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求道俳句誌「余白の風」第244号   

2020年5月
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

片岡惇子さん追悼特集

初出・142号(07年10月)
しみじみと寂しさ聴きてちちろ鳴く
萩のつぶ掌にころその命
幼子の心に添うて秋桜
我も又使徒よと説かる青き柿
秋暑しロザリオ繰りて闇に入る

*惇子さんは、淡丘さんご紹介の新しいお友達です。どうぞ、末永くお付き合いください。
四句目、「青柿」にも「使徒」としての役割を見ています。青柿がだんだん熟れていって、色を変え、自然の一部として、大自然の生命を静かに歌い上げていく。そういう意味では、すみれもタンポポも同じ。
でも最後には、柿の実は、人やカラスや鳥たちに食べられてしまうか、地に落ちるか・・・・、いずれにしろ儚い運命とも受け取れます。しかしそこに信仰の目があれば、ものの見方が一八〇度違ってくるでしょう。

143号(07年11月)
冬瓜や丸だ四角だ言い切れず
曼珠沙華空なる墓に女たち
萩こぼる母の涙は見えずとも
ノアの舟秋蝶も乗せ時を待つ
烏瓜夕日よりなお赤く在り

*「夢か現か」といいますが、ちょうど聖書世界は、史実と真実が折り混ざっていますね。「冬瓜」は「丸」か「四角」か、「空なる墓」の意味するものは、「烏瓜」と「夕日」の赤さは等々、夢現の自在な境地を読み込んでいる佳品です。

144号(07年12月)
ひたすらに歩みし道に柿熟す

*「柿」は「人生」でもありましょう。甘く、ときに渋く色づく、それもよし。

我が背を父が抱きし秋茜

*幼い時は肉親の「父」が、そして信仰を持ってからは、「アッバ」が抱いてくださる。

しがらみを解きて発つ日の十三夜

*完全に解放されるのは天国へ旅立つときなのでしょうね。

香ばしきホスティア戴く天高し

*教会によって、微妙にホスチアの味が違うのも、楽しいもの。

石蕗の花確たるものと出会いけり

*うちの「石蕗」は今が盛りです。そして、長く咲き続けます。どことなく安心感のある黄色い花。

冬の薔薇マザーテレサの笑顔透け

*寒い日にもキリリと咲く強い花。まさにマザーの的確な形容。

黄落や新たな命の主の祈り

*「黄落」は終末ではなく、「新たな命」の始まりを告げるのですね。

凍てし月放蕩息子待つ父や

*愚息を三人抱えた身である私には、ストレートに響く。

落葉や神に囚われ自由となり

*そうかー、「神に囚われる」ことが、本当の「自由」なのですね。

小春日やバベルの塔より読み始む

*人間の歩みを考えるには、「バベルの塔」は、最も示唆に富んでいる。

145号(08年1月)
今年も白と薄紅色の小振りの葉牡丹を一株ずつ買って、小さな柿の木の下に地植えをしました。これで正月の準備完了。葉牡丹は、広辞苑にはヨーロッパ原産、キャベツの一品種とあります。白、黄、紫紅、鮮紅、淡紅など、どの葉の色も美しく、いつも迷います。その葉の縮緬状のやわらかさは、優しく包みこんでくれるようで、安らぎを与えてくれます。その葉に降りて、光っている朝露の美しさも、又、特別です。これは、私への恵みなのですが、目の悪い私には、ダイヤモンドのように映ります。

私の所属する平針教会の御聖体台の後方の窓は、幼子を中心に渦巻にはめられたステンドグラスで出来ています。夕日が落ちて、暗くなっていくその瞬間の美しさには、感動します。闇の中に光をみるのです。葉牡丹をみると、その情景と重なります。(07・12・25)

葱刻む日常の中に祈りかな

*まな板に飽かずトントントン・・・・リズムも心地よい。細部と単純な繰り返しの中に、神が宿る。

謙遜や枯菊に幽か香の残り

*その「枯菊」もすばらしいですが、その「幽か」な香に気づく作者の心持がうれしいです。

枯葦やなびく彼方に創世記

*三句目、「枯葦」の向うの原初世界とも、イザヤ書の「傷ついた葦・・・・」からの発想とも、奥深い。

葉ぼたんの静かに包む神の影
        神の影=奥村一郎選集⑥より

葉ぼたんや貧しき人の宿となり

*エッセイと響きあって、読者の理解と発想を助けてくれます。一見簡素な葉牡丹の魅力を教えていただきました。

辞世241号(19年11月)
秋日和主の前に吾が時消ゆる
優しさは突然凍みてアッバ父よ
主はどこに葡萄の種の一粒が
大夕焼け混乱鎮めアッバ父よ
主の創造涼し子の涙(るい)アッバ父よ
裸の王ゴルゴタの道誰も居ぬアッバ父よ

*片岡惇子さん、07年以来13年間、本誌にお付き合いくださり誠にありがとうございます。
09年8月真夏、四谷での私の第一回目の講座に遠方名古屋から淡丘さんらとご参加くださったこと、今でもよく覚えています。
私たちの信仰では、生死は常に交わるもの、どうぞ天国から私たちの求道俳句に参加し、応援してください。南無アッバ


作品とエッセイ *選評

豊田・佐藤淡丘
散る桜 残る桜も 散る桜  良寛
本誌と共に永い間の句友でありました、片岡惇子さん(名古屋市)が亡くなりました(享年八十歳)。元々、彼女とは同信(カトリック信者)の誼もあり、誌上はもとより、日常でも肝胆相照らす仲でした。
思えば入会当初、名古屋の知人と四人で上京、「四谷ニコラバレ」の平田先生の講座に押しかけたりして、「俳句でキリスト教」の精神を切磋琢磨した良き時代でもありました。
彼女は役所仕事が永かったこともあり、恬淡とした人柄で、信仰と奉仕に生涯を捧げた俳人でもありました。でもこの四月二十日、楚々として天に召されてしまいました。
生前の本誌のご恩を忘れず、ここに本人にかわり篤く御礼を申し上げたいと存じます。南無アッバ・南無アッバ

