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2002年10月の記事一覧

「余白の風」第78号  

2002/10/15 発行者:平田栄一




なんとなく無宗教ですバラの刺     

中山 美樹

(紫2002/10号より)

 外国人に「あなたの宗教は?」と聞かれて、「わたしは無宗教です」と答える日本人が多いことに驚かれる、という話をよく聞きます。ただ、この場合の「無宗教」という答えには少々解説が必要なのではないかと思います。というのは、日本人の「無宗教」は、積極的・意識的に神を認めないという意味で「反宗教」ではないし、すべてを科学的な合理主義で割り切ろうとする、唯物論的な「非宗教」というのでもないからです。おそらくなんらか神的なものを認めながら、「何の宗教?」と聞かれれば一つに限定できない、まさに「なんとなく無宗教」といわざるをえない、というのが平均的な日本人の宗教観ではないでしょうか。掲句下七の「バラの刺」は、そうした「あいまいさ」と、それゆえの戸惑いとを象徴しているかのようです。

たしかに、この「なんとなく」「あいまいな」宗教観は、白黒・是非をはっきりさせたい西欧的精神からみれば、なんともつかみどころがなく、理解しがたいものでしょう。また、宗教や精神性というものを父性─母性原理という軸で見たとき、日本社会のなかでは、父性の欠落、母性への偏重によって様々な弊害が現れていることも事実のように思います。

しかし、ひとたび世界全体に目を向ければ、今ほど諸宗教間の対話や和解が必要とされている時代はありません。わたしはこの〝対話〟の大前提は、まず相手の信条を受け入れる、ということにあるのではないかと思うのです。こうした視点から考えると、たとえ「なんとなく」でも「あいまい」であっても、神的な何かを認めた上での日本人の「無宗教」性は、けっして諸宗教を門前払いするような「反宗教」・「非宗教」性とは一線を画しており、諸宗教理解の可能性を秘めているともいえるのではないでしょうか。(余白)


●D&D's daughter:遠い街角



降りしきる鐘の音にゆらぐ飾り窓
夜霧のマント翻す自転車の群
鐘の音に抱かれはや足石畳
アモーレ!マンジャーレ!グラッパだカンターレ!



Res:余白イタリア製のご絵には、子羊を抱いたイエス様のやさしい顔が書かれていて、つい何枚も買っちゃいます。 Res:D&D's daughter:神におまかせな人々うん、イタリア人の美を追及する意識はするどいのに、それ以外のことに大変アバウトな民族なのには毎度ながら呆れてしまいます。上の二つはオランダ、アムステルダムです。教会の脇に「飾り窓」が並んでいるのです。


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●猫目:秋祭

イエスの眼寅さんの声秋祭

Res:余白ええ、ぼくは他でも言いましたが、寅さんがキリスト者になるような時代が来ないと、日本のキリスト教は土着しないんじゃないかと思います。


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●奈菜:虫~

自転車に乗って虫になる


・・・何となく、自転車が何台も走っているのを見て、そんな気がしました☆



Res:余白カフカの「変身」を思い出しました。虫や植物になりたくなっちゃうことって、よくありますよね。悩みがなくなるのかなーなんて。「自転車」と「虫」という意外な取り合わせが幻想性を生んで、おもしろい詩になっています。


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●tears:孤独の中で

静けさや 孤独深める 秋の午後



Res:余白その孤独が福音書のイエスの「孤独な姿」と連なる・・・・イエスがその孤独を背負ってくださる・・・・聖霊の同時性。


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●ふづき:はじめまして
はじめまして。毎年今年こそと思いながらなかなかキリスト教に踏み出せず、おまけに俳句もずぶの素人です。一面に彼岸花が咲くことで有名な巾着田を訪ね、感じていることを残しておきたくなって、思わず五七五をひねっていました。(先程「雨音のなかに」のページを拝読して、最後の一行に私の蟋蟀の句の言葉が似てるかなと思いましたが、中身は全然違う…;)あちこちから「天国」という言葉も聞こえた、森に群れ咲く百万本の彼岸花、キリスト教的ではないかもしれないのですが、魂の風景という感じを受けました。

