「南無アッバ」を生きる ホーム »2005年11月
2005年11月の記事一覧

わたしについて来なさい  

『マタイによる福音書』4:18-22より。
福音伝道にあたって、さっそく4人の漁師を召命するイエス。
印象的なのは、イエスに「ついて来なさい」と声をかけられると、彼らは「網を捨て」(20)「舟と父親とを残して」(22)従ったということ。
仕事も親も捨てるというのは、よほどの覚悟です(ただし、絶縁ではない)。
この心境の背景には、たしかにイエスの圧倒的な魅力、いわばオーラを直感したこと、あるいは実際にはイエスと同じくエッセネ派洗礼者ヨハネ教団のなかで、イエスの人格を少しずつ知っていったのかもしれません。
いずれにしろ彼らの心の奥底には、青年の熱烈な求道心、ほんとうの道を求めて止まない一途さがあったのでしょう。
網元に匹敵するような、安定した財産や家族を残して、どうなるかわからない放浪の旅に出るのですから。
そうした切羽詰まった気持ちゆえ「すぐに」イエスに従ったのではないでしょうか(20,22)。

翻って私たち自身を考えると、イエスとの出会いは、いつ、どのように訪れるのでしょうか。
弟子たちが「網を打ったり、手入れをしていた」(18,21)ときに、ふと訪れたように、刻々の生活は、イエスと出会うあらゆるチャンスを包含しています。

人生には熟慮の末の決断も大切ですが、直感的即断も多々あるでしょう。日々の生活では、むしろ無意識に直感で行動している方が多いかもしれません。
そのどちらが良い結果を生むかわかりません。
「後の者が先になり、先の者が後になる」イエスの福音から推せば、人間の熟慮など大した問題ではないのかもしれません。
熟考を放棄せず、しかし同時に直感力も大事にする。
そのためには、日頃から、感性を磨いておく=「目を覚ましている」(25:13)ことが肝心なのだと思います。


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喜びにあふれる  

『ルカによる福音書』10:21-24より。
御自身が遣わした「72人」が村々、町々をまわって、病人を癒し、悪霊を追い出しながら喜んで帰ってくるのを見たイエスは、自らも喜びにあふれて、神を讃美します(10:1-21)。
イエスにある福音は、「幼子のような者」=愚かで価値低いとされた者に示されます。それは「御心にかなうこと」であり、ここにも福音の逆説があります。神に親しく「アッバ」(おとうちゃん)と呼びかける、前代未聞の祈りと讃美は、アッバに受け入れられ(21)、
すべてを一任され、イエスはアッバの光をお通しするガラス窓となられたのでした(22)。
このイエスがこよなく愛した弟子たちの証言を通して、現代のわたしたちも、アッバへの全幅の信頼に導かれるのです(23-24)。
今日一日、ともかくも無事に働けたことを感謝しましょう。
沈む夕陽を眺めながら、イエスや「72人」と喜びを共にしましょう。


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とりなしの祈りは聞き入れられる  

「ただ、ひと言おっしゃってください。」(『マタイによる福音書』8:5-13より)。
イエスの福音は、けっして一部の選ばれた人たち、エリートだけのものではありません(5,7,13)。
ましてやその願いが自分のためでなく、他者をとりなす祈りであるならなおさら聞き入れられるでしょう(6)。
その場合、驚くべきことには、必ずしも癒される者の意識、信仰の有無といったことは問題にされないということです(13)。
その要は、願う者のイエスに対する全幅の信頼と確信、そして謙虚に頭を下げる心、ただそれだけです。難しい教義の理解や道徳的行いの実行が条件ではないのです(8-10)。
そしてその癒しは、すでにイエスに直接出会えなくなっている人々=現代の私たちにも、イエスの残された言葉に触れ、信頼することによって、実現していくでしょう。(8,13)


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神の発見  

「現実が変わらなくとも、光が見えるのと、見えないのとでは、大変な違いです。それと同じように、信仰とは、遥か遠くに輝きながら、闇のなかで、寒さに凍える私たちを、支え導く光ではないかと思えたのです。その光が、私にとっては、神の発見だったのです。」(五木寛之著【神の発見】254頁)

この本のタイトルは、森一弘司教のこの言葉からとったものだろう。
学生時代に雪山で迷ったとき、遥かかなたに山小屋からもれる明かりを見て安心した、という体験から語ったものです。

わたしはこの言葉から二つのことを学びました。
1.神は実存の中で現れる
森司教の当の体験は、確かに大変危険なものだったでしょうが、山でなくても様々な限界状況のなかで、私たちは表面的には似たような体験をしているはずです。
病気、けが、試験・・・・自分ではにっちもさっちもいかない状況はいくらでも現実に転がっています。
しかしそこには、にわかに神は現れない、なかなか実感できない。
宗教的には森氏の体験は一種の「啓示」であり、信仰的には「賜物」といえるでしょうが、こうしたチャンスは日常、だれにでも起こり得るということです。
何かのきっかけで、神が実存的にかかわってくるということ。

2.信仰とは希望である
信仰を持てば病気が治る、いいことが起こる、というものじゃない。
たとえ「現実が変わらなくても、光が見える」ということは、ものすごく大事なことだということです。
信者でない人からよくある質問に、「信仰して何か変わった?」というのが多い。
くやしいけど、タナボタ式にうまい話はなかなかありません。
相変わらず弱いし、悪いことも考えるし。。。
でもやっぱり何か違うんですわ。
それが何か、と思っていたら、この「変わらなくても、見えると見えないじゃ大違い」の言葉に出会って、あーそーだ!と思ったのです。
この「光」というのは、「希望」ということでしょう。
今は相変わらず苦しいかもしれない。
でもかならずいつか、神様が「永遠の命」=幸福へと連れて行ってくれるんだ!
信仰の第一の恵みは、そういう、だれでもが欲し、わかる、単純なものなのだと思います。

キリスト信者は今日から待降節。
クリスマスまでイエスの誕生を待ち望む期間です。
イエスが「世の光」として希望を持てた当時の人たちは、皆が現実に癒されたり、貧しさや差別から解放されたわけではないでしょう。
しかし、「光」が来たこと、そのことを「福音」=良き知らせと受け取ったのです。


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「余白の風」116号アップ  

http://imaiki.fc2web.com/yohakunokaze116.htm
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