「南無アッバ」を生きる ホーム »2007年06月
2007年06月の記事一覧

創世記18・1-15 マタイ8・5-17  

御使いを笑顔でもてなす木下闇  栄一

第一朗読で、アブラハムは御使いに自ら「給仕」し、福音朗読では、百人隊長はイエスを「お迎え」する。
さらにペトロのしゅうとめは、癒されてイエスを「もてなす」。

ということから、全体として今日のテーマは、「もてなし」ということが語られていると思われる。

作句にあたっては、アブラハムが「木陰」で「三人の人」を「給仕」する場面を基本描写しながら、サラの「笑い」への連想も考慮したが、出来上がりは只事俳句になってしまった。



category: 平田栄一求道詩歌(3)

thread: スピリチュアル

janre: 心と身体

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求道俳句誌「余白の風」第138号7月発行  

http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-807.html


category: ○お知らせ・報告

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マタイ16・13-19 聖ペトロ、聖パウロ使徒祭日  

ひとり行く道は寂しもパウロ祭  栄一

ひとりと思う一人にあらずペトロ祭

メモ帳と同行二人パウロ祭


二人の大使徒の使命は異なっていたが、キリストの体において一致していた。
わたしたちもそれぞれに、小さな使命を授かって世に送られてきている。
一見ばらばらのようで、ひとり一人はけっして孤独ではない。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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マタイ7・21-29  

天国に実る祈りや田草取り  栄一

イエスの言葉を聞いて「行う」ことが奨励されている山上の説教の箇所。しかし、その方法が旧約に戻って、律法主義になってしまっては、なんにもならない。

「御言葉を行う」仕方も、新約的であるべきでしょう。
それは、「南無アッバ」=アッバへの無条件全幅の信頼による、ということです。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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創世記15・1-18,マタイ7・15-20  

信頼は義の実か種か梅雨の晴  栄一

やや理屈ぽくなってしまったが、第一朗読でのアブラハムが「信じて義とされた」ことと、「見てくれに惑わされるな。中身で真偽を見分けよ」という福音朗読に刺激されて一句ものした。



category: 平田栄一求道詩歌(3)

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マタイ7・6-14  

にじり口抜けて目先の七変化  栄一

今日の福音は、一般によく知られている「狭き門」と「豚に真珠」の語源を含む箇所。「にじり口」は「狭き門」から発想しました。
「七変化」は、「あじさい」のことです。



category: 平田栄一求道詩歌(3)

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2007年7月「麦」初出6句  

 地熱集

気ばかりが急く仕事持ち春夕べ

桜蘂降れば易々転生す

気がかりの一、二はあれど鳥雲に


 原生林

満開の桜を抜けて告解す

キリストの傷を洗いし花の雨

神の子のゆるり歩めり春火鉢


category: 平田栄一求道詩歌(2)

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マタイ7・1-5  

曇天へ丸太切り出す梅雨じめり  栄一

他人の欠点や偏見は、よく見えるようでも、自分のことはよくわからない。
自分の方が、より強い色眼鏡、曇り眼鏡で、相手を見ていることも。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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ルカ1・57-66 洗礼者聖ヨハネ誕生祭  

寂しさは何の先駆けヨハネ祭  栄一

中央道と関越道 圏央道で直結



category: 平田栄一求道詩歌(3)

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俳句とキリスト教「余白の風」第138号  

正式版をこちらからご覧下さい
2007年7月
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

求道俳句会
マルコ12
アバの手に死者よみがえり雲の峰  栄一
アバにある掟は如何に夏の雲
神殿に主の声響く目借時
病む母の手を引く子も病む夏夕べ
Ⅰコリ11 ルカ9
妻と行くミサは降られて聖体祭
主を食らい主を飲み笑う聖体祭
マタイ10 聖バルナバ使徒記念日
小鞄に夏帽ひとつ使徒の旅
マタイ5
苔の花一坪の世を照らすなり
二コリント3 聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士
霊は生き文字は殺すやパドバ祭
マタイ5
和み得ぬ業の悲しさ梅雨近し
ルカ15 イエスのみ心の祭日
羊雲西へ西へと聖心祭
ルカ2 聖母のみ心の記念日
不甲斐なき子に聖母の心寄り添えリ
ルカ7
父の日の青い色紙にルカ七章
マタイ5
万緑のうちにひと日をいただきぬ
マタイ5
わが内に敵味方あり桜桃忌
桜桃忌=太宰治の命日6月19日。太宰忌。
マタイ6 二コリント9
笑顔見て労報われし母子草
マタイ6
空梅雨や「アバ」で始まる主の祈り
天に積む宝の軽さ夏至の雨
御心のままに野の百合空の鳥

