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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

枝の主日の枝に棘ある痛みかな  

今週の「聖書と典礼」表紙絵は「十字架のキリスト」

category: 平田栄一求道詩歌(4)

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宗教詩  

エリオットは、たいていの宗教詩がよくない理由は、「信心深い不正直」にあると指摘している。

つまり、「自分が感じるようにではなく、感じたいように書く」ために、ドグマを述べるに留まってしまうということなのだろう。

宗教的に真摯であろうとする精神のベクトルが、あくまでも人間の言葉で語ろうとする文学的なベクトルとどう融合できるか、そこに宗教詩の成否がかかっている。
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category: 平田栄一求道詩歌(4)

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

janre: 学問・文化・芸術

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砂の城  

(マタイ13:31-35より)
天国は、「からし種」や「パン種」のようだと、イエスは、たとえで話された。
が、私たちの日常は、なかなかそれを実感することはができない。

能登への旅行中に、羽田の売店で買った、遠藤周作の青春小説「砂の城」を読んだ。
暗い気分になった。

五箇山の「こきりこの里」まで来て、大学時代の音楽サークルで歌った、「こきりこ節」を思い出した。
今は、小学校の音楽教科書にも載っているという。

帰宅後、古いテープを探して、自分たちの歌った「こきりこ」を聞いた。
落ち込んだ。

暗い気分の正体がわかった。
自分たちの歌声を聞いているうちに、その当時の気分がよみがえってきたのだ。

「苦しかった」という印象が一番強い。
そういう思い出を背負っていることは、寂しいことだろうか。

何か、具体的に大きな不幸があったわけではない。
それなのに、「苦しい」という感覚はあらゆる場面にあった、と思う。

友人との会話、笑い、ときに政治の話にも、、、みな陰がつきまとっている。

遠藤は、つくってもつくっても、はかなく崩れ去る「砂の城」のなかで、「美しいことと、善いことと」を求めようと、主人公に言わせる。

あの頃の「苦しさ」は、虚無的な生のなかで、「からし種」や「パン種」を、必死になって求めていたためだろうか。

----南無アッバ----

category: 平田栄一求道詩歌(4)

thread: 思うこと

janre: 学問・文化・芸術

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神学エッセイ2-20元原稿-本に未収録作品を含む  

[4-96] 電話

 ある事で悩んでいました。学生時代から長いつきあいをしている友人から電話をもらいました。彼は人柄もよく活動的な男で、企業社会のなかでとんとん拍子に出世しています。彼は私の悩みをじっくり聞いた上で、言葉を尽くして励ましてくれました。友だちは有り難いものだとしみじみ思いながらその声に聞き入っていました。気がついてみると三十分以上も経っていました。私はお礼を言って電話を切りました。しかし電話を置いた私は、素直には慰められていない自分を発見して、前よりもっと落ち込んでしまいました。
 一時間ほどして、この四月にある修道院に入ったばかりのシスターから電話がありました。二十歳を少し過ぎたばかりで、私とは二十も離れています。以前から目立たない、無口で地味な女性であり、とくに私と親しかったというわけではありません。彼女は、事務的な用件をゆっくり、落ち着いた声で、間を置いて言葉を選びながら、手短に私に話しました。そして最後に彼女は、私の教え子で病身の○○君のために祈ってくれている、と言い添えて電話を切りました。その間五分ほど。受話器を置いて私は一瞬ハッとしました。なぜか、心から素直に慰められている自分を発見したからです。
 私は煙草に火をつけ、窓外の秋の夜の闇に目をやって、彼女の「祈り」という言葉を頭のなかで反芻してみました。

[4-97] 憲法は聖書

 独自の平和運動を続ける石黒寅亀牧師の記事を読みました。(朝日新聞97.8.20朝刊「平和訪ねる」)
 氏は日本の「平和憲法は法律用語で書かれた聖書」であると考え、聖書と憲法の小冊子を身から離すことがないといいます。この記事から現在九十歳の氏が戦中戦後、大変な苦労をされてきたことがうかがえます。
 私が高校生の頃七十年代半ば、〝戦争を知らない子供たち〟というフォークソングがはやりました。ベトナム戦争や湾岸戦争、今も続く局地戦などを情報として知っているにすぎないわたしたちは、こうして具体的に戦争を実体験している人たちを前にして、何を思い、何を考えるでしょうか? 「戦争はいやだ」とか「二度と起こしてはならない」と直間するのは当然でしょう。しかし同時に正直に言えば、「それにしてもどうしてあんなことになってしまったのだろうか?」「なぜ反対しなかったのだろうか?」「いや、反対などできる状況ではなかったのだ・・・・」等々、さまざまな疑問や思いも起こってくるのです。これは私が、実際戦火をくぐってきた七十代半ばの父の戦争体験を聞くときにも、いつも沸いてくる疑問です。
 戦争の政治的・経済的理由は、教科書からでも学べます。わたしたちは理性に従って「戦争絶対反対!」を唱えることもできます。しかし、戦争に直面した人間のナマの――召集令状を受け取ったときの、敵を目前にしたときの、あるいは敵を倒したとき等々の――感覚を知ることはできません。それはわたしたちにとってタブーな感覚なのです。なぜならそれを知るということは、「戦争反対」という理性的判断と矛盾する(戦争をする)ことになるからです。
 ところが、人間理性が絶対的な判断力を持っているわけではない、ご都合主義が多分にあることは、人類の歴史を振り返れば簡単にわかります。〝どんな戦争もすべて聖戦の名において行われてきた〟といわれるとおりです。戦争の是非に関する限り、理性はむしろ神と人間を欺いてきた、というのが歴史的な事実ではないでしょうか。
 ですからわたしたちは、理性的に「戦争絶対反対」を叫ぶとともに、あのタブーな感覚に対する想像力を養わなければなりません。「学ぶ」ということはいわゆる頭のよさではなく、そうした想像力を培うということなのです。

  わたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいの  でしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。(Ⅰコリント14.14b~15a)

[4-98] 受け身の視点

  初めに、神は天地を創造された。(創世記1.1)

