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カテゴリー「『わが師イエスの生涯』」の記事一覧

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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全幅の信頼ゆえ-第1章 師イエスの故郷・ナザレの村  

しかし生涯を師の弟子として生きることを決意して出家をし、師の心を追い求めてきた私としては、たとえ無謀であろうと、間違っていようと、なんとしても師の心を推しはかってみたいのである。(19頁)

井上神父は、かなり早い時期から、「イエスの生涯」をいつか書こうと決意していた。

それは、自分が「平々凡々たる人間」であっても、イエスを「師・先生」と仰ぎ、「弟子入り」を自認する「日本人」として、どうしても書きたい、書かなければならない、という止むにやまれぬ心があったからある。

神父の全著作、その他の活動は、この「日本人キリスト者」としての自覚に支えられている。

その過程で、ときに「無謀」や「間違い」も辞さないということは、既存のキリスト教からの批判も覚悟するということを推測させるが、その根底には、師イエスまたアッバへの全幅の信頼が読み取れる。
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イエス誕生物語の真実-第1章 師イエスの故郷・ナザレの村  

師イエスの生涯は、決して高みから私たちを見下ろしているといったようなものではなく、家畜小屋から十字架の上まで、私たちの苦悩と屈辱と孤独とを共に歩んでくださっている方なのだ。(17頁)

イエスの「誕生物語」が告げる「真実」を解釈した井上神父の言葉。
ここではとくに、「ルカによる福音書」を中心に語っている。

一般に「家畜小屋」での誕生は、「貧しさ」の象徴として語られることが多いが、神父の場合はむしろ、「苦痛・屈辱・孤独」の象徴として、またそれらマイナス要素を私たちと「共に歩む」イエスという、二つの点を重視していることに、現代的に大きな意味がある。

なぜなら、飽食の時代にあっても、いな、それだからこそ、様々な苦痛・屈辱・孤独を日常のあらゆる場面で感じざるを得ないのが、私たちの現実だからである。

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史実よりも真実-第1章 師イエスの故郷・ナザレの村  

いまこの深層意識的原体験の事実を「真実」という言葉で表現してみれば、物語は歴史的事実を伝えていないかもしれないが、しかしその奥には深い真実が秘められているのである。(15頁)

井上神父の福音書解釈の姿勢を端的に表した言葉。
「イエスの誕生物語」を史実として文字通り受け取る必要はない(14頁)という点では、いわゆる逐語霊感説や原理主義とは一線を画す。

むしろ「物語」に隠された「深層意識的原体験」を重視し、それを「噛み締め、どこまでも追体験していく」ことで「真実」をとらえることを重視する。

ユング派深層心理学者・河合隼雄、また遠藤周作の発想に類比できる。

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第6章 ユダヤ教指導者層たちとの対決  

パレスチナの雨期乾期の特徴描写から安息日論争解説へ 101

引用:申命記23,出エジプト34,5、ヨベル50、安息日遵守の厳しさ。

禁止事項39を守れないための神罰の恐怖 103

●イエスはなぜ旧約を引用したか
イエスにとっては、旧約引用による弁護は不要だったが、旧約に洗脳されていた人々に安心・信頼を与えるために、ファリサイ派以上の知識による彼らの主張の否定を示す必要があった。104

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第五章 ガリラヤの春・「旧約律法」の重圧からの民衆の解放  

●カナの婚礼の「真実」

この物語(『ヨハネによる福音書2章「カナの婚礼」)によって示されている真実は、アッバのあたたかなまなざしのもとで、禁酒、断食といった禁欲的な生活につらぬかれている洗礼者ヨハネ教団の生活と旧約の精神を打ち破って、にこやかに、おおらかに、そしてあかるく、酒宴というささやかな庶民の楽しみを大切になさった師のお姿を告げることにあったのだと思われる。(84頁)

一般的な解説では、このペリコーぺの主眼は、ユダヤ教を象徴している水が、イエスによって変えられ、更新、凌駕され、イエスの贖罪を通して、ユダヤ教とキリスト教が連続線上にありながら、他方において後者が前者を超克し、全く新しいものとして、人々に永遠の命を与える・・・・(『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』等参照.というところにあるとする。