振り返る忘れ得ぬ人落花中
花の塵刻を待たずに溶けにけり
つれなくも独りを託つ花の冷え


高知・赤松久子
マグダラのマリア唱へる〝南無イエス〟
司祭なれば主イェスを〝我が師〟と呼びたまふ
マスク顔春風にあて南無アッバ
春の川さざ波立てて南無アッバ

*①「南無アッバ」は一般の人には説明が必要で、「南無キリスト」ならすぐわかってもらえる、というご意見をいただきました。ご存じの通り、「南無アッバ」は井上神父さまが、いわば啓示のように神様から与えられた称名です。内観をされている藤原直達神父さまは「南無イエス」を提唱されていますが、井上神父と「同じ感覚」であるとおっしゃっています。各々の感覚にピタリとするものでいいのではないでしょうか。


昭島・新堀邦司
友逝くと名残の雪の降りやまず
鎌倉は雨となりけり実朝忌
梅が香や立志の君の旅姿
河津より花の便りや西行忌
帰る日の近し白鳥天仰ぐ

*①⑤「私たちの国籍は天にあります。」(フィリピ3・20)コロナ禍で多くの方が亡くなっています。その方たちの生涯はすべてアッバの記憶に残ります(拙著『心の琴線に触れるイエス』五章参照)。


ヨハネ伝求道俳句:平田栄一
コロナ禍終息を願って
ヨハネ伝1・1~3より
御言(コトバ)は初めにありて年明くる
神共に在ます正月南無アッバ
言即神と見抜けり初鴉
初めより神と共なる言かな
万物や言によりて在らしめり


「余白の風」入会案内


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求道俳句誌「余白の風」第243号  

2020年3月
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

蓮田・平田栄一
十字架の果てにおみ風薫りけり

イエスの苦難の死を通して、わたしたちに注がれる神さまの息吹=聖霊を、井上洋治神父は「おみ風さま」や「守導者」などと造語した。

良いことをすれば祝福が与えられるが、悪いことをすれば徹底的に裁く、勧善懲悪の恐い裁判官のような神ではなく、慈父のように、母のようにどこまでも赦す神アッバ。

そのまなざしは、おみ風さまにより、時間と場所をこえてわたしたちに届いています。

春の日をあまねく入れしガラス窓

井上洋治神父は、イエスを「ガラス窓」のような方であると、よく説明してくれました。そういう透明な方だからこそ、アッバの暖かなまなざしをそのまま私たちに届けることができたのです。

しかし完全に、アッバの息吹を注ぐためには、イエスという「ガラス窓」は自ら毀れなければならなかった。それが十字架上の死であったのです。


豊田・佐藤淡丘
春耕の程よき雨となりにけり
川土手の右岸左岸と野焼あと
摘草にこれぞ和えもの我忘する
芝を焼く事に始まる父の智恵
畑を打つ遠くにあれば棒のごと

春の雨がしっとりと降ったあと、公園や学校のグラウンドに水たまりが出来ます。これを古い文章で「潦」(にわたずみ)いうそうですが、私の好きな言葉です。今朝もこの軟らかい土の道を歩いていると、天のお父さま(アッバさま)から頂戴した、静かで情のこまやかな愛を感じ思わず、南無アッバ、南無アッバと唱えてしまいます。

*日本語には同じ事象の言いかえがたくさんあります。それぞれが微妙にニュアンスが異なる。生粋の日本人でも一生かけても味わいつくせない趣があります。やはり「信仰」や「求道」に通じますね。


高知・赤松久子
電線に音符の如く鳥並び
友らとのずれを感じて南無アッバ
「死にたい」と言ふ娘(こ)に返す言葉無く
こんな時神父さまゐて下されば
追はれ去る良きヘルパーによせ書きをして南無アッバ
春を待ち木々が唱へる南無アッバ

*③お辛いですね。「~イエスさまにつきそわれ~」毎日お祈りしていますが、その度に人に寄り添うということがいかに難しいことかを感じます。④そんなとき天国の神父さまにそっとお話ししてみます。


ついの日 南無アッバ   練馬・魚住るみ子
耳もとへお口あけてとうながせばやうやく飲みこむとろみの食べ物
香をたき鐘打ち鳴らし人送る人生卒業の式ならめやも

*①昨年亡くなった母を思いだします。最後の数カ月は私のこともわからなくなったようですが、幼子に帰っていくようなその姿は、②アッバのお導きのもとに「作品」としての「人生を完成」していく光に満ちていました。


大阪・島一木
明日は枯れる 無花果の木のしげりかな
風かおる マリアはすわり聞いている
来い春よ 盆栽 散歩 夜は囲碁
パソコンで習う月面宙返り

*①ルターは「たとえ明日、世界が滅びようとも今日私はリンゴの木を植える。」と言ったという話がありますが、「無花果」自身は「どうせ明日枯れちゃうんだから、繁るのは止めた」となるでしょうか?


広島・金尾裕子
我が家の垣根にすみれみつけて南無アッバ
私のアンガーマネージメント南無アッバ
四旬節 神父様のまなざしを感じつつ南無アッバ


*「二〇二〇・三・八 神父様の命日に」と添え書きして、アッバ讃句ご投句下さりありがとうございます。

今年第六回の野の花命日祭は、ずばり井上神父御命日当日となるはずでしたが、だれもが予想しなかった新型コロナウィルス禍により、残念ながら中止となりました。

この災禍によって亡くなられた方をはじめ、苦難にあっているすべての人の為に祈りましょう。南無アッバ
  

福音歳時記・阿波野青畝
人来たらず磔刑イエズス凍てませど
主は来ませり主は来ませり燭凍てず
日脚伸びゆくまま進む聖書かな
ミサの鐘頓(とみ)に風花とびまさり

*①新型コロナウィルスの影響で、主日のミサが中止になっています。教会には「人来たらず磔刑のイエス」さまは何を思われているでしょう。③こんなときこそ御言葉をじっくり味わう四旬節でありたいと思います。


昭島・新堀邦司
八千歩あるきさざんか日和かな
三日目の味となりたるおでんかな
クリスマス・クランツ飾り友迎ふ
カナダよりメールの届く聖夜かな
四本のキャンドル灯しクリスマス

