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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問合せ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第233号 2018年7月発行  

以下はブログ版です。

*紙媒体の実物は↖サイドバーをご参照ください。

俳句や短歌をつくりながら、

「南無アッバ」の心を養いましょう。


会員作品とエッセイ

*選評

高知・赤松久子

四万十は四十一度かき氷

世の終り示すが如き猛暑の日

連日の猛暑や青き星なれど

熱中症知らぬ球児の生命力(いのち)かな

弟より「長生きして」と桃届く

*局地的な集中豪雨があちこちにあって、

たくさんの方々がなくなっています。

「猛暑」に熱中症で倒れる方も。

日本人の自然観は、

やさしさだけではない厳しさも十分承知の上で、

しかし本質を母性に見ているように思います。


豊田・佐藤淡丘

葉桜の影重くして池に垂れ

ひれ伏して祈りのあとの木下闇

山法師山高帽の宣教師

山桃の樹に攀じて観る碧き海

峡の池一と声籠る牛蛙

エジソンという、今から百五十年前の発明家に、

たった一つ言葉の発明があるとされる。

それは「ハロー!」(Hello!)というデンワの呼びかけ音だそうです。

日本語で言う「もしもし」ですね。

私も今信仰の発信音「南無アッバ」を覚えました。

神への語りかけに手軽で一番身近な発信音だと思っています。

 南無アッバ・南無アッバ と。

*信仰の「発信音」としての「南無アッバ」ですね。

井上神父は、「南無アッバのお守り札」について、

それを「しっかりにぎっていれば、

必ず南無アッバのメールは、

アッバのもとに届いている」と述べています

(選集5、36頁)。


名古屋・片岡惇子

み心のマニラに発つや青嵐

青嵐人通り過ぎ主のみ立つ

夏光る雲海飛行主の栄光

雷雲や抱きつく子らに主の涙

神の手を払ひて落ちる柿の花

多くの人に背を押され、支えによって、

またフィリピンの路上の子どもたちに会って来ました。

彼らが人間らしい命を与えられ、

希望を持って教育を受ける機会が与えられますように!

*イエスは言われました、

「子供たちをわたしのところに来させなさい。」

(マルコ10・14)

「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

(同・16)

フィリピンの子供たち、

そして片岡さんと共にいますイエス。


大阪・島一木

諸聖人の連祷つづく鳥曇り

復活や柱の陰にひざまづく

ひざまづき祈れる人のおぼろかな

*最近は、教会でひざまずく人が少なくなりました。

どういう形であれ、「祈りの身体性」ということは、

けっして軽視できないことだ思います。


昭島・新堀邦司

ミサ告げる鐘高らかに花明り

狩り暮れて桜月夜となりにけり
  幼子は
縫ひぐるみのうさぎと遊び復活祭

もう一度声を聞かせよ遠郭公

孫とゐてほどよく疲れこどもの日

*⑤これは不思議なものです。

私も孫をもってよくわかりました。

孫は子よりかわいいといいますが、

子育ての時のような気負いがないからでしょうか、

いっしょになって遊び、まさに「ほどよく疲れ」るものですね。


東京・山口佐喜子

花を待ち花を惜しみて老いにけり

花ミモザ子は原発の無き国に

*①「花のいのちは短くて・・・」の名言を想起させます。

人が幸福を感じるのはほんのつかの間。

しかし、この詩は、こう続きます、

「苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり」。


東京・小熊坂満邦

兜太逝く秩父音頭に春惜しむ

初ミサの白き祭服夏兆す

*①若い頃、金子兜太さんからお手紙を頂いて、

パワーをもらったことを思い出します。

②司祭志願者の減少が問題になっています。

井上神父の「在世間キリスト者」という発想も、

このことと無関係ではないでしょう。


練馬・魚住るみ子

陽光と拡大鏡にも文字おぼろ

観梅や堤内めぐる老二人

百歳へ向ふ歩みや梅見かな

*どの人も初めての齢を生きています。

一歳は一回しかないし、

百歳も一回しかない。

この当たり前の事実が、

人生というものをかけがえのない実存にしています。


『アッバを呼ぶ』自句補注  蓮田・平田栄一

晩鐘のように母の小言を聞く

永遠(とわ)なれば待つこともなし冬の窓

花愛(め)でる心は捨てず捨聖

犬の目にうつばりはなし秋の空

十字架の横木に休む目白かな

*①パスカル『パンセ』のパロディとも。

②時間の感覚の不思議。

③井上神父は一遍さんが大好きでした。

④マタイ七章。

⑤十字架の逆説。


〇『求道俳句集 アッバを呼ぶ

(平田栄一著、A5版、一八六頁、定価一、〇〇〇円、〒一八〇円)

抜粋集『余白の風』

(A4版、二一四頁、定価一、五〇〇円、〒三六〇円)

本誌第一三六号(二〇〇七年)~第二三二号(二〇一八年)まで、

十一年間の会報を一冊にまとめました。

在庫僅少! 

お早めにお求めください。

ご注文は、平田までご連絡ください。


要約・南無アッバの集い&平田講座

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

〇第51回(14-9-27)

前回はテキストp・55、

北森神学と井上アッバ神学について、

新しい項目<「痛み」と「悲愛」>という所に入りました。

北森氏には「共に」ということがない、

という石川耕一郎先生の指摘をめぐり、

そもそも救済論の出発点が、

佐古=罪、井上=苦ということと関係しているのではないか、

という視点で、

私の推論や、

その関連でデュルケームや青野神学に言及し、

プリント「「ために」ではなくて「ともに」のキリスト論」を紹介しました。

今日はその続きからです。

こういう「ともに」を強調する青野神学からは、

プロテスタントが個人主義だいう先入観が批判されましょう。

また、「ために」の救済論は後から考えた事後預言的なニュアンスがあって、

むしろ「ともに」を強調する方が、

日本人には受け入れやすいのではないでしょうか。

p・55B

<このことに関連していうと、

北森神学は「自分」の罪というところから出発して、

わがイエスの十字架、

わが神の痛み・・・という形で、

基本的に一人称単数で語られていく神学といえるでしょう。

それに対し井上神学は、

「私たち」の苦しみをmitleidenして(「共に」担って)ぞろぞろと愛で包んでいくイエス(先の佐古氏との対談)、

そして、裏切っていく弟子たちを包むイエスの痛みも弟子たちの哀しみも

「共に」包み込む御父の愛(右シンポジウムでの発言)・・・という形で、

二人称複数ないしは三人称複数で語られる神学であるといえます。

この井上神学の「共に」という考えは、

さらにわたしたち人間を含めた生きとし生けるもの、

自然をも抱き込んだ救いの確信へと広がっていきます。>

先にも触れましたが、

最近、Kさんという、井上神学を慕う哲学・神学者とメールなどで交流があるのですが、

その方が「風」96号や私の本などをていねいに読んでくださって、

北森神学について、

野呂芳男という立教の先生の論文を紹介してくださいました。

この方は、一九二五年生れでウェスレーなどを研究された方です。

この論文を読ませていただきましたが、

北森氏を慕いながらも、

その神学に馴染めない教え子としての葛藤がにじみ出ています。

(つづく)


〇南無アッバの集い&平田講座

(於・四谷ニコラバレ)

日時7/28(土)午後1時半~。

8/25(土)同、

9/22(土)同。


***「余白の風」入会案内***

どなたでも参加できます。

購読のみも可

*年六回奇数月発行

*年会費千円(送料共)

*採否主宰一任

(本会の趣旨にそって添削する場合があります。)

*締切=偶数月二十日

*お問合せ:余白メール

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求道俳句誌「余白の風」第232号 2018年5月発行  

以下はブログ版です。

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俳句や短歌をつくりながら、

「南無アッバ」の心を養いましょう。


会員作品とエッセイ *選評


昭島・新堀邦司

足元も手元も不如意春の雪

万物の目覚むる気配春立ちぬ

初ざくら祝婚の歌高らかに(次女 結婚)

春空へ比翼の鳥の旅立てり


*②春はこの世をつくられたアッバの有難さをことのほか感じさせていただける季節。

いろいろ難しい問題は絶えませんが、

根底に神のこの世に対する「しかり」があることを度々思い起こしましょう。


高知・赤松久子

早咲きの桜の許(もと)で別れけり

弟子の足洗ひ給ひし君偲ぶ

(ヨハネ一三)

春宵やナルドの香り部屋に満ち

(ヨハネ一二)

棕櫚の枝飾りて祈る南無アッバ

南無アッバ唱ふる朝(あした)イースター


*受難週から復活祭に至る典礼暦は、私たちの信仰生活にとって、

ことのほか重要な黙想の季節です。

人為自然を問わず、理不尽な艱難をどう捉え、どう乗り切るか、信仰の在処が問われます。


練馬・魚住るみ子

「幸福の王子」を読み終へ胸内にあふれくるもの静かに耐ふる

(オスカー・ワイルド、曽野綾子訳、建石修志画)

百歳へ向ふ歩みを支へゐる一日ひと日はアッバのたまもの


*②ご主人が十一月に百歳を迎えられる由、まことにおめでとうございます。

超高齢社会に向って、老後に何の不安もない、という人はいないでしょう。

信者かどうかを問わず、わたしたちは己が「信」の在処を問われています。
        

豊田・佐藤淡丘

飛花落花ひとりぼっちはさせません

ふじ垂れて厳父のごとき幹を持つ

背戸で聴く夏(なつ)鶯(うぐいす)の次の声

巣燕の黄色い声の横並び

波の跡貝殻ひらう春拾ふ


日の出の時刻が早くなり、「会神の丘」への切り通しも足元が明るくなり、

祈る場所を得た喜びに浸る毎日です。

ひとり跪き、マザー・テレサが教えて下さった祈りを唱えます。

「主よ、私はあなたを愛します。

お任せしています。

信じています。

そして今あなたが必要です」と。

そして最後に、手を広げ、大きな声で、南無アッバ・南無アッバ


*「神を愛するとは、神の掟を守ることです。

神の掟は難しいものではありません。」(一ヨハネ五・三)

「その掟とは、・・・・互いに愛し合うことです。」(同三・二四)それは、自我を

前面に出して頑張ることではありません。

井上神父から学んだ「信即行」。

それは第一に、神にお任せすること、すなわち「南無アッバ」。


名古屋・片岡惇子

白魚の何かを叫ぶ目の黒き

座骨痛賜はり日永四旬節

うすれゆく十字架包み花曇

神の在る胸をたたいて花おぼろ

花散らす摂理の中に立ちつくす

復活祭教会には誰もいない


*②③⑥人は様々に、それぞれの十字架を背負って生き、

そして死んで行く。

この厳粛な事実に目を逸らさず、しかし希望をもって生きていくことができます。

それは復活の光に照らされた十字架を仰ぐことによります。


大阪・島一木

宙に浮くたんぽぽの絮 聖歌あび

十字架の姿ちらつく四旬節

計らずも弥撒にあづかる天草忌

聖金曜ミサに遅れる「わたしである」


*④「わたしである」のカッコ書きが意味深長。

湖上を歩くイエスを見て驚く弟子たちに、主が「わたしだ。

恐れることはない。」(ヨハネ六・二〇)と言った場面、

あるいは、復活したイエスに出会った婦人たちに言った主の言葉

マタイ二八・一〇などを想起します。


東京・富山紗和子

八十四年の道を歩みきてキリストの生命の招きに生かされている

*長く生きれば、それだけご苦労もおありだったでしょう。

しかし、その苦楽のすべてが「キリストの生命の招きに」集約されていきます。

南無アッバ


東京・中庭栞

イザヤ書の苦しむ僕(しもべ)聖灰日

手術の日ミサ捧げらる四旬節

*各々に課される十字架は、自分から求めずとも、あちらさまから与えられます。

それはイエスに倣う限り、すべて復活の契機となります。


 『アッバを呼ぶ』自句補注  蓮田・平田栄一

月満ちるとき花は花を忘れて咲く

いつも遅れてくる青年昭和ゆく

神在(い)ます正造の聖書(ほん)と石三つ

満天の星降る海へ殉教す

三男祥吾われは神の羊なり


*①自我相対化への道。

②大江健三郎『遅れてきた青年』想起。

③田中正造の遺品とされる。

④『沈黙』想起。⑤愚息命名。


平田栄一著『求道俳句集 アッバを呼ぶ』


(A5版、一八六頁、定価一、〇〇〇円、〒一八〇円)ご注文は、平田までご連絡ください。

要約・南無アッバの集い平田講座

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)


〇第五〇回(続)

どういうことかというと、苦しみなら、

たとえば不慮の事故や自然災害など本人の責にならないものがあるから、

それを共に担う=苦労を共にする(シンパシー、同情)、という発想が出やすいのですが、

個人の罪はどこか自業自得という発想が根底にあるためか、

容易には他人がどうこうできない、いっしょに担うことができない。

そういう罪は神の子だけが解決できる(贖罪)、という発想に行きやすいからではないでしょうか。

あるいは、「(私たちではない)私(個人)の罪」を

問題にするプロテスタンティズム的傾向かもしれません。

ちょっと脱線しますが、デュルケーム(1858~1917)というフランスの哲学者がいました。

社会学に貢献した人です。

この人は『自殺論』のなかで、人の幸福度を自殺率ではかる、という発想で、

統計数字をいろいろ出しながら、興味深いことを述べています。

デュルケームによれば、地理的にみると、農村よりも都市、

既婚者よりも未婚者の自殺率が高いなどといったように、

個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるとしています。

また、歴史的に見ると、興味深いのは、戦時中が最も自殺率が低い、というのです。


そして宗教的に見てみると、ユダヤ教徒よりもカトリック教徒、

カトリック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高いといいます。

それは「うちの宗教」という言葉に象徴されているように、

先祖からの集団意識の強い信仰の持ち方の方が、

「わたしの宗教」という個人的信仰の持ち方よりも孤立を回避できる、という考えのようです。


ただし、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の誤りが証明され、

デュルケームが指摘するほどに大きな違いがないことが明らかになっています。

したがって、宗教上の教義の違いが自殺率へ影響を与えるものではなく、

近代化によって集団・社会の結束度が弱まってきた結果として起こってきたものと考えられます。


ちなみに、青野神学から見ると、

「十字架」に「弱さ」「つまずき」「愚かさ」を見るパウロの「十字架の神学」では、

信じる者がイエスと「共に」(苦しむ)というのは、非常に重要な要素になっています。

(プリント「『ために』ではなくて『ともに』のキリスト論」参照】

(つづく)


〇南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)

日時5/26(土)午後1時半~。6/23(土)同、7/28(土)同。


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*ブログ「南無アッバを生きる。」に掲載します。

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求道俳句誌「余白の風」第231号 2018年3月発行   

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俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養いましょう。

会員作品とエッセイ *選評

大阪・島一木
教会の塀の上ゆく春の猫
教会よりもらはれてゆく春の猫
初蝶やマリアをすぎてキリストへ
貝寄風や聖水入れのさざなみも

*④「貝寄風(かいよせ)」は、春の季語。冬の季節風のなごりに吹く西風。大阪住吉の浜辺に打ち寄せられた貝から造花を作り、聖徳太子をまつる聖霊会(しょうりょうえ)に献じた。

昭島・新堀邦司
軒下に薪を積み上げ冬支度
冬怒涛上げて若狭の海荒るる
ラッパ吹く士官老いたり社会鍋
婚礼の日取りきまるや千代の春

*③日本では山室軍平に始まる救世軍。「社会鍋」は年末の風景として冬の季語。行き交う人びとに寄付を求め、慈善行為を行う。

高知・赤松久子
十字架の下(もと)に小さなお雛さま
雛まつり珊瑚の指輪着けてみる
胃カメラの時刻迫りて南無アッバ
巡礼の思ひ出詰まる木の駱駝

*①おめでたい話と「十字架」というのは、信仰を離れてみれば、おかしいことなわけです。そこをキリスト信者として、一般の人にどう説明できるのか、問われています。

八王子・F・井上
四旬節いやしの秘跡につつまれて
コリントの愛示される四旬節
蝋涙の嵩復活の灯へつづく

*②Ⅰコリント一三章の「愛の讃歌」が、とくに身に沁みる季節です。その前章には、井上神父が度々触れた「キリストの体」論をパウロは記しています。他者を否定せず、己が使命を自覚して生きること。

  お年玉   練馬・魚住るみ子
お金にも興味の芽生えし一年生お年玉ははじめてのぽち袋
読書好む若者になれよかし曾祖母吾は願ひをこめて図書カード贈りぬ
  『風の道』
東北本線奥中山の大曲り鉄路は左へ九十度孤を描く

*②読書は著者との対話。ということは、その読書による実りの半分、責任の半分は読者にある。最近は大活字本やオーディオブックなど、高齢者に開かれた読書環境が整ってきました。
        
豊田・佐藤淡丘
骨の火をかざして寒林の人となる
霜柱断崖とみて刮(こそ)げをり
冬三日月指さし入れて切られたる
池平ら水尾一筋に残る鴨
薄氷の溶けゆく先の光かな

「桜守」のように、心から櫻を愛している人は、この時季北風に晒されて天空に揺れている蕾の枝先を殊の外いとおしむ傾向がある、と何かで読んだことがある。満開の花もいいけれど、四旬節にふさわしい耐えた美しさがそこにありました。南無アッバ・南無アッバ

*①「のっけから難問を突きつけてきた。彼は私に尋ねた。自分はいったい、何のために生きているのだろうか。人が生きる、その本当の目的は、何であるのか、それが知りたい。彼は真面目で真剣だった。私は自分の作品『骨の火』の主人公、漆山陽三がうつし身として蘇り、出現してきたような気がした。漆山より遥に純粋一途な人間が、私を詰問しにやってきた、と思った。」(森内俊雄「著者から読者へ」より)

名古屋・片岡惇子
毛糸編む一目の祈り積み重ね
マリア像の衣重くし雪の塵
至福かな主の呼びし日の冬菫
突き詰めれば過去未来も無し春うらら
うららかや命ほぐして主にまかす
天へ天へ花芽の枝の力瘤

*①心をこめて祈るように「一目」ずつ編んでいくとき、④「過去」も「未来」もなく、今だけの時間になる。いや、「時間」とは本来、「今」しかないのかもしれない。

新刊! 平田栄一著
『求道俳句集 アッバを呼ぶ』


神を呼び神を疎ましく生きている
不治の病人(ひと)見舞った日の妻強く抱く
不発弾眠る杜の蝉しぐれ

大きな活字で読みやすい!
初心以来三十年以上にわたって発表してきた求道俳句の中から、定型句を中心に三百余句を厳選して一冊にしました。
(A5版、一八六頁、定価一、〇〇〇円、〒一八〇円)
ご注文は、平田までご連絡ください。

要約・南無アッバの集い平田講座
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

〇第四九回(続)

さらにわたしは連載の方でも、パウロの「信仰義認論」は母性原理であると述べました。このことについては、すでに紹介しましたように、パウロ神学者である青野太潮先生もわたしの指摘に対して、「自分も母性的福音理解をしている」と言ってくださいました――イエスやパウロの、つまり新約聖書の神アッバは、「無条件・無制限にゆるす」神ということです。

また井上アッバ神学を「とくに『ヨハネ』的」としたのは、『ヨハネ』には律法遵守を前提とした贖罪論がないからです。「世の罪を取り除く神の小羊」(一・三〇)は、確かに贖罪論的な表現ですが、では贖われるべき「世の罪」とは何か、といえば、ヨハネでは諸々の律法違反による「複数形の罪」ではありません。その証拠に、共観福音書のような律法問答は『ヨハネ』ではまったく見当たりません。

大貫隆氏らの『受難の意味』(二〇〇六年)を参考にすると、原始キリスト教の「罪」には二種類あって、旧約の律法違反と、『ヨハネ』タイプの罪――イエスをキリストと認めないという意味での不信仰(一六・九)です。ですから『ヨハネ』では、この不信仰の「世の罪」を十字架に完成するイエスによる救いのわざが取り除く、となるわけです。ちなみに、青野氏によれば、パウロの罪分類は「複数形の律法違反」と「単数形の根源的倒錯」としての罪です。

〇第五〇回

前回まで、井上神父と直截の面識は無いけれども、井上アッバ神学に共鳴する神学者や神父の信仰を垣間見、テキスト五四頁から、北森神学対井上アッバ神学という形で、「パウロ的」か「福音書的」かということについて補足してみました。
今日は、次の項目に入ります。

p・55
■「痛み」と「悲愛」
さらに、このシンポジウムの最後のところでは、北森神学の「痛み」と井上神学の「悲愛」というキーワードが分析されています。どちらも仏教の「慈悲」あるいは「大悲」の「悲」という文字に着目したことは共通しています。ここから北森氏は、「悲」→「悲痛」→「痛み」というように発想したといいます。一方井上神父は、「悲」のなかに「共に苦しむ」という意味を見いだし、アガペーを「悲愛」と訳していったのです。石川氏は、「北森先生の『神の痛み』のなかに、『共に』という発想はない」といいます。

【図示】
慈悲→痛み:北森
  →共苦:井上→悲愛

北森さんの「神の痛み」に「共に」がないのは、これはわたしの推測ですが、佐古さんと井上神父との比較で述べたこと、すなわち救済論の出発点が、佐古=罪、井上=苦ということと関連しているように思います。(つづく)

南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)
日時3/24(土)午後1時半~。4/28(土)同、5/26(土)同。6/23(土)同


―「余白の風」入会案内―
どなたでも参加できます。購読のみも可 
*年六回奇数月発行 
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求道俳句誌「余白の風」第230号 2018年1月発行  

yohakunokaze 230.pdf
平田栄一新刊情報掲載=求道俳句集『アッバを呼ぶ』

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第229号 2017年11月発行  

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俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ *選評

豊田・佐藤淡丘
しぐれては背に負ふもの捨てにゆく
一山やたった一頭残る虫
独座して祈るしじまや虫の秋
天狼星伊勢湾跨ぎ冬来る
外にも出よ冬のオリオン宙を占む

*「風」誌、はじめてご購読くださった由、ありがとうございます。そちらの「アッバ讃句コーナー」も一六回を数えました。多くは「余白の風」から転載させていただいています。今後ともよろしくお願いいたします。

大阪・島一木
黒は白でなく/白は黒でない/ぼくの魂は/灰色を忘れがちだ
魂は 空虚であるほど/多くの殻を/被ろうとするのだ/人に知られることを/恐れて

*①白黒をつける、といいます。しかしだれも白一色、黒一色の人間はいないわけで、そこを忘れ、自分のことは棚上げにして、他人を批判してしまう。自戒。

京都・瀧野悦子
南無アッバ神父ソバ焼くバザーかな
秋の夜の凹んでをれぬ南無アッバ
コヘレトにアッバのこゑや南無アッバ
南無アッバ涙のあとの温め酒
南無アッバアッバに抱かれ日向ぼこ

*久しぶりのご出句ありがとうございます。⑤井上神父はよく、祈りをアッバの悲愛のなかでの「日向ぼこ」にたとえていました。万事頭で信仰を理解しようとしていた私は、このたとえに出会って、祈りの体験的な意味を知りました。

昭島・新堀邦司
星合の夜となりたるぞ帰り来よ
耐へるしか術なき今日の暑さかな
くひな笛吹きて芭蕉の旅想ふ
金糸雀の機嫌よき朝秋立ちぬ

*『春夏秋冬 猫うらら』(里文出版、九四頁、千八百円+税)ご上梓おめでとうございます。句と絵と解説、英訳、ローマ字により、一般の方にもなじみやすい御本です。以下、所収句より。
  猫も一緒に欠伸するか  種田山頭火
  猫の子がちよいと押へるおち葉哉 小林一茶
  恋猫に縁なき猫の寝息かな  平田栄一
  捨て猫に付きまとわれて明易し  〃
  
高知・赤松久子
三人の博士導く冬の星
ヘルパーのサンタは笑顔輝かせ
冬ぬくしロザリオ繰りて南無アッバ
毛衣に洗者ヨハネを思ひけり
地下水の如き祈りに生かさるる

*⑤「祈ると何かいいことがあるの?」と非信者の方から聞かれます。第一に、状況が変わらなくても祈る人が変えられる。第二に、祈りは相互作用、祈る者同士でつながる。まさに「地下水の如き祈り」に生かされます。

八王子・F・井上
ポストまで七草めでる風の道
雨の日は雨に洗われ南無アッバ
告知より唯ひたすらに南無アッバ
南無アッバおまかせします南無アッバ

*②③身につまされます。しかし、こうした「雨の日」が続いても、①身近な所で健気に生きる草花の気持ちを忘れず、共感できるしなやかさ。④まさに、「おまかせします」の南無アッバの祈りの効用です。

