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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問合せ 略歴 著書

「終末」論や「裁き」  

*実際、カトリック教会では「終末」論や「裁き」を強調することはほとんどありません。

私も求道者に聞かれたとき、そういう話はいっさいしません。

「でも聖書に書いてあるではないか」といわれればそうです。

しかしすでに今私たちが手にしている聖書は、せいぜい5世紀くらいまで、侃々諤々人間的・政治的な議論を重ねてやっと編集されたものですから、そこには人間的な作為や駆け引きなども当然反映されていると見ています。

ですから聖書を読むときは、わたしは「ここにこう書いてあるから」といって、聖句をすぐ普遍化することは危険だと考えます。

むしろ、「なんでこう表現したのだろうか?」と、著者の意図・編集意図を探って解釈します。

こういうのは現代聖書学ではあたりまえだと思っていますが、まあそういう作業自体「不謹慎、神のお言葉を何と心得る!」てお叱りになる方も多いです。

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イエスは救われた。だからわれわれも救われる  

*私見ですが、キリスト教における終末論や裁き、それから復活論なんかも多く、後期ユダヤ教のメシア待望思想にかなり影響されていると思われます。

復活などは周辺異教の影響なども見られる、といわれています。

つまり今ひとくくりにキリスト教といっても、それだけで成立したのではないということですね。

で、じゃ、一番原初的なキリスト信仰とは何か、といいますと、私はカールラーナーという神学者が言っていることではないかと思っています。要約すると、

「ただ単純素朴に、〝われわれは救われた。なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ、このことによって神が御自分の意志を、歴史の上で現実的に、撤回不可能な形で世界的に実在させたからである」ということです。

つまり、「イエスは救われた。
だから同じ人間のおれたちも救われる」
これだけなんです。

あとは全部当時の宗教観念から導き出された「解釈」、「表現方法」でしかない。

したがって、それはユダヤ人思考ではそうであっても、時代や文化が変われば変更可能だ、ということだと思います。

私がキリスト信仰や聖書解釈の多様性を主張するのは、こんなところが根拠になっています。

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口語訳か新改訳か  

*新改訳をよく使っている保守福音派の人たちが、ここで井上神学批判をしていましたが、実はその井上神父は、ず~っと「新改訳」使ってましたよー。

ってホローになってないか。(笑)

同じ聖書使っていても、ものすごく受け取り方に幅がある、ってことがこれだけでもわかります。

(おまけ)ぼくが最初に通っていたプロテスタント教会の牧師さんに「どの聖書がいいんですか?」って聞いたことがあるんです。

そしたら彼は「口語訳がいい。

新改訳はだめだ」って言うんですね。

私は「何でですか?新改訳の方が読みやすいんですけど・・・・」って反論したら、かれいわく「口語訳は日本聖書協会が決めたからだ!」なんて言ってました。

その教会へは、翌週から行かなくなりました。

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旧約より新約  

*意外と、よく浮かぶ御言葉って多くないのですねー。

僕の場合は、もうおわかりかと思いますが、旧約より新約、手紙類より福音書、言葉伝承より物語伝承でのイエス様の言葉が繰り返し浮かんできます。

やっぱり全聖書の言葉がフラットに大事、という風にはなりませんよ。

他でも書いたけど基本的には、イエス様の衣の「房」にでも触れるようなたった一つの御言葉を暖めているだけで、十分救いにあずかれるのだと、私は思っています。

そもそも原始教会では、イエスやパウロの言葉の一部分を繰り返し朗読して味わっていたんですよね。

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終末論を迫るのには、ついていけない  

*健やかさのバロメーターってのは、ぼくは昔は「もっと聖書が読みたい」とか「お祈りしたい」とか「ミサに今月は何回行った」とか、「人にどれだけ親切にした」っていうような、いわゆるクリスチャンらしさ、みたいなもので自分を量っていたような気がします。

でも今は、あなたの言葉をお借りすれば、「伸びやか」さみたいなもの、具体的には「気負いがない」こと、気持ちに「余裕があること」じゃないかと思います。

終末論や~再臨説(もっともカトリックではほとんど聞かないが)で、「さー、おまえどうすんだー!」みたいに迫る、迫られる、焦る、焦らせるのは、やっぱりついていけません。

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聖霊はいつでも  

*聖霊はいつでもお働きなんだけど、

とくにここ一番、

ってなこと感じる時ってありますよね。

来たなーって感じ。

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現世利益  

*日本人が特別(現世)御利益主義だとも思えないのですが。。。。

「御利益」ってのは、現世でも後の世でも、
幸福に、安心していたい、
ってことじゃ、
どの国民も同じじゃないかなー??