*①私も歩いています。ウォーキングから最近はスロージョギングに替えてみました。朗読聖書など聞きながら毎日二十分、なかなかいいです。なにせ歩くのにお金はかからない! 福音はすぐそばにある。


東京・岡村康子
夕暮れの雨音聴くや秋深し
糸瓜棚大振り小振りしばし立つ
陽だまりでキャンパスに向く冬浅し

*③「キャンパス」にはなりませんが、夜な夜な「南無アッバ絵手紙」のようなものを描いています。

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アンソロジー・井上神父の言葉

〇 原罪
小さな己れの我を絶対化してしまい、その結果他者をそのままの姿で受けとめることのできないようになってしまった閉ざされた姿----この生命の汚れをキリスト教では原罪という名で呼んできたのでした。(『日本とイエスの顔』選集1、三二頁)

<原罪とは、それが人であれ自然であれ、そのものをあるがままの姿において受けとめることのできない心の汚れともいえるでしょう。>(同書、三三頁)

 一般の人が読んだら神話としか思えないような、あの有名な創世記にある「アダムとイヴ」の話をどう解釈するか。聖書の字面だけ辿っていくと、あたかも昔アダムとイヴが蛇に誘惑されて犯した罪――「知恵の実を食べるな」と神様に言われていたのに食べてしまった――が、まるで遺伝するかのように現在まで脈々と受け継がれている――それが原罪なのだ、というふうに読んでしまうかもしれません。

この問いに対して井上神父は、それは「科学的真理」を教えているようなものではなく、まして遺伝の話などではもちろんなく、たとえてみれば「能の台本」を読むような態度で、この物語を読まなければいけないと言います。そのうえでこの物語は、私たちが知らぬ間に自己中心的な考え方・生き方に流されて、生きとし生けるものを根底から支えている「永遠の生命に浸りきることができず」、深い哀しみや悲劇を生んでしまうことを教えているのだ、と説いています。

自分の意志や努力ではのりこえられない弱さや自己中心の醜さによって曇り、自他を傷つけてしまう心性が確かに在る、そう気づいたとき私たちは、それを洗い清めていただきたい、と心から願うようになるのでしょう。

「余白の風」入会案内


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求道俳句誌「余白の風」第242号  

2020年1月
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

蓮田・平田栄一
帳尻は神が合わせる朝の雪
      
福音書に<金持ちとラザロ>(ルカ16・19~31)という、イエスのたとえがあります。毎日ぜいたくに遊びくらしていた金持ちは、死んだあと陰府に下ります。一方、貧しかったラザロは天に上げられた、という話です。

アッバは私たちの狭い思いをこえて、この世とあの世を含めてトータルで考え、バランスをとってくださいます。悪いことが続くときも自分だけが損をしていると卑屈にならず、良いことがあっても当然と思わず、おごらず、いつも感謝しつつ安心して毎日を過ごしましょう。

イエスこそ近づき来たる冬の闇

イエスが十字架にかかって死なれた後、二人の弟子がエルサレムからエマオへと旅に出ます(ルカ24章)。彼らはペトロと同じように、生前のイエスを見捨てたのですから(マルコ14・50)、おそらくイエスを裏切った自己嫌悪を抱えながら、とぼとぼと俯むいて歩いていたことでしょう。

そこへイエスご自身がそっと近づいてきて、恨み言ひとつ言わずともに歩いて行かれます。弟子たちはそうとも知らず同宿し、ようやく復活の主であるとわかります。

悩み苦しみにあるとき、そうとわからなくても、わたしたちはけっして孤独ではありません。いつかかならず、「あのときも主が共におられたのだ」とわからせてもらえる時が来ます。


昭島・新堀邦司
蹴り上げしラグビーボール秋高し
八木節の太鼓勇むや豊の秋
新蕎麦の味も香りも信濃かな

*①「one team」が流行語大賞になりましたが、どの選手も全体の中で自分の役割をしっかり果たすことを心がけていました。私たちも「キリストの体」(一コリント12・7)の中で自分の使命を----との思いを深くしました。


豊田・佐藤淡丘
葉牡丹を生けて静けさ呼び戻す
「第九」聴く腸(はらわた)染みるティンパニ
寒林や頭上気を吐く碇(いかり)星(ぼし)
午前四時寒月光は夜の底
年迫る「遥かなる声」待つ南無アッバ

 今年も日記帳を買い替えるときになりました。現に一年も経つと、その時々の付箋も挟むので日記のお腹も膨らんで、今厚い姿で机の上に立っています。日記という「容れもの」、来る年も心を開いて使い、欠漏のないものとなるよう「おみ風さま」のお助けを願う今日このごろです。南無アッバ

*日記を丁寧につけておられる由、敬服します。私など、あちこちに書き散らしてばかりで、どこに何を書いたかすぐにわからなくなってしまう始末(笑)。ぜひ、一冊に続ける秘訣を賜りたいものです。南無アッバ


大阪・島一木
茨咲く なんと狭くてほそい道
早いです 無花果の実をさがすのは
夕焼けだ 時のしるしをなぜ見ない
無花果のしげる戸口を 主がたたく
世の終わり ヨナの鯨が口あける

*これらの句は皆、なんらかイエスの口から出た警告の言葉を題材にしています。しかし私たちが忘れてならないのは、これらはすべて、あちらさまから来る「福音」の中で語られている、ということです。まずその喜びの知らせに耳傾けましょう。


高知・赤松久子
温暖化台風までも狂はせり
イントネーションだめな私の高知弁
〝よさこい〟や国際色の強くなり
「全詩集」姿を見せぬ〝ポッポちゃん〟
遠雷や同じ病の友想ふ
片蔭に眠れる猫は南無アッバ

*⑤「同病相憐れむ」という言葉がありますが、同病ではないのに、これ以上にはない憐れみを持って下さるのが、私たちにとってはほかでもないイエスさまです。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(マタイ8・17)その悲愛の頂点が十字架です。


福音歳時記・景山筍吉
キリストのみ名に縋りて老いの春
元旦の燭をマリアに奉る
老妻と追悼ミサへ三日早や
給油受けし老婆日々快し日脚伸ぶ
風花やチャーチ口門広く開け

