「南無アッバ」を生きる ホーム »2007年05月
2007年05月の記事一覧

俳句とキリスト教「余白の風」第137号発行07年6月発行  

http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-784.html


category: ○お知らせ・報告

tb: 0   cm: 0

俳句とキリスト教「余白の風」第137号  

2007年6月1日発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

A4縦書きプリント版はこちらから

法然上人の言葉を思い出しましたbyいとー

ホームに立って 電車待つまに 南無アッバ
                        井上洋治
(『アッバ讃美』)

井上神父は、「お祈りは時間が長ければいいというものではない。短い時間でも、神様(アッバ)に何もかもお任せする気持ちを持つことが大事だ」と言います。

そういう意味では、場所もお風呂だって、トイレだっていいわけです。もちろん電車を待つホームでもOK。一瞬「南無アッバ」と射祷を唱える・・・・。

「でもどちらかというと自分としては、地下鉄などより、自然の見える地上のホームや車内の方がいい」とも言っています。(栄一)
この記事を読んでいたら、

  不浄にて 申す念仏の とがあらば 
  召し籠めよかし 弥陀の浄土へ


(トイレでお念仏を申すことに、何か罪があるというならば、どうぞ私を召し取って、阿弥陀様の極楽浄土へ閉じ込めてください!) (『法然聖人絵』弘願本巻二 ) という法然上人の和歌を思い出しました。

 この和歌は、数ある法然上人の伝記でも『法然聖人絵』(弘願本)にのみ収められていて、この伝記には、実はこの和歌が法然上人がトイレでお念仏している絵とともに描かれている、本当に珍しい和歌です。

あるお弟子さんが、トイレでお念仏する法然上人をいさめた時に、法然上人がお答えになったものなのです。

 キレイとか汚いとか、浄らかとか穢れているという我々人間が勝手に作り上げた基準と違って、全ての人を救うという絶対的な阿弥陀様の大慈悲というものが、そんな人間社会の価値観など遥かに超えたものである。

 そのことを端的に示した和歌なのですが、井上先生の言葉は、本当に法然上人の言葉に通じる気がします。

 あと井上先生の、『キリスト教がよくわかる本』
『日本とイエスの顔』も読みました。日本人の感情でキリスト教を捉える井上先生らしく、とても心に響く本した。今まで持っていたキリスト教のイメージがかわるぐらい素晴らしかったです。

 それに他宗教をとても尊重されている井上先生の本なので、僕のような他宗教の人間でも安心して読めました。これは、とてもすごいことだと思います。

 井上先生の本を読むと、他宗教を尊重しないと、他宗教の方に尊敬されることは決してないことがわかります。

これからも、よろしくお願いします。南無阿弥陀仏。
(編集注:「いとー」氏は、主宰がネットで知り合った、浄土宗の真摯な青年僧侶です。)

主宰作品by平田栄一

短歌誌「塔」〇七年五月号より
寝て喰ってまた寝ることの永遠の今を生きてるウチの猫タマ

あれこれと入門書ばかり借り出だす父は書生のままに老いたり

いつまでも子の帰り待つ母とうもの闇夜の雨に雨戸を引かず

新宿の雨に打たれし無花果の身内に動かぬ季語のあるらし

卓上に落ちいし髪を見つけたる朝の疲れの怒涛のごとく


求道俳句作品

新緑の彩やかたちや雨模様   佐藤淡丘

登校のしんがり守る柿若葉

類なき万緑の端に触れにけり

若葉風ふたりぼっちが手を握り

襤褸もてつつじに触る背教者


栄一:三句目、「長血の女」がイエスの衣に触れた、聖書のくだりを思い出しました。4句目、「ふたりぼっち」が効果的。五句目、『沈黙』のキチジローを思い出しました。

聖霊降臨
聖霊の 招きに気づく 神の愛  ヨハンナ
偶然も 必然という 面白さ


聖霊降臨の日に気づく偶然の必然性に驚きと神の愛を感じて作りました。俳句や短歌は写真でそのときの映像を記念に残すように短い言葉の中にそのときの心の琴線を残すものだと思うので、最近の感動したことを詠んでみましたが、うまく詠めませんでした・・。

栄一:偶然の必然性。そういうこと、ありますよね。
そこに巧妙な?アッバの手口を感じたりして、驚いたり、感謝したり。
 お作は、定型できれいにまとまっているし、これはこれでいいのですが、たとえば、その「感動」を、具体的な事物に即してうたうと、いいかもしれません。