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田舎司祭  

*うちの長男なんか見てると、もう教会にはめったに行かないのに、
夏休みにその神父の所へ言って、蕎麦かなんかおごってもらって、、、
で気がついたら神父の手伝いして帰ってきたーなんていうわけです。

この田舎司祭見てると、気負いのない宣教っていうのかなー、
無意識ににじみ出るもので、導いてるって思います。

(学歴も高くない貧しいフランスの片田舎出身の神父です)

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神父は毎朝ミサ  

*カトリック教会ではぼくの知る限り、神父一人のかなり小さい教会でも、平日開放している教会多いですよ。

これは教会や祈り、礼拝なんかに関する考え方の違いもあるんじゃないかなー。

つまり、原則神父は毎朝ミサをあげるんですね(会衆いなくても)。

それに信者はついでにあづかることができる。

それからプロテスタント以上に沈黙の祈りを重視している、ってことも関係あるんじゃないかな。

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科学と宗教  

*私は個人的には、科学と宗教の葛藤が、日本人の求道には大きな影響があるとはあまり思っていないのです。

たとえば、『マタイ』が典型ですが、まず処女懐胎がある、奇跡がある、たしかにどう受け取るか一つのハードルでしょう。

しかし、「求道心」を起こすときというのは、単純な場合なら、「もしイエスが神の子であればそのくらいのことはあってもおかしくない」そう思って通り過ぎることもできるんじゃないかと思うのです。

むしろ、日本人のつまずきは、その後に出てくる「山上の説教」に代表される厳しい倫理規定なのだと思います。

欧米人は彼らなりにそれを受けとめ、乗り越えたのでしょうが、日本人はこの倫理・道徳を持ち出されると非常に弱いんですね。

奇跡よりこちらの方がついていけない、と感じる人が多いのではないでしょうか。

これは深く突っ込めば、「罪と恥」の文化の違いなんてところまでいっちゃいそうですが。。。

もしあなたが指摘されたように、根本主義の問題が出てくるとすれば、そうした考えが現実の信者や求道者にリゴリズムを迫っていく場面で、ということなんじゃないかと思います。

もちろんそういう意味では、昔のゴリゴリのカトリックもつまずきであったわけです。

つまり聖書解釈や教義より、まず、表面に出てきた教会や印象が、日本人の現実主義的感性にどうマッチするか、ってなことなのだと思います。

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道徳主義的なイメージ  

*明治からの内村鑑三を代表する儒教的キリスト教のイメージ、

戦後のとくにアメリカから入ってきたピューリタン的キリスト教のイメージ、

こういう道徳主義的なイメージを払拭しない限り、

キリスト教は、ただでさえ苦しい日常生活に、

もうひとつ大きなくびきをかけるお荷物、

「いや、うちは間に合っています」と門前払いを食らうもののように思います。

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十一献金  

*第二バチカン以前のカトが「ミサに出ないのは罪!」と信者を縛っていた、
そのことが今、
一部のプロで十一献金や礼拝出席や奉仕や
果ては結婚相手まで限定されるという、
状況に置き換わっている。

結局戦前も戦後も通して、「キリスト教は堅い、恐い、辛い・・・・
まっぴらごめん」という日本人一般の印象をつくってしまったんじゃないかと思うわけです。

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行いか信仰か  

*古くからの論争として、「行いか信仰か」ってのがありますよね。

これ、カト対プロだけじゃなくて、確かカトでも、ドミニコ会とフランシスコ会だったかなー、
の同じような論争があったんですね。

善行はいらない信仰のみだ、まあ極端にいえばプロテスタントはそうして出てきたわけです。

で、じゃ善行はいいから何するか?っていうと、それが第一に聖書研究だ、ということになる。

しかしそれを一生懸命「やる」というのは、やっぱり「行い」ということになる。

つまりカトリックの「救われるためには善行せよ!」というところが、プロテスタントでは「救われるためには聖書研究「せよ」!」に置き換えられただけじゃないか、
ということになっちゃうわけです。

