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「余白の風」-求道俳句とエッセイ 第113号(携帯版)  

2005.8.1
暑中お見舞い&新刊特集第2弾!
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)
投稿先:掲示板ICF求道俳句板 ホームページ「今を生きることば」

余白エッセイ:那須に一泊
妻と旅行してきました。
あいにくの雨でしたが、温泉に入ってのんびりm子供が生まれて以来、18年ぶりくらいのフルムーン??にはちと早いか(笑)。

今朝は、那須のトラピスト聖母修道院へ。国道4号線から東北道をくぐったところで、山道を登っていきます。
雨の中で、静かなたたずまいを見せていました。
(しまった!デジカメを忘れている。。。仕方ないから手帳に下手なスケッチ、トホホ)
シスターにことわって、禁域の手前でしばし黙想。。。
そうして、当然ガレットを買う(ミーハー系)。

その後さらに、近くのベタニア修道院聖ヨセフの家へ、10:30.
元加須教会の主任司祭で、U教会当時お世話になったR神父様に会いに行った。
昨年暮れに教会で倒れられて、入院、その後療養のためにこちらに移られていた。

受洗して、最初に親しくなったフランス人神父。
偶然、私の高校の恩師(「風」連載「井上神父の言葉に出会う」No2参照)とも若い頃からの友人だったこともあり、夏休みには誘われて病院訪問などもごいっしょした。。。。20年前。
あの頃のご老人は皆亡くなっている。

現在、那須教会にいらして、11:00にはここに御ミサをあげにいらっしゃる由。シスターが電話をしてくださった。私の名をつげないのに、ミサに参加してよいとの返事、なんという幸運か!
こんな緑に囲まれた中で、修道女がたと大好きなR神父様のミサにあずかれるとは。。。わくわく。

実はR神父のことは、新刊『俳句でキリスト教』にとりあげている。
お持ちの方は、p.121「日本人には日本人のように」をお読みください(兼宣伝)。
ぼくは「日本人のキリスト教」みたいなことを強調するので、日本人の神父ばかりと付き合っているかというと、むしろ逆。
なぜかRさま以外でも、フランス人神父と気が合う?感じがしきり。。。
なんというか、彼らの自然さ、というかさりげなさ、みたいなものに引かれるようだ。
彼らなりに消化したキリスト信仰を見る、といった感じ。

Rさまは体調がだいぶ回復されたので、ついあと2,3日したら埼玉に帰られる由。神に感謝!
それだからこそ、今日訪ねてよかったー!

ところで、ミサの間中、うちの奥さんがしきりに鼻をすすって、ハンカチで目頭を押さえていた。。。。
おや?と思っていたが、帰途車中でなにげに聞いてみる。。。
あの山奥で独身で、祈りに徹しながら、老いていく、、、
(たしかに、ミサ中咳き込んだり、立っていられなくて座ったり、いすに支えを求めたり、、、病む修道女の姿も)
その壮絶な生き方、信仰、そしてあの微笑は、どこから来るのか。。。
どうやら、受洗間もない奥さんは、そうした彼女らの生き方を目の当たりして、強烈な印象を受けたようだ。。。

雨の中の二人の、たった1泊の旅行だったが、手に余るほどのお恵みをもらって帰ってきた。
そういえば、こちらは手ぶらだったことに、あとで気がついた、まずい!
彼らにどうやって恩返しすべきか。。。。いや、神に、イエス様にどうやって。。。

帰りも途中土砂降り、夕べは山中寒いくらいだったが、埼玉はこの蒸し暑さ。

奥さん制作ロザリオブレスレット直売

(那須トラピスト聖母修道院↓)
那須トラピスト修道院2005/07/25

平田栄一の新刊『俳句でキリスト教』
(サンパウロ、2005年6月刊)-俳句は祈り―日本人のためのキリスト教入門-
楽しみながら、自然に祈りへと誘う「求道俳句」の世界。
さまざまな俳句作品を、日本人キリスト者として読み解きながら、本 当に大切なものは何か、今をどう生きるか、どう祈るかを模索した、日本人とキリスト教を同時に生きるためのエッセイ集。
俳句またキリスト教のちょっと変わった入門書としてもお読みいただけます。
image002s.jpg
ハードカバーB6版270頁、本体価格1600円+税。
ご購読は、販売元サンパウロ社、インターネット書店、全国お近くの本屋さんからも注文できます。
また、ご希望の方には、著者サイン本直送販売も承ります。 お申し込みは、余白メールにて。