 聖書の最初に出てくる言葉です。
 当たり前のことですが、生物学的にいえばわたしたちは父母から生まれました。その父母は祖父母から生まれ・・・・ずっとさかのぼって生物の発生・・・・地球・・・・宇宙の始まり。で、その前は?
 こうした疑問(第一原因という)をだれでも一度は持ったことがあるでしょう。
 この句だけを見れば、「神」をどのようなもの(方)として考えるかは、いろいろな科学の分野、さまざまな宗教、あるいは人によって異なるでしょう。
 しかし確かなことは、わたしたちを含めた「天地」創造のどの段階をとっても、それらはすべて〝つくられたもの〟〓被造物なのであって、自らの意志で生まれてきたものは一つもないということ、つまり創造の主体は自分の側にはないのだと明言しているということです。
 このことは学問的な興味を越えて、わたしたちが今をどう生きるべきか、を考えるとき見逃してはならない重要な視点のように思います。
 とくに現代社会の中で、意味のわからない不安や焦りを感じるときには要注意。たいていそういうときというのは、自分の力だけで早く何とか切り抜けなければならないという強迫観念にとりつかれ、ますます悪い結果を生んでしまうことがおうおうにしてあります。そんなときこそ、わたしたちの生の被造性・受動性を思い起しましょう。
 もちろん、わたしたちの努力が無駄だというのではありません。地道な努力は不可欠です。イグナチウスにたしかこんな言葉がありました。〝すべてが神の御手にあるかのように祈りなさい、そしてすべてがわたしたち自身の手にあるかのように努力しなさい。〟
 僭越ながら私は、意味がわからなくなった忙しさと焦りの中にいる現代人に対して今、こう言い換えたいと思います。「すべてが神の御手にあるかのように努力しなさい。そしてすべてがわたしたち自身の手にあるかのように祈りなさい」と。
 わたしたち現代人に最も欠けているもの、それは、祈りによってわたしたち本来の受け身の視点を取り戻し、安んじて努力することではないでしょうか。

[4-99] 祈る心

 現代人、とくに青少年の心のすさみを象徴するような様々な犯罪が次々と起きています。それに対応して文部省も、人間としての「在り方・生き方」を問う「心の教育」の重要性を強調しはじめました。戦後日本が全体として知識偏重の詰め込み教育に終始し、心の問題をおろそかにしてきたことは事実でしょうし、基本的にこの方向修正はまちがっていないと思います。
 しかし常々疑問に思うのは、そうした反省に立ったとしても、はたして今までの〝公教育の制約〟といった捉え方の中で、まったく宗教的なものを抜きにして「心の教育」が可能なのだろうか、ということです。少なくとも〝祈り〟というものに触れない「心の教育」はありえない、というのが私の率直な立場です。このことを例をあげて考えてみましょう。
 たとえば、「いじめはいけない」と多くの人はわかっています。戦争もしかり。しかしどちらもいまだになくなる気配がないのはなぜでしょうか。
 これについては、クラスや集団、国家等々の問題を取り上げてさまざまに説明できるでしょうが、忘れてならないのは、そうした集団を動かしているのはまちがいなく人間自身であるということです。その人間の心なかには、頭ではわかっていてもそのとおりに行動できない弱さや人より優位に立ちたいという欲求がうずまいています。このことを仏教では業、キリスト教では原罪などといいます。そうした個々の人間の思惑をまったく越えて組織が動くということはないのです。
 ですから、知識による学習によって理性では納得できても、心に巣くう業や原罪は思うようにならない、という自己分裂している人間本性が解決されないかぎり、いじめも戦争も根本的にはなくならないのではないでしょうか。そこに祈りという宗教的行為が出てくる理由があるのです。
 どんな形であれ、いったい人間以外に祈る動物というのを聞いたことがありません。もしそうだとすれば、祈りは人間特有の行為であるということになります。
 では、祈りとはどのようなものなのでしょうか。
 祈りの最古の形は呪文のようなもので、それによって神を自分の目的に従わせるような手段であったのが、「高度に発達した人格宗教では、祈りは自己の意志を神の意志に従わせる努力であり、神の助けを求める敬虔な姿勢」(新共同訳『聖書辞典』キリスト新聞社)となります。
 つまり、人間が自分の願いや欲求を満たすために神を利用しようとする、いわゆる御利益宗教的な祈りというのは、人間が主人(主)で神がその下僕(客)になる関係であり、それは祈りの初歩的な段階となります。もちろん、それが祈りの原型であるかぎり大切にされなければなりません。ですから祈ろうとするとき、まず、自分の思い・願い・悩みなどがあれば、それを率直に神に打ち明ければよいでしょう。そうすれば少なくとも気持ちが落ち着きます。
 しかしそれだけで終わってしまっては、祈りのほんとうの意味はわかりません。後の段階がより大事なのです。つまり、今度は「自分の意志を神の意志に従わせる努力」をしなければなりません。これは先程の主客を逆転して、神が主になり自分が従となっていく祈りの過程といえます。いいかえれば、神の言葉を聴くということです。
 「えっ?神様が話すって!?」
 もちろん、人が話すように音として神の声が聞こえるということではありません。〝神は自らつくられた自然の秩序(法則)を大切にする〟方ですから、めったにそういうことはありえないのです。
 そうではなく、たとえば静かに手を合わせる(必ずしも実際に合掌することを意味しません)沈黙のなかで、あるいはあなたが出会う人――その人は必ずしもあなたにとって好感の持てる人ではないかもしれません――を通して、あるいは思わぬ出来事――これもあなたにとって必ずしも素直に喜べない事件かもしれません――を通して。神はあらゆるチャンスを使ってあなたの心に直接語りかけるために、物・人間・自然・関係・・・・被造物を利用するでしょう。こうしてあなたは少しずつ神の心に従うようにされていくのです。

 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていた だき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか をわきまえるようになりなさい。(ローマ12.2)