彼岸花三本小さき磁場のあり
曼珠沙華みどりの生に死の紅に
青き香の森の底なる彼岸花
曼珠沙華見上ぐる黒き子犬の目
蟋蟀の声の中なる平安よ
ともにいるための一面彼岸花
秋蝶の辿りし彼岸花の道
彼岸花の道の最後にふと光
靄めきて彼岸花の森包む闇
彼岸花畑の森の暮るる迄

Res:余白:キリスト教的ふづきさん、いらっしゃい。ええ、お彼岸花っていうのは、ほんと、不思議な花ですね。

移り来てお彼岸花の花盛り   山頭火

これだけでも句になってしまう、強烈な個性と可憐さを兼ね備えた魅力です。あなたの緒句も、「森に群れ咲く百万本の彼岸花」よく活写されています。その情景が「キリスト教的ではない」ということはないと思います。西欧的ではないとは言えますが、イエスが一面のお彼岸花の中に佇んでいる、なんて、とてもすてきな光景だと、私は思います。 Res:ふづきありがとうございます。キリスト教的でないということはないとのお言葉、嬉しいです。生者死者の交わりの風景を包みこむものを感じていたのも確かです。キリスト教と俳句、ちょっとずつでも学んでいこうかなあと思っています。Res:ふづきあれからまた作ってみたものです。昨日は寝る前に歳時記をひっくり返していて、「あー、天使祭っていうのがあるんだ」と初めて知りました。

憂き午にかみしめてみし葡萄かな
いづくにか乱れし気圏秋の池
秋の窓この雨粒に時のあり
颱風来傘に楽しき重みあり
風にのりとんぼの翅をひろげたの
穏やかなひと日もありぬ天使祭

Res:余白生の不安と主にある静寂とが、丁寧に表現されていますね。どんどんと作り込んで行ってください。そしていずれ、句作即祈りとなったとき、わたしたちは主にある平安を味わうこととができる、と信じています。


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●島 一木:黙想集 その1 蒔かれた種

道ばたの種はからすがついばんだ
太陽に枯れそう岩の根なし草
ふさがってしまう茨に落ちた種
よい土の種は百倍実をむすぶ
信仰の山を動かすからし種
鳥の巣をゆめみる種のねむりです
眠るまも種は芽をだしのびてゆく
毒麦も刈り入れまではそのままに
刈り入れは多い 働き手がいない
地に落ちてまだ一粒の麦のまま


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●奈菜:秋風


「秋風」/なんどもなんども頬をなでて/私をどこかへ誘ってる

☆★☆ひさしぶりに外を歩くと、風がもう秋の風でした☆☆

Res:余白:秋の縁秋は、四季の中でもいろいろな発見があって、詩がもっとも生まれやすい季節ではないかと思います。その一つ一つが、わたしたちが神様に心を、顔を向ける縁となるなら、こんな楽しいことはありませんね。


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●ブライダル

百合と薔薇、朝顔咲きて、パラダイス

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさいとは?」http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1030529521/301-400厖大な、少々混乱してしまう、この優れた掲示板を読み、肌寒さを感じる外に出て、教会の扉を開いてから、庭で作りました。


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●余白



アバ霊(たま)よ街から街へ吹き抜ける


もちろん、話題のたまちゃんじゃありません。キリスト者ならおわかりの通り、「アバ」はイエスが神を親しく読んだときの言葉。その霊=聖霊は、ギリシャ語でプネウマ。これは、息吹とも風とも訳されるんですね。「アバ、利己主義に汚れている私たちの心を、あなたの悲愛の息吹で洗い清めて下さい」(風の家の祈り二)。「燿」では二番目に置いた句です。