東京・中村昇平
うっすらと残雪残す伊吹山
芝生燃ゆ孫二年生の運動会

*孫は子よりかわいい、などと言いますが、若い世代がどんどん成長していけば、老いもパワーをもらえるのだと思います。

練馬・魚住るみ子
秋雨や針穴に糸入り難く
小さき悔いに責められ暮れぬこぼれ萩
風につれ鳴る風鈴のね音幼な日の縁側に坐す母とわれはや
  『風の道』           
山の辺に道にかあらむ万葉の跡を尋ぬる旅のうつしゑ写真

*②老いの日々に、すっかり忘れていた昔の傷や悔いが忽然と甦ることもありましょう。③また、自分が幼少の心に帰るのも一瞬。人の記憶や感情は不思議なものです。しかし、どんなときでも南無の祈りに戻れる幸い。

 名古屋・片岡惇子
ロザリオの繰る手に風秋桜
主の条理の不条理祈る大夕焼
稲穂垂る主の良しといふ声聞こゆ
子の笑顔吸い取って行く大夕焼
月光や深海知らず波照らす
秋深し聖書を祈りみ心問ふ

*②井上神父は、神は人間の理性にとっては「神聖なる無」であるといいます。ですからアッバの「条理」は人間には「不条理」に見えるかもしれない。しかし私たちは信仰によって、究極的な幸いにあずかれることを確信します。

蓮田・平田栄一
   今を生きることばⅡ
否定したい過去がある。しかしそれがどういう意味を持つようになるかは、無限の可能性がある。
   *
十字架即復活の保証により、吾らは、明るい相のもとに、すべての事象を見ることが許されている。
   *
いじける材料は、いくらでもある。やがて負のスパイラルに落ち込む。そこから抜け出す勇気は十字架。十字架が刻まれたコインの裏側は、復活に輝いている。


平田講座要約(第四八回)2014-6続

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
p・54B
次にそうした罪ないし苦しみの解決、救済論ということになると、北森神学では十字架を負ったイエスの痛みが父なる神の痛みに直結して、神の愛が語られていきます。それに対し井上神学では、イエスの痛みを父なる神がさらに包みこんで、抱き上げていくところに神の愛を見ています。つまり子と父(なる神)の愛という関係では、北森神学は直結構造を持っており、井上神学は包括構造を持っていると言っていいのではないかと思います。これを父なる神という点に絞ってみると、北森神学の〝痛む父〟に対して井上神学は〝慈しむ父〟が強調されていきます。


右のことを整理しますと、次のようになると思います。【板書】
<救済論の比較>
〇北森: イエス中心主義
イエスの痛み→神の痛み→神の愛(直結)
         ↓
        痛む父

〇井上:神中心主義(青野、パウロ)
イエスの痛み<包み込む神→神の愛(包括)
         ↓
        慈しむ父

「イエス中心主義」「神中心主義」ということは、本文には書かなかったのですが、のちに青野神学を学んでいくなかで、救済論におけるイエスの能動性という視点を持つようになり、便宜上ですが分類に使ってみました。北森神学は父子直結構造ですから、父がしたこと=子がしたことというニュアンスが強い。父が人間を救うために子を十字架にかけて・・・ということではあるのですが、痛みで直結していますから、一心同体的で、子が自ら進んで人間の罪のために、という意味合いが出てくる。子は能動的です。

それに対し、井上神学は十字架のヨハネの描いた、あの上から見た十字架像に象徴的なように、イエスはアッバの業を成し遂げる「場」となった、すなわち、父に対して子は受動的だということです。

同(第四九回)2014-7

前回まで、北森神学VS井上神学に関して、痛む父と慈しむ父を比較し、神学の出発点については、北森さんは、「わが罪」の解決から、井上神父は、「苦しみ」の解決から、また救済論の比較では、北森さんの「イエス中心主義」に対し、井上神父の「神中心主義」(青野:パウロも)ということを見ました。

南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)日時11/25(土)午後1時半~。12/23(土)同、1/27(土)同。

―「余白の風」入会案内―
どなたでも参加できます。購読のみも可*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日
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category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第228号 2017年9月発行  

以下はブログ版です。*紙媒体の実物は↖サイドバーをご参照ください。


俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ *選評
   
名古屋・片岡惇子
ヒロシマの叫びとどかぬ蝉時雨
長崎の平和願う鐘炎暑する
雷鳴や祈りの中に小さき者
夕立に洗われ透けるマリア像
被昇天のマリア涼しき風残し
蝸牛みんな悲しみ運んでる

*①②原爆の悲劇が忘れ去られているような国際関係が心配されます。③人間の無力とともに、アッバにゆだねる謙虚さをもつ「小さき者」⑥一人一人が自分の十字架を背負ってついてきなさい、と主はおっしゃる。

豊田・佐藤淡丘
裏山の奥よりはじむつくつくし
新涼や二の腕さすり語りあふ
鷺草の小さな決意みつけたり
睡蓮水の余白に映るもの
にいにいのこゑをつゝみてゆだちかな

わが裏山には「百段坂」(実際には九十六段)がある。毎朝これを、歩く、またぐ、昇って降りる。これらの動作は、よく考えれば全てが「片足立ち」が基本です。
よたよたしながら、その動作を意識することが、老化の防止、即ち「ウィズ・エイジング」だと自負しているところです。南無アッバ

*なるほど「アンチ――」ではなく「ウィズ・エイジング」なのですね。「片足立ち」――私もこの頃朝のウォーキングといくつかのエクササイズを決めて実行しています。お仲間入り、よろしく、南無アッバ。

大阪・島一木
群集の顔の数だけ咲く花火
通過する電車の窓も花火見る
花火見るとき鉄橋がいつも邪魔

*見ている花火がどのようなものであったかより、それを見ている一人ひとりの人生に想いを致します。悲喜こもごも、思い出のアルバムが作られる。

昭島・新堀邦司
国境に青き山脈聖五月
ロ短調ミサ曲を聴き聖五月
梅雨疎まし男にもあり更年期
父の日や父といふ字が小さく見ゆ
みどり児を抱く聖母や合歓の花

*③④ジェンダー問題が何となく女性中心に語られているような昨今、男性の更年期、イクメンのうつ病なども取り上げられつつあります。

高知・赤松久子
マグダレナ一人隠遁秋の山(聖人伝より)
ベランダに立てば吹く風秋の風
師のテープ胸熱くなり南無アッバ

 うらみ、ねたみなど、肯定はしない/しかし/自分でギーッと努力するのでなく/イエスの愛の前に立って/自分のきたなさをみとめて/お願いします――と/合掌するのです/と、神父さまはおっしゃった/南無アッバ

*井上神父さまのお話は、いつも現実に即していました。自分の罪深さを認めた上で、それを自力でなんとかするのでなく、重点が南無――お任せ、アッバにゆだねる、というところにかかっています。

八王子・F・井上
遠い日の感動が湧く槍穂高吉田画伯の気骨いまだに
庭の隅見知らぬ花が楚々とたつ天使が運ぶ慰めのたね
がたがたと早のキッチン動き出すアッバ、アッバとつぶやきながら
終活に逸る気持ちに釘をさす思い出という過去の化け物

*①「遠い日の感動」④「思い出という過去の化け物」過去は解釈によっていかようにも、今を生きる糧にもなり、また毒にもなります。

板橋・松風人
ウクレレや賛美の響き暑気とばす
みず求めつがい番と翔びする赤トンボ
我を呼ぶ炎暑に聳ゆ竜舌蘭
*松風人さん、ご入会ありがとうございます。本会「余白の風」は、詩歌の文学的な出来を第一に問うものではありません。「南無アッバ」の祈り心をごいっしょに養いましょう

蓮田・平田栄一
  今日の言葉               
自分で自分が納得できる物語が作れればいいんだと思う。
  *                     
「人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、再び出発点に戻ることによってのみ、何か新しいことを始める大きな力が与えられるのである。これを可能にするのはゆるしである。」(ハンナ・アーレント)
  *                     
「日本人は、少なくとも八月六日から十五日の十日間は、正気に返らなければならない。」(大岡昇平)

練馬・魚住るみ子
プネウマ聖霊とふおみ風さまにつつまれて安けくぞあるわれらなれこそ
暗門の滝に真向ひ水の風さんき山気の風を胸深く受く
一陣の吹き降す風白神の山々の上めぐりゆくなり
  『風の道』                
砂丘の上砂ずぶずぶとたどきなし奈落へ通ふと言ふにあらねど

*①宗教とは、受容の安らぎであると井上神父はおっしゃいました。②③その安らぎを最も身近に感じられるのが、自然への親近感でしょう。


平田講座要約(第四七回)2014-5続
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

ルカも教会の調和的傾向が強いので、『使徒行伝』など見ると、過激なパウロ主義を弱めようとする傾向があります。たとえば、エルサレム会議の調和的解決――一五・二〇=「使徒教令」の『レビ記』一七~一八章にもとづく四つの禁令は、『ガラテヤ書』二章では決議事項になっていません。貧しい人への配慮だけです(二・一〇)。「使徒教令」はアンチオキア事件(二・一一)以降に、ヘレニストとヘブライストの調和を望んで制定されたとするなど、ルカは彼のイスラエル――イエス――教会という直線的な救済史観にもとづいて、「使徒教令」を『使徒行伝』に入れることで、旧約イスラエルとキリスト教会の連続性を主張したかったのではないかと思われます。

またアレオパゴスの説教は失敗したかのような印象を与える(一七・三二~三三)のも、パウロ主義を弱める意図がうかがえます。
ただ、「無条件のゆるし」の福音は、イエスもパウロも一致していることは、特筆すべきことです。イエスに会ったことがないパウロがゆるしの福音の本質を見抜いたということになります。

同(四八回)2014-6
北森神学VS井上神学に関して、石川耕一郎さんと八二年一月に対談した井上神父が、直後(おそらく二月)に、サンドメルに出会って「目から鱗」状態になったという、その経緯を見てきました。

ポイントは、サンドメルの視座――新約聖書全般を「パウロの立場を中心課題として理解しようとするサンドメルの視座」――パウロ文書→新約の他文書という歴史的順番から、パウロ主義が、その賛否はともかく、すべての新約文書に大きな影響を与えていた、ということです。

<■痛む父と慈しむ父
p・53
こうして二つの神学を見た上で、比較のためあえて図式化してみると、次のようになるのではないでしょうか。
まず神学の出発点として、問題意識の持ち方が両者で異なっています。北森神学の問題意識は、わが罪の解決というところに重心が置かれているといってよいでしょう。それに対し井上神学ではまず、罪より苦しみの問題に関心が向けられています。この点では最初の佐古氏との比較と同様です。>

【板書】
<神学の出発点の比較>
北森、佐古:わが罪
井上:苦しみ
(復習p.26)

南無アッバの集い&平田講座(毎月)
於:四谷ニコラバレ、
日時9/23(土)13時半、
10/28(土)同、
11/25(土)同

―「余白の風」入会案内―
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求道俳句誌「余白の風」第227号 2017年7月発行   

俳句は祈り
yohakunokaze227.pdf
「南無アッバ」の心を養います。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第226号 2017年5月発行  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ *選評

八王子・F・井上
カタクリの祈るかたちに魅せられて
痛みまた恵みとなりし南無アッバ
十字架の道ありがたく有りがたく
過越していただく命南無アッバ
後なんぼ大切になる南無アッバ

*②③ご親族やご自身の病、老いを真摯に受け止める姿が清々しい。「十字架の道」はけっして滅びの道ではなく、再生の道、再会の道であることを、主は証明されました。

練馬・魚住るみ子
紅梅にぽつり二輪ひらき初め咲き盛りゆくくれなゐぞ濃き
雪山に消えしいのち生命よ南無アッバ アッバ アッバ祈るのみ南無
愛用の手さげ失せたり南無アッバいきさつなべて覚えずありぬ
  『風の道』
復活節の今宵を君の額づけるパドヴァなる聖アントニオ教会

*②若き貴重な命が失われた事故。ご本人たちの無念と親御さんの悲しみは測り知れない。①同時期、新しい命が同じ自然のなかで育まれている。

名古屋・片岡惇子
囀りや目覚めよと声近くなり
生き様に残るものなし雪解川
残雪や解けたる傷は主のこころ
あなたの他行く道なきや四旬節
生かされて草餅美味しミサの後
復活祭古き衣を脱ぎきれず

*②「復活とは、神の懐に蘇ることだから、そういう切り口で考えるならば、神様の記憶に残っているというほうが、たしかなものかもしれない。・・・私の生きた証しも神様の中に残るということだと思えます。」(井上洋治『我等なぜキリスト教徒になりし乎』)九七頁)

豊田・佐藤淡丘
山おろす花となりけり山桜
葉桜や風を呼ぶさへあどけなし
乾坤や花の一撃目が眩む
白れんや天の蝋燭消さず待つ
遠目にも手招く辺り若葉摘む

日の出の時刻がお正月の頃から比べると、一時間程早くなりました。「会神の丘」への切り通しも足の下から明るくなり、ひとり祈る秘密の場所。ここも折からの曙光に照らされ、身震るいするほどの「しじま」を与えて下さいます。五体投地の我に囀りが被さります。アッバ・アッバ・南無アッバ

*とてもよい季節になりました。②花が散った後の「葉桜」が「あどけなく」初々しく感じられます。寒い世情と裏腹の自然に慰められます。

大阪・島一木
春立ちぬ讃美の声の湧き立ちぬ
十字架はひかり鶯けきよと鳴く
教会の名もなき草として萌ゆる

*①「立ちぬ」のリフレインが、新しい年度への期待を膨らませます。②あの「十字架」がなぜ「ひかり」なのか、そこがキリスト信仰のミソです。③名は消えて仕事は残る春の暮 栄一

昭島・新堀邦司
身の内に恙ありけり春遅々と
春二番三番相模は風の国
鎌倉に花を咲かせて基吉忌
今日からは残る寒さと呼ばれけり

*①「恙ない」に越したことはないけれど、アッバの業は「恙ある」時、所にこそ顕著に働く、という信仰。「私は弱い時にこそ強い」(二コリ一二・一〇)

高知・赤松久子
気がつけばアッバの恵み風薫る
聖五月おみ風さまよおいでませ
ち小さき街囲む山々春霞
原発は狂気の沙汰よ春の月
黄砂去り青き山々甦へる

*①そう、私たちはつい「アッバの恵み」を忘れてしまう。そんなとき草花や「風」が気づかせてくれます。②「おみ風さま」に導かれた井上神父の「風の家」も、発足三十一年目となりました。南無アッバ

東京・富山紗和子
年重ね晴耕雨読の時を得て「ありがたきかな」の言葉もれくる
きさらぎの小さき庭に光みち寒咲花菜ふきのとうつむ

*①これまで一生懸命生きて来たからこそ「晴耕雨読」が「ありがたい」。

蓮田・平田栄一
十字架の果てにおみ風薫りけり  ヨハ一六

イエスの苦難の死を通して、わたしたちに注がれる神さまの息吹=聖霊を、井上神父は「おみ風さま」や「守導者」などと造語した。勧善懲悪の恐い神でなく、どこまでも赦す神アッバ。そのまなざしは、おみ風さまにより、時間と場所をこえてわたしたちに届く。


平田講座要約(第四六回)2014-3続
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

ご遺体と半日いっしょにいて――暖かな一日でした――帰途、わたしはバスで目白に出ず、目白坂をてくてく降りて江戸川橋まで歩きました。風景はかなり変わっていますが、三十年前のことが懐かしく思い出されました。

求道の一心で、あの坂を汗だくになりながら登って行った夏の暑い日。個人的に初めて井上神父に会ったのが、あのカトリックセンターでした。そこでひとしきり、神父の本を間にして、いま考えたらもったいないような個人レッスンを受けたのでした。

問答が終わると、たいていは神父の方から「ところであなた、今日これから予定は?」と聞いてくださり、二人で目白坂を居酒屋へ下りて行くのでした。

最後は苦しまずに逝ったらしいと、四年前に私の父が同じ時期三月六日に逝ったときと同じ思いで安心していたのですが、お葬式に行って、カテドラルの最前列で、直接町野さんから聞いた、井上神父の最期は実は、つらい話でした。こうおっしゃっていました。
三月七日(金)午前四時頃、神父は不調を訴え、かなり苦しそうだったので、町野さんが「救急車を呼びましょうか?」と聞いたそうです。すると「うん」と返事をした。

それから三つの病院を回ったが、どこも救急扱いで早く対処してくれた。しかし途中苦しがって――もうそのときは片手がマヒしていたらしい――手を振り回して、「アッバ、アッバ、アッバ」と、もがくように繰り返していたそうです。かなり苦しそうだったということです。

それを聞いて、勝手に「安らかに・・・」などと思い込んでいたことを申し訳なく思いました。
神父はだんだん弱っていく中で、ゲッセマネの祈りを繰り返していました。今日は、井上神父が作った「苦しみのなかでの祈り」をコピーしてきました。これは、具体的にある信者さんのために作った祈りだと、言っていました。

最後は、三食とも町野さんが食べさせ、二、三分おきにトイレに行かせ・・・といった状態だったそうです。町野さんも限界だったと思います。私は思わず、町野さんの小さな手を握って「大変だったでしょう、ありがとうございました」と言いました。
晩年の井上神父は、話のたびに、老いの厳しさを語っていましたよね。

ここに、自分のサイトからダウンロードしたCDを持て来ました。二〇一一年の「風の家」二十五周年と翌二〇一二年の二十六周年の井上神父様の講話です。

このなかで神父は、老いの厳しさを語りながらも、「アンマン空港で聞いた男の子のアッバ、アッバという叫びを、毎晩思い出しながら、ゲッセマネの祈りのように、アッバ、アッバ、と唱えています。アッバはこういう私たちの祈りを必ず聞き入れてくださっていると思います。それは、今すぐどうこうとは言えないかもしれませんが、人生の最後の完成――死ぬ時に、その人にだけ、アッバが手を広げてお迎えに来てくださるのだ、そう思っています。」と、近況を語っています。

「しかし、それが最後の時まで続けることができるのか、はなはだ自信がないので、ここにおいでくださっている皆様に、私が最後の時まで南無アッバとお祈りを唱えて、アッバのお迎えを受け入れることができるように、お祈りしていただきたいと、思います。よろしくお願いいたします。私も、皆様の上にアッバの安らぎがありますように、お祈りさせていただきます。」と結んでいます。(つづく)


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時5/27(土)13時半、6/24(土)同、7/22(土)同

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求道俳句誌「余白の風」第225号 2017年3月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ *選評

高知・赤松久子
人気(ひとけ)無き被災地に咲く桜花
薫風や君歩まれし南無の道
春の川グライダーの如き鳥一羽
川に落ち光つづける蛍かな
菜種梅雨憂さかかえつつ南無アッバ

*①東日本大震災から六年、多くの人たちの労苦が続きます。「主のわざに励みなさい。主にあっては、労苦は無駄になることはないからです」(一コリ一五・五八)

八王子・F・井上
右近列福 四百年を経て平和
如月の恵み右近に集う杖
剣捨てて右近クルスと共に在り

*高山右近の生き様は、自分にとって本当に大切なものは何か、ということを常に考えるように、というメッセージのように思えます。

練馬・魚住るみ子
残生を幾年と数ふあらたまの朝(あした)の陽光(ひかり)満ちわたりたる
吹雪くとふ北国の空や南無アッバ日差しを背(せな)に浴みて歩めり
車内の人大方スマホをなぞりゐる隣席スマホに小人が踊る

*「今年卒寿の私などが来し方を省みて、戦後の社会の変化につれ、孫の世代あたりから、やり甲斐のある仕事を持ち、家事、育児を両立させる健気な生活を、素晴らしい思っています」(第三回Y’s Wonderful Women賞、本人メッセージより)。「残生」といわず、今後ともご活躍を期待いたします。

 名古屋・片岡惇子
優しさが溶す氷の温かき
春浅しゆるゆる下る道遠し
色紙には梅と墨濃くありがとう
祈りかな花芽立つ枝天を指し
存在や足の先まで日向ぼこ
祈りつつ天に向かひつ春うらら

*⑤日向ぼっこをして、足の先まで温まったとき、ふと「存在」ということが意識された、というのです。生きてやがて死ぬということの不思議、有難さ。

豊田・佐藤淡丘
二月尽小鳥が地面を早走る
堰音や稚魚が群れをり水温む
魚跳ねて時の移りし春を待つ
懇ろに踏めば応へる残る雪
雲雀野はト調短調輝けり

「あゝ俳句ができない」。そんなとき、近くを流れる二級河川を北に向って歩くことにしています。〝なでしこジャパン〟の前監督、佐々木則夫さんの好きな禅の言葉、それは、「歩歩是道場」。正に是、俳句道場に使えると、このごろ思うようになりました。一歩前進、二歩後退(?)。続けようと思っています。南無アッバ、南無アッバ

*「歩歩是道場」いい言葉ですね。私も毎日が「求道」「学び舎」と思って過ごしています。なんでも自分を統べる言葉を見つけると、焦りから解放されるような気がします。

大阪・島一木
守りたまへ秋の別れの聖少女
教会の隅の無花果実のなるか
ミサ終はり晴れわたる空小鳥来よ
綿虫や両手ひろげるイエス像
足もとに枯れ葉のつもるマリア像

*④イエスは十字架の苦しみのなかで、両手を広げておられる。意味深長です。十字架はキリスト教の中心とかシンボルなどと言われますが、十字架をどう捉えるかがキリスト教の真髄なのではないか、と最近思っています。

昭島・新堀邦司
ニコライの鐘のすがしき波郷の忌
ゲゲゲ忌は妖怪晴れに冬ぬくし
背伸びして待降節の燭点す
「豪快」といふ酒を酌み忘年会
身につきし独り暮しや年用意

*⑤先日、井上神父の第三回命日祭がありましたが、参加された方が口々に、帰天三年が経っても、ますます神父が身近におられるように思う、と感想を述べていました。天の国の奥様との対話をお続けください。

蓮田・平田栄一
春の日をあまねく入れしガラス窓 

ヨハ一四。イエスは「ガラス窓」のような方。そういう透明な方だからこそ、アッバの暖かなまなざしをそのままわたしたちに注いでくださる。しかし完全に、アッバの息吹を注ぐためには、イエスというガラスはこわれなければ――十字架上に死ななければならなかった。


平田講座要約(第四六回)2014-3
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

井上洋治神父の三月十七日の通夜、十八日の告別式においでくださった方、ほんとうにありがとうございました。
今日は、第四十六回目の講座になりますが、こういう時でもありますので、講座内容に先立って、皆さんの井上神父との思い出や、エピソード、あるいはお会いしたことがない方でも、本やお聞きになったお話の感想など、自由に語り合い、分かち合いたいと思います。

講座内容の方は、お時間あれば、やっていきたいと思いますので、ご了承ください。
最初に、私のとりとめのない話からさせていただきます。
井上神父訃報のことですが、私が受けた一報は、三月九日(日)第一ミサ中、朝八時三〇分ころ携帯が震えて、折り返しかけた山根さんから受けた電話。発信が山根さんで、こんな早くかかってきたので、電話で話す前に、いよいよ来たんだな、と思いましたから、驚きはしなかった。

そのとき葬儀の日程は決まってなくて、でも「これからは、井上神父が天国から私たちを見守ってくれるんだね」という、妙な安心感を持ったのを覚えています。

虫の知らせというのではないでしょうが、ここ二ヶ月くらい、たぶん、三・一一から三年という感覚も手伝っていたと思うのですが、個人的にもいろいろ目まぐるしい出来事が重なっていまして、思いついたのが、『死ぬ瞬間』で有名なキューブラー・ロス博士の『死後の真実』という講演集でした。遠藤さんは死の直前、この本を読んで「死ぬのが怖くなくなった」と言っています。これを再読したくなった。実は、ちょっとオカルトっぽいところも多々あるのですが、心休まる内容です。
それを再読しだして四、五日経ち、訃報が入ったのです。

お通夜の前日、このまえの日曜日ですが、白梅が咲き誇っていました。午前中は川越のミサに出て、午後は神父様のお顔を見に大司教館に行き、半日ゆっくりごいっしょしました。
安らかなお顔を拝見し、不思議と私には悲しみや寂しさの感じは薄く、生前以上に神父様を身近に感じるような安心感、遠くから見守っていてくださるというより、もっと近く、すぐそばにいつでもいてくださるんだ、という安堵感に、ずっと包まれていました。
先ほどのロスの本の影響もあるかもしれません。

