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カテゴリー「福音と自由律」の記事一覧

歩く  

  不信の時代夥しき匿名闊歩する   平田 栄一

 毒物・薬物、インターネットに係わる匿名の犯罪が横行している。隣人も誰も信じることができない不信の時代。

――二千年前、イエスは迷い出た小羊の群れのような群衆を憐れみ、一人ひとりを呼び出し、手で触れ、祈り、癒した。そのとき、匿名の人は確かに名前を持ったかけがえのない一人の人間となった。

イエスは言う、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19.10)

 愛とは、信頼と希望にもとづく具体的な行為を促すものであり、一人ひとりに向うものである。

反対に、不信が募る時代ほど匿名が闊歩し、人間を十把一絡げに扱おうとする。


category: 福音と自由律

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飲む  

  復活の朝十二使徒コーラ一気飲み  平田 栄一

 二千年前の「十二使徒」が、あの「コーラ」を「一気飲み」するわけはないはずで、ずいぶんふざけた句だとお思いの向きもあるかもしれない。

 しかし、「復活」をはじめ、十字架やその他福音書に書かれたことを、すでに終わってしまったこととしてはキリスト教は考えない。

先日亡くなったマザー・テレサも、現存する貧しい人たちの中にイエス自身を見ていたし、毎日世界中でささげられるミサの聖体はパンの形をとったキリストの体なのである。

 いわば<聖霊の同時性>によって、過去・現在・未来の生者・死者は交わりに招かれている。


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thread: 雑記

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  神欲す抽象語の山堆く   平田 栄一

 聖書は不思議な書物である。繰り返し同じ箇所を読んでも、これほど読む度に感じることの違う本はない。一番新しい新共同訳より昭和三十年代の口語訳、さらに文語訳ではなおその感を強くする。なぜだろうか?

 翻訳というのはおもしろい。十種類ほどの異なった日本語訳の聖書を持っているが、新しい訳ほどたしかに日本語としてはこなれて読みやすく意味もわかりやすい。

だが、直訳調でぎこちなく、ときには誤植と見間違えるほど〝てにをは〟が引っ繰り返っているような古い訳が無性になつかしくなることがある。読むことと味わうこととの違いと言ったらよいだろうか。

滑らかな現代語に慣れている者は、直訳や文語ゆえの語句同士の衝撃力に新鮮な詩性を感じるのかもしれない。この辺りが私にとって〝現代俳句は口語で〟と簡単に割り切れない所以でもある。


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thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

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  祈る音にして火の音にしてかれえだ   木村月明花

 「(善悪の知識の木の実をアダムとイヴが食べた)その日、風の吹くころ、 主なる神が( エデンの)園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の 木の間に隠れると・・・・」(創世記3.8)。

旧約聖書において、人間がはじめて罪を犯し(原罪)、 神を恐れるようになっていく象徴的表現である。

 「音」との関連で「聞く」ことについて言うと、日本では「百聞は一見に如かず」というが、ユダヤの伝統はその逆である。五感のうち、「聞く」 ことが最も大切で信頼に足ることと され、「見る」ことは最もあてにならないこととして軽視される。

手元の簡易コンコルダンスでも、「見る」約二十項目に対して、「聞く」は五十項目に上る。「イスラエルよ聞け・・・・」「しもべは聞 きます・・・・」という表現が繰り返される。

 掲句、枯れ枝がパチパチ燃える音 に祈りを聞いた作者の感性の鋭敏さに憧れる。


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thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

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  火が燃えようとするロゴスを求めようとする   橋本 健三

 ロゴスを求めようとする火はどのように燃えるのか?

 「ロゴス」と言えば、ヨハネ福音書の冒頭「初めに言ロゴスありき」が有名である。もと もとロゴ スとはギリシア哲学で宇宙原理・法則を意味する一般名詞であったものを、福 音書記者ヨハネは「イエス・キリスト」という固有名詞として解釈していった。

「言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1.1~5)言→命→光。

しかし「暗闇は光を理解せず、」「世は言を認めなかった。」(1.10)そのイエスは聖霊と「火」で洗礼を授けるという(マタイ3.11)。火は聖書的に清めを意味する。

 掲句、イエスの主体復権とも、人間の本性からなる求ロゴス性ともとれる。ルオーの絵で知られるエマオの旅人は、それと知らずイエスに出会ったとき、心が「燃え」たという(ルカ24.32)。


