「南無アッバ」を生きる ホーム »2006年01月
2006年01月の記事一覧

一、風に誘われて  

  草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅を思い立って、深川の芭蕉庵を去るときに詠んだ句です。
 「おくのほそ道」のなかで最も人口に膾炙されているのは、冒頭の言葉――

<月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。・・・・>

「年」「月日」=時間を永遠の「旅人」と見、またすべての人生も旅そのものと受け取っています。芭蕉を幾たびも旅に駆り立てたものは何だったのでしょうか。
 彼は、<予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず・・・・>と書いています。
「片雲の風」――この「風」にあたる言葉は、新約聖書のギリシャ語原語では「プネウマ」といいます。そして「プネウマ」は同時に、「息」とか「(神の)霊=聖霊」をも意味するのです。キリスト者であるわたしは、この「風」―聖霊が、芭蕉を一所に安住させず、旅に駆り立てたのだと思うのです。
 たしかに芭蕉は、イエス=キリストを直接は知りません。しかし、神が唯一絶対で、時と場所を超えてわたしたちを支配する方=普遍の方だとするなら、洗礼を受けた者だけの神ではありません。当然芭蕉の生きた元禄時代の日本にも、イエスの時代と同じ「風」が吹いていたのだと思うのです。

 その「風」は芭蕉に何をさせようとしたのでしょうか。何のために芭蕉を旅へ駆り立てたのでしょうか。
 この旅でぜひ、尊敬する西行をはじめとする歌枕――古歌に詠まれた名所・旧跡を訪ねたい、また「みちのく」という当時としては未知の世界への憧れ、あるいは、「おくのほそ道」が単なる報告文ではなく創作的であるところなどから、立派な紀行文を書きたい、という野心もあったかもしれません。
 しかし芭蕉は「おくの細道」より前、「旅」というものを、「無依(むえ)の道者の跡をしたふ」(『笈の小文』  )ことだと言っています。(つづく)


category: ○書評

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イエスの周りに集う  

>31:マルコによる福音書 / 3章 31-35節
・・・・大勢の人が、イエスの周りに座っていた。・・・・イエスは、・・・・周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

イエスは、「周りに座っている人々」を「私の母、兄弟」だといった。
すなわち、イエスの周りに集う者は、血縁に関わらず、イエスの家族となる。

彼らは、集まって、イエスの話に耳を傾けていたことだろう。
イエスのもとに集い、その話に耳を傾ける者、それはまた、「神の御心を行う人」ともなる。

わたしたちも、いつも御言葉のもとにつどい、耳傾ける者となりますように。

アッバ・イエス 南無アッバ


category: 今日、心に残った言葉

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使徒の使命  

>マルコによる福音書 / 3章 14-15節
そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

イエスが十二人を選んだのは、上3つの理由によるという。
彼らに連なる私たちも、同じ使命を負っているとみてよい。

すなわち私たちの為すべきは、
①「自分のそばに」・・・・いつも祈る心をもってイエスのそばを離れないこと。
--ヒルティは人の最高の幸せは「神のそば近くにあること」といった。
②「宣教」・・・・それぞれ与えられた立場と力で、福音を述べ伝えること。
--伝道は、聖職者任せの問題ではない。
③「悪霊を追い出す」・・・・必ずしも奇蹟的なものを意味しない。広く神の支配に協働すること。なにより、家庭・職場など日常の中で、南無アッバの祈り心で生活すること。

いつくしみ深い父よ、みことばといのちのパンで養われた私たちを強めてください。(拝領祈願)


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蛇脳で見る  

>マルコによる福音書 / 3章 11節
汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。

聖書世界では、天使や悪霊は、人間より霊的能力が高いとされている。
マルコ福音書で最初にイエスを「神の子」と見抜いたのは、「汚れた霊ども」であった。

今、『ナムの道もアーメンの道も--ある隠修士との対話』(藤原直達神父編)を興味深く読んでいる。
この「ある隠修士」であるせん足カルメル会士・田中輝義神父は、次のように語る。
「(私たちは)主観的なものである生身の「生命単位」(=蛇脳)の内に思索の材料を頂いているのだから、それをベースに思索せよ」と(15頁)。

「蛇脳」とは、「脳幹と小脳の間にある爬虫類脳」であり、「生命単位が電光石火の如く光るのは、大脳における自我意識においてではなく、脳幹にある生命単位、蛇脳においてです。私はこれこそが生命の共通性であるという立場をとっています。」云々。