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●奈菜:月


太っていく月見て/ほっぺふくらむ

☆★☆毎日見上げる月が少しずつ丸くなっていくのを見てなんとなく・・



Res:余白諸行無常っていうけど、毎日少しずつでも成長しているっていうことが、確認できれば、ホント張り合いがでますよね。Res:猫目:宇宙に生きるもの
太っていく月見て/ほっぺふくらむ    奈菜。素直な感覚でとてもよい句だな、と感じます。月と自分との間の霊的な関係、宇宙に生かされているものの霊的交感みたいなものを想像します。小うるさい俳人からは、「太る」と「ふくらむ」とが、「つきすぎ」といわれるかも知れませんが、そんな批評を跳ね返す、強い詩的力が、この句にはあるような気がします。 Res:奈菜:ありがとうございます☆★☆思いを共にしてくださって、とてもうれしいです。不思議な感覚ですが、こころの底でたくさんの人とつながっているんだなぁと実感します。


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●島 一木:主の平和 その3

薔薇ひとひらひとひら幼な児の歩み
幼な児よ主に先がけて整えよ
星月夜羊飼いたち町へ行く
イエズス 滅びと立ちあがりの基です
イエズス ひそかな思いがあらわれる
主の道をまっすぐにせよ蝉の声
手をのべて 私は望む清くなれ
花婿といて断食ができるのかい
笑っているほらそこの君 泣くだろう
泣いている君は幸せ 笑うでしょう

句評:ぼくは自分の分をわきまえて、今後も作品評は俳句のコメントに徹しますので、よろしく。
長き夜の夢に押されて発つヨセフ  余白
この句を読んで、そういえばヨセフは旧約も新約も夢と関わりがあったと気がついた。
秋雨に 心洗われ 光さす     tears
確かに心洗われるというのは、春雨じゃなくて秋雨の感じですねえ。
カナカナ 今日何をした  比田井白雲子
こんな思いになることあります。
立ち止まり去りし想い出駆け巡る しんご
想い出のつかみ所のなさが出てると思います。


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●余白

産声以前 たしかに溜息

93年末に、「俳句空間」(廃刊)でお世話になった大井恒行氏の呼びかけに応えた「新鋭」16人の各100句アンソロジー『燿(よう)』に載せた、巻頭の一句です。これは想像句ではなく、自分としては写生句なんですね。我が子誕生に立ち合って、胎から出て産声を上げるまでに、相当なタイムラグがあることを知ったときの驚き!

Res:猫目:俳句とポエジー産声以前 たしかに溜息 余白。 無季で自由律の句ですね。私は、がちがちの有季定型派でもなく、無季容認派ですが、自由律の句は創ったことがありません。というより、形式のもつ力から離れることの不安で創れないというのが、本当のところです。でも、山頭火や放哉の句にも惹かれます。形式はともかく、詩的霊感(ポエジー)があれば、よいのではと思っています。この句でも、「たしかに溜息」に詩を感じます。「生まれ出ずる者が、根元的にもつ不安」といった感覚でしょうか。現在私が、信仰を俳句で表現することにためらいを感じるのは、できた句にポエジーがあるかどうかに確信をもてないからです。信仰者の立場と、俳句作家の立場とは、ある意味で矛盾するようなところがあり、それを安易に妥協させたくないと、考えています。Res:余白:猫目さん、よろしくー問題にされていることは、私にもよくわかります。文学と信仰、、、難しいけど、避けて通れない信仰俳人の問題ですね。TSエリオットだったか、「世の宗教詩が面白くないのは、信仰者が感じていることを書くのではなく、感じたいように書くからだ」というようなことを言っていましたね。ポエジーではなく、つい教義を語ってしまう、という問題だと思います。私は、「層雲」から入りましたので、上のような句も作ってきました。それで或意味行き詰まってしまい、今は定型がメインになっています。でも、こういうお話しができる方が来てくださって、心強いです。猫目さん、これからも宜しくお願いします。


