「南無アッバ」を生きる ホーム »2007年01月
2007年01月の記事一覧

層雲07年2月号  


叱った親も叱られた子も哀しくていっしょにいる   栄一



ミサに出そびれ細い雨見ている



今日一日はある思案の行き先



お空の高い所でボクを待っている雲



猫は正しく猫背で座る秋の縁側






category: 平田栄一求道詩歌(2)

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

janre: 学問・文化・芸術

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無意味の意味  

わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
ヘブライ12


病んだり、不幸にあったとき、それを、「主の鍛錬」と思うことは、
辛い。

しかし、「なぜこんなことが」と嘆くとき、

その災いを、鍛錬として受けとめられる人は、

やはり、強い人なのだろう。



人は何事にも、意味が見いだせなければ、

耐えられない。



その何事にも、意味があるのだ、と

宣言したのが、イエスだったのではないか。



昨日今日、生徒といっしょに第二次大戦の

悲惨な情景を、映像で見た。


あの殺しあいの、

どこに意味があるか???!!!


価値がなくても、

意味があるというのか。。。。。



イエスが、本当に神の救い主であるなら、

その十字架の死は、




無意味の骨頂でなければならなかった。


category: 日記・音声・小話

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信頼の賜物  

神をおそれる人には乏しいことがない
(入祭唱 詩編34)


自我満たされぬままに。

だから、


自分に定められれている競走を忍耐強く走り抜こう
(第一朗読 ヘブライ12)




神に立ち帰れば、生きる喜びでいつも満たされる
(答唱詩編22)

だから、

あれもこれも、ではなく、

一つに集中しよう、
今していることに。


女は、
後ろからイエスの服に触れた。


「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」


人々は驚きのあまり我を忘れた。

(マルコ5)



アッバ・イエスに信頼する者は、

驚くべき
みわざを


見る。


category: 日記・音声・小話

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同時性による神の応答  

人生のすべての問題は、自我の思うようにならないことへの対処から始まる。

宗教の発端もここにある。

そんなことを思いながら、寝床で、今日の第一朗読を読んだとき、
忽ち、この句、

神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった
(ヘブライ11)

に出会った。

こんなところにも、同時性が働いているのだろうか。

昨日読んだ、遠藤周作のエッセイを思い出した。


category: 日記・音声・小話

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愛は外へ向って開かれていく  

イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。


ルカ4



category: 日記・音声・小話

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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命のリレー  

なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。
(マルコによる福音書4)

旭山動物園長の話:46億年つないできた命を、次世代につなぐこと、その単純な一事が、人生の意味。

と、かばの生態で知った、という。


category: 日記・音声・小話

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人生損得無し!  

平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
(ルカ10)

最近、遠藤周作さんの昔のエッセイを、読み直していて、マイナスがプラスになる、という思想が、人生観の根本にあることを確認しています。




category: 日記・音声・小話

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恵みはその時に  

しなければならないことは、すべてそこで知らされる。
(使徒22)

あまりに先々を考えて、ああなったらどうしよう、こうなったら、、、
と、心配することがある。

しかし、お恵みは、その時その時に賜るものではないか。

お恵みの先取りは、できない。


category: 日記・音声・小話

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一人の中の多様な時  

よく聞きなさい。種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った。
(マルコによる福音書4)

このたとえを、運命論や予定説、はたまた、道徳的に受けとるのは、どうかと思う?

一人の人間の中に、
「道端」のとき、
「石だらけ」のとき、
「茨」のとき、
「良い土地」のとき、
様々な時があるのではないか。

どのときにも、南無アッバでありたい。


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第一の行いは、南無の思い  

大勢の人が、イエスの周りに座っていた。
イエスは、周りに座っている人々を見回して言われた。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神の御心(みこころ)を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

(マルコ3)

今日のミサは、全体に「神の御心を行う」ことが、語られ、奨励されている。

では、その内実は、何か。

神を愛し、人々に仕えること(拝領祈願)?

しかし、今日の福音箇所では、まず、「イエスの周りに座って」話を聞くことが、「御心を行う」ことになっている。

これは、南無の心ではないか。


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日本人にわかるキリスト教を求めて

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求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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