「南無アッバ」を生きる ホーム »2005年12月
2005年12月の記事一覧

ある卒業生の手紙から  

先日、数年前に卒業した教え子から久しぶりに連絡をもらいました。
分厚い手紙――彼女は大学生活を終えて、この四月から社会人になりました。
彼女が君たちと同じ高校三年生のとき、ぼくは彼女のクラスの「倫理」を受け持ったんです。
それがきっかけで、彼女の受験のために、小論文を見てやるようになって、だんだんいろんなことを話すようになりました。
今回の手紙には、大学側のすすめもあって受けた中堅の金融会社に就職が内定し一安心したこと、でもその後の入社研修で、内定時には知らされていなかった早出や残業が当然のことのようにあると聞き、心身とも弱い自分がそうした厳しい環境の中で果たしてやっていけるのかどうか不安になったこと、などが書かれていました。
その上で、「人間はこうしてがむしゃらに働いて、老いて死んでいくのでしょうか。そういう人生に何の意味があるのか改めてわからなくなりました・・・・。」と手紙を結んでいました。
ここで「改めて」と彼女が言っているのは、高校在学中にも何度か〝人生の意味〟といったことについて悩み、相談を受けたことがあったからです。
今はむしろこういう学生は少なくなっているのかもしれませんが、そのときどきの楽しみや遊びを見つけて、それで何の疑問も悩みもなく一生暮らせるかどうか。。。。むしろ彼女のような問題意識は、大人になる過程で、だれでもいつか一度は持たざるをえないのではないでしょうか。
そうした意味では、彼女の直面している問題は、ひとり彼女だけのものではなく、ボクらみんなの問題でもあるといえます。


category: 高校「倫理」キリスト教

thread: 就活

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大人になるとき不安が増す  

ぼくは年度末になると毎年不思議な気分になります。
長いようで短かった一年間の授業がともかくも終わったという安堵感。
それから、もっとああすればよかった、こうすべきだったという後悔と反省。
そして、これから始まろうとする新しい学期への期待と不安。。。。そういう感情が入り交じった複雑な心境です。
高校三年生になったきみたちはどうですか? 
やっぱりこの時期、多くの人たちにとって最大の関心事は〝進路〟じゃないですか?
進学するにしても就職するにしても、これからは今までのように〝ともだちとおんなじ〟というわけにはいかない。
自分で自分のことを決めなきゃならない。
それに、首尾よく進路実現したとしても、そこで自分はうまくやっていけるだろうか・・・・そういう不安が期待とともに強くなっていく。
そのうえ、なかには、家庭やからだ、病気の悩みを抱えている人だっているかもしれない。。。。人生、たいへんだよねー。
でも、子供はいつまでも子供でいるわけにはいかない。いずれ、大人にならなければならない。
“大人になる”ってことは、その場その場じゃなくて、将来に見通しをつけて行動できる、ってことだね。ということは、先々を考えて、当然、心配や不安も増えてくる。
だから、自分だけが不安なのだと思わないでください。みんな大人になれば、心配も増してくるものなのです。


category: 高校「倫理」キリスト教

thread: 聖書・キリスト教

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まつすぐな道でさみしい  

(12)
<歩かない日はさみしい。飲まない日はさみしい。(俳句を)作らない日はさみしい。>

と日記に書いた山頭火は、今日も行乞姿で歩き続けます。
山頭火が生きた道はけっして平坦ではありませんでした。山あり谷ありの凸凹人生です。迷いもあれば、お酒や色の欲も捨てきれない道でした。
他人を悪くいわず逆に自己批判が強かった山頭火は、こうした自分の不甲斐なさにたびたび打ちのめされました。その挙げ句が、熊本での自殺未遂でした。
出家してからも、放浪と酒の虫がおさまらず、庵を飛び出します。酒も放浪もついに止められなかったのは、世間的には意志の弱さ、甘えと片づけられるかもしれません。妻や子、あるいは俳句の仲間、善意の人たちにさんざん迷惑をかけ通した山頭火。
しかしそうした一連の不祥事、優柔不断、紆余曲折にあっても、わたしは山頭火の一生は、「まっすぐな道」、一筋の道を見つめていたのではないか、と思うのです。それは、神仏を求める道、まことの生き方を求める道、救いを求める道でした。