 一句目、どういうことがあって、「聖霊の招きに気づいた」か、ということです。その中身を具体的に。 二句目も、その「面白さ」の具体を示す。しかしその方法は、絶対なものではありません。

「俳句」らしさ、というところからの話です。「川柳」としてなら、むしろ、このままでもいいでしょう。ご本人が、どちらを望むかですね。それから、季節、季語など、自然を入れると、句の幅が広がります。

余白アラカルト

○宇津井健さんと瀬戸内寂聴さんの対談より
宇津井「妻はC型肝炎になったとき、井上洋治神父の洗礼を受けましたから、死期が迫っても堂々としていました。その姿に打たれて、私も一昨年の誕生日に洗礼を受けました。」

寂聴「・・・・さっきお話の出た井上神父さま、私もよく存じあげているんですよ。遠藤周作先生のお友達で、素晴らしい方ですね。あの方のお世話で、作家の方も随分とクリスチャンになっているんです。

私は途中で、ちょっと違う、やっぱり私は仏教かなと思って、随分悩みましたけれど、ご紹介くださった遠藤さんと神父さまに思い切ってそう申し上げたら、おふたりとも全く怒らないで、「そうかもしれないね。よかったね」って言ってくださった。」
(「いきいき」〇七年六月号抜粋)

○佐藤淡丘さんのおたよりから
ゴールデンウィークは雨の中休みとなりました。師事になりますが、七人兄姉の末弟が去る四月二十日、肺癌のため五八歳という年齢で逝ってしまいました。

自分で言うのもおかしいですが、小さい時から可愛い奴で、多くの人様からも慕われていました。(十一年程オーストラリアにて働いており、帰国して五年目に罹患)葬式は、私達の故郷、浜松で行われましたが、本人の希望で、「無宗教葬」で執り行われ、なかなか清楚なうちにも厳粛に終始しました。

・・・・本人(弟)はキリスト教の洗礼こそ受けておりませんでしたが、心の内ではキリスト教葬を望んでいたようで(私が早く気がつけばよかった・・・・)、遺品の中にカトリック作家曾野綾子さんの本が沢山ありました。

 天に還る舎弟かなしも春ゆくと  淡丘

 先生のご著『心の琴線に触れるイエス』の中で、「死の意味」に関する井上神学の一端を述べられた箇所がありますね。このことをすぐ思い出したものです。「死とは・・・・、ある人の一生は地上における使命は、死という行為において始めて完成されるものであり・・・・積極的な行為によって完全な意味をもたされてくるものである、と。

 弟は五八歳で逝ったが、一番完成されたときをもって天に還ったに違いないと、私自身心に決めたものでした。(5/2付 抜粋)

求道俳句の作り方by栄一
(一)聖霊降臨の主日。御ミサでは、使徒言行禄二章が読まれました。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(1-4節)


この朗読箇所を、何度か読んで、味わっていると、次のような句ができました。

それぞれに御言葉運ぶ初夏の風

これが、初稿。「一人一人の上に」アッバが、最も適切な「御言葉」をくださる・・・・そんな気持ちを読んでみたのです。
しかし、さらに、読み込み、推敲していると、句が変化してきました。

おのおのに言葉を運ぶ初夏の風

こんなのは、どうでしょう。この箇所の、「一人一人」がそれぞれの国の言葉を授かった、ということが中心ととらえたのです。「それぞれ」という分散的なイメージも改め、「おのおの」にしました。

最初の句とあわせると、聖霊降臨によって、まずアッバから御言葉をいただく。そして、わたしたち一人一人は、それぞれの使命・言葉を担って、世へ出て行く。今日アッバは、御言葉から言葉へ、一人一人の使命、そんなことを黙想させてくださいました。(5/27記)

(二)自分が最も気に入っている本や、繰り返し見ているビデオ、聴いているCDなどから、創作に結び付けてみましょう。今日のわたしは、「毎日のミサ」のマルコによる福音書一〇:二七「金持ちの男」より

夏の空慈しむ主の目のありぬ

こんなふうに、作ってみまました。
お空のどこかから、イエス様が見ていてくださる・・・・そんな安心をこめて。(5/28記)