*①拙著『俳句でキリスト教』(サンパウロ)にも取り上げました。曰く<「縋りて」には、マイナスを契機に「み名」に全幅の信頼を寄せる意がこめられており>「老いの春」はけっして暗くない、と。

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 本句集には、既刊三句集に採らなかった438句 (最多数)を収録しました。定価1500円+〒180円 〇お申込みは平田まで。


アンソロジー・井上神父の言葉

〇 聖書に出会う

<聖書とはいったい何が書いてある本なのだろうか、ろくに聖書に関する知識も持っていなかった私は、翌日、木洩れ日の美しい雑木林の中を、そんなことを考えながら歩いたのを今もはっきりと覚えています。
それが私の人生における聖書とのいわば初めての真の出会いであり、また同時に、私の人生をとらえ、私の人生を完全に変えてしまったイエス・キリストという人との出会いなのでした。>(『日本とイエスの顔』選集1、一三頁)

人生のなかでは、ある本との出会いに、運命的なものを感じることがしばしばあります。とくに聖書との出会いは、キリスト者や求道者にとって、さらに特別な思い出と意味を心に刻む大切なものとなります。
井上神父のそれは、入信前の学生の頃、あるハンセン病病院を慰問したとき、「ガランとした病室のベッドの上に置かれていた」一冊の聖書だったといいます。自分が病者に対してとったぎこちない態度に「自己嫌悪」を感じながらも、「なにか、私はゆるされている、という」「暖かな思い」とともに、聖書に出会ったのでした。

キリスト者にとって聖書はいうまでもなく神さまからのメッセージ集です。苦しみや孤独に陥ったとき、または幸福のただなかにあるとき、あるいは人に勧められて手にするということもあるでしょう。しかしそれがどのような出会い方であれ、その根底に「アッバ」(パパ、おとうちゃん)と呼べる「暖かな」神の配慮――導きがあったのだ、と年を経るほど感じるようになります。

〇 新約聖書はガイドブック

<どんなに多くの書物を読み、知識をたくわえ、そこへ行く道を知っていても、そこへ向けて出発しようという一念を起こさない人は、ほんとうの意味でそのものを知ることはできないでしょう。
聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践的指導書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。>(『日本とイエスの顔』選集1、二七頁)

 右の言葉の前では、ものを知る方法について、二通りの方法がある、一つは「概念、言葉」による方法であり、もう一つは「体験」による方法だと井上神父は述べています。そして、ほんとうにそのもの「を知る」のは、体験的方法による、といっています。

 神父はこの本のあとがきであらためて、新約聖書を「真理そのものを伝える書であるよりも、まずどうしたら永遠の生命が得られるか、を教えた実践指導書としてとらえた」ことを述べ、それに対する予想される批判に答えています。そこでは「イエスをキリストと信じるということは」「イエスの教えを信じて生きること」であり、キリスト教は本来「キリスト道」なのだ、といっています。

 若い頃、自分の生き方に迷い、哲学から宗教に関心を持ったものの、神仏を「信じる」ということはどういうことなのか、わからなかった私は、井上神父のこの言葉――実践主義・体験主義的なキリスト教に出会って、この方について行こう、と思ったのでした。

 キリスト道は、それを生きている人にまねび、ついていくことから始まるように思います。



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求道俳句誌「余白の風」第241号  

俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

高知・赤松久子
秋風や比叡めぐりし日の遠く
眠剤を飲めど眠れぬ秋の夜
願ひをば聞き入れ給ふイェスなりき
娘(こ)に憑きし悪霊受くる豚いづこ
狂ひしやまだ原発に頼るとは
昼間(ひる)と夜(よ)の同じ日となり嵐去る
嵐去り烏(からす)も戻り南無アッバ
秋晴れや飛行機雲の南無アッバ

 平田先生、『星屑のアダム』すてきな装丁で密度の高い内容のご本、すっかりうれしくなりました。
特に私の心に沁みた四句---

星屑を集めて成りしアダムかな

〝天文学〟大好き人間の私・・・。

救われてなお道はるか秋の雲

「救われている中で神に近づいていく道---深化」と神父さまはおっしゃいました。

棒立ちの鵜飼咳く南無アッバ

むつかしくてよくわからないけど、~~南無アッバの形をとっている唯一の句!

主と共に別の道ゆく公現日

勘違いしてるかもしれませんけど、何となく自分のことみたい。南無アッバ

*赤松さん、あたたかい句評ありがとうございます。
③「あれこれ神さまにお願いするだけでは本当の祈りではない」という人がおり、また「究極の祈りとは願いです」という人もいます。
私はどんどんお願いをしていいと思います。
願い事がなければ信仰に入らなかったかもしれない。
そして、アッバは必ず願いを聞き届けてくださると思います。
ただしそれは、今の私が期待するような形ではないかもしれない。
すべてを摂理によって導くアッバが最も良いと思った形をとるということです。
もし、願っても状況が変わらなければ(変わらないように見えても)、私自身が御心によって変えられるでしょう。


名古屋・片岡惇子
秋日和主の前に吾が時消ゆる
優しさは突然凍みてアッバ父よ
主はどこに葡萄の種の一粒が
大夕焼け混乱鎮めアッバ父よ
主の創造涼し子の涙(るい)アッバ父よ
裸の王ゴルゴタの道誰も居ぬアッバ父よ

*六句中四句が「アッバ父よ」のアッバ讃句になっています。
新約聖書には、三回、マルコ14・36、ローマ8・15、ガラテヤ4・6にこの呼びかけが出ており、当時の教会でもすでに定着した形だったのでしょう。
 イエス自身は、アラム語で「アッバ」とだけ言ったのだと思いますが、そこにギリシア語の訳として「父(パテール)よ」とつけた言い方が、ヘレニズム教団のなかで定着していったのでしょうか。
 とすれば、これはすでにイエスの教えの最初のインカルチュレーション(文化内開花)と言えるかもしれません。
「受容は必ず変容をともなう」との言葉が思い出されます。