自解と補足
-本書「はじめに」について-
井上神父との出会いについては、求道記にくわしく載せています。ご参照ください。
あの頃の私は、藁にもすがるような気持ちで、「道」を求めていたように思います。
ちょうど、会社を辞めたときで、無職になった不安も大きかったと思います。
しかし、生活が一応安定したとき、「ぜひ洗礼を受けたい」と思った、というのも、いまだに不思議に思います。

それから、受洗したのが1981年、自作の俳句が初めて活字になった(初出)のが1986年で、この5年間は、「洗礼を受けました。はい、救われました!」という感じではありません。
それは、この初出句を見ていただければ、明らかです(本書97ページ参照)。

救いの実感がもてない私は、受洗後も度々神父に詰問するようなこともあり、お世話をかけました。
当時盛んになっていたカリスマ運動や、カトリック受洗前と同じように、プロテスタント教会に出入りしたこともありました。
一方で、頼まれるままに、代父を引き受け--今現代音楽で活躍している作曲家H氏もその一人--るようになり、「こんな自分が・・・・」という後ろめたさを感じないわけにはいきませんでした。

そんな折、やはり身近にカトリック信者がいないという、ある方の代父をした後、洗礼祝い、ということで、都内の質素な木造一軒家に招かれました。
井上神父は表札を指差しながら、「あなた、ここ誰の家だかわかるかい?」と聞きます。
「渡辺」と書いてある。
なんと!あのユマニスト研究の第一人者、故渡辺一夫先生のお宅でした。当然ビビリました。
しかしそんな私も含めて、渡辺婦人らは気さくに話しかけたり、ざっくばらんに大笑いしたり。。。
何か、理屈をこえて、自然体の日本人キリスト者に出会ったような気がしました。

こうして井上神父と、その周辺に集う人たちとの出会い、そして俳句との出会いが、頭で信仰を理解し、構えようとする私の気持ちを、徐々にほぐしていったのだと思います。

-本書p.12「荻原井泉水」について-

『新俳句入門』、これはいま検索しましたが、復刻版も絶版みたいですね。残念。。。古本なら入手可能のようです。
これは、荻原井泉水(せいせんすい)の自由律俳句のすすめ、ではあるのですが、
「できるかぎり、光の中に出でて、俳句を作ることだ。光の中からじきじきに俳句を探り出してくることだ。」(p.45)
のように、人生論やときに聖書の言葉を思わせるような表現があります。

井泉水は、俳句実作より、どちらかというと、評論や芭蕉研究の方がすぐれているともいわれます。随筆なんかも、味わいのある文章を書いています。
層雲第一句集

田植のあしあらう水も田へゆく水(S21)
宿に来ても宿題の算数のつくつくぼうし(S28)

60歳代の、油の乗った時期の作品です。
また夫人をなくしてからか、晩年は仏教に傾倒し、「作品が宗教的になってしまって残念・・・・」といった批評をされることがあります。私などは、宗教的な句がむしろ好きなほうなので、そんなことはないと思うのですが。。。

-本書p.14「求道俳句」という呼び名について—

当初、「キリスト教俳句」と呼んでいました。
実際、この本のもとになった「余白の風」(もと「層雲青年句会報」)での連載のタイトルは、「キリスト教俳句探訪」と銘打っていたのです。

それがどうして「求道俳句」になったのか?
連載を重ねていくうちに、取り上げたい句には必ずしも、キリスト信仰を明示するようなキーワードがあるとは限らない、ということに気がついたのです。
本書読者は、本文中に、そうことわりながら、いわばキリスト者として強引に読み解いているように思われる句があることに、気づかれるでしょう。なかには違和感を持つ方もいるかも知れません。

しかし、すでに書かれてしまったものが、どのように解釈されようと作者は、基本的に受け入れるほかない。もちろん反論はできますが、反論しなければわかってもらえない、というのは、作品として未熟なのだと思います。私などは反論より静観したほうがいい、と思っています。(それならお前は、なんでこんなところで、ごたくを並べているのだ!と叱られそうですが。。。)