お知らせ
平田栄一の新刊『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)
―井上神父の言葉に出会う―〇六年十二月発行 五二五円(税込):イエスとともに、アッバの風に己を委せきって生きる――日本人求道者のためのキリスト教――井上洋治神父に長年師事してきた著者の体験にもとづく格好の井上神学入門書。
―――――――――――――――――――
求道俳句会誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想をお寄せください。(採否主宰一任)
投稿先:ホームページ「今を生きることば」

A4縦書きプリント版はこちらから


category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 2

求道俳句の作り方-例2  

自分が最も気に入っている本や、繰り返し見ているビデオ、聴いているCDなどから、創作に結び付けてみましょう。

今日のわたしは、「毎日のミサ」のマルコによる福音書10:17-27「金持ちの男」より

夏の空慈しむ主の目のありぬ  栄一

こんなふうに、作ってみまました。
お空のどこかから、イエス様が見ていてくださる、、、そんな安心をこめて。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

tb: 0   cm: 0

第6章 ユダヤ教指導者層たちとの対決  

パレスチナの雨期乾期の特徴描写から安息日論争解説へ 101

引用:申命記23,出エジプト34,5、ヨベル50、安息日遵守の厳しさ。

禁止事項39を守れないための神罰の恐怖 103

●イエスはなぜ旧約を引用したか
イエスにとっては、旧約引用による弁護は不要だったが、旧約に洗脳されていた人々に安心・信頼を与えるために、ファリサイ派以上の知識による彼らの主張の否定を示す必要があった。104


category: 『わが師イエスの生涯』

tb: 0   cm: 0

求道俳句の作り方-例1  

今日は、聖霊降臨の主日です。
御ミサでは、使徒言行禄2章が読まれました。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

朗読箇所を、何度か読んで、味わっていると、とくに、上の下線部のようなところが、印象に残りました。

それぞれに御言葉運ぶ初夏の風  栄一

これが、初稿。
「一人一人の上に」アッバが、最も適切な「御言葉」をくださる、、、そんな気持ちを読んでみたのです。

しかし、さらに、読み込み、推敲していると、句が変化してきました。

おのおのに言葉を運ぶ初夏の風  栄一

こんなのは、どうでしょう。
この箇所の、「一人一人」がそれぞれの国の言葉を授かった、ということが中心ととらえたのです。

「それぞれ」という分散的なイメージも改め、「おのおの」にしました。

最初の句とあわせると、聖霊降臨によって、まずアッバから御言葉をいただく。

そして、わたしたち一人一人は、それぞれの使命・言葉を担って、世へ出て行く。

今日アッバは、御言葉から言葉へ、一人一人の使命、そんなことを黙想させてくださいました。

---アッバ、アッバ、南無アッバ!---


category: 平田栄一求道詩歌(3)

tb: 0   cm: 0

アッバにてひとつとなりぬ春の花  栄一  

ヨハネ17 復活節第7水曜日


category: 平田栄一求道詩歌(3)

tb: 0   cm: 0

宇津井健さんと瀬戸内寂聴さんの対談  

宇津井「妻はC型肝炎になったとき、井上洋治神父の洗礼を受けましたから、死期が迫っても堂々としていました。

その姿に打たれて、私も一昨年の誕生日に洗礼を受けました。」

寂聴「・・・・さっきお話の出た井上神父さま、私もよく存じあげているんですよ。

遠藤周作先生のお友達で、素晴らしい方ですね。

あの方のお世話で、作家の方も随分とクリスチャンになっているんです。

私は途中で、ちょっと違う、やっぱり私は仏教かなと思って、随分悩みましたけれど、ご紹介くださった遠藤さんと神父さまに思い切ってそう申し上げたら、おふたりとも全く怒らないで、「そうかもしれないね。よかったね」って言ってくださった。」

(「いきいき」2007.6月号より抜粋)


category: 今日、心に残った言葉

tb: 1   cm: 3

第五章 ガリラヤの春・「旧約律法」の重圧からの民衆の解放  

●カナの婚礼の「真実」

この物語(『ヨハネによる福音書2章「カナの婚礼」)によって示されている真実は、アッバのあたたかなまなざしのもとで、禁酒、断食といった禁欲的な生活につらぬかれている洗礼者ヨハネ教団の生活と旧約の精神を打ち破って、にこやかに、おおらかに、そしてあかるく、酒宴というささやかな庶民の楽しみを大切になさった師のお姿を告げることにあったのだと思われる。(84頁)

