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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問合せ 略歴 著書

求道俳句誌『余白の風』を1冊にまとめました!  

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『求道俳句誌集 余白の風(抜粋)』
平田栄一 編著(A4版、214頁、定価 1,500円+〒360円)
創刊30周年、200号突破記念事業

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ごあいさつ

本誌「余白の風」は、一九九〇年の創刊以来、さまざまな紆余曲折を経ながらも現在まで、二十八年間発行を続けてまいりました。

これもひとえに会員・読者の皆様のおかげと心より感謝申し上げます。

本誌は自由律俳句の会「層雲青年句会報」から始まり、広く短詩を含めた通信句会「青年句会報」を経て、現在の求道俳句誌「余白の風」となりました。

こうした趣旨の変遷とともに、発表形式も変化し、現在の形に落ち着きました。

ここに、創刊三十年を前にした記念事業として、既刊号の中から、現在の発表形式が定着した第一三六号(二〇〇七年五月)以降第二三二号(二〇一八年五月)まで、十一年間の会報を一冊にまとめさせていただきます。

今後とも、故・井上洋治神父の教えて下さった「南無アッバ」の心を養うために、共に詠ってまいりましょう。

二〇一八年初夏
主宰・平田栄一
南無アッバ

ご注文は、平田まで、メールにてご連絡ください。

category: 『求道俳句誌集 余白の風』

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新刊・平田栄一著『求道俳句集 アッバを呼ぶ』  


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平田栄一著求道俳句集 アッバを呼ぶ』
(A5版、186頁、定価1,000円、〒180円)
大きな活字で読みやすい!
井上洋治神父帰天4周年を記念

どこまでもゆるされて雲風に乗る
秋分や神の国への回帰線
夫々に十字架はある冬の蝶


初心以来三十年間に発表してきた求道俳句の中から、定型句を中心に三百余句を厳選して一冊にしました。

井上神父は、イエスの教えとして最も大切な「悲愛」の心と古来日本人の「物の哀れを知る心」は根を同じくし、それは俳句道や歌道につながっている、と述べています。

所収一句なりとも、皆様の祈りに響き合うものがあれば、幸甚の至りです。
ご注文は、平田まで、メールにてご連絡ください。

category: 『求道俳句集 アッバを呼ぶ』

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平田栄一新刊『「南無アッバ」への道』  

img002_20160321211848f12.jpg『心の琴線に触れるイエス』『すべてはアッバの御手に』に続く、連載「井上洋治神父の言葉に出会う」第3弾!。
『ルカによる福音書』18章<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>をめぐる考察から少しずつ見えてくる、イエスのまなざし。
そのまなざしにゆだねることにより悲愛へと導かれる、日本人キリスト者・求道者の生き方を模索します。
定価800円+税。聖母文庫
(サイン本ご希望の方は直接平田までご連絡ください。送料込み千円)

◎青野太潮先生からのコメント「何箇所かに私へのご言及があって大変嬉しく思いました。大変よく書かれていて感心いたしました。おまとめになるのはそれなりに大変なことですが、ほんとうにご苦労さまでした。井上洋治先生もお喜びのことでしょうと確信しております。」

category: 『「南無アッバ」への道』

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平田栄一第一句集『求道俳句集』(私家版)  


聖書をよりどころに俳句をつくる――四半世紀の句作のなかから、未発表作品六一句を含む求道俳句三二〇句を、聖書配列順に選びました。
 個人としては、これが第一句集となります。
 わずかでもどなたかの心に残る作品があるなら、幸甚の至りです。ぜひご一読頂けますようお願い申し上げます。

 未発表作品から
梅一輪くわえて戻るノアの鳩   創世記八
清明の頃との説や主の晩餐   マタイ二六
黄落に埋もれる傘の柄の長さ   マルコ四
木と話し風と遊びて冬ぬくし   ルカ四
もう何も待つものがない春が来た ヨハネ七
求道俳句集
私家製B6版100頁。

category: 『求道俳句集』

thread: 求道俳句

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エピグラムのいくつかを朗読  

youtubeにアップしました。

category: ○著書

thread: 聖書・キリスト教

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平田栄一著『すべてはアッバの御手に』-井上洋治神父の言葉に出会うⅡ  

point10_1.gif 井上洋治神父の言葉を通して、主イエスに出会う旅へ。。。
アッバ神学案内書、第2弾!
聖母文庫 定価500円(税別)