これは文学の、作家の宿命で、しかし読者から見れば、それだけ文学の自由が保障されているということになるのではないでしょうか。

話を戻します。
「キリスト教俳句」→「求道俳句」への変化は、もう一つには、「求道」をキリスト教に限らず広い意味に使いたかった、ということがあります。
仏教の方では、「求道」と書いて「ぐどう」と読ませます。
その場合「求道者」は、どこかではっきりした線は引かれていません。どんなに偉いお坊さんになっても、一生「求道者」であることを、はばかりません。

それが、キリスト教の方にきて、驚いた。
一般に、受洗に達していない、いわばキリスト信仰志願者のことを「求道(きゅうどう)者」といっている。違和感がありました。
いつ、キリスト者は、「でき上がってしまったの?」と思います。
私は、洗礼を受けていようがいまいが、一生求道者でありたいと思います。
そういえば、キリスト教は最初、「主の道」とか「神の道」(使徒18章)、キリスト信者は、「道に従う者」(使徒9章)っていわれていたんですよね。

その上で、仏教や他の宗教を目指す人たちとも、俳句を通して真の生き方としての「道」を模索したい、交流したいと考えたのです。

日本人はそもそも「道」が好きです。茶道、華道、俳句道・・・・何でも道にしてしまう。でも、がむしゃらに道を求める、ってのは、ちょっとちがうように思います。
あくまで、「道楽」でありたい。なんせ俳句は、肩の力を、ふっと抜いたとき、はじめていいものができるから。この点は、本書「あとがき」に書いたとおりです。

こうして肩の力を抜いて、モノを突き放して観る(写生)、難しいことだけれど、自分すら突き放して観る、そういう俳句の求道性というのは、本文でも繰り返し述べているように、宗教の根本=自己相対化に通じるものだと思います。

――書評No2――
○すずやかにして心あたたか:マルコ
≪この本に出会えて本当によかった・・≫ ネット上で見慣れた装丁の美しい本を実際に手に取り、平田さんの”集大成”をじっくりじっくり味わい、感じながら読み終えた後の感想です。。。
”こころの旅”を一緒にしていただいているあいだじゅう、涼風が心の中を清々しくしてくれ、またどこか胸の奥深いところにあるツボみたいなところが温かくなっていくのを感じて旅を終えました。そしてその思いはずうーと静かに燃え続けてくれています。

それはやはり掲句がキリスト教を詠んだものであり、平田さんがそれぞれの句を深いながらも分かりやすい言葉でガイドして下さり(時に句の作者が意図する以上に?)、句のあとにご自分の感想を述べるその言葉と眼差しがとても優しく感じ見えたのは、神へ全幅の信頼を置くところから醸し出されて来ているのだと納得いたしました。
 
平田さんとは性別、年齢、性格、カト&プロ、環境・・その他諸々違い過ぎるほど違うのですが、今こうしてご著書に感動し、キーを叩いているのも、唯一つ同じ御方をキリストと認め、三位一体の神様を仰いでいるからに他ならないのですね。そう思うと平田さんとの出会いも、感謝でいっぱいの気持ちになります。

『俳句でキリスト教』は俳句の読みの面白さ(例えばどこで切って読むかなど)と、そのあとの聖書の箇所から引用した”落ち着いた雰囲気”の語りかけるような感じの説明など、暖かくて説得力があり、それでいながら押し付けがましさなどがまるでなく、とっても感じの良い本でした。これからも折にふれ、幾度となく紐解く本となることでしょう。

この本を書かれたこと、まことに嬉しく思います。
と同時に俳句やキリスト教に多少の興味のある方、のみならず ”人生という旅”の真っ只中で模索している方など、、沢山の方々に読んでいただきたいと心より願います。小さくはあっても”旅”に出た時のような心の解放感や安らぎがきっと与えられ、また自分の足元を見直す機会にもなる本、と信じられますので・・・。

○とてもわかりやすく:比田井 白雲子
しかも内容深く、教えられることばかりです。日々の生きてゆく力になってくれそうです。自由律の鎌倉の句会でも、皆さんに読んでもらいました。

作品3-103
温暖化 水槽の中の 地球かな   yohannna

ヒキガエル腹を押しても逃げぬぞよ  ako虫

変えるより変わった方が良いと思う   厳禁

雷がどすんと落ち猫ぽんと飛ぶ   いう

芋の葉に雨ころころと美味そうに  ako虫

いこかもどろか扉の前の雨蛙   いう

大蛙達磨のごとくそこに居り  ako虫

弟子が師に躓く蛙目借時   栄一(全句集より)

