「南無アッバ」を生きる ホーム »連載「井上神父の言葉に出会う」
カテゴリー「連載「井上神父の言葉に出会う」」の記事一覧

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

連載エッセイ「井上洋治神父の言葉に出会う」(42)  

井上神父が創刊した「風」誌に毎号連載しています。
第102号、2017年春
(42)4-5inouesinpunokotoba.pdf
項目
○二つの神学のベクトル
○井上アッバ神学の「十字架」
○「赦しの晩餐」
○「赦し」とは「見捨てない」こと
○「全裸」のイエス
(つづく)
スポンサーサイト

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

連載エッセイ「井上洋治神父の言葉に出会う」(41)  

井上神父が創刊した「風」誌に毎号連載しています。
第101号、2016年秋
(41)第4部アンソロジー井上神父の言葉 4.pdf
目次
○アッバ神学とパウロ主義
○青野太潮神学との出会い
○母性的福音理解
○イエスの十字架と死
○イエスの「ゆるし」宣言と贖罪死
○日本人の感性

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

(40)第4部アンソロジー井上神父の言葉3  

「風」第100号「風の家」創設30周年記念号より
2016年春(*冊子では井上神父の言葉からの引用を示す囲み□が消えてしまっています。正しくはこちらのPDFをご覧ください。)
(40)第4部アンソロジー井上神父の言葉3.pdf
○人生マラソン--折り返し地点
○パウロを解釈する
○お借りしたものを返す
○人生の意味
○完成のとき
○あの頃

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

アンソロジー井上神父の言葉(2)井上洋治神父の言葉に出会う(39)第4部   

「風」第99号 2015年秋

〇日本語の信仰告白


神がイエスをよみがえらせ、高く挙げて主とした」という信仰宣言は、すっぽりとイエスがそのまま余白の次元に入り込み、生かされ、余白を吹き抜ける風と一体化し、生きとし生けるものの根底を吹き抜けることとなったということに他ならないのではないか。(『余白の旅――思索のあと』一九八〇年、二五六~二五七頁)


わたしがこの文を取り上げるのは、もう三度目になります。最初は、「風」五二号に発表した『風の薫り』についての書評。二度目は連載「井上神父の言葉に出会う」第一部(『心の琴線に触れるイエス』一二三頁)の本誌上です。

そして今回、連載の第四部「アンソロジー・井上洋治神父の言葉」として、前回取り上げた「南無アッバ」の由来に続けて、この部分を三たび取り上げさせていただくことにします。

その最大の理由は、わたしも含めて日本の人たちが井上神学=アッバ神学に、素手で触れたとき、まずどんなところに惹きつけられるのだろうか、その最大公約数的な要素を含む文章を取り上げたいと思ったからです。いや、神学などと大上段にかまえるのではなく、井上神父の文章のどこに惚れたのか、初心を思い出してみたのです。

するとそれは、キリスト教の内実を、いわゆるキリスト教用語を使わずに、井上神父自身が実感をもって正直に日本語で語った言葉だったから、ということに思い至ったのです。その典型が、「悲愛」であり「南無アッバ」であったわけです。

もちろん神父に出会った当時は、そんな理屈はまったくわかりませんでした。まったく直感的なものだったと思います。しかし、わたしだけでなく、井上神父の著作や人となりに接して共鳴した多くの人たちが、同じ経験をされているのではないでしょうか。その好例が、三度引用させてもらう右の言葉なのです。神父は、

「神がイエスをよみがえらせ、高く挙げて主とした」という信仰宣言――あるいは「・・・・三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、・・・・」という使徒信条を、

<すっぽりとイエスがそのまま余白の次元に入り込み、生かされ、余白を吹き抜ける風と一体化し、生きとし生けるものの根底を吹き抜けることとなったということに他ならないのではないか。>

と喝破します。

仮にこの一文から「イエスが」という主語を抜かして読んでみれば、なおさら納得できるのですが、この日本語の文章をわたしたち日本人は、何の抵抗も無く自然に受け取ることができます。キリスト教が日本語になる、というのは、具体的にこういうことをさすのだと思います。

そして最大の問題は、この一文の主語である「イエス」を、どう日本人として理解し、受け取るか、ということです。井上神父や遠藤の一生をかけた苦心は、この問題に尽きるとも言えましょう。


