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求道俳句会誌「余白の風」第135号  

今月3回目の発行!
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-766.html
浄土宗の若い僧侶いとー氏の井上洋治神父著『法然』書評をアップしました。


category: ○お知らせ・報告

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求道俳句会誌「余白の風」第135号  

2007年4月29日発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

エッセイ:いとー日記
日々の出来事を書き留めておくことにより、充実した毎日がすごせるのではないかと思い、ブログはじめました。

大好きな食べ物や本の紹介を中心に、日常のいろんなことを真剣に書いていこうと思っています。2007年04月16日

読書案内⑰井上洋治著『法然―イエスの面影をしのばせる人』(筑摩書房)

本書の著者である井上先生は、
なんとキリスト教の司祭さんである。

しかもその道を極めようと
親友の遠藤周作先生と一緒にフランスに留学した方である。
そして従来の伝統的キリスト教に疑問を持たれ、
帰国後、日本人の感性で
キリスト教を捉え直していくことに努められた方である。

 1927年、神奈川県生まれ。
 東京大学文学部哲学科を卒業。
 1950年、遠藤周作さと共に留学のため渡仏。
 カルメル会修道院に入会、
 七年半にわたり勉学・修業後帰国。
 1960年、司祭となる。
 日本人の感性でキリスト教をとらえることを努めている。
 1986年以降、「風の家」を主宰。
 著書に『日本とイエスの顔』『余白の旅』『キリストを運んだ男』
 『福音書をよむ旅』など多数。
 (本書の著者紹介より)

その方がその思索の過程で、
法然上人の教えに出会われたのである。

 寺院への寄付ができなくとも、
 高度の勉学知識がなくとも、
 戒律を守りぬく強い意志が持てなくても、
 ただ南無阿弥陀仏を唱えさえすれば、
 それによって必ず救われるのだという
 法然の限りなくやさしい姿。
 この法然の姿のうちに、
 私は、古代ユダヤ教社会で差別され、救いの望みを絶たれ、
 哀しく重い人生をとぼとぼと歩んでいた庶民を、
 なかでもとりわけ差別の目でみられていた
 娼婦やハンセン病の人たちを迎えいれ、
 楽しく一緒に食事をしていた
 イエスの面影を垣間みる思いがしたのである。
 (あとがきより)

その後、イエスの面影をしのばせる
法然上人について書いてみたいという思いを長年持ち続け、
そしてついに書かれのが本書である。

本書では、法然上人の生涯や思想が
簡潔かつわかりやすくまとめられている。
しかも長年キリスト教を研究されてきた井上先生らしく、
文献学的にきっちりと資料に語らせる形で論述されているので
すごく論理的で説得力がある。
さらに、法然上人のエピソードと
対応するイエスのエピソードを述べている部分も興味深いものであり、
行間から井上先生の熱い思いが伝わってくるようである。



このように本書は文句のつけようの本であるが、
その中でも特筆すべきことは、
浄土宗の学者さんでも
「延暦寺の僧徒による念仏停止運動によって、
法然上人がやむをえず書かされた」
とする場合がある
「七箇条起請文」(=「七箇条制誡」)を、
現代の宗教者たちが、宗教の別を問わず謙虚に耳を傾けるべき
「諸宗教の共存・共生の原理」
として位置付けていることである。

井上先生は、「七箇条起請文」のうち初めの三条に注目する。


 一、いまだ一句として、真言宗や天台宗の師について、
 その教えを学び修することもせずに、
 その教えは誤っているとしてうち破り、
 阿弥陀仏以外の仏や菩薩をそしるのはやめるべき事。

  このことについていえば、
 自らの立場を主張し批判するのは、
 長年にわたり学問にたずさわってきた人のなすことで、
 愚かな人の考えでなすべきことではない。
 そればかりか、
 『無量寿経』の第十八念仏往生願にも
 「仏の教法をそしるような悪罪を犯した者は
 この限りではない」と記し、
 往生の対象から除かれている。
 そしった人は、その報いとして、
 地獄におちてしまうであろう。
 どうして、それを承知で愚かなことをするのであろうか。
 そのようなことをしてはならない。