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  水がめの水あしたこそは酒になろう   平田 栄一

 新約聖書をご存じの向きならすぐおわかりのことと思う。ヨハネ福音書において、イエスが初めて奇跡を行ったという「カナの婚礼」からの発想である。

 「土」が弱さをもった人間性の象徴であるとすれば、「水」は弱さからくる人間の罪を清め、喜びをもたらすものの象徴と言える。

 とかく「山上の垂訓」(マタイ5章以下)に代表される峻厳なイメージを持たれがちなイエスだ が、母マリアや弟子たちと共に喜ばしい婚礼に招かれたイエスが、終始しかめ面をしていたとは思えない。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた『水』が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7.37,38)とのイエスの言葉も、「祭りが最も盛大に祝われた」日に語られている。


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thread: 信仰・希望・愛

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  土に影おけば癒えてゐるやうな   海藤 抱壺

 聖書思想において、「土」は独特・重要な概念である。

 旧約ではまず創世記に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(二章七節)とある。

 新約においても、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。・・・・偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(コリントⅡ4:7)などの記述があり、人間は土のようにもろいが<同時に神の偉大さを映す者であることが随所に語られている。パスカルの「考える葦」にも通じる。

 熱心に聖書を読んでいた抱壺であれば、己が病身の影を土に見たとき、そうした「土」のもつ聖書独特のイメージを想起したにちがいない。それは「土」からつくられたばかりの、つまり原罪前の無垢な人間の本来性を回復したい(癒える)という祈りへとつながるのである。


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thread: 聖書・キリスト教

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  歩いている雲走っている雲そして止まっている雲  芹田 鳳車

 「見よ。わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。」(出エジプト記19・9)

 聖書の世界では、雲は神出現のしるしと考えられている。ちなみにコンコルダンスでその雲の様子を調べてみると、「濃い雲」「厚い雲」「雲の柱」「天の雲」「輝く雲」「白い雲」など、雄大さ・明瞭性が強調されている。

掲句の「雲」のダイナミズムは、そうしたユダヤ一神教的超然性からキリスト教的人格神――地上に降りて人々とともに喜び、悲しみ、友として歩む神を思わせる。

 「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。』という声が雲の中から聞こえた。」(マタイ福音書17・5)


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thread: 言霊(格言・名言・自分の考え)

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風--聖書で読む自由律  

  風 この身いただいたものばかり   平田 栄一

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネによる福音書)

 「風」はベブライ語で「ルーアッハ」、ギリシア語では「プネウマ」で、どちらも「息」や「霊」と同語である。見えない風が吹くとき木が動く。神の息吹が我々の中を吹き抜けるとき、その自由な活動を圧し止めることはできない。

 我々はただこの一日を押し戴くばかりである。


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反芻する--ロゴスを味わう(4)  

『マルコ』六章には、五つのパンと二匹の魚をイエスの奇跡によって五千人に分け与えたという話がある。

また八章には、七つのパンと少しの魚を四千人に分け与えたという話もある。

現代人はここからどんなメッセージを受け取るだろうか。
わたしは「分配」という点に着目する。それは、物質的にも精神的にもより多くのものを獲得することイコール幸福という図式を描いているわたしたちへの警告である。金も権力もあればあるほど次の欲望を生む。

もっと欲しくなる。そうした自我の飽くなき欲望に翻弄されること、それが「地獄」であろう。金や地位や権力に限らず自分の才能や時間を含めてあらゆる持ち物は、むしろ自他のために使い切ることによって生きてくる。わたしたち一人ひとりが持っている(この世に生きる間、神から貸し与えられている)個性的な持ち物を使い切るならば、心からの満足が得られる。

そのとき今まで思ってもみなかったようなことが起こるというのだ。その使い方の方向性を示すキーワードが「神の国」(「天国」とか「神の支配」と同義)である。

時は満ちて、神の支配が近づいている。心を開いて、そのよきおとずれに耳を澄ませなさい。(マルコ一・一五 私訳)

 イエスの言葉は、わたしたちが常識的に考えている慈善とか清貧とか品行方正といった道徳のすすめではない。また死後や遠い未来のことでもない。何かもっとしなやかな生き方の可能性があることを指し示しているように思われる。

今は『マルコ』を中心とした福音書を繰り返し味わうことにより、イエスが言葉と行いをもって指し示した「神の国」のイメージをなんとかつかもうともがいている。

 最初は堅くて苦いと思っていた神の言葉が少しずつ食べやすいものになってきている。


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thread: 言霊(格言・名言・自分の考え)

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