「南無アッバ」を生きる ホーム »2006年06月
2006年06月の記事一覧

あいつもきっと眠れない夜だろう   黒崎 溪水  

 人間、「眠れない夜」はいろいろあります。

カール〓ヒルティは、『眠られぬ夜のために』(岩波文庫)という本の中で、「安らかな眠りを得るのに最上の道は、実にしばしば、善良な行為、確固たる良い計画、ざんげ、改心、他人との和解、将来の生活のための明瞭なよい決意などである。」と言います。

掲句の場合は「あいつ」と「和解」することが不眠の解決法かもしれません。

でも、こんな真夜中に電話することもできません。
思い切って床から起き上がり、手紙でも書いてみては?

でも明日の朝、ちゃんと読み返してから投函すること。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 言霊(格言・名言・自分の考え)

janre: 学問・文化・芸術

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失業者と認定された朱印です寒いぞ  浅沼 参三  

 長引く不況。肩書き社会の日本では、金銭的な不安もさることながら、どこにも所属していない、フリーであるということの不安もあります。

もっとも最近はあえてフリーを選ぶという人もいるようですが。職安で「失業者と認定され」「朱印」を押された書類に自分の名前を改めて確認したとき――「寒い」!前の会社で、「オレがいなければウチの会社は成り立たない」ぐらいに思い込んでいた自分――今はダダの人になってしまっている自分。

でもそこから新たな自己発見の旅が始まるかも。
 
  失業中きのうと同じカーテンの位置  栄一


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 只の日記つかメモ。

janre: 学問・文化・芸術

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教育はサリンまで作ってしまった   林 和好  

 一連の「オウム真理教」事件は、いろいろな問題をわたしたちに問うています。宗教とは何か?

なぜ高学歴のエリートたちがあんな事件を起こしてしまったのか?等々。

麻原教組が生まれた昭和三十年は、もはや戦後が終わり、のち三十八年間続く自民党単独政権のもとで日本が高度経済成長をはじめた年です。

学校では効率重視・経済優先の教育が行なわれました。
低成長に入って心の豊かさが叫ばれるようになった今、これまでの「教育」が受験戦争や公害だけでなく「サリンまで作ってしまった」ことに、やっと日本人は気がついたのです。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 思いついたこと・言葉など

janre: 学問・文化・芸術

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陽へ病む      大橋裸木  

 裸木(らぼく)の句をみてすぐ気がつくのは、「へ」の効果です。これが、たとえば「陽に病む」とした場合と比べてみてください。

病中、あるいは病み上がりの虚ろな人間が、ひさびさに大自然に対したときの感覚が、「へ」によって効果的に表現されています。

しかもこの病人(作者)が近代的な自我を背負った人間であることが、それと書いてなくてもわかるのです。

このように、最短詩型の俳句では、助詞の使い方一つでもおろそかにできないこわさがあります。それがまた魅力でもあるのです。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

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せきをしてもひとり    尾崎放哉  

 これが「俳句」かどうかを疑う人は、いまはほとんどいません。
つまり「自由律俳句」というれっきとした俳句の一ジャンルに属する句です。
ここではむずかしい俳論をこねまわすつもりはありませんが、もし、「あれ?五・七・五の十七文字になってないじゃないか」という人があったら、ひとむかし前の中学か高校の国語教科書を探してみてください。

ちゃんと一般の定型句(つまり五七五で季語や切れ字がある)とならんで取り上げられているはずです。現在の教科書では削られてしまったようですが、次の改訂の時には再び脚光を浴びそうです。とくにこういう小学校一年生でも読める句は奨励したいですね。

私も最初に読んだときは、「なんだこりゃ?」と思いましたが、一度聞いたら忘れられない句です。こんなに覚えやすい句はなかなかありません。最初に放哉(「ほうさい」と読みます)が作ったとき(原句)は、一部漢字だったようですが、全部ひらがなの方がトツトツとしていて、「せき」をする「ひとり」の孤独感がよく出ていますよね。

たった九音(文字)のこの句を何度もかみしめていると、いろいろなイメージがわいてくるのですが、たとえば、音楽が好きな人だったら、俳句の代名詞のような、

  古池や蛙飛こむ水の音   芭蕉

など、思い出しませんか?状況や句の感じはまったくちがうのですが、このニ句、「せき」と「水の音」の前後にずうっと静寂がありそうな感じがする、という点でたいへん似ていませんか。

未来永劫まで続きそうな限りない静寂のなかで、決定的な「点」としての「時」の響きが感じられます。ちょっとむずかしい感想になってしまいましたが、これが三十代の私の感じ方です。