 一、知識のない人が、知識を十分具えている人に対し、
 しかも念仏以外のつとめをしている人に会い、
 その優劣について争い論ずるようなことはやめるべき事。

  このことについていえば、
 仏教の内容について議論することは、
 知識を十分に具えている人のすることで、
 愚かな者のすべきことではない。
 他人の過失についてとやかく論ずるにあたっては、
 悪い心がはたらくものであるから、
 知識を十分具えている人は、
 できるだけ遠ざけたいと考えている。
 ましてや、ひたすら念仏のみを修している愚かな人は、
 そのようなことをすべきではない。

 一、見解を別にして、行法を異にしている聖道門の人に対し、
 物事をわきまえず、かたよった考えをもち、
 聖道門のような教えはやめてしまえなどと、
 むやみやたらに嫌ったり、あざけり笑うようなことはやめるべき事。

  このことについていえば、
 仏道を修するにあたっては、
 自分の修行のための行いのみを、それぞれつとめ、
 しいて他の人たちのつとめている修業について、
 異義を申したてるようなことがあってはならない。
 窺基は『西方要決釈義通規』に
 「見解を異にし、行法を異にしている者には、
 できる限り敬う心をおこすようにせよ。
 もし、あなどるようなことがあれば、
 それによって得た罪は長く消えることはないであろう」
 と、申されている。
 どうして、この戒めに背くことができようか、できはしない。
 そればかりか、
 善導和尚もそのようなことがあってはならない、
 と戒めている。
 祖師たちの戒めていることをないがしろにするようなことは、
 愚かで、ものの道理にくらい人といわざるを得ない。
 (「七箇条起請文」昭法全p.787)


法然上人はこの三箇条で、
自分の弟子を名のって專修念仏を人々に勧めている全ての者に、
天台・真言などの聖道門の人たちを非難したり、
やたらに議論をふっかけたりすることがないように厳しく戒めている。

しかし一方で法然上人は

 阿弥陀様の光明はただ念仏する行者だけを照らし救うので、
 その他の教えをつとめる者を照らすことはない
 (『選択集』第七章)

とまで言いきっている。

この一見矛盾する二つの言葉から、
「七箇条制誡」を法然上人の真意でない
とする見解が出てくるわけである。

これに対して井上先生は
法然上人が『選択集』において引用する、
善導大師の『観経疏』の回向発願心の部分における、

念仏の行者が見解や修業を異にする人たちから

 おまえたちは戒を破ったり、
 正しい教えをそこなったりして多くの罪を犯しているのだから、
 ただひたすら念仏したぐらいで救われるはずはない。

と言われたときどう答えたらよいのか。

という質問に対する答えから、
この二つの言葉を矛盾なく解釈し、

さらには、

「信仰や修業を異にする宗教の共存・共生の原理」

を導き出すのである。


  多くの仏の教えと修業の方法は、
 塵や砂の数ほどに多く、
 それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
 それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
 たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
 大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
 火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
 誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
 これは光と闇、空と有、水と火というように
 相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
 待対の法と名付けなれているが、
 いずれも目で見て確かめることのできるもので、
 その現象はさまざまである。

  ましてや、仏法の考えもおよばない力に
 どうしてさまざまな利益がないのだろうか。
 そのようなはずはあるまい。
 仏の教えは八万四千もあるといわれ、
 煩悩も限りなくある。
 したがって教えの一つの門を出れば
 迷いの一つの門を出ることになり、
 教えの一つの門を入れば
 迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
 いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
 自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
 それにもかかわらず、そなたたちは、
 たとえそれが重要な修業の一つであっても、
 縁遠いものをもってきて修業をすすめ、
 我われをまどわしさまたげようとするのか。
 今、我われが願い求めているのは、
 我われに最もふさわしい修業法であり、
 そなたたちが求めようとしているものではない。
 そなたが願い求めているのは、
 そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
 我々が求めているものではない。
 誰もが、それぞれ願うところにしたがい、
 最も自分にふさわしい修業をすれば、
 必ず早く迷いの世界を出て、
 悟りを得ることができる。
 仏の道を歩もうとする修業者は、
 このことをよく知ってほしい。
 もし、教えを学ぼうとするならば、
 凡夫の立場から聖者の境地に至り、
 さらに悟りを得て仏になるまで、
 自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
 また修業したいと思うなら、
 あれもこれもと試みることなく、
 最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
 こうした方法をとれば、
 多少の苦労はあっても、
 大きな利益を得ることができよう。
 (『選択集』八章、『観経疏』散善義)