〇理性知と体験知


<<について知る>>という、理性と概念による自然科学的なもののとらえ方、合理主義的な発想にあまりにも慣らされすぎてしまった現代の私たちは、ここで、日本文化が長いあいだたいせつにしてきた<<を知る>>というもののとらえ方を思い出し、<<について知る>>ことだけが唯一の知識であるという偏見を思いきって打ち破ることが必要であると思います。(『日本とイエスの顔』初版一九七六年、第一章 いのちとことば)


処女作『日本とイエスの顔』において井上神父はまず、ものを「知る」方法として、「~について知る」という概念、言葉による知と、「~を知る」という体験的な知とを区別します。

この区別は、神父が哲学を志すきっかけとなったベルクソンから学んだことですが、現代のわたしたちは前者=理性知に傾きすぎており、いまや、日本文化が長い間大切にしてきた「~を知る」体験知を思い出すべきである、といいます。

その上で、どんなに知識を蓄えても、そこへ向けて出発しようとしない限り、ほんとうの意味でものを知ることはできない、として右のように述べているのです。


〇体験的に知る


聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践指導の書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。(同)


すでに十年以上も前になりますが、わたしが本連載「井上神父の言葉に出会う」を始めたとき、「序にかえて」のなかで引用した一文です。

井上神父は神学者や聖職者であるよりは、自らを「求道者」「宗教家」と位置づけていたのではないかと思います。それは自らが「ほんとうの意味でイエスの教えをわかること」をめざし、リジューのテレジアを手本に、イエスの弟子たらんと「一念発起」渡仏して以来、変わることのない行動的な姿勢から読み取ることができます。

ただ気を付けなければいけないのは、「行為を要求する」と神父が言うとき、その「行為」とは、いわゆる「行為義認」としての律法的な行為を意味しているのではない、ということです。つまり、これこれをしなければ、神に「義」=正しいと認められない、あるいは救いにあずかれない、ということではないのです。このあたりのことはすでに本連載第三部で、井上神父の使う「行為」という言葉を3種に分類し、「条件行為」「信仰行為」「応答行為」と名付けて関係を考えたところですが、ここで奨励されている「一念発起」して「その教えに従おうと決意し」起こさなければならない「行為」とは、「祈り」に代表される「信仰行為」だということです。

昔、神父と飲んでいて、「(井上)先生はなぜ、プロテスタントではなくカトリックになったのですか?」と質問したことがありました。そのとき井上神父が「カトリックには『行ぎょう』があるから」と答えたのを憶えています。いわずもがな、これは、プロテスタントには祈りがないなどと言いたいわけではありません。

では、「祈り」を「行」として捉える、とはどういうことか。次のように言っています。


自分が主である世界から従になる世界に転換するのには、どうしても〝行ぎょう〟ということが必要です。型に入るということはそういうことなのです。祈りにはいろいろなかたちがあるかもしれませんが、「祈り」というのも一つの行であります。(『人はなぜ生きるか』二七頁)


これもすでに、第三部で一度引用した言葉ですが、ここには救われる=「永遠のいのちをえる」ためにはどうすればいいか、が簡潔に述べられています。まず救いのためには①「主我的段階」から「逆主体的段階」への転換――自己相対化が必要であるということ、②そのためにはどうしても「行」が必要なこと、そして③「行」ずるということは「型に入る」ということ、この3点です。

「祈り」を「行」としてとらえるということは、まずその目的が「あちら(神=アッバ)が主」であり、「こちら(私)が従」である、と自覚することにある。そしてそのためには「行」という「型」に入ることが必要だというのです。

こうした祈り--行--型という捉え方から見えてくるのは第一に、「心のなかで祈る」という言い方とは対極にあるような祈り――実践的あるいは行動的、具体的な祈り、とでもいうべき類の祈りです。井上神父が「一念発起」して、フランスへ渡り、厳しいカルメル会の修行に身を投じた、というのは、その典型的な例と言えるでしょう。この意味では、「一念発起」――発心ほっしんから祈りが始まっているともいえるわけです。わたしたちはそこまでできないにしても、求道者、信仰者として実際に、家を出て、電車やバスに乗って、あるいは歩いてミサや礼拝に行く、というのも「行動的な祈り」の一部と言えましょう。

この「行動する祈り」という視点で、これまでのわたし自身の拙い求道生活を振り返ってみますと、面白いことに気づきます。いや、面白いというより、本来は反省すべきことなのかもしれませんが……。