豊田・佐藤淡丘
東天や茜色みて鵙高音
三拍子音もかろやか落葉踏む
松虫の高さ絶妙純日本
東天になだれこむさま鰯雲
末枯れの温もりに臥し空仰ぐ

秋の一日、「教会まつり」が終わりました。
当教会もご多分にもれず、高齢化の波に無縁ではありませんが、「チャリティ(愛)」の為に一致協力「持っている以上に与えること」ができたように思います。
聖マザー・テレサは、予ねてこう祈ることを教えておられます。
「どうか自分が傷つくまで与える勇気をお与えください」と。
南無アッバ・南無アッバ・南無アッバ。

*⑤「末枯れ」=「うらがれ」と読みます。
晩秋になって、枝や葉が先の方から枯れていく様をいいます。
場所は、佐藤さんおなじみの「会神の丘」でしょうか。
秋の日が差す林の中で、寝転んでいるのでしょうか。
見上げると木々が末枯れしている様子がわかる。
冬へ向かう微かな温もりを引き立てるように、己は休眠へと向かう木々たち。
ここにもアッバの愛の摂理が感じられます。


大阪・島一木
主よ 子犬もパン屑をいただきます
狐には穴が 鳥には巣があるよ
枕するところさえない 人の子は

*①マルコ7・28。
救いの「パン」は、たとえそのわずかな「屑」であっても、だれにでも同じ救いをもたらします。
そのあと「四千人の供食」の後、8・8には「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった」とあります。


昭島・新堀邦司
コロポックル姿を見せよ蝦夷の蕗
百日草第一日目の花開く
片蔭は尽きたりなほも歩かねば
コスモスやハングライダー並び飛ぶ
秘境檜原村二十句より
分校は廃校となり蝉時雨
朝まだきはや老鶯は目覚めたり
鳥たちの声の涼しき朝餉かな

*②「百日草」の「第一日目」・・・。
かつて神父と病院の慰問に行ったとき、身寄りのないある方に百日草の鉢を持参したことがありました。
その方はほどなく亡くなられましたが、教会に戻ってきた鉢植えはしっかりと花を咲かせました。
それは何日目だったのか…。


練馬・魚住るみ子
手をつきて這い上る階段上り下りは最適リハビリ毎日はげむ
デイサービスの若きスタッフねんごろに老人(おいびと)導く手とり足とり

*①数年前に二階屋に引っ越した時、住宅会社に勤める若い親戚から、「おじさんたち、できるうちに、なるべく上り下りを頻繁にして、足腰を鍛えてください」と、笑いながら言われたのを思い出しました。

家族なくケアホームに居られいる師の家に咲く木槿(むくげ)切り行く  東京・山岸孝子

峠越え風が運んで秋のうた  東京・岡村康子

葉桜や憩ふルルドの聖母かな  東京・小熊坂満邦

三位一体祭十字架しるす幼き手   東京・中庭栞

*①ちょっとした心配りがうれしい。
②おみ風さまが生きて働く感。
③車中しばしばロザリオを唱えています。
④成長していくにつれて、その意味をかみしめる。


『星屑のアダム』自解  蓮田・平田栄一
するめかみかみかみがわからぬ
左右空席 夜の逃避行
天国の椅子取りゲームの椅子余る

*①こんなふざけたような句を作ってみた時期(90年)もあります。
しかし「かみがわかった」というよりは、当を得ているかもしれません。
②92年、このころ『鳩よ』という雑誌で永六輔さんが担当していた「創句」欄の常連になっていました。
「自由律より自由に」というキャッチフレーズでした。
③95年、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。
・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、
戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14・2~3より)


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〇お申込みは直接、平田までご連絡ください。
ぜひご一読ください。


南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)
日時11/23(土)午後1時半~。
12/28(土)同、
1/25(土)同


栄一求道俳句自解

帳尻は神が合わせる朝の雪
      
福音書に<金持ちとラザロ>(ルカ16・19~31)という、イエスのたとえがあります。
毎日ぜいたくに遊びくらしていた金持ちは、死んだあと陰府に下ります。
一方、貧しかったラザロは天に上げられた、という話です。
アッバは私たちの狭い思いをこえて、この世とあの世を含めてトータルで考え、バランスをとってくださいます。
悪いことが続くときも自分だけが損をしていると卑屈にならず、良いことがあっても当然と思わず、おごらず、いつも感謝しつつ安心して毎日を過ごしましょう。


「余白の風」入会案内
どなたでも参加できます。
購読のみも可
*年六回発行 
*年会費千円(送料共)
*採否主宰一任(本会の趣旨にそって添削する場合があります。)
*ブログ「南無アッバを生きる。」に掲載します。
*お問い合わせはメールにて。


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アーカイブズ 余白の風 創刊号  

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求道俳句誌「余白の風」第240号  

2019.09.20発行
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

名古屋・片岡惇子
蛍の火それぞれの傷の詩編かな
葬送の朝アッバ呼ぶ蝉時雨
神の意志の人の不思議や葡萄実る
涸びて天上に命マスカッット
遠雷や主の手の招く舟に乗る
主の平和炎上していく八月

*①「それぞれ」が持っている「傷」が一つの「詩編」になるという発見。苦しみの中にこそ希望をこめるキリスト信仰。②虫や鳥の声は、みなアッバを呼ぶためだったのですね。

練馬・魚住るみ子
裏木戸を押し開け蚊遣りくゆらせて床几に家族(うから)集ひし月よ
雨の日は外出叶はぬ傘と杖南無アッバとてくり返し祈る

*②いつでも、どこでも、祈りだけは自由です。先日、眼科へ行って満席の待合室で一時間、ロザリオを手指を使って祈っていました。不思議と待ち時間が気にならず、診察の不安からも解放される体験をしました。各連の最後に「南無アッバ」の祈りを加えています。

高知・赤松久子
野良猫よ台風(あらし)の昼は何処に居(お)る
濁流の溢れんばかり鏡川
鳥達も姿を隠し時を待つ
台風の過ぎれど雨は降り続く
時として荒ぶる神か大自然
安全なる場に常住し南無アッバ
いかにせむ足を庇はば肩痛む
ヨブを思ひ心なごみて南無アッバ

*今年も何度も猛烈な豪雨や台風が襲ってきました。特に四国・九州の方々にはお見舞い申し上げます。赤松さん、そうした心配や不安の中で次々に求道俳句が浮かんでくる。真剣な祈りのなかでアッバから安らぎが与えられる。