この『選択集』の答えを引用した後、
井上先生は以下のように述べられる。


 この法然の答弁においてまず大切なことは、
 宗教とは考える次元の事柄ではなくて、
 行じられるべきものだ
 ということである。
 だからまず法然は
 「修業したいと思うなら、
 あれもこれもと試みることなく
 最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ」
 といっているのである。
 現在でいえば、キリスト道ならキリスト道を、
 仏道なら仏道を、神道なら神道を、
 まず自分に最もふさわしいと思う道を
 行じることが大切だというわけなのである。
 人は二つの道を同時に考えることはできる。
 しかし二つの道を同時に行ずることはできない。
 従っていま自分の歩んでいる道が
 目的地に到達するのだという絶対の確信は、
 しかし、他の道も同じ目的地に達するのかどうかについては
 語る資格を持たない。
 宗教はみな同じ目的地に達するのだ
 といういわゆる諸宗教を横ならべに置く
 「宗教多元主義」も、
 達しないのだという独善論も、
 共に人間の条件、
 即ち今述べたように
 二つの道を同時に行ずることはできないのだ
 という人間の条件を無視した論といわざるをえない。
 だからこそ法然は、
 専修念仏による弥陀の救いの絶対性を確信しながらも、
 『選択本願念仏集』において『観念法門』の言葉を引用し

  阿弥陀仏の御身から輝く光は
  十方にある世界をあまねく照らすが、
  もしひたすら阿弥陀仏を念ずる人がいれば、
  仏のみ光はつねにこの人ばかり照らし
  おさめ見捨てることはない。
  その他のさまざまなつとめをする人まで
  照らしおさめるか否かは論じていない

 と述べているのである。

  すべての誤りは、
 この行の次元と思考の次元を混同することから生じる。
 人類の歴史をふり返ってみたとき、
 いかに多くの悲惨な宗教戦争がくりひろげられてきたかに
 何人も思わず驚きと嘆きの思いを禁じえないであろう。

  いま自分が歩んでいるこの道は
 絶対に目的地に到達するのだというのは、
 行の次元における主体的真理であって、
 思考の次元における抽象的、普遍的真理とはちがう。
 二たす二が四であるのが真理であれば、
 二たす二は五であるというのは誤りであり
 三であるというのもまた誤りであるという、
 真理と誤謬の二分法の論理は、
 あくまでも思考の次元のものであって、
 行(生きる)の次元に摘用されるべきものではない。
 これを行の次元にまであてはめれば
 キリスト教が真理であれば、
 仏教もイスラム教もヒンズー教もみんな誤謬であり、
 誤謬はつぶすか矯正されなければならないという、
 とんでもなく誤った結論になってしまうことはさけられない。
 それはまたどの宗教においても同じ過ちにおちいるわけであって、
 イスラム教が真理であれば
 他の宗教はみな悪魔にそそのかされた偽りの宗教だ
 ということにもなるわけである。
 この誤りによって
 実に多くの宗教戦争がひきおこされてきたのであって、
 法然は実に八百年もの昔
 この誤りによる危険を熟知していたわけである。

 だからこそ法然は「七箇条制誡」の第三において
 窺基の『西方要決釈義通規』を引用して

  見解を異にし、行法を異にしている者には、
  できる限り敬う心をおこすようにせよ」

 とさとしているわけなのである。
 この法然の心を現代の宗教者は
 また深く心にきざむべきであって、
 キリスト道を歩む者は仏道を歩んでいる者に対し、
 敬い尊重する心を持つべきであり、
 仏道を歩む者もまたキリスト道を歩む者に対し
 同じ心情を持つべきなのである。
 ここにこそ、まさにこれからの時代に必要な
 諸宗教の共存・共生の原理が述べられているといえよう。」
 (pp.107-110)


これはすごい大切なことだと思う、
法然上人の素晴らしさ、
そしてキリスト者でありながら
法然上人の御心をしっかりと受け取られた
井上先生の素晴らしさに、
僕は目頭が熱くなった。
おそらくキリスト者として
深い精神的なものに触れてきた井上先生であればこそ、
宗教は違うものの、
これほど法然上人の御心をよく理解できたのだと思う。