わたしが井上神父から洗礼を受けたのは、一九八一年八月三十日です。その猛暑の日、洗礼に続いて、聖体、堅信、結婚の秘跡をいっしょに受けさせていただきました。もっとも結婚については、相手(つまり今の妻)が信者ではありませんでしたが。

わたしがどうして洗礼を決意したのか、については『すべてはアッバの御手に』(聖母文庫)などにも概略書きましたが、その前後のこととして今でもよく覚えていることがあります。それはたとえば、洗礼を受けたらミサに毎週行かなければいけないのか、とか献金や維持費はいくら払えばいいか、というようなことが気になっていた、ということです。「なんだ、そんなことか」と思うのは、それなりに信者生活に慣れた人の感想でしょう。

キリスト教、あるいはイエスにひかれて、洗礼を受けたいと思ったとき、意外にブレーキになるのが、まことに具体的なこうした信仰生活の「あるべき姿」のようなものなのです。加えて当時は、家族の反対というのもありました。そしてまさに、この「あるべき姿」が問題なのです。現に、わたしがカトリックだと知った周囲の反応はまず、「じゃあ、平田さんは、毎週教会に行ってるんですか(行ってるんですね)」というものです。「では、聖書を読んでいるんですか」というのも、たまにありますが、「神とはどういう方ですか」「イエスはどんな人ですか」というような質問は、まずありません。

要するに世間一般も、信者・求道者自身も、「信仰」というのは、生活のなかで日常とはちがう何か特別な非日常なことをする、というニュアンスをもって受け取っているのではないかと思うのです。なんらかの明示的な信仰を持っている人について、「あの人は宗教をやっている」という言い方もよき聞きます。生徒から「先生は、宗教をやってるんですか」と面と向かって言われると、なんとなく嫌な感じがします。それはたぶん、「宗教をやる」=「(普通じゃない、もっといえばまともじゃない)おかしなことをやっている」という風に思われているのだろうなあ、と感じるからだと思います。

しかし、井上神父が亡くなって1年半、神父が遺したこと、わたしたちに遺してくれたものを振り返る今、やはり最大のものは、「南無アッバ」の祈りの実践なのではないか、と改めて思うのです。確かに神父はたくさんの貴重な書き物や思い出を、わたしたちに遺してくれました。しかし、前に述べたように、晩年の神父は、


わたしは、いろいろな本を書かせてもらったけれど、今はこの祈り(南無アッバ)だけでいい。


と言っていました。極論のように聞こえますが、井上神父の思いとしても、自身の全求道生活が、この祈りに集約されているのだ、と納得していたからこその述懐なのでしょう。

本誌前号に掲載された藤原直達神父の言葉にも、次のようにあります。

<「アッバ、アッバ、南無アッバ」で最後まで貫かれた姿こそが、宝だと思います。井上神父様の「アッバ」に至るまでの書き物を、たとえ全部捨てても、最後の「アッバ」の称名には、大きな価値があるでしょう。>

前述したように、わたしは本連載第三部で、宗教的な「救い」と「行い」に関連して、井上神父の考える「行為」を三つに分類しました。すなわち、救われた者がそのことに応える「応答行為A」、救われるために必要となる「条件行為B」、そして祈りに代表される「信仰行為C」、という三つです(「風」第九一号四〇頁以下)。そして、井上神学=アッバ神学の特徴として、行為Cを幅広く解釈し、重視している、ということを指摘しました。

かつてのわたしは、井上神父から洗礼を受けた後も、ながらく行為Aと行為Bを混同して悩んでいました。それが、神父の「信じるという行為」という言い方に出会った時、その悩みや葛藤から解放されたのでした。


イエスが・・・・間違いなく私たちを見えない神の御手の中につれていってくださる方であることを信じるという行為が要求されるのだとも説明しているわけです。(『人はなぜ生きるか』一三三頁)


すなわち、わたしたちが「一念発起してイエスの教えに従おうと決意し、起こさなければいけない行為」とは、井上神父にとっては、端的に「信じるという行為」であり、その内実は第一に「祈り」の実践ということなのです。

それまでのわたしは、信じることと(信)と行うこと(行)とを、無意識に二項対立的なものと思い込んでいたのでした。ですから自分の、いつまでも「善い行いの伴わない信仰」ということに焦り、悩んでいたのだと思います。受洗後四、五年経った頃だと思いますが、井上神父に尋ねたことがあります。