豊田・佐藤淡丘
この道や虫の声聴きとぎれなし
暗がりに迷ひし果ては虫の声
許すことここに覚えし虫しぐれ
水の上「ほ」の字を描く秋蛍
梢には秋蝉といふ毀れ物

秋の虫の声が賑やかになりました。
樹上を思いのたけで鳴いていた蝉たち、その見事な選手交替は、正に神さまの采配としか思えません。
天の聖堂を得た気分です。

*井上洋治神父が遺された大きな宝の一つに、私たち人間は、自然に学び、自然とともに祈るのだ、という教えがあります。
「空を行く雲、小川のせせらぎ、一輪の野の花が捧げる祈りに合わせて,私たちの祈りをあなたの御前で澄んだものとしてください。」
私たちも「天の聖堂」の中でアッバの「采配」=摂理をしっかり受け止め、南無の心で句作=祈りに励みたいと思います。

大阪・島一木
みてごらん 空ゆく鳥を 野の百合を
ソロモンの栄華にまさる白百合よ
数えられている 髪の毛の数までも
行きなさい 葡萄畑で働きなさい
無花果を下りてきなさい ザアカイよ

*聖書をほぼそのまま定型に置き換えた、といえばそうなのですが、私はこういう句は好きです。主観も季語もなくなって、まったく御言葉に南無している。

昭島・新堀邦司
孫からの絵手紙父の日なりけり
父の日のやや辛口のワインかな
あひ会うて点して恋の蛍かな
ほととぎす忍び音洩らす朝ぼらけ
母の日の遺愛の文語聖書かな

*⑤御母堂が遺していった文語聖書。聖書を読む、御言葉を聴くということは、ただ文字面を追って分析することではない。それを発した方、書きとった人、写した人、編集、印刷、販売、贈呈・・・・そして使った人、無数の人たちの心を自分の身の内によみがえらせることなのだ。

真白なる蛍袋の花房は火垂る宿るかと光り咲きいる  東京・山岸孝子

むさぼりて便利なものを追いもとめ生命の海を死の海にする  東京・富山紗和子

チョコレート製の原発震災忌  静岡・十一

*①②カトリック関口教会281号「こみち歌壇」より。
①生きとし生けるものたちの交歓がうれしい。
②人間はその強欲によって繁栄し、結局その同じ強欲によって滅びるのか。
③第2回俳句大学高坂明良特別賞特別作品より。「あまあま」と題した一〇句各々おどけ、諧謔味のなかに、意味深な不気味さ、人間への警鐘を感じさせる作品です。<三月の甘納豆のうふふふふ 坪内稔典>を思い出しました。

【新刊】『星屑のアダム』自解  蓮田・平田栄一

ヨブ記繙く雨上がりに残る雷鳴
一歩譲る度猫背になってゆく
冬晴れをゆるり歩めるイエスかな

*①②自由律初期、一九八六~七年の作。
①神義論という言葉を知らずに、ただキリスト教の神が唯一絶対善・愛の方なら、なぜ世の中に悪が存在するのかなど、頭でっかちにあれこれ考えていた。
②もともと猫背の私がますます猫背になる。
③二〇一一年の作。したがって、①②とは四半世紀の時間経過がある。
リスボン大地震(一七五五年)のとき神義論が浮上したように、現代の私たちもこの年3・11のなかで、神の愛と義について思いめぐらした。

【新刊】
『星屑のアダム』平田栄一求道俳句集4
星屑のアダム

〇「俳句は祈り」をモットーに三十有余年続けてきた句作の全貌を示します。

〇大活字なので、ご高齢の方にも読みやすい!

〇初心以来、自由律・定型と揺れながら、「求道俳句」にたどり着いていく、習作・実験作を含む祈りの軌跡。

〇本句集には、既刊三句集に採らなかった438句(最多数)を収録しました。

〇井上洋治神父の色紙画像(モノクロ)6枚を、それぞれの中扉に掲載しています。(上図参照)

〇A5版、187頁、ソフトカバー

〇定価1500円+〒180円

〇お申込みはハガキ、メールにて平田までご連絡ください。
ぜひご一読ください。

〇南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)日時9/28(土)午後1時半~。10/26(土)同、11/23(土)同

「余白の風」入会案内
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求道俳句誌「余白の風」第239号  

2019年7月号
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

豊田・佐藤淡丘
狂ほしや雀砂浴び夏に入る
遠山の影を映してた水張る
葉桜や幹幹の声伝へ会ふ
老鶯や空の匂ひを連れて去る
陸封(りくふう)の悲しみ背負ふ蝸牛

 若者の犯罪者に向って、「あなたは役立たずだ」「怠け者だ」、あなたたちは、あなたたちは、と言って裁いているばかりでいいのだろうか。これもよく考えてみれば言葉の暴力だと思うようになりました。
 イエスさまが十字架の苦しみを自らおえらびになったように、凡てを神のみこころに委ね、「イエスの平和」を唱え、赦しを得たい気分になっています。
アッバ・アッバ・南無アッバ

*⑤「陸封」とは、もともと,海か海と陸水の両方に生活していた動物が陸水のみにとどまり,何世代も繰返すようになること。井上神父から生前お聞きした言葉のなかで、最も記憶に残っているのは、「人生というのは受け入れるものなのだ」(受容)ということです。受容があってはじめて変容がある。

高知・赤松久子
神父さまのCD届き南無アッバ
自然との関わりうすき身なれども
窓すかし朝風入れて南無アッバ
窓すかす風の薫りと鳥の声
住みなれし家を手放し南無アッバ
神奈川は遠くにありて想ふもの
首都圏はもはや外国南無アッバ
〝南無の札(ふだ)〟吾にとりてはご聖体
梅雨に入り物みな静か南無アッバ

*たくさんできましたね! ご不自由な体をいたわりつつ、前向きに生きられているお姿が彷彿とします。「CD」も「南無のお札」も天国の神父さまからのメッセージです。

大阪・島一木
信仰の 山を動かすからし種
鳥の巣をゆめみる種のねむりです
眠るまも 種は芽をだしのびてゆく
毒麦も 刈り入れまではそのままに

*福音書の「種まき」にちなんだ求道俳句的な作品。「種」は小さきものの象徴。その小さな身の内に大きな希望が隠されています。

昭島・新堀邦司
四人目の孫誕生
春風に乗つて来たりし便りかな
さきがけて緋寒桜の咲きにけり
春潮やしまなみ海道橋多し
外人墓地
十字架に今日の落花の惜しみなく
ノートルダム寺院炎上
聖母マリアの悲しみ深し受難週