恋のうた奏でる光夕蛍   いう

焦がす身と聞けど蛍の冷ややかさ   同

福音短歌 その53   島一木

今 わたしは/わたしをお遣わしになった方の/もとに 行こうとしている(ヨハネ16:5)

わたしは 本当のことを言う/わたしが去って行くのは/益になるのだ(ヨハネ16:7)

わたしが去って行かなければ/弁護者は あなたたちのもとに/おいでにならない(ヨハネ16:7)

真理の霊である その方が/真理の あらゆる面で/導いてくださる(ヨハネ16:13)

その方は わたしのものを/受けて あなたたちに/告げ知らせてくださる(ヨハネ16:14)

ひたすらに歩みくる道振り向けば道のり包む梅雨霞かな   いう

解き放つ思いしとしと雨とゆき今日は南の風と向き合う   同

車道にて 平面蛙の 三つあり   厳禁

涼しさに 夏の始まり 忘れたり   yohannna

花わたりはちどりふわりとる「子」の字   いう

ゴミ拾い いわゆるひとつの 黙想なんです   ひろりん

遠雷や自信などもてるはずもなく   いう

外灯のもとにちいさき黒猫の二匹向きあいなに交信してるの?   ako虫

一本の木がある イエスのように   比田井 白雲子

やまをみそらをみ こころのへいわ    同

ふうりん もうちょっとこころすまそう   同

――――――――――――――――――

井上洋治著『わが師イエスの生涯』2005-01
image005s.jpg
四六判 上製 220ページ 2,520円税込 ISBN4-8184-0557-4 C0095   
西欧文化や西欧の生活感情と一体となってきたキリスト教は、日本人に様々な違和感を引き起こしてきた。日本人の心の琴線にふれるキリスト教とイエスの素顔を真摯に求めて長い旅を続けてきた著者が、誕生から復活までを記したイエスの生涯。著者が渾身の力を尽くして完成したライフワーク。Copyright 2005 日本キリスト教団出版局

山根道公著『遠藤周作--その人生と『沈黙』の真実』(朝文社)
「『沈黙』の背後にある遠藤の人生について、母親郁、井上神父、棄教神父や病床体験等の関わりを考察。そして原題である「日向の匂い」に込められたテーマを、多くの資料を緻密に読み込むことで浮き彫りにした渾身の書。」
遠藤-沈黙
写真右は、山根夫人・知子氏(ノートルダム清心女子大学文学部助教授)の、これも渾身の著『宮沢賢治--妹トシの拓いた道』。

平田栄一既刊:エッセイ詩集;『今を生きることば』(女子パウロ会 94年)、『やわらかな生き方』(サンパウロ 96年)、『人の思いをこえて』(ヨルダン社 99年)、『雨音のなかに』(ヨルダン社 2000年)など。
既刊サイン本直売

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後記:暑中お見舞い申し上げます。みなさま、おかわりございませんか?
今回も、というかしばらく、新刊『俳句でキリスト教』の宣伝のような会報になっていますが、ご容赦ください。
おかげさまで、早くも多くの方々からご好評をいただき、コツコツやってきたライフワークが一つの区切りとして実を結んだことに、喜びと感謝でいっぱいです。
読者、編集者をはじめ、多くの方々の応援がなければ、とてもここまでできなかった。文字通り「おかげさま」を実感しております。
さて、しばしばこちらのサイトをごらんくださっている方は、二重アップの記事が多いことに、疑問をもたれているかもしれませんので、ひとこと。
本誌「余白の風」の経緯をご存知の方はお分かりかと思いますが、もともとこれは、印刷物として配布していた冊子なのです。
それで、今でもご高齢者を中心として、ネットをやらない方々もお読みくださっています。
ということで、現在は、あちこちネットに一度のせたもの(ときに他人様の記事もご許可いただいて)を、こうして1サイトにまとめ、何部かを印刷してお配りしている、ということなのです。
ご了解いただければ幸いです。
いよいよ暑い日が続きますね。とくにご病気の方、ご高齢の方、お体ご自愛くださいますように。(余白)


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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「余白の風」8月第113号アップしました!  

http://imaiki.fc2web.com/yohakunokaze113.htmこちらです。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

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「余白の風」第112号URL変更  

新しいURLはこちらです。


category: 平田栄一求道詩歌(1)