こころ         魚住るみ子
言の葉を深くかしこ畏みわがこころめぐ回らせむ糧となりにけるかも
は霽れ渡るあさぎ淺葱の空の限りなしこころの枷の解かれしとこそ
栄一:二首とも「こころ」の不思議、愛おしさ、可能性をおおらかに詠っています。南無アッバ。

長谷川末子
カレンダーめくりて梅雨を待つ心
茶の筋のおしゃれな家よかたつむり
律儀にも青の花弁や額の花
どくだみに神秘な想い七十路の
六月に入る祈れる日を喜びて

 公園
池には亀と残り鴨
あやめに葦に鯉の影
近くに丹沢深みどり

テニスコートにサッカー場
スケボーする子 野球の子
柳は青く欅は高く
木陰にベンチ 額の花

砂場にブランコすべり台
小高い丘に東屋も
歩道はチップ広い芝
白つめ草も点々と
ジョギングの人走る人
空は青くて風吹いて
花壇の花も次々と
すべては御手の中にある
栄一:「どくだみ」歳を重ねるがゆえに見えてくるものがある幸せ。「公園」結句で完璧な求道詩になりました。   
井上洋治神父が説く三位一体論:平田栄一
六月二日アッバミサ前一〇分講話於:四谷ニコラバレ
以下、平田が話した短い講話をもとに、加筆・訂正したものです。
   †
 みなさま、こんにちは。例月のとおり、これから、井上神父様によるアッバミサが、行われますが、それに先立ちまして、神父様が、何かお話を、とおっしゃいますので、僭越ですがわたくし平田の方から、少しお話しさせて頂きます。
 典礼暦では、今週は聖霊降臨の主日で始まりました。これで復活節が終わり、年間の暦に戻っています。そして、あした六月三日は、三位一体の主日。
さらに、その次六月一〇日は、キリストのご聖体の祭日。ということで、ちょうど教会の重要な教えを、次々に思い起こさせられる季節になっています。
 そこで本日は、あしたの三位一体の主日にちなみまして、少しこの教義について、触れたいと思います。
 私は、神父様でも神学者でもありませんが、職場の、とくに、「倫理」とか「世界史」を教えている先生たちからよく聞かれます。
つまり、「教科書には、キリスト教の説明として三位一体が、必ず出てくるから、教えてはいるけど、どうもよくわからない」と。
 最近はインターネットやメールなどでも、問い合わせてくる方がいます。「井上神学では、これを、どう説明するのか」と。
 そういうときはたいてい、安直に答えず、「まず、神父様の本を、読んでみてください」といいますが、たいていは、それで嫌な顔?――顔は見えませんが、二度と問い合わせが来ません(笑)。
 おそらく、そういう方は、手っ取り早い解答が欲しいのでしょう。忙しい社会ですから。。。
 それはそれとして、三位一体というとき、ちょっと調べてみますと、教科書的には、三位一体とは神の三つのペルソナとか・・・・神父様の「キリスト教がよくわかる本」でも、H2Oの三様態――水蒸気・水・氷のたとえなどがのっているのですが、井上神父様は、直接にはあまり語っておられないのですね。
 ところが、いろいろなところで、実はこの用語を使わないで、三位一体を実質的に表現されています。

 たとえば、これから始まるアッバミサ。
おてもとに、ミサ次第がある方は、ご覧ください。
 このなかで私達は、まず、「アッバ、アッバ、南無アッバ」と唱えます。こうして「おとおちゃーん」と呼びかけてから、「イエス様につきそわれ」といいますね。
――わたしたちにいつも付き添ってくださる神としてイエス様が表明されます。遠藤周作先生の同伴者イエスに通じます。
 そして、「おみ風さまにつつまれて」
――つつむ神としての聖霊、プネウマ。わたしたちをいつも、包む神、包容の神
――神父様は、「神の国」を、「アッバのまなざしの包容」と、訳しています(「わが師イエスの生涯」p.86)。
このまなざしは、もちろんイエス様のまなざしを思わせる。
 これだけで、直接に、ああ、ありがたいなあ、と思います。だから、福音=喜びの知らせ、なんですね。
そして、それから気づく。こんな短い祈りに、そのまま三位一体が自然に組み込まれている、と。
 三位一体とは何か?と考えてからじゃない、ああ、ありがたい、っていうのが先です。
 