「先生、僕は洗礼を授けてもらったのに、何も変わっていないように思うんですが・・・・。」

すると神父は即、

君ね、ほんとうに変わったか変わってないかは、神様の目から見なければ、わかるものじゃないじゃないか。そういうのは傲慢だ!
と、わたしを一喝したのでした。

当時、「南無アッバ」という具体的な祈りは、まだ井上神父の口からは出ていなかったわけですが、その境地――アッバと呼べる主におまかせ!という求道の目標について、わたしはまだ十分に思いをいたすことができないでいたのでした。

右の「信即行」「祈り=行い」とでもいうような、神父の求道性に接したとき、信か行かで分裂していたわたしの心は、ともかくも目標とする「着地点」のようなものが、おぼろにも見えてくるような気がしました。こうして、キリスト教でいう「愛」といわれるものも、積極的に前に出ていく「為す愛」に対して、「為さざる愛」というものもあるのだなあ、とわかってきたのでした。井上神父がいう「悲愛」は、まさに後者の「実践」――祈りの実践を最優先することを意味していたのだと思います。

そして自身も臨終間際まで、「南無アッバ」の祈りを実践しつつ天に召されたのでした。


〇どう祈るか
これも受洗の前の話ですが、井上神父に具体的にどう祈りを実践したらいいのか、聞いたことがありました。すると神父は、奥村一郎神父の書いた『祈り』という本を推薦しつつ、


たとえば、月に何回かミサに行くとか、聖書を毎日何ページとか決めて読めばいい。


と、まことに簡潔に答えてくれました。

また、受洗後しばらくはロザリオの祈りを熱心に唱えていた時期があったのですが、これについても、「先生、最近はロザリオをよく祈っているのですが、これを続けていれば何か見えてきますか?」と質問すると、井上神父は、


うん。十年続けていれば、見えてくるものがある。つまり、何も見えなくてもいいのだ、ということが見えてくる。


と答えたものでした。

これなども、当時は何か狐につままれたように感じたのですが、今振り返れば、何らかの境地に自分が達しようなどという不遜な思いを捨てて、自らの思いをもアッバにお任せせよ、「南無アッバ」せよ、という教えだったのだと思います。


〇父なしには落ちない


ちょうど私たちが飛んでも泣いても笑っても、この大きな大地の外に出ることがないように、私たちは大地のように大きな暖かな神の掌の中で生き育っているのだというやすらぎと勇気と希望、それこそイエスが死を賭けて伝えようとしたものだと思います。(『日本とイエスの顔』第二章 聖書を読むにあたって)


この一文は、『マタイによる福音書』の次の言葉を彷彿とさせます。

<二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。>(一〇章二九節、新共同訳)

しかし、新約聖書学の佐藤研氏は、この聖句を次のように訳出しています。

<二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。しかしその中の一羽すらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。>(岩波訳)

ギリシア語聖書(ネストレ第二七版)を見ると、新共同訳で「父のお許しがなければ」に当たる箇所は、「アネウ トゥー パトロス」となっており、「お許し」に相当する言葉は見当たりません。つまり、直訳としては「父なしに」が正しい。佐藤氏は、岩波訳の当該聖句の傍注で、次のように述べています。

<すなわち、地に落ちる時は神が支えてくれる、の意。「父なしに」をほとんどすべての訳は「父のお許しがなければ」(新共同訳)などに敷衍しているが、あらずもがなである。思想的には、一23の「インマヌエル」、二八20の「共にいる」参照。>(傍点原文)

新共同訳以外にも、現在日本に一般に流布している口語訳や新改訳、フランシスコ会訳も、「父の許し」と敷衍しています。

井上神父は生前、「翻訳というのは一種の創作である」というような指摘をされていましたが、なぜ多くの訳が原語にない「父の許し」という敷衍をしたのか。なぜ素直に直訳して「父なしに」としなかったのか。わたしは翻訳やギリシア語の専門家ではありませんので軽々なことは言えませんが、志村真氏(中部学院大学短期大学部)によれば、日本語聖書の「父の許し」翻訳は、アメリカで長い間使われた『改訂標準訳(RSV、1952年)』の影響が大きいといいます。