カトリック信者は、「道」といえばまず、十字架の道行きを思い出すでしょう。
福音書ではイエスの受難と死の描写に最も多くの紙面が割かれています。福音書とは本来、イエスの受難史に前置きとして生前史をつけ加えたものだ、とまでいう聖書学者もいるくらいです。新約聖書全体が「イエスはキリストである」という信仰告白に貫かれていますが、その中心はイエスがどのように苦しみ、どのように死んだか、その道行きにあるともいえるのです。

山頭火は自らの救いを求めて放浪しましたが、イエスは人類の救いのために十字架の「道」を「まっすぐ」に進んでいきます。その道の果てに、人間として味わう極限の屈辱と苦しみに満ちた死を遂げたのです。
しかしそのイエスを神は見捨てることはしませんでした。

<神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。>(使徒二・二四)

孤独と屈辱と苦しみに満ちた十字架へ向かった「まっすぐな道」は、暗黒の死を通り抜け、復活へと続く道だったのです。そして、この前代未聞の道をたどったイエスが、今度は、すべての人を救いへと導く「道」そのものとなったのです。

<わたしは道であり、真理であり、命である。>(ヨハネ一四・六)

もちろん山頭火がめざす「まっすぐな道」にもイエスは同伴者として寄り添い、道そのものとなってくれることでしょう。そこに思い至れば山頭火の歩む道は、けっして孤独で「さみしい」ばかりの道ともいえないのです。


category: キリスト者が読む山頭火

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悲愛のリレーランナー  

マタイ10:17-22 ステファノ殉教者祝日

このペリコーペは、「由来と背景の異なる種々のロギアが、迫害というモチーフで結び合わされ、・・・・イエスに帰せしめ得る部分はほとんどなく、教会の事後預言がイエスの発言として弟子派遣説教の中に折り込まれたものである。」(注解1)

とはいえ、この箇所をステファノの殉教(使徒7章)と合わせて読むとき、大きな示唆を受ける。
ローマの百人隊長に「本当に、この人は神の子(ルカでは「正しい人」)だった」(マルコ15:39)と言わしめた十字架上のイエスの姿と、サウロ(パウロ)の回心の背景にあるステファノをはじめとする殉教者の姿とが重なるのである。
そして敵をどこまでもゆるすこの姿勢は、アッバの悲愛の心の体現であった。

日々祈るわたしたちにも、少しずつアッバの心が伝染し、世々悲愛のリレーランナーとなることができますように。

アバ霊(たま)よ街から街を吹き抜ける   栄一


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いかようにしても光は勝つ  

ヨハネによる福音(1:1-14)

命の光を<民は受け入れず>(11)<暗闇は理解しなかった>(5)。
わたしたちは、罪や弱さや怠慢、エゴイズムによって、目が遮られ、暗闇の中を歩く。
そして失敗し、無気力になる。間違いを犯し、互いに争う。

にもかかわらず・・・・<光は暗闇の中で輝き、暗闇は光に打ち勝たなかった>(5)。
南無の心は、この光――弱さも罪も<万事が益となるように共に働かす>(ローマ8:28)アッバに信頼する心。

このように光は、いかようにしても必ず勝つのだが、この福音を知った者は、それでもあえて悪に留まろうとするだろうか?