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聖書は多様な解釈  

*聖書は多様な解釈で読まれていいものだ、
ということです。

もし解釈の一元性が絶対のことであったなら、
イエス様はあんなに「たとえ話」を好んでなさらなかったんじゃないかなー、
と思います。

聖書と本人がまず向き合って、
主体的に人生の意味、
イキイキ生きていく喜びをいただく。

それでまずよしとしたいと、ぼくは思います。

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聖書の言葉に立つ  

*私は「聖書の言葉に立つ」とお互いに思っていても、

その聖書の言葉は一元的に解釈できるものは、

むしろ少ないんじゃないかと思っています。

ものすごす詩的で、文学的で、象徴的で、暗喩に満ちている。

熱心な信者にはよく、キリスト教は宗教じゃない、

それ以上の真理だ、というような人がいますが、

やっぱり私はどう考えても宗教だと思います。

学問的真理と張り合ってもしょうがない。

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フランシスコ会の修道士  

*思い出すのは、僕が時々お世話になるフランシスコ会の修道士たちですね。

彼らの生活は質素で、物静かで、いつもにこにこ。

何も説教じみたことは言わないのですが、ぼくは好んで告解の時には彼らのところに行きます。

やっぱ、信仰に引きつけるのは、説得とか学識じゃないんですねー。

「奥ゆかしき伝道」ってのは、漢方薬みたく、知らずうちに、じわりじわり効いてくんですわ~恐ろしいもんでっせー

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教会に行かなくても  

*教会に行かなくても、信者で居られる意識改革みたいのも検討課題ですかね。

大学と高校に行ってる長男次男は、もうほとんど教会行かないんだけど、不思議と、毎朝夕「家庭祭壇」には向かう「癖」だけは抜けないんですね。

あれってやっぱ、ぼくらが小さいとき、ともかくも食事の前にお線香あげてたのと同じ感覚みたい。

こういうのも、マターリ型信仰として、ヒントになるんじゃねーですかねー。

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洗礼受けるとき  

*ぼくなんか、洗礼受けるとき、やっぱり反対されて、、、

それがいろんな神父の人柄知るようになって、実家じゃ今、家庭集会やってますよ。

夫婦片方だけ信者ってのは、ぼくもそうなんだけど、妻だけ信者の方が日本では絶対大変だと思う。

日本人って、自分は信者じゃないのに信者に対しては「おまえキリスト教のくせにそんなんでいいのかよー」って目がきついのね。

もっとも信者同士でも、「お前見たいのはホンモノのキリスト教じゃない」っていうのも多いんだから、どうしようもないか。。。



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信者になると負担が増える?  

*いずれにしろ、信者になると負担が増える、っていうのが、邪魔してるんでしょうね。

日本でまだ完全週休2日じゃない会社とか、たくさんありますものね。

そうでなくても一週間へとへとに疲れて、日曜も半日つぶれるなんて、私なんかも体もちましぇーん、って時期ありますよ。

たとえば、会社の近くに平日ちょこちょこってお祈りできる教会があればいいんですよね。

そうなると、教派こえて、平日だれでも立ち寄れるスタイルがいい。

このあたりはヨーロッパなんか、うらやましいね。

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イエス様の怒り  

*イエス様の聖なる怒りというのは、ぼくはやっぱり青筋型じゃなかったんじゃないかと思います。

静かに、涙をためたようなまなざしで、相手をまっすぐ見て、射抜くような怒りだったんじゃないかと。

逆に「姦淫の現場を捕まった女性」(ヨハネ8章)には、顔を直視せず(裸同然だったでしょうから)、地面に字なんかを書いたりして、視線をそらす。。。

そういう、直感的に相手の生い立ちから性格、そしてなによりその人の人生の悲しみや重荷まで瞬時に見抜く。。。

すごい超能力のようなものを持っている御方に見えたんじゃないでしょうか。

いずれにしろ、TPOを考えない宣教は、効果がない、ということは事実だと思います。

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thread: 宗教・信仰

janre: 学問・文化・芸術

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キリスト教はなぜ日本で広まらないのか  

*キリスト教はなぜ日本で広まらないのか、そんなことをいつも考えています。

アメリカ式の大衆伝道、っていうのありますよね。

実はぼくは1980か81年かに、ビリーグラハム氏が日本に来日して、後楽園かすごい大きな集会に出たのです。

そのときの内容はとりあえず省略しますが、・・・・ともかくぼくの結論として「これはとてもキリスト教にはついていけない」というものでした。

これは正直な告白です。

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モノは軽視できない  

カトリックには、聖画・聖像からロザリオ・お香・家庭祭壇・・・・いわゆるカトリックグッズがごちゃごちゃあるんですが、一枚のカードでもなんでも、こういう「モノ」の効果、ってのは軽視できないと思っています。

時には聖書の文字情報以上に、信仰を養うことがあるように思います。

今このPCの前にも、眼をあげると最後の晩餐のレプリカがかけてあります。



貴女のカンテラのイエス様、大事にしてください。毎晩寝る前にそれ見ながらまどろんだら、、、きっと心にやさしいイエス様が刻まれますよー。

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上下からの仏教  

仏教伝来ゴミヤサン以前にも、多数の渡来人の間ではすでに仏教は信仰されていましたが、崇仏論争を経て、飛鳥~平安まで、一口で言えば鎮護国家的な「上からの仏教化」が主流だったと思います。