霊的な目でものを見る、イエスを見る、というのは、理性的・客観的・合理的な大脳の働きではなく、主体的・主観的・「生身」の「底」から見る、ということなのかもしれない。

http://www.com-unity.co.jp/naikan/annai.htm


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かたくなな心  

>マルコによる福音書 / 3章 5節
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

律法遵守だけにとらわれて、目の前の人の苦しみに思いをいたすことができない心--「かたくなな心」をイエスは悲しまれた。

アッバ、わたしたちのなかにもある「かたくなな心」--日々の煩いへのこだわり、名誉欲、エゴイズム、所有欲、見栄・・・・を取り除いてください。

思い通り、思惑通りの結果にならないときにも、アッバへの信頼を失うことなく、希望をもちつづけることができますように。




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常識をこえて  

>サムエル記上 / 16章 7節
しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

今日記念日の聖アントニオは、「地上の富にとらわれることなく」(奉納祈願)神の呼びかけに応えて、荒れ野にひきこもりました。

第一朗読では、ダビデの選びの様子が語られます。
サムエルが「この人だろう思った」者ではなく、意外な人物--ダビデを主は選びます。

福音朗読(マルコ2:23-28)では、「安息日論争」において、当時の人たちが常識と考えていた律法解釈を、イエスはひっくり返して言います、
「安息日は、人のために定められた」と。

こうして今日語られる御言葉全体から、私たちがいかに「目に映ること」--人の外見や容姿、富や財産、世間的常識に囚われているかを教えられます。

アッバ、イエスは、こうした「わたしたちの心の目を開き、わたしたちがどんな希望に召されているかを示してくださいます。」(アレルヤ唱:エフェソ1:17-18)


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イエスの神観  

>主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。・・・・主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。(サムエル上15:16-23)

今日の第一朗読箇所。この預言どおり、サウルは王位を去ることになる。
しかし、これをキリスト者はどう読み、かつ信者でない人にどう伝えるだろうか?

たしかに、ここは、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物」などではなく、「主の御声に聞き従うこと」を教えるためだ、といえるかもしれない。

しかし、「罪を犯した」とはいえ、敵を「皆殺しにするまで戦い抜け」と命じる厳父の神を、わたしたちは心から信頼することができるだろうか?

イエスがこのような旧約の神観を否定・超克し、神は慈父のような「アッバ」なる方だと見抜いたところにこそ、「新しいぶどう酒」の意味がある(今日の福音朗読マルコ2:18-22)。
そしてこの福音は「新しい皮袋」に入れなければならない。


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呼ばれています  

>コリントの信徒への手紙一 / 6章 14節
神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。

今日ミサ、第一朗読ではサムエルが神に呼び出され、エリのもとに何度も行ったこと、福音朗読ではヨハネ1章、洗礼者ヨハネがイエスを見つけ、弟子たちが次々イエスのもとに呼ばれていく様子が描かれています。

これらの記事から、神からの召命は、多く他者を通して行われるということを私たちは教えられます。

何気ない日常の人と人のつながり、そして人と自然との接触のなかで、私たちは神の声を聞くことになるのです。

こうして人を介し、自然を介し、イエスを介して、イエスがアッバに復活させられたように、私たちも復活へと招かれています。

今朝のミサはひさしぶりに、暖かな風に恵まれました。


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選ばれるということ  

>医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)

典礼暦聖書では、第一朗読でサウルがサムエルから油をそそがれる場面(サムエル上9-10)が読まれ、福音朗読では、イエスはレビに「わたしに従いなさい」と呼びかけます。

掲句では、「丈夫な人」より「病人」、「正しい人」より「罪人」を招くイエスの姿--

ということから、今日のテーマは神の「選び」ということだと思います。

わたしはこれらの御言葉から、次の句を連想します。

>ヨハネによる福音書 / 21章 22節
イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

現代生活は、昔と比べれば遥かに便利で快適で、自由に見えます。
ところが実際のわたしたちは、見栄、やっかみ、嫉妬、他者の目や行動、、、、等々に縛られ、人生の本質をしばしば見失ってはいないでしょうか。

「ひとのことは私に任せなさい。あなた自身私についてきなさい」とイエスは言います。

人にはそれぞれに「選び」がある。
もちろん「健康な人」にも「丈夫な人」にも選ばれた「使命」があります。

そこのところで人に左右されてはいけない。
今日の福音はそのように教えているように思います。

外は久しぶり、音のするほどの雨です。

毎日のミサの友


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他者の祈りによって救われる  

>イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦(ゆる)される」と言われた。(マルコ2:5)

このペリコーペ後半の権威問答より、私は前半の状況、担架でか、動けない中風の人を何とか癒してあげてほしいと、四人の男が運んできて、屋根に穴をあけてまで、イエスに近づこうとした信仰。。。

何度読んでもこのくだりに感動する。
イエスへの全幅の信頼こそキリスト信仰の要。
その典型がこの「四人の男」にあらわれている。

「中風の人」自身にどれだけ信仰があったかはわからない。
イエスが見たのはむしろ、彼を連れてきた「その人たち」-「四人の男」の信仰の方である。

彼らの信頼にイエスは即こたえる。


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