以前、他宗教の聖地を土足で踏みにじった
恥ずべき人の話を紹介したことがあるが、
彼にもこの言葉をぜひ聞いていただきたいと思う。

そして井上先生の素晴らしいところは、
自らはあくまでひたすらに
キリスト道を歩んでおられることである。


  ただ誤解のないように付け加えさせて頂ければ、
 私は決してイエスと法然が同じことを言っているとか、
 宗教はどの道からでもみな同じところに到達するのだ
 とか言っているのではない。
 キリスト道にしろ、仏道にしろ、
 その道を歩むということは生きるということであって、
 思索するということではない。
 人は二つの道を同時に考えることはできても、
 決して生きることはできないのである。

  道を求めて生きることを登山にたとえてみるなら、
 従来の西欧一神教がしばしば落ち入りかけた

 「自分の歩んでいる道だけが
 目的地である山頂に到達できるのであって、
 他の道は山頂には到達できない誤った道である」

 という「独善的排他論」
 ―これが悲惨な宗教戦争をひきおこしてきたわけであるが―
 が誤りであることは明かである。
 そのような断言は、
 山を一望に見渡せる
 ヘリコプターか何かからみて
 はじめて言えることであって
 ―これは人間の生の条件を超えている―
 人は、自分が今登っている道は必ず山頂に到達するのだ
 という信仰をもって登っていく以外にはないのであり、
 他の道が山頂に到達するかしないかは
 わかるはずはないのである。
 従っていまのべた「独善的排他論」が
 誤りであることは明らかであるが、
 しかし、同時に最近よく言われる、
 「全ての道はみな同じ山頂へと到達するのだ」
 と断言する「宗教多元論」もまた、
 同じ誤りをおかしているわけである。

  二十一世紀に必要なことは、
 諸宗教、諸文化、また人間と自然などの共生・共存であるといわれるが、
 しかし共生・共存ということは、
 決して違いをなくして
 一様化(ユニファーミティ)することではなく、
 違いを認め合ったうえで互いに相手を尊重し合う
 有機体的一致(ユニティ)でなければならないはずである。

  私は毎日南無アッパをとなえているキリスト者であって、
 南無阿弥陀仏をとなえている念仏行者ではない。
 その意味では、私には法然を正面から論じる
 資格はないかもしれないが、
 しかしただ一筋にキリスト道を生きぬいてきた者として、
 仏道に生命を賭けて歩んだ法然の後ろ姿に憧れ、
 魅せられているわけなのである。
 そしてその法然の後ろ姿は、
 まさに私にとって、
 師イエスの後ろ姿をしのばせるものでもあったのである。
(pp.183-184.)


宗教とか宗派に関係なく、
宗教に関心のある方にはぜひとも読んでほしい本だと思う。
――――――――――――――
この記事へのコメント1. Posted by メロンぱんち 2007年04月16日
アカデミックなアプローチでありながら、平易な文体で意も読み取り易かったです。
(難しい内容を専門用語ばかりで語るという手法もありますもんね。)

「どの宗教も到達点は同じである」という考え方や、それを検討する中での次元の話。また、確かな事としてあるのは「排他的な行動にならない事」などなど。

現在も宗教戦争やイデオロギーの対立を抱えている我々現代人は、こうした叡智を片方に抱えていながら、どうにも方向は怪しい気がします。

その行為が愚なのか、そうでないかは判明しないものの、排他的な発想というのは巷に溢れかえっている気もしました。

2. Posted by いとー 2007年04月16日
>メロンぱんちさん
井上洋治先生は遠藤周作先生の大親友で、バリバリのキリスト道者ですが、ものすごく深く法然上人の御心を理解されていて、本当に素晴らしいと思います。

どんな立場の人にもお勧めできる、法然上人について書かれた最良のものの一つだと思います。

そういえば、僕が読者案内で法然上人に関する本を紹介したのは初めてですね。

3. Posted by 平田栄一 2007年04月27日
いとー様、拙ブログへのコメントありがとうございました。
井上師に代わりまして、お礼申し上げます。
師もすでに満80才を迎え、いよいよ老境という感じです。

4. Posted by いとー 2007年04月27日
>平田栄一様
コメントありがとうございます。

私が井上先生から学んだのは、おそらく井上先生が
法然上人から学ばれておられる何分の一にも満たないと思いますが、
非常に大切なものを井上先生に教えていただきました。