 「この世」とは、さきほどの例でいえば、弱い者を〝いじめたい〟〝相手より優位に立ちたい〟という悪しき欲望をいうのです。しかしそれは、どんなに禁欲主義を貫いても消し去ることはできません。神が主となって「心を新たにして自分を変えていただく」ことが必要なのです。
 ついでながらここで一点、聖書の読み方について付言しておきたいことがあります。
 たとえば右の句で「・・・・わきまえるようになりなさい。」といわれると、わたしたちは反射的に身構え、またまた自力に頼んで努力しなれければ、というガンバリズムを連想してしまうのですが、それは少しニュアンスが違うのです。
 というのは、聖書においては、「命令法は限りなく直説法に近い、または、直説法が命令法の形を取る」(量義治著『無信仰の信仰』(ネスコ)251頁)ということがあるからです。「命令法と直説 法の不一不二性は聖書における戒めの特徴」だというのです。
 ですから、「わきまえるようになりなさい。」という命令法は、「わきまえるようになる。」という直説法に直結し、それは「命令にもとづくべき事実」があるからだということになるのです。その「事実」とは、ここでは「心を新たにして自分を変えてくださる」「神の御心」ということになるでしょう。
 こうしたことを知っておけば、無下にガンバリズムに走ったり、努力してもうまくいかない自分に劣等感や罪悪感を抱いたりすることはないでしょう。
 人類はこれまでどれだけ多くの祈りを神に捧げてきたことでしょう。ユネスコ憲章はいいます、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と。
 科学万能主義の現代にあって、わたしたちは祈る心をどこかに置き忘れてしまったかのようです。しかしどんなに時代が変わっても人々の祈る心はけっしてなくなりはしないでしょう。それが人間の本質であるからです。
 今こそわたしたちは、目先の損得勘定に明け暮れる「この世」からときには目をそらして、遠くを見つめるように、祈る時間を持つことが必要なのではないでしょうか。

[4-101] 羊のリアリティ

 先日、久しぶりに動物園に行ってみて驚きました。
 羊の鳴き声は人間の肉声に大変近いということ、しかもその声には一匹ずつ個性があるということを発見したからです。
 羊の生態をよく知っている人には当たり前のことなのかもしれませんが、わたしにとっては大発見でした。
 それからというもの、『ヨハネによる福音書』に出てくる次のような牧者と羊のたとえがとても親しみやすく、リアリティを持って感じられるようになりました。

 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている ・・・・こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。(ヨハネ10.14,16d)

[4-102] 驚くべきこと

 最近の世の中、これでもかこれでもかというくらい暗い話や恐い事件には事欠きません。反対に、皆がびっくりするほど喜ぶような話には久しくお目にかかっていないように思います。
 新約聖書のギリシア語「エウアンゲリオン」は一般に「福音」と訳されます。
 その意味は、「喜ばしいおとずれ」、「良い知らせ」ということです。英語では「Gospel」あるいは「the Good News」などと訳されています。
 ただしこれは単に、「ちょっと耳寄りのいい話」といったものではありません。日本語としては、「吉報!」などとすれば、より近い意味になるように思います。
 つまり人間の常識に照らせば、「まさか?!」と思われるような、意外性を含んだ「驚くべき良い知らせ」ということなのです。
 あなたにとって最大の「良い知らせ」とは何でしょうか。受験に合格することですか?好きな仕事で成功することですか?あるいは病気が治ることですか?・・・・皆それぞれに深刻な問題ですね。
 新約聖書のメッセージはすべて、わたしたちの日々の問題、苦しみに率直に応えようとしています。それだからこそ、次のようにいうのです。

  思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてい てくださるからです。(ペトロ一 5.7)

 なぜこんな楽観的なことがいえるのでしょうか。手放しで人生を神に委ねるなどということがどうしてできるのでしょうか。
 自分のことはすべて自分の力でなんとかしなければならない、と親にあるいは学校でも教えられ、そう思い込んできたわたしたちは、こうした聖書の大胆な言葉を耳にすると、思わずたじろいでしまいます。
 しかしそういうわたしたちにこそ、新約聖書は「驚くべき福音」を宣言するのです。
 すなわち、わたしたちの悪いこと、罪や病、苦しみのために、イエスが身代わりとなってこれらを背負い、復活によってそれらを克服し、さらに死をも克服されたこと、そのことによってわたしたちがキリストにある新しい命を生きることができるように、神によって保証されていること――
 一言で要約すればこれが「福音」であり、新約聖書全体を貫くキリスト教的人生観です。しかもこの「福音」をわたしたちが受けるために何らの条件も道徳的努力も必要とされないのです。
 実に、多くの人がそう思うとおり、信じられないほど「驚くべき福音」なのです。

[4-103] 偶然の契機

  さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たち がイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯した からですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人 が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるため である。・・・・」(ヨハネ9)

 『ヨハネによる福音書』九章は、一人の盲人を主人公に、真に∧見える∨ことと∧見えない∨ことの意味が問題にされます。
 しかしここでは、よく語られるそうした主題とはちょっとちがう点に注目してみたいと思います。
 それは、この章の導入として何気なく書かれている、イエスが「通りすがりに」この盲人を「見かけられた」ということです。
 この人は、イエスの業によって、のちに目が見えるようになるわけですが、しかしそれは、イエスがたまたまそこを「通りすがりに」「見かけられた」ことを契機としているのです。
 福音書には他にも盲人がいやされる話があります。
 ∧二人の盲人をいやす∨話(マタイ9.27以下)や∧盲人バルティマイをいやす∨話(マルコ10.46以下)などです。
 しかしこのどちらの場合も、「わたし(たち)を憐れんでください。」と盲人自らがイエスにいやしを願っています。
 ところが『ヨハネによる福音書』のこの章に出てくる盲人は、自分からイエスに一言も願ってはいないのです。にもかかわらず、いやされる――
 気をつけて聖書を読んでみると、この「通りすがりに」と同じようなニュアンスで、あたかも偶然に人々がイエスに出くわすような場面があちこちにあります。
 たとえば、『マルコによる福音書』で∧四人の漁師を弟子にする∨場面は、次のように記されています。

  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデ レが湖で網を打っているのを御覧になった。・・・・イエスは、「わたしについて来なさい ・・・・」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、・・・・ヤコブと その兄弟ヨハネ・・・・を御覧になると、すぐ彼らをお呼びになった。この二人も・・・・イエ スの後について行った。(1.16~20)