翻訳のプロが先人の訳を参考にすることは、当然のことでしょう。また、その言葉が置かれた文脈――前後関係にそって翻訳するというのも当たり前のことだと思います。さらに、マタイの神学、新約聖書の神学の理解・受け止め方・・・・と行けば、やはりそこには井上神父が言ったように、「翻訳は一種の創作」といった要素が、当然入ってくるものなのだと思います。ということは、創作的要素が全く入らない翻訳というものはありえない、ということになりましょう。

とすると問題は、原著者の意図をどのように反映した訳にするか、ということになると思います。右の例をうがって見れば、最初に「父のお許し」と訳した人は、父=神が、生きとし生けるものの運命を決定していく主体である、という神観を持っていたことは間違いないでしょう。しかし、人生の主役があちらにある、というのならば、井上神父の主張も同じです。

それよりも問題なのは、この訳の場合、「お許し」を出す「父」アッバが、あたかも生死の門に立つ閻魔大王のように、わたしたちの人生の外に立って第三者的に、生死の許可を出している、という印象を与えることにあるのだと思います。この「父」は人生の「審判者」であって、「同伴者」ではないのです。つまり、アッバたる神の「悲愛」で最も大切な「共に」が抜け落ちているということです。(つづく)

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

アンソロジー井上神父の言葉(1)井上洋治神父の言葉に出会う(38)第4部   

「風」第98号2015年春

一 「南無アッバ」の由来


散歩のとき、白い雲の浮かぶ青空を眺めながら、すがすがしいまでに透明なけやきの葉ずれのささやきを聞いていると、なにか心が、見える世界の彼方へと、すーっとはこび去られていくようなやすらぎとこころよさとをおぼえます。先日、その葉ずれのささやきにすっぽりと自分をとけこませていたら、ふっと自然に次のような言葉が口をついてでてきました。
 
アッバ アッバ 南無アッバ
   イエスさまにつきそわれ
    生きとし生けるものと手をつなぎ
   おみ風さまにつつまれて
  アッバ アッバ 南無アッバ

このところずっと法然の魅力にひかれ、その生涯を貫いている精神に感動していたので、おのずからに南無という言葉が口をついてでたのでしょう。(詩集『南無アッバ』あとがき、一九九九年 初冬)


これが、井上神父自身が語る「南無アッバ」の誕生話の最初です。

神父は、これまで日本語として定着してきたキリスト教の「愛(アガペー)」をあえて「悲愛」と訳し、キリスト者の姿勢を「南無アッバ」という一語に集約する神学を打ち立てました。これらの造語は、すでに仏教用語として日本に定着している「慈悲」や「南無阿弥陀仏」などを想起させます。そのために短絡的な人々の間では、井上神父は仏教とキリスト教を混交しようとしているのではないか、と誤解されることさえあります。そうした危険をおかしてまで、なぜあえてこのような造語を用いるのでしょうか。

「悲愛」という言葉の成立については、本稿でも触れましたが(『心の琴線に触れるイエス』五五頁他)、仏教の「慈悲」から「悲愛」への発想経過を見ると、どちらかといえば神学的、学問的考察の結果として行き着いた造語と言えるでしょう。一方、「南無アッバ」の方は、かなり事情が異なります。

ここには、「南無」が「法然」研究による思い入れをきっかけとして、「おのずからに」湧き出た言葉であることが告白されています。そして、「ふっと自然に」「南無アッバ」という祈り(詩)が「口をついてでた」といいます。それは、リジューのテレジア、あるいはエレミアスとの邂逅以来数十年、神父が心に暖めつづけてきたイエスの神観を示すキーワード「アッバ」と、日本文化の中で馴染んできた「南無」とが神父のなかで自然につながった――思わず結び合った瞬間なのだと思います。

つまり「南無アッバ」は、理性による学問的考察の結果ではなく、井上神父の自然な心情から直感的、体験的に導かれた祈りであるということです。

こうして導かれた「南無の祈り」を実践したときの効用を、神父は次のように語っています。


僕はキリスト教徒ですが、「南無阿弥陀仏」という言葉には強く惹かれますね。空っぽになれるんだと思うんです。・・・・
僕は、いつも「南無アッバ」って称えているんです。仏教の「南無」とキリスト教の「パパ」を合わせて、「南無パパ、南無パパ」と日々やってるわけです。