生前ごいっしょに話している時、「私にはアッバがこう言っているように思えるのだよ」という言い方をよくしていたことを思い出します。それは何か難しい問題があって、お祈りした後の結論のようにおっしゃっていました。
そしてその結論は、たいてい、ご自身の反省の弁、ご自身が「控える」べき事を言う時に使われていました。「アッバがここではおまえが謝りなさいと言っているように思えるんだよ。」そんな言い方です。

そういうことを聞くときは、確信に満ちた偉い神父様というよりは、本当に一求道者として、アッバの示された道を、たどたどしくも、素直に、幼子のようによちよち歩いて行かれる姿を彷彿とさせました。
一九八〇年の暮れにお会いして以来三十三年間、私にはまったく気取ったところがなく、自然に接してくださいました。もちろんいつもはやさしかったですが、お怒りになることもありました。

それはたいてい、二人でお酒を飲んで、日本のキリスト教の問題というような話になったとき、生意気な私に対して発せられた叱責でした。
それで私が納得いかず、ぷんぷんして家へ帰ると、よく「今神父様から電話があったわよ」と妻が言う。中身はさっき怒ってしまったことに、私にじゃなくて、うちの奥さんに謝ってるんですね(笑)。そういうところがある方でした。
また、神父様のマンションでいっしょに飲んでいて、調子がでてくると、いきなり「南無アッバ!」と気合を入れて、次の一本を奥から持ってくる、なんてこともありました。

ともかく、神父様との多くの思い出と記憶は、たいていお酒と結びついています。今は飲むとすぐなんでも忘れてしまいますが、神父様と飲んだ時の話は、不思議と内容をよく覚えています。(つづく)


おしらせ:南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時3/25(土)13時半、4/22(土)同、5/27(土)同


―――――「余白の風」入会案内―――――
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category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第224号 2017年1月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ(*選評)

昭島・新堀邦司
日本海の秋は空より始まれり
高原に色なき風の吹く日かな
秋天は聖母マリアの藍ふかし
金秋の祝杯あげよボブ・ディラン
神在の出雲に暮し恙無し

*②「色なき風」――「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。」(ヨハネ三・八)信仰とは、自分の理解をこえていても、信頼して委ねること。

高知・赤松久子
ふとん干すヘルパーの背に春の風
老いの手にお札(ふだ)を握る四旬節
土佐の夏海(うみ)おみ風さまの歌うたふ
観じ得ず信ずるのみの我が身かな
髪の毛の数まで知られ南無アッバ

*不安はあっても、②「お札を握」って、④ただ「信ずるのみ」。しかし、⑤「髪の毛」一本まで知られている身は、アッバにお任せすればいい。老いの見事な境地です。

八王子・F・井上
ゆるされてゆるす賜 南無アッバ
師の言葉ふとよみがえる散歩道
南無アッバ老いの荷物を受け止めて
振り向けば軍靴は遠く兄二十歳
気が付けば姉妹そろって山姥に

*①マタイ一八・三三。私たちは無条件無制限にアッバから「ゆるされて」いるという驚くべき事実!だからこそ他者を「ゆるす」ことができる。どちらも、まさに「賜」です。

練馬・魚住るみ子
小春日や卒寿四人のクラス会
身に余る賞気恥づかし秋うらら
日本YWCAよりシニアの為の賞を受く
スーパームーン今し昇るや冬の宵
自らの命を絶ちし愛し子の悌を抱き旅立てり君
   『風の道』
短かる命をわが子に賜ひたる御摂理を尋めむ母の胸はも

*「Wonderful Women賞」の受賞おめでとうございます。長年の音訳奉仕や熱心な作歌ゆえの結果と感服いたしております。今後ともご活躍をお祈りいたします。

 名古屋・片岡惇子
(フィリピン サンマテオにて)
主に押され南の島に発つ冬の日
冬の日や病みてなお道探しをり
路上の子の闇を見つめる南の冬
汗臭き子ら何思ふ目の光
目であいさつ異国の地でのクリスマス
冬の雲我が生き方の計り得ず

*②⑥わたしたちの求道は一生続くのだと思います。この頃昔のノートなど整理していて、今までばらばらだと思っていたことが、「求道」というキーワードで括れるように思い、何か合点できたような気になりました。

豊田・佐藤淡丘
真暗闇なほも一群れ鴨の声
寒北斗ひときわ長く尾を垂れる
弦月に指差し入れて剪られたる
池めぐり寒満月と睦みあふ
衛星の無音に流る夜寒かな

早朝、会神の丘に登るため、ちょっとの間切り通しを抜ける必要がある。冬至十日後先と言って、この時期一瞬ここで真っ暗闇に突入する。この闇の空間がとても神秘的であると同時に、この体感をとても貴いものとして、これを浴び独り悦に入っている。アッバ、アッバ、南無アッバ

*①神は神聖な「無」であり、人間にとっては直接の認識対象にはなりませんから、「闇」であるともいいます。その「真暗闇」であるアッバに、南無の心で人生をゆだねる、「会神の丘」への道はそのまま「南無アッバ」の祈りです。

大阪・島一木
教会といふ薄明に月を置く
讃美する虫か聖堂隅の闇
風そよぎ金木犀に聖歌湧く
聖歌隊解き放たれて秋深し
十字架の空より秋の風は吹く

*⑤〈自らの力に依り頼む「強い」生き方ではなく、イエスとともに、そしてこの世の苦難を強いられている人々とともに、「十字架」を担い続ける「弱い」生き方を選び取っていくこと。そこにこそ、真の「強さ」が、そして「救い」が逆説的に存在する〉(青野太潮『パウロ 十字架の使徒』(岩波新書)まえがき)

日立・武田孝一
天父地上を笑みて見賜うや秋日和
ヘブンリーブルー咲き切りて秋逝かんとす
南無アッバの友らの作読む秋日暖し
中天に百舌の声あり秋逝かす
友らの面偲び読み進むアッバの句

*③⑤井上神父がエレミアスからヒントを得た「アッバ」、そして晩年の境地、祈りとなった「南無アッバ」。著作選集第二弾も刊行開始され、少しずつ広まっているように思います。

蓮田・平田栄一
元旦やアバと呼ぶ霊賜りぬ
人生はマラソンなりや小正月
正月の上座に座る父はなし

あけましておめでとうございます。失礼ながら賀状にかえて、この場で新年のご挨拶とさせていただきます。
今年も共に、作歌作句をとおして、アッバの御心を求めて参りましょう。


平田講座要約(第四五回)2014-2-22

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
前回は、新年に青野先生からいただいたメールを紹介し、先生ご自身がお認めくださったとおり、青野神学やパウロの信仰義認論も、井上神父や遠藤さんと同様、基本的に母性原理にもとづくものであることを確認しました。

その上で、北森神学と井上神学の対比という課題に戻って、「十字架のイエスの痛み」をめぐり、御子イエスと御父アッバとの関係を考えてみたいと思います。

p・52「・・・だから私には~」(前号参照)の補足をします。

青野さんのいうパウロ神学から見ると、「イエスの十字架」にまず「弱さ」や「つまずき」を見るという視点は、井上神父にも北森神学にもないように思います。つまり、「弟子の裏切り」に対する「イエスの痛み」や、あるいは「私たちの罪」に対する「イエスの痛み」というとき、相手に傷つけられる「神の子」イエスという視点が強調され、「人間」イエスご自身の弱さやつまずきは強調されていないように思うのです。

わかりやすくたとえるなら、井上神父や北森氏のイエス観の方が、この点ではイエスの神(の子)性が全面に出ており、青野氏は人間性が強調――あえていえば「人間くさい」ように思います。こうした点にも、これまで青野神学が一般の教会に受け入れられてこなかった理由があるのかもしれません。

もっといえば、井上神学は、イエスの「やさしさ」を強調しているけれども、青野神学のようなイエスの「弱さ」は強調していないということです。その点では、遠藤さんの「無力なイエス」という感覚のほうが青野さんに近いかもしれません。

p・53
「・・・・私の場合もイエスの痛みというのはもちろんあります。けれどもその痛みというのが、御父の神様までいってしまうとね、なんかこうきついって言うか、息が切れるって言うかな‥‥。

やはりパウロってのは激しいでしょう。北森先生の場合はパウロが中心になっていますからね、私などには何かもう少しこう‥‥そこまで頑張らなくってもね。キリストが秋風に、こうなびいているような感じのところで何とかならないかなと、そういう感じで(笑)。なんていうかな、重すぎるっていうか。

‥‥私のイエスはやさしいのです。イエスのまなざしはやさしいわけですよ。」
(『日本カトリシズムと文学』一九五~二〇一頁抜粋)


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時1/28(土)13時半、2/25(土)同、3/25(土)同


平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』
定価800円+税。
聖母文庫☎095・824・2080。
サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円


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どなたでも参加できます。購読のみも可
*年六回奇数月発行
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*本ブログ「南無アッバを生きる」に掲載します。

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求道俳句誌「余白の風」第223号 2016年11月発行  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(*選評)

大阪・島一木
教会は闇なり花火揚がる音
教会の塔に渦巻く星月夜
霊名はアウグスティヌス神父祝ふ
聖変化 台風の眼が通過する
十字架を胸に笑顔は爽やかに

*④⑤救いは必ずしも、直接的な幸福のなかにあるわけではない。私たちは今救われたい、この現状をなんとかしてもらいたい、と思うのだが、アッバの御考えは測り知れない。

昭島・新堀邦司
神木の香椎や今も青葉して
夏空や旅に出しまま寅次郎
遺されし絵に黙祷す敗戦日
みほとけは涼しくおはす浮御堂
別れ星遠くへ行つてしまひけり

*②米田彰男著『寅さんとイエス』という本が話題になっていますが、井上神父もすでに七九年、山田洋次氏との対談で、寅さんの魅力を語りながら、「あの笑いの陰にある哀しみにぼくはひかれた」(『ざっくばらん神父と13人』主婦の友社)と述べています。

高知・赤松久子
腰痛と知恵くらべかな冬の日々
南無アッバ念じ居るらしかまど猫
み手の上やんちゃに生きて南無アッバ
トマスにも恵みあふるるイースター

*②③「猫」に教えられる南無アッバ。神の国は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ二〇・一六)どころか、人間が後になり、動物が先になるかも。

八王子・F井上
南無アッバ人口膝の散歩道
もの忘れ多々ゆるされよ南無アッバ
好き嫌いすべてゆだねる南無アッバ
生きるとは老いとは烏瓜まぶし
秋草の小道故人の笑みに会う

*①②あちこちが不自由になる④老いの中で、生きるとは何か考えざるをえない。各自が生の意味を考えなさい、という宿題を解くべく老いが与えられているのかもしれない。③作者が見出した答えとも。

余生  練馬・魚住るみ子
風立ちて名知らぬま円ろ葉そよぎ居り更けゆく秋のあし音としも
南無アッバ手ざはり骨ほね痩身の卒寿の我やともあれ健やか
読み聞かせむ絵本探しぬ南無アッバ曾孫の顔を思ひ浮かべつつ
『風の道』
少年の涼しき瞳吊革へ手をのべゐたり席を譲りて

*①②一年の秋、人生の秋。③④何歳になっても、その歳はだれもが初めて生きる歳。作者は短歌のなかに、その新鮮さと人のやさしさを見出している。

愛と光の家での黙想会  名古屋・片岡惇子
台風に向ひ旅発つ縁の糸
沈黙こそ主との語らひ台風過ぐ
秋冷や雨滴の打ちし黙の時
黙想会頬に秋蚊の目覚めよと
コスモスの一色になり御堂飾る
秋冷や今ある時の息を吸ふ

*①「縁」、時にアッバのはからいとしか思えない瞬間がある。②③④現代人に決定的に不足しているのが「沈黙」かと。饒舌すぎるネット、スマホかな。

豊田・佐藤淡丘
喜びの言葉は要らぬ落葉中
しろがね白銀の尾花ちぎりて土手下る
小鳥来る神の一葉落しけり
芋名月水に映りて揺らぎをり
鵙高音一瞬にして夜が明ける

今から十二年前、ひょんなことで「マザー・テレサ日々のことば」という本をもらいました。この中から「つつましい仕事から離れてはいけません」と教えられ、小学校の放課後の学童保育に、紙芝居を月に一度ですが、やらせてもらっています。マザーが今も見ているようでやめられません。南無アッバ

*あのマザーテレサにも大いなる信仰の危機がありました。「過去十一年をとおして初めて、わたしは暗闇を愛するようになりました。今わたしは闇が、イエスの地上における闇と痛みの非常に小さな部分であることを信じるからです。」(『来て、私の光になりなさい!』)

東京・中庭 栞
ほし草や眩しき限り陽のたぎる
炎天の丘に潮騒ぬける道
南仏に国境のなきせみしぐれ

*③まったくです。人為的な区別、差別であらゆることに色分け――分別をつけているのは人間だけ。

日立・武田孝一
最早死を口にせずなりし生徒一人帰寮せしめて長き夜の祈り
みどり児を主に捧げ来て浅夏の夜更けに妻と感謝の祈りす
煙突なきアパートの聖夜寝入りたる吾子のため赤き靴下吊るしやる
亡き子ある日籬より入り来る幻覚に生き来しという老婆の戦後
妻の弾く復活節賛歌に響合いてヒアシンスの花穂静かに揺るる

*初めてのご投稿ありがとうございます。どの歌にも信仰の姿勢、ご性格がにじみ出ています。「風の家」の活動にもご理解くださり、感謝です。

蓮田・平田栄一
弱さこそ神の強さや夏の川
どこまでもゆるす神なり五月尽

平田講座要約(第四三~四四回)2013-12/2014-01

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
(前号からの続き)この点――十字架において、神の本質から「痛み」を切り離し、イエスに限定しているという点――は「神中心主義」のパウロに近い――神が主、イエスが従――といえるかと思います。

第二は、井上神学のスタートが人間の罪一般(北森)ではなくて、歴史的具体的な「弟子の裏切り(の罪)」だということも、見逃せません。ここは「自分がイエスを傷つけたという実感がない」(『パウロを語る』)という発言と結びつきます。
この「父なる神」と「イエス」をどのようにくっつけ、切り離すかは、イエスの神性人性をどう捉えるか、という重要な、また多様な問題を含んでいます。キリスト教の歴史そのものといってもいいかもしれません。

アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした三二五年のニケーア公会議、ネストリウス派を異端とした四三一年のエフェソス公会議、単性説を異端とした四五一年のカルケドン公会議など、さまざまな論争が行われますが、結局、これは人間の歴史から見れば、わたしたちの正直な欲求が、キリストこそ神と人の橋渡し役(仲介者)となってもらいたい、ということの現れであり、そうであるなら、どうしても両性が同時に必要だったという証とも言えましょう。

〇第四四回
テキストより、p・52
<‥‥だから私には、十字架のイエスを本当に包み込んでいる更に大きな、何か手みたいなものを感じさせる‥‥。
‥‥確かに、十字架の血というのは、自分を裏切ってゆく人間を、やっぱり包み込むところに、流れるものなんだろうというふうな‥‥。そういうことはね、『愛を見つける』あたりでは、私も何となく感じたのです。だけど更にそれを、なんかね、こう、あの仏像に見られるような柔らかさというか、なんかこう最後に包んでないとね、ちょっとこう苦しくなっちゃうというか‥‥。>

井上神父は、裏切りをゆるす(包む)所に流れる十字架の血をイエスに限定しています。父なる神はその「痛むイエス」をさらに包んでいます。痛むイエスの十字架を同心円的に広げていくと、だんだん父なる神の方ではやさしさに包まれていく――癒やされていく、というイメージでしょうか。


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時11/26(土)13時半、12/24(土)同、1/28(土)同

平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』定価800円+税。聖母文庫☎095・824・2080。サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円

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求道俳句誌「余白の風」第222号 2016年9月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ (*選評)

豊田・佐藤淡丘
法師蝉これより先は北といふ
一本の杭は山湖に水澄めり
蟻の列往きつ戻りつ黙の中
鶏頭を指で挟めば走りだす
秋たつやちびた鉛筆いとほしむ

午前四時、東の空を一望できる階の上に立ちました。ナント、オリオン座を含む「冬の大三角形」がもう横たわってみえます。
きのうまで樹の上で喧しくしていた蝉に代り、草むらでは虫の声が賑わしい。

正に、この世の教会とは、内村鑑三の言葉どおり、神の造られた宇宙であり、天然であります。アッバ・アッバ・南無アッバ

*「宇宙」そのものが「教会」とは名言。考えさせられます。わたしたちはつい小さな単位で、あの教会、この教会と分類してしまう。分別心を改めなければなりませんね。

大阪・島一木
マリア像西日を浴びてなほ白く
夕焼けに濃く染まりゆく彩硝子
花火見に行く教会のある方へ

*①②夕日に染まっていく御聖堂に、ひとり佇み祈りを捧げる。共同の祈りであるミサと共に、アッバと一対一の、いや一人包まれての祈りという実感も大切にしたいものです。

昭島・新堀邦司
一灯を神に捧ぐや聖五月
菖蒲湯や予後のいのちをあたためぬ
母の日や今も聞こえし子守唄
椎若葉燦々として草思堂
父の日を酌みかはさうか父同士

*③⑤「母の日」「父の日」にちなんで、私たちキリスト者は、神の父性・母性ということを、改めて考えてみたいと思います。「アッバ」が母のような父である、ということは、意味深長です。

一宮・西川珪子
くっきりと過去を残してかたつむり
人の世の日々変りゆく草を引く
水打って魂還る道浄め
炎暑にも新たな芽吹き南無アッバ
一瞬の煌きに掛ける花火かな

*「時間」連作として読ませていただきました。①「過去」は現在によって意味づけられる(アドラー)という視点をもって、前向きに考えましょう。②人生を一本の細い川、「人の世」をそれらが流れ込む太い河と見立ててみる。

高知・赤松久子
ひとすじの光宿せり庭野菊
しのび寄る老の足音冬隣
老恐ろし死は恐ろしくあらねども
南無アッバの境地求めて南無アッバ
アッバとは何かと聞かれパパですと

*②③身につまされます。井上神父は人生をマラソンにたとえ、人生の折り返し地点からは、お借りしていたもの――能力・実績・体の機能等々をひとつずつ感謝を込めてお返ししていく役割があると、述べています。

八王子・F井上
平和への祈りのリレーアヴェマリア
あの時の蝉しぐれ聞く終戦日
むくげ涼やかに聖母被昇天
ハンドルを握れる幸よ南無アッバ
昇る日を真向いに受け通うミサ

*④高齢ドライバーの事故多発にともない、免許更新や返還の問題が指摘されています。あたりまえのようにできていたことが、一つ一つできなくなっていく。そういう現実をどう捉えるか、信仰の役割が問われています。

練馬・魚住るみ子
南無アッバ九十歳の歌いくつ老を嘆かぬ心にうなづく
ハイビスカス深紅に咲き出で朝毎を一日花のいのち生命輝く
隣り合ふ家毎の暮し南無アッバ軒にはためく洗濯物よ

  一首目の九十歳の例歌として、
かぜに触れひかりにふれて若葉燃ゆ九十歳のまなこに映る     高木きみ子
九十になりてもわれの心には開け閉め自在の窓があるなり     久米川孝子
曾祖母のわれと娘と孫のみたり三人ゐてそれぞれ母の日それぞれの初夏   田中恵子
(現代短歌新聞H28・8号近詠一首より)

*老いの中にどう生きがいを見つけるか。人生「若葉燃ゆ」季節に役割や生きがいがあったように、老いの季節にも、また違った役割と生きがいがあるはずです。各御作に励まされます。

名古屋・片岡惇子
雷鳴や御堂震わせ赤子泣く
空しきとコヘレト読めば蝉時雨
拒否出来ず八月来たる狂気のまま
原爆忌誰も居ぬ地に風焼ける
大夕焼沈黙の余名華やぐ
受け入れて神の業なる大夕焼

*⑤「受け入れる」という言葉が、井上アッバ神学のキーワードの一つであることを、わたしは近著『「南無アッバ」への道』で指摘しました。しかし真にそれは自力ではなしえない「神の業」です。

蓮田・平田栄一
イエスこそ近づき来たる冬の闇
ルカ二四

イエスを裏切った自己嫌悪を抱えつつ、エマオへ旅する二人の弟子たち。とぼとぼと俯むいて歩いているところへ、イエスご自身がそっと近づいてきて、一緒に歩いて行かれた。悩み苦しみにあるとき、そうとわからなくても、わたしたちはけっして孤独ではない。


平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』(聖母文庫)定価800円+税。☎095・824・2080。サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円


平田講座要約(第四十一~三回)2013-10/11/12
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
井上アッバ神学では自らの罪を悲しむということはあるかもしれませんが、それが厳しく罰せられるというイメージはありません。(生前、井上神父が言った言葉「困った人とか迷惑な人ってのはいるかもしれないが、根っからの悪人というのはいないんじゃないか。」)

テキスト最後の部分「パウロは激しく、重い」という所は、今はもっと多面的に考えるべきだとも思っています。パウロは教会に起きた緊急要件に向けて手紙を書いていますから、怒ったり、皮肉を言ったりする、過激な所も確かにあります。そういう所は怖いです。

○第四二回
今回はパウロの「重さ・激しさ」について、まず補足します。パウロには確かに律法主義に回帰しようとするキリスト者や、アッバの「無条件・無制限のゆるし」を曲解して、キリスト教的「本願ぼこり」に身を委ねる輩に対しての「重さ・激しさ」はあるのですが、しかし、単なる厳格主義者、リゴリズムではない。それは、根底に、あのローマ四・五の信仰義認論があることでもわかります。「不信心な者を義とする神を信じる」ということは、アッバ=母性原理の神を信じる、ということだと思います。

すなわち、「不信心な者」とは「罪人」であり、まさにパウロ自身の自覚だろうし、そういう、「神を神とも思わない」人間を「義とする」とは「無条件で受け入れる」ということだからです。律法を行う代わりに、信仰があれば救われる、というのではありません。行いも信仰もない、けれども、そういう者でも無条件に救ってくださる、というアッバの御心に、お御風さまに信頼する、そのとき救われるということです。

○第四三回
p・52
石川氏のこうした分析に対し、井上神父は次のように述べています。

「‥‥北森神学だと神の本質が痛みだというわけです。本質そのものが痛みであると。
‥‥私の場合には痛みというのはあくまでイエスの痛み、裏切ってゆく弟子たちを包むイエスの痛みなのです。そしてそのイエスの痛みも、裏切った弟子たちの哀しみも共に何か御父の、神の、やわらかな夕陽に包まれているような感じの世界なんですよ。」

ここは次の項目で改めて解説しますが、人間の罪――イエスの痛み――痛む父、という北森神学と、弟子の裏切り――イエスの痛み//包み込む父、という井上アッバ神学との対比です。

後者の特徴は第一に、神の本質から「痛み」を切り離し、イエスに限定しているということです。


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時9/24(土)13時半、10/29(土)同/11/26(土)同


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求道俳句誌「余白の風」第221号 2016年7月発行   

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求道俳句誌「余白の風」第220号 2016年5月発行  

「余白の風」第220号

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求道俳句誌「余白の風」第219号 2016年3月発行  

「余白の風」第219号

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求道俳句誌「余白の風」第218号 2016年1月発行  

余白の風218号.pdf
皆様、今年もごいっしょに、俳句や短歌など日本人の感性で、アッバに、イエスに求道していきましょう!

