「南無アッバ」を生きる ホーム »2007年03月
2007年03月の記事一覧

聖句暗記法  

手始めに、お手元に聖書(ここでは、新共同訳にしました)を用意してください。
その「コリントの信徒への手紙一」10章13節はいかがでしょう?

ちょっと長いけど、憶え甲斐がありますぞ!
何度も口に出したり、書き出してみたりしてください。

・・・・・・・

これで憶えられたと思ったら、次の問題をやってみてください。
以下、句の区切りで、頭の一字を書き出しておきました。

これに続けた言葉を、口で言ってみてください。
一句ごとに、文頭からドラッグすると、正解が読めます。

<暗記確認問題1>
なたがたを襲った試練で、

間として耐えられないようなものはなかったはずです。

は真実な方です。

なたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、

練と共に、

れに耐えられるよう、

れる道をも備えていてくださいます。



category: 生きがい論

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ノーマン・V・ピール『積極的考え方の力』  

過去に、もう4半世紀も前だと思う。
著者ピール氏の「40の御言葉」といった本を、購入して、読んだ覚えがある。
ピンク色の表紙だった。

さて、その『積極的考え方の力』で強調されているのは、いたって単純な一事。
聖書の御言葉を暗記して、心に刻むということ。

たしかに牧師としてのピール氏ならば、正統な処世法なのだ。
そこで私も、さっそく、以下のような方法を紹介します。


category: ○書評

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神の子を集める神の子弥生尽  栄一  

ヨハネ11より。

三月も、はや晦日となる。
午前三時の夜と朝の間で句作する。
アッバに信頼し、静かな祈りの時間を持つこと。

花曇の朝を迎えました。
昼近くなっても、この曇天は変わりません。

図書館の帰りに、満開の桜を見て、これは今日明日で散ってしまうのではないか、と心配になった。

その図書館で、ノーマン・ピール『積極的考え方の力』を借りた。
以下、少しく感想を書きます。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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キリストの傷を洗いし花の雨  栄一  

Ⅰペトロ2より。

夜明け前に上がっていた雨が、通勤時間帯には、大降りとなった。

風も強い。

せっかく、七分咲きになった桜が、雨風に耐えている。

昨夜の宴の余韻を残し、今朝の仕事が始まる。

週末の通りを、滞りなく、通勤の車が、同じようにウィンカーを出しながら、順調に流れていく。

雨音の強弱。

校庭も、体育館のドーム屋根も、洗われていく。

そして、昨日も今年度も、みな洗われていく。


昼までに収まった風は、夕刻からまた強くなる。

西の空が、赤紫に染まりながら、暮れていく。

今日も一日、ごくろうさま。

風のなかを、帰宅していく人々。

そして、転勤していく人たち。

三日後は、年度切り替え。

新しい職場で、頑張ってください。

無理をせず。

南無アッバ。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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アブラムがアブラハムへと木の芽時  栄一  

創世記17より。


アブラハムイエスに見ゆ目借時

ヨハネ8より。

すっかり春になり、明るい朝です。
校庭の桜は、三分咲きといったところ。

シャツも今日からは、薄めに換え、軽装に。
準備室から見下ろす渡り廊下の青い屋根が、きれいに塗り替えられ、春を満喫しているようです。

校門の改修工事は、う~ん、いつになったら完成するのか。。。
でも、毎日、職人さんが、土日もなく、働いてくださっています。感謝。

さあ、今日も、「南無アッバ」の心で過ごしましょう!


夕刻、あの三分咲きが、七分咲きにまでなっていました。
少し風があったのでしょうか。

今はすっかり穏やかに、風が、凪いでいます。
今日一日を押し頂いて、アッバに、感謝します。アーメン


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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神の子のゆるり歩めり春火鉢  栄一  

ダニエル3より。

今日はよく晴れました。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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青銅の蛇穴を出で竿の先   栄一  

民数記21章より。

今日は、朝から曇りで、ちょっとうっとおしいなあ。

と、思っていたら、いつも、「余白の風」に投稿してくださっているカトリック俳人、佐藤淡丘氏から、さわやかなお手紙と句を頂きましたので、以下、代入力させていただきます。



犬に蹤き春泥の縁つたひ行く  淡丘

のどけしや押花はらり書架に落ち

春寒や診療を待つ単車男(バイク・マン)