また浄土真宗の布教師であるはらりんさんも、先生の御本に共感し、
感想を送ってくださいました。
http://blog.livedoor.jp/kyoseidb/archives/50714576.html

同じ宗教者として、井上先生は他宗教の方でありますが、
本当に心から尊敬できる方であると思います。
井上先生に教えていただいたきました、法然上人の「諸宗教共存・共生の原理」
をきちんと受け取り、今後も布教に努めていきたいと思っております。
どうぞ、井上先生によろしくお伝えください。


この記事を紹介していただけるのは、非常に光栄です。

そちらもどうぞ、よろしくお願いいたします。

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平田栄一近詠:「豈」44号より

桜散り初(そ)め予定欄次々埋まってゆく

入り日傾くほどに石蕗の葉の光り

照れば輝き曇れば悲しい聖母像

桜散ってすぐ白い花の下萌え

疲れ引きずったまま春に背中押される

田植待つばかりの雨止んで蛙鳴く

猫は正しく猫背でひねもす主の膝

別れ言わず別れる君の手の温もり

足元の花に気がつく幸せもある

滅多にしない話も出て週末の家族の形

終の別れか今し定刻に発つ列車

先々考えまいとする仕事はかどる

部屋片付いて余命いくばくという気分

かの人の行く末案じやがて本降りとなる

陽はまだある町の小さな歯医者へ急ぐ

猫も猫背できちんと座る朝の祈り

どこかで聞いたリズム夜風雨戸を叩く

夏の夜ぼそぼそ親子で解く宿題

命をこえる命が薺に吹く風

春の 向うから来て夏へと抜ける一本道

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平田栄一の新刊
『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)-井上神父の言葉に出会う 06年12月発行 525円
イエスとともに、アッバの風に己を委せきって生きる――日本人求道者のためのキリスト教――井上洋治神父に長年師事してきた著者の体験にもとづく格好の井上神学入門書。
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求道俳句会誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:ホームページ「今を生きることば」の掲示板
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後記:今月4月、3回目の発行です!
というのは、たまたま、わたしのHPに、

「浄土宗僧侶のいとーと申します。かつて井上先生の『法然―イエスの面影をしのばせる人』 をブログで紹介したことがあります。
http://blog.livedoor.jp/kyoseidb/archives/50693693.html

本当に素晴らしい本でした。特に浄土宗の学者さんでも「延暦寺の僧徒による念仏停止運動によって、法然上人がやむをえず書かされた」とする場合がある「七箇条起請文」(=「七箇条制誡」)を、現代の宗教者たちが、宗教の別を問わず謙虚に耳を傾けるべき「諸宗教の共存・共生の原理」として位置付けておられるのには、本当に素晴らしいと思いました。

信仰というものを、机上の学問ではなく、生きた実践として取り組んでおられる井上先生だからこそ、達することができた理解であると感動しています。こちらも、また読ませていただきたいと思います。」

という書き込みを戴き、うれしくなって、いとー様に許可を得て、記事をそのまま載せさせていただくことになったのです。心より、感謝いたします。南無アッバ!(栄一)


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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何もかもアバにお任せマルコ祭  栄一  

復活節第3水曜日 ペトロ5:5-14


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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初蝶や命のパンを受けて翔つ  栄一  

復活節第3火曜日 ヨハネ6:30-35

昨日からまた、はっきりしないお天気で、肌寒いくらい。
こういうときは、気持ちも落ち込みがちではありませんか?

ゴールデンウィークを前に、年度当初の緊張がゆるみはじめ、無理をしていた疲れが出てくる頃です。

皆様、お大事にしてください。
こんなときこそ、南無アッバの精神に帰りましょう。

「アッバ、アッバ、南無アッバ」

一日の、折々に、唱えましょう。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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のどかさや南無の心もアバの業  栄一  

復活節第3月曜日 ヨハネ6:22-29

今日の第一朗読(使徒6)、ステファノが天使のようなのは、真に「南無アッバ」の心境だったのだろう。

福音朗読では、「永遠の命のために働きなさい」というイエスに、群衆は「そのために、何をしたらいいか」と尋ねる。

イエスは、「わたしを信じることが、神の業である」という。
つまり、「南無アッバ」の精神そのものが、「神の業」なのであり、「すべき行い」なのである。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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春暁の海に飛び込むペトロかな  栄一  