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第217号:2015年11月発行:求道俳句をつくりましょう!  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

練馬・魚住るみ子
南無アッバ想ひ出話に花咲かす端居に仰ぐ良夜かな
かぐや姫の宮居はいづこ南無アッバ望月のおも面は変らぬものを
  『風の道』
咲き満てる枝垂れの花のうすべにの滝幾筋と流るる大樹

*①健康情報学の中山健夫は、東日本大震災に関連して、「『過ぎたことは忘れよ、前を見て生きよ』的な他者の『励まし』による過去の記憶の消去、未来志向の強要は、・・・混迷にある人々の生きる力の回復を妨げたことはなかっただろうか。」(『死生学入門』放送大学、七三頁)と述べている。「想ひ出話」は、生きていくために貴重な栄養なのだと思う。

豊田・佐藤淡丘
万物を逆さに映す秋の水
水源を訪ねその日も花野かな

国木田独歩の「武蔵野」を本棚からひょっと出し、次の文章をみつけました。
「一路人影なし、独り歩み、黙思口吟、足にまかせて近郊をめぐる」と。なるほど、こちらは三河路だが、独歩の言う武蔵野に似ているところもある。里山は楢林が低い森を連ね、その窪みを遠く北の山塊を水源として、疎水が流れている。又、独歩曰く、「一つの小径を往き、たちまち三条に分かるるところに出たなら困るに及ばない、君の杖を立ててその倒れた方に往きたまえ。」と、このぶらり歩きがいかにも独歩らしい。晩秋の一日、少し真似ることにしました。

 山は暮れ野は黄昏の薄かな(文中)まま
独歩のような甘さと「感興」こそ味わうことができませんでしたが、なんとなく満足のゆく一日でした。南無アッバ

*「君の杖を立ててその倒れた方に往きたまえ」の一節は、わたしも好きな一節です。正宗白鳥は「武蔵野」を読んで、これなら自分も書けると思って、小説を書き出したとか。①自然を見たままに写生する。巧まない巧みさが真骨頂かと。

一宮・西川珪子
明日より今日のひかりの秋桜
台風の去りし青空神のもの
魂の帰り来るみち彼岸花
部屋に来しちちろの声を送り出す

*全句、時間の流れの中でつかむ希望に満ちる。①「明日より今日」、②「台風」と後の「青空」、③「魂」の帰途、そして④「ちちろ」を見送る。

高知・赤松久子
多摩川を渡るそよ風南無アッバ
バチカンにオラショが響く南無アッバ
秋色に胸染まりけり南無アッバ
秋の雲空いっぱいに南無アッバ

*「~~南無アッバ」の井上神父が遺した「アッバ讃句」形式は、今や求道俳句の基本として定着しました。どうぞ、初心の方も作ってみてください。きっと心休まりますよ。

名古屋・片岡惇子
芒野をしみじみ染める夕日かな
腹からの怒り圧さえる虫時雨
満月や遺影の母の笑みもまた
十月や頑固な心説き聞かされ
ロザリオの繰る手の皺や秋日和
柿熟す去るもの去りて南無アッバ

*井上神父が生前「人生は哀しいものだ」と言っていたのを思い出す。歳をとる度にその意味がわかってくるように思う。それは、悲しみの中にも「しみじみ」とした味わいがあるような――福音的な哀しみであるように思う。

『都市群像』・島一木
聖母にと赤い薔薇切る大輪を
聖水やほのかに薔薇の匂ふなり
*「薔薇」と「聖母」は切っても切れない間柄。そうするとイエス様の象徴はブドウの木か、アネモネでしょうか。

「日矢」六〇八~一〇号・新堀邦司
睡蓮の目覚むる頃か雨上がる
天心に昇りて開く花火かな
供へたる季節の花や吾亦紅
*③「妻に」と詞書あり。新堀氏にとって亡き奥様は、過去の人ではない。これからも巡る「季節」を共に生きている。

「こみち」二六六号・小熊坂満邦
無人駅出て万緑の中に居り
隣席の赤子大泣き梅雨に入る
*二句結び付け、中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」を連想しました。明るい未来が望めます。

新約聖書一章一句・蓮田・平田栄一
もう何も言わずにおこう冬の月――マタ1・18~24
新約を「共に」で結ぶ文化の日――黙22・21
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-2616.html


平田講座要約(第37~38回)
テキスト『心の琴線に触れるイエス』


p・50
「神の痛み」とは、神の愛にそむいた罪人である人間にそそがれる神の愛の現実である、といいます。それは「包むべからざる者を包み」込もうとするがゆえに、傷つき痛む愛です。その神の痛みが、人間のあらゆる痛みを包み、解決する。これが、十字架の救いの内的構造であり、直接的な神の愛にそむいた罪人も、神の痛みに基礎づけられた愛のなかでは、従順な者として征服される‥‥。こうした考えに立つ北森神学は、西欧の神学に対する戦後日本のオリジナルな神学として、教会内部に大きな影響力をもってきたといえるでしょう。


人間=罪人→十字架→解決
       ↓
  包み込む痛み:イエス=神の愛

こういう神学を、一般の日本人はどう感じるでしょうか? 痛々しさと同時に、「おまえは悪者だ!」といわれているようで――実際みな罪人ではあるのですが、萎縮してしまうのではないでしょうか。(昔、井上神父に私が、「申し訳ない」という罪意識では、萎縮してしまうのではないか、という質問をしたことがありました。そのとき神父は、頭を下げて萎える人間は、信頼が足りないのだ、といった趣旨のことをお答えになりました。)

青野先生や井上神学は、なぜそうならないか? と考えますと、もちろん根底に、アッバへの信頼ということがあるのですが、それと、北森神学にはない「共苦」という発想があるからではないでしょうか。この「共に」という視点がないと、罪人の私が単独者として法廷に立たされ、糾弾されている、という恐怖・不安を持つのだと思います。青野神学では、罪人のまま、不信仰のまま受け入れる神、すなわち井上神父のいう「アッバ」が強調されています。

<第38回>


この北森神学と井上神学については、「日本カトリシズムの原点と成熟」と題して、一九八二年一月に行われた國學院大學日本文化研究所主催のシンポジウムで興味深い意見が交換されているので、それを参考に述べてみたいと思います(戸田義雄編『日本カトリシズムと文学』Ⅳ 大明堂)。


前回、井上神父が重視する「キリストの体」論と「初穂」理論との関連を見、比較として北森神学と比べ出しました。
戸田先生(1918-2006年)は国学院大学の先生ですが、このご本では「井上山脈」と称して、遠藤周作や高橋たか子を始め、多くのカトリック作家が井上神学の影響を受けていることを指摘しています。井上神父は、この戸田先生が真正面からアッバ神学を取り上げてくださったことに、大変感謝していました。

パネリストの一人、石川耕一郎氏(昭和大学教授・旧約聖書学)は、日本人へのキリスト教伝道の問題意識、苦心という点では、井上神学と北森神学が共通性を持っているといいます。しかし、その似ている二者のキーワード「悲愛」と「神の痛み」とを比べてみると、むしろ違いの方が際だって感じられる、というのです(後述)。

このシンポジウムで出会った石川先生から、一ヶ月後に井上神父は『天才パウロ』という、サムエル・サンドメルという人の本のコピーをもらうわけです。この本は邦訳がありませんから、石川先生は全部コピーしてくれたのですね。それだけ、井上神父にぜひ読んでもらいたいと思われたのかもしれません。相当な量です。私は原書の復刻版をインターネットで取り寄せましたが、大判二四〇頁の本です。

南無アッバの集い&平田講座、於:四谷ニコラバレ、日時11/28(土)13時半、12/26(土)同

―――――「余白の風」入会案内―――――
どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*申込先 サイドバー余白メールより

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求道俳句誌「余白の風」第216号 2015年9月 発行   

俳句や短歌、短詩をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

F・井上(八王子)
〇躓きの石がごろごろ南無アッバ
 美しく咲いても人の好き嫌い
 先例に習う疑問符つけながら

*①弱い私たちの日常には、まさにさまざまな「躓き」がある。躓きは今は不幸かもしれないが、後で振り返ると、あの時の躓きがあったからこそ、今の幸いがある、ということもよく経験する所ではないか。

  遺影   魚住るみ子(練馬)
 南無アッバ喘ぐ呼吸の終りては安けくあらむおとうとよ今は
 父母と先立ちし妻の待つ彼岸柩のそひ傍に花あふれしむ
〇南無アッバ微笑む遺影 この表情でエイプリルフールかつがれしことも
 明けの星ほのかに消えゆくたまゆらよ南無アッバなむ胸に手を当つ
 庭の面に日差し明るし南無アッバひと日の始まり朝餉をかこむ

*③ご令弟は、ユーモアのある方だったのでしょう。①終末期の試練を越えた先には、永遠の安らぎと②先立った、愛しい方々とのうれしい再会が待っている。

佐藤淡丘(豊田)
〇かなかなやかわたれどきのかなたより
 池畔かなかわたれどきの夏帽子
 この山の頂までも法師蝉

 かわたれどき(彼は誰れ時)とは、夜明けごろのうす暗いとき、と辞書にある。私の好きな言葉であり、時季でもある。
 池の水は星の片割れを落し鎮もり、森の奥からは蜩の声が連れだって聞こえてくる遠く行き交う人の顔も分からぬまま過ぎ去るのもよい。まさに秋近しである。

*「かわたれどき(朝早くまだ暗いうちに)、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、祈っておられた。」(マルコ一・三五)。イエスさまの復活も「かわたれどき」だったかもしれない。こういう言葉が日本語訳聖書に使われ残っていったらすばらしいですね。

西川珪子(一宮)
 どう生きる朝顔の蔓伸びてゐし
 万物の光りて白き立夏かな
〇夫ありて吾れあり白き百合供ふ
 夏の昼睡魔活字の中に入る

*①朝顔の蔓は手探りで、あちこちを彷徨う。しかしともかくも上に伸びて行こうという、意志だけははっきりしている。その潔さ。③今は亡きご主人との対話は続く。

赤松久子(高知)
〇死者の月なつかしき人夢に立つ
 亡き夫の杖を縮めて吾が名彫る
 師の〝讃句〟壁に飾りて南無アッバ

*生きている者が死者とどう向き合うか、付き合うか?は、現世での生き方に決定的な違いをもたらす。人の死、イエスの死、それを反芻するとき、生き方が変わる。

片岡惇子(名古屋)
 百日紅優しき風の通り行く
 喪の家の白の焦げたる夾竹桃
 雲の峰我が意志置ひて崩れゆく
◎生きるとは生きていること蕎麦を打つ
 無花果のじわじわ熟し平和壊る
 八月のペダルを漕いで引き返へせず

*④人は苦しい時、生きる意味を問う。何のために生きているのか? こんなに苦しんで生きていることに何の意味があるのか、と。作者は言う、「生きる」とは「生きていること」=現在進行形の、現に今生きていることに他ならない、と。「生きる」とは「今」以外のことではないと。生きる意味を問うのは、現に今生きている限りのことなのだ。意味を問うことの相対化。今黙々と目前の「蕎麦を打つ」。

平田栄一(蓮田)
 万民に救いの希望秋彼岸(ヘブル一〇・二二)
 信仰は希望と愛の糧なりや(同一一・一)

寄贈誌より

「日矢」六〇五~七号・新堀邦司
妻に捧ぐ赤き花束復活祭
母のゐてこそ母の日なるものを
妻逝きてはや六月も過ぎにけり
父の日のグラスに受けし白ワイン

*奥様に先立たれ、さぞお寂しいことと察して余りあります。しかし、お子様方に慕われて生き生きと活動されていることが御作からよく伝わってきます。

『風の道』・魚住るみ子
まろまろと母の傍へに群るる雛一人前にパン屑ついばむ
親と仔の見分けつかねど母鴨は寄り来る鴉を目聡く威嚇す

「祭演」五一号・森須蘭
花冷えや猫の瞳に濁りなし
人生の意味も引き摺り花筏

「花組」六五号・あざ蓉子
髪を揺らせば秋風となりにけり
古里の紅葉山から日が射して

「こみち」二六五号・山口佐喜子
前向きに生きしこの道すみれ草
聖日や子の来る午後のさくら餅

平田講座要約(第37回続)
2013・6・22 テキスト『心の琴線に触れるイエス』


p・48
「それに(初穂理論は、)『償い理論』や『贖い理論』に比べて、キリスト教信仰の核心である復活を基盤としているという意味でも、たんに現代の私たちに理解しやすいというだけではなくて、救いの本質をより的確に表現していると思うのである。」


この言葉からは、「初穂理論」が「償い理論」や「贖い理論」に比べて、よりよく救いの本質を表しているという見解とともに、端的に「復活」が「キリスト教信仰の核心」であり、「救いの本質である」という主張をも読みとることができます。そして、「償い理論」や「贖い理論」が十字架に集約される救いの表現であることを考え合わせるなら、やはり「十字架より復活」が井上神学の救済論の中心にあるということができるのです。
図示しますと、

旧約→償い・贖い→十字架<復活←初穂←新約
          ↓
旧約的伝統信仰:イエスの死

 こんなイメージになるかと思うのですが、青野太潮神学から見ると、「十字架」の所は「イエスの死」に置き換え、「十字架」はむしろ、右項「復活」の方に入れるべきかもしれません。というのは、「復活」信仰体験が契機となって、十字架の逆説的意味=絶叫・絶望して死んだイエスへの神の「しかり」を理解したと考えられるからです。
 ただし、井上神父は、遠藤周作さんと同様(E・シュタウアーの説)、かの「絶叫」は詩編二二から神への賛美と取るかどうかは、微妙です。


p・49
■北森神学との対比
こうした井上神学の特徴をより明確にするために少しく、戦後日本のプロテスタント教会を中心に話題になった、北森嘉蔵氏の「神の痛みの神学」(同名書、新教出版社、一九四六年)について見ておきたいと思います。

「私は、イエス・キリストの十字架を『神の痛み』として受けとってきた。それは、赦すべからざる者を赦し、包むべからざる者を包み、『外』を『内』に入れるときの、神の愛の本質的性格をさし示そうとする言葉であった。いわゆる『痛みの神学』である。」(北森嘉蔵著『聖書の読み方』講談社現代新書 一七八頁)


最近、『神の痛みの神学』復刻版がでていますね。

 引用した「現代新書」の言い方だと、キリストの「十字架の死」ではなく、ただ「十字架」といっています。ここだけ見れば、青野神学のように、「死」と「十字架」を分けて考えている節もあります。ちなみにルターはこれをきっちり分けて、パウロの「十字架の神学」を理解していました。

この講座のだいぶ先で改めて取り上げるつもりなのですが(第五〇回辺りか)、「神の痛みの神学」の発想というのは、実は戦前、一九三〇年代までさかのぼる、ということを岩村信二牧師との対談で北森氏が述べている、ということを野呂芳男氏が指摘しています。(続)

南無アッバの集い&平田講座、於:四谷ニコラバレ、日時9/26(土)13時半、10/31(土)同

―――――「余白の風」入会案内―――――
どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*投稿先:サイドバーのメールで *ブログ「南無アッバを生きる」に掲載

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求道俳句誌「余白の風」第215号 2015年7月 発行   

余白の風 215号 2015-07

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求道俳句誌「余白の風」第214号 2015年5月 発行  

俳句や短歌、短詩をつくりながら、日本のキリスト教を模索します

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

赤松久子(高知)
 十字架の許に捧げるスイートピー
 訪看の時間待ちして南無アッバ
○友よりの便り待ち侘び南無アッバ
 南無アッバ唱ふる日々や夏来たる
 雲の峰ふるさと遠くなりにけり

「救われるために善い行いをするのではなく、救われている中で、少しでも神さまに喜んでいただこうと思って、善い行いをするように努めるのです」と、神父さまはおっしゃった。(義認と聖化)南無アッバ

*③この「友」には、天国のお友達も入りますね。「救われている中での行い」。いかにも井上神父さまからの、この世の私たちへのメッセージのようです。

F・井上(八王子)
 春うらら祈りをふかく第一歩
○立ち戻る道にアッバの杖が有り
 復活の朝だ光ます沈丁花

*②<転ばぬ先の杖>といいますが、「アッバの杖」は、前にも後ろにも支えとなってくれます。共にいます神(インマヌエル)とは、共に歩む神ということ。

  井上洋治神父遺稿集  魚住るみ子(練馬)
○講演の声音偲ばゆ「南無アッバの祈り」師のみ教へを繰返し読む
 諸宗教の平和と共存広らにも深き視野もて説きたまへるを

*①講座やおたよりなどでも最近は、井上神父をリアルタイムで知らなかった方の参加や問い合わせが多くなってきています。「風の家」第一世代の人たちが、どう後の人たちに伝えていくか、問われています。

片岡惇子(名古屋)
◎さくら散る形無きもの秘めしまま
 花筏全てを包み漂ひ行く
 往く道の確たる朧主の十字架
 復活祭改心したる人ばかり
 初蝶の主の十字架に戸惑ひぬ
 山肌にすみれ目弾き主と語り

*①他全句、見えないもの「形無きもの」を静かに、かつ見事に詠っています。そもそも私たちの求道とは、この「形無きもの」への憧れから出発しているように思います。

佐藤淡丘(豊田)
 あおむけば宙に漂ふ雲雀笛
〇いぬふぐり一花もかげ景をむさぼ貪らず
 裏窓をそっと閉じたる初音かな
 ふる里の納屋も古びて青き踏む
 目の奥で押せば遠のく春の星

近ごろ、土の道を見つけるのは難しい。そんな中で、わが家から三十分ぐらいのところにある野池(周囲約八〇〇メートル)の道は、幸い未舗装のまゝである。
足元から伝わる土の感触は、ことの他心地よい。時に立ち止まり、〝跳躍〟を試みる。安心感が、どっと湧いてくるから不思議である。池の水に目をやり、天を仰いで「南無アッバ」を唱える。まさに、安心立命とは、こういうことなのでしょうか。南無アッバ

*どの句からも、自然に対する作者の心優しい関わり方が、十分に伝わってきます。②可憐な「いぬふぐり」は、自然の中の己の位置を知っている。人間顔負けです。

西川珪子(一宮)
 寒卵割って命の糧となり
 花冷えや聖歌は低く聖堂に
 天上へ讃美の歌を白木蓮
 田起しや蚯蚓の居場所壊れけり
〇葉桜やあらたな命育みぬ

*①寒中の卵は滋養がある。体の命に糧となるのはもちろん、霊の「命の糧」ともなるやも。⑤花が散った後の「葉桜」にこそ、命の強さを感じる。

平田栄一(蓮田)
 聖書とて時代の言葉日記買う
 ゆるせない人の眼前枯芭蕉

寄贈誌より
  
 「祭演」五〇号・対馬康子
新しき花古き花年の瀬の墓参
近くなって遠くなって遮断機冬の音

 妻逝く   「日矢」六〇二~三号・新堀邦司
年用意終へずに逝ってしまひけり
煤逃げて天国にまで行きたりし
残されてをしどり一羽漂へり
町師走どこかに妻のゐるやうな
妻の聖書開くや灰の水曜日
想ひ出の河津桜の咲きにけり

「こみち」二六四号・中庭栞
空っぽの心寄りそう弟子たちに現われし主の愛のまなざし
石庭の十五の配置雪となり

『風の道』・魚住るみ子
闇の中に小さき罪のうずくま蹲り忘るるとなく幾年を経ぬ
ゆるされてわが身はありやうなだれて黄水仙の花唇に触る

平田講座要約(第36回)

2013・5・25 テキスト『心の琴線に触れるイエス』

前回まで、いろいろな救済論を見てきました。その共通項は、律法遵守を前提とした、ある種の(近代とはちがう意味での)合理主義的発想だということ。ただ、「身代わり」論は、「律法の呪い」を「自我肥大・呪縛」と置き換えて現代的に理解することもできる、と井上神父もことわっています。いずれにしろ、根本的な、単数の罪は、神の前に己の義を立てることです。
そして今日は、次の箇所へ進みましょう。
p・46
 以上のように井上神父は、新約聖書中にみられる様々な救済論を検討した上で、先に引用したカール・ラーナーのいう「救い」の「原初的体験を、日本人の心情の凝結である日本語で表現していこうとするならば、やはり方向としては『償い理論』や『贖い理論』ではなく『初穂理論』へと向かうべきではないだろうか」と結論づけています。
初穂理論への結論付けです。カール・ラーナーの「原初的体験」については、もう何度も確認しましたが、しっかり押さえておきましょう。救済論の考え方の原点があるからです。テキストをお持ちの方は、p・34です。ここを抑えておけば、救いの表現はいろいろバラエティがあっていいということがわかります。
今回は、第26回の講座で青野太潮先生が『「十字架の神学」の展開』(新教出版社)の序でいったことばを復習しましょう。少し長くなりますが、大事な所なので引用します。
<実際に編集史的研究がもたらした成果は、私の理解するかぎり、そんな生やさしいものでは全くなく、むしろ福音書記者たちの神学が実に多種多様であり、しばしばそれらは相互に容易に調和できるような類のものではない、ということの指摘であったのだ。・・・・上述したような一種の「混乱状態」の中で、われわれの立場はどうあったらよいのであろうか。もしもそれらの多種多様な神学なりイエス像なりを、たとえ何の矛盾や齟齬もなしにスンナリと調和させるのは無理だとしても、相互になんとか関連づけることが可能だとするならば、われわれはできる限りその統合を求めて努力をなすべきであろう。しかし現状は、それを簡単に許すほど甘くはない。だとすれば、そこで残すされた道は、それらの多様な理解の中から、自らにとって最も適切と思われ、かつ自らの実存を賭けて受容することのできるものを選び取っていくことしかあるまい。それは、自らの願望を客観と見誤る危険を常に伴っている。しかしそれでも、それは不可避的な道である。>(p・4~5、傍線平田)

■初穂理論の重視
「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」(『ローマの信徒への手紙』一一章一六節)
「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(『コリントの信徒への手紙一』一五・二〇~二二節)
ことわざに、「始め良ければ終わり良し」とか、「初め半分」(well begun is half done)などというのがあります。しかし「終わり良ければ全てよし」はあっても、右の初穂理論のように「始めよければ全てよし」というのはないかもしれません。
南無アッバの集い&平田講座、於:四谷ニコラバレ、 日時5/23(土)13時半、6/27(土)同

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求道俳句誌「余白の風」第213号 2015年3月 発行  

俳句・短歌をつくりながら、日本のキリスト教を模索します

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

佐藤淡丘(豊田)
マリア像色白くして雪止みぬ
大扉開けて教会春を待つ
「りょうしょう料峭」とある師の文大切に
大池のまなか真中膨らみ水温む

今年の暮に、満八十歳になる(予定です)。
そんなこんなで、俳句を少し嗜むひとりとして、辞世の句を・・・・と思い、次のような、一句を作ってみました。

明け易しこの世の息を地に返す  淡丘

いつも、この欄で書きましたように、早朝「会神の丘」での南無アッバの祈り、と続く太極拳。即ち、かかと踵から息を吸って全身に行きわたらせ、その息をゆっくり地に返す。こんな所作から思い出して作ったものです。どうぞお笑いください。南無アッバ

*③「りょうしょう料峭」は、春風が寒く感じること。⑤ご辞世の句、いいですね!「明け易い」白い朝と白い「息」。そこに唱える「南無アッバ」を包む「余白の風」=キリストが吹き抜ける。まさに「風の家」の名句です。

赤松久子(高知)
カルメルを仰ぎつつ咲く野辺の花
ガラス越し猫と目の合ふ春の宵
○ロザリオでアッバの祈り四旬節
幼き日仔猫のために祈られし君はまことの司祭とぞ思ふ

神父さまが生まれて初めて真剣に祈られたのが、(ご自分のためにではなく)捨てられた仔猫のためだったというお話(『余白の旅』一七頁)を読んで、「この方は本当に、司祭になるためにこの世においでになった方なのだ」と痛感したことでした。

*頂いていた原稿から選句しました。③これは私もやってみました。アヴェ・マリアの替わりに「アッバ、アッバ、南無アッバ・・・・」とやってみたり、交互に唱えたり。こうした身近な工夫が、日本人の新しい祈り方を生んでいく。

長谷川末子(秦野)
初場所の満員御礼十五日
孫達の食み笑い合う二日かな
冬草の神を見あげる強さかな
かるた取団地仲間は八十路すぎ
月脚伸ぶ亡夫の口元やわらいで

*ひさしぶりの御出句うれしいです。ご主人が亡くなられた後、お孫さんに囲まれてお正月を過ごす姿が、髣髴とします。③この「冬草」の希望を持つ「強さ」に見習いたいもの。④団地の高齢化・過疎化が言われ出しています。しかし、「かるた取」の腕前は健在!