*①おめでとうございます! <花咲き継ぎ人生き継ぎて神の業  栄一>血族のつながりをイエスの十字架の血ということと考え合わせると、狭い身内意識とはちがうものが出てきます。

名古屋・片岡惇子
蜘蛛の糸闇に一条主の光
蜘蛛の糸一筋よぎり主の心
老鶯(ろうおう)の天に轟く祈りかな
老鶯鳴く湖を潜りて時を待つ
夏の雨生かされし命黙に入る
楊(やま)梅(もも)の酸っぱき命ヨハネ読む

*③④「老鶯」は夏の季語。春の鶯が平地から山地に移って鳴くといういわれ。全句とも、老いと病のなかにあって南無の心で生きようとする作者の姿勢がよく出ています。お体ご自愛ください。

練馬・魚住るみ子
「思ひを越ゆる」より
果すべき責を終へたる夕べなり心の火照りいまだも消えず
人びとの思ひと力を頒ち合ひ併せ集めて成れりことごと
人の性は変はりゆくもの言挙げに今日はうれしき驚きを見ぬ
知らぬ間に思ひを越ゆる展開を心つつしみ感謝しまつる

*一つの物事を皆で協力しつつ仕上げようとするとき、それぞれの分担と責任のもとに、才能が生かされる。諍いや妥協もあろうが、キリストの体全体には、大きな調整力が働く。

蓮田・平田栄一
『アッバを呼ぶ』自解
神を呼び神を疎ましく生きている
不治の人見舞った日の妻強く抱く
不発弾眠る杜の蝉しぐれ
月満ちるとき花は花を忘れて咲く
いつも遅れてくる青年昭和ゆく

 句作初期の作品。①まさに自分の作品が初めて活字になったもの。今振り返ると、形式としては②③と共に、自由律として書いたのに、ほぼ定型になっている処は、のちの定型移行を暗示し、内容としては、神を求めながら「疎ましく」思っていたことは、のちの求道の長い道を予言していたように思う。

 
平田栄一 俳句関連著作
〇句集『求道俳句集』(品切れ)、『アッバを呼ぶ』(千円)、『悲愛のこころ』(千円)以上お申込みは、平田まで(〒一八〇円)
〇エッセイ集『俳句でキリスト教』(サンパウロ、一六〇〇円)こちらは、アマゾン等でも購入できます。


「南無アッバ」という生き方
**井上アッバ神学入門**
平田栄一
 日本人にイエスの福音のすばらしさを伝えたい、そういう一心で、生涯をかけてキリスト教を模索し、多くの人たちに感化を与えた井上洋治神父の信仰を、読者のみなさんに知っていただくには、何から説明したらいいだろうか、といろいろ考えてみました。
 何かと忙しい今の世の中、ともかくもそのエッセンスだけを手っ取り早く教えてくれ、という方がきっとおいででしょう。それで私としてはやはり、「風の家」の祈り、というものをお示しして、私なりの若干の解説をするのが一番いいのではないか、という結論に達しました。
 以下、この方針にそってお話しします。

風の家の祈り(二)

アッバ。
利己主義に汚れている私たちの心を、
あなたの悲愛の息吹きで洗い清めて下さい。
空を行く雲、小川のせせらぎ、一輪の野の花が
捧げる祈りに合わせて,
私たちの祈りをあなたの御前で澄んだものとしてください。
人々の弱さ、欠点,罪を裁くことなく,まずこれらを受け入れられた
御子イエスの悲愛の心に,私たちの心を近づけてください。
また,御子イエスが深い哀しみと痛みを背負って,
重い人生を歩んでいた人たちの心を映しとり,受け入れ,
友として生きられたように
私たちにもそのような人々の心を映しとれる友の心をお与え下さい。
苦しみも,哀しみも、喜びも,すべてをあなたの御手から
受け取ることによって,私たちの日々の生活が,
あなたの悲愛の息吹きの働きの場となることができますように。
主イエスキリストによって アーメン

 もう一つ、最後の井上神父の境地「南無アッバ」を織りこんだ祈りがあります。

  「南無アッバの祈り」

アッバ アッバ 南無アッバ
イエスさまに つきそわれ
生きとし生けるものと 手をつなぎ
おみ風さまに つつまれて
アッバ アッバ 南無アッバ

井上神父は二〇一四年の三月に八十六歳で帰天されましたが、神父亡き後も続けている南無アッバの集いでは、この二つの祈りを繰り返し唱えています。


〇南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)日時7/27(土)午後1時半~。8/24(土)同、9/28(土)同、10/26同。


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*〒振替口座00170・3・260909 平田栄一


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求道俳句誌「余白の風」第238号  

2019年3月号
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

高知・赤松久子
思ひ出が現在となる蝉しぐれ
神父さま「南無キリスト」じゃダメですか(一般の人に説明しやすいです)
イエズスの祈りは常に「南無アッバ」
あわてるな時間たっぷり南無アッバ
介助され見学されて入る風呂
去りし人の残せし椿今日も咲く
朝ごとに野の花を見て南無アッバ

 食堂の同じテーブルに野草好きの方がいて、毎朝早く鏡川の土手を散歩して野の花(雪柳、ほとけの座、つる日々草など)を摘んでコップに挿して下さいます。私はもう散歩に出られませんが、おかげで季節の花々に触れることが出来、有難く思っております。

*②この他に「南無イエス」という方もいます。井上神父にとっては、イエスあるいはキリストは私たちに「寄り添い」(南無アッバの祈り)、私たちと共に御父に向って「南無アッバ」と唱えて下さる友のような方なのだと思います。そういう下地の中で、自然に「南無アッバ」が天啓のように口をついて出たのでしょう。それは理屈ではなかった。でも、それはあくまで井上神父の実存の中で示されたことだったのですから、他の「南無・・・」ではダメ、などとおっしゃるはずはないでしょう。日本人キリスト者として皆が試行錯誤してよいと思います。