そうするとやっぱりなんかすごく嫌なことがあっても落ち着いてくるんですよ。そんなことをやっているのは、キリスト教で私一人かもしれないですけれどね。

でも声に出してやってるとね、自分のなかにたしかな変化が起こるんだね。・・・・(井上洋治・寺内大吉対談「南無」と称える―広大なるものを身中に『The法然』第七号、二〇〇一年七月、二〇~二一頁)


先の「あとがき」が「一九九九年 初冬」に書かれたものなので、これは井上神父が「南無」の祈りを実践したときの初期の「南無アッバ」体験を語ったものと考えられます。

ここには「南無・・・・」になぜ「強く惹かれる」のか、どうして「空っぽになれる」のかは述べられていません。しかしともかく結果として「落ち着いてくる」し、「たしかな変化が起こる」というのです。これは、「南無アッバ」が現実的な効用(利益)を伴うという意味を含んでいます。

神父はじめ一般的にキリスト教は、いわゆる現世御利益ということには消極的ですが、祈りによる精神的な満足を否定するものではありません。晩年の井上神父もミサのなかで、「南無アッバ」のこうした直接的な効用を説いていました。そうした点でも、やはりこの祈りが、日本人である神父の自然な心情に合致しているものであることが伺われます。


この祈りが、何かいまの私の心情のすべてを表現しているように思われる(『南無アッバ』一七三頁)


以後、二〇一四年三月に亡くなるまでの十五年間は、ひたすらに「南無アッバ」へと集約されていく生涯だったのだと思います。晩年の井上神父は、〝わたしは、いろいろ本なども書かせてもらったけれど、今はこの祈りだけでいい〟と言っていました。
   *
求道俳句誌「余白の風」会員のSさんから、古い本を読んでいて偶然「南無アッバ」を見つけた、として一通のお手紙をいただいたのは、東日本大震災前の一月頃だったと思います。

わたしはびっくりしてすぐに、教えてもらった書名をたよりに、あちこちのインターネット書店を検索しました。幸運なことにそう時間をかけずにある古書店で、当の上智大学宗教教育研究所編『キリスト教を生きる祈り』(エンデルレ書店、一九七四年)という赤表紙の本を入手することができました。

この本は、第二十回上智大学夏期神学講習会講話集として、一九七三年の夏に、「祈り」をテーマに行われた十五名の方々の講演録をおさめています。当時の長江恵浦和司教をはじめ、カルメル会の奥村一郎神父、ドミニコ会の押田成人神父、浜尾文郎東京教区補佐司教など、わたしが井上神父と話したり飲んだりしていた頃に、よく話題に上った人達の名前が見受けられます。

そのなかの一人に、イエズス会司祭・上智大学神学部教授のP・ネメシェギ神父の名前があります。神父は「祈りの神学」と題して、

<人間は、正しく生きようとするなら、祈らなければなりません。祈りを忘れた人間は、さえずることを忘れた小鳥と同じです。・・・・したがって、真の祈りが何であるかということを神学的にみきわめ、その真の祈りの境地に達するよう、常に努力することは、何にもまして大切なことでしょう。>(一一七頁)

と述べ、「イエスの祈り」から始まって、「キリスト者の祈りの本質」を探り、「祈りの共同体性」「個人的な祈り」「自由な形でともに祈る」「絶え間ない祈り」等々、三十頁に及ぶ講話をまとめています。

まず注目すべきは、「イエスの祈り」としてネメシェギ神父が最初に引用しているのが、「ゲッセマネの祈り」であるということです。

<アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。>(『マルコによる福音書』一四章三六節)

井上神父が天に召される直前、この祈りを繰り返していたことが思い出されます。そして、

<イエスは一人で祈られましたが、実際には決して孤独ではありませんでした。>(一一八頁)

<イエスの祈りは、彼が「アバ」(父、お父様)と呼んだ神との絶え間ない対話です。>(一一九頁、傍点原文)

と解説しています。

その後、何度もイエスの「アバ」に触れて話を進めています。そして最後の項目「避けるべき危険」として、祈りについて五つの「警戒すべき」事柄をあげます。それをまとめてみますと次のようになります。

① 祈りを自分の欲望の手段として乱用しないこと。
② (行動すべきときに)祈りを行動のかわりにしないこと。
③ イエスも教えたように、祈りは多言を要さないこと。
④ 祈りの型の多様性を認めること。
⑤ 祈りに際して初心を忘れず、自負心を避けること。