井上文子(八王子)
麻酔さめ痛みの在りか主が居られ
まだ必要ですか足の補正する
ベッドまで花束が来るEメール

 一ヶ月ほど入院生活です。リハビリ大変ですが、三食つき自分の時間あり、神さまからのプレゼントです。

*つらい入院生活も、考え方次第で充実できる。 何事もアッバの「プレゼント」と受け止められること=「南無アッバ」の祈りの完成と言えましょう! どうぞ、お大事に。

片岡惇子(名古屋)
葉牡丹の渦が本音を吐いてをり
落ちるとき影浮彫りに白椿
氷張る束の間の刻意地通す
沈丁花月こうこうと闇隠す
◎不条理は神に委ねて早咲梅

*ときに鬱屈した気分が②「浮彫り」になり、①「本音を吐いて」みたくなることもある。素直になれず、③「意地を通す」ことも、また心の「闇を隠す」こともありましょう。しかし春を予感する⑤「早咲梅」に励まされ、小さな賢しらを捨てて、すべてを「神に委ねる」こと=南無アッバ!この一連に学ばせて頂きました。

平田栄一(蓮田)
主と共に生きて死ぬ日や寒の雨
背教の在り処や如何に懐手
片言に読める福音息白し

寄贈誌より

 「日矢」六〇〇~〇一号・新堀邦司
色も味も古稀の妻の煮大根
地に平和願ひ聖樹を灯しけり
  妻急逝                      
◎夜もすがら泣く吾が声ぞ虎落笛

*③十二月十日、奥様が天に召された由。「見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に存続する」(Ⅱコリント四・一八)との牧師の説教があったという。誌上ながら、心より南無アッバのお祈りをささげます。

「花組」六四号・林よしこ
春キャベツ静脈しずかに伸びてゆく
吊橋を渡ればだれも戻らぬ秋
手のひらに隕石受けて枯野ゆく

平田講座要約(第35~36回)
テキスト『心の琴線に触れるイエス』

<第三五回>続
p・45
さらに、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ三・一三)という言葉に端的に表現されている、いわゆるキリストの「身代わり理論」については、「律法の呪いとか支配とかいうことも、そのままでは到底私たちには実感としてとらえられず、この考え方も何か一つ力不足の感をまぬがれない」といいます。

ガラテヤ三・一三について――青野神学を参考に――この節bは、申命記二一・二三「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と同二七・二六「この律法の言葉を守り行わない者は(神に)呪われる」との混交引用です。ただし、パウロは「神によって」を「律法によって」に、あえて変更している意味が大事な点です。つまり、十字架のイエスは神に呪われたのではなく、律法主義に「殺害」された、という思いがパウロにあったのではないか、ということになります。

「ただこの表現を、自我の肥大による自我呪縛のむなしさ、というふうに解釈するならば、次の『初穂理論』とあわせて、現代の私たちにも近づきやすい救済論への手がかりとはなるように思う」とも述べています。

「律法の呪い」を「自我肥大・呪縛」と置き換えて現代的に理解するということ、これも一種の非神話化といえましょう。これは、律法主義、行為義認、自力救済論=自分の力でなんとかなる、という意味でのエゴイズムの拡大への危険ということにつながると思います。

拙著『すべてはアッバの御手に』p・37~38では、「罪」とは「エゴイズム」に集約される、という井上神学の特徴について述べました。これは、パウロが「罪」をいう時、単数形・複数形で使い分けていることと符号します。つまり、パウロはユダヤ教の律法違反をいうときは複数形→贖罪論につながり、単数形のときは「根源的な罪」を述べているのです。このことは、青野神学とも一致します(『「十字架の神学」の成立』ほか)。

参考までに、井上神父は『キリストを運んだ男』p・36でも「パウロによれば、本当の意味における罪とは唯一つしかない。それは神の前に己の義を立てることに他ならない。」と述べています。これは諸々の「罪」に対して大文字のSin、「原罪」という考え方につながる罪だといえましょう。


『井上洋治神父追悼写歌集』をつくりました!

井上神父存命中、西早稲田の自宅で行われた、
洗礼式のミサをコマ送り的に撮影した貴重な写真を中心とする二十一枚と、栄一が神父を回想、追悼する短歌二十首を収録しています。全20ページ。価格:1冊500円(税・送料込)
ご希望の方は、著者サインの有無を含め、平田までご連絡ください。


毎月の南無アッバの集い&平田講座

於:四谷ニコラバレ 3/28(土)、4/25(土)
―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*問合せ 平田栄一

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第212号 2015年1月 発行   

あけましておめでとうございます。今年も何事につけ南無アッバ!

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

片岡惇子(名古屋)
山茶花のさらさらと散る余白かな
我がタレント頷くことか菊香る
枯菊や笑み満顔で束ぬ人
綿虫や体を走るヨブの憂ひ
○冬の日や夢は天の国駆け巡る
風花や涙の人に主の平和

*⑤一読、芭蕉の「旅に病んで夢は・・・」の辞世句を想起させる。信仰の原点は「希望」と思う。そして希望は絵に書いた餅では終わらない。「わたしたちは神の子とされる希望によって救われているのです。」(ローマ八・二四)

佐藤淡丘(豊田)
東に深く尾を垂れ寒北斗
額づけば目の前で鳴くちちろかな
落ち葉には風の名残が伏せてある
蹴り上げて落ち葉の他はなかりけり
◎一粒の雨ではじまる落葉かな

 午前五時頃のこと。「会神の丘」への坂道はまだ、真っ暗。でも前方には、空が開け、光の
渦がなんとなく見えて来ます。今朝もひとりこの丘に立ち、思う存分「南無アッバ」を唱え、そしてひれ伏して祈りました。
 そんなとき「おみ風さま」が、そっと寄り添うように、小枝を揺らし去ってゆくのです。アッバ・アッバ・南無アッバ。

*⑤「からし種一粒ほどの信仰があれば(山は動く)」と言ったのはイエス。「山は動いた」と言ったのは昨年亡くなられた土井たか子さん。小さな努力の積み重ね、幼子の単純さを大事にしたい。

赤松久子(高知)
便り無き友案じつつ過ごす秋
無花果や当たりはずれはままならず
老を生きる手本の多き〝ホーム〟かな
○嫌はれて逃げて距離置き南無アッバ
つま亡夫と師に日毎のお水〝南無アッバ〟
逃げ足の速かりしつま亡夫うさぎ年(享年70歳)
〝はるうらら〟勝てない故のファンがをり
○師の文字の乱れに胸がキュンとなる

*④行き違いがあれば謝って、歩み寄れば・・・と思いつつもできない弱さをも、アッバは受け入れてくださる。⑧御眼が不自由になっていった井上神父。その師が精一杯書いてくださった一枚のはがきは、宝物です。

魚住るみ子(練馬)
○南無アッバうから家族寿ぐ九十六歳夫健やかに誕生日迎ふ
かくしゃく矍鑠と日毎の散歩は石神井川辺餌を待つ鴨どち南無アッバ
南無アッバ子供御輿よ法被着てVサインする幼き曾孫

*①おめでとうございます。まさに「天寿」と言うにふさわしいお歳。いや、長さではなく、アッバのお計らいを「南無アッバ、アーメン」と心から言えるようになりたいものです。

F・フランシスカ(八王子)
○好物を半分こする十二月
落ち葉する一枚ごとに南無アッバ
立ち返る戸口にイヴの灯が温い

*①良いものは「半分こ」すれば、おいしさが倍になる。四福音書すべてに載っているイエス様の供食の奇跡物語を思い出します。分かち合うことのすばらしさと難しさ。

平田栄一(蓮田)
孫娘は女系家族に囲まれてパチパチ写真を撮られておりぬ
父となる次男は来年院に行く家計を支える嫁こそ強し

『短歌人』八七〇号「Book Review」より
『八月の耳』春日いづみ歌集評:余白
 著者の第三歌集、二〇〇九年以降の作品が収録されている。「あとがき」に「耳が鋭くなってきた」と記す。
 唱和する祈りの声のくぐもりに跳ね返りくるわが軽き声
祈り深まり来れば、自らの(心の)声にも敏感にならざるを得ない。
年譜はないが、おそらく私(S30生)より少し上の世代で、私と同じキリスト者(たぶんカトリック)と思われる。
 虫喰ひの大葉刻む手早まりぬ 無条件降伏といふ結末
 上下句の二事項衝撃の俳句的な技法が見事。
坂道の先の何かに向かつてた朝日ジャーナル胸に抱へて
五十代は人生の秋なればいざ錦の晩秋六十代へ
 「朝日ジャーナル」は世代的キーワード。まともに読まずともブックバンドで持ち歩いたもの。一歩先を行く先輩として、頼もしい姿をこの歌集は見せてくれる。(ながらみ書房 定価二六〇〇円+税)

寄贈誌より
 「日矢」五九五九七~九号・新堀邦司
下闇や石重ねたる猫の墓
もてなすと一茶の里の走り蕎麦
○色変へぬ松や加餐を祈りけり

*新堀氏が「日矢」に連載されている「人物歳時記」に今回、島村哉哉(本名:亀鶴)が取り上げられています。求道俳句の先達として尊敬しています。

「こみち」二六三号・魚住るみ子
デジタルへ一歩ふみ入る老いの秋
咳くやちちろ鳴く庭恋しとも

「祭演」四九号・森須蘭
葱坊主自立心ばかりではない
只今の優しさみんな赤とんぼ

平田講座要約(第34―35回)
2013年3~4月=テキスト『心の琴線に触れるイエス』
<第三三回(続)>
井上神父も言っているように、新約の新約たるゆえん、旧約と決定的に異なる点は、怒りの父性神ヤーウェに対する悲愛の母性神アッバということです。
これは、「行為義認」対「信仰義認」という対比にも置き換えられるように思います。それはさらに、「合理」対「非合理」(「不合理」というよりも)という対比でもあるのではないかと、私は思っています。なぜならば、律法主義――行為義認には根底に、上のような合理主義・勧善懲悪的思考があるからです。
パウロの、そしてイエスの「福音」は、ローマ四・五「不敬虔な者をそのまま義とする神」に根拠があります。それは人間の合理主義にとってはまったくの「逆説」であり、不合理です。しかしそうでなければ、福音は倫理・道徳と何ら変わらない、福音ではなくなってしまう(青野太潮『「十字架の神学」の成立』二〇一―二頁参照)。

<第三四回>
これも青野先生の影響ですが、「福音」というのは、そこに「逆説」がないと単なる倫理になってしまう危険があります。たとえば、愛なる神がその義を貫徹するために、最愛の子=イエスの生贄が必要だった、というのは、逆説じゃなくて、矛盾ではないか。この場合、義を成り立たすために、犯された人間の罪を、何かで補償しなければならない、と考えるのは、上の合理主義的発想だと思うのです。
p・44
次に、奴隷制度や捕虜の受けだしといった、主に古代ヘレニズム世界を精神的に背景に持っている「贖い理論」((「贖い」と訳されたギリシャ語リュトロンは「奴隷を買い戻すために払われる身代金」という意味)は、「現代日本の私たちにはやはり馴染みにくい理論といわざるをえないだろう」といいます。
これが、やがて罪からの解放を意味する贖罪論になりました。ある意味どんな宗教にも認められる発想かもしれませんが、やはりこれも奴隷(罪)とお金(イエスの死)の等価交換ということですから、マイナスを埋め合わせようとする合理主義の一種とみなせると思います。
p・45
また、法を重視するローマ社会を精神的背景とした「借金棒引き理論」(コロサイ二・一三~一四など)も、「私たちと神との間の関係が法律的用語で処理されていて、いまひとつ説得力に欠けているという感をまぬがれない」とします。
借金棒引き理論は、負債証書を十字架に釘付けにして帳消しにした、といったニュアンスかと思います。マタイ一八章の<「仲間を赦さない家来」のたとえ>が思い起こされます。アッバの無条件のゆるしの強調と捉えれば理解しやすいかもしれませんね。


毎月の南無アッバの集い&平田講座
於:四谷ニコラバレ 1/24(土)、2/28(土)


―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月十日*連絡先:余白メールにてお問い合わせください。*ブログ「南無アッバを生きる」に掲載*〒振替口座〇〇一七〇―三―二六〇九〇九 平田栄一

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第211号 2014年11月 発行   

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

魚住るみ子(練馬)
ママチャリの前と後に児を積みたる急くな転ぶな事故以ての外 南無アッバ
ゆづられて礼なし坐る眼前に大き腕時計南無アッバなむ
○持ち時間とふ身にしみぬ南無アッバ賜はれる日々蒼天高シ

*②礼を言いそびれた一瞬。自らの時間に気づく。③各人が「持ち時間」を意識したとき、それまで意識しなかった世界が見えてくることを思わせる作品。希望はなくならない。

片岡惇子(名古屋)
満月や我が生き様のかけら落つ
初生りの無花果眩し神のわざ
秋暑し捨てきれぬもの目に重し
寂しさ聴き淋しくなりし秋桜
○存在を示せぬままに韮の花
葡萄とる手と遊び居る白い風

*東北の被災地へ、長崎へまことアクティブに活動されている由、頭が下がります。①半生を振り返るとき、そこかしこに見る足跡。②すぐ目の前に見る「神のわざ」こそ千金の価値。⑤究極の救いは、イエスの示したケノーシス(自己無化)かと。

佐藤淡丘(豊田)
曼珠沙華一筋群れて叫びをり
善良な面(かお)もて落つる木の実かな
一日を一生とせしちちろ虫
◎人体の大方は水 古酒に酔ふ
裏山はいつも斜めに法師蝉

 イエスさまは、人を救うために数々の奇跡を行われましたが、ご自分を救うためには、敵の前に、これに手向かおうとする者に、小指一本さえ挙げられませんでした。
 これこそ不思議な〝無私の心〟と言えましょう。今日も「会神の丘」に登り、無者キリストの深いお恵みに感謝し、ひれ伏し、〝南無アッバ〟と三回唱え、満腔のうちに丘を下りました。南無アッバ。

*①②日常の中に度々ある遣る瀬無さ。それらは徐々に忍び寄ることもあるし、不意を突かれることもある。ままならぬ人生。④しかし、「大方は」誰もみな同じ「水」からできている身の上。「古酒に酔」えば、互いにわかりあえる。

赤松久子(高知)
一斉に蝉鳴き始む晴れ間かな
大雨の爪あと残し夏去りぬ
理系の息子(こ)素朴に神を信じをり
神父さまの〝マリア地蔵〟に秋の風
○南無アッバ八十一の誕生日

*⑤お誕生日おめでとうございます。これまでの人生にはたくさんのご苦労も喜びもあったことでしょう。今それらを振り返る時間をアッバから与えられている。しみじみとした感謝の念が「南無アッバ」に込められている。

F・フランシスカ(八王子)
生き方を示すレビ記の神の愛
選ばれた民に連なる深い縁
庭草の柔らかくなり主病める
壊れゆく命を見つめ南無アッバ
○泣き言を包む花野の南無アッバ

*③④老病はつきもの、と知ってはいても、当事者となれば割り切れるものではない。⑤井上神父も晩年は淋しさ、辛さを隠さず、末期はお苦しみにもなった。真のキリスト者とは、只のの人としてまっとうに生きること。

平田栄一(蓮田)
このところ御無沙汰しているロザリオを二人で唱え始める深夜
「祝初孫娘誕生感謝」としミサ献金を少し弾みぬ


寄贈誌より

 「日矢」五九六号・新堀邦司
ノアの見し雨さながらに梅雨荒るる
孫からの声の便りや星逢ふ夜
○自分への褒美の今日も缶ビール

②近年はネットなど通信技術が格段に進歩したので、遠方でもリアルタイムに「声の便り」が届く。アッバの御声も吾らのすぐ近くに。③それが一本で止まれば、まさに健康的生活!

「こみち」二六二号・魚住るみ子
朝戸出やもう一枚のハンカチを
兄弟の背丈の伸びて夏休み
夏やせに良しといふもの召しませよ

*全句、作者の暖かな思いやりが直に伝わってきます。求道俳句の目指すところは、悲愛の心。井上神父は、「悲愛」は天下国家といった大仰なものではなく、「非常に日常的な些細なもの」と言っていました。


平田講座要約(第33―34回)

2013・2=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

キリストは倫理的に倣うべき模範ではなく、キリスト者は「キリストと同じように生きることが決定付けられている」(web「私もまたイエスのように」)と青野太潮氏は言います。すなわち、私たちの人生は、弱さ・愚かさ・苦しみ・みすぼらしさ・不条理・無意味といった十字架に満ちている。しかしこの事態を、イエスの「つけらてしまったままの」現在完了形分詞形の十字架にあずかる=同定するとき、逆説的に賢さ・救い・祝福されるというのです。そこに「復活」を見る。

p・43


こうみてきますと、かの「対談」で語られた「十字架より復活・・・・」という井上神父の弁はむしろ、「十字架から復活へ」という意味合いを持ったものとして受け取るべきではないかと思います。」


「より」から「から」へ。見方のちがいですが、レオンデュフールによれば、ほぼ十字架=高挙(昇天)=復活を意味したと考えられます(『イエスの復活とその福音』p・87から復活=昇天、p・95から十字架こそ神の栄光=高挙と解釈できる)。これに影響された井上神父は『日本とイエスの顔』で、復活は対象化・概念化できないから、その「体験の絶対性」ゆえ、様々な表現をとらざるを得ない、といいます。「復活」はエルサレム教団、「高挙」はガリラヤ・ヘレニズム教団という図式です。

だから本来一つのことが、3つの表現をとった、といえるのではないか、ということです。

三 「共に在す神」の再発見

■五つの救済論
p・44


このように復活を重視する井上神学を今度は、日本人へ向けた救済論という点から見ておきたいと思います。


復活から初穂理論が日本人に合っているという伏線的な導入です。

余談ですが、先日、妻が叔母の仏教の葬儀に出かけました。宗派にもよるのでしょうが、最近はお経が日本語に読み下した文になっており、大変わかりやすかったというのです。「それは良かった」と私が言うと、「だけど、今までは何を言っているかわからなくても、独特のリズムでなんとなくありがたい、と思って聞いていたのが、今度は却って、こんな怖いことを言っていたのかとわかってしまう。三途の川を渡るための杖がどうしたとか、地獄行きを防ぐにはどうするかといった話で、おどろおどろしかった。やっぱり天国の話がいいわ」と言うのです。

ちょっと笑い話のようになってしまったかもしれませんが、私たちが日頃「ありがたい」と思っている信仰の内実は何なのだろう、と改めて考えさせられる事例でもあったように思います。


神父は先に引用した論説「救いの神秘の表現について」(『風のなかの想い』七六頁以下)で、およそ次のように述べています。

まず、旧約ヤーウェ宗教を精神的背景として、イエスの死を「動物犠牲」と重ね合わせて理解しようとする「償い理論」は、「そのままでは現代日本の私たちにとって到底受け入れ難い」といいます。


罪に対する償いとか、悪事に対する罪滅ぼしというのは、プラスの要素でマイナスの事柄を埋め合わせようとする発想です。心理学的にも人間には誰しもそういう傾向が、確かにあります。しかしその根底には、一たす一は二、一ひく二はマイナス一になるはずだ、という人間の勝手な計算、ある種の合理主義、私たちの思い込みがあります。そしてそれは、因果応報・勧善懲悪的な道徳的発想に通じます。悪事を働いたからその報いを受けたのだ、というような発想ですね。以下の「救い表現」も、「初穂理論」以外は、みな同様の発想に基づいています。

毎月の南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ 11/22(土)、12/20(土)


―――――「余白の風」入会案内―――――
*購読のみの方も含めて、どなたでも参加できます。*年六回奇数月発行*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任*締切=偶数月十日*投稿先:メールでお問い合わせください。*年会費千円(送料共)*ブログ「南無アッバを生きる」に掲載

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第210号 2014年9月 発行  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

F・フランシスカ(八王子)
平和旬間バトンを握り南無アッバ
○九条が揺れる震度に目を覚ます
十字架の平和しみじみと八月
留守番をしたと嵩増す夏の草
熱風の街生かされているふしぎ
緑蔭の清風に会う南無アッバ

*②公民館だよりに、「九条守れ」の句を載せなかったことで世論が沸騰している。市は「世論を二分するテーマは避けるべき」と勝手に判断する前に、全公務員に課せられている「(「この」=現行)憲法尊重擁護の義務」(九九条)があることを忘れてはならない。

魚住るみ子(練馬)
○忘れ易き脳(なづき)を励まし記憶をたどる あれは あの時 南無アッバ
嬰児はすとんと寝入りぬ母を呼び泣きゐしものを母の乳足らひ 南無アッバ
春深しバス停二つまどろみぬ

*①「老いは今まで頂いてきたものを一つずつお返し申し上げる時」と井上神父は常々おっしゃっていました。その寂しさのなかにあっても「南無アッバ」②老いる程に、私たちはこの「嬰児」の単純さ、素直さに学ぶべきなのでしょう。

片岡惇子(名古屋)
向日葵や果てるところに君がゐる
壊れゆく命を包み百日紅
百日紅風に逆らひ瞬に散る
○蝉時雨半音下げて祈りの刻
八月や言葉失ひロザリオ繰る
八月やどの道行くも焦げ臭き

*どの句にも日常と非日常の対比が巧みに表現されている。④「蝉」も「祈りの刻」には音程を変える。⑤「ロザリオ」を唱え始めてしばらくすると、心と頭が澄み切ってきて唱える「言葉を失う」時がある。共感。

佐藤淡丘(豊田)
遠き日の一日を借りて田水張る
梅雨寒や心の棘のありどころ
蝸牛殻に潮騒宿しをり
青あらし水甕の水溢れざる
○あぢさゐとひらがなでかくうなじかな

 井上神父さまが、お亡くなりになられても「アッバ神学」は、今も私の中に生きています。その実践の場は、早朝の「会神の丘」であります。自分を無にして、キリストへの「信入」です。
 キリストの中へ自分を棄てる。そのとき、みたまの力により、塵芥のように大地に溶け込み、心から「南無アッバ」と唱え、そして癒されてゆくのです。アーメン、南無アッバ。

*③「蝸牛」にとっての「潮騒」は、それこそ数億年の遠い記憶かもしれません。⑤最近、初孫娘が生れました。こんな光景がいつ見られるのか、楽しみです。

西川珪子(一宮)
学童の声に負けじと苗育つ
うすものや母の墓なり南無アッバ
戦なき世を願ふ八月の水
◎大き種抱へる枇杷の原罪は

*近年とみに暑い日本の夏は、考えさせられる事件や話題も多い。③集団的自衛権、原子力発電所再稼動問題・・・「八月」の死者の声いかに。④「大き種」に象徴される人間の「罪」。むろん「枇杷」に責任はない。

ユックリン(広島)
飛び去らず我に寄り来る蛍かな
飛び立てず我に寄り添う蛍火よ

*二句並べての出句、味わいの違いを考えさせられる。①強い「蛍」②弱い「蛍」という印象がまずあって、しかし、「寄り来る」より「寄り添う」方に、人生同伴者の親近感は深いかと。

赤松久子(高知)
著作集伝へ行くらむ師の思ひ
師と亡夫(つま)と同じ命日桃の花
指細り結婚リング右の手に
○ヘルパーと別れを惜しむ五月闇
愛らしき地産地消の苺かな
友よりのトマト食みつつ南無アッバ

  使えなくなったカード(詩)
 神父さまにさし上げようと/用意していたイースター・カード//お目にご負担がかからないようにと/考えに考えぬいた短い言葉の下書き//それらを地上に残して/ あなたは/ アッバのみ許に行ってしまわれた。//下書きは破ってしまったけれど/このカードは誰にもあげず/ずっととっておきますね。/ 南無アッバ

*④それが今生の「別れ」にならないとも限らない。井上神父に最後にお会いしたとき、不自由な身体をおして見送ってくれた。神父は「最期」と覚悟していたのかもしれない。

平田栄一(蓮田)
桑の木に登れば見える主の姿
患難は望みを産めり秋の山


寄贈誌より

「日矢」五九四、五号・新堀邦司
鳥たちは瑞枝に歌ひ復活祭
復活祭の花を献げて父母の墓
地ビールの名も「深大寺」ほろ苦し
父の日や少し濃い目のウイスキー

「風」(井上洋治神父追悼特集)を一晩で読ませていただきました。一度もお会いする機会がなかったのに、井上洋治神父様のお人柄と「南無アッバ」の信仰を身近に感じることができました。読み終えて、私も思わず「南無アッバ」と口に出してしまいました。「南無アッバ」は、神様の寛やかな愛に包まれていることへの心からの感謝が込められた言葉ですね。
 神様への全幅の信頼から発せられた言葉ですね。よほど身近に神様の存在(共在)を感じられなければこの言葉は口にできないと思います。
 井上神父様のご提言の中で、「下からの神学」「即自然的神観」には共鳴するものがあります。

*新堀さん、ありがとうございます。このところ、生前は井上神父と直接面識のなかった何人もの方から、このように神父を慕うお言葉を頂いており、心より感謝申し上げます。

「花組」六三号・あざ蓉子
秋の暮石のひとつを撫でている
永遠にあなたの笑顔そらの春

「祭演」四八号・森須蘭
落つための力溜め込む紅椿
身の内に関所がありて春朧


平田講座要約(第33回)