ISBN978-4-88216-304-6

*一日本人求道者である著者が「出会った」井上神学の一端を正直に紹介します。井上神父のアッバ神学からイエス様に出会うことを願って。

*「風」誌連載中のエッセイ「井上洋治神父の言葉に出会う」第二部に加筆・訂正して、まとめました。

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category: 『すべてはアッバの御手に』

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『心の琴線に触れるイエス』-日本人のためのキリスト教入門  

井上神学初の本格的案内書が手軽な文庫サイズで登場!
平田栄一の新刊!06年12月発行(聖母文庫)定価525円(税込)

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ISBN4-88216-274-1

*こんなキリスト教があった!日本人の感性に合った信仰を求めつづけてきた井上洋治神父の言葉を、著者の体験を交えながら、わかりやすく解説――はじめての井上神学案内

*日本人の自然な感性で受けとめられるキリスト教を求めて――遠藤周作の畏友・井上洋治神父のキリスト教を、一求道者の目でわかりやすく解説

*イエスとともに、アッバの風に己を委せきって生きる――日本人求道者のためのキリスト教――井上洋治神父に長年師事してきた著者の体験にもとづく格好の井上神学入門書。

*「風」誌連載エッセイ「井上洋治神父の言葉に出会う」第一部(1)~(10)を大幅に加筆・訂正して、まとめました。

○お求めは、聖母の騎士社アマゾン書店

06年12月16日のアッバミサで、井上神父ご自身&山根道公氏が本書を紹介しています。(MP3)

category: 『心の琴線に触れるイエス』

thread: 聖書・キリスト教

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日本人の心に根ざすキリストの道を求めて  

平田栄一著『俳句でキリスト教-求道俳句をめぐる心の旅』書評:山根道公

俳句でキリスト教」という本書の題は実にユニークである。

例えば西洋美術で或いは西洋音楽でキリスト教というのであれば珍しくない。

しかし、西洋文化とは対極の最も日本的感性に根ざした日本の伝統的文芸を代表する俳句でキリスト教を語るという点に、本書の他に類を見ない特色がある。


本書は、著者の主宰誌「余白の風」をはじめ、「豈」「紫」「層雲自由律」などの俳誌に発表した句評を、聖書、神、マリア、イエス、使徒、天国、十字架、復活、教会、祈り、信頼、日本人とキリスト教といった項目にまとめ、加筆したものである。

中村草田男ほか有名無名の九十余句の俳句をとりあげ、その句評によってそこにあらわれた日本的感性とキリスト教との関わりを探る本書は、句評の域を越えて、カトリック俳人としてキリストの道を求める著者の生の軌跡が言葉となった求道エッセイである。


著者は、すでに四冊の詩的短文によるエッセイ集を刊行しており、処女エッセイ集『今を生きることば』には、三浦綾子が「常に祈り、聖書に聴く姿勢から生み出された珠玉の人生観!凝縮された思索!より深く生を生きる道が、ここにさやかに示されている」との言葉を贈るほどの、求道精神に裏打されたエッセイストでもある。

この魅力は本書にも遺憾なく発揮されていよう。


ところで、著者は自身が
「俳句に接したときの無条件の和みと、キリスト教に対する構え、この対照的な感覚はどこからくるのか、わからないままに『聖書』と『山頭火句集』を交互に読み、また祈る気持ちで自らも実作するようになりました。

……欧米的キリスト教を無意識に第一と思い込んでいた自分に問題があることに、ようやく気づくようになった」(「『俳句でキリスト教』出版にあたって」『風』七〇号)

と語っているが、この俳句的感覚とキリスト教との距離感への問題意識は、遠藤周作が文学において、井上洋治神父が神学において追求してきた「日本人とキリスト教」というテーマと直結するもので、それに気づいた著者は「はじめに」の中で「俳句によってこのテーマを追求することが、わたしのライフワークと考えるようになった」と述べている。