どの項目についても今読んでみても、説得力のある話となっています。そしてこの③のなかで、ネメシェギ神父は次のように述べているのです。

<祈りはまさに、人間の貧しさの体験からほとばしり出た、真心からの叫び声でなければなりません。・・・・このような根本態度を表すためには、「神よ、私を助けてください」「イエスよ、私をあわれんでください」「キリエ・エレイソン」「ホザンナ」「アレルヤ」などのような単純な言葉の方が適切です。このような言葉を繰り返し用いることによってこそ、人は心の貧しさを身につけ、そこから真実でなまの信仰をもつようになります。仏教では古くから「ナム南無」という語が祈祷語として用いられています。これはサンスクリット語のあて字でして、原語は「帰依する」「より頼む」ことを意味します。多くの祖先が全幅の信頼を置いて唱えたこの「南無」という言葉を、日本のキリスト者も自分の射祷として用いたらよいのではないでしょうか。キリスト者の祈りは、もちろんキリストの祈りへの参与ですから、大慈大悲であるおかたを呼び求める際には、キリストが用いた「アバ」という言葉を用いるのがふさわしい、と思います。それで、日本のキリスト者は信頼をこめて、南無「アバ」と叫ぶとよいのではないでしょうか。>(一四四頁)

みなさん、驚かれましたか? わたしもびっくりして目を疑いました。先ほども書いたように、この講演は一九七三年の夏に行われたものです。井上神父の「南無アッバ」の第一声(一九九九年)どころか、処女作『日本とイエスの顔』(一九七六年)よりさらに三年も前に、「南無アバ」を提唱したのが、このネメシェギ神父だったということ。

このことを確認したわたしは、やはりどうしても、井上神父自身に確かめたくなり、手紙を書きました。するとすぐ、二〇一一年二月七日、神父から電話がありました。曰く、


〝ネメシェギ神父の「南無アバ」については、ぜんぜん知らなかった。ただ、一九七〇年五月から一九七三年三月までの三年近くは、ネメシェギさんと神学校で隣の部屋だった。休憩室も同じだったから、その間に確かにいろいろ話し合っていた。いい人だったが、法然や日本文化について、また「南無」や「アッバ」について話し合ったことはない。彼が、とくに「アッバ」を強調していたとも、聞いていない。〟


その後井上神父は中目黒へ移って、『日本とイエスの顔』を執筆していきます。今のところわたしも井上神父と同様、ネメシェギ神父がこの講演集以外に「南無アバ」を提唱し、あるいは推奨したという話や文章には出会っていません。

ネメシェギ神父の「南無アバ」と井上神父の「南無アッバ」。これは普通に考えれば、やはりまったくの偶然という他はありません。二人に数年間の交流があったにしても、右の電話での話のとおり、「南無ア(ッ)バ」に関する接点は皆無なのですから。

ここからはわたしの推測です。思うに、日本人が長い間培ってきた伝統的宗教心を理解するヨーロッパ出身のネメシェギ神父が、その伝統と、神父の「祈りとはどうあるべきか」との考察から、日本人キリスト者に対して、このような祈りはどうか?と提示したのが「南無アバ」ということ。それはネメシェギ神父の、いわば宗教的考察からの信仰的発明といえるのではないでしょうか。

先に見たとおり、「アバ」については、祈りをテーマにしたこの講演でも繰り返し言及されていますが、「南無」については一回だけです。井上神父からわたしが聞いた先の話も参考にすれば、もしかしたらネメシェギ神父は、この講演のために原稿を用意している時、あるいは実際の講演のなかで、「南無」と「アバ」を結びつけてはどうか、というひらめきを持ったのではないでしょうか。

いずれにしろ、神父の育ち来たった文化的背景や精神風土から「思わず」口をついて出た、という意味での「ひらめき」ではなく、どちらかといえば神学的な考察から出た言葉だと思うのです。

そしてそれから四半世紀後、偶然にも井上神父が、同じ「南無アッバ」を発見することになります。神父は「風」第八一号(二〇〇九年春)のなかで、「南無アッバ」との出会いについて、次のように回想しています。


一九九九年の五月のある日、さつき晴れに澄んだ心地よい青空のもと、私はひとり、けやき並木を散歩しながら、けやきの枝とかろやかにたわむれている風の音を聞いていた。と、そのとき、全く突然に、「南無アッバ」という祈りの言葉が、私の口をついてでたのである。