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●如月:妻へ

身障の 妻を娶りて幸せと 笑顔麗し 吾のパレアナ


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●如月:掲示板

夏スレに 秋のレス書く 氷雨かな


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●島 一木:教会のある風景 その5. 九月

聖変化台風の眼が通過する
十字架を胸に笑顔は爽やかに
聖歌隊解散となる秋深し
さよならの聖歌隊席秋扇
マリア像小さい花壇に小さい花
マリア像へと十字切る花壇越し
念祷のひととき水は澄んでゆく
教会の塔に渦巻く星月夜
賛美する虫か聖堂の隅の闇
ロザリオに露のしずかな夜とおもう


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●余白

九一の不安と希望神無月

Res:猫目:神がいる月、いない月九一の不安と希望神無月。不安九と希望一という意味ですね。作家の安岡章太郎さんが、井上神父さまとの共著のなかで、そんなことを言っていましたね。信仰者としては、心に沁みる言葉だと思います。でも信仰100%よりも現実感(リアリティ)がある、と私は思います。キリスト教俳句としては、季語の「神無月」が面白い。ただ、神様たちが出雲神社に集まって各地の神様がいなくなるというのは、どうも俗説らしい。ある歳時記では、「な」は「の」の意味で、「神の月(神祭の月)」だと、書いてありました。この句も、後者の意味だと解釈すると、味わいがふかくなります。なお、九一は、年齢だと誤解されるから、九/一と表記するのは、どうでしょうか。Res:余白アドバイスありがとうございます。ああ、「九/一・・・・」って表記ですね、参考になります。


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●アン:お久しぶりです

神を想う心が一つになりて肩を並べる

久しぶりです。皆さんお元気でしょうか。想いのままを叫ぶのは簡単なのに、言葉にするってなかなか難しい。それでも、心の底から様々なことがわきあがって来る。神への想いをどう表現できたらいいだろう。と悩める時また言葉を多く持っているのに相手に心にしみ通るような美しいものであってもかえって傷つく時もある。言葉が「剣」のように研ぎすまされて人を斬りつけてしまう時もある。同じ言葉であっても、その人の受け取り方で大きく変わってしまう。それでも考え方や感覚や価値観が違っていても一緒に肩を並べて、神様を共に眺めて共に喜べたらどんなに最高だろう。と最近思うばかりです。


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第3エピグラム集


ヨルダン社1600円

●安らかに詠う「永遠なれば」(2002年10月黄金海岸編「豈」35号に加筆)平田栄一

 昨年の秋、十五年お世話になった自由律俳誌「層雲」を退会した。よくよく考えて。今の私に迷いはない。つまり俳句形式について。私の場合、定型回帰ではない。定型に重点が移った、いや、形式に迷うことが重荷になったのだ。いや、これも違う。形式がどうでもよくなったようだ。キリストを詠いたい、目的がそれだけに絞られた。自分が軽くなった。今、創作に関して安らかでいられる。俳論・文学論をこね回す気持ちも失せた。大変な回り道をしてしまったものだ。それも仕方なかったか、とも思う。俳句を諦観の詩形とはよく言ったものだ。今の私にピッタリの詩形。そしてこの、自由な空間として「豈」がある。電車で十分の所にいたにもかかわらず、迷いがあってついにお会いしたことがなかったけれど、あなたの数句が、俳句に何かあるぞ、と思わせてくださった摂津さん、僕の俳句に、さりげなく理解を示してくださった大井さん、また、丹念にこの会報に目を通し、いつも励ましてくださる信仰の師・井上洋治神父と同じ志を持つ山根道公さんに、心から感謝します。

「余白の風」作品募集*俳句・短歌・一行詩等作品数制限なし。エッセイ・評論も歓迎。(但し、採否は主宰に一任してください。)*今号選評もお送りください。*締め切り  随時受け付けます。*HP「今を生きることば http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5 」からもリンクして、「余白の風句会」に直接投稿できます


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

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