「南無アッバ」を生きる ホーム »2006年11月
2006年11月の記事一覧

3 文化と結びつくキリスト教  

最近はユダヤ教とキリスト教の連続性の面を強調する旧約学者が多いようですが、キリスト教の特色はその非連続性にあるのであり、そこを明らかにすることが特に日本のキリスト教にとってはたいせつなことと思われます。
(『日本とイエスの顔』第三章 イエスの生涯)

井上神父が最終的にたどり着く――神父自身の言葉では「流され着いた岸辺」としての〝アッバ神学〟へと向かう、最初の発想がこの、ユダヤ教とキリスト教、あるいは新約と旧約との「非連続性」にあります。

同章では、「(この)非連続性を見落とすことは、キリスト教を一つの民族宗教に堕さしめる危険がある」といい、また「文化と結びついていないキリスト教というものはかつて存在しなかったし、またこれからも存在しない」として、遠藤周作の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』を、「初めて深く日本の精神風土にキリスト教ががっちりと噛み合った、画期的な作品」と評価しています。




category: 『日本とイエスの顔』

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2 神の掌の中で泣く  

ちょうど私たちが飛んでも泣いても笑っても、この大きな大地の外に出ることがないように、私たちは大地のように大きな暖かな神の掌の中で生き育っているのだというやすらぎと勇気と希望、それこそイエスが死を賭けて伝えようとしたものだと思います。
(『日本とイエスの顔』第二章 聖書を読むにあたって)

「聖書、特に新約聖書は、私たちひとりびとりの人生の旅路の指導となり支えとなるイエスの教えを受けとめた弟子たちの信仰宣言と語りかけの書」ではありますが、イエスの言葉を信じ、生きようとする者にとって、この世の哀しみや苦しみがなくなるわけではありません。

しかし、「表面は波立っていても、いつも湖の底が深い静けさをたたえているように、イエスの約束した歓びと平和と自由とは、もっと次元のちがった心の奥にひろがっていくものなのだ」というのです。



category: 『日本とイエスの顔』

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1 体験的に知るということ  

聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践指導の書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。
(『日本とイエスの顔』第一章 ことばといのち)

処女作『日本とイエスの顔』において井上神父はまず、ものを「知る」方法として、「~について知る」という概念、言葉による知と、「~を知る」という体験的な知とを区別します。

そして、現代のわたしたちは前者=理性知に傾きすぎており、いまや、日本文化が長い間大切にしてきた「~を知る」体験知を思い出すべきである、といいます。

その上で、どんなに知識を蓄えても、そこへ向けて出発しようとしない限り、ほんとうの意味でものを知ることはできない、として右のように述べているのです。


category: 『日本とイエスの顔』

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根本はアッバへの信頼  

ローマ10:11-13

主を信じる者は、だれも失望することがない・・・・主の名を呼び求める者はだれでも救われる

今日のこの御言葉を、キリスト教、一神教の排他性という観点ではなく、自分を虚しくし、アッバに全幅の信頼をよせる、という意味に受け取りたい。



category: 日記・音声・小話

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殺されてもかち取れる命とは  

ルカによる福音書21:12-19

・・・中には殺される者もいる。・・・・しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。

「殺され」ても「かち取」れる「命」があるというイエスの言葉。
ことに、戦争で、アウシュヴィッツで、亡くなった人たちのことが、いつも頭に浮かぶ。。。


category: 日記・音声・小話

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・・・・にもかかわらず希望を抱く  

ローマの信徒への手紙 / 4章 18,22節
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、・・・・それが彼の義と認められた。

望み得ない時に望み、見えないときに信じるということ。

相変わらず、悲惨な事件や暗い話題が後を絶たずに、今年も年末になってきました。

今日は、「王であるキリスト」=B年最後の主日。
来週からは、待降節になります。

現在がどんなに暗い状況であれ、<にもかかわらず>将来に希望を抱いて、コツコツ生きる。。。
その根拠を、この聖句に見出しました。
sueko06-11047.jpg←末子作


category: 日記・音声・小話

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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マルコによる福音書1章  

15節

→『日本とイエスの顔』第2章 聖書を読むにあたって


category: その他

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使徒言行録1章  

9節

→『日本とイエスの顔』第2章 聖書を読むにあたって


category: データベース

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アダムとイヴ  

→『日本とイエスの顔』第2章 聖書を読むにあたって


category: その他

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マタイによる福音書7章  

24-27節「それで、わたしのこれらの言葉を・・・・」

聖書は「実践的指導の書」であり、「字面を超えて」わたしたちを生かす「実相の体験を己れのものにしなければならない。」

「このイエスの言葉は、パレスチナの国土を背景として初めて理解されるものですが、行為することによって初めて見えてくる何か、聞こえてくる何かというもののたいせつさを説かれたものといえましょう。」(『日本とイエスの顔』第1章 ことばといのち)



category: その他

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