 イエスは、だれかいい弟子になる者がいないかどうか、スカウトするためにガリラヤ湖のほとりを物色していたわけではないでしょう。声をかけられた四人も仕事の最中で、さぞかしびっくりしたのではないでしょうか。自分たちがなぜ?と疑問に思ったかもしれません。
 しかし実際わたしたちの経験を振り返ってみても、人生の岐路を分かつ重大事というもものは案外、たまたまという形で決定していることが多いのではないでしょうか。
 とすればわたしたちとしては、そうした〝摂理〟とでもいえるような偶然のチャンスをどう生かすか、それが大切なのだと思います。

  だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の 体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみ なあなたがたに必要なことはご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさ い。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い 悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 (マタイ6.25ab,32b~34)

[4-104] 意味的存在

 現代は、価値観多様化の時代だといわれます。
 多様化が尊重されるためには、個性のぶつかり合いや自由でフェアな議論が行われるということが必要条件となるでしょう。
 しかし、情報社会化の進展するなかで、匿名・無差別のさまざまな犯罪を見聞きするにつけ、そうした条件整備ができるのはいつのことかと、暗澹たる気持ちにもなります。
 あるいはこの時代は、多様化などではなく、どんな価値観も持てなくなっている、あるいは価値観を問題にすること自体を問題にしなくなってしまった、無価値観化の時代なのではないかとさえ思うことがあります。
 こうした思想性の欠如は、個人と社会の相互作用によって増幅し、個人レベルでいえば、人生の目的に明確に答えてはくれない社会に苛立ちをおぼえているようです。
 いわゆるオウム事件からは、そうした苛立ちから早急に逃れようともがいている若者の苦しむ声が伝わってきます。
 何より、人間とは意味を求めて止まない存在である、ということを再認識すべき時代ではないでしょうか。

[4-105] 生き方の転換

 「精神」と「物質」という二分法で、戦後の日本社会は精神的豊かさよりも物質的繁栄ばかりを重視してきたのだ、という言い方はまちがっていると思います。
 精神と物質(あるいは身体)はけっして二律背反の関係にはないと思うからです。相互に依存し合っているはずです。
 むしろ戦後の問題は、思想性よりも効率性を重視してきたことにある、と言い換えたほうが当を得ているように思います。
 つまり、∧考える過程∨よりも∧結論∨を急ぐことを、「在ること」よりも「持つこと」を重視してきたともいえるでしょう。
 その結果としての行きづまりをどう克服できるか、現代のわたしたち一人ひとりの生き方に課せられた根本問題であるように思います。

[4-106] 証しすべきもの

 自分の生き方に自信のない人が、強く生きるためにある宗教に入信し、その結果、自信を持って生きられるようになった。これはよくあることですし、そのこと自体何ら非難すべきものではありません。
 ただ、当の本人から、「自分はこうして強くなりました。」という〝証し〟を聞かされると、どこかやりきれず、うんざりしてしまうことがしばしばあるのはどうしてなのでしょうか。
 神が、信仰する者を慰め、その生き方をありのまま(全)肯定してくれる、そうした包容力が普遍性のある宗教には必ず備わっているものです。
 しかし落ち着いて吟味しなければならないのは、こうしてありのままに肯定された自分(信仰者)の生き方とはどんなものなのだろうか、ということです。
 人が神を信仰しようするときは、どこか自分のなかに弱さや欠点、あるいは生き方の歪みやエゴイズムを感じているときではないでしょうか。(この点で、よく宗教を批判するために使われる「宗教は弱者のもの」という言い方は当を得ています。)
 ですからひとたび肯定されたのは、弱さや欠点、歪みやエゴイズムを抱えたままの自分であり、それにもとづいた生き方である、ということを忘れてはならないのです。
 しかし、それらは本来否定、ないしは矯正されなければならないものであったのではないですか。にもかかわらず、ありがたくも全肯定されたということなのです(まさに有ることが難いのです)。
 そのようにして有り難く肯定された自分が、もとのままの弱さやエゴイズムを引きずった自分を前面に出し、自慢げに「私はこうして強くなったのだ」と自己主張することは滑稽であり、それを聞く者は直感的に偽善を臭ぎ取ってしまうのです。
 これでは信仰者が神をいわば利用し、自分のエゴイズムの〝証し〝をしているにすぎないということになります。
 証しされなければならないのは、自分のエゴイズムではなく、それをどうしようもないものと思っていた自分がはからずも神に受け入れられた、という∧有り難さ∨なのです。
  そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派 な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5.16)

[4-107] 無駄

 今まで絶滅させるべきと考えられていたある種の寄生虫が、実は人間生活にとって別の有益な働きをしていた、とう話を聞きました。
 また、病や苦しみはそれ自体では虚しいものです。しかしときにそれらは、人間が神に向かっていくためのエネルギーを引き出す道具ともなります。
 こう考えていくと、この世で無駄なものは一つもないのではないかと思えてきます。
 一見、不合理で意味のないものと思えるような日常のさまざまな物事に出会うとき、自分のマイナス面を嘆くのではなく、それらを有益に働かせる工夫の仕方を考える、それぞれの人生に与えられている共通の課題があるとすれば、そういうものなのではないでしょうか。

[4-108] 共労者

 自分の知力や体力・・・・能力の限界のようなものが見えてくる時期があります。(その上、治らない病気やさまざまな苦しみを抱えていることもあります。)
 そんなとき、自分の人生はこんなものかな、と淋しい気持ちになることもあります。
 しかしふと、こうした自分に与えられた素材をどう工夫し、生かせば神様の共労者・よきパートナーになれるかな?とふと考えてみます。
 もしかすると、神様は御自分といっしょに喜んで働いてくれる世界の協働者を求めているのではないでしょうか。
 こう考えてみると苦しみは苦しみとして、楽しい気持ちになります。

  神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるよ うに、共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8.28)