それから、最後にごいっしょに唱える「風の家の祈り」。「アッバ」と、まず第一位格の父なる神にまず呼びかけます。
 次に、「人々の心を写し取り、受け入れ、友として生きられたイエス」と、第二格が出てきます。
そして、私たちの人生がイエス様と同じように、アッバの「悲愛の息吹=聖霊の働きの場」になるようにと祈ります。
 ここでも、アッバとイエスとプネウマが、自然―「空を行く雲、小川のせせらぎ、一輪の野の花」を背景として溶け合っています。
その場の中に、私たちが生かされていくように。。。。そういう祈りです。
 伊藤幸史神父様が、以前こちら(06.9)でお話されたときに、井上神学の特徴として、「自然と共に」、ということを指摘されていましたね。
 
さらに最後に、3番目として、皆様ご存知かと思いますが、「ガラス窓」のたとえというのがありますね。
「わが師イエスの生涯」エピローグにも、出てきます。
 イエス様はアッバという太陽の光を、お通し申し上げる、100%透明なガラス窓のような方だ、というのです。
 これは、わたしはすばらしいたとえだと思っています。なぜすばらしいかというと、まず、とっても身近だということ。
冬の寒い日に、部屋の中でぬくぬく日向ぼっこしていると、このたとえが思い出されて、ありがたいなあ、と思います。
 外の厳しい寒さから守られて、アッバの暖かさをそのままいただける。私の家などは、小さくて、日当たりも悪いものですから、なおさら、そういうときは、ありがたいんです。まあ、それで、小さな家でよかったとは、思わないところが、業の深いところなのですが。(笑)
 また、透明なイエス様に比べて、わが身の曇り方が反省される。そういうこともある。
 そして、このたとえのもっとも素晴らしいのは、最後は、ガラス窓は壊れなくてはならない、ってところまで行くことです。
 壊れなければ、本当の大自然の風は入ってこない、おみ風さま、プネウマ、聖霊は来ないというわけです。
イエス様の十字架の死の意味まで、含んでいるのですね。
その上で、三つの位格が、わたしたちが実感を持てるところから、説き起こされ、指し示され、密接に関連づけられて、語られています。
 こうして、わたしちが日々体験・実感できるところから、キリスト信仰が説かれている、というのが、井上神学の強みなのではないかと思います。
 神父様からの学びを続けていると、改めて「三位一体とは何か?」とか、「十字架の意味は?」ということが、頭からではなく、心と体といいますか、まず体感として、それこそ自然に、気がついたら、「ああ、そうだなあ」と思わせられる瞬間がしばしばあります。
 理屈が先ではなく、私たちの日常体験できるところから掘り起こされ、指し示されて、信仰が説かれます。
 最近になってようやく、子育てが終盤になってきたので、ときどき妻と温泉なんかにいくんです。先日も、川治温泉に行って、雨の中の露天風呂に入って来ました。頭に手ぬぐいをのっけて、青葉若葉に囲まれながら、鼻歌じゃありませんが、思わず「南無アッバー」と、唱えていました。(笑)
 でも、教会の教義といわれるものも、本来は、すべてそこ――イエス様が始め、弟子たちに伝わった「南無アッバ」――「ありがたいなあ」という心から生まれたものなのだと思うのです。
 今日のごミサをとおして、アッバと、イエス様と、おみ風さまの包容――包み取られているという、福音の素晴らしさを、あらためて、皆様と分かち合えれば、と思います。ありがとうございました。

(当日の生録音声をインターネットで聞くことができます。http://page.freett.com/yohaku5/から)
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求道俳句会誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想をお寄せください。(採否主宰一任)
投稿先:ホームページ「今を生きることば」

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平田栄一『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)―井上神父の言葉に出会う―五二五円(税込):著者の体験にもとづく格好の井上神学入門書。
正式版をこちらからご覧下さい


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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