井上神学は、ユダヤ教とキリスト教の「連続」性については消極的なことは、これまで見てきたとおりだが、前者の「超克」については上記ような解説と一致する。

しかしここでは、井上神父の「主眼」は、そうした神学的解釈にはない。

むしろ、端的に、「大飯ぐらいの呑兵衛」と悪口を言われても(ルカ7:34)酒宴を共にし、「庶民の楽しみ」に共感するイエスのまなざしが、強調されているのである。


●イエスの第一声の意味

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(『マルコによる福音書』1章15節)
 この第一声で師はガリラヤ伝道を始められたと、『マルコによる福音書』は伝えている。・・・・この福音という言葉を使って、福音書の記者たちは、アッバを告げる師イエスに出会えた限りない喜びを表現しようとしたわけなのである。
(86頁)

 この第一声からして、旧約の父性原理の強い神ではなく、母性的な「アッバ」への信頼を説くイエスの最初の言葉と、井上神父は理解する。

すなわち、「時は満ち、神の国は近づいた。」を、「いまや、私たちをアッバがしっかりと御自分のまなざしのうちに包容しはじめてくださったのだ」と解する。

ここでは、「神の国(バシレイア=支配)」を「アッバの神のまなざしの包容」と訳す。

「悔い改め」も、洗礼者ヨハネの文脈での「禁欲的・苦行的な生活への回心」ではなく、「腕の中の赤子がアッバに向ける全幅の信頼のまなざし」と解す。

その上で、「福音を信じる」とは、「このあたたかなアッバのゆるしのまなざしに信頼し、そのもとで、おおらかに、自由に、のびのびと生きていく」ことに他ならない、とする。

 ここでも、「罪の悔い改め」といった、既存のキリスト教がとる表現は見当たらず、アッバへの全幅の信頼が強調されていることに注目したい。


●福音を信じるとは南無アッバ

私たち日本人に親しい「南無」という言葉は、もともとはサンスクリット語では「帰命」とか「帰依」とか「信従」とかを意味する言葉だと言われているので、「福音を信じる」ということは、日本流にくだいて意ってしまえば、「南無アッバを生きる」ということになるのではなかろうか。(87頁)

前節の「福音」解説をへて、井上神父はこのように結論する。神父には、「悲愛」や「おみ風様」など、日本人が親しめるユニークな造語が数々あるが、そのなかでも「南無アッバ」は、最も端的に井上神学の精髄を表現した言葉であろう。

もともとサンスクリット語の「南無」は、すでに日本人には定着した「親しい」ものと考えるが、井上神父は、この「南無アッバ」を初めて聞くと、多くの人が奇異に感じるだろうことは承知している(06年NHK「心の時代」での発言など)。

それは、「南無」が仏教を直感させることで、カトリックの神父がその用語を使う、ということの違和感(あるキリスト者にとっては警戒感も)、そしてイエスが「アッバ」を使ったことの意味が、まだ一般には理解されていないことが大きな理由だろう。

私は正直、この「南無アッバ」の定着には長い時間がかかると思う。しかし、実際、井上神父にならって、ことあるごとに「南無アッバ、南無アッバ」とやっていると、不思議と心の落ち着き、軽みを感じることが多い。

直接的には、「namuabba」は、「ア」音を多く含むことから、解放感を誘い、「アッバ」に向かって開かれた心を準備する効果がある。


●想像力で読む

師や弟子たちと一緒に食べたり飲んだりしている彼らの歓声がおそらくは道にまできこえていたことであったろう。(91頁)

イエス時代、「罪人」の代表のように毛嫌いされていた「徴税人」レビが、イエスを迎え、友人や娼婦たちも集めて、食事をしていた(『マルコによる福音書』2章15節)ときの様子を、井上神父はこのように想像する。

福音書には「歓声が道まできこえた」とは、直接書かれてはいない。しかし、こうした「想像」は、神父の「創作」ではなく、史的にも無理なものではない。

何気なく書かれたこうした想像力による解説が、福音書の世界を生き生きと甦らせ、わたしたちに身近なものにさせる。

古典である福音書をどう読むかが示唆されている、典型的な例である。


●旧約と無関係に

師の言葉は、そんな『旧約聖書』の引用などなしの、そのものずばりの強い宣言であったことは間違いあるまい。(93頁)