復活節第3主日C年 ヨハネ21:1-4


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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求道俳句誌「余白の風」134号をアップ  

今月は、2回目の発行です!
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-757.html
プリント版(A4両面1枚刷)ご希望の方は、メールください。


category: ○お知らせ・報告

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4/21~投稿はこの記事のコメント欄にお願いします。  

求道俳句掲示板を移転しました。
投句・投稿は、この記事下のコメント欄にお願いします。


category: ○雑記

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こちらに移転しました。  

楽天ブログの「お知らせ」欄を廃止し、こちらに移転しました。
よろしくお願いいたします。


category: ○お知らせ・報告

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求道俳句会誌「余白の風」第134号  

2007年4月21日発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

<巻頭エッセイ>
†ピカピカの1年生:佐藤淡丘
桜がよく似合いますね。
関東地方はもうすっかり葉桜のようですが、当地は後半の冷気花の持ちがよく、つい最近まで楽しむことができました。

 「余白の風」133号、ありがとうございました。スピリチュアル俳句日記、なかなか新鮮な気分で拝読させていただきました。

 四旬節、特に聖週間の精神性を俳句に上手に乗せ、陰鬱にならない範囲内で詠い上げていらっしゃると感心いたしました。「井上神学の十字架から復活へ」の想いをついぞ思い出しました。

アブラハムイエスに見ゆ目借時  栄一

の御句が、特に気に入りました。まさに、「南無アッバ!」です。
 さて、私事になり恐縮ですが、私の二女がこのご復活節に、東ティモールから一時休暇で戻ってきて、共に主の復活を祝いました。

 愚娘は、日本カトリック宣教者会(通称JLMM)より一昨年派遣され、僻地の公衆衛生の啓蒙にと、小さな活動に従事しています。しばしの滞在ですが、出身教会でのプレゼンテーションなど、多忙な日々を送っています。

 私のケガですが、もう松葉杖がとれ、自分の足で近くを散歩できるようになりました。ほんとうにありがたいことです。(4月13日)