「風の家運動」をはじめてから十三年、ずっとアッバの求道性を歩み続けてきた私ではあったが、「南無アッバ」という言葉が突然に口をついて出たのには、正直言って、私としても思いがけない驚きであった。

それは、ちょうど海底を流れている幾つかの潮流が、夢中になって求道にあえぎ、苦しんでいる私をとらえ一つになって、私を一気に「南無アッバ」という岸辺に打ち上げてしまったという思いだったのである。(「南無アッバ」の祈りとお札につつまれて(一)、四頁)


「全く突然に」「口をついてでた」「南無アッバ」。これは閃きというより、啓示に近いかもしれません。だからこそ「思いがけない驚き」をともなうものだったのでしょう。先のネメシェギ神父の「・・・・南無『アバ』と叫ぶとよいのではないでしょうか」といった、いわば理性的な語り口の勧めとはまったく異なります。

井上神父はこの「驚き」を、「夢中になって求道にあえぎ、苦しんでいる私」が意識しない(できない)所で、「海底を流れている幾つかの潮流が」「一気に『南無アッバ』という岸辺に打ち上げてしまった」のだと分析します。そして、十年以上経っても、


未だに私には、この意識下をも含めた深い潮流が、どうして「南無アッバ」という岸辺に
私を打ち上げたのか、その道すじは全くわからない。(同)


といいます。

それまで「恩人」としてきたベルグソン(理性知から体験知への気づき)、テレーズ(赤子・童心の道)、パラマス(汎在神論へのヒント)、エレミアス(アッバの発見)への「アッバのお導き」そして、


法然上人への深い尊敬の念が、無意識にそこにはたらいているとは充分に考えられはするのだが、しかしどうもそれだけではないような気が私にはするのである。(五頁)


として、「南無アッバ」の発心について、


東洋人とか日本人とか言えるかどうかはわからないが、私自身の血の中にしっかりと根づいて流れている何かが、アッバのお招きと関係づけられている気もして仕方がないのである。(同)


と言っています。このあと、「もぐらの穴ほり」のように、井上神父の「無意識の底」にある、前者以外の「古人、先輩」について思いを巡らします。

この経過は、先のネメシェギ神父が「南無アバ」にたどり着いた経緯と比較すると、ちょうど逆の関係になり興味深いものです。ネメシェギ神父は「祈りの神学」を「イエスの祈り」の「アバ」を根幹に置いて展開しながら、日本人になじみのある「仏教」の「南無」に注目して、「日本のキリスト者」へのアドバイスとして「南無『アバ』と叫ぶ」ことを奨励します。つづめていえば、「祈りはどうあるべきか」という「神学」的考察――イエスの祈りを原点とした総論的考察から出発し、各論として日本の伝統を加味した祈りの形――「南無アバ」にたどり着いた、いわば理性知的な営みの所産ということになりましょう。

それに対し井上神父の場合は、「無意識の底」から思わず口をついて出た体験知としての「南無アッバ」がまずあって、のちに「もぐらの穴ほり」のようにその根底を理性知的に振り返ろうとするのです。わたしは、神父が学生時代に出会った心の師ベルグソンから学んだ、「~について知る」ことと「~を知ること」という二方法の考え方を思い起こします。

さらにうがった見方をすると、この「南無アッバ」という言葉は、これまでの日本人キリスト者からはけっして出て来る言葉ではなかったろうとも思うのです。少なくとも、日本人キリスト者がネメシェギ神父のように理性的に考えて、「こういう祈りはどうですか」という形ではけっして提案しはしないと思います。なぜなら、これまでの西欧直輸入のキリスト教に疑いを持たず、これを基準に是非を判断してきた日本のキリスト教のなかで、「南無・・・・」などと唱えれば、たちまち「混交主義だ」、「異端だ」と非難されるのは、目に見えているからです。たとえそうした祈りがいいのではないか、と思いついたとしても、それを公言してまで広めようとする日本人キリスト者はいないだろうと思います。

皮肉なことですが、「南無アバ」はことさら西欧を意識しない――絶対視しない外国人であるネメシェギ神父だからこそ、「こういうのはいかがですか?」と日本人に向かって言えたのだと思うのです。(つづく)

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。