私は以前、キリスト教詩人八木重吉の詩について、人間と自然を峻別するキリスト教世界からはみ出しているとの批判に対して、井上神学に教えられ、八木重吉の詩を、西洋キリスト教の世界からはみ出しているのであって、日本人の心に根ざしたキリストの道を自ずと生きている姿だと論じた。

遠藤も、自分の書く作品が従来の神学に背くことに負い目を感じていたのが、井上神父の著書の神学的理論が自分の作品の裏付けとなることで、強い支えとなったと語っている。

本書の著者も、井上神父主宰の「風の家」の機関誌『風』に「井上神父の言葉に出会う」と題した連載をするほどに井上神学を深く吸収しており、その結実が日本人の心に根ざすキリストの道を、俳句で語る本書である。


西洋キリスト教との距離感に苦悩してフランスから帰国した遠藤と井上神父が、日本人の心に根ざしたキリスト教の開拓をめざし、自分たちは次世代の踏石となろうと決意を語り、共に歩んで半世紀、遠藤と井上神父が願ったように、二人が切り拓き、置いた踏石を確かに踏みしめ、日本人の心に根ざすキリストの道を求めて旅する者の姿が本書には鮮やかに示されているのである。

(以上『-俳句空間-豈』第43号2006.10より山根氏の許可を得て転載しました。)

category: 『俳句でキリスト教』

tag: 平田栄一 
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俳句は祈り  

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平田栄一著『俳句でキリスト教
サンパウロ、2005年6月新刊)

楽しみながら、自然に祈りへと誘う「求道俳句」の世界。

さまざまな俳句作品を、日本人キリスト者として読み解きながら、
本当に大切なものは何か、今をどう生きるか、
どう祈るかを模索した、
日本人とキリスト教を同時に生きるためのエッセイ集。

俳句またキリスト教のちょっと変わった
入門書としてもお読みいただけます。


「句作を自らの求道形式とし、
また祈りとして実践してきた著者。
日本人キリスト者たちが自らの信仰体験を
どのように俳句に詠み込んでいるかを、
春夏秋冬、多くの作品を取り上げて読み解く。
俳句を語る中にカトリックである著者自身の
聖書理解と深い信仰が伺われ、教えられる。」
(六甲カトリック教会図書室)

ハードカバーB6版270頁、本体価格1600円+税。
-- 続きを読む --

category: 『俳句でキリスト教』

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どの聖書がいいか  

--『俳句でキリスト教』自解・補足-p.17--

本書では一般的な「新共同訳」をメインに使いましたが、そのほかにp.19にあるような「塚本虎二訳」、「文語訳」、「フランシスコ会訳」などを適宜、利用しました。
絶対的にどれがいい、ということはないと思います。どれも一長一短です。古い「口語訳」が新しい「新共同訳」に必ずしも劣るとは限りません。現に田川建三さんなどは、どちらかというと、「口語訳」の方を推していますね。
それから青野太潮さんなどが、「新改訳」をボロボロに言うけど、名訳の部分も多いと思っています。井上神父は「新共同訳」を使う前は、この「新改訳」を使われていました。
その他、教会関係に人気のなかった「新-」の前の「共同訳」なんかもぼくは、わかりやすくていいと思います。
でも、もし「これから初めて聖書読むんだけど、どれがいい?」って相談されたら、上の「フランシスコ会訳」か、最近出た岩波の「新約聖書翻訳委員会訳」をおすすめします。
ちょっと高めなんだけど、これらには、最低限の、あるいはしっかりした解説がついているからです。

category: 『俳句でキリスト教』

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『俳句でキリスト教』自解・補足-p.14-  

--「求道俳句」という呼び名について--

当初、「キリスト教俳句」と呼んでいました。
実際、この本のもとになった「余白の風」(もと「層雲青年句会報」)での連載のタイトルは、「キリスト教俳句探訪」と銘打っていたのです。

それがどうして「求道俳句」になったのか?
連載を重ねていくうちに、取り上げたい句には必ずしも、キリスト信仰を明示するようなキーワードがあるとは限らない、ということに気がついたのです。
本書読者は、本文中に、そうことわりながら、いわばキリスト者として強引に読み解いているように思われる句があることに、気づかれるでしょう。なかには違和感を持つ方もいるかも知れません。