林檎箱底の一個をつくづくと

染めつけの藍の空あり鳥雲に


-------------
怪我をしてから、明日で丸2ヶ月になります。
 
なにかしら、遠い昔の出来事のように思えてくるのは、どういうわけなのでしょうか。

私の担当リハビリは、若い理学療法士さんですが、なかなか厳しい人で、少しでも行程を違えたり、省いたりすると、すかさず飛んできて注意を受けます。

これも仕事に忠実な証しと、ありがたく頂くことにしています。

先生のご次男さんが、理学療法士をめざしておられると伺い、心から応援する一人です。

新聞記事によると、現在、この資格を持っている人は、全国で約4万人。

将来的には、この4~5倍の人員を確保しなくては、医療の補完ができない状態になる、とのことです。

高齢化もひかえ、まさに私の病院の実態を見るにつけ、うなずけるものがあります。

「余白の風」#132号拝受いたしました。
怪我の功名といいますか、お蔭で家にこもっていますので、思いつくまま、本棚から本を引っ張り出し、乱読をしています。

その中で、昔好きだった山頭火の句集やその生涯を描いた大山澄太さんの本を、読み出しています。・・・・

俳人と同時に、一人の宗教者としての山頭火の歩みをたどることにより、キリスト者の一人として、この四旬節の過ごし方などを、ふと省みる縁としたりしています。

さて、誌上でのお仲間、のぶ子さんにご挨拶。

花木の3句、拝見しました。お若いお嬢さんの作品らしく、透き通るような優しい句に、仕立てられていますね。

お手紙によると、ご尊父様が、私と同様、骨折をされたそうで、お気の毒でしたね。

もうすっかりよろしいそうで。
先輩として、祝福いたします。

これからも誌友として、信仰を同じくする同胞として、切磋琢磨しましょうね。

では次回を楽しみにしています。
3月22日


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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フィアト・ミヒわたくし以前の春の川  栄一  

ルカ1・26-38より。

年度末でなにかと落ち着かない。
こんなときこそ、あれこれ迷わず、アッバ一本に賭ける心を取り戻しましょう。。。


category: 平田栄一求道詩歌(3)

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神と和解させていただきなさい。(Ⅱコリント5)  

神との和解は、もちろん大切だが、その前に、
自分と和解しなければならないのではないか。

身体や心の弱い自分、不甲斐ない自分、不安な自分、自信がなく、
それゆえ、他者を、つい裁いてしまう自分。。。。

まず、そういう自分を受け入れること。

放蕩息子は、そういう自分を、自覚した。
そのとき「そこをたち、アッバのもとに行った。」(ルカ15:20)


アッバと和解するとは、醜い自分を受け入れ、和解することではないのか。


category: 日記・音声・小話

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第2部(16)実存をかけて聖書を読む4.八木重吉との類比  

このように、井上神父が「南無アッバ」を「確信」するまでの道のりをたどるとき、これとちょうど類比できるのが、次のような八木重吉の詩ではないかと、わたしは思うのです。

信仰
 人が何と言ってもかまわぬ
 どの本に何と書いてあってもかまわぬ
 聖書にどう書いてあってさえもかまわぬ
 自分はもっと上をつかもう     
    

 (『定本 八木重吉詩集』弥生書房 二五八頁)

 これは明らかに、「学者」ではなく「求道者」としての実存をかけて、キリスト信仰を生きようとした重吉の決意を示す言葉です。

しかし、こううたう重吉は一方で、

「ギリシャ語の聖書をよめば/とおのうちのたったひとつのいみがわかるだけでも/ひろびろとすみきって/おさなごのようにたんじゅんなまことが/すぐさまこころへふれてくるのをかんずる/くるしいわざではあるが/かみよ このべんきょうをつづけさせたまえ」
(同 二〇八頁)

ともうたい、けっして「聖書にどう書いてあってさえもかまわぬ」と最初から思っていたわけではありません。

この「ギリシャ語の聖書を・・・・べんきょう」するというのは、いま述べている文脈にそっていえば、「学者としての読み方」です。

それを放擲したような心境の変化はどこから来たのでしょうか。
『定本』のなかでそのヒントになると思われる詩が、右の二つの間にある次の詩です。

聖書
このよいほん聖書のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい


聖句を「うちがわからみいりたい・・・・からだの手や足や/鼻や耳やそして眼のようにかんじたい・・・・ことばのうちがわへはいりこみたい」とは、まさに、「学者としての読み方」をこえて――止揚(アウフヘーベン)して、体験的な「求道者としての読み方」に徹しようとする重吉の決意表明ではなかったでしょうか。

その決意を促した大きなきっかけは、彼の場合、己の死期の予感だったかのもしれません。

井上神父の場合、重吉のこの決意と同じようなきっかけになったのが、遠藤周作氏の『沈黙』との出会いだったということです。

『沈黙』が発表され、厳しいキリシタン迫害のなかで「(踏み絵を)踏むがいい」と自ら言ったイエスが、キリスト教会では問題になりました。

この「てんわわんや」の混乱の中で神父は、若き日にテレジアによって触発され、小教区という現場のなかで出会った法然によって確信となった、アッバ神学へと突き進んでいくのです。


このように、テレジアから法然を経るアッバ神学確立への道程を見渡しますと、その内容としては井上神父が念を押したように「変化ではなく確信」であることは確かですが、その方法論としては「学者としての読み方」から、体験的な「求道者としての読み方」への重点の「変化」として捉えることができるのではないかと思います。
(つづく)


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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