<スピリチュアル俳句日記:平田栄一>

4/7  死人から抜け出るイエス聖土曜

復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 C年ルカ24

4/8  磨かれし命は立てり復活祭

復活の主日 日中のミサ ヨハネ20
カテドラルもイグナチオも、ものすごい人出でしたー。

4/9 「おはよう」と声かけおうて復活祭    

復活の月曜日 マタイ28 マタイ伝では、復活の主の第一声は「おはよう」なのですね。

4/10  振り向けばイエスが見える春の墓  

復活の火曜日 ヨハネ20 今日もよく晴れました。

4/11  パン裂けばイエスとわかる花会式  

復活の水曜日 ルカ24

4/12  命へと導くイエスか佐保姫か  

復活の木曜日 使徒3

4/13  魚は氷に上りて主の日新たなり

復活の金曜日 ヨハネ21

4/14  イエスより始む復活春暑し  

復活の土曜日 マルコ16 夏日のなか、アッバミサ行わる。

4/15  春の朝トマスの如くアバを呼ぶ  

神のいつくしみの主日 ヨハネ20

4/16  春北風や思いのままに吹きて止む  

復活節第2週 第1周年 ヨハネ3 きのうとうってかわって、寒くなりました。これから、雨になるようです。三重で大きな地震がありました。

4/17  春嵐命もたらす主の息吹  

復活節第2火曜日 ヨハネ3 きのうから気温10度くらいで、暖房が復活しました。今朝は風も強く、嵐の様相でしたが、どうやら雨は止み、うすら日も出てきました。

4/18  南無アバと叫びたき程寒戻り  

復活節第2水曜日 ヨハネ3 昨日、アメリカの大学でまた射殺事件、死者30人以上。日本では、長崎市長が銃撃され、死亡。

4/19  春の闇貫くアバと子の絆  

復活節第2木曜日 ヨハネ3:31-36

4/20  春の野にパン裂くイエスと五千人  

復活の金曜日 ヨハネ6・1-15 共食物語 ようやく晴れて、春が戻ってきました。皆様にとって、よい週末となりますように。

4/21  春怒涛ゆるり近づくイエスかな  

復活節第2土曜日 ヨハネ6:16-21

<求道詩歌会員作品4/12-21>

青田風リハビリの途次躓くも  淡丘

花吹雪風くろぐろと地をわかち

公園の時計さみしも霾るに

水ぬるむよるべなけれどさざなみし

地の精を湖に映して山桜


栄一:お嬢様、アッバの手足となって活躍をされている様子、頼もしい限りですね。淡丘さんのリハビリの方も順調のようで、感謝です。

1句目、七転び八起き。
2句目、桜色と黒のコントラスト。
3句目「霾る」=「つちふる」と読みます。「黄砂」のこと、春の季語ですね。悠久の時間を思わせる。
4句目、ひらがなが繊細な感情表現に効果。
5句目、自然は生きています。

十字架の道行にも似た犬の姿  ヨハンナ

イエスさまに捧げるかのよう水のませ

 我が家の犬が病気になり半年、腫瘍のできた足を引きずるように散歩する犬をみてこんなに傷つき傷めたからだをおして生きようとする犬、エリザベスカラーを首にまいていて水を自分で飲めない犬に水を飲ませる時、不遜にもイエスさまを想像してしまいました。

RE:栄一:マザーテレサは、「あらゆる人の中に、イエスさまを見ます」と言っていました。その延長線で考えれば、「あらゆるものの中」にイエス様を見ても、おかしくないと思います。

とくに、日本人は、いきとしいけるものに、アッバの御顔を感じることは、自然ではないでしょうか。汎在キリスト論です。リズムをとるため、ちょっと添削しました。

畑より貰いて来たる菜の花の手篭の中に花咲かせたり  ひかり

2、3日前実家の畑から菜っ葉を貰って来ました。
気がついたら台所の隅で小さな花をつけていました。花ごと食べました。

実際は包んで来た新聞紙の中で2つ3つ花を咲かせていたのですが、「新聞紙」と表現せず、「手篭」としました。

こういう言い換えは短歌ではいいのでしょうか。余白さんは、このような時どのように歌われますか?

RE:栄一:まったく問題ないと思います。文学は歴史ではない、創造ですから。しかし、歴史にしても、目の前のものをそのまま記述するということが、そもそも何なのか。

すなわち「そのまま」とは、何かってこと。。。
 こういうことを考えると、福音書の史実性とリアリティとは何か、というところまでいって、面白い話になりますね。

†キリスト教とは「南無アッバ!」:平田栄一(ホームページ「今を生きることば」から)

はじめて聞いた方は、何これ?って思うかもしれません。この意味を、次の井上洋治神父の詩(祈り)によって、説明します。

アッバ アッバ/南無アッバ

「アッバ」とは、イエスが神を親しく呼んだアラム原語で、幼児が父親を呼ぶときの「パパ」「おとうちゃん」にあたる言葉。

良いことをしたから祝福、悪いことをしたから罰、という厳父ではなく、幼児を懐に抱く慈父の神のイメージ。
「南無」は、サンスクリット語で、「~に全幅の信頼を寄せる」という意味。

イエスさまにつきそわれ

このアッバの心を生き抜いたイエスが、いつも共にいてくださいます。

生きとし生けるものと手をつなぎ

人も草木も動物も含めた、すべての自然・万物といっしょに。

おみ風さまにつつまれて

「おみ風さま」=「聖霊」=「神の息吹き」は、アッバ・イエスの心を時代や場所を超えて伝える風。

アッバ アッバ/南無アッバ

すなわち、キリスト教とは、うれしいときも、悲しいときも、イエスとともに、アッバと呼べる神に全幅の信頼を寄せて生きることです。

 具体的には、日常の中で、折に触れて「南無アッバ」「南無アッバ」・・・と、この短い祈りを繰り返すことによって、少しずつ、アッバが主、自分が従、という「やわらかな生き方」に転換されていくでしょう。

風に己れを/まかせ切って/お生きなさい
         ガラティアの信徒への手紙5章16節(井上訳)
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平田栄一の新刊
『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)-井上神父の言葉に出会う 06年12月発行 525円
イエスとともに、アッバの風に己を委せきって生きる――日本人求道者のためのキリスト教――井上洋治神父に長年師事してきた著者の体験にもとづく格好の井上神学入門書。
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求道俳句会誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想をお寄せください。(採否主宰一任)
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