秋霖や万事御国(みくに)へ招かれん  栄一(2005.11余白の風116号)


category: 今日、心に残った言葉

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信頼の予型  

ルカによる福音(2:15-20)。

<マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。>(19)

イエス懐胎以来、めまぐるしく事が運んでいく。その意味を探ろうとするマリア。
受胎告知のとき、天使の言葉に「戸惑い、考え込んだ」(1:29)マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、すべてをアッバに委ねた。
今また、イエス誕生の出来事をいくら「思い巡らし」ても、ついにその意味が明らかになったわけではないだろう。
しかしわからないままに、今回もアッバにすべてを委ねたに違いない。

イエスがアッバに全幅の信頼を寄せた、その予型をマリアに見ることができる。

  降誕や天地を御子が縫合す   栄一(2004.05紫・山紫集)


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福音の逆説  

ルカによる福音(2:1-14)

イエスの誕生によって「今日」(11)救いが地上に実現していることを、ルカは伝える。
しかしそのしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」にほかならない。
救い主は、人の目にはまったく目立たない、貧しく、小さく、つまらない者としてわたしたちの前に示されたのである。
驚くべき救いの実現が、驚くほど小さな事から始まる、という福音の逆説。

一方、当時世界最強のローマ皇帝の行動(勅令発布)が、ベツレヘムでのこの小さな救い主の誕生に貢献する。
ここにも福音の逆説がある。

「二タラントの者」とて生きんクリスマス  栄一(マタイ25:22より)


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救いの多様性  

ルカによる福音(1:67-79)

77節「罪のゆるしによる救いをその民に知らせる」は、「救いを体験的に知らせる」ことである(注解)。

聖夜を迎える今日、わたしたちは自らの救いの体験を、どう受け取り、どう伝えるかを考えよう。

今日の箇所「ザカリアの賛歌」は旧約の文脈にそった救いを語る。
しかし、わたしたちはそれぞれの置かれた文化・環境において、これを受け取り直さなければ、体験的に実感することはできない。

こうしたインカルチュレーションとともに、さらに個人史をもそこに重ね合わせることになるだろう。

そう考えると、「救い」とは十把一絡げのものでなく、個々の国民性・個人史を網羅する多様性に富んだものでなければ、普遍性をもたないことになる。

今届いた井上神父からのクリスマスカードには、
「時の流れを超えて
風(プネウマ)の営みのなかで
私たち一人一人の人生を
共に歩んでくださる
イエスさまのお誕生」
とあった。
井上クリカ



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産んで育てるということ  

ルカによる福音(1:57-66)

「この幼子はいったい、どんな者になるだろうか。」(66)
天使の予告どおりに事が進んでいくにしても、母になるエリサベト、父になるザカリアに人間として不安がなかったということは、考えられない。
マリアやヨセフも場合もこの点は同じだろう。

無事に生まれてくるだろうか、という心配から始まって、子が成長するまで幾度、「どうなってしまうのだろか」という場面に直面することか。
それを乗り切っていくことが、父になること、母になるということである。

小さな生命を育むという喜び、楽しみとともに、不安や苦労の種によって、父母自身も教えられ、訓練され、神の国へと準備される。
それは本来最大の楽しみとなるはずである。

今日の朝刊トップの見だしに、「人口減 産めぬ現実」
とあった。


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janre: 育児

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無条件の福音  

ルカによる福音(1:46-56)

マグニフィカトと呼ばれる有名なマリアの賛歌。
ここにも逆転・「逆説」の思想が見られる。
「畏れる者」に「憐れみ」、「思い上がる者」は「打ち散らされ」、「権力ある者」は「引きおろされ」、「身分の低い者を高く上げ」、「飢えた人を良い物で満たし」、「富める者を空腹のまま追い返す」神。

貧しく、健康にも恵まれず、あらゆる能力に劣っている、と自信をなくしていた人々には、この逆説の神の論理は、文字通り「福音」であり、ストレートに心に沁みたことだろう。
それが無条件に、「浄不浄・信不信を問わず」というラディカルなものであってみれば、なんと新鮮な響きの福音ではないか。

律法、善行、信仰・・・・あらゆる条件を超えたところにイエスの見た福音があったのではないだろうか。


category: 今日、心に残った言葉

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