[4-109] 虚無と満足

 虚無の中で虚無について考えているとき、その人は虚無から免れています。しかし、満足の中で満足について考える人はいません。

[4-110] 努力と報い

 労働と所得の関係が、一たす一が二、それに一をたして三、というように、働いた分だけ確実に所得が増加すると考えてみます。するとどういうことが予想されるでしょう。
 まず、だれもがやる気を出して、物事にがむしゃらに取り組むようになるかもしれません。現代の理想とする無駄のない社会、努力が報われる社会が現出するのです。
 しかしそういう社会がずっと続くことを考えてみましょう。
 人々は、働いただけ富を確実に取得できるわけですから、他人が稼いでいる間に休んだり遊んだりしていれば、それだけ富のチャンスをこれまた確実に逃すことになります。
 ということは働いて稼いでいる人を尻目に見ながら、休んだり遊んだりする、つまり富の増大をみすみす逃す勇気を持たなければ、落ち着いていられなくなるのではないでしょうか。
 そうした社会では、自分のライフ・スタイルによほどポリシーを持っていない限り、稼ぎまくったあげくに過労死・・・・ということになるかもしれません。
 こうして推し量ってみると、この世の中、努力と報いが必ずしも比例しない(ときには反比例とも思えるようなこともある)という現実は、たしかに不平等ではありますが、そのあいまいさによって、人間が富や権力の欲望、あるいは他人に対する嫉妬に振り回されないで保護されているというふうにも受け取れるのです。

[4-111] 短詩

  いのち
夜店で買った金魚
日陰に咲く花
みんな黙々と今日の
いのちを生きています

  不定愁訴
神は人生について
よく考えなさい
と言っているようです               


category: 平田栄一求道詩歌(4)

thread: 哲学

janre: 学問・文化・芸術

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神学エッセイ2-19元原稿-本に未収録作品を含む  

 心の貧しさ
                                    [4-86]
  朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物の  ために働きなさい。(ヨハネ6.27)

 一方に発展途上国での飢餓や貧困を尻目に見ながら、史上類まれな高度経済成長を達成してきた現代の日本社会は、いま工業化社会から情報化社会への移行期にあって、様々な問題に直面しています。
 戦前の国家第一主義が否定され、それにかわって戦後、日本人の共通の価値観となったものは、経済第一主義でした。企業社会はもちろんのこと、政治の上でも、教育の上でも「物質的向上」「経済優先」ということが暗黙の共通理念として、日本人を支配してきたのです。いわば〝朽ちる食べ物〟を確保することを最優先してきたわけです。戦中・戦後の食糧難を考えれば、それは当然のことだったのかもしれません。しかし、そうした経済偏重の社会構造の歪みが、現在様々な形で噴出していることも確かです。
 ではそうした過程で、「心」の方はまったく問題にされなかったのか、というとそうではありません。どの時期においても、「豊かな心を育てよう」とか「精神こそが大切だ」といったようなことは、いつも叫ばれてきたのです。にもかかわらず、心よりモノが優先された、ということでしょう。
 なぜ、「にもかかわらず――」なのか。たとえば教育ということを考えた場合、はたして、豊かな心・豊かな精神を育てる、ということと、物質的向上ということとは、両立し得ないのでしょうか。わたしたちは豊かな心を育てるためには、本や教材、学校をはじめとして、様々なモノが必要だと考えます。そのために金が必要です。家庭でも政府でも稼いだ金を教育費として注ぎ込んできました。それでどうなったか。進学率は上がりました。ほとんどの生徒が高校まで進めるようになりました。
 しかし振り返って、戦前の人たちと比較して経済的に豊かになった戦後のわたしたちが、より豊かな心を持っているかと問えば、とてもそういうことは言えない。もし、物質的に豊かになるほど心が貧しくなるとしたら・・・・。
 戦後五十年、ここへ来てやっとわたしたちは〝いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働〟くとはどういうことなのか、やっと考える端緒についたばかりなのかもしれません。

 そのとき必要なものは
                                    [4-87]
こうすれば、と思って頑張ったのに、
何ともならないときがある。
今度こそはと気張っても、
どうにもならないときがある。

水が高い所から低い所へ流れるように、
ぼくたちの心はいつも 最初の気高さを失い、
時間を滑り落ちて、
あの赤錆びた鉄の眠る
底無しの湖に淀んでいく。

何がまちがっていたのだろうか。
どこで狂ってしまったのだろうか。
「ソンナオマエヲユルス!」という声が
どこからか聞こえてこないだろうか。

 限界というものがだれにでもあって、そのなかで「いかに生きるか」が問われているのだと思います。〝人間〟というものの能力がどこまであるのかはわかりませんが、現実のの具体的な人間、わたしたち一人ひとりを考えてみれば、それぞれに限界を感じて生きています。

 ・・・・わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺 してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせな いでください。(民数記11.14b,15)

 どうしても乗り越えられないと感じられる限界のなかで、つい愚痴や弱音を吐き、ひとに八つ当りします。そんなとき、最も必要としていることはどんなことなのでしょうか。「もっとがんばれ!」という叱咤激励ですか? それとも・・・・。

 未曽有の問題
                                    [4-88]
 高度成長が終焉し、バブルが崩壊して低成長時代に入ったわたしたちは、日本人として未曽有の〝問題〟を突きつけられているように思います。
 第一に、高度成長によってもたらされた経済的な豊かさと、公害に代表される〝つけ〟を同時に享受しながら、わたしたちはいったい何のためにがむしゃらに働いてきたのか、否もっと根本的に、〝働く〟ということの意味そのものを問いはじめています。
 たとえば、高度成長期までは〝脱サラ〟と言えば、企業に勤めていたサラリーマンが、人に使われることを嫌って自分で商売をはじめる、独立自営ということを意味していました。
 ところが今の〝脱サラ〟は必ずしもそういうことを意味しない。もともと専門職にあった人や企業のトップクラスの人たちが、まったく関連性のない福祉や農業といった分野に入っていったり、最近はお坊さんになりたいという人も多いと聞きます。
 こうした現象を見ると、現代の〝脱サラ〟は地位や収入、企業組織等に対する不満というよりも、経済性を最優先してきた戦後日本社会そのものに対する疑問、あるいは〝働く〟ということそのものの意味を問い直している現代日本人の姿が浮かび上がってくるのです。日本人全体の傾向として、こうした根本的な問題を問うということは、少なくとも明治以降ありえなかったのではないでしょうか。
 第二に、こうして大人たちが〝働く〟ということを中心として自分の、人間としての生き方の根本を問いはじめると同時に、これまた日本社会がはじめて直面するような〝事件〟が次々と発生しています。
 その最大の象徴は〝オウム〟と〝神戸小学生殺害〟事件でしょう。現在、くわしい調査や裁判が行われている最中ですから、軽々にその根本原因を云々することは差し控えたいと思いますが、少なくともこれら事件の背景には、〝この世に授かった命を軽視する〟という風潮があるのはまちがいないと思うのです。〝いじめ〟問題然り、〝覚醒剤〟然り。 自他を問わず「この世の命を軽視する」ようになったのは、けっきょく現代が生きることの充実感を与えていない、現代のわたしたちが生きる意味を失っている、ということなのです。
 働く意味が問われ、生きる意味が根本的に問われている。そういう意味でわたしたちはいままでにない難問にぶち当たっている、と言っていいでしょう。