2013・2=テキスト『心の琴線に触れるイエス』
p・42
「泥まみれになった一葉の紅葉が、己を無にして無心に散ったが故に、秋風を私たちに告げているように、馬小屋から十字架までの一見色あせ挫折したようにみえるイエスの生涯もまた、神の働きの偉大さを告げるという、深い重大な意味をもっているのだということになるわけです。」(『人はなぜ生きるか』二〇〇頁)

ここを、先のカール・ラーナーの「原初的経験」(p・34)に照らしてみると、人間的に見れば、すってんてんで死んだイエスがアッバの懐に迎え入れられた、だから私たちのどんなにみじめな人生であっても、アッバは迎え入れてくださる(くださっている)、ということです。先の青野太潮さんの「私もまたイエスのように」という「十字架の逆説」を思い出します。
p・43
 ここには、イエスのこの世(三次元)での全生涯――病人や罪人の友となり、惨めに死んでいった生涯が十字架に集約され、さらにそれが復活を通して、御父により超三次元の世界=神の国へとアウフヘーベン(aufheben:止揚)されたのだ、という信仰を読み取ることができます。そしてわたしたちの苦しみを、十字架を頂点として共に担ってくださったイエスが、さらに復活を通して御父のもとへ、神の国へとわたしたちをまちがいなく送り届けてくださるのだ、という確信があるのです。

「アウフヘーベン」は、ヘーゲル弁証法の用語です。2つの矛盾するものを統合すること。正・反・合とか、否定・保存・高次といった言葉で説明されます。ここではたとえば、正=イエスのアガペーの生涯、反=惨めな十字架、そして合=神の国・救い・祝福といった様にあてはめて考えられます。

しかしこの場合も、井上神父の念頭にあるのは、罪も背負ってくれたけれど、「共苦」のニュアンスの方が強い。「共に担ってくれた」=青野神学的にいえば、「弱さ・愚かさ・みすぼらしさ」の連帯です。

毎月の南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ 9/27(土)、10/18(土)

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。*A5判両面1枚、年六回奇数月一〇日発行。サイドバーに見本があります。*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任 *締切=偶数月十日 *投稿先:メールでお問い合わせください。*年会費千円(送料共)*ブログ「南無アッバを生きる」にも掲載。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第209号 2014年7月 発行  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

神父様の遺言(下):平田栄一

井上神父様は、だんだんお身体が弱っていく中で、ゲッセマネの祈りを繰り返していました。救急車で運ばれるときも、「アッバ、アッバ、アッバ」と繰り返していたそうです。やはり、お苦しみになったんだと思います。

晩年の神父様は、お話のたびに、老いの厳しさを語っていましたね。わたしのブログにもアップしましたが、二〇一一年の「風の家」二十五周年と翌二〇一二年の二十六周年の講話の中で、神父様は、老いの厳しさを語りながらも、次のようにおっしゃっていました。

「アンマン空港で聞いた男の子の『アッバ、アッバ』という叫びを、毎晩思い出しながら、ゲッセマネの祈りのように、『アッバ、アッバ』と唱えています。アッバはこういうわたしたちの祈りを必ず聞き入れてくださっていると思います。それは、今すぐどうこうとは言えないかもしれませんが、人生の最後の完成――死ぬ時に、その人にだけ、アッバが手を広げてお迎えに来てくださるのだ、そう思っています」と。

 そしてさらに、「しかし、それが最後の時まで続けることができるのか、はなはだ(自分には)自信がないので、ここにおいでくださっている皆様に、わたしが最後の時まで「南無アッバ」とお祈りを唱えて、アッバのお迎えを受け入れることができるように、お祈りしていただきたいと、思います。よろしくお願いいたします。わたしも、皆様の上にアッバの安らぎがありますように、お祈りさせていただきます」と結んでいます。

 この二年前のご本人の願いどおり、本当に、「南無アッバ、アッバ、アッバ」と唱えながら、アッバに迎えられたのでした。
 そういう意味で、神父様はいろいろご苦労もあったけれど、最後まで皆様に支えられ、祈られ、幸せな人生を全うされたのだと思います。

葬儀後、出棺の時、ものすごい強風――「春一番」が吹いていました。私は斎場へ向うバスの中で、「この強風、まさにプネウマに運ばれての出棺ですね」と言ったら、「プネウマはもっと優しい風ですよ!」とたしなめられました(笑)。

かつて二〇〇九年十二月、井上神父様が南無アッバミサの中で、「私からの遺言として聞いてもらいたい」というような前置きをして次のような話をされました。それは、神父様の生涯の総決算として、これからの日本のキリスト教の方向性に対する三つの提言でした。すなわち、

①テレジアに教えられたように、神様は「アッバ」と呼べる母性原理の強いお方であるということ。
②今後は、だれでも近づきやすい「下からの神学」が大切なこと。
③自然を友とする日本人には、即自然的神観、汎在神論が馴染みやすいということ。

という三点です。
井上神父様はまた、二〇一一年七月九日に、東京教区の岡田大司教様と対談されました。お聞きに来られた方も多いでしょう。あのとき、長い対談の最後の所で、大司教様が「では、井上神父様は、今の教会は具体的に何をすべきだとお考えですか?」と聞かれました。しかし、そのとき井上神父様は、具体策を示されなかったのですね。あえてそうされたのかどうかはわかりません。僭越ながらわたし自身は、この際だから何か一つでも具体案を言われた方がいいのに、などと少々歯がゆく思ったものです。

しかし、今は、そのとき何の提案もされなかったのは、あの「遺言」を聞いたわたしたちに対する宿題をお出しになったのではないか、そう思うようになりました。すなわち、アッバの「母性原理」、「下からの神学」、「汎在神論」をキーワードに、わたしたち一人ひとりが、具体的に日本人の心の琴線に触れるイエス様を求めていきなさい、ということです。

 それは何も、世間に目立つ大きなことをする、というのではなく、毎日、事あるごとに「南無アッバ、南無アッバ」と、神父様の、あの最後の実践にならって、唱えることかもしれません。各自ができることを実践する。井上神父様は、天国でそう望んでおられると思います。

 ずいぶん前ですが、あるきっかけがあって神父様に、この「風の家」運動は今後どうなるんでしょうか、と聞いたことがあります。その時、神父様は次のようにおっしゃいました。

「この運動が、アッバの御心にかなっていれば、自然に広まっていくだろうし、そうでなければ消えていくまで。それでいい」と。

 わたしはちょっと寂しさを感じましたが、「風の家」運動そのものが、すなわち「南無アッバ」なんだなあ、肩の力を抜いて行けばいいんだなあ、と思い直したのでした。

井上神父様は、今はアッバの懐で、パウロが言ったように「顔と顔を見合わせて」「アッバ、アッバ」と唱え続け、わたしたちの人生にお力を貸してくださっていると思います。わたしたちもこの神父様にならって互いに祈り合いながら、進みましょう。

登りゆく目白坂には満開の河津桜が風に吹かれり
この坂を登りて学び下りては共に飲みにも行きたる日々よ
日本人の心に響くキリストを追いし生涯悔いはなからん
「復活とは何でしょうか」とのっけから聞きたる吾にニコリと返す
ある時は渡辺一夫の家に行き美空ひばりを歌いしことも
晩年は誰にも会わぬと決めていた神父の覚悟今に思えば
遠からずこの日が来ると思ってた安堵のうちに訃報を聞くも
「南無アッバ、アッバ、アッバ」と手を振りて末期は喘ぎ逝きしと聞けり
ご遺体の安置されたる司教館しずかな春の足音だけが
「風の家」の神父の出棺いままさに春一番はどどっと吹けり
神父より洗礼受けし宇津井さん後追うように六日後逝けり
今頃は遠藤さんと天国で一杯やってるに違いない

アッバ、アッバ、南無アッバ

(「風」第九六号=井上洋治神父追悼号に同時掲載)

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句)

赤松久子(高知)
読み耽る追悼号や梅雨の日々
一人ひとり神父様とのつながりのありしものよとしみじみ思ふ
◎「南無アッバ」唱へきれずに末期には「憐み給へ」になるやも知れず
苗床に若き芽育ち師の思ひ継ぎゆく姿たのもしきかな
師を偲び春の一日は暮れにけり
菜種梅雨ベッドに臥して南無アッバ
世界中争ひ絶えぬ五月かな
恐ろしき夢より目覚め南無アッバ
母の日のクッキーつまみ南無アッバ
南無アッバ川面を渡る青葉風

F・井上(八王子)
天へ向く麦穂神神しく見入る
○清浄な香にどくだみ蕺草の孤を愛でる
行いは別に聖句を抱いている
友からに見舞いメールに笑むベット
リハビリのリズム祈りと和合する

魚住るみ子(練馬)
井上洋治神父様を偲ぶ会
うつしゑは何時ものお顔み諭しのくち唇より出づると思ほゆるかな
流人法然の船端に遊女たち弥陀の救ひをもとめ寄り来る
テレビ放映・こころの時代・沈黙
○「踏むが良い」いみじくも賜ひしみ言葉アガペー悲愛の極み南無アッバなむ
南無アッバゆだねまつりて安んぜよゆるしの言葉身にしみわたる

片岡惇子(名古屋)
東北釜石にて          
若葉して震災の影霧かけり
空洞の命包んで藤ゆれる
夏雲に痛き心をぶっつけぬ
露涼し憂ひ無き子の目に遊ぶ
○九条を遺産としたし夏の雲

寄贈誌より  

 「日矢」五九二・五九三号・新堀邦司
孫娘の
生国は菜の花薫る高知かな
三月十一日
復興のなほなほ遠く余寒空
就中今日の桜や基吉忌
○師よ来ませ花の浄土は此岸にも


毎月の南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ 7/26(土)、8/23(土)

―――――「余白の風」入会案内―――――
どなたでも参加できます。年六回奇数月発行。
参加希望はサイドバー「余白メール」でお知らせください。。採否主宰一任。年会費千円。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第208号 発行  

2014年5月号
井上洋治神父追悼号です。
余白の風 208 号 2014-05
PDFです。

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第207号  

求道俳句紙「余白の風」第207号

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求道俳句誌「余白の風」第206号 2014年1月  

 *日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる
会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

井口萬里子(三浦)
黙想の個室のわれと遠き灯と聖なるかなや夜半を覚めゐる
黙想の個室の窓より満月と杉木立みゆ更けて音なく

*共同の祈りとしてのミサとともに、個人的な祈りの時間を持つことはとても大切です。普段気がつかない「遠き灯」や「満月」「杉木立」までもが語りかけてくる。

魚住るみ子(練馬)
南無アッバ山茶花真白二人目の産月近きまご孫娘を労る
南無アッバ肩冷ゆる夜半目覚めたりアッバの祈りめつむりとなふ

*年明けに米寿を迎えられる由、おめでとうございます。私の亡父が米寿の祝いの時、まずは母に感謝の言葉を述べていたことを思い出します。どうぞいつまでもお元気で。

片岡惇子(名古屋)
真中に主が居て日溜り草の花
菊束ね天に香を放ちけり
落葉の全てが終り祈りの時
時雨るるや生かされ生きて生かされる
綿虫や主の招く門入りけり

*ひどいお風邪を召された由。その後いかがですか。①いつも「主」が中心にいる日常は、心も安定する。③「全て」が終わったように思える時こそ祈りの始まり。④「生かされる」ことと「生きる」こととが一致する瞬間。

佐藤淡丘(豊田)
この冬木早暁の月かかりけり
この道や冬満月の影や濃し
対岸の灯も瞬けり寒北斗
かそけしと落葉の人となりにけり
短日や老の繰り言メガネ拭く

 冬暁の天空は、なんと美しいことだろう。上弦の月に明けの星(金星)が、風鈴のように寄り添い神秘な輝きを放ってくれる。
 この神聖な光を体にくるみ、「南無アッバ」と唱え、大地に三度跳躍を繰り返すとき、心身共に、宙と一体化する感覚にとらわれるから不思議である。これを信仰というのでしょうかね。お笑い下さい。

*「会神の丘」では無限に俳句やアッバ讃句が生まれそうですね。そうした宗教体験は、「宙と一体化する感覚」と共に、淡丘さんの血肉となって信仰を成長させてくれるのだと思います。

瀧野悦子(京都)
リハビリの母と足踏み待降節
南無アッバ守護の天使と日向ぼこ
父と子と聖霊讃ふミサ始め
淑気満つ南無よアッバよLET IT BE
新しい年もよろしく南無アッバ

*④「南無よ」がユニーク。修辞的にはおかしいのですが、その心はよくわかります。私なども、よく「アッバさま」などと言ってしまうのですね。そのまま訳したら「おとうちゃんさま」ですから理屈では間違いでしょう。しかし祈り言葉は理屈ではありません。お任せの心から思わず出てくる言葉を大事にしたいと思います。「南無アッバ」「おみ風さま」・・・のように。

赤松久子(高知)
み恵みで旧友と会ふ秋の昼
友情に時の隔ては無かりけり
三日月の残れる朝に友想ふ
通院の道に深まる秋を見る
朝焼けや今日も飛び立つ鳥の群

昔のプロテスタントの友人が、東村山から訪ねて来てくれました。二人の体調と生活日程から、実際に会える瞬間があるなど奇跡としか思えず、「アッバは本当に必要なものはちゃんと与えて下さるのだ」と、しみじみ感じたことでした。

*お友達との再会を準備してくださったアッバ。その喜びと感謝の気持ちが御作に表れています。クリスマスカードありがとうございます。そこに記された一句も頂きました。

平田栄一(蓮田)
冬の空一人が逝きて一人あ生る
片言に読める福音日向ぼこ
倫理説く聖句は嫌い銀杏散る

寄贈誌より
「日矢」五八六、七号・新堀邦司
いくたびもベランダに立つ良夜かな
禁断のエデンの林檎甘かりし
訪ねたき人ひとりあり秋深む

*②「わかっちゃいるけど止められない」。人の業や欲望はどうにもならない。しかしそういう、どうしようもない私たちが構成するこの世を、アッバは裁かず「然り、よし!」とされた。

「こみち」二五九号・魚住るみ子
最高齢似顔絵受くる慶老会
山茶花のこぼるる真白病む便り

「驢馬」早見紀美恵
草萌や信じるもののあるように
緑陰や語らう友のありてこそ

日本人にわかるキリスト教を求めて

平田講座要約(第三〇回下~第三一回上)

賀正
本年も、この小さな紙面が皆様の祈りの場となりますよう、微力ながら努力して参ります。どうぞ今後とも求道俳句の普及にご協力ください。南無アッバ。

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。*年六回奇数月一〇日発行*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任
*締切=偶数月十日 *年会費千円(送料共)*ブログ「南無アッバを生きる」に掲載
*お問い合わせはサイドバーの余白メールへ。

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第205号 2013年11月 *日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる  

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

赤松久子(高知)
蝉の声あまり聞かざる年なりき
台風の過ぎたるあとのちぎれ雲
被災地を癒し給へや秋の風
キリストに惹かれて歩む霊の道
亡き夫は〝風〟に惹かれし人なりき

信仰も神学も人それぞれ――子供たちの親への関わり方がそれぞれであるように。<〝主我的〟も〝無我〟も忘れて南無アッバ>

*腰の痛みにペイン・クリニックに通い始めた由。お辛いことでしょう。そうした中でも、「被災地」に思いを馳せ、また亡き御主人やお子様への思いを温められる。まさに「無我」も「主我」もありません。

井口萬里子(三浦)
十字架に孤独預けてあじさゐに降るしめやかな雨を見てをり
信仰はおのおの深くしまひゐてミサ終へし後の茶をくつろげり
黙想の庭に鳥の音 騒音は遥か下にて渦まきてゐる

*①イエス様の「十字架」に合わせて私たちの「孤独」や「つまづき」「弱さ」を捧げましょう。アッバはそれらを「共感」「祝福」「強さ」に変えてくださいます。そこに「福音」がある。③二つの「音」の間を一字空けてみました。

魚住るみ子(練馬)
和やかな語らひ想ふ須波なる南無アッバの家健やかにこそ
南無アッバ朝戸出心清しきを今日のひと
日に恙あらすな

*前号「お知らせ」した「風の家」須波分会を立ち上げた荒木さんとるみ子さんは、井上神父を通しての旧知の仲。お二人とも温厚なお人柄で、南無アッバを生きておられます。

片岡惇子(名古屋)
台風やノアの箱舟空のまま
韮の花傷つき見えし主の十字架
青柿や怒り捨てつつ赤くなる
修院を風にまかせて秋の蝶
マリア像祈りし両手秋つかむ

*①ちょっと考えさせる句。「箱舟」が「空」ということは、新たな大地へノア他生き物たちが希望を持って降り立ったからか、はたまた途中で台風にみまわれて・・・?!

佐藤淡丘(豊田)
ごんぎつね足に絡まる彼岸花
古びたる聖書いとほし秋初め
ふくよかな母の面影白桔梗
紙芝居昔語りにいわし雲
名月や木の間がくれに従いてくる

童話作家・新美南吉の生誕一〇〇年祭に当たり、ご当地(愛知県半田市)は、「ごんぎつね」にまつわる彼岸花の群生地(二百万本)もあり、行楽客も含め、なんとなくかまびすしい、今日このごろです。

この石の上を過ぎる
小鳥達よ
しばしここに翼をやすめよ
南吉(墓碑銘より)

毎朝訪れることにしている、秘密の場所「会神の丘」に、この詩を立看板にして約三年、喧騒を離れて、この南吉の瑞々しい感性に改めて触れる思いがしています。
小鳥が来ます。南無アッバを唱えます。うれしい一日のはじまりです。

*私事ですが、昔吾子に、初めて「ごんぎつね」のアニメを見に連れて行った時、「かわいそうだ~」と、心配になる程いつまでも号泣したのでした。その長男も今や三十路。おかげさまで無事に新家庭を築いています。

瀧野悦子(京都)
主を賛ふバッハに長き夜をあづけ
秋さぶやまあるくなりぬ夫の肩
秋日差す洋書のならぶ襄の部屋
弾いてみたき八重のオルガン秋澄めり
深秋や新島邸に神在まし

*③~⑤NHK「八重の桜」も終盤ですね。これを機に、私たちとしては日本人とキリスト教というテーマを一人一人考えてみては、と思います。カトリックの方ではちょうど「信仰年」の総括が行われています。

平田栄一(蓮田)
十字架に「渇く」イエスや酷暑ゆく
髪洗う毎に御国は近づけり
主の御名の力や如何に大豆蒔く

寄贈誌より
「日矢」五八四、五号・新堀邦司
形見なるロザリオ古りぬ敗戦忌
空蝉のなほ執着の姿かな

*井上神父は「どんな人でもその死後に残すものは大きい」とおっしゃっていました。まして私たち日本人キリスト者にとって、「形見」として「ロザリオ」が残されれば、その方の一生の信仰が語りかけてくるでしょう。

「花組」六〇号・あざ蓉子(熊本)
たましいの打ち寄せられる春の暮
虫の夜や本を開けば死者のこえ

*3・11で失われた多くの命。しかしその「たましい」は、アッバの懐で永遠に憩います。

「こみち」二五八号・魚住るみ子
細やかな便りふっくら薔薇ひらく
片陰や真向ふ人の老を見ぬ

「驢馬」・詫洋一
春昼や神学講座聴いてゐる
少々は罪あるわが身君子蘭

「祭演」四六号・和田不美雄
生き過ぎの身に溜まりたる蛍の火
水無月の水際に白紙切り刻み

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俳句で学ぶキリスト教「余白の風」第204号-2013年9月発行  

日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

瀧野悦子(京都)
どの子にも守護の天使や夏休
炎天に生徒見守る聖母像
朝涼やパウロと刻む十字墓
夕立にヘルプヘルプよ南無アッバ

*①②「どの子にも守護の天使」がいる、「聖母子像」が「生徒」を「見守」っている、という作者の暖かいまなざし自体が、子供たちを見守っている。短い句にも人格が表れる。

赤松久子(高知)
のら猫の姿ちらほら夏の夕
片陰を主に従ひて女たち
マグダレナ終の住処は山と聞く
蝉しぐれ浴びつつ祈る南無アッバ

自分が築いていくのではあるが/その自分が築いていく生涯が/神の働きの場であるということが/どれだけ体の中に入っているかが問題/と、神父さまはおっしゃった/南無アッバ

*いつも沢山の句をありがとうございます。選句前の作品は保管しています。俳句は必ずスランプが誰にでも来るので、作れるときにどんどん作り込んでください。

井口萬里子(三浦)
花陰に鶏鳴きて驚きぬペテロが否みし鶏鳴教会
ガリラヤに月影おぼろキリストも遠蛙聞き祈りたるらむ
一点と思ふわが身もやがて消え在るは黄河の流れのみなる

*③黄河への旅のなかで、「一点」の「我」へのこだわりが消滅した・・・体験をされた由。復活の「キリスト」に出会った「ペトロ」の回心体験が想像されます。

片岡惇子(名古屋)
向日葵の裏葉に痛みそっと置き
天国にも定席有りや夏椿
人救ふ人の心や夏椿
蝉時雨一人生かさる主の心

*連日の猛暑・酷暑のなか「出来ることを日常として過ごしています」とのおたより。至言です。この厳しさのなかで「主の心」にアーメンと祈るとき、「一人生かさる」意味が見えてくる。

小林昌子(甲斐市)
「ルルドへの行進」の絵のよな宵の空瞬くうちに色は移りて
「ルルドへの巡礼」絵の空清しくてそも妻二億隠す哀しき

故平山画伯の絵の空に、暮春のころの夕から夜にかけて移りゆく、ほんの一瞬の空の色合いが重なるようなときがあります。以来毎年、春が暮れていくころのそんな空を懐かしく見上げてきました。

*シルクロードの印象的な絵を書いた平山郁夫画伯ですね。求道(俳句)詩歌は、人間の弱さや荒みも歌うべきだと思っています。②も敢えて載せさせて頂きました。

佐藤淡丘(豊田)
木下闇こころの憂きを置きて去る
人混みの炎昼にゐて呼気吸気
古民家にのっと現わる黒揚羽
かなかなやよせてはかえすかのくにへ

五月から月一回のわりで、「遠藤周作を読む会」が南山大学の一室で始まりました。呼びかけは、南山宗教文化研究所の教授・キム金承哲先生。その都度十四、五名の人々(年輩者、男女半々)が集まります。温和な金先生に連なり、主要作品の中から一作品を皆で選び、手を上げた気さくな人が、前もって「レジュメ」を作り、その日の話し合いの下敷きとしています。

先回は、『満潮の時刻』が採り上げられ、キリストの「まなざし眼」・犬のめ眼・九官鳥のめ眼等「眼」についての活発な意見が出て楽しい会となりました。「余白の風」の井上神学から学んだ私は幸い、キリストのまなざし(共苦・悲愛)に通ずる何かを感じたひとときでした。南無アッバ。感謝。

藤居康二郎(竹原)
孫たちと笑いの中の西瓜わり感謝のうちに南無アッバアーメン

*お子さんやお孫さんたちと近くの海に海水浴に行かれた時の御作。第五句(結句)が破調になっている(九音)件ですが、五音(定型)+四音なので、このままで気になりません。

平田栄一(蓮田)
言わずもがな心に収め山椒魚
断腸の思い憐れみ神の春

寄贈誌より
「こみち」二五七号・魚住るみ子
残生の春彩るや赤き家具
緑陰や男のまどい団居将棋盤

*「団居」に「惑い」を連想してしまう私です(笑)。「こみち」今号の「神学生プロフィール」思わず読み入ってしまいました。召命とは・・・。

「驢馬」・詫和子
病みてなほ気丈な母や春行けり
パラソルをたたみ合掌友送る

「日矢」五八二、三号・新堀邦司
高麗王の降り来る音ぞ青嵐
父の日の近し散髪済ませけり
ほうたるに逢ひたき宵となりにけり

*①埼玉県人なら遠足で一度は行く古い神社。②なぜか「父」と「散髪」は合う。父になった自分が父を思い出しながら髪を刈られている。③「ほうたる」にはなかなか会えなくなった時代の寂しさ。

「祭演」四五号・神野紗希
愛が足りないミモザが塀をはみ出して
現世いま歪みはじめる花筏

*これらの句に出てくる「愛」や「現世」をキリスト者として読んでみると、また新しい発見があるように思います。

南無アッバの集い&平田講座要約(第二九回 上)

