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カテゴリー「キリスト教の難しさと問題」の記事一覧

「終末」論や「裁き」  

*実際、カトリック教会では「終末」論や「裁き」を強調することはほとんどありません。

私も求道者に聞かれたとき、そういう話はいっさいしません。

「でも聖書に書いてあるではないか」といわれればそうです。

しかしすでに今私たちが手にしている聖書は、せいぜい5世紀くらいまで、侃々諤々人間的・政治的な議論を重ねてやっと編集されたものですから、そこには人間的な作為や駆け引きなども当然反映されていると見ています。

ですから聖書を読むときは、わたしは「ここにこう書いてあるから」といって、聖句をすぐ普遍化することは危険だと考えます。

むしろ、「なんでこう表現したのだろうか?」と、著者の意図・編集意図を探って解釈します。

こういうのは現代聖書学ではあたりまえだと思っていますが、まあそういう作業自体「不謹慎、神のお言葉を何と心得る!」てお叱りになる方も多いです。



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イエスは救われた。だからわれわれも救われる  

*私見ですが、キリスト教における終末論や裁き、それから復活論なんかも多く、後期ユダヤ教のメシア待望思想にかなり影響されていると思われます。

復活などは周辺異教の影響なども見られる、といわれています。

つまり今ひとくくりにキリスト教といっても、それだけで成立したのではないということですね。

で、じゃ、一番原初的なキリスト信仰とは何か、といいますと、私はカールラーナーという神学者が言っていることではないかと思っています。要約すると、

「ただ単純素朴に、〝われわれは救われた。なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ、このことによって神が御自分の意志を、歴史の上で現実的に、撤回不可能な形で世界的に実在させたからである」ということです。

つまり、「イエスは救われた。
だから同じ人間のおれたちも救われる」
これだけなんです。

あとは全部当時の宗教観念から導き出された「解釈」、「表現方法」でしかない。

したがって、それはユダヤ人思考ではそうであっても、時代や文化が変われば変更可能だ、ということだと思います。

私がキリスト信仰や聖書解釈の多様性を主張するのは、こんなところが根拠になっています。



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口語訳か新改訳か  

*新改訳をよく使っている保守福音派の人たちが、ここで井上神学批判をしていましたが、実はその井上神父は、ず~っと「新改訳」使ってましたよー。

ってホローになってないか。(笑)

同じ聖書使っていても、ものすごく受け取り方に幅がある、ってことがこれだけでもわかります。

(おまけ)ぼくが最初に通っていたプロテスタント教会の牧師さんに「どの聖書がいいんですか?」って聞いたことがあるんです。

そしたら彼は「口語訳がいい。

新改訳はだめだ」って言うんですね。

私は「何でですか?新改訳の方が読みやすいんですけど・・・・」って反論したら、かれいわく「口語訳は日本聖書協会が決めたからだ!」なんて言ってました。

その教会へは、翌週から行かなくなりました。



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旧約より新約  

*意外と、よく浮かぶ御言葉って多くないのですねー。

僕の場合は、もうおわかりかと思いますが、旧約より新約、手紙類より福音書、言葉伝承より物語伝承でのイエス様の言葉が繰り返し浮かんできます。

やっぱり全聖書の言葉がフラットに大事、という風にはなりませんよ。

他でも書いたけど基本的には、イエス様の衣の「房」にでも触れるようなたった一つの御言葉を暖めているだけで、十分救いにあずかれるのだと、私は思っています。

そもそも原始教会では、イエスやパウロの言葉の一部分を繰り返し朗読して味わっていたんですよね。



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終末論を迫るのには、ついていけない  

*健やかさのバロメーターってのは、ぼくは昔は「もっと聖書が読みたい」とか「お祈りしたい」とか「ミサに今月は何回行った」とか、「人にどれだけ親切にした」っていうような、いわゆるクリスチャンらしさ、みたいなもので自分を量っていたような気がします。

でも今は、あなたの言葉をお借りすれば、「伸びやか」さみたいなもの、具体的には「気負いがない」こと、気持ちに「余裕があること」じゃないかと思います。

終末論や~再臨説(もっともカトリックではほとんど聞かないが)で、「さー、おまえどうすんだー!」みたいに迫る、迫られる、焦る、焦らせるのは、やっぱりついていけません。



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聖霊はいつでも  

*聖霊はいつでもお働きなんだけど、

とくにここ一番、

ってなこと感じる時ってありますよね。

来たなーって感じ。


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現世利益  

*日本人が特別(現世)御利益主義だとも思えないのですが。。。。

「御利益」ってのは、現世でも後の世でも、
幸福に、安心していたい、
ってことじゃ、
どの国民も同じじゃないかなー??


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田舎司祭  

*うちの長男なんか見てると、もう教会にはめったに行かないのに、
夏休みにその神父の所へ言って、蕎麦かなんかおごってもらって、、、
で気がついたら神父の手伝いして帰ってきたーなんていうわけです。

この田舎司祭見てると、気負いのない宣教っていうのかなー、
無意識ににじみ出るもので、導いてるって思います。

(学歴も高くない貧しいフランスの片田舎出身の神父です)



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神父は毎朝ミサ  

*カトリック教会ではぼくの知る限り、神父一人のかなり小さい教会でも、平日開放している教会多いですよ。

これは教会や祈り、礼拝なんかに関する考え方の違いもあるんじゃないかなー。

つまり、原則神父は毎朝ミサをあげるんですね(会衆いなくても)。

それに信者はついでにあづかることができる。

それからプロテスタント以上に沈黙の祈りを重視している、ってことも関係あるんじゃないかな。



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科学と宗教  

*私は個人的には、科学と宗教の葛藤が、日本人の求道には大きな影響があるとはあまり思っていないのです。

たとえば、『マタイ』が典型ですが、まず処女懐胎がある、奇跡がある、たしかにどう受け取るか一つのハードルでしょう。

しかし、「求道心」を起こすときというのは、単純な場合なら、「もしイエスが神の子であればそのくらいのことはあってもおかしくない」そう思って通り過ぎることもできるんじゃないかと思うのです。

むしろ、日本人のつまずきは、その後に出てくる「山上の説教」に代表される厳しい倫理規定なのだと思います。

欧米人は彼らなりにそれを受けとめ、乗り越えたのでしょうが、日本人はこの倫理・道徳を持ち出されると非常に弱いんですね。

奇跡よりこちらの方がついていけない、と感じる人が多いのではないでしょうか。

これは深く突っ込めば、「罪と恥」の文化の違いなんてところまでいっちゃいそうですが。。。

もしあなたが指摘されたように、根本主義の問題が出てくるとすれば、そうした考えが現実の信者や求道者にリゴリズムを迫っていく場面で、ということなんじゃないかと思います。

もちろんそういう意味では、昔のゴリゴリのカトリックもつまずきであったわけです。

つまり聖書解釈や教義より、まず、表面に出てきた教会や印象が、日本人の現実主義的感性にどうマッチするか、ってなことなのだと思います。



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