一般的な解説では、このペリコーぺの主眼は、ユダヤ教を象徴している水が、イエスによって変えられ、更新、凌駕され、イエスの贖罪を通して、ユダヤ教とキリスト教が連続線上にありながら、他方において後者が前者を超克し、全く新しいものとして、人々に永遠の命を与える・・・・(『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』等参照.というところにあるとする。

井上神学は、ユダヤ教とキリスト教の「連続」性については消極的なことは、これまで見てきたとおりだが、前者の「超克」については上記ような解説と一致する。

しかしここでは、井上神父の「主眼」は、そうした神学的解釈にはない。

むしろ、端的に、「大飯ぐらいの呑兵衛」と悪口を言われても(ルカ7:34)酒宴を共にし、「庶民の楽しみ」に共感するイエスのまなざしが、強調されているのである。


●イエスの第一声の意味

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(『マルコによる福音書』1章15節)
 この第一声で師はガリラヤ伝道を始められたと、『マルコによる福音書』は伝えている。・・・・この福音という言葉を使って、福音書の記者たちは、アッバを告げる師イエスに出会えた限りない喜びを表現しようとしたわけなのである。
(86頁)

 この第一声からして、旧約の父性原理の強い神ではなく、母性的な「アッバ」への信頼を説くイエスの最初の言葉と、井上神父は理解する。

すなわち、「時は満ち、神の国は近づいた。」を、「いまや、私たちをアッバがしっかりと御自分のまなざしのうちに包容しはじめてくださったのだ」と解する。

ここでは、「神の国(バシレイア=支配)」を「アッバの神のまなざしの包容」と訳す。

「悔い改め」も、洗礼者ヨハネの文脈での「禁欲的・苦行的な生活への回心」ではなく、「腕の中の赤子がアッバに向ける全幅の信頼のまなざし」と解す。

その上で、「福音を信じる」とは、「このあたたかなアッバのゆるしのまなざしに信頼し、そのもとで、おおらかに、自由に、のびのびと生きていく」ことに他ならない、とする。

 ここでも、「罪の悔い改め」といった、既存のキリスト教がとる表現は見当たらず、アッバへの全幅の信頼が強調されていることに注目したい。


●福音を信じるとは南無アッバ

私たち日本人に親しい「南無」という言葉は、もともとはサンスクリット語では「帰命」とか「帰依」とか「信従」とかを意味する言葉だと言われているので、「福音を信じる」ということは、日本流にくだいて意ってしまえば、「南無アッバを生きる」ということになるのではなかろうか。(87頁)

前節の「福音」解説をへて、井上神父はこのように結論する。神父には、「悲愛」や「おみ風様」など、日本人が親しめるユニークな造語が数々あるが、そのなかでも「南無アッバ」は、最も端的に井上神学の精髄を表現した言葉であろう。

もともとサンスクリット語の「南無」は、すでに日本人には定着した「親しい」ものと考えるが、井上神父は、この「南無アッバ」を初めて聞くと、多くの人が奇異に感じるだろうことは承知している(06年NHK「心の時代」での発言など)。

それは、「南無」が仏教を直感させることで、カトリックの神父がその用語を使う、ということの違和感(あるキリスト者にとっては警戒感も)、そしてイエスが「アッバ」を使ったことの意味が、まだ一般には理解されていないことが大きな理由だろう。

私は正直、この「南無アッバ」の定着には長い時間がかかると思う。しかし、実際、井上神父にならって、ことあるごとに「南無アッバ、南無アッバ」とやっていると、不思議と心の落ち着き、軽みを感じることが多い。

直接的には、「namuabba」は、「ア」音を多く含むことから、解放感を誘い、「アッバ」に向かって開かれた心を準備する効果がある。


●想像力で読む

師や弟子たちと一緒に食べたり飲んだりしている彼らの歓声がおそらくは道にまできこえていたことであったろう。(91頁)

イエス時代、「罪人」の代表のように毛嫌いされていた「徴税人」レビが、イエスを迎え、友人や娼婦たちも集めて、食事をしていた(『マルコによる福音書』2章15節)ときの様子を、井上神父はこのように想像する。

福音書には「歓声が道まできこえた」とは、直接書かれてはいない。しかし、こうした「想像」は、神父の「創作」ではなく、史的にも無理なものではない。

何気なく書かれたこうした想像力による解説が、福音書の世界を生き生きと甦らせ、わたしたちに身近なものにさせる。

古典である福音書をどう読むかが示唆されている、典型的な例である。


●旧約と無関係に

師の言葉は、そんな『旧約聖書』の引用などなしの、そのものずばりの強い宣言であったことは間違いあるまい。(93頁)