十代なら十代、二十代なら二十代の感じ方があっていいと思います。私も四十代、五十代となるにつれて、これらの句のもっと深い秘密が見えてくるかも知れません。

俳句とはそういう謎解き、もっといえばクイズのようなものです。それも答えが◯×式でないクイズです。絶対の正解はないけれども、見つけた答えの深さという点では、やはりより妥当なものがあるのだと思います。

よりユニークな発想を競って読むのも面白いことです。そういうときに自分が見落としていた意外な発見があります。

 ついでに放哉について一言すると、掲句をはじめとして、彼にはひらがなの句が多いのですが、実をいうと彼は今の東大、当時の東京帝国大学法科を卒業した超エリートだったのです。

それがいろんな事情で社会的アウトサイダーになり、最後は小豆島に没します。全集や伝記なども出ていますから読んでみてください。放哉のそうした生い立ちを知り、そのうえで最初の句をもう一度味わうと、こんなに短い一行(短律)に、否短いがゆえにじーんとくるものがあることに気づくと思います。

 自由律俳句のなかで、短律のすばらしい句はほかにもたくさんあるのですが、ここでは短律のなかでも最も短い、たったの四音の次の句を上げておきます。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

janre: 学問・文化・芸術

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一行詩の人生論 ――俳句で考える生き方――    

  必要のない手首のボタン一日が長すぎる

 卒業した生徒の作品(とりあえず「一行の詩」だと思ってください)です。

 私たちの身の回りには、いろいろと不要なものがあふれています。学生服の手首のボタンが、いつごろから何のためについたのか知りませんが、複雑でわずらわしい現代の生活の中にあって、簡素な生活に対する「あこがれ」はだれにでもあるものでしょう。

 文化史的にみても、日本人は室町時代の武家社会から発達した茶道をはじめ、「わび・さび」とよばれる簡素な感覚を重んじてきました。日本の詩を代表する最短詩型の短歌や俳句の成立過程をみても、日本人が余計なものを省いて本質を重視しようとする素質に恵まれていることがうかがえます。

 右の作品は、「手首のボタン」一つに退屈な一日を象徴させて、読む人の共感を呼び起こします。とくに学ばなくても、日本人ならだれでもこういう象徴的な詩を書くことができるのは、上に述べた日本人の伝統を現代人が背負っていることと関係があるようです。

 ある民族が長い間に築き上げた文化環境は、個人がどんなに意識的に反発したところで、そこから逃げだせるものではありません。「人間とは常に歴史的存在である。」と言ってもよいでしょう。ですから私たちがものを考えるときは、好むと好まざるとにかかわらず、常に日本人として考えているのです。それは私たちの思考や感性の限界であると同時に、個性ある生き方への促しでもあるのだと思います。

 掲句のような一行の詩を手がかりにして、わたしたちは、人間や社会や生き方について様々に思いをめぐらすことが出来ます。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

thread: 日本文化

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反芻する--ロゴスを味わう(4)  

『マルコ』六章には、五つのパンと二匹の魚をイエスの奇跡によって五千人に分け与えたという話がある。

また八章には、七つのパンと少しの魚を四千人に分け与えたという話もある。

現代人はここからどんなメッセージを受け取るだろうか。
わたしは「分配」という点に着目する。それは、物質的にも精神的にもより多くのものを獲得することイコール幸福という図式を描いているわたしたちへの警告である。金も権力もあればあるほど次の欲望を生む。

もっと欲しくなる。そうした自我の飽くなき欲望に翻弄されること、それが「地獄」であろう。金や地位や権力に限らず自分の才能や時間を含めてあらゆる持ち物は、むしろ自他のために使い切ることによって生きてくる。わたしたち一人ひとりが持っている(この世に生きる間、神から貸し与えられている)個性的な持ち物を使い切るならば、心からの満足が得られる。

そのとき今まで思ってもみなかったようなことが起こるというのだ。その使い方の方向性を示すキーワードが「神の国」(「天国」とか「神の支配」と同義)である。

時は満ちて、神の支配が近づいている。心を開いて、そのよきおとずれに耳を澄ませなさい。(マルコ一・一五 私訳)

 イエスの言葉は、わたしたちが常識的に考えている慈善とか清貧とか品行方正といった道徳のすすめではない。また死後や遠い未来のことでもない。何かもっとしなやかな生き方の可能性があることを指し示しているように思われる。

今は『マルコ』を中心とした福音書を繰り返し味わうことにより、イエスが言葉と行いをもって指し示した「神の国」のイメージをなんとかつかもうともがいている。

 最初は堅くて苦いと思っていた神の言葉が少しずつ食べやすいものになってきている。


category: 福音と自由律

thread: 言霊(格言・名言・自分の考え)

janre: 学問・文化・芸術

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古代の表現--ロゴスを味わう(3)  

 供物を食べるという習慣は日本人にもあるが、生々しい人肉食を連想させるこうしたイエスの語録にもとづく聖体拝領は、成人受洗した日本人のわたしなどには、当初そのたびに一種痛みをともなうものであった。