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最近の読書  

生かされる理由
・このタイトル、昔ある女優が書いた「愛される理由」っていう本を「わけ」もなく思い出した。それはともかく、内容は死を考えることは、どう生きるかを考えること、というポジッティブなもの。今の苦しみや困難に必ず大事な意味がある、と教えてくれる。


徳川家康(1)
・ご存知山岡荘八歴史文庫100冊の一。26巻世界最長の歴史小説。とても最後までは、と思いつつ読み始めたのですが、すでに半ば10巻をこえました。よく政治家が愛読書としてあげるので、なんかなーと今まで読まなかったのですが、この第一巻のあとがきを読んで、感動しました。山岡氏がこれを書き始めたきっかけは、今次の世界大戦をへて、「人間の世界に、果たして、万人の求めてやまない平和があり得るや否や」という探究心だったのですね。単に偉い武将の出世物語じゃなかったのです!人間とは、人生とは、と考えさせられます。とはいえ、新聞連載、ということもあって、毎回読者をあきさせない面白さもいっぱい!
必携季寄せ
・俳句の実作には、歳時記より季寄せの方が実用的。例句を読んでいくだけでも、読み物として、四季を感じさせてくれます。




わが師イエスの生涯

・『わが師イエスの生涯』
人生の師・井上洋治神父渾身の名著。日本人の感性で書かれたイエス伝。

『福音書』
ワイド版岩波文庫。はじめて聖書を読む方におすすめ。今や古典になりつつある名訳です。
イエスという経験

・古代人イエスの自己理解がどんなものであったか、が説得力ある文章でつづられています。


category: ○書評

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どの聖書がいいか  

--『俳句でキリスト教』自解・補足-p.17--

本書では一般的な「新共同訳」をメインに使いましたが、そのほかにp.19にあるような「塚本虎二訳」、「文語訳」、「フランシスコ会訳」などを適宜、利用しました。
絶対的にどれがいい、ということはないと思います。どれも一長一短です。古い「口語訳」が新しい「新共同訳」に必ずしも劣るとは限りません。現に田川建三さんなどは、どちらかというと、「口語訳」の方を推していますね。
それから青野太潮さんなどが、「新改訳」をボロボロに言うけど、名訳の部分も多いと思っています。井上神父は「新共同訳」を使う前は、この「新改訳」を使われていました。
その他、教会関係に人気のなかった「新-」の前の「共同訳」なんかもぼくは、わかりやすくていいと思います。
でも、もし「これから初めて聖書読むんだけど、どれがいい?」って相談されたら、上の「フランシスコ会訳」か、最近出た岩波の「新約聖書翻訳委員会訳」をおすすめします。
ちょっと高めなんだけど、これらには、最低限の、あるいはしっかりした解説がついているからです。


category: ○書評

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『俳句でキリスト教』自解・補足-p.14-  

--「求道俳句」という呼び名について--

当初、「キリスト教俳句」と呼んでいました。
実際、この本のもとになった「余白の風」(もと「層雲青年句会報」)での連載のタイトルは、「キリスト教俳句探訪」と銘打っていたのです。

それがどうして「求道俳句」になったのか?
連載を重ねていくうちに、取り上げたい句には必ずしも、キリスト信仰を明示するようなキーワードがあるとは限らない、ということに気がついたのです。
本書読者は、本文中に、そうことわりながら、いわばキリスト者として強引に読み解いているように思われる句があることに、気づかれるでしょう。なかには違和感を持つ方もいるかも知れません。

しかし、すでに書かれてしまったものが、どのように解釈されようと作者は、基本的に受け入れるほかない。もちろん反論はできますが、反論しなければわかってもらえない、というのは、作品として未熟なのだと思います。私などは反論より静観したほうがいい、と思っています。(それならお前は、なんでこんなところで、ごたくを並べているのだ!と叱られそうですが。。。)

これは文学の、作家の宿命で、しかし読者から見れば、それだけ文学の自由が保障されているということになるのではないでしょうか。

話を戻します。
「キリスト教俳句」→「求道俳句」への変化は、もう一つには、「求道」をキリスト教に限らず広い意味に使いたかった、ということがあります。
仏教の方では、「求道」と書いて「ぐどう」と読ませます。
その場合「求道者」は、どこかではっきりした線は引かれていません。どんなに偉いお坊さんになっても、一生「求道者」であることを、はばかりません。