そういう中で、すでにあった民間信仰・神道的要素・山岳信仰等々と融合して、神仏習合や本地垂迹説なんかが出て、やはり仏教もじょじょに日本化していったんですね。

難破を繰り返して盲目になってやっと渡来した鑑真さんなんかは、律宗といって戒律を重んじる宗派でした。この流れが天台宗の千日かいほう行や12年ろう山行などの自力信仰へ結びついている、と私見では思っています。

一方、平安時代の末法思想などは、貴族をはじめ民衆にものすごい不安を与えた。政治的にも転換期でしたから。で、浄土教の流行。

このあたりからやっと一般人が仏教独自の救いを意識していくんじゃないかと思います。そして日本的仏教がやっと出てくるのが鎌倉時代ということですね。

「下からの仏教」とでも呼べるような情況になるためには、仏教伝来以来、実に600~700年くらいかかっていることになります。

以上、簡単に私見です。

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キリスト教好感度調査  

ある大学生へのアンケート。好感度順。

1位 イエス

2位 キリスト教

3位 教会

だって(前にもどっかで書いたかも)。

どうせ1%なんだから、ぼくはキリスト教じゃなくても、とりあえず「イエス様、大好きー!」一点張りのイエス教だっていいんじゃねーかと思いますよ。

只でさえ仕事のハードル、生活のハードル、人間関係のハードル・・・・やりきれないのに、そのうえもっとくびき負うんじゃねー、信者にはなりたくないよね。

すんなり、っていうのはそうでもないと思います。

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あるクリスチャン生活  

うちも実家は臨済宗の檀家で、親戚には神主がいますー。

以下、カトリックのぼくの場合です。

基本的に初ミサに行きますが、子供連れて、浅草寺にいったこともあります。(妻は非キリスト者)。お正月は、家庭祭壇に、お供えや松飾りも立てますー。教会にも立ってます。

実家にいる姉もカトリックですが、思いっきり○十万円の仏壇があって、その中に聖母子像なんかちょこんと置いてます。神父が来たとき、「いいね~」って言ってました。もちろん、お線香は毎日、ぼくもお盆や正月に帰省すると、まずお線香あげます。で、†も切っちゃう。

洗礼前より、むしろ神妙にお仏壇に向かうようになったように思います。

ぼくも当然、家の代々の墓に入ります。たぶん、墓石に†霊名刻んでもらおうと思っています。

お焼香も普通に。

夕ミサとか、平日ミサに顔出したり。疲れていると1ヶ月くらい行かないこともあります。が気まずくなるようなことはありません。「ひさしぶりだね」「まあね」で終わり。

プロテスタントは、幅がすごーくありますが、ぼくも求道中の印象としては、真面目で熱心な人が多いと思いました。で、カトリックになったのは、「ぼくにはついていけないなー」と思ったけど、どうしてもイエス様から離れたくなかった、って感じかな。

そんで、遠藤さんの信仰を見つけたわけです。「うん、これならぼくも」ってな感じ。

そうですね。印象としては、カトは話していても、信者かどうかわからない人が多いように思います。

こういう率直な「印象と感想」こそ軽視できないことだと思います。

なんせ、買い物と同じで、まず手にとってもらわなけりゃ、始まりませんから。

> 子供もお宮参り、七五三、成人式と。

> 私はこういったもろもろのすべてを捨てられませんでした。

わたしはまったく捨てる必要がないと思います。

むしろ「日常行事に食い込む」んじゃなくて、「どんどん取り込んでいっていずれキリスト教化」してしまえばいいんじゃないかなんて、野心もあったりします。。。ぷぷ。

> その覚悟もないのに洗礼は受けられない、と思ってしまいました。

そこなんですよね。こういう外形のところで狭き門をつくっちゃうキリスト教の問題!

ぼくには、お線香上げたから、仏壇に向かったから、お宮参りしたから、って「おまえは、罪を犯したな~、裁きを受けろ!」なんて言うイエス様とは夢思えません。

むしろ未信者の人たちの心情を大切にしたね、ってほめられるんじゃないのかな?

だから、うちの姉貴なんかみてると、立派だなーって思います。

だから未信者の父母は、すっかりキリスト教の見方が変わりました。

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宗教の真偽  

蛇足ながら、あるシスターが、本当の宗教と偽物を判断するのは簡単だ、と言っていた条件を示します。

1.金をせびる宗教

2.恐怖心を煽る宗教

この二つ、心得てれば、おかしな宗教団体には引っかからない、ってんですねー。

うまいこと言うなーって思いました。

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求道詩歌誌「余白の風」

南無アッバの集い&平田講座

最後の南無アッバミサ

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