです。>

(『日本とイエスの顔』第六章)

「対象化しえない復活のキリスト」は

「体験的にしかとらえられない原事実」である、と神父は強調します。

この考えから、

前出『ルカによる福音書』<弟子たちに現れる>(二四章三六~四三節)では、

「対象化しえない」復活体の三次元的可視性でなく、

「体験的にしかとらえられない」イエスによるゆるしを

重視する立場がとられているのです。

それは、復活の外見的史実へのこだわり

(もちろん、史的事実を無視するということではありません)より、

「イエスによるゆるし」という内的真実を重視する姿勢といえます。

これはまさに、井上神父の視点から、

福音書の「表象的言語」を読み解いた結果にほかなりません。

そして、復活にイエスのゆるしを見る、というこの結論は、具体的には

<実際に「歴史的」なことを証明することを、第一に考えているものとは逆に、

本書では、テキストが語りかけるのを聞くことから始めなければならない>

(『イエスの復活とその福音』二七頁)

<まず、テキストを通して得られる一連の解釈を把握すること、

・・・・次に、歴史的事実の意味の、焦点を定めること>

(同三一六頁)

という、レオン・デュフールの立場と同様、あくまで新約聖書、

福音書に表象された言語を手がかりにしながら、

まず、その「テキストが語りかける」内実に、追体験的に耳を傾ける、

という謙虚な姿勢から出たものです。

前述したように、一求道者としての井上神父は、

<あれかこれか>の実存的選択を決意して、

現在の「アッバ神学」にたどり着いた(アッバの岸辺に流され着いた)わけですが、

それは、この復活解釈に典型的にみられるように、

けっして、ひとりよがりな思い入れからではなく、

丹念に、繰り返し「テキストに聞く」という、謙虚な姿勢と、

祈りから出た結論にほかならない、といえましょう。

本稿で筆者は、井上神学の特徴をさぐるために、神父が聖書の行間を、

いかに丹念に読み取ろうとしているか、ということにこだわってきました。

この「行間読み」の姿勢こそ、

ここにいう「表象言語の読み取り」ということになるのだと思います。

<人間が神の行動の奥義において神に至るのではなく、

神だけが人間に出会うために行為されるのであって、

その行為は現実の出会いとして知覚的に受けとめられるものではない。

イエスを復活させた神の行為は歴史的認識の対象ではなく、

理性のみによって、経験から出発して得られる認識ではないのである。

つまり、すべての人間がそのまま知りうる事実ではないのだ。>

(同三二五頁)

イエスの復活体が、特定の選ばれた「証人」や「使徒」だけに顕現された

(『使徒言行録』二章三二節、一〇章四一節、一三章三一節など)ということは、

復活者顕現がアッバによる目的的主体的行為であったことを示唆していますが、

右のレオン・デュフールの言葉、傍線部はそのことをのべており、

また後半は、復活が科学的客観的な認識の埒外にあることを示唆しています。

それゆえなおさら、井上神父のように、

福音書の行間を求道者として追体験的に読む――アッバに耳傾ける、

ということの重要性が強調されるのだと思います。


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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「麦」08年1月号より  

殊のほか静かに暮れしコルベ祭  栄一

蝉しぐれ天に宝を積む如く

ガラシャ忌を一人下山の道辿る

つまずきの石取り去られ盆の道

死蝉の吹き寄せられし垣根かな

末席の気楽さが好き夏の宴


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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居眠りも仕事納めの閲覧室  栄一  

マタイ2・13-18
占星術の学者


category: 平田栄一求道詩歌(3)

thread: 俳句

janre: 小説・文学

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起きしなに命の言葉ヨハネ祭  栄一  

一ヨハネ1・1-4


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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マタイ10・17-22  

不幸が

次々

襲う時、


それは、


アッバによる

証の機会が、







与えられている


とは、


思えないだろうか。





















ステファノ忌嘘押し通す子の痛み  栄一




























category: 平田栄一求道詩歌(3)

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