しかし、すでに書かれてしまったものが、どのように解釈されようと作者は、基本的に受け入れるほかない。もちろん反論はできますが、反論しなければわかってもらえない、というのは、作品として未熟なのだと思います。私などは反論より静観したほうがいい、と思っています。(それならお前は、なんでこんなところで、ごたくを並べているのだ!と叱られそうですが。。。)

これは文学の、作家の宿命で、しかし読者から見れば、それだけ文学の自由が保障されているということになるのではないでしょうか。

話を戻します。
「キリスト教俳句」→「求道俳句」への変化は、もう一つには、「求道」をキリスト教に限らず広い意味に使いたかった、ということがあります。
仏教の方では、「求道」と書いて「ぐどう」と読ませます。
その場合「求道者」は、どこかではっきりした線は引かれていません。どんなに偉いお坊さんになっても、一生「求道者」であることを、はばかりません。

それが、キリスト教の方にきて、驚いた。
一般に、受洗に達していない、いわばキリスト信仰志願者のことを「求道(きゅうどう)者」といっている。違和感がありました。
いつ、キリスト者は、「でき上がってしまったの?」と思います。
私は、洗礼を受けていようがいまいが、一生求道者でありたいと思います。
そういえば、キリスト教は最初、「主の道」とか「神の道」(使徒18章)、キリスト信者は、「道に従う者」(使徒9章)っていわれていたんですよね。

その上で、仏教や他の宗教を目指す人たちとも、俳句を通して真の生き方としての「道」を模索したい、交流したいと考えたのです。

日本人はそもそも「道」が好きです。茶道、華道、俳句道・・・・何でも道にしてしまう。でも、がむしゃらに道を求める、ってのは、ちょっとちがうように思います。
あくまで、「道楽」でありたい。なんせ俳句は、肩の力を、ふっと抜いたとき、はじめていいものができるから。この点は、本書「あとがき」に書いたとおりです。

こうして肩の力を抜いて、モノを突き放して観る(写生)、難しいことだけれど、自分すら突き放して観る、そういう俳句の求道性というのは、本文でも繰り返し述べているように、宗教の根本=自己相対化に通じるものだと思います。

category: 『俳句でキリスト教』

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『俳句でキリスト教』-p.12-自解と補足  

『新俳句入門』、これはいま検索しましたが、復刻版も絶版みたいですね。残念。。。古本なら入手可能のようです。
これは、荻原井泉水(せいせんすい)の自由律俳句のすすめ、ではあるのですが、
「できるかぎり、光の中に出でて、俳句を作ることだ。光の中からじきじきに俳句を探り出してくることだ。」(p.45)
のように、人生論やときに聖書の言葉を思わせるような表現があります。

井泉水は、俳句実作より、どちらかというと、評論や芭蕉研究の方がすぐれているともいわれます。随筆なんかも、味わいのある文章を書いています。
層雲第一句集
田植のあしあらう水も田へゆく水(S21)
宿に来ても宿題の算数のつくつくぼうし(S28)

60歳代の、油の乗った時期の作品です。
また奥様をなくしてからか、晩年は仏教に傾倒し、「作品が宗教的になってしまって残念・・・・」といった批評をされることがあります。私などは、宗教的な句がむしろ好きなほうなので、そんなことはないと思うのですが。。。

category: 『俳句でキリスト教』

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『俳句でキリスト教』自解と補足  

--「はじめに」について--
井上神父との出会いについては、求道記にくわしく載せています。ご参照ください。
あの頃の私は、藁にもすがるような気持ちで、「道」を求めていたように思います。
ちょうど、会社を辞めたときで、無職になった不安も大きかったと思います。
しかし、生活が一応安定したとき、「ぜひ洗礼を受けたい」と思った、というのも、いまだに不思議に思います。

それから、受洗したのが1981年、自作の俳句が初めて活字になった(初出)のが1986年で、この5年間は、「洗礼を受けました。はい、救われました!」という感じではありません。
それは、この初出句を見ていただければ、明らかです(本書97ページ参照)。