 理性と教義
                                    [4-89]
 非の打ち所のない∧理論∨は、それ自体は美しいものです。しかしどこか冷たい感じがつきまといます。一種のまやかしを感じる、と言った方が妥当かもしれません。
 そうした理論を聞いて(あるいは本で読んで)いる間は、たびたびうなずき、納得し、しかるべき所に物事がしっかりおさまった快感をすら抱くことさえあるのですが、聞き(読み)終わって、さて、では今からさっそくこのすばらしい理論を生活に生かそう、と思った途端、心に何も残っていないという虚しさを感じることが多いのです。
 高尚な哲学の持ち主が具体的な生活の場面では、その理論からすれば、たいへん低位の欲求不満に翻弄され、しばしば惨めな精神状態から抜け出せないでもがいていることをわたしたちは知っています。〝○○哲学の大家〟と言われる哲学者が、はたから見れば一笑に伏してしまうような身体のちょっとした不調に、右往左往するといった光景は、けっしてめずらしいことではないのです。
 このことから、人間の頭で考えた理屈が純化し、精緻化していくほど、現実的な人間性を寄せつけなくする、というある種の傾向があることがわかります。いわば、整然とした哲学理論の縦横の定型の網の目に引っ掛からない、人間性現実のあいまいさ――不定型が本来的に存在する、ということがわかります。
 こうした意味でその対極にあると思われものが、宗教(とくに伝統的な宗教)の∧教義∨(教条〓ドグマ)というものです。それは、頭で考えた理屈や理論をある地点で手放し、飛翔しようとするからです。ですから、それは当然あちこちに人間理性にとっては許しがたい、矛盾した概念や表現を持つことになります。

  天地の創造主、全能の神である父を信じます。・・・・(キリスト教の『信仰宣言』)

 なぜ、「神」が「天地の創造主」なのか?また「全能」なのか?「父」なのか?そもそも「神」とは?「信じる」とは?・・・・こうして理性は激しく応戦してきます。しかし宗教は、完璧な体系化・理論化を最後の所で拒否します。その本質が、理性の硬い網の目にはかからない、ソフトな人間性を担当するものだからです。
 いわゆる教条主義は問題ですが、わたしたちが生きる具体的な現実のなかで教条そのものをさめた目で味わうとき、おそらくはある種の∧詩∨のように、その行間の粗い網の目に、わたしたちにとって多くの有効な助言やヒント、インスピレーションを与えてくれるものがあるように思います。

 復活と些事
                                    [4-90]
 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、 主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄になら ないことを、あなたがたは知っているはずです。(Ⅰコリント15.58)

 パウロはコリントの教会にあてた手紙のなかで、死者の復活を疑う人たちに対して、復活が確実であることについて弁証します。その後に、「こういうわけ」だからしっかり生活しなさい・・・・とこの章を締めくくるわけです。
 しかし、この結び方にはどこか唐突な感じがつきまといます。なぜでしょうか。パウロの復活論が説得力に欠けるからでしょうか。いな、彼の復活論は十分説得力のあるものです。ではどうしてわたしたちは、戸惑いを持つのでしょうか。
 それはこういうことではないでしょうか。読者はこの章のこの最後の言葉まできたとき、復活の有無をめぐって展開されてきた一般論から、読者が置かれた具体的な生活の場に引き戻されます。整えられた理論ではなく、今個々の現実が直面している仕事、家庭、人間関係等々あらゆる日常の些事に対する心構えが改めて問われることになるのです。そこでわれに帰って足元を見る、ということになるのです。パウロの説く復活論の高いテンションに比べて、なんとわたしたちの現実は小さく惨めで、どうでもいいような雑事に追われていることでしょう。ところがわたしたちは、復活という一大事が実は日常の細々とした些事と無関係ではないということをこのくだりで知らされるのです。この落差・・・・それが戸惑いの原因なのではないでしょうか。
 こうした戸惑いを抱きつつも、繰り返しこの「手紙」を読んでいると、パウロは次のように言っているように思えてくるのです。
〝あなたがたが今、個々に、具体的に経験している日常の些事をこそよく見極めなさい。そこには様々な思い煩いや雑音――あなたがたの復活への命を窒息させるようなマイナス面が含まれています。そうしたことに「動かされないようにしっかり立ち」なさい。しかし同時に、どんな小さなことであっても、愛や平和、希望といったプラス面を含んでもいるのです。それを「主の業」と受け取って、それに少しでも貢献できるように、あなたの仕事の仕方を工夫し、才能を発揮できるように「常に励みなさい。」そのようにして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならず」復活という一大事につながっていくのですから。〟