受肉した神の子イエス―霊なる神キリストという置き換えによってその痛みは和らぐが、反面、信仰のリアリティをそぐ危険性もある。

 日本人とキリスト教の問題は遠藤周作をはじめ多く文学者のなかで取り沙汰されてきたのだが、わたし自身の切実な問題でもある。自由律俳句とかかわり始めたのも、そうした問題意識と無縁ではない。

 『マルコ』は新約聖書に編まれた四つの福音書の中で最古のものであり、他の三福音書程にはイエスが教義化されていない点が最大の魅力である。それだけに誠実な聖書学者に言わせると、最も難解な福音書であるらしい。

しかしこれをイエスに関する歴史小説として読むと、並の小説などでは味わえない人間の複雑な心の動きを垣間見ることができる。口語訳でわずか三十頁。これまた四福音書中最も短く、再読のたびに新しい発見があるのは、俳句集の味わいと共通する。

わたしをキリスト者だと知ると、「文学における真実」を言う人でも、信仰の問題となるといまだに、「じゃあアダムとイヴのことや復活なんて本気で信じてるの?」などと聞いてくることがあるので返答に困ってしまう。

少なくともわたしは逐語霊感説者ではないし・・・・。「アダムとイヴ」の話にしても「復活」や聖書に出てくる数多の奇跡物語にしても、それを史実として検証することは不可能である。

しかし、わたしたちはそうした古代的表現からなんらかのメッセージやインスピレーションを受け取ることはできる。それがリアリティをもって受け取れれば十分ではないのか。


category: ○雑記

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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キリストを食べる--ロゴスを味わう(2)  

カトリックの礼拝にあたるものはミサという祭儀である。
ミサの中心は聖体拝領である。それは教義から言うと、ホスチュアというパン(ふつうは病人でも食べやすいウエハース)がミサの中で聖変化し、なんとキリストの体になってしまうのだ。

ここまできて、とてもばかばかしくてついていけないという向きもあるだろうが、ともかく教義上はそういうことになっている。

聖変化の(司祭の)ことばによってキリストは、パンの外観のもとに、祭壇上に自ら現存なさいます。(ミサ式次第『キリストと我等のミサ』)

 聖書での根拠は『マタイ』『マルコ』『ルカ』三つの福音書(これを共観福音書と言う)に共通する、あのダビンチの絵で有名な「主の晩餐」のシーンである。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言った。「取りなさい。これはわたしの体である。」(マルコ一四・二二他)

 この「パン」をめぐる解釈はカトリックとプロテスタント、あるいはプロテスタント宗教改革者の間でも大論争になった。

つまり、「パン」を聖変化した「キリストの体」そのものと見るか、それともキリストの「しるし」として解釈するか、である。
しかしここで聖体論を展開するつもりはない。
むしろわたしの興味は、「キリストの体」を食べるときの感覚の問題である。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの 内にいつもおり、わたしもまたその人の内にいつもいる・・・・わたしを食べる人はわたしによって生きる。」弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「これは実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。」( ヨハネ六・五六、五七、六十)


category: 福音と自由律

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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食ということ--ロゴスを味わう(1)  

 「食」に関する聖書の記述は多い。ちなみに、手元にある『口語訳聖書コンコルダンス聖書語句索引』(新教出版社)から拾ってみよう。

旧約も含めて「食べる」という言葉が使われている句(聖書の句だから「聖句」)は五十四箇所。
以下同様に、「食物」四十、「食事」十六、「食卓」十、「食料」四、「食べもの」三等々。
『聖書の食養法』『食物から見た聖書』などという本も出ている。

 一般に最も知られている「食」に関する聖句はおそらく、イエスが断食し空腹になったとき、誘惑する者に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言われて、「『人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイによる福音書四・三、四)と答えたというものだろう。

この後の句が取り出されて、「人間は動物と違うのだから生きていくには物質的なものだけでなく、精神的なものも必要なのだ。」という意味に使われるのだが(そしてマタイ自身、ルカの「貧しい者は幸いである」(六章)を「心の貧しい者は・・・・」(五章)と言い換えるなど、イエスの教えを精神化する傾向があるのだが、)ここは本来、申命記に出てくるマナの話――出エジプトの途上、モーセが天から降らせた食物――の引用であって、「徹頭徹尾食物の問題」(塚本虎二訳『福音書』岩波文庫四一九頁)なのかもしれない。

いずれにしても「食」の問題がユダヤ教をベースにしたキリスト教では重要な位置を占めていることはまちがいない。このことはプロテスタントよりカトリックでより重要な問題になるのではないか。


category: ○雑記

thread: 語源

janre: 学問・文化・芸術

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