それが、キリスト教の方にきて、驚いた。
一般に、受洗に達していない、いわばキリスト信仰志願者のことを「求道(きゅうどう)者」といっている。違和感がありました。
いつ、キリスト者は、「でき上がってしまったの?」と思います。
私は、洗礼を受けていようがいまいが、一生求道者でありたいと思います。
そういえば、キリスト教は最初、「主の道」とか「神の道」(使徒18章)、キリスト信者は、「道に従う者」(使徒9章)っていわれていたんですよね。

その上で、仏教や他の宗教を目指す人たちとも、俳句を通して真の生き方としての「道」を模索したい、交流したいと考えたのです。

日本人はそもそも「道」が好きです。茶道、華道、俳句道・・・・何でも道にしてしまう。でも、がむしゃらに道を求める、ってのは、ちょっとちがうように思います。
あくまで、「道楽」でありたい。なんせ俳句は、肩の力を、ふっと抜いたとき、はじめていいものができるから。この点は、本書「あとがき」に書いたとおりです。

こうして肩の力を抜いて、モノを突き放して観る(写生)、難しいことだけれど、自分すら突き放して観る、そういう俳句の求道性というのは、本文でも繰り返し述べているように、宗教の根本=自己相対化に通じるものだと思います。


category: ○書評

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『俳句でキリスト教』-p.12-自解と補足  

『新俳句入門』、これはいま検索しましたが、復刻版も絶版みたいですね。残念。。。古本なら入手可能のようです。
これは、荻原井泉水(せいせんすい)の自由律俳句のすすめ、ではあるのですが、
「できるかぎり、光の中に出でて、俳句を作ることだ。光の中からじきじきに俳句を探り出してくることだ。」(p.45)
のように、人生論やときに聖書の言葉を思わせるような表現があります。

井泉水は、俳句実作より、どちらかというと、評論や芭蕉研究の方がすぐれているともいわれます。随筆なんかも、味わいのある文章を書いています。
層雲第一句集
田植のあしあらう水も田へゆく水(S21)
宿に来ても宿題の算数のつくつくぼうし(S28)

60歳代の、油の乗った時期の作品です。
また奥様をなくしてからか、晩年は仏教に傾倒し、「作品が宗教的になってしまって残念・・・・」といった批評をされることがあります。私などは、宗教的な句がむしろ好きなほうなので、そんなことはないと思うのですが。。。


category: ○書評

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『俳句でキリスト教』自解と補足  

--「はじめに」について--
井上神父との出会いについては、求道記にくわしく載せています。ご参照ください。
あの頃の私は、藁にもすがるような気持ちで、「道」を求めていたように思います。
ちょうど、会社を辞めたときで、無職になった不安も大きかったと思います。
しかし、生活が一応安定したとき、「ぜひ洗礼を受けたい」と思った、というのも、いまだに不思議に思います。

それから、受洗したのが1981年、自作の俳句が初めて活字になった(初出)のが1986年で、この5年間は、「洗礼を受けました。はい、救われました!」という感じではありません。
それは、この初出句を見ていただければ、明らかです(本書97ページ参照)。

救いの実感がもてない私は、受洗後も度々神父に詰問するようなこともあり、お世話をかけました。
当時盛んになっていたカリスマ運動や、カトリック受洗前と同じように、プロテスタント教会に出入りしたこともありました。
一方で、頼まれるままに、代父を引き受け--今現代音楽で活躍している作曲家H氏もその一人--るようになり、「こんな自分が・・・・」という後ろめたさを感じないわけにはいきませんでした。

そんな折、やはり身近にカトリック信者がいないという、ある方の代父をした後、洗礼祝い、ということで、都内の質素な木造一軒家に招かれました。
井上神父は表札を指差しながら、「あなた、ここ誰の家だかわかるかい?」と聞きます。
「渡辺」と書いてある。
なんと!あのユマニスト研究の第一人者、故渡辺一夫先生のお宅でした。当然ビビリました。
しかしそんな私も含めて、渡辺婦人らは気さくに話しかけたり、ざっくばらんに大笑いしたり。。。
何か、理屈をこえて、自然体の日本人キリスト者に出会ったような気がしました。

こうして井上神父と、その周辺に集う人たちとの出会い、そして俳句との出会いが、頭で信仰を理解し、構えようとする私の気持ちを、徐々にほぐしていったのだと思います。


category: ○書評

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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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