罪人といっしょに食事をする――ということは、律法を破って彼らの仲間になることを意味する――イエスの行動を見たファリサイ派の非難に対して、イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(『マルコによる福音書』2章17節)と宣言する。

しかし、この言葉にマタイグループは、ユダヤ人向けに旧約の『ホセア書』の言葉、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(6章6節)を「付加し」「解釈し」ている。これは、すでに学問的通説である。

が、「旧約の神ヤーウェの顔にとって代わる、アッバと呼びかけることのできる神の顔」(p.93)を新約に見る井上神学にとって、この言葉を、旧約と無関係に「そのものずばりの強い宣言」と改めて受けとることは、大きな意味をもっている。


●回心に導いた「たとえ」

このたとえ話には、師イエスが何をもっとも大切にされたかが実によく言いあらわされていると言わざるをえない。これは師にとって、旧約の神ヤーウェの顔にとって代わる、アッバと呼びかけることのできる神の顔の高らかな宣言に他ならなかったのである。(93頁)

「このたとえ話」とは、『ルカによる福音書』18章の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」。
井上神父は、福音書のなかで最も大切なイエスの教えとは、ここ18章と、同じ『ルカによる福音書』の10章だという。

実際神父自身の宗教体験として、

「私自身信者になってから数年間というものは、自分ではイエスの教えを生きようとしているつもりで、実はパリサイ派の姿勢に近づいてしまっていることに全く気づかなかったのでした。フランスのリヨンの町の灯りがきれいに見おろせるフルビエールの丘の修道院の一室で、ある夜読んだ次の『新約聖書』の一節が、私にそれまでの生き方の間違いを教えてくれたのでした。」(『私の中のキリスト』序章p.22)

と告白し、この「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」を引用している。神父の真の回心を導いた重要な箇所である。


●十字架の理由

師とユダヤ教指導者層との対立は決定的なものとならざるをえない。しかし師は死刑になることを覚悟しても、庶民を律法の重みと恐怖と不安から解放するため、一歩も後にひこうとはなさらなかったのである。(94-95頁)

本書中盤で早くも、明確にイエスの十字架刑の理由が述べられる。掟より悲愛を第一とするイエスのまなざしは、そのままアッバのまなざしと100%同じものであった。

アッバがそのような方であったから、そのままイエスも同じように生きた。その行き着く先に、十字架刑があった、という史的理由を明確に述べているのである。

従来の日本のキリスト教が、この歴史性に十分に言及せず、即パウロ的な十字架のキリスト教的意味――人類の罪を贖う-贖罪死ばかりを強調してきたことが、日本人の感性につまずきを与えたと言える。

この点でも井上神学は、日本人にわかりやすり論を展開している。


●エゴイズムにまみれても

〝・・・・神はアッバと呼べる方で、もしもあなたたちが我欲、我執に溺れて人生の道を誤って苦しんでいたとしても、決して自業自得だ、罰を受けるのは当然だなどとはおっしゃらず、羊飼いが羊を肩に担って帰るようにどこまでも探し求め、喜んであなたを抱きしめて、御自分であなたの人生を歩んでくださるだろう。

だから安心して、南無の心でアッバにすべてをお任せして福音のよろこびのうちにお生きなさい。〟師(イエス)はそう人々におっしゃりたかったのにちがいない。
(100頁)


「ガリラヤの春・「旧約聖書」の重圧からの民衆の解放」と題する本章の締めくくりの言葉。

「迷った一匹の羊をどこまでも探し求める羊飼いのたとえ」(『ルカによる福音書』15章4-7節)、「放蕩息子のたとえ話」(同15章11-31節)などを引用、解説しながら、神は自ら、無条件に、罪人に「ゆるしと悲愛」を示され、人生の同伴者となってくださる--「アッバ(おとうちゃん)」と呼べる方であることを、強調している。

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講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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