お知らせ:荒木千恵子(本誌会員)
 「風の家」須波分会をスタートします!
私たち日本人の心の琴線にふれる「イエスの顔」をさがして、イエスの福音のよろこびを知りたい、日本の土地にイエスの福音の芽が育ちますように。
毎月最終日曜日午後一時~三時
「風の家」の須波分室の集いをチコの部屋ではじめます(無料)。どなたでもどうぞいらっしゃいませ。なごやかな、ほんのりとした分かち合いができますように。南無アッバ。
連絡先:広島県三原市須波二の五の三五
Tel:0848・67・8161

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日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きるための求道俳句誌「余白の風」第203号-2013年7月発行  

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)
佐藤淡丘(豊田)
雲切れて夏のつばめは天のもの
明易し魚跳ねてより水平ら
立葵ある晴れた日の君なりき
薫風をお盆にのせて運びくる
聖水の頭に染みゐたり樟若葉

   青空
 ここはプロテスタントの教会。聖霊降臨の日、一人の青年が洗礼の恵みをうけた。
 毎水曜日の夜、牧師を囲んでの祈祷会に彼がひょっこり現れて約一年。自動車会社の開発技術員という。多忙な職場にもめげず熱心に通い続けた。
 受洗式のパーテイの席上、彼は言った。「私は行き詰まったとか、病に罹ったから教会に救いを求めたのではありません。イエス・キリストというお方を知りたかったのです。」と顔を真っ直ぐに上げて、男らしく語ったのが印象的でした。私の所属しているカトリック教会は、ここ四、五年若者の受洗がひとりもありません。なんと言いましょうか。新鮮な一日でありました。南無アッバ。

*少子化の時代、若者がイエス様を慕って教会へ来るのは貴重なこと。しかしアッバの導きに年齢は無関係。ルカ伝のシメオンやアンナ、ヨハネ伝のニコデモなど、神様の網は疎にして漏らさず。

瀧野悦子(京都)
父の日のなにはともあれ南無アッバ
梁太き堂のイエスや梅雨深む
団欒の真中にアッバ夏の夜
十薬の花の白さよ南無アッバ
南無アッバいのちふくらむめだかの子

*句作再開の由。詠みたい時が詠み時。アッバの促しを抑えることはできません。ちなみに私は日々の祈りとして、新約聖書一章の黙想と求道俳句一句作を自らに課しています。

塚田明人(坂城)
亡き母が愛でて育てし赤ツツジ今年も庭でそっと見守る
明日のこと心配いらぬまかせよと兄なるイエス我が肩たたく
天の慈父乏しき汝をも抱きしめて御霊を注ぎ汝を導く
何事も思い悩まず懇ろに主と語りつつ御国へ歩まむ

*カラー版の「イエスの小さき花通信」を楽しみにしています。母を思う歌、見事な絵画、そして水野源三さんの詩の紹介等々、手作りの温もりと励ましを頂いています。

赤松久子(高知)
アッバの目背に感じつつ床を拭く
歩けなくなる日の予感南無アッバ
通院が仕事となりし夏日かな
ヘルパーは愛犬の死に耐へてをり
山桃やいつしか馴れし土佐ことば

*老いの不安やヘルパーさんとの交流の中で、しっかりとわが道を生きておられる久子さんの姿が、御作に反映しています。あたたかな「アッバの目」をいつも感じていたいものです。

井口萬里子(三浦)
時を超え神父の声がキリストの声に聞こゆる漁りの浜
洞窟に祈る老婆のつぶやきがミサ黙祷の合間に聞こゆ
跪くペトロにイエスの指す行手彫像影絵の湖のさざなみ

*アッバの思い、イエスの御心はどのように伝わっていくのでしょう。「神父」や「老婆」や「ペトロ」あるいは自然――いずれも日常のありふれた出来事をとおして。そして罪深い私たち自身をも通して。

魚住るみ子(練馬)
北国へ赴任の君へ毛糸の手袋風邪ひきたまふな南無アッバ
南無アッバうすづく空の水浅黄西より茜明日をのぞ希まむ

*遠い地へ「君」を見送る心――寂しさ、心配、思いやり。しかし今見上げる「茜」の「空」は、遠くにいる「君」の上にも続いているのだ。そう思うときのアッバのまなざし。

片岡惇子(名古屋)
母の日や遺影の母の鼻動く
天国の門見つからず蝶遊ぶ
雨模様紫陽花の芽に時動く
理不尽な悲しみ背負い蝸牛
十薬の闇深まりて白くなり

*①「鼻動く」②「蝶遊ぶ」③「時動く」など、動きのある御作が揃う。①亡くなられたお母様はいたずら好きか(笑)。新鮮な表現。②「天国の門」が「見つからず」焦るのではなく、探す過程を楽しむがごとき「蝶」には、余裕がある。
 
平田栄一(蓮田)
信ありて罪は赦さる春の闇
憎らしき彼も神の子春愁い
聖櫃の開け放たれし聖土曜

寄贈誌より
『驢馬』・佃里美
小学生青田の風を描いてをり
隅田川祖父泳ぎたる震災忌
「日矢」五八〇号・新堀邦司
母泣くやバラの花束胸に抱き
初孫と仰ぎて今日の桜かな

*新刊『武と愛の人 新島八重の生涯』(里文出版、一六〇〇円+税)は、八重とキリスト教の出会いが語られ、興味深い力作。ぜひ御一読を。お子様の御結婚やお孫さんのご誕生など、益々ご活躍の邦司兄。

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求道俳句誌「余白の風」第202号-2013年5月発行  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

片岡惇子(名古屋)
雪柳激しく燃えて帰天する
白木蓮歓喜の形で散りにけり
花びらの掌に積りゆく痛さかな
寂しさの人に触れては桜散る
(三月四日急逝された友人に)

 六日の内に、私に縁のある人が、三人亡くなった。ホスピスで十二日間、最後の時を過ごした友人は、信仰の厚い方でした。イエス様を深く知りたいと、多くの福音講座を受け、行動に移された。忍耐強い方でした。耐えられないぎりぎりのところで、友人を呼び、ホスピスへ入られた。薄れゆく意識の中で、突然のことで驚く方たちに、感謝と、神様のもとに行くことの喜びを伝えられた。私が彼女を見舞ったのは、亡くなる前日。私の話し掛けににっこりとされ、「ありがとう」と言って下さった。安らかなお顔でした。

次の日は、昏睡状態の中で、激しく苦しんでおられた。イエス様と共に十字架を担って、その夜亡くなられた。そして、復活の喜びを迎えられた彼女。翌月四月は、八十歳の誕生日。なんと幸いなこと。波瀾万丈を生きた彼女。最後は、神様の御許に、感謝と喜びのうちに帰天された。

彼女の蒔かれた種。妹さんがカトリックの勉強をしたいと、私たちに語って下さった。

*「激しく苦しんで・・・十字架・・・復活の喜び」。どうにもならない苦しみの中で、イエス様も神の「しかり」をお聞きになったのでしょう。


佐藤淡丘(豊田)
神ありと素直に思ふ山笑ふ
釘の掌や十字架像に花吹雪
善き人と立ち話せし花の昼
讃美歌や席に舞い込む花の屑
花菜風水気たっぷりこの地球

「『何もないのに似ているけれどすべての物をもっている』とはキリスト信者のことである。」これは、かの有名な内村鑑三の言葉です。この時期、早朝「会神の丘」に登り、万緑に包まれて祈るとき、宇宙万物はすべて私たちのものである、との不思議な感覚にとらわれます。世は実に私たちに優る富者はない、とは少しオーバーな言い方でありますが、キリスト者でよかったと思う今日このごろです。南無アッバ、南無アッバ。

*「(わたしたちは)悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(二コリント六・一〇)キリスト教の「逆説」的味わい。


塚田明人(坂城)
明日という来ぬ日に心せかされてイヌノフグリの青に気づかず
目も見えて耳も聞こえて不平かな感謝忘れた欲の囚人
殺さない 動き回らず空仰ぎ光身に受け実を結ぶ木よ

*①「気づけず」を「か」に直しました。ここ方が自然かと。②「不平言う」では弱いですかね。③「殺さない」がどこに係るか戸惑うので、一字空けてみました。


西川珪子(一宮)
逝きし人凍星となり煌めきぬ
初聖体親子の笑みの春うらら
復活祭玉子の由来解くわたし
大桜生かされて咲く齢かな

*電子辞書が手放せない由。誰にも、記憶力・聴力・視力・・・・今までフルに使わせて頂いていた能力をアッバにお返しする時期が来ます。そこにどんな意味を見出すことができるか、信仰が問われます。


藤居康二郎(竹原)
生きる夢南無アッバアーメン孫の笑み

*「生きる夢」は御「孫」さんと作者本人の両方ににかかっています。その間を取り持つのが、中句「南無アッバアーメン」という、完全信頼への道。


赤松久子(高知)
年齢(とし)とりてこうも長びく春の風邪
一人部屋緑欲しさに蔦を挿す
蔦の枝グラスの中で根を伸ばし
うららかや集団的な一人言
恥多き人生なりき南無アッバ

*人生の完成とは何でしょう? 老いると共に完璧な人格者になることではありますまい。どこまでアッバに委ねられるか、否、どこまでも委ね切れない自分が無条件に受け入れられているということ。


井口萬里子(三浦)
漁りのペトロが従(つ)きてゆきし浜われも捕はれはるばると来し
浄められ赦され涙キリストの生れし国の土に沁みゆく
*キリストへの「捕はれ」方は人それぞれですが、どの方のお話を聞いても、どこかに不思議な導き、縁を感じます。思えば、私たちの中に沸き起こる求道心そのものが不思議な感情ではありませんか。


石川れい子(稲城)
春の月光の中に夫逝けり
一本の山ざくらちるさくらちる
流れゆくさくら花びら陰府(よみ)の川
屍と三日三晩や春の月
いのち生る生死一如や南無アッバ


主宰『求道俳句集』選
嘆くとも悔やむともよし春に死す  栄一
アリマタヤ春の屍アリガタク
「喜びあれ」復活の主をかき抱き

*三月二十五日にご主人が帰天されてから、次元の異なる「新たな夫婦関係がスタート」したと言うれい子さん。おまかせ信仰あればこそ、「南無アッバ」が効いてきます。


平田栄一(蓮田)
教会に一人祈るやイヴの朝
念ずれば希望に満てり冬銀河
キリストは裁きを為さず冬至過ぐ


寄贈誌より

『驢馬』・田中富貴子
早朝の蝉の鳴き声吾も生き
物陰に咲けどひまわりたくましく

「こみち」二五六号・魚住るみ子
初仕事選歌三百終りたり
ねんごろな礼の便りや梅薫る

*①俳句や短歌など短詩型文学は、作者半分鑑賞者半分で成り立つ文芸。どれかを選んでどれかを捨てる、選歌そのものが文学の一部としての行為です。心して為すべし、これは自戒です。

「日矢」五八〇号・新堀邦司
嫁ぐ子の今年の雛飾るかな
立身に縁なかりけり花の春

*新刊『武と愛の人 新島八重の生涯』(里文出版、一六〇〇円+税)ご上梓おめでとうございます。ちょうどNHK大河ドラマ「八重の桜」放映中で、タイムリーなお仕事。小生未読ながら、キリスト者の視点から新しい発見がありそうです。

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第201号-2013年3月発行*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる  

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

稲城  石川れい子
ホスピスの友と歌へる聖夜かな
初春やホスピスに居る誕生日
ありがとう握る友の手暖かし
生誕も帰天も睦月神の時

主宰『求道俳句集』選
祈らずにおれぬ祈りや春の虹  栄一
わが内の毒麦焼ける野火の色
十字架を仰げる位置に雛飾る

*介護や見取り、同時にお孫さんのご誕生で、生死一如の貴重な経験をされた由。今、イエス様のご生誕から受難を経て、復活へとつながるご生涯を共に黙想しましょう。


練馬  魚住るみ子
「内容の濃き時間」とふ重み老い深む身に賜へかし南無アッバ
友おも念ひ繰るロザリオや日脚伸ぶ

*「老い深む」程、心身の「重み」が押し寄せる。しかし同時に、一日一日がかけがえのない「濃き時間」として、過去の思い出とともに沈潜していく。


長崎  片岡惇子
冬の日や隣人遠く迷いをり
闇ありて光見つけし沈丁花
大根の苦味残りてルカ四章
雛の日に生まれ遺影の母生きる

*「闇」があるから「光」が、「苦味」があるから旨みが、死があるから「生」が引き立つ。その事実・真実に、「南無アッバ」と素直に言える日を待つ。


甲斐  小林昌子
名曲の月の砂漠よ哀しかりはるばる遠き寒のみ空に

*長調より短調が人生の基調と思う日本人は多いのではないでしょうか。しかしその「哀しみ」こそが逆説的に「喜び」となる所に、「十字架」が立っている。

豊田  佐藤淡丘
われありと思ふ白息吐くほどに
しぐれてはひとりのほかはなかりけり
霜柱微光さしこむ是非もなし

人生の目的は神を知ることにある(内村鑑三語録集より)。これは私の最も好きな言葉です。〝南無アッバ〟の祈りを教えて下さった、井上洋治神父様のご本、「日本とイエスの顔」の中で述べられているように、《について知る》という、神のとらえ方ではなく、《を知る》といふ、イエスの教えを真に理解するためには、その実相を体験的にとらえなくてはならない、といふくだりを反芻しながら、今日も大自然の真っ只中に身をおき、〝南無アッバ〟を三唱しています。感謝。

*トルコ―エジプトの旅は如何でしたか? 退職後も大変アクティブに活動されていますね。井上神父も、右の《について》と《を》に関し、ガイドブックと実際の旅のたとえを取り上げています。

坂城  塚田明人
深い闇光差し来ぬ海底であえぎ歩めど守られて今
死にたいと嘆く友より「菊の花美しきかな」と文に涙す
大腸の検査室にも主いますなり痛みも恐れも消えてなくなる

 過ぎし日の苦しみと、主の助けを思いおこしつつ作ってみました。季語や自然の姿をなかなか使えませんが、ボチボチやりたいと思います。

*キリスト信仰には〝苦しみの神秘〟という発想があります。それを体験するとき、主の「十字架の逆説」の意味が、おぼろに見えてくるのでしょう。苦しみにおける連帯――南無アッバ。


一宮  西川珪子
傍らに人ゐて雪の温かく
人生とは木枯に舞ふ落葉かな
咳込めば無数の棘の動く胸
どんど焼善男善女の声高く

*お正月に体調を崩された由。その後いかがでしょうか。しかし、周りの方の温かさを感じられたとも。「遠い親戚より近くの他人」ともいいます。お大事に。


高知  赤松久子
雪の坂犬の瞳にいたはられ
電線を揺らして遊ぶ寒鴉
日脚伸びめぐる月日や南無アッバ
真顔にて歩み行く猫春浅し

*「犬」や「鴉」や「猫」にも「いたはられる」うれしさ。お正月には、お姑さんから受け継いだ味のお雑煮を、やさしい娘さんが届けてくださった由。どうぞお元気で。


三浦  井口萬里子
国々の言葉違へど響き合ひガリラヤ湖上に讃美歌流る
自然木組み合はせたる十字架の思ひは深しガリラヤの浜

*旅行詠二首。①言葉は通じなくても「響き合う」心――大事なものは目に見えず、頭の理解を超えている。②「十字架」の悲惨と、ガリラヤの「自然」の中に憩うがごときそれとの逆説。


蓮田  平田栄一
福音の聴聞聴従冬麗
恨み言ひとつも言わず死んでゆくタマは偉いとつくづく思う


寄贈誌より

「日矢」五七七号        新堀邦司
良寛に分けてやりたき落葉かな
聖夜劇ヨセフの台詞少なかり
家族への感謝を書いて日記果つ

*①良寛さんならこの「落葉」一枚に、私たちよりもっともっと詩を、そしてアッバの心を見つけてくれるかも。②目の付け所がすばらしい。「男は黙って・・・・」少ない言葉に盛り込まれた思いが偲ばれる。

 
二水会『驢馬』カトリック六甲教会  十河韶子
今日よりも明るき明日チュウリップ
もう一度そっと覗いて チュウリップ

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。*年六回奇数月一〇日発行*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任*締切=偶数月十日

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第200号-2013年1月発行*通巻200号達成記念  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

三浦  井口萬里子

こころなく言ひしひとこと年経しにわが十字架にいま未だ残れる

ミサ終はり神父が戻り来し風に燭光の香のほのか付きゐる

*①うっかり言ってしまった過去の「ひとこと」が、ずっと経ってから忽然と思い出され、苦しむ。辛い経験ですが、確かにその「十字架」は、主が共に担ってくださっています。


稲城  石川れい子

ホスピスの友の笑顔や降誕祭

初暦余命三月よ南無アッバ

初茜赤子生まれり南無アッバ


主宰「求道俳句集」選

虹色に空染めてより初日の出  栄一

転生はあるやもしれず冬の虹

俺はまだ生きているぞと賀状来る

*②「もし明日世界が滅びても、ぼくは今日りんごの木を植える」といったのは、ルターでしたでしょうか。この世の命が種、蕾となって、あの世で開花する。


練馬  魚住るみ子

老い深む心の枷を解かれたり成し得ることをシンプルに 南無アッバ

朝毎をお口元気体操頬に当つる指の冷たし冬 南無アッバ

*①井上神父がおっしゃるように「老年はアッバにあれこれお返しする時期」。「枷が解かれる」のは、その大仕事は為されている証左かと。


長崎  片岡惇子

石蕗の花宇宙の闇も輝かす

秋雨や煙る天地を包むもの

立冬や見て見てと幼児目の光

 長崎でのホームの生活は、与えられるばかりです。何かボランティア活動をと、社会福祉協議会をたずね、三ヶ所紹介して下さいました。ところが思わぬ年齢という壁があり、丁寧なお断りがありました。それでも一ヶ所受け入れてくれました。

 発達の遅れた子どもも、そうでない子もおもちゃを通してのびのびと遊んでもらう。おもちゃの館「ピーターパン」です。自閉症等障害を持った子どもが、同じ遊びを繰り返し、繰り返しするが、出来ない。手助けして、やがて出来た時、無表情だった子がかすかに、にこっとする時の喜び。母親にべったりだった幼児が、母親の存在すら忘れたように、走り回り、新しい発見をすると「来て来て、見て見て」と手を引っぱりに来る。

 一日中、動きの激しい子どもたちと一緒になって、遊びまわっていると、くたくたに疲れますが、それは気持ちの良い疲れです。ボランティアの方々との良い出会いもあり、神様に感謝です。

*③どこまで、どのように「手助け」するか、私も職場で日々迷う所。「出来た」時の感激は本人にはもちろんですが、気がつくと、むしろ手を貸した方が学ばせてもらったりしていることも多い。教えることが最大の学びだという所以です。


豊田  佐藤淡丘

大花野人の跡絶へし径をゆく

土の道しかと踏みしめ鳥渡る

道の辺の紅葉を拾ふ火をひろふ

やはり、土の道は体によい。そんな確信を持って、土の道に降り立ちわざ態と飛び跳ねてみる。軟らかい振動が大地の底から伝わるように、わが身を包んでくれる。
不思議な感動の一瞬。一日の始まりもここからと思う土の道。今日もだいじに生きようと思う。南無アッバ・南無アッバ

*なぜ「土の道は体によい」のか。なぜ私たちは「土」に郷愁を持つのか。理屈でなく、実感として土―大地は私たちの母胎なのでしょう。「死んだら土に返る」という発想は快いものです。


坂城  塚田明人

我腹の手術の傷の痛む夜主の御苦しみ耐え難きを知る

母が逝き父また去りし秋の暮

 自分の心とからだの栄養になるものに、しっかりと根をはること、そして、自分の心があたたまることにしっかりと手を広げている事、このことだけに励んでいれば、人も時至れば、必ず、美しい花を咲かせる。だから、早くいい花をさかせようと焦ったり無理するのでなく、ただ、「大地に根をしっかり張り、葉を天にひろげていればいい」(塚田氏発行の「通信」より)

*水野源三さんの詩から触発された一文、心にしみます。大病をされたりご両親を亡くされたり・・・・しかし、南無の心で毎日過ごされているご様子が、facebookからも伝わります。


一宮  西川珪子

遠吠に柿の実かすかに震えたり

紅葉且つ散るさまざまや人の逝く

生い立ちは聞かず語らず秋深む

*②人は死に様を選べない。先月、所属教会の主任司祭が高速道運転中の心臓発作で急逝。しかししっかり停車、ギヤをニュートラルにし、そのまま逝ったのでした。最期までの見事な気配りはアッバの御業。


品川  松永弘之

先人をはばみし波濤を下に見てジャンボ機は飛ぶ聖地へ向けて

みどり児をらくだが囲む聖夜かな

*②この「みどり児」の光景は、東西南北どこにでも、そしていつの時代にも絵になるように思えます。イエスのご生涯がどのような私たちにとっても、救いとなる所以です。


高知  赤松久子

距離を置くすべ与えられ南無アッバ

何となくずれを感じるパウロの書

さまざまな人夢に来る年の暮

ひと日終え身を横たえて南無アッバ

*①私は「為す愛」「為さざる愛」という言葉を連載でも使っていますが、何でも人に介入してあれこれしてあげる、というのが愛ではないのですね。ときに「距離を置いて」ぐっと我慢して見守ることも大切かと。


蓮田  平田栄一

福音の朗読途中に鼻をかむ美しき婦人も混じる朝ミサ

各々は「神の作品」聖樹立つ(エフェソ2・10)

*新年あけましておめでとうございます。昨年中は大変お世話になりました。失礼ながらこの場を賀状代わりとさせていただきます。

世事はめまぐるしく変化し、皆様におかれても、ご家族や個人的にも様々な喜怒哀楽を経験されていることでしょう。

しかし吾らのアッバは私たちに、万物に、変わりなく「悲愛のまなざし」を注がれています。
「余白の風」発行通巻二〇〇号にあたり、本誌が「南無アッバ」の心が新たにされる、一助ともなりますよう祈願いたします。


南無アッバの集い&平田講座(二五)要約
2012・6・23=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

前回まで、救い表現を日本的に考える言葉・翻訳の問題を考えながら、八木重吉ほかの作家を紹介しました。
p・37
あと二人紹介します。
遠藤周作=おなじみですが、最近文庫で読み返した『夫婦の一日』では、井上神父が解説を書いています。1980~83年、大作『侍』を書いた後、大作『スキャンダル』へ向う足取りが伺える小品集。短編小説のような形なので、そのままの告白ではないかもしれないが、五十代半ばで書いた『イエスの生涯』を、六十歳になって書き直さなければならないとか、「確たる安心感が無い」(「六十歳の男」p.90)とか、意外というか正直というか、遠藤さんからキリスト教に入った人間にはちょっとショックな言葉が並んでいます。でもそういう格好をつけない、正直な求道姿勢が、日本人の心に共感できるキリスト教を生んでいくのでしょう。

三浦綾子=私が最初に出したエピグラム詩集『今を生きることば』(1994年)は三九歳のときに書いたのですが、そのもとは「倫理」授業で作った自作プリントです。

当時、新設校に配属されて、ともかく授業が成り立たなくて困っていました。何かいい教材がないかと探したあげく、自分の今考えていることを書いて、そのままストレートに生徒にぶつけてみようと思い立ったのです。
その最初の自作プリントを読んだ教え子が、今はもう一児の母になって、先だってfacebookで再会したのですが、その内容をよく覚えてくれており、びっくりしました。

出版にあたって、帯文を書いてくれたのが三浦さんでした。当時パーキンソン病が悪化しながらも、『銃口』という小説を書いておられる、というお手紙を頂いて、胸が熱くなりました。


寄贈誌より 

「日矢」五七五号        新堀邦司

はじめての孫は佐和子や星月夜

フィアンセを迎へて秋の宴かな


「こみち」二五五号       魚住るみ子

つくつくし鳴き出で疎林残照す

ふり仰ぐ聖母子像や秋真白


 二水会『驢馬』カトリック六甲教会  柴田章彦

ガリラヤは湖畔の旅寝春の月

湖風は囀りのせて野外ミサ

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第199号-2012年11月発行*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる  

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)
高知市  赤松久子
使徒の書に胸ときめかす夜長かな
神義論陰で悪魔が嗤ひをり
敬老会クラリネットの音がひびく
距離を置くすべなく祈る南無アッバ