救いの実感がもてない私は、受洗後も度々神父に詰問するようなこともあり、お世話をかけました。
当時盛んになっていたカリスマ運動や、カトリック受洗前と同じように、プロテスタント教会に出入りしたこともありました。
一方で、頼まれるままに、代父を引き受け--今現代音楽で活躍している作曲家H氏もその一人--るようになり、「こんな自分が・・・・」という後ろめたさを感じないわけにはいきませんでした。

そんな折、やはり身近にカトリック信者がいないという、ある方の代父をした後、洗礼祝い、ということで、都内の質素な木造一軒家に招かれました。
井上神父は表札を指差しながら、「あなた、ここ誰の家だかわかるかい?」と聞きます。
「渡辺」と書いてある。
なんと!あのユマニスト研究の第一人者、故渡辺一夫先生のお宅でした。当然ビビリました。
しかしそんな私も含めて、渡辺婦人らは気さくに話しかけたり、ざっくばらんに大笑いしたり。。。
何か、理屈をこえて、自然体の日本人キリスト者に出会ったような気がしました。

こうして井上神父と、その周辺に集う人たちとの出会い、そして俳句との出会いが、頭で信仰を理解し、構えようとする私の気持ちを、徐々にほぐしていったのだと思います。

category: 『俳句でキリスト教』

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平田栄一のエッセイ詩集4『雨音のなかに』(2000年 ヨルダン社)  

アフォリズム(警句・断章)風の文で、人生について辛口、甘口、ヒーリング、ホッとするもの、ズバッと物言うものなど一気に読めて、味わい深い短文集。
雨音表紙
著者からのコメント

「読んでいるときは面白いが何も心に残らないような本と、読んでいるときは少しかたいが、やがて心の中で生命の泉となって湧きでる本とがある。この本の読者は、やがて生命の泉が心のなかに湧きでるのを感じられるに違いない。」(カトリック司祭 井上洋治氏 書評より)

「本書には会心の作ともいえるエピグラムがたくさん集められている。一つ一つの作品が夜のしじまの中に小さな音色を奏でては読者の魂に安らぎと優しさとを与えてくれる。読み終えると何かしら心が潤されたような気持ちにさせられる。」(東京YMCA総主事 新堀邦司氏 書評)

120頁 本体価格1300円 ISBN4-8428-0289-8

<作品抜粋>

〇雨音のなかに
身体は疲れていても頭の芯が冴えていて眠れない、
という夜がたびたびあります。
そんなある夜、彼は冴えた頭のなかに、
神を探そうと熱心に祈りました。
しかし、一時間ほど祈っても、
頭の片隅にすら神を見つけることはできませんでした。
彼に安らぎを与えてくれる神はいなかったのです。
とうとう眠ることをあきらめかけたとき
──それはもう明け方近かったようです──
夜更けから降り続いていた雨の音に、ふと気づきました。
彼は自分の意識を、頭のなかから窓の外の雨音に転じました。
ただひたすら、雨音に聞き入ろうとしました。
自然に、神をあえて探そうという努力を止めました。
ほどなく、ある種の安らぎが彼を満たしていきました。
雨音の中の神──

〇生きかたを問う
価値観が多様化し、混迷をきわめる世の中で、
生き方が問われています。
父としての、母としての、夫として、妻として、子として、
友人として、社会人として・・・・。
しかし、これらはすべて抽象的・一般的な
「父」「母」「友」等々としての
生き方が問われているわけではないのです。
いまここで、他にかわることのできない一人の人間が、
同じように、かけがえのない一人ひとりの人間を相手としたとき、
どう向き合うのか、どう生きるのかが問題にされているのです。
わたしたちは、親としてこうあるべき、子としてこうあるべき、
真の友としてこうあるべき・・・・という言い方をよくしますが、
すべての親や子や親友に完全に共通した、
普遍的な在り方など、ありはしないのです。
常に具体的な、人それぞれの、実存的な状況の中で、
隣人からなにが期待され、どう応えようとするのか、
あるいは何を拒否しようとしているのか──
いずれにしろ、わたしたちの生き方は、
常に身近なところで問われているのです。

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求道詩歌誌「余白の風」

南無アッバの集い&平田講座

最後の南無アッバミサ

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