 祈りに学ぶ
                                    [4-91]
 現代の日本人の目には、お寺や修道院にこもって祈りの生活を一生続けている僧侶や修道者はどう写っているのでしょうか。修学旅行で生徒たちを引率してそうした僧院を訪ねると、彼らのなかには、「あの人たちは余程不幸な目に遭ったのではないだろうか。」などと余計な心配をする者も出てくる始末です。どう説明したらよいでしょう。
 そもそも、「祈り」が個人的御利益、願望の投影とだけ思い込んでいる人には、彼ら修道者たちの心はわからないでしょう。彼らに会って一度でも話してもらえばわかるはずですが、彼らは社会の動静に大変興味を持っており、よく新聞を読んでいます。けっして自己の安心立命ばかりを願っている「世捨て人」ではないのです。むしろ自分自身の願いなど一番後回しにしている、と言えます。
 東洋と西洋の霊性を統合した祈りの指導者、アントニー・デ・メロ神父も、祈りが「自分一人だけのためではなく、自らその一部をなしている被造物全体の益のためにも行うのだということ。また、自分が経験するどんな変化も、何らかの形で世界の人々のためになっているのだという心構え」が大切であると言っています(『心の泉』)。彼ら修道者たちはど
んなに小さな祈りも、社会や世界全体の役に立っていることをかたく信じているのです。 現代社会は、「権利」や「デモクラシー」あるいは「個性」や「自己実現」などという名のもとに、その実、「おれが、おれが」と自分が目立つことや目先のことばかりに躍起になっているのではないでしょうか。だとすればそれは、自我の拡大以外のものではありません。その裏返しとして、自我拡大欲求が充たされない者たちによる匿名・無差別の殺傷事件が多発しているのです。
 そういうわたしたちも日常を振り返れば、「人のため」と言いつつ気がついてみると、「自分のため」を優先していることが多いのです。その浅ましさ、悲しさに気づくことなく、こうした犯罪が起こるたびに、「人権、人権・・・・」と正義漢ぶるのは滑稽でしかないありません。
 こうして自我を充たすことが当たり前と思われる――「了見」を失った現代社会の真っ只中に、隠れたところで、他者のために祈っている(奉仕している)人たちが現にいるのです。たとえそれが目に見えず、すぐ効果が出ないような小さなことであっても、否それだからこそ、彼らの「祈り」は尊いのです。なぜならそれは、自己顕示と効率性、経済性、形あるモノを貪欲に追い求めてきた近・現代の資本主義社会に対する痛烈な批判となっているからです。そして彼らはけっして悲壮な顔つきをしてはいないということも付け加えておきたいと思います。

[4-92] 一生の意味

「もし、一人の人間によって、少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があったのである。」――将来を嘱望されながらも、第二次世界大戦中に処刑された若き哲学者の言葉です。
 わたしはこの言葉のなかでとくに、「少しでも」を強調したいと思います。そのときこの言葉は、すべての人、いな万物に当てはまるように、普遍性を帯びてくるからです。
 たとえば、生まれてすぐ亡くなってしまう子供のことを考えてみてください。彼(彼女)はこの世に何ももたらさなかったのでしょうか? 何も残さず無駄な死であったのでしょうか?
 そうではないと思います。少なくとも、この児が母親の胎に宿ったときの父母の喜び!それはたとえ一瞬であってかもしれませんが、この世に光をもたらしたことになるのではないでしょうか。
 あるいは、極悪人といわれるような人を想像してみてください。そういう人であってもきっと生まれてくるときは皆に祝福されたはずです。
 しかし最近の世相を見るにつけ、この確信は揺らぐかもしれません。せっかく生まれてきてもだれからも喜ばれず、虐待されたり、置き去りにされてしまう子供たち・・・・。
 しかし、万一、その母親にさえ祝福されない子供がいたとしても・・・・

  女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろ  うか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。見  よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。(イザヤ49.15~16)

 どんなに惨めな生を得ようとも、「わたしがあなたを忘れることは決してない。」と言ってくださる方がいるということ。このことは、あらゆるもの――日頃わたしたちが憎むべきものとして忌み嫌っている苦しみや病を含めて――すべてに何らかの意味がある、価値がある、という考えにつながっていくのです。
 もしこのことに賛同する読者いるなら、もうおわかりのことと思います。その人はすでに∧信仰∨という領域に足を踏み入れているのです。

  信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル11.1)

 わたしたちの心には多かれ少なかれ、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」しようとする意志が本質的に働いているのではないでしょうか。理性では割り切れない、したがって合理的に説明することは困難なものがあることを直感するのです。
 もしそれを非合理であるとして排除するなら、苦しむ人、病む人、見捨てられた子供たちがついぞ救われることはないでしょう。「処刑された若き哲学者」の死も無駄であったことになります。なぜなら、合理主義に立てば、健康でながらえて世に実績をたくさん残した人の方が、苦しみ病み見捨てられて志し半ばで早死にしていく人よりも「その一生には意味があった」という結論を導き出すことになるのですから。

[4-93] マザー・テレサに学ぶ

 先日(1997.9.5)「生きている聖人」といわれたマザー・テレサが亡くなりました。
 しかし一部のマスコミが報道しているように、彼女の仕事を偉大なる慈善事業や社会改革のようにとらえるとすれば、それは彼女にとって本意ではないでしょう。第一、〝事業〟や〝改革〟であるなら、もっと効率のよい方法があったでしょう。
 彼女が何を考えてあのようなことをし続けたのか、『マザー・テレサのことば』(女子パウロ会)から探ってみたいと思います。
 「イエスは、ご自分の民の中にこられたのに、民は彼を受け入れませんでした。それはイエスを傷つけ、今もイエスはずっと痛み続けておられるのです。あの時と同じ飢え、同じ孤独、だれからも受け入れられず、だれからも愛されず、必要とされないという痛みを。そういう状況にある人はだれでも、この孤独において、キリストに似ていると言えましょう。そしてこれこそが、最もつらいこと、ほんとうの飢えなのです」(34~35頁)。
 「キリストは見えませんから、ご自身に愛を表すことはできません。でも、はたの人はいつでも見えます。もしもキリストが見えたなら、して差しあげたいことを、その人たちにするのです」(31頁)。
 マザー・テレサ(とその共労者たち)のなかには〝かわいそうだからしてあげる〟という発想はどこにもないのです。むしろ貧しい人、病んでいる人の世話を〝させてもらっている〟という思いで満たされていると言ってよいでしょう。しかもキリストに向ってするように。
 こうした彼女が残していった遺産からわたしたちは何を学ぶべきでしょうか? わたしたち皆がカルカッタへ行って同じようにすべきだ、などとはもちろん彼女は言わないでしょう。繰り返し彼女は次のように語りました。
 「イエスは、わたしたちのために、苦しみをとおし、十字架にかかって死ぬほどにわたしたちを愛してくださっています。もしわたしたちも互いに愛しあいたいなら、また、このイエスの愛をわたしたちも生きたいと願うなら、まず家庭から始めましょう。家庭を慈しみの場、限りなくゆるしあう場としなければなりません。今日では、だれもかれも非常に多忙になっています。より大きな発展、もっと豊かな富、もっと、もっと、と求めて。子どもたちは両親と過ごす時間がなく、両親はお互いのためにさく時間もありません。世界の平和の崩壊は、このようにして家庭の中から始まるのです。」(15~16頁)
 わたしたちはまず、自分の足元を見ることから始めたいと思います。

  わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことな  のである。(マタイ25.40)

[4-94] 倒錯

 「あの人は信仰を持っている。」とか、「信仰深い人」といえば、何か特定の宗派の教義を信じていることを意味するようですが、「信仰」とはもっと広い意味で、合理主義では割り切れない人間の誠実さのようなものをいうのではないでしょうか。

 ∧信仰∨は、むしろ∧真実・まごころ∨といい換えたい。ほんとうのことをほんとうと 認める心、他者との出会いに開かれている心、まごころということである。
 ∧まごころ∨の第一の意味は、人間は自分の力で自分を生んだのでもなければ、生きて いるのでもない、生まれ、生かされていることに目覚めることである。「生まれた」と いうことば自体、受動態であり、生かされて生きているということがすべての人間の基 本的姿である。そして、第二の意味は、他者もそうであることに気がつくことである。 だから、私も神の子と思い他者も神の子だということがわかるということが、∧まごこ ろ∨であり、そのことがほんとうに心の底からわかることが、∧信仰∨の根底的意味で ある(そういう意味での∧信仰∨は、ほとんど∧悟り∨と同じである)。(岡野守也著『美しき菩薩・イ エス』青土社49頁 傍点筆者)

 岡野氏によれば、「信仰」とは「まごころ」であり、それは「ほんとうのことをほんとうと認める心」、「他者との出会いに開かれている心」、自分が「生かされて生きているということ」に気づき、「他者もそうであることに気がつくこと」、したがって「私も神の子と思い他者も神の子だということが」「ほんとうに心の底からわかること」すなわち「悟りと同じ」であるというのです。
 ここでいう「まごころ」と、わたしたちの現実は相当な距離があるように思います。現代社会が、すべての者(物)は等しく「生かされて生きている」という「人間の基本姿勢」をとりもどすためにはどうしたらいいのでしょうか。
 現実は、わたしたちが合理主義に立って経済性や効率性を追求すればするほど、なぜかエゴイズムが肥大していくという歴史をたどっているように見えます。もしかすると、わたしたちが善であると思い込んで、今まで――近代啓蒙思想時代以来、無条件に、何の疑いもなく追求してきた合理性や経済性・効率性といったものは、必ずしも手放しで喜べるものではなかったのではないでしょうか。現代に生きるわたしたちはある種のジレンマに陥っているのです。そこには「人間の基本姿勢」について、わたしたちに何か重大な〝思い違い〟〝倒錯〟があったのではないでしょうか。
 そこでまず、わたしは次のことを提案したいと思います。わたしたちの現実の中で不条理・不経済・非能率であるとして排除してきたこと――たとえば他者に負けること、貧しいこと、病むこと、苦しむこと等々――こうしたマイナスと思い込んできたものが持っている本質的な意味をもう一度わたしたちは落ち着いて問うてみたいと思うのです。これらは生きることの中でほんとうに不毛の要素、虚無でしかないのだろうか、と。そこに何か現代人が見落としている重大なプラス面はないのだろうか、と。「まごころ」―「生かされて生きる」ことの本質的な要素として受容すべき何か、少なくとも、倒錯状態にあるわたしたちへの警告としての意味がないのだろうか、と。

[4-95] 十字架の福音

 新約聖書は現在の日本語新共同訳で四百六十ページ以上、旧約聖書はその数倍あります。そこには悲喜こもごも人間同士のあるいは人間と神との様々な交流が描かれています。 様々な地域の有名・無名の個性豊かな人物たちが、生きるために、ときにぶつかり合い、ときに協力し合いつくっていく人間交流。そこに涙があり、笑いがあり、嘆きや後悔、裏切り、不倫、愛、嫉妬等々、人間感情のすべてがあります。
 そうしてできた一見まったく別々の物語がどこかで合流し、だんだん太くなり、ついにひとつの流れとなっていくのです。壮大な人間と神とのドラマが繰り広げられています。 現代に生きるわたしたちは、この二千年以上も前の書物からから何を学ぶことができるのでしょうか。
 フランスの哲学者アランは、「知るとは、どんな小さな物事でもいかに全体と結びついているかを理解すること」(幸福論「遠くを見よ」)と言っています。
 また、福音書記者ヨハネは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17.3)と言います。
 聖書の民ヘブライ人にとって、「知る」ということは、すでに「愛する」という意味がこめられていたようです。(三省堂『聖書思想事典』「愛」)
 ギリシア哲学にも「愛知」という言葉があります。
 これらのことを考え合わせると、次のようなことが浮かび上がってきます。
 すなわち、人や物事を理解し、ほんとうに知るためには、その相手や対象を部分部分の寄せ集めとしてではなく、全体として総合的に見る視点を持たなければならないということ。かつその視点にはできるだけ相手を理解しようという「愛」の視点が必要だということです。
 そのようにしてはじめて、一人の人間の持っている歴史や価値――命の尊さを知り、まったく別の人格が集まって形成されている世界というものの方向性をおぼろげにでも知ることができるのではないかと思うのです。
 キリスト者は、この膨大な人類史を〝イエス・キリスト〟という一点に集約して解釈します。それはちょうど、川の流れようにたとえられるでしょう。
 日々の自分の意見や行い――ときにそれは自分の半生や一生をかけてじっくり考えてきたものだ、と主張したいほど大きなものかもしれません――が、たとえ世間に認められなくても、落胆しないでください。
 そのときこそ、それはあなたの背負うべき十字架(の死)であり、それを通してわたしたちがイエスに連なり、のちに復活することを新約聖書のメッセージ(福音)は語っているのですから。

  わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いな  さい。(マルコ8.34b)

category: 平田栄一求道詩歌(4)

thread: 信仰・希望・愛

janre: 学問・文化・芸術

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