祈りは/自分にあう祈りをするのが/一番です/と、神父さまはおっしゃった/南無アッバ

*②全知全能かつ善なる神がなぜこの世の悲惨を見逃すのか、という「神義論」。その前提に人間の傲慢がある。それを「悪魔の嗤ひ」と喝破する。

三浦市  井口萬里子
確めてこころに容れむ少しずつ信仰宣言吾の遅唱する
讃美歌の和音の中をキリストの体のパンが咽喉(のみど)を通る

*①まず「信仰宣言」ありき、ではなく、自らの「こころ」の中でケリュグマ(信仰定型)に至る道程を「確かめて」行く、下からの神学が問われています。

稲城市  石川れい子
コスモスや胎動に湧く母ごころ
月昇る眠れぬ夜の静寂かな
花嫁の父の涙は十三夜

主宰「求道俳句集」選
夏期講習マリアマルタと揺れ動く  栄一
お持たせの桃を振舞うマルタの日
白靴の平和の使徒や歩み来る
希望というパン賜りぬ夏のミサ
狐に穴鳥に巣のある夏夕べ

長谷川末子さんへ
飲もうかと言へば熱燗すぐ並ぶ(一九四号)
 五十五年間で培った阿吽の呼吸――すばらしい末子さん・・・!
  老ひてなほ心の支へ夫の居る
  手を取りて共に喜ぶ日のあるを(一九三号)
――そして七月十三日、ご主人様は、神の御許へ召されたのですね。
  寒の内苦楽ありても御手の中(一九五号)
「余白の風」の末子さんの詩や俳句を通して、ご夫婦のご様子やすべてを神の御手に委ねて生きるあなたの信仰が伝わって参ります。私は介護中なので共感します。

*③中七「父の涙や」ではなく「――は」とした点。一般的にいえば、「や」の方が切れがはっきりし、無難でしょう。しかし、あえて「は」としたことにより、一句一章的に「十三夜」に焦点が当たります。

熊本市  井上望月
ひつじ雲法然さんと腰おろす
十二才のマリアさまですすみれ草

*①「ひつじ雲」と「法然さん」の取り合わせが絶妙。やさしさに秘められた強さを持つ法然さんの傍に「腰おろす」安らぎ。

練馬区  魚住るみ子
言ひわけはすまじと思へ露こぼす萩の下枝よ南無アッバ
様ざまの悔あれ寝覚めの朝床に赦しを乞ひぬ南無 南無アッバ

*②新しい発想とか、「悔」とか、良い事も気になることも、「寝覚めの朝床」は思いの宝庫のようなもの。それらすべてを「アッバ」へお委せ。

長崎市  片岡惇子
虫時雨山を唸らし主の息吹
黄彼岸花佳作の人生と言われ
冬瓜の蔭れて実る孤独かな

思いもしなかった長崎への転居。市街地から葛折の道をバスで四十分程。山頂にあるホームは、五十人の入所者で、それぞれの病や人生の重みを持って、今日を生活しています。
周辺には原爆被災者のホーム二館、養護特別老人ホーム、純真聖母会修道院、大学と、四季の自然の営みを感じつつ、外観は桃源郷のようです。ほぼ全員カトリック信者ですが、人間の営み、残念ながら平和でない事も起こります。
このホームは高齢化が進み、百歳の方もおられます。つい先日、百弐歳の方が亡くなり、力強く送辞を述べられました。信仰から来る一言一言が、百人程の参列者に感動を与えました。目が遠くコミュニケーションは取りづらいのですが、いつもにこやかに、体ごと強い信仰を私たちに、しみじみと感じさせて下さいます。
年を取ると、かたくなになって行きますが、悠然と信仰から来る包容力は、これこそ主に信頼して生きておられる証し、福音だと思います。

*どんな老後を過ごすか、過ごせるか、死はどのように訪れるのか・・・・。身近に信仰の大先輩がいることは心強いですね。南無アッバ。

奈良市  喜多正規
ちちろ鳴く闇の深きに南無アッバ
秋の夜や手習ふ文字の南無アッバ
わがすべて色なき風にゆだねけり

*③「色なき風」が佳。「南無」や「余白の風」を連想させる。また「すべて」(無限)と「なき」(ゼロ)という対照も意味深長。

甲斐市  小林昌子
理科系の小六男孫がこの四月神は在すか真直ぐに問いき
考古博小一女孫は原人像見て人間は元ゴリラかな

*子供の問いにはハッとさせられることがある。素朴な疑問ほど奥が深い。しかし神を神とも思わぬ人間でさえ救う神であれば(ローマ4・5参照)。

豊田市  佐藤淡丘
大花野人の跡絶へし径をゆく
被災地のこほろぎ鳴きてかぎりなし
コスモスに明るい大き空が要る

大船渡カトリック教会は、M5の津波に裾を浚われたが、幸い無事であった。
ボランティアで滞在中、この教会の小さなお庭を利用させてもらい、いつもの朝の祈りをさせてもらいました。被災地にも天の神様は、けふも美しい曙光を下さり、忽ちそこは「会神の丘」と相成りました。独り祈りました。「南無アッバ」を三唱しました。地に接吻しました。亡くなった多くの御霊の安からんことを、御国の来たらんことを祈りました。

*②日本人は、虫や動物の鳴き声を最も言語に近い形で理解するという。「被災地」の「こおろぎ」が何かを訴えている。

一宮市  西川珪子
稲の花人の視線に育てられ
颱風の過ぐるを待つ間鶴を折る
雨漏りの音気にかかる芋嵐

*①「人の視線に育てられ」た稲は、実るほど頭を垂れる。反対に、人間は自然に育てられているのに傲慢になる。

秦野市  長谷川末子
秋雨が降り続いている/四日前に見た朝顔の精一杯の白と紫/傍の清らかに咲く清少納言/しっとりと濡れているのだろうか/夫が旅立って二ヶ月半/すべてを神様は見ていらっしゃる/近くに住む三男が私を守っている/無口な子/近所の人々が摘みたてのコスモス、野菜や果物を届けてくださる。慰めの言葉もある/一人暮らしにも慣れつつある。人の心は暖かい/聖日なのに家に居に閉じこもる。杖をついて傘をさせない。転倒した身体の節々が痛む/しかし神様はすべてを御覧になって居られる/前途は問題があってもすべてをお委ねしよう/雨音は絶えない

*ご主人が亡くなって寂しさは如何ばかりかと。しかし息子さんや隣家の人々、必ず近くに誰かがいる。誰もいなくてもアッバ、イエスが共にいる。

世田谷区  広谷和文
パンフィリアのパウロ歩みし山灼くる
婚宴の熱き踊りの輪に入れり

*トルコへ旅されたご様子。二千年前のパウロに思いを馳せる。同じ情景を前にしても、見る人の思いは様々、アッバが一人ひとりに囁く。

品川区  松永弘之
歌碑めぐりマリアの像に出会ひたりザビエルゆかりの堺の町にて
秋風に海の遠鳴り菓子舗跡

*日本各地にもアッバの思いは届きます。「歌碑めぐり」での「マリア」との出会い。ここにもアッバのお導き、ご縁がある。

蓮田市  平田栄一
つまずきを抱えしままに吾が内のポプラは秋の風に吹かれり
十字架の「愚かさ」「弱さ」「おののき」に「しかり」と言えり神の福音
(Ⅰコリント2・3、14より)

寄贈誌より 
「日矢」五七三号        新堀邦司
機嫌よき甲斐駒ケ岳夏の空
高遠のご城下は今蝉時雨

「こみち」二五四号       魚住るみ子
バイバイを泣かで言ひ得て梅雨(つ)入りかな

二水会『驢馬』カトリック六甲教会  大西恭子
つばくらめ寄る辺をなくす地震の町

南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ
11/24(土)、12/22(土)、1/26(土)

――「余白の風」入会案内――
このブログのサイドバーをご覧ください。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第198号-2012年9月発行*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる  

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

秦野市  長谷川末子

死にたいと/つぶやいた夫/体調不良/食欲減退/よろめく夫/何を耐え/口にしないのか/救急車で入院/多くの人々の祈りと慰め/手厚い介護と奉仕/窓辺に咲く大輪の紫陽花/月に二度父を見舞った息子達/七月十三日召される/通夜告別式納骨式/牧師先生兄弟姉妹が助けて下さる/秋雨の早朝虫の音/神様の憐れみと烏の目覚めと

*毎号、心を打つ詩や俳句をお送りくださる末子さん。前回めずらしく欠稿されたので、もしや何かあったのでは?とちらっと不安が過りました。長く連れ添われたご主人の天国での新生をお祈りします。

生きるも死にゆくも容易ではない――死にたくなることもありましょう。何のための苦しみ・・・・? でも、そんなときこそ、介護や奉仕の温もりが身に染みる。虫や烏の声、雨音の優しさが聞こえてくる。そしてイエス様の十字架のお姿が見えてくる――南無アッバ。


高知市  赤松久子

蜘蛛の子を外に逃がして南無アッバ
日盛りやサマリアの女主にまみえ
ニコデモも主に惹かれしや夜の涼
片陰に寝そべる猫よ南無アッバ
さりげなき囲の外の羊かな


イエスをじっと見つめていると/イエスがだんだん透明になって/そのむこうに神さまが見えてくる/と、神父さまはおっしゃった/南無アッバ(ヨハネ一四・九より)

*②③どちらも『ヨハネによる福音書』からの情景が、有季定型の力によってくっきり浮かび上がる。②福音書に「正午ごろ」(四・六)とあるのを、「日盛り」と置き換えただけだが、それによって「水」をめぐる二人のやりとりに人間味が増強され、生き生きとしてくる。③これも福音書には、ニコデモがイエスのもとに来たのは「ある夜」(三・二)となっているだけだが、それを日本的な夏の「夜の涼」と小説的に想像することで、二人の会話が身近に感じられる。


三浦市  井口萬里子

十字架の重荷首根にかかるときわが信仰の偽りと知る
キリストのわが荷軽しに涙落つ比ぶべきなき小さき荷負ひて


*ルターは「十字架の神学」という。神学者・青野太潮氏によると、イエスは、その弱さゆえ十字架に架けられ、今も架けられしままのキリスト――私たちもその弱さと一体となるとき、逆説的に救われる。


稲城市  石川れい子

白百合やいのり捧ぐる尼二人
天道虫いつとき我の胸飾り
八月や平和をいのり祈り継ぐ
八十路来てやうやく語る原爆忌
爆竹やマリアの八月十五日


*②何気ない、かわいらしい風景ですが、当の「天道虫」は、そのような人様のお役に立っているという自覚はない。モームの「ペルシア絨毯のたとえ」を思い出します。④今は語り部二世も誕生したようです。


八王子市  フランシスカ井上

炎天のバス停に佇ち南無アッバ
知人の訃ことさら蝉の声高く
聞き上手心たいらにして帰り
夕涼み猛暑を抜けた顔が寄り


*②一人の死がいかに大きなものをこの世に残していくか。有名無名無関係に、否むしろ無名であるがゆえにその遺産は大きいかもしれない。イエスの生涯の逆説を思う。


長崎市  片岡惇子

合歓の花溢る優しさ両の掌に
蛍狩透けゆくもののいとおしき
蝉時雨上座下座も風通る
郷愁や青きトマトにかぶり付く
大いなる地にじゃがいもの白き花


*③アッバの絶対的平等「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ五・四五)を連想します。


豊田市 佐藤淡丘

あて貴やかに教会照らす大西日
新涼や月残りぬる牧の朝
夕蝉の平均律や風誘ふ
爽やかに話しかけたり糸電話
新涼の語尾の美くし挨拶す


天の父なる神様は、とても素晴らしい時間を下さいます。それは〝あかとき〟です。ご存知のように日の出前の数時間を言い、別の名を〝かわたれどき〟ともいいます。

 樹々は目覚め、土は柔らかく、水は平らに光り、遠く山々は碧く聳え立ちます。このような微妙な光の中にわが身を入れ、私は秘密の場所、「会神の丘」に登り、南無アッバを三唱します。そして心に誓います。〝ああ、至福なり〟と。一日のはじまりを、至福ではじめた日は、敗北のように見えても勝利であることは疑いないように思います。

 南無アッバ・南無アッバ・南無アッバ。

*「敗北のように見えても勝利であることは疑いない」この信仰が「十字架の神学」――イエスの最期の叫び「神よ、なぜ私を見捨てたのですか。」それを「神の子なり」と見抜いた異邦人ローマ兵。


横浜市  服部薫

人は皆神のうつしみそれぞれに大いなる命抱えて生きる
生きてるのは母親でなくキリストとふと思われたほんの一瞬


*ガラテヤ書二章二〇節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」初投稿ありがとうございます。


品川区  松永弘之

夏草の匂ひ遥けし塔の上
幾千の花火上がりて兵士逝く
悲しみを祈りに変えて原爆忌
げ夏あんご安居の明けてマリアの被昇天


*③「悲しみを祈りに変え」るものは何か。自力のようでいてそうではない。アッバに委ねる=南無アッバの心は、やはりアッバから来る。


蓮田市  平田栄一

マルタは為すマリアは為さざる夫々の愛もてイエスをもてなし給う
克明なる三十年前不明なる昨日の記憶 母は饒舌



寄贈誌より

「日矢」五七〇―一号  新堀邦司

濃あぢさゐ雨の墓参となりにけり
桃の花農夫に道を尋ねけり



「こみち」二五三号  練馬区 魚住るみ子

羽化とげしもんしろてふや輝き舞ふ
切り張りの紙の白さや端居かな



二水会『驢馬』カトリック六甲教会   植田種

国にも水仙ありと立ち止まり
炎天下嘆きの壁にひたひよせ



おしらせ:余白

○以前お知らせしたとおり、本紙抜粋を井上神父主宰『風』誌「アッバ讃句コーナー」に載せています。購読されていない方には、部分コピーをお送りしますので、ご希望の方はご一報ください(無料)。

○本誌隔月発行にともない、原稿締切日が偶数月十日に変わりました。次回は十月十日締切り、以下、十二月十日、来年二月十日、四月十日・・・・というふうになります。よろしくお願い致します。
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――「余白の風」入会案内――
*どなたでも参加できます。詳しくはサイドバーの余白メールからお問い合わせください。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第197号より(2012年7月発行)求道詩歌で南無アッバ  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

石垣市  河口儀子

鎮もれる水平線や十字星

石垣は今、十字星の見える時期となりました。もやがかかり水平線ぎりぎりでなかなかお目にかかれませんが、明け方とか夜半とか、家からじっとながめています。

罪咎を背負ふや南十字星

早朝ミサのときに。朝四時三十分発、歩いて一時間十五分で教会です。

生ある雲じゅごん儒艮となれり十字星

はなでいご花梯悟眼を病む猫と暮しおり


と島の人に見せたら、下五は「アッパかな、さあ!」と。島では「アッパ」とは「おばあさん」(私のこと)・・・・。びっくりするやら、恐縮するやら。本土から二〇〇〇キロ程離れますと、話は飛躍しすぎます。

月桃の乳色の花雨浄む


石垣に来て、九年が過ぎました。

*おひさしぶりの御出句、うれしく思います。感謝です。石垣での充実したお暮らしがよく伝わってきます。私は三十年前に新婚旅行で行ったきりですが、最近は観光開発ですっかり環境が変わってしまった由、アッバの手になる自然をなんとか残したいものですね。


品川区  松永弘之

紫陽花に牧師の犬も目を細む

軽快なフランス風なる革命歌いな聖歌にて心もはづむ


*新入会ありがとうございます。①動物の目に映る花はどんなものなのでしょう。「イエスの見た空が見たい」とは井上師がよくおっしゃること。


高知市  赤松久子

人々の思ひさまざま梅雨に入る

紫陽花やまこと七色変化なる

アンデレの如く床しき額の花

目に見えぬものを求めて風を聞く

天文や宇宙の始め神の業


アッバ/暗闇なるアッバ/ナザレのイエスさまのおかげで/アッバとお呼び出来るのです/南無アッバ

*いつも精力的な句作に頭が下がります。求道の一途さと詠み口の素直さが表裏一体になった作品を楽しませて頂いています。


稲城市  石川れい子

竹取の翁の夢や竹の秋

豆の花咲かせて天へ橋架けり

薫風を入れて酢の飯艶を出し

母の日や産んでくださりありがとう

脚立より富士山見ゆる袋掛


主宰『求道俳句集』選

十字架のもとに苦楽を蝶結び  栄一

春雲よ、君は摂理を愛せるか

弟子が師に躓く蛙目借時

万緑のうちにひと日を賜りぬ

十二使徒送り出すとき梅雨の雷


*拙句集を毎回丁寧に選句くださり感謝です。④太宰は「生まれてすみません」と書きましたが、心からの感謝は、相当な苦労と歳月の裏づけあればこそ。


八王子市  フランシスカ井上

巡礼地あふれる光受けながらサンクチュアリに居る幸せを

ローソクの列に繋がる車椅子神父に押され畏まりつつ

ロザリオを繰り沐浴の順を待つ病の友へ思いを馳せて


*③少し手を入れました。巡礼の旅にロザリオを繰る姿が目に浮かびます。私は時々ロザリオを使って「アッバ アッバ 南無アッバ」とやっています。


名古屋市  片岡惇子

落ち椿蕾のままを愛しけり

行く春やつひの住家の闇匂ふ

待つ刻を重ね桜の雨に散る

葉桜や蘇る人の光受け

藤房や溢れて虚空む噎せ返る


*傾聴ボランティアをしながら、豊かな老後をすごされている作者の姿が思われます。①「どんなに不完全に見えようと死は完成の時」とは井上師の言葉。


豊田市 佐藤淡丘

池に東風水鳥の列吹かれゆく

花の塵しづかに踏みてゆるされる

浸り浮く蛙の背中なに思ふ

春の雨池をたいらに平らにす

老鶯のさみしからむと我に告ぐ
 

早朝、池を巡ることを覚えて数年。水のこころが少しずつ分って来たような気がします。そこにはすべてを受け入れる、やさしさが満ち溢れているからだ、と思う。
高田敏子の本にこんな美しい詩をみつけました。『水のこころ』より、

  水はつかめません/水はつつむものです/二つの手の中に/そおっと大切に――/水のこころも/人のこころも

そうです。たいせつにです。今朝も父に向かい〝南無アッバ〟と大胆に叫び、神を賛美しました。

*「水のこころ」は賛美歌になっていますね( 高田敏子/作詞 塩田泉/作曲 町田治/編曲)。全句、万物を生かす水を囲んで、鳥、蛙、花が賛歌を歌う。


一宮市  西川珪子

この川に戻れぬ流れ水温む

手を打てばこはれてしまふ花万朶

罪あまた癒されてゐし復活祭

たかんなの傷を両手で撫でてをり

神宿る新樹の森の深さかな


*②「花万朶」(はなばんだ)=多くの花が枝についている様子。④「たかんな」=竹の子。「傷」や「罪」のゆるしの現実を自然を通して感じる。


蓮田市  平田栄一

たまさかに大震災の一周忌友引の日の結納となる

桜湯の桜を食みて結納の心は粛々春を流れり



寄贈誌より    

「日矢」五六八―九号  新堀邦司

春風の運んでくれし便りかな

上水の森に集ひて小鳥たち

その一つ新堀橋や紅葉映ゆ

妻と娘もすこし嗜み花見酒


*カトリック俳人阿波野青畝の「人物歳時記」(三三)楽しく拝読しました。新しいお仕事に打ち込まれ、ますますご健吟を。

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196-12 荒川 淑  

二水会『驢馬』カトリック六甲教会
巡礼の行く手に虹を仰ぎけり

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196-11 魚住るみ子  

「こみち」二五二号
ねむごろな便りのありぬ冬うらら

生涯に悔なき人はあらざるを桜花(はな)爛漫の下かげに佇つ

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196-10 新堀邦司  

「日矢」五六七号
浅草に鳩と遊んで四温かな

ロ短調ミサ聴き灰の水曜日

スカイツリーの空を残して鳥帰る

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196(9) 蓮田市  平田栄一  

「聖霊を冒す」というは信頼を失うことと今朝に知るなり

時は満ち神の国が近づけば女子は集いぬパルコの五階

福島の野菜はやっぱり買えなくて教会バザーの前を過ぎ行く


*「短歌人」2012.4,5

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196(8) 奈良市  喜多正規  

空蝉の軽ろき命や南無アッバ

*右にも触れたように、軽みと南無アッバは縁語のようです。ふわっと生きたい。

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196(7) 三浦市  井口萬里子  

「本当に」などと容易(たやす)く思ふまじ神の御掌なる領域なれば

*こちらもたくさんの歌を送ってくださいました。俳句にはなりにくい神学的な短歌も面白い。

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196(6) 高知市  赤松久子  

務め終え田舎に住みて南無アッバ

*いつもたくさんのアッバ讃句を送ってくださいます。おのずと句が沸く自然に囲まれて。

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196(5) 豊田市 佐藤淡丘  

何ごとも遠くなりけり麦を踏む

遠山に吸わるるごとく畑を打つ

水門の影揺らぎゐて水温む

初蝶の浮きゐる園に座してをり

明眸や水仙すべてこちら向き
 

「歩む」には、「静かに歩む」という意味が込められている。雨上りの軟らかい土の道に一歩を入れる。伝わるのは、静粛と忍耐である。神から何物をも受けることがなくても、よいのである。神に依り頼み「南無アッバ」と唱えるだけでよい。その他を要求しない。その日の始まり、はじまり。

*私の大好きな寺田寅彦の短文集『柿の種』を思わせるエッセイです。俳文になっている。
①そして「南無アッバ」へとだんだん人生が軽くなる。

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第196号(4) 名古屋市  片岡惇子  

混沌と我に降りけり春の雪

囀りの天をそのまま人眠る

啓蟄や一筆書きの字のにじみ

沈黙の海に煌めく春の波

草餅を齧り付きたる空の空

十字架の道を包んで春の闇


*①「こんこん」と「混沌」を掛けたか。②「そのまま」がいい。南無アッバの心境。③「にじみ」にストレートで行かぬ人生の悲哀、人間らしさ。

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(3)稲城市  石川れい子-第196号2012年5月  

牡丹の芽被災の地にも芽吹きけり

めざすのは漁師と言ふ子めざし喰む

木の芽摘母と楽しむ春の庭

蒲公英や丘のたつき生活は三年目

わすれものはてなんだつけ山笑ふ

思ひ切り捨てて三月門出かな


主宰『求道俳句集』選
芽吹く音聞こゆるまでの祈りかな
幼子の受洗うれしき聖胎祭
悲しみの聖母にアッバ寄り添えり
「喜びあれ」復活の主をかき抱き
信不信問わず御国へ春の丘


①「牡丹」の逞しさに救われる。
②「めざす」「めざし」の語呂がいい。⑥捨ててこそ拾うものあり。
⑪こういうのは、散文では言いにくい。

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(2)秦野市  長谷川末子-第196号2012年5月  

冬は去り春が来た/山笑ひ新芽は伸びる/早朝に囀りを聞き/人々の心は起きる/コート脱ぎ動きも早い/砂浜の二つの足跡/負うた主の重さ/主の御手に身をゆだねつつ/今日の日も歩み続ける/恐れつつすがる身なれど/恥かしき日々送れども/立てる日に立たせ給へ/悔いの日を助け給へ

*春は明るいイメージとは裏腹に、実はけっこう憂鬱な季節でもある。新しい職場での疲れや花粉症やら・・・・。
そんなときこそ主は共にいてくださる。

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(1)会員作品とエッセイ-第196号2012年5月  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

一宮市  西川珪子

冬帽子目深に歩き続けをり

木枯の住む処あり我が内に

ストーブの赤々燃えて人恋し

祈りとは対話なりけり四旬節


*①「目深」「続け」に主体の強い意志を感じる②その「木枯」の中に共に歩むイエスも。
④四旬節は一人の祈りを最も深める時期かもしれません。

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(17)規定変更のお知らせ(主宰)=第195号2012年3月発行  

 東日本大震災から一年を迎え、皆様にはさまざまな思いが去来していることでしょう。

改めて、犠牲となられた方々のために祈りを共にし、これからの私たちの道を模索しましょう。

 さて、本誌「余白の風」(創刊一九九〇年)は、当初隔月で、七五号(二〇〇二年七月)からはほぼ毎月発行してまいりました。

しかし、この四月からは主宰の仕事の都合により、まことに勝手ながら、再び隔月発行とさせて頂きたいと思います。何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。


南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ
3/24、 4/28、 5/26(土)


――「余白の風」入会案内――
*どなたでも参加できます。初心者歓迎。
*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任 *締切=奇数月末
*投稿先:平田 *年会費千円(送料共)

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