水戸・谷島静江
セーヌより眺むる聖堂陽に映えて
ノートルダム仰ぎつ小路ミモザ散り
炎上のノートルダムや青き空
アレルヤの響ける中を散る桜
久々に安否語れり復活祭

*③今回のような事故、またスリランカでの教会へのテロ。現代の試練や人間の業如何に、と思わされる事件が続きます。確かなことは多くの祈りを必要としているということ。

大阪・島一木
道ばたの種は からすがついばんだ
太陽に枯れそう 岩の根なし草
ふさがってしまう 茨に落ちた種
よい土の種は百倍 実をむすぶ

*マルコ四章<「種を蒔く人」のたとえ>ですね。御言葉、あるいは聖書をどのように聞くか、ということが問われている。その土台はアッバの「愛」=「人を裁かない」にある。

昭島・新堀邦司
身中の鬼も老いたり追ひ出さず
春立つと大きく背伸びしてみたり
小包の届くやバレンタインの日
天界へ妹送る春の雪
千羽鶴手向けて春の別れかな

*自分が老いていく=周りも老いていく。老病死は有無を言わさず、私たちに何を大切にして生きるのか、を問うてきます。人生は宿題を与える学校のようです。

名古屋・片岡惇子
春雷や祈りを壊し主を隠し
非日常は主のみ心や花の雨
花影に隠れし命主見つけたり
青き踏むもたつく足を杖として
青き踏む湖畔に網引く主おわし
復活祭蝋燭たれ手に十字架

*②難しい句です。それだけに豊かに発想が広がります。「花の雨」という具象の裏側に流れている時間、そこに御心が・・・・。こういう句は好きです。

豊田・佐藤淡丘
仰ぐれば落花にひとり青みゆく
糸桜大地を覆ふ息遣ひ
峡谷を囲む喬木初音かな
今来たとお喋り上手初燕
花の屑円を描きて雨後の道

「おみ風さま」に背中を押されるようにして、近くの身体障がい者施設で「紙芝居」のボランティアを始めて早、十三年が経ちました。
 この四月を期に白頭の爺も引退をと、その幕を降ろしました。その昔、セールスマンという競争社会で育った〝冷たい男〟が、このボランティアで〝優しい男〟に変身したものよと、恥かしながら自分でもそう思うようになりました。正にアッバさまのお陰だと思います。
 南無アッバ、南無アッバ

*長年続けられてきたボランティアを終えられた由。ほんとうにご苦労様でした。たくさんご奉仕をされ、たくさんのお恵みをいただいたのですね。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20・35より)

練馬・魚住るみ子
長生きの日々はしんどいものと知るめでたくもありわびしくもある 南無アッバ
曽孫どちとハイ・タッチ交す百歳の笑ましげな顔誕生日かな

*①正直なお気持ちなのだと思います。先日ツイッターにこんな風に投稿しました。「ソクラテスは ただ生きるのではなく よく生きることだ と言った しかし、 母の特養に行くたびに思う ただ生きることが いかに大変で 有難いことかを」

求道俳句自解  蓮田・平田栄一
主と共に隠れし命山眠る
私たちは「キリストと共に死んで」(ローマ6・8)「共に復活させられ・・・共に栄光に包まれ」る(コロサイ3・1、4)とあります。それまでわたしたちの「命は、キリストと共に神のうちに隠されている」とも(同3)。ということはけっきょく、いつでもどこでも主と共にいることになるのです。

初雪やルルドの聖母粧(よそほ)ひて  小熊坂満邦
改心の言葉に追われ四旬節  中庭栞
広々と大海原に春の色  中村昇平
梅の香に行きかふ人の笑ひ顔  岡村康子

*①今や各地身近にあるルルド。②多数の「改心」、根本の「回心」。③万物にアッバのエネルゲイアが注ぐ。④万物生々に誘われる。

〇平田栄一求道俳句集 第2集『アッバを呼ぶ』(千円)第3集『悲愛のこころ』(千円)以上お申込みは、平田まで。〒一八〇円
〇『俳句でキリスト教』(サンパウロ、一六〇〇円)
こちらは、アマゾンでも購入できます。
   
南無アッバの集い&平田講座(抄)
〇第五二回(続14・10)
では、井上アッバ神学では、キリスト教の教義に直截関わる部分をどう表現しているのでしょうか、見てみましょう。
手近な2つの例として、「風」97号の巻頭詩を味わってみましょう。「編集室だより」にあるように、遺品のなかにあった、最後のお誕生日に書いた詩です。

 <「苦しみを共にわかちあいながら、一緒にお捧げする苦しみの奉献のお祈り」
 アッバ アッバ 南無アッバ
 どうか私たちが、いま、共通に味わわさせられている この苦しみと不安を私たちから、どうぞ取り除いてください。>

「苦しみをわかちあう」あるいは「共通の苦しみと不安」の部分は、皆と「共に」が強く表現されています。これは、イエス様を先頭に、「みなでぞろぞろ」という、あの佐古対談(『パウロを語る』)にあったくだりを想起させます。

<でも、十字架の苦悩と孤独と屈辱をまえになさって、ゲッセマネとよばれていたところで、アッバの御子イエスさまが、おとなえになられましたように、私たちにも、私たちの願いを超えた、まずは、アッバの思しめしを優先させてくださいますようにと、私たちが一緒にお祈りできる、お恵みと勇気とをおあたえください。>

ここでは「十字架」を「苦悩と孤独と屈辱」として捉えています。そこには、最愛の弟子たちに裏切られた「罪」の問題があるでしょうが、ここには贖罪論的な、罪のゆるし云々という思想は前面に出ておらず、十字架上のイエスの直接的な苦悩に思いを馳せていることが注目されます。先回触れた野呂氏の北森批判のなかにあった「戦後の日本人が共に苦しむ神を求めた」というくだりを思い出します。(つづく)

〇南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)日時5/25(土)午後1時半~。6/22(土)同、7/27(土)同、8/24同。

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求道俳句誌「余白の風」第237号2019年3月号  

余白の風 237号 2019-03 up.pdf発行しました。

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