罪人といっしょに食事をする――ということは、律法を破って彼らの仲間になることを意味する――イエスの行動を見たファリサイ派の非難に対して、イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(『マルコによる福音書』2章17節)と宣言する。

しかし、この言葉にマタイグループは、ユダヤ人向けに旧約の『ホセア書』の言葉、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(6章6節)を「付加し」「解釈し」ている。これは、すでに学問的通説である。

が、「旧約の神ヤーウェの顔にとって代わる、アッバと呼びかけることのできる神の顔」(p.93)を新約に見る井上神学にとって、この言葉を、旧約と無関係に「そのものずばりの強い宣言」と改めて受けとることは、大きな意味をもっている。


●回心に導いた「たとえ」

このたとえ話には、師イエスが何をもっとも大切にされたかが実によく言いあらわされていると言わざるをえない。これは師にとって、旧約の神ヤーウェの顔にとって代わる、アッバと呼びかけることのできる神の顔の高らかな宣言に他ならなかったのである。(93頁)

「このたとえ話」とは、『ルカによる福音書』18章の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」。
井上神父は、福音書のなかで最も大切なイエスの教えとは、ここ18章と、同じ『ルカによる福音書』の10章だという。

実際神父自身の宗教体験として、

「私自身信者になってから数年間というものは、自分ではイエスの教えを生きようとしているつもりで、実はパリサイ派の姿勢に近づいてしまっていることに全く気づかなかったのでした。フランスのリヨンの町の灯りがきれいに見おろせるフルビエールの丘の修道院の一室で、ある夜読んだ次の『新約聖書』の一節が、私にそれまでの生き方の間違いを教えてくれたのでした。」(『私の中のキリスト』序章p.22)

と告白し、この「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」を引用している。神父の真の回心を導いた重要な箇所である。


●十字架の理由

師とユダヤ教指導者層との対立は決定的なものとならざるをえない。しかし師は死刑になることを覚悟しても、庶民を律法の重みと恐怖と不安から解放するため、一歩も後にひこうとはなさらなかったのである。(94-95頁)

本書中盤で早くも、明確にイエスの十字架刑の理由が述べられる。掟より悲愛を第一とするイエスのまなざしは、そのままアッバのまなざしと100%同じものであった。

アッバがそのような方であったから、そのままイエスも同じように生きた。その行き着く先に、十字架刑があった、という史的理由を明確に述べているのである。

従来の日本のキリスト教が、この歴史性に十分に言及せず、即パウロ的な十字架のキリスト教的意味――人類の罪を贖う-贖罪死ばかりを強調してきたことが、日本人の感性につまずきを与えたと言える。

この点でも井上神学は、日本人にわかりやすり論を展開している。


●エゴイズムにまみれても

〝・・・・神はアッバと呼べる方で、もしもあなたたちが我欲、我執に溺れて人生の道を誤って苦しんでいたとしても、決して自業自得だ、罰を受けるのは当然だなどとはおっしゃらず、羊飼いが羊を肩に担って帰るようにどこまでも探し求め、喜んであなたを抱きしめて、御自分であなたの人生を歩んでくださるだろう。

だから安心して、南無の心でアッバにすべてをお任せして福音のよろこびのうちにお生きなさい。〟師(イエス)はそう人々におっしゃりたかったのにちがいない。
(100頁)


「ガリラヤの春・「旧約聖書」の重圧からの民衆の解放」と題する本章の締めくくりの言葉。

「迷った一匹の羊をどこまでも探し求める羊飼いのたとえ」(『ルカによる福音書』15章4-7節)、「放蕩息子のたとえ話」(同15章11-31節)などを引用、解説しながら、神は自ら、無条件に、罪人に「ゆるしと悲愛」を示され、人生の同伴者となってくださる--「アッバ(おとうちゃん)」と呼べる方であることを、強調している。


category: 『わが師イエスの生涯』

tb: 0   cm: 0

5/16以降の投稿  

この記事のコメント欄にお願いします。
編集後、次号「余白の風」に掲載することがあります。


category: ○雑記

tb: 0   cm: 4

求道俳句誌「余白の風」第136号アップ  

http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-775.html
久しぶりの縦書きバージョンです。


category: ○お知らせ・報告

tb: 0   cm: 0

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop