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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問合せ 略歴 著書

聖書について  

ここでちょっと聖書の話をしておきましょう。きみたちは、〝聖書〟と聞いただけで、「ああ、あの悟り切ったような顔でおもむろに近づいてきて、いきなり『あなたは神を信じますか?』と声をかけてくる人たちが抱えている本のことか。それならまっぴらごめんだね。」と敏感に反応する人も多いでしょう。わたしのところにも、「先生、わたしは聖書のあの頁――総ルビでぎっしり文字の詰まった字面を見ているだけで、何か洗脳されてしまいそうでとても読む気にはなれません。」と言ってくる生徒もいますよ。

 でも、こういう反応をぼくはけっして大袈裟だとは思いません。現在の平均的日本人の正直な感想だと思います。最初に書いたように、一部の宗教団体が恐ろしい事件を起こしたことが問題になっているこの頃です。聖書→宗教→恐ろしいもの→なるべく関わらないこと、というアレルギー反応が現代の日本人のなかにできあがってしまっても仕方ない状況なのかもしれない。

ただ一方で、こうした〝臭いものには蓋〟という発想でよいのか?という疑問も沸いてきます。〝君子危うきに近寄らず〟という言葉と同時に、〝彼を知り、己れを知るは百戦危うからず〟という言葉もあります。歴史上幾度も繰り返された宗教戦争や人殺しをほんとうに聖書は認めているのだろうか、一度は聖書にあたってみる必要があるように思います。日本人の国際化が叫ばれるなかで、〝聖書を知らずして西欧を知ることはできない〟ともいわれます。

今の世の中には宗教に関する本はあふれかえっていますよ。
映画、小説、美術、音楽、ときには君たちの好きなテレビゲームやパソコンゲーム・・・・、とくに外国ものの芸術には、よく聖書を題材にしたり、引用したりしていることがあるのは知っていますか。そう気がついたとき、一度は聖書って何が書いてあるんだろう、と興味を持ったことがあるかもしれない。なかには、実際にめくったみたことがある人もいるかもしれません。宗教関係の棚があるような大きな本屋さんに行くと、たいてい何種類かの「聖書」が置いてある。事典のように大きいのからポケット版までいろいろ。でも内容までは知らない。場合によっては君たちの家の書棚にもどなたかが買ったのか、もらったのか、置いてあったりするのではないでしょうか。しかしいずれにしても、まともに読んだことがないというのが正直なところじゃないでしょうか。

実は聖書は今でも世界全体でベストセラーなんですね。ミリオンセラーなんてものじゃありません。その上をいくベストセラーです。ところがそんなに売れているのに、ある意味最も読まれていない本でもあるんです。その理由は、聖書の〝読みにくさ〟にあります。

第一に視覚的な問題。パラパラとめくった経験のある人はすぐわかるでしょうが、字面が読みにくい。たいていは行間が詰まっていて、細かい文字がぎっしり詰まっています。なぜかというと、膨大な情報量を一冊に押し込めようとしているからです。それで最近は、分冊にして読みやすく製本されているものも出ていますが、そうすると今度は持ち運びに不便で、全部そろえようとすると値段も高くなってしまいます。

第二に内容の問題。「聖書」って聞くとたぶんきみたちは、黒い革表紙で分厚い一冊の本を思い浮かべるかもしれないけど、最初からまとまった一冊の本じゃなかったんだね。何十とあるいろんな文書をまとめた「合本」といっていい。で、その何十かの文書が、大きく二つに分かれています。「旧約聖書」と「新約聖書」。

新約聖書は今は一冊の本になっているけど、もともとは別々に書かれた27個の文書を後でまとめたものなんだ。その最初の四つが福音書とよばれています。

福音書というのは、キリスト教の中心人物であるイエスの伝記のようなものです。ただ、ふつうの伝記とちがうのは、きみたちが「日本史」とか「世界史」とかいうときのように、必ずしも年表のように歴史的な順序や史実をそのままうつしたものじゃないんだね。

いや実は、このへんは微妙な話でね、福音書の史実性(どこまで歴史的事実か)ということ自体がもう、聖書学のいろんな議論を含んでいるんだ。だけど、今はそういうむずかしい議論は置いといて話をすすめましょう。

ぼくはとりあえず、今の言葉でいうと、福音書っていうのは歴史小説みたいなものだと考えていいんじゃないかと思う。豊臣秀吉でも織田信長でもいいんだけど、君たちもなんか小説仕立ての歴史を読んだことがあるよね。ああいうのって、まるっきりフィクションっていうことはないよね。著者によっては、すごく現地調査や資料をくわしく調べている。それをもとにして、著者が主人公の一生を再構成していくわけだね。

そうは言っても、きみたちが福音書を最初に読んだときに、たぶんすぐひっかかるのが、奇跡の問題でしょう。イエスが水の上を歩いちゃったとか、死人をよみがえらせたとか・・・・。史実としての結論からいえば、そういう奇跡は実際起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれない。いまさらどうにも証明する手だてはないんだな。

でもそこでうっちゃっちゃったらもったいない、ってことも書いてあるんだな、聖書には。
四人の著者が、あるところでは共通の資料を使い、別のところでは独自の資料を使って、それぞれの視点でイエスの伝記、さっきの言葉で言えば歴史小説を書いたということです。
今とりあげようとしている『マルコ』っていうのは、新約聖書のなかでは『マタイによる福音書』の次に出てきますから第二福音書ってことになるね。ついでにいうと、第三は『ルカによる福音書』、第四は『ヨハネによる福音書』です。(以下、『マルコ』『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』と略します。)

で、ちょっとめんどうなのは、聖書全体にいえるんだけど、おさめられている文書の順番がその文書が書かれた年代番になっていないんだよ。『マルコ』は二番目に出てくるけど、実は四つの福音書のなかでは一番古いんだ。たぶん、紀元65年~70年代の初め頃書かれている。
イエスは紀元前7年からたぶん4年くらいの間に生まれて、紀元30年か31年に死んでいる。これは間違いない史実です。だから、けっきょく最初の福音書でさえ、イエスが死んでから30年以上経って書かれているんだよ。そう聞くと君たちは、「そんなに経ってから書かれてんじゃ、ますますあやしいもんだ」と思うかもしれない。

ぼくは今年47歳で、今から30年前は、ちょうど君たちと同じ年代だよ、高二か高三。今ぼくに、「おまえ、高校生のときに聞いたり見たりしたことを、綿密に書き出せ」っていわれたら、こりゃ、困るね。ほとんど憶えていないもの(笑)。

でもね、よく考えてみると、特定のことだけははっきり憶えているだなあ。たとえば、うちの奥さんのこと。そう、ぼくの奥さんは高校の同級生なんだ。だから、いっしょにフォークダンスを踊ったときの手の感触? なんかまで、憶えていたりするわけね(笑)。

つまり、30年経っても、ものすごくインパクトの強いことっていうのは、けっこう細部まで憶えているものなんだなあ。もしイエスが、当時の民衆にとってそういう強烈な個性の人であったとすれば、その複数の人たちの記憶や証言は、かなり信用できると思うんだね。もちろん伝承の過程で、わいきょく歪曲されたり、脚色されたりした点もあることが、現在までの聖書学でわかってはいます。そのへんも、これから必要に応じて指摘していきたいと思います。

それからもう一つ信用できる材料は、当時の人の記憶力の良さだよ。聖書の舞台になっている2000年前のユダヤ(パレスティナ)地方では、ものを書く材料は羊皮紙かパピルス紙だった。すごく高価なものだから、一般の人は手に入らない。だから人の言ったことは今のように気軽にメモをとるんじゃなくて、基本的に記憶におさめるほかなかったんだな。そう考えると、話者に対する注意力や観察力は、今みたく紙があふれている時代とは比べようもなく強かったと想像できるね。

ということで、聖書に書かれていることを、とりあえずはしっかり読んでいいんじゃないかってところまでやっとたどりついた感じがします。
だからここでもぼくは、とりあえず福音書の伝えるところに耳を傾ける、っていう態度が必要なんだと思う。

奇跡物語にしても、著者がその話をとおして何を言いたかったのか、っていう視点で読んでみたいと思うのです。

さて、さっき引用した文のところどころについている番号は、節っていうんだ。聖書の該当箇所を指すのに便利なんで、中世になってつけられたものだね。もともとのギリシャ語原文(といっても写本だけど)には、節も章も句読点もついていない。
この段落(ペリコーペっていいます)を、じっくり検討してみましょう。

イエスが旅に出ようとすると、「ある人」が走り寄ってきて声をかけた、という設定だね。この「ある人」は男だね。
ところがね、これと同じような話が『マタイ』にも『ルカ』にもあるんだ。ほとんど同じ内容なんで引用しないけど、なんで三つが重複しているか、ってことを、ちょっと説明しておきましょう。

実はね、前にも言ったように、新約聖書におさめられている福音書は四つある。そのうちの前の三つ、つまり、『マタイ』・『マルコ』・『ルカ』は内容的によく似ているんで、共観福音書っていうんです。なぜ似ているかというとね、『マルコ』が一番古くて紀元六十年代の後半から七十年代にかけて書かれ、『マタイ』や『ルカ』が書かれるときは、この『マルコ』の写本が出回っていた。で、マタイやルカはこれを参照して自分たちの福音書を書いたんだ。『マタイ』や『ルカ』は紀元八十年代以降でしょう。

もちろん、ただ『マルコ』を書き写したんじゃ意味がない。マタイは自分が持っていた独自のイエス伝承資料(これをM資料といいます)を混ぜていく。ルカも独自のL資料を混ぜていきます。だから、『マタイ』や『ルカ』には、『マルコ』の九十パーセントは含まれているんだな。

さらに、よくこの三つの福音書を比較していくと、『マルコ』にはないけど、『マタイ』と『ルカ』に共通している記事もあるんだよ。だから学者たちは、マタイ・ルカが福音書を書いたときには、『マルコ』のほかに、イエスの言葉集みたいなものが出回っていたんじゃないか、って考えたんだ。それをQ資料といいます。Qはドイツ語のQuelle、「源泉」というような意味だね。

ということで、けっきょく、次のような図式になる。
『マタイ』=『マルコ』+Q+M
『ルカ』=『マルコ』+Q+L
で、三人の共観福音書記者は、それぞれの置かれた視点で、福音書を編集したってことになるわけ。

さっきの『マルコ』記事に出てくる「ある人」。実は『マタイ』では「一人の男」になってる(19:16)。『ルカ』では「ある議員」になっています(18:18)。なんでこういう違いが出てくるか、ってことなんだけど、当時は印刷じゃなくて、手書きの写本によって本が増えていく。最初に書かれたものをだれかが写す。それをまただれかが借りて写すわけ。そういう作業の繰り返しだね。

そうすると、第一は、うっかりして写し間違えるってことが考えられる。人間がやることだから、仕方ないよね。
第二は、ちょっとめんどうだよ。書き写した人が、わざと、つまり故意に違うように書きかえるってこともあるんだよ。

福音書を含めて新約聖書がなんでつくられたかというと、「イエスがキリスト」つまり、イエスが現れたことによって、自分たちが本当の救い(「救い」とは何かってことは、また、少しずつ考えていきましょう)にあずかれた、っていう喜びを証言するためなんだから、故意といったって、悪意はない。むしろ善意で、書き直しちゃうってことがあったと考えられるんだ。

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生活のなかのキリスト教  

「わたしはそんな作家の本など読んだこともないし、興味もない」と言う人もいるかもしれませんね。そういう人でもたとえば、クリスマスがイエスの誕生祝いであることや、わたしたちの学校や会社の日曜休日制がイエスの復活に由来すること、あるいはバレンタインデーも本来はキリスト教の聖人のお祝い、等々、実はわたしたちの生活や文化はすでに〝聖書〟や〝キリスト教〟にかなり影響されているものであることは否定できないと思います。どこかで聞いたことあるけど、若い女性に「結婚式は何式でやりたいですか?」っていうアンケートでは、九〇パーセントの人が「キリスト教式」と答えている。
また私的な話になるけど、うちの奥さん。この人とは高校時代の同窓生で、熱烈な恋愛の末結婚・・・・そんなことはどうでもいいか(笑)。そうじゃなくて、つい最近洗礼を受けたんです。それで、なんでいまさら(今年五十歳)?ってことなんだけど、これが面白い。というのはその正直な理由を聞くと、精神的迷いとか神の存在とか、およそ予想される理由じゃないんだね。彼女いわく、「仏経のお葬式で遺体につける白い三角の布、あれ絶対つけられたくないの。」っていうのです。ふむふむたしかにキリスト教のお葬式のほうが、どこか明るい感じがありますわ。神父さんや牧師さんに言ったら、
 戦前の国家神道と軍国主義が結びついた反動で、戦後は(少なくとも公立学校では)民主主義教育からすっかり宗教が抜け落ちてしまいました。近年、宗教団体にまつわる事件が多発し、若い人たち、それもいわゆるエリートとみなされる人たちが、あまりにも易々と事件に加担してしまった事実をわたしたちは直視しなければなりません。
 さらに最近頻発する青少年の破廉恥な犯罪。それとどこまで関連があるかはわかりませんが、多くの若者が「死者の生き返り」を信じているというアンケート結果――今ようやく学校教育のなかで、〝宗教〝をどう扱うべきか、議論されはじめています。

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なんでいまさら宗教なの?  

 高校時代までのぼくは、目に見える、手にとって確かめられるものだけがホンモノ本物だと思い込んでいました。大学の学部選択の基準も、できるだけ具体的・実用的な学問をしたい、ということで、商学部を選んだのです。
しかしその後の人生で、それまでのわたしが想像だにしなかった人生の大事件が起きました。ちょっと大げさな言い方になりましたが、それはカトリック(キリスト教)との出会いです。
 若いきみたちには、今は興味がないかもしれませんが、なにかの拍子に思い出し、参考になることもあるかもしれない、ということわりのもとに、これから話をしていきたいと思います。途中退屈な話もあるかもしれませんが、どこか一箇所でも印象に残ることがあれば、うれしいです。

 ところで、「なんでいまさら宗教なの?」あるいは、「そんなもの俺たちには関係ないよ。神とか仏とか、いるとも思えないし、いたとしても老人や弱い人間がすがるもんじゃないか」と考えている人がいるかもしれない。たしかにそうかもしれません。たとえば、神の存在証明。古来いろいろな人がいろいろ試してきましたが、ぼくの結論を先にいえば、そうしたものはあまり説得力がない。というか、万人が納得いくような証明をした人はいない。そもそもそういう証明ができないという性質が神かも。。。。このあたりのことは後回し。

しかし最近読んだ本の一節にも、次のように書かれていたことが印象的です。ちょっと長くなるけど引用してみます。

「それにしても、我々の社会、いまだにまったく、宗教からの解放どころの騒ぎではないではないか。相変わらず、うさんくさい宗教、疑似宗教、疑似疑似宗教が次々と出現し、それにたぶらかされる人が次々と大勢出て来る。実は、統計的には、今の日本人は、私は無宗教です、と思っている人が非常に多い。しかし、実際には、その人たちは宗教から足を洗うことなどできておらず、さまざまな宗教儀礼に適当につきあって、まさに日本的ななあなあ主義で、適当にあちこちつきあっておいでになる。単なるつきあい程度なら、御自由に、としか言えないけれども、この種のものは単なるつきあいでは終らない。だから人々の心の中に、うさんくさい宗教、擬似宗教、新興宗教、新々宗教、新々々宗教、擬似擬似宗教、等々に対する免疫が形成されないのである。昨日まで、私は無宗教です、と言っていた人が、ある日、気がついてみると、とんでもない擬似宗教のとりこになっている。オウムだの、白装束だの、何だのかんだのというのは、別に、少数の例外的な人がとりつかれたわけではない。日常は、そんな迷信的な擬似宗教とはまったく無縁のように見え、ごく普通の生活を送っている人が、ある日突然、そういうものに組み込まれる。逆に言えば、いかにも、そういうものにたぶらかされそうな危うい人が、この社会に満ちあふれているのである。だから、次々とあの手のものが登場する。」(田川建三著『キリスト教思想への招待』勁草書房 二三八~二三九頁)

 田川氏はこのあと、だから既成宗教や伝統宗教がいい、などとは言いません。「宗教信仰というのは、本質的にうさんくさいもの」ではあるが、しかし「同時に、この社会において、さまざまなよき部分」、「特に、あまり眼に見えない領域で良きものを担ってきた」といいます。そういう「良きもの」を宗教ではなく、「みずからの手で直接担うようになってはじめて、我々は、もう宗教なんぞいらない、と言える資格を手に入れる。それなしに、宗教なんて迷信だからやめなさい、などと言っても、無益な破壊になるだけだ」と――。まあこんな感じです。
 田川建三という人は、聖書学界では超有名な学者です。既成の教義にとらわれず、ラディカル(根本的)にイエスの思想を解き明かそうとしている、わたしは最も良心的な聖書学者の一人だと思っています。〝最終的に宗教をこえるために宗教を知ろう〟そういうことではないかとわたしは読みました。
 二〇〇一年にアメリカで起こった大規模な自爆テロ事件は、イスラム教の過激派組織の一部の人たちが起こしたものでしたね。日本でも何年か前、オウム真理教の地下鉄サリン事件があって、たくさんの人が死傷しました。宗教にまつわる暗い話、怖い話はたしかに多い。
 でも一方で、先年亡くなったマザー・テレサの活躍を知らない人はいないでしょう。あの人はいわゆる慈善事業家ではなく、*カトリック(キリスト教の一派)の修道女、シスターです。根底にあるのは神やイエスに対する熱烈な信仰です。
 最初に言ったように、わたしもカトリックです。*なんでそうなったの?とよく聞かれますが、その経緯はおいおい話していくとして、今は、もう少し有名な人の例を話しましょう。
たとえば作家で数年前に亡くなった遠藤周作さん。この人はわたしが*洗礼(キリスト教になる儀式)を受ける決心をするきっかけになった人です。狐狸庵モノとかユーモア小説とか、いっぱい書いて学士院会員にまでなった人です。ノーベル賞をもらう直前までいった作家です。この人が書いた『沈黙』とか『深い河』とか、読んだり映画で見たことがある人もいるんじゃないかな。そう、ユーモア小説なんか書きながら、十年に一度くらいまじめな?本を出していたんだね。僕も学生時代、遠藤周作さんの〝狐狸庵もの〟や〝ぐうたらシリーズ〟を読んで腹を抱えて笑ったものです。しかしそうしたユーモアの根底に、氏の〝キリスト教〟的な、いわば「道を求める心」が隠れていることを知ったのはずっと後のことです。それで、この人が書いたものにも僕はかなり影響を受けているんだけれど、そのことはまた、おいおい話していきましょう。
 それから三浦綾子さん。これも映画やテレビでやったことがある『氷点』なんか書いた人だよ。僕は最初の本『今を生きることば』ってのを書いたとき、この人に帯を書いてもらったんだよ。うれしかったなあ、とってもほめてくれたんだ。なんか、本の内容より、三浦さんの帯文のほうがよかったりして、気恥ずかしいんだけど(笑)。。。。
ほかにも曾野綾子さんとか小川国夫さんとか、文学が好きな人ならたいてい知ってる、日本で今活躍している作家には、実はけっこうクリスチャンが多いんだな。先日立ち寄った本屋さんでも、曾野綾子・三浦朱門さん御夫妻、三浦綾子さん、矢代静一さん、加賀乙彦さん、そして遠藤周作さんなどの本が平づみになっていました。この人たちはすべてキリスト教の洗礼を受けた作家です。高校生ぐらいだとそのことを知らずに手に取っている人たちもいるんじゃないかな。
現代だけじゃなくて、近代の文学者のなかにも芥川龍之介や太宰治、この人たちは洗礼は受けなかったけど、少なからず聖書やキリスト教に関心を持っていた作家です。もっとさかのぼると、正宗白鳥、有島武郎、武者小路実篤、国木田独歩・・・いくらでもいる。

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付録:なぜ信じたのか  

ときどき人から、「なぜ洗礼を受けたのか?」と聞かれることがあります。わたしは、職場や友人関係においても、自分がキリスト者であることをあえて隠したことはありません。むしろチャンスがあれば積極的に表明している方かもしれません。しかし「なぜ洗礼を?」と聞かれて咄嗟に何と答えようかいつも戸惑います。
内村鑑三も言っているとおり、どのようにして(how)キリスト者になったか、という経過は説明できても、どうして(why)キリスト者になったか、という理由はなかなか言語化できるものではないのです。気取ってこんなことを言っているのではありません。実際やってみようとして、本当に苦労するのです。病気・不安・・・・どれも少しずつは受洗の動機となってはいるでしょうが、どれも決定的なものではないような気がするのです。先年亡くなった遠藤周作氏の言葉を借りれば、そこにもう一つ、何か「X」とでも呼ぶべき者の力が働かなくては、受洗までは決意しなかったに違いないのです。
神の子イエス・キリストの福音の初め。
新約聖書にある四つの福音書のなかで最も古い『マルコ』はこの言葉で始まります。キリスト教と言えば、「イエス・キリストに対する信仰」のことを指すことは誰でも知っているでしょう。しかし、イエスが神の子であるということ、またキリスト(救い主)であるということをどうして信じたのか、と問われると、誰にでも納得してもらえそうな答えを探しだすのは至難の技なのです。
〝復活とか奇跡とか・・・・この科学万能の時代にそんなこと本気で信じてるの?!〟「なぜ受洗したか」という問いの裏にこんな気持ちが見え隠れすることもあります。少なくとも一つ言えることは、復活や奇跡が証明されたから、だからイエスを信じたのではない、ということです。むしろことは逆で、イエスの人格を信じたから復活も奇跡も信じたということです。それにしても、ではなぜイエスの人格を信頼できるのか、そこのところは説明できないまま残ります。
いろいろな人の「回心記」などを読んでみると、ある場所、ある時点で特別な宗教体験をした結果、神やキリストを信じるようになった、というように受け取れるものがたくさんあります。そのなかで最も有名なのは、パウロ(サウロ、サウル)のものでしょう。ここで少し引用が長くなりますが、彼の回心の経過をたどってみたいと思います。
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家は入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(使徒言行録9.1~22)
文学的にも美しいこのくだりを読んで、まず印象的なのは、「突然、天からの光が彼の周りを照らした」り、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけるイエスの声――声は聞こえても姿は見えない――であったり、「たちまち目からうろこのようなものが落ち」るサウロの姿などでしょう。このとおりのことが実際、パウロに起こったのか、あるいは彼の心境の変化を文学的に表現したものなのか、証明はできませんが、いずれにしろ、何か劇的な回心がパウロに起こったことだけは事実でしょう。
しかし、わたし自身を含め、こういう劇的な回心は誰にでも起こるわけではありません。むしろキリスト者としては希な体験と言ってよいでしょう。では、長々と引用したこのパウロの回心体験は、特殊なものとして、一般的な受洗動機とは別に扱うべきなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
たしかに、ダマスコの体験自体は劇的で、ある時突然起こったもののように記されています。しかしこれは、何の前触れもなく、何の関わりも持たない(復活者)イエスが突然、パウロの人生に介入してきた、ということなのでしょうか。そうは思えないのです。
パウロは回心前からイエスのことを知っていました。そればかりでなく、正統なユダヤ教徒として、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた」のです。キリスト教会最初の殉教者であるステファノの死にも立ち合っていたようです(使徒言行録7.58) 。要するに、回心前のパウロは、反対の立場にありながら、キリスト者が何を信じ、どう生きているかを少しずつ知っていったと推測されるのです。実際に、ステファノの殉教に代表されるように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、自分を迫害する人々をゆるし、祈って死んでいくキリスト者の姿を見ていたにちがいありません。そしてその姿は、イエスの十字架の死の姿と二重写しになります。
そのとき、イエスは言われた。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23.34)
こうしたことが、パウロ回心の伏線として敷かれていったのではないでしょうか。その過程で、律法遵守に最大の価値を置いていたファリサイ的な生き方から、愛とゆるしこそが生き方の源泉なのだと少しずつ悟っていったのだと思うのです。ダマスコでの回心は、その延長線上に、頂点として起こった出来事だったと言えます。けっして、何の前触れもない突然の回心ではなかったのです。
もう一つ重要なことがあります。光に照らされ、イエスの声を聞いたパウロは、目が見えなくなります。そこで、「同行していた人たち」がダマスコに連れて行きます。さらに、アナニアがパウロの上に手を置くことによって、「目からうろこのようなものが落ち」元どおりに見えるようになった――回心したのです。つまり、パウロの回心は、彼と神あるいはイエスの間で独立しに起こったことではないのです。目の見えないパウロをダマスコまで連れていく人たちがいなければ、またアナニアという人物が介在しなければ回心は起こらなかったと言ってよいでしょう。パウロの回心の経過を長々と引用したのは、この点を読者に知ってもらいたかったからです。こうしてパウロを信仰に導く伏線は、他者との関わりの中で様々に準備されていき、時が熟した時点で回心が起こったと考えられるのです。
以上のように、パウロの例を振り返ることによって、一見唐突に思える回心も、実は人生の長い時間的な経過の中で少しずつ準備されていくものであるということ、そして、その回心には他者との関係が大きな要素として作用することがおわかりいただけたかと思います。
こうしたことは、一人パウロの回心に特殊なものではなく、世のキリスト者、いな、何らかの信仰を持つ者に共通するものではないでしょうか。さらに言えば、こうしたことは信仰の問題に限らず、私たちの日常全般に言えることなのです。
遠藤周作氏は、多くの著書の中で次のように繰り返し述べています。
眼に見えぬ働き──それを神といってもいい。なぜなら神とは普通に言われているように存在というよりはむしろその働きを我々に感じさせるものだからだ。
それに気づいたのは自分の人生をいささか俯瞰できる年齢になってからである。神は直接ではなく間接的に、友人や邂逅や離別や、いや犬のぬれた眼や死んでいく小鳥の眼を通して働いていたことがやっと私にもわかったのだ。(『落第坊主の履歴書』)
「なぜ、洗礼を受けたのか」という問いの答えには、人生のすべて――生い立ち、人間関係、心身の状況すべてが総合されていると言わざるを得ないのです。こうして、いわば「時が満ちた」(マルコ1.15)とき、前述の遠藤氏言うところの「X」が働いて回心――受洗に至るのではないで しょうか。いなむしろ「X」は、私の人生の始まる前にも私の死後にもあらゆるものに働きつづけている力というべきなのでしょう。

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悔い改める、って?  

 まず「悔い改め」が問題です。このギリシア語メタノイアは、「過去を捨て、新しい生を求めて神に立ち帰ることを意味する」(新共同訳聖書辞典)します。しかしわたしたちが「悔 い 改める」というと、ああいう悪いことしてしまった、こういう罪を犯してしまった、というような、過去の個々の問題を反省するという意味で〝改心〟を連想するわけです。しかしメタノイアとはむしろ、全身全霊をもって百八十度〝神の方に向き直る〟ということが強調されているのです。つまり水平的な人間関係における反省以前に、神と人間との垂直的な関係が重視されているのです。
 前述のエピグラムで、新約聖書中「罪」と日本語訳されている〝ハマルティア〟が本来〝的をはずす〟という意味であったことに触れましたね。弓矢競技をやる場合、どんな名手がうまく狙ったとしても、矢そのものが曲がっていたとしたらけっして的を射ることはできないでしょう。わたしたち人間も、これと同じように、神と人との原関係(原罪∧Sin∨の問題)が正しくされてはじめて、人間同士の関係(罪∧sins∨の問題)が正しく導 かれるのです。




私は
基督の奇蹟をみんな詩にうたいたい
マグダラのマリアが
貴い油を彼の足にぬったことをうたいたい
出来ることなら
基督の一生を力一杯詩にうたいたい
そして
私の詩がいけないとこなされても
一人でも多く基督について考える人が出来たら
私のよろこびはどんなだろう

これは信仰詩集『神を呼ぼう』の序として巻頭に置かれた作品です。この詩集は重吉の死後23年を経た昭和25年に、無教会主義のキリスト者・鈴木俊郎によって選・編集されたものですが、「かれ(重吉)の詩は、かれの信仰の表白のほかの何ものでもありません」という鈴木氏の視点に立って、膨大な重吉の詩群からいわゆるキリスト教詩のエッセンスを、見事に抽出しています。鈴木氏がこの「願」という詩を巻頭に置いたのはおそらく、重吉がどんな姿勢で詩作に取り組んできたかを端的に表している作品と判断したためでしょう。
重吉は、〝福音書にある「基督の一生を力一杯詩にうたいたい」それが自分の願いなのだ〟といいます。しかしそれだけで終わってはいません。もし「私の詩がいけないとこなされても/一人でも多く基督について考える人が出来たら」それで本望なのだ、というのです。ここには、詩人・重吉が長い間こだわってきた最も大切なもの──詩人としての自分の姿勢、自分のスタイル、自分の言葉といったあらゆる「自分」を相対化してしまう、強い覚悟を読み取ることができるのです。

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奇跡について  

ここで信仰と奇跡の問題にも触れておきましょう。
福音書に記された奇跡的な話が事実としてあったのか、なかったのか。
あったとすればどこまでが事実なのか、科学的に検証しようという試みは、歴史上繰り返し行われてきましたし、現代のわたしたちにとっても、興味のあることにはちがいありません。
一時イエスのこれらの奇跡をすべて否定し、合理的に解釈しようとする神学が隆盛したこともありました。
結論を先にいえば、史実としての奇跡があったかなかったか、確かめようがない、ということです。
私見をいえば、少なくともイエスが常人にはできないような奇跡的な業を何らか行っていたことは十分あり得ると思っています。
イエスが伝えた神の国の現実性と奇跡の問題については、次のような句が参考になるかもしれません。
                                    
<すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。・・・・』と書いてある。」次に、悪魔は・・・・神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、・・・・手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。>(マタイ四・三~七抜粋)

イエスは、「石がパンになるよう」な奇跡を拒否し、神殿から飛び降りて神を試すことも拒否します。なぜでしょうか?
おそらくそれは、自分が「神の子」であることの証拠として奇跡を利用し、証人として神を利用するなら、神とイエスの間に真の信頼関係が成り立たなくなるからです。
わたしたちが日常経験する親子や夫婦あるいは友人関係を考えてみてください。
愛情や友情の〝証〟として何かをプレゼントするとします。
しかしそのプレゼントによって、はじめて愛情や友情に気づき、あるいはそうしたものが成り立つわけではないでしょう。
プレゼントは、あくまでも長い間にともに培ってきた愛情や友情の結果としての証なのです。
 ほんとうは改めてプレゼントなどする必要はないのです。しかし人間は弱いものですから、長いつき合いの中でともすれば相手の気持ちがわからなくなり疑ってみたり、相手の厚意を当然と思ってしまうこともあるでしょう。そんなときにある種のプレゼントがお互いの関係を再認識させ、さらに深い愛情を育む契機となるのです。
 神とイエスの関係、あるいはイエスとイエスを信じた人たちの関係もこれと同じです。古今東西奇跡的な話は数多ありますし、その事実を否定するつもりはありませんが、少なくとも神の国到来のしるしとしての奇跡は、イエスの神に対する信頼、イエスについてきた人たちのイエスに対する信頼なしにはありえないということになるのです。
 端的に言えば、そうした信頼を前提としてイエスを見、彼の話に耳を傾け、彼に触れた人たちにとっては、イエスのすべての行為・言動さらにイエスの存在そのものが奇跡的であり、喜ばしい報せ〓福音と受け取られたのではないでしょうか。

  更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そう か。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときは、地上のどんな種よりも小 さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れる ほど大きな枝を張る。

 ではわたしたちは何もしなくていいのか、というとそうではありません。神の国の成長のために「土に種を蒔く」という仕事は、あくまでも「人が」しなければならないのです。その第一歩は何でしょうか。再び『マルコ』一・一五のイエスの最初の宣教の言葉に戻ります。

  時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1.15)

 満ちてくる「時」、近づいてくる「神の国」に対して、わたしたちは「悔い改めて福音を信じなさい。」といわれています。また少しずつ見ていくことにしましょう。

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〝神の国〟のイメージ  

ではいったいイエスの言った「神の国」とはどんなものだったのでしょうか? 前述したとおり〝この世〟に生活するわたしたちはいわば完全な神の国への途上にあるのですから、それをすでに体験した者として語ることはできません。
もう一度、前項で説明した『マルコ』一・一五のイエスの宣教の言葉に戻りましょう。

<時は満ち、神の国は近づいた。・・・・>

今度は「神の国は近づいた」と「神の国」が主語であることに注目したいと思います。
つまり、わたしたちが中心となって神の国とはどんなものなのかと議論したり、その実現のために努力したり(あるいは拒否したり)する前に神の国自らが、いわば向こうから〝近づいて来てしまっている〟ということが強調されているのです。

<また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」>(マルコ四・二六~二八)

これは福音書のなかで〝成長する種のたとえ〟といわれているものです。
イエスは「神の国」を「土がひとりでに実を結ばせる」ようなものとして捉えています。
前述の聖句と同様、神の国は自ら働くという、いわば神の国の能動性・積極性が強調されているのです。
わたしたちが「夜昼、寝起きしているうちに」神の国の「種は芽を出して成長」しますが、「どうしてそうなるのか」はわたしたちにはわからない、というのです。
また、前項では「神の国はあなたがたの間にある」という句を単に心の中の問題として解釈するなら、〝神の国〟のリアリティを損なう、というようなことに触れました。
このことに関連する句として次のような言葉があります。

<「しかし、わたしが神の霊(ルカ一一・二〇では「神の指」)で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」>(マタイ一二・二八)

ここでははっきりと「神の国はあなたたちのところに来ているだ」と宣言されており、「時は満ち、・・・・」の句と同様に神の国の時間的な〝現在性〟が強調されています。
と同時に、イエスの奇跡や病人のいやし〓「悪霊を追い出している」、あるいはイエスの存在そのものから、神の国の〝現実性〟を主張するものと解釈できます。
ここで「あななたたち」というのは、直接にはイエスに反対するファリサイ派の人々を指しており、そういう人たちの上にも否応なく神の国は来ている、神の支配がはじまっているということになります。
ちなみに〝悪霊の追い出し〟ということは当時、イエスに限ったことではなかったようです。
医学の発達していない時代のことですから、どのくらいうまくいったかは別として、他の人が、病人のいやしや悪霊の追い出しをしたこともあった。
したがって注意しなければいけないのは、イエスが奇跡やいやしを行ったことが神の国の到来の”証明〟ではない、ということです。
事実イエスに反対する人たちは、イエスがこのような業を行えるのは悪霊の仕業だと考えました。(右の福音書のくだりを一般に「ベルゼブル(悪霊の頭)論争」といいます。)
イエスのこうした業を何の〝しるし〟と見るかが問われているのです。
イエス自身や福音書を書いた原始キリスト教会の人たちは、これを神の国到来のしるしと見ました。

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宗教のイメージ  

宗教問題は純粋に心のなかの問題――信じたい人は勝手にひとりで心のなかだけで信じていればいいのだ・・・・つまり個人個人の〝心の持ちよう〟の問題と考えている日本人は案外多いようです。
だいたい現代の一般的な日本人が宗教を意識する機会というのを考えてみると、それは仕方のないことのようにも思います。
あのオウム事件、一部宗教団体のしつこい勧誘、それに高校教員の立場から言わせてもらえば、宗教が戦争の原因として過大視された世界史の授業等々、宗教そのものを悪と考えてしまう機会ばかりが目につきます。
一方、たとえばマザーテレサがしている行動をすばらしい慈善事業として見ることはあっても、彼女が繰り返し述べている、「わたしは自分たちがしていることを慈善事業だとは思っていません。
貧しい人にしていることはすなわちイエスにしているのです。」というような発言にはなぜか無頓着です。
また、今話題になっているホスピス。
「あなたは末期癌になったらホスピスに入りたいと思いますか?」という質問に多くの日本人が「はい」と答えていますが、ホスピスの創設がキリスト教団体によるものであったという歴史や、今日本に建設されているホスピスの多くも宗教団体によってつくられていることはあまり知られていません。
阪神大震災のときも、あるいは世界中の災害地、難民キャンプ等で活躍するボランティアが多く宗教団体の支援のもとにあることも知らない人が多いのではないでしょうか。

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自分の十字架を背負って  

そのベクトルを端的にあらわす言葉が福音書にないだろうか、このところ私はずっと思いめぐらしていました。そして次の聖句にたどり着いたのです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8:34~37)
私は、イエスの教えの要がこの言葉に端的に表現されていると思うのです。
先に私は、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』が「イエスの言葉や生涯を黙想し、そのなかに自分を沈潜させることによってはじめて私たちは真の幸福──救いに至る」ということを主張している書物であると述べました。これは先にも引用したように、「私(イエス)に従う者は闇の中を歩まない」(同書1:1)という前提があることによって出てくる結論です。つまり、私たちの真の幸福は、「イエスに従う」ことにあるのです。そしてその具体的な方法論として、「黙想」(祈り)が必要なのです。
人はだれでも、幸せに生きることを望みます。人生の目的はそれだけだと言っても過言ではないでしょう。すべての人間のこの究極的な願いに応えようとするイエスは、「私に従う」ことを要求しています。さらにその具体的な手段が祈りだというのです。
若い頃の私はなんとなく読み過ごしてしまったのですが、このことは『キリストにならいて』の冒頭にはっきりと書かれているのです。トマスは絶えざる勉学と祈りと直感によってそれを見抜いていたのだと思います。この頃になってやっとトマスの言わんとすることが少しずつ解ってきました。
イエスに従う(ならう)こと。
そのためには祈りが必要であること。
新約聖書が具体的に私たちに要求していることは、この二点に要約されるのではないでしょうか。そしてこの二つの相互作用によって、私たちの自我は相対化し、真の幸福すなわち救いに至るのだ、というのが「福音」と呼ばれるものの内実なのです。この視点に立って、先に示したイエスの言葉、
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」を吟味してみたいと思います。

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同じベクトル──自我相対化  

初めて福音書を手にしたとき、『マタイ』や『ルカ』の冒頭にある系図やマリアの処女懐胎の記事を読んで、「こんな神話にはとてもついていけない」とがっかりした経験のある人は多いと思います。それは、上に述べたような福音書という文学類型の特殊性を知らず、一般の歴史書と同じ構えで読もうとする誤解から生じるものなのです。
というわけで、律法問題にしても、イエスが史実としてどこまで具体的に律法を否定ないし越えていたかは、簡単に結論は出せないのです。先に私は「安息日論争」に触れたとき(6/8記)、イエスは要するに「律法は、人のために定められた。人が律法のためにあるのではない」と宣言したのだと述べましたが、それはイエスの生き方全体として言えることであって、個々の律法をすべてどうでもいいものとしたという結論は単純には出せないのです。
以上のような福音書の特殊性に注意しながら、イエスの言葉や行いをたどっていくと、イエスは必ず個々の具体的な場面と人に応じて語っていることに気づきます。つまり仏教でいう対機説法なのです。現代のようにテレビやラジオを使って最大公約数的な大衆に向かって話したり、あるいは不特定多数の人たちを相手に本を書くというようなものではないのです。『マタイ』の「山上の説教」などはそのまま読めば一見、イエスが人としての生き方の一般原則をまとめて示したように思えますが、これとて一度にイエスが山上(『ルカ』では平地)で話したわけではなく、様々な状況、様々な人に語られた言葉を、マタイがまとめて編集したものです。
したがって、イエスの言葉を解釈するときは、どういう状況の中で誰に向かって語られたものなのかをよく考えなければなりません。病人や売春婦に語る言葉と、ファリサイ派やサドカイ派に語られる言葉は、当然違ってくるのです。イエスのある言葉を語られた状況を無視して取り出し、あたかもすべての場合に当てはまる普遍的原則のように受け取ることは大変危険なことです。
たとえば、「山上の説教」の中に、有名な次の言葉があります。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・・」(マタイ5:27~29)
男性でこの言葉に最初からつまずかない人はおそらくいないでしょう。このくだりを読んで、「こんな厳しいイエスにはとてもついていけない」と思う日本人は多いと思います。しかしこの言葉が実際、どういう状況の中でイエスの口に上ったかをわたしたちは考えてみなければなりません。
井上洋治神父の説によればこの言葉は、おそらく『ルカ』第21章から欠落した後、『ヨハネ』第8章に加えられた「姦通の女」のペリコーペのような状況の中で語られたものだろう、と思われます。(7:53~8:11参照)
当時の女性がユダヤ社会の中で、どんなに差別的で低い地位に置かれ、不当な扱いを受けていたかを想像すれば、「姦淫の女」に対するイエスのやさしいまなざしがいかに彼女を救うものであったかがわかります。と同時に、彼女を非難しようと集まっている男たちを上のような厳しい言葉をもって批判したであろうイエスの姿勢が理解できるのです。
こうしてイエスの言葉を対機説法的に解釈するなら、先に問題にした『ルカ』第10章の「善いサマリア人」における「律法の専門家」に対するイエスのアドバイスと、続く「マルタとマリア」でのマルタに対するアドバイスが異なることの意味が見えてくるように思います。
「善いサマリア人」のペリコーペでは、「律法の専門家」は「イエスを試そうとして」(25節)イエスに質問し、また「自分を正当化しようとして」(29節)「善いサマリア人」のたとえをイエスから引き出しています。こうした狭い自我を絶対化している「律法の専門家」に対しては、イエスはともかくも実践的な愛の行為を要求するのです。それは外面的な愛の行為がその行為者の内面に憐れみの心を起こし、自我を相対化させる──永遠の命を受け継ぐ──救いに至るというイエスの教えを示すものです。
それに対し、マルタのように心は隣人(イエス)へと向いてはいるものの、愛とは「いろいろのもてなし」のことなだという固定観念にとらわれ(この点では自我が絶対化している)、同じ行動をとらない隣人(マリア)への思いやりを欠いてしまっている場合にはイエスは、まず祈りをすすめます。
しかしどちらの場合にも、なんとかして相手の自我を相対化させようとするイエスの配慮、苦心、愛が読み取れるのです。それは、私たちの心に自我相対化が起こらなければ救われることがないからです。
ある場合には行為を要求し、ある場合には祈りをすすめるイエスの姿は、福音書の他の箇所にも散見されます。
さらに、まるで正反対に見える行為を要求する場合もあります。らい病を患っている人をいやした時は、「だれにも、何も話さないようにしなさい」と命じ(マルコ1:40)、悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやした時は、「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じています(同5:19)。イエスについて行きたいという願いを聞き入れる場合もあるし、禁止することもあります。これらの違いについて必ずしも福音書には明確な理由が記されてはいないのですが、イエスが常に対機説法的言動をとったことを踏まえれば、うなずけることのように思います。そしてイエスの対機説法が目指したものはすべからく、相手の自我相対化を促すためであった、というのが私の思い至った結論なのです。
キリスト教では、神の言葉である「イエスに聞く」「イエスを知る」あるいは「キリストに従う」ということが大切とされます。それはこれらの物言いが、すべて同じベクトル──自我相対化へと私たちを向かわせるものだからです。

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イミタチオ・クリスティ  

中世以来キリスト教界で聖書の次によく読まれてきたといわれている、修道士トマス・ア・ケンピスの書いた『キリストにならいて』(イミタチオ・クリスティ)という書物があります。この本はそのタイトルから「キリストにならえ」という主題があまりにも印象的で、若い頃は、これはとてもついていけない、と早合点してしまったのですが、最近読み返してみてトマスの考えの中心は、どうもそういうところにあるのではないと思うようになりました。
たとえば、この本の冒頭には次のよう書いてあります。
「私に従うものは闇の中を歩まない、と主はいわれる。このキリストのことばは、もし本当に私たちが光にてらされ、あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯と振る舞いとにならえと、おしえるものである。それゆえキリストの生涯にふかく想いをいたすよう、私たちは心をつくして努むべきである。」(第一巻第一章1 岩波文庫訳)
トマスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)というイエスの言葉を引用して、もし私たちが幸福になりたいのなら、イエスの「生涯と振る舞いとにならえ」と教えます。そしてそのためには、まず「キリストの生涯にふかく想いをいたす」ことが大切であるというのです。この部分は別の訳では、「だから私たちはイエズス・キリストのご生涯を黙想することをもって、第一の務めとすべきである」(カトリック教会認可 光明社版)となっています。
つまりトマスが強調していることは、ともかく何か善いこと・立派なことをしなさいという世間一般の道徳ではなく、まずイエスの言葉や生涯を黙想し、そのなかに自分を沈潜させるということなのです。そのことによってはじめて私たちは真の幸福──救いに至るのだ、といっているのではないでしょうか。
先に私たちは、『ルカ』の「善いサマリア人」のたとえで「律法の専門家」には愛の実践を勧めたイエスが、続く「マルタとマリア」では愛の実践以前にまずイエス──神の言葉に耳を傾ける──祈ることをすすめる、という文脈を読み取ってきました。ここで私たちは、こうしたイエスの言葉や行いに戸惑いを覚えるのではないでしょうか。いったい愛と祈りはどちらが先なのだろうかと。ある人には愛の実践を要求し、ある人には祈りをすすめる、これはどういうことなのでしょうか。
イエスの言葉の矛盾。この問題を考えるときまず私たちが考慮しなければいけないことは、イエスの言葉はすべて対機説法だということです。これは私の心の恩師、井上洋治神父が常々強調されていることです。
どういうことかというと、私たちが聖書を読むときしばしばぶつかる困難は、たとえば福音書のなかでイエスが語ったAという言葉と別のBという言葉とがまるで正反対のことを言っていることが少なからずあるからです。
ひとつ例をあげましょう。
「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(マルコ7:18~19)
この言葉は、イエスがユダヤ律法の食物規定を否定していることを意味します。ところが『マタイ』の並行箇所では次のようになっています。
「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。・・・・しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(15:17,20)
さらに『マタイ』第5章の有名な「山上の説教」では、イエスの次のような言葉が残されています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(5:17~18)
この『マルコ』と『マタイ』の並行箇所からイエスが、食物規定に関する「昔の人の言い伝え」──口伝律法を否定していることは明らかです。しかし、モーセ五書の成文律法については『マルコ』はイエスが律法を否定した、少なくとも律法を越えたと見ているのに対して、『マタイ』はそうは見ていないのです。マタイが『マルコ』を参照して福音書を編集していることは明らかです(『マルコ』の90%以上は『マタイ』に含まれています)から、マタイが『マルコ』の古い伝承から「すべての食べ物は清められる」という言葉を故意に削ったと考えられるのです。これは、マルコとマタイの立場の違いを反映しています。つまり、マルコの福音書編集の意図は、異邦人への伝道にあり、マタイはユダヤ教からの改宗者を対象として福音書を編集したという事情があるのです。
しかしこうした編集史的な問題はあるにしても、だから『マルコ』より『マタイ』、『ルカ』、さらに『ヨハネ』へといくに従って真実のイエス像から遠ざかっていくのだ、というふうに単純には結論できません。そこが面倒なところです。古い方が真実に近いという推論は、考古学的な見地からは言えても、こと福音書という特殊な文学類型を問題にする場合は必ずしも当てはまらないのです。というのは福音書が、史実をできるだけ忠実に伝えようとする歴史書や伝記ではなく、史実を元にしながらも「イエスはキリストである」という信仰を宣言することを最大の目的にした書物だからです。このことは、一番古い『マルコ』の最初の一行が、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)というキリスト教の端的な信仰宣言で始まっていることからも明らかです。

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キリストに従う  

ここで、これまで述べてきたことを簡単にまとめておきたいと思います。
私はきわめて個人的な体験を通してではありますが、人が救われるためには自我相対化が必要である、ということに気づかされました。それは、キリスト教詩人・八木重吉の詩や、良寛の歌からも読みとれる救いの法則のように思われました。
このことをまず、キリスト教のアガペーの愛を巡って考えてみることにしました。
私たちは、『ルカによる福音書』第10章の「善いサマリア人」のたとえから、自我相対化が他者への憐れみを生み、それが自然に愛の行為となって流れ出ること、またその逆もありうるということを読み取りました。
しかしだからといって、愛の実践にこだわれば自我絶対化におちいり、愛を実践しなければ自我の相対化も起こらないという、〝愛と自我相対化のジレンマ〟の問題に突き当たったのです。そしてこのジレンマの解決の糸口が「善いサマリア人」のあとにルカが続けた「マルタとマリア」の話にあるということに気づきました。このペリコーペでイエスが私たちに示唆していることは、具体的な愛の行いの前にまず、「神の言葉を聞く」ということが大切なのだ、ということでした。
その神の言葉は、新約ではイエスにおいて実現し、凝縮されているというのがキリスト信仰だったわけです。神の言葉、神の御心はイエスにおいて実現しているのですから、そのイエスに聴くことによって、自我は相対化し、救いに至るのです。
ここまで見てくれば、『ヨハネによる福音書』の冒頭の言葉が大変大きな意味を持っていることがわかります。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1:1、2、4、14)
さて、救いに至るための自我相対化の過程では、「神の言葉を聞く」あるいは「イエスを知る」ということが大変重要であることはわかってきたのですが、ここでもう一歩進んで、この場合の「聞く」あるいは「知る」ということはどういうことなのか、次に考えてみたいと思います。というのは、少なくとも聖書にいう「聞く」ことは単に聞き流すことでもないし、「知る」ことは単に知識として知ることでもないと直感するからです。
では、神の言葉であるイエスに聞き、また知るということはどういうことを意味するのでしょうか。
先日のミサで、次のような共同祈願が朗読されました。
「恐れることなくキリストに従う力をわたしたちに与えてください。つねに喜びをもって、神の国の福音を告げることができますように。
神よ、あなたの道を示してください。」(年間第13主日C年)
私は、「恐れることなくキリストに従う」という冒頭の一文にハッとしました。というのは、この祈りは、キリストに従おうとすれば、恐れを抱くことが普通なのだ、という前提の上でなされていると思ったからです。
私たちはキリスト者として、「キリストに従う」ということを、どういう意味に受け取っているでしょうか。
そう言えば、キリスト教会の「信仰宣言」にも、具体的なイエスの生き様は出てきません。
ですからややもすると私たちは、鸚鵡返しのように信仰宣言を唱えていれば、それでイエスを信じているという錯覚に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。そういうとき、ちょっと大きな試練が来ると、今までの自分の信仰はなんだったのだろうと、落胆してしまうのです。私たちは、しばしば、自分の信仰の内実を検証してみる必要があるのではないでしょうか。

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原初的な体験  

このイエスにつながっていれば、私たちも必ず救われるのだ、というのが原始キリスト教団の人たちの原初的な体験だったのです。旧約以来の多くの律法は、イエスの人格の中にすべて実現しているからです。
神の言葉を文字に書かれた律法ととらえ、それを自力で実行して救いに至ろうとする試みは、けっきょくファリサイ派のような自己絶対化を生んでしまいました。自己相対化が救いの条件であるならば、ファリサイ派や律法学者の態度は最も救いから遠いといわざるを得ません。
ではどうすれば自己が相対化するか、それはイエスの人格につながることによる、というのが新約聖書の著者たちが共通して指し示している救いの秘訣です。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
この聖句では、「唯一のまことの神」を知ることと「イエス・キリスト」を知ることとが、別のことのように読めますが、キリスト信仰においてはこの二つはイコールだと受け取って差し支えないでしょう。つまり、イエスを知ることは神を知るということなのです。そしてそのことが永遠の命──救いに至る、というのがキリスト信仰です。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。・・・・わたしを見た者は、父を見たのだ。・・・・わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる・・・・。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる・・・・。」(ヨハネ14:6~7、9~11)
「わたしと父とは一つである。」(同10:30)
キリスト者でない方はこうした言葉を聞くと、もしこれがイエス自身から出てきたものとすれば、人間としてなにか大変不遜な感じがするのはないでしょうか。自分が神と「一つ」だとはっきり言っているのですから。イエスが十字架に追いつめられたのは、こうして「神を冒涜する者」と受け取られたからです。しかし私は、これらの「イエスは・・・・と言った」という文体はとりあえず、福音書記者ヨハネがイエスについて語った信仰告白と受け取っておいてよいのではないかと思うのです。
その上で、福音書に残されたイエスの言動を自分のなかで醸成し、繰り返し吟味してみること、内村鑑三の言葉を借りれば「実験」してみること、そういう作業(これが祈りにつながることは後に詳述します)をたんねんに続けていくことによって、ヨハネの告白にどういう根拠があったのか、理解できるのではないかと思うのです。

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神の御心  

安息日規定はモーセの十戒にある最重要な律法です。いわばユダヤ教を代表するものです。ということは、このイエスの言葉は、「律法は、人のために定められた。人が律法のためにあるのではない」と読んで差し支えないでしょう。
これを現代のわたしたちの感覚に置き換えて、「法律は人のために定められた。人が法律のためにあるのではない」と言ってしまえば、「そんなことは当たり前だ」ということになります。しかし、イエスが現れた当時のユダヤ社会は、そういう感覚ではまったくないのです。安息日規定ほか何百とある諸々の律法を金科玉条のごとく厳密に守ることこそ、神との契約(旧約)の誠実な履行であり、ついにはイスラエルの(政治的)救い──ローマからの解放をもたらすものなのだ、という信念が一般的だったのです。まさに「人が律法のためにある」のが当たり前の社会だったわけです。
ですから、安息日に片手の萎えた人をいやした──働いたイエスを見て、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(マルコ3:6)という記述は、けっして誇張ではないし、イエスに対する彼らの単なるやっかみでもないのです。イエスはそれまでのユダヤ教を根底から否定し、社会の秩序を乱す過激な危険人物と受け取られても仕方なかったわけです。このことが、のちにイエスが十字架にかけられる宗教的・政治的理由なのです。
とはいえ、ユダヤ人が「神の言葉を聞く」こと=あらゆる律法の厳守と受け取ったのに対し、イエスは「律法などどうでもいい」と言ったわけではありません。律法の根底にある神の御心(意思)、また、律法を守ることの根底にある人間の心を問題にしたのです。
私たちが今手にしている新旧約聖書に収められているたくさんの文書。その執筆年代には1000年もの幅があり、著者も書かれた文化的背景も様々です。しかしこの2000ページにも及ぶ分厚い合本のなかに脈々と流れ、通奏低音の響きのように全体として私たちに指し示しているものがあります。それは、神は人間に常に呼びかけ、愛を持って私たちの日常に介入してくるという事実です。この一点だけは、旧約から新約を通して否定することのできない主張です。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1~2)
旧約以来の神の言葉はイエスに委ねられ、そればかりでなく、イエス自身が神の言葉(ロゴス)となって、現実世界のなかで神の国到来の徴として奇跡を行い、罪を赦し、病人を癒したのです。神の創造的な言葉は、イエスにおいて、イエスによって、この現実世界・歴史のなかに介入し、活動し、地上に救いをもたらしたのです。その喜びの知らせが、「福音」です。
「わたしが天から下って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心とは、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:38~40)
神の言葉としてのイエスの生涯に一貫しているもの、それは神の御心を行うことでした。
前述したように、イエスは神の前に完全に透明な水晶のような方でした。神に対して完全な自己相対化──絶対無化がなされていたがゆえに、神の意志をそのまま実行することができたのです。それが実現できたのは、キリスト信仰においては、歴史上イエスただ一人だけである。それが、「イエスが唯一の救い主(キリスト)」というときの「唯一」の意味です。

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神の言葉を聞く  

上に述べてきたように、イエスに対する最高のもてなし──イエスへの隣人愛は、イエスの「話に聞き入る」ことでした。イエスをキリストと信じる信仰に立つならばそれは、「神の言葉を聞く」ことに相当します。
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)と言いました。この句に対する『マルコ』の並行箇所では、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:35)と記されています。また、『ルカ』の別の箇所(L資料)でイエスは、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(11:28)とも言っています。『ルカ』の文脈では、「神の言葉を聞く」ことは、具体的な愛の行いの前提になっているのです。
マルタは、いわば善意の思い込みにより、〝行いの愛〟に先走り、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」、その結果「多くのことに思い悩み、心を乱して」しまいました。それは、まず「神の言葉を聞く」という大前提が欠けていたからなのです。
考えてみれば、「神の言葉を聞く」ことは、イエス以前のユダヤ教でも第一のこととされていました。有名な「シェマの祈り」は、次のように始まります。
「聞け(シェマ)、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)
日本では、百聞は一見に如かず、といいますが、ユダヤ教では「見る」ことよりも「聞く」ことの方が五感のうちで重視されているという話を昔、ユダヤ教の研究者から聞いたことがあります。まず神の言葉を聞き、それに忠実に従うことがユダヤ教の根本にあったのです。そして旧約では、その「神の言葉」とは具体的に、十戒以下の様々な律法を守ることだったわけです。
ところが、ファリサイ派や律法学者はいわゆる形式的律法主義に陥っていったのです。イエスは彼らを厳しく批判しました。
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」(ルカ11:42)
「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」(同11:46)
律法を形式的に守っていることに留まって、その根本に流れているはずの神への愛や人に対する憐れみを欠いてしまったのです。
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)
いわゆる「安息日論争」でのイエスの言葉です。ちなみにこの言葉は、相当疑り深い聖書学者でも、間違いなくイエス自身の口から出たものだと認めている、数少ない言葉の一つです。ということは、イエスの教えの独自性が色濃く出ている言葉だと判断してよいでしょう。

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マルタとマリア  

ルカによる福音書 / 10章
38:一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

39:彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

40:マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41:主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

42:しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

姉のマルタは、イエスを迎え入れ、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」います。一方妹の「マリアは、主(イエス)の足もとに座って、その話に聞き入って」いました。そこでマルタは、イエスに言います、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。
マルタが一生懸命していることは、イエスに対する愛の実践といってよいでしょう。彼女の行為自体は、相手に最もよいと思われることを迅速に実践した「善いサマリア人」の行動に類比できます。けっして非難されることではありません。しかし問題は、その愛の実践のさなかで彼女が抱いている思いです。マルタがイエスに言った言葉には、〝自分は愛のために一生懸命働いているのに、妹のマリアは何もしようとしない・・・・〟という不満・非難がこもっています。
こうした思いは、現代の私たちにも充分理解できるものです。自分が正しいと信じ、これこそ愛だと思って努力しているとき、そのことに気づかない人、同じようにしようとしない人に対してマルタのように、なぜ「わたしだけ」が、という思い、苛立ちをしばしば抱くのです。
マルタの問題は、彼女のなかに、愛とはこういうものなのだという思いこみ、固定観念があり、それ以外の愛の形を認めようとしなかったことにあります。その根底には、自分(の思いや行い)こそ正しいのだ、という自我があります。その自我が満足するように歩調を合わせようとしないマリアに対して、苛立ちを覚えたのです。厳しいようですが私はやはり、こうした思いにマルタの自己中心性、自我絶対化の危険性を読み取るのです。
「愛は、・・・・ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・・・いらだたず、恨みを抱かない。」(一コリント13:4~5)
善意とはいえ、いわば〝行いの愛〟に焦るマルタをイエスは諭します。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41~42)
このイエスの言葉は含蓄に富んでいます。〝あなたが私のことを思って、あれもしなければ、これもしなければ、と考えてくれるのはありがたい。しかしそのことであなたの心がいっぱいになって思い悩み、手伝ってくれない妹を非難するようになっては、せっかくの愛がほころびてしまうんだよ。むしろ本当に必要なことはただ一つしかない・・・・〟そう優しく諭しているように思えるのです。
注意しなければいけないのは、イエスはけっしてマルタの行動を頭から否定しているのではないということです。それは、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という言葉が結びになっていることから推測できます。もしマリアの行為だけが肯定されて、マルタの行為が否定されるのであれば、「あなたもマリアと同じようにしなさい」と結んだでしょうから。
一方マリアは、イエスの足下に座って、じっとその話に聞き入っています。その姿勢に対してイエスは、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」と言います。イエスが奨励する「ただ一つ」の「必要なこと」、つまりマリアが選んだ「良い方」とは、「主(イエス)の足もとに座って、その話に聞き入」ることでした。それはどんな意味を持っているのでしょうか。
このことをまず、直前の「善いサマリア人」の話との関連で、〝隣人愛〟という視点から考えてみたいと思います。
イエスがあちこちの村々を訪問したのは、福音を宣教するためでした。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(ルカ4:43)
ルカの文脈によれば、マルタとマリアの家を訪れるまですでに、イエスは多くの病人をいやし、弟子たちを選んで各地へ派遣し、自分の死を二度にわたって予告しています(第9章まで)。「時は満ち、神の国は近づい」(マルコ1:14)ているのです。イエスに多くの時間は残されていません。そうした緊迫した、限られた時間の中でマルタ姉妹の家を訪ねたのだと解釈できます。
こうした状況の中で、イエスが彼女たちに心から望んだことは何だったのでしょうか。
たとえば私たちがだれかの臨終に立ち合うとき、何を最期にしてあげられるかを考えてみましょう。それは、しっかり手を握り、最後の言葉──遺言に耳を傾けることではないでしょうか。それが死にゆく人に対する最大の愛なのだと思うのです。たしかに、それで体が元に戻るわけではないでしょう。末期の肉体的苦しみがなくなるわけでもないかもしれません。しかし死に対する恐怖、一人で死んでいかなければならないという孤独感、そうした心の苦しみをいかほどか和らげ、慰めを与えるものなのではないでしょうか。
そう考えるとイエスはやはり、自分の死を前にした短い時間の中で、心から伝えたいこと──「神の国の福音」を熱心に聞いてもらうことこそ第一に望んだのではないか、と思うのです。
隣人としてのイエスに、「マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いて」彼をねぎらおうとしました。それはそれで、イエスに対する愛の彼女なりの精一杯の表現でした。イエスはそれを感謝して受け取っていると思います。しかし、この状況のなかでのイエスに対する最大の「もてなし」──隣人愛とは、マリアのようにイエスの「話に聞き入」ることだったのではないでしょうか。
「善いサマリア人」で見たように、隣人愛とは、「隣人になる」ことでした。しかしその場合、相手が今ほんとうに何を望んでいるのかということを察することなしに、こちらの一方的な考えで良かれと思うことをしていくとすれば、それは善意の押し売りということにもなりかねないのです。これはわたしたちがボランティアをしようとする場合や政府がしている経済援助などに関しても言えることです。隣人愛には、相手の状況を察することのできる〝思いやり〟が必要なのです。
この思いやりの根底にあるものが自我相対化なのだと、私は思うのです。
あの「律法の専門家」は、最初から自分の行動パターンや考え方を正当化して、隣人の範囲を限定しようとしました。つまり自我を絶対化し、エゴイズム(自己中心主義)に陥っていたわけです。イエスはそれを見抜いて、「善いサマリア人」のたとえを語り、自ら「隣人になる」ことを奨めます。それは、「律法の専門家」に対して、彼の自我絶対性に気づかせ、さらに自我相対化を促すものだったのです。〝あなたの狭い自我を中心にあれこれ考えても、けっして救われることはない。あなたの硬い自我がほぐれない限り、あなたは「永遠の命を受け継ぐ」ことはできないんだよ〟そう諭しているのだと思います。隣人愛は、「善いサマリア人」に見られたように自我相対化の結果であると同時に、自我相対化を促す要因でもあったのです。
マルタの場合は、「律法の専門家」のようなエゴイズムを持ってはいなかったでしょう。なぜなら、現在の自分を中心として正当化し、自らは一歩も動こうとしない「律法の専門家」に対して、彼女はイエスのことを思って自分から積極的に行動しているからです。相手を大切にし、相手を中心に考えていこうとする点においては、彼女の自我は相対化しているからです。
しかしマルタは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」「多くのことに思い悩み、心を乱してい」ました。そのため、今目の前にいるイエスが何を本当に望んでいるのか、という視点を持つ心の余裕がなかったのです。その意味で今ひとつ深い洞察をもった〝思いやり〟に欠けていたということなのです。善意ではあってもこの点では、やはりまだ自我の絶対性から抜け出られてはいなかったといわなければならないでしょう。
「律法の専門家」に対してイエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい。」つまり、自らすすんで隣人になるという行為を要求しました。それが彼を自我相対化へと導く最善策だったのです。しかしマルタに対してはどうでしょう。マルタの心中を見抜いていたイエスは、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言うのです。「ただ一つ」の「必要なこと」、つまりマリアが選んだ「良い方」とは、「主(イエス)の足もとに座って、その話に聞き入」ることです。そしてそれこそが、マルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」状態から解放するものなのです。
善意とはいえ、イエスに対する「いろいろのもてなしのため」〝あれもしなければ、これもしなければ〟という焦りは、〝もてなしとはこういうものであるはずだ〟という思い込み、自我の絶対化からくるものです。そして事がうまく運ばず、すぐわきにはじっとして動こうとしない妹がいます。この状況がマルタの焦りと心の乱れに拍車をかけるのです。

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ルカの配置  

ではどうすれば、私たちの自我は相対化するのでしょうか。そのヒントも聖書のあちこちに見いだすことができます。
しつこいようですがもう一度、イエスと「律法の専門家」のやりとりを振り返ってみましょう。『ルカ』のこの箇所は、イエスの教えの中核をなすものであり、キリスト者の生き方に重大な影響を与えるものだからです。
「律法の専門家」の最初の質問は、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」というものでした。ただし、この問いには「イエスを試そうとして」という企みがあります(ルカ10:25)。また、「わたしの隣人とはだれですか」と問い返すときには、「自分を正当化しよう」という意図に立っています(10:29)。つまり、「律法の専門家」には最初から、イエスがどんな答えをしたとしても、それを本気で実行しようという心はなかったのですね。さらに、「善いサマリア人」のたとえを聞いた後も、イエスに、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねられたとき「律法の専門家」は、遠回しに「その人を助けた人です」と答えています。正解は明らかであるにもかかわらず、三人目の「あのサマリア人です」とは言いません。この時点になってもユダヤ人である「律法の専門家」は、サマリア人に対するこだわり、嫌悪、民族的偏見──狭い自我から抜け出てはいません。彼にとってはやはりこれまで学んできた律法や言い伝え、自分の生き方──自我が絶対だったのです。それをなんとか「正当化し」たかったのでしょう。
しかしイエスは、こうした「律法の専門家」の心情を知った上で、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言うのです。「あなたも助けを必要としている人の隣人になりなさい」とすすめるのです。そうすれば「永遠の命を受け継ぐことができる」のだと。
イエスは、愛の根底にスプランクゾマイする心、はらわたがちぎれるほど憐れみを感じる心が必要であることを、十分知っていたはずです。にもかかわらず、「あなたの心が自然にスプランクニゾマイする──憐れみの心が沸くまで待ちなさい」とは言わなかったのです。ともかくも、「行って、あなたも同じようにしなさい」と助言します。
ここに私たちは、自我の相対化が憐れみの心を生み、そこから愛の行為が自然に生まれるということとは逆の経過──外面的な愛の行為がその行為者の内面を変化させ、憐れみの心を起こし、自我を相対化させていくという経過をたどって、ついには救いに至る──「永遠の命を受け継ぐ」のだというイエスの教え・主張を読み取ることができるように思います。
考えてみると、このあたりは私たちにとって大変難しい問題です。前述したように、愛の実践にこだわれば愛が律法化し、けっきょく自我の絶対化を招きます。しかしともかくもイエスが奨めるように愛を実践しなければ、自我は相対化していかないのです。この愛の実践と自我の相対化のジレンマを解決することはできないのでしょうか。もしそれが不可能だとすれば、イエスの教えは矛盾であり、普遍的でないということになるでしょう。普遍とは、いつ・どこでも・だれにでも妥当するものだからです。
この〝愛と自我相対化のジレンマ〟の解決を巡って私は幾度も挫折体験を繰り返しながら長い間、聖書のなかを彷徨してきたように思います。そしてその解決の糸口が意外にも、「善いサマリア人」の話に続く、福音書記者ルカが示した文脈にあることに気がついたのです。まさに〝灯台下暗し〟とはこのことです。
ご存じの読者もいるかと思いますが、今私たちが手にしている四つの福音書は、イエスの生涯そのものを時間の経過に忠実に記録した歴史書ではありません。反対に、嘘八百を並べた創作でもありません。それぞれの福音書記者がイエス死後の口伝やさまざまな資料を取捨選択し、「イエスはキリスト(救い主)である」ということを証言するために、それぞれの視点から編集した、歴史書でも小説でもない「福音書」という特殊な文学形式なのです。
このことを確認した上で、「善いサマリア人」に続けてルカが配置した「マルタとマリア」の話を取り上げたいと思います(ルカ10:38~42)。ちなみに私が確認したかぎり、この二つのペリコーペ(段落)の連続にルカ以後の後世の手が加わっていないことは確実と考えられます。つまりルカは何らかの意図をもって、この二つの話を続けて配置したのだと理解してよいわけです。そしてそのことから得られる結論はおそらく、新約聖書全般にみられるイエスの言動と照合して、けっして矛盾するものではない、というのが私の確信なのです。

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はらわたがちぎれる  

しかし、私は想像するのです、「善いサマリア人」のたとえをイエスから引き出したあの「律法の専門家」は、その後どうしただろうかと。はたしてイエスに、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたとおり愛を実行して、「永遠の命を受け継ぐ」ことができたのでしょうか。
ここで今度は、たとえのなかの「サマリア人」の行動に注目してみましょう。
彼は、「追いはぎに襲われた人」にとって必要な処置を淡々と行い、しかも自分の本来の仕事も忘れず、翌日には名前も告げず出かけて行きます。(ルカ10:33~35)「サマリア人」の姿勢は、いかにも自然体で、隣人愛に対する気負いや恩着せがましいところもまったくありません。たいへんカッコイイわけです。この姿勢の根拠はどこにあるのでしょうか。
キーワードは、33節の「憐れに思い」という言葉です。これは「スプランクニゾマイ」というギリシャ語で、「はらわたがちぎれる」といった、強い意味をもっています。つまり、「サマリア人」は追いはぎに襲われ半死半生の状態になっている人を見て、〝思わず〟手を貸さずにはいられなかったのです。相手がだれか、どういう素性の者か、そんなことを考える以前に、憐れみの感情即行動というパターンをとったのです。「スプランクニゾマイ」は、理性的な判断以前の自然感情です。この強い憐れみの心があったからこそ、自然体で隣人愛を実行できたのです。
そして私は、「スプランクニゾマイ」する心、憐れみの心は、自我が相対化していなければ起こらないのではないかと思うのです。なぜなら仮に、「サマリア人」が自分の用事の緊急性や重大性にこだわって自我を絶対化していたなら、倒れているけが人に気がつかなかったか、あるいは気づいても、あの「祭司」や「レビ人」のように、見て見ぬふりをしたに違いないからです。彼らは、自分たちの意識の中では、神に仕え、神を愛しているがゆえに、(けが人が死んでいるかもしれないので)死体の汚れに触れてはいけないという、祭司の義務───律法に忠実に従おうとしたのでしょう。つまり、どんな状況にあっても律法を守らなければ、という自我にしばられていたのです。
自我絶対化の心を〝かたい心〟にたとえれば、自我相対化の心とは〝やわらかな心〟といってよいでしょう。それは自我が中心にあって「~せねばならぬ」というとらわれから解放された心です。律法主義の対極にある心です。ですから、わたしたちは気をつけなければいけません。「善いサマリア人」のたとえはたしかに〝愛の実践〟をすすめてはいるのですが、だからといって「私は今日こんな愛の行いをした。明日はあんなことをしよう」と愛を数え上げたり、反対に「私は何も愛を実行できない」といって落ち込むならば、それはけっきょくは自我中心の形だけの愛の実践にこだわっているのであって、自我相対化───〝やわらかな心〟からはほど遠いものとなってしまうのです。愛を強引に実行しようとすればするほど、愛の律法主義化───自我絶対化に陥ってしまうのです。
「エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。」(雅歌2:7、3:5、8:4)
この旧約の歌は、直接的には恋人同士の恋愛をうたったものですが、愛というものは自然に熟すのを待つべきもの、と見ている点で、大変示唆に富んでいます。

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愛の宗教  

キリスト教は〝愛の宗教〟と言われるほど、神の愛を説き、同時に私たちに神と人への愛をすすめます。それは、祈りと愛の実行が自我相対化を促し、自我相対化がなされるほど真の愛が実践され、救いに至るという原理を持っているからだと思うのです。ですから、たとえば、「信仰による救い」というときの、その「信仰」とは、自我中心的な思い込みとは全く別のものでなければならないはずです。
こうして〝自我相対化〟という視点に気づき、その視点から聖書を読み直してみると、いままで漠然と読み過ごしていたいくつもの箇所が、自分自身の問題として身近なものに感じられるようになりました。と同時にこの視点に立つとき、具体的な生き方という点で私の心が大変楽になってきたのも事実です。
まず、前述した「善いサマリア人」のたとえに戻って、もう一度考えてみたいと思います。

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愛の結び目にあるもの  

キリスト信仰において、神と人への愛を全うした第一人者はイエス自身です。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリストにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:3~8)
このパウロの手紙に見られるように、イエスにおける神への愛と、同じイエスにおける人への愛の根底にある共通の姿勢は、「へりくだって」「自分を無に」する態度です。謙遜と無心、それは他者あるいは絶対他者に対する自我相対化に他なりません。神への愛と人への愛の結び目にあるものは、この自我相対化だったのです。イエスの言動には、いつでもどこでも通奏低音のようにこの真心(まごころ)が流れていました。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(同9~11)
ここにおいて私たちは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23:12)という天の国=救いの法則を見いだすことができるのです。
しかし注意しなければなりません。自我相対化の問題は、一人イエスだけの問題としてすでに解決済みなのでしょうか。あとに続くキリスト者は、そのイエスをただ信じればいいのだ、ということになるのでしょうか。
イエスは、太陽の光をそのまま透過させる水晶のように、神の愛を完全に体現していました。それは、前述の『フィリピ人への手紙』で見たように、「自分を無にして・・・・へりくだって・・・・十字架の死に至るまで(神に)従順で」あったからです。イエスにおいては、100%自我の相対化がなされていた、つまりイエスにおいては自我相対化を突き抜けて、自我の完全無化というところまで行き着いていたといってよいでしょう。
イエスの弟子たちや原始キリスト者が、〝復活〟という出来事を通して知った〝われわれは救われた。なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ(たから)〟(カール・ラーナー)という救いの原初的体験は同時に、こうしたイエス理解──自我相対化による救いの原理を含むものだったにちがいないと思うのです。

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救いと隣人愛  

つまり、〝永遠の命に入る〟=救いと隣人愛とは、密接な関係にあるということです。
「なぜ人は、隣人を愛さなければならないのか」、それは単に、イエスの教えであるからとか、あるいは掟として書かれているからということではないのです。少なくともそれだけでは、十分な根拠とは言えないのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)
ここで注目したいのは、イエスが〝隣人愛〟を語るときには、必ず〝神への愛〟と同時に、かつ並列に語られるということです。申命記第6章にある〝神への愛〟を「第一の掟」とし、レビ記第19章にある〝隣人愛〟を「第二の掟」として結び合わせ、どちらも「同じように重要である」というのです。隣人愛と神への愛、どちらかが上位にあり、優先されるということはありません。コインの裏表のように密接に結びついているのです。イエスはまた、次のようにも言っています。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)
これをマタイの文脈から、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、「通常の経済的貧者や困窮者でなく、福音の伝道者を意味した」(『新共同訳 新約聖書注解』)と限定的に解することもできるようですが、たとえばカルカッタで貧しい人々に仕えたマザー・テレサは、繰り返し次のように語っています。
「・・・・わたしたちは24時間、飢える人の中で、裸の人の中で、家のない人の中で、望まれず、愛されず、世話されることのない人の中で、キリストと共にいるのです。イエスは言っておられます。「わたしの兄弟のもっとも小さい者たちにしたのは、すなわちわたしにしたのである。」(植松功訳『祈り』サンパウロ 17頁)
彼女がこう語るとき、そこには宗教・宗派をはじめ、相手を限定する何の制約もありません。前述の『ルカ』第10章で、「追いはぎに襲われた」ユダヤ人の「隣人になった」のは、同胞の「祭司」や「レビ人」ではなく、犬猿の仲にあったサマリア人でした。
マザー・テレサや「善いサマリア人」の行為はまさに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言ったイエスの教えそのものの実践であったといえるでしょう。そして、こうした隣人愛が「すなわちわたしにしてくれたこと」=神への愛なのだ、ということなのです。

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第二の違い  

 「金持ちの男」には、「(それでも)君には一つ欠けているものがある」といって、財産を捨てることを勧めるイエスだった。
 ところが今度は、「(神と隣人を愛するというのはたしかに)正しい答えだ。(あとは)それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」という。
 でも考えてみれば、「持ち物を売り払って、貧しい人に施す」ことと「愛を実行する」こと、共通しているのは、どちらも本人の「具体的行為」を要求していること。
それからどちらも、結果的に誰かを助けることになる、ってことじゃないかな。
 
そして三点目。
 「金持ちの男」は、「実行不可能」ということで、引き下がったね。
 一方「律法の専門家」は、簡単に引き下がらない。イエスに問い返す。
 「では、わたしの隣人とはだれですか」(二九節)と。しかも「彼は自分を正当化しようとして」尋ねたと書かれている。
 そもそも、この問答の発端からして、実は「金持ちの男」の場合と設定が違うんだね。
 これを四点目としてもいい。
 「金持ちの男」や「喫茶去」の「修行僧」たちは、なんやかや言っても根は、正直で誠実、相手に学ぼうとする態度で一貫していた。
 ところがここの「律法の専門家」は、最初からちがう。
 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と尋ねたのは、「イエスを試そうとした」からだという。
 要するに、最初から「律法の専門家」には、謙虚に教えを聞いて、実行する気持ちなんかなかったんだね。
 そういう何もしようとしない「自分を正当化しようとて」「では、わたしの隣人とはだれですか」と質問する。
 そして、イエスは「善いサマリア人」の話をするんだけど、一番最後の言葉を見てみてください。「行って、あなたも(このサマリア人と)同じようにしなさい。」
 これも、おかしな答えだね。というか、答えになってない。
 「律法の専門家」は、「わたしの隣人とはだれか?」と聞いているのだから、理屈をいえば答えはこの「だれ」にあてはまる言葉をいわなきゃおかしい。
 たとえば、「あなたの隣りに住んでいる人」だとか、「同じ民族」だとか・・・・。
 しかしその「だれ」には答えず、「あんたもサマリア人と同じようにしなさい」という。
 「サマリア人と同じ」ということは、どういうことか?
 その答えは前の節、三六節「だれが・・・・隣人になったか」というイエスの言葉からわかる。
 「サマリア人のように隣人になれ」ということだね。
 つまりイエスは、自分が動かないで、自分を中心に半径何メートルまでが自分の隣人、と限定するような発想自体を、否定してるんだね。
 こういうと、勘のいい人は、もうわかると思う。
 そう、「律法の専門家」の最大の問題は、いじわるをしてイエスを試そうとしたことじゃない。そんな小さいことは、イエスにとってはどうでもいいこと。
 ポイントは、「律法の専門家」の発想が、根本的に「自分が」中心、自己中心性にあるということなんだね。
 「だれが自分の隣人か?」という問い自体が問題だということです。
 「自ら進んで困っている人の隣人になっていく」ということは、その自己中心性を離れろ、ってことなんだね。
 そうすると、この「善いサマリア人」の話も、前二つの話、「金持ちの男」の話と「喫茶去」とやはり同じ、自我の相対化、というテーマが語られていることがわかります。

そして、自ら「隣人になっていく」ことが、「神を愛すること」とともに「永遠の命を受け継ぐ」ための要件になっているのです。

<それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。>(10:28)

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善いサマリア人  

三番目の話をします。第三福音書『ルカによる福音書』一〇章からです。

25)すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
26)イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
27)彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
28)イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
29)しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30)イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31)ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32)同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33)ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34)近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35)そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36)さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37)律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

この「善いサマリア人」のたとえのなかで、「律法の専門家」は、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、イエスに聞きます。
この問い、第一話の「金持ちの男」と同じだね。第二話「喫茶去」の「修行僧」たちとも共通する。
ところがこの問いに対してイエスは、「金持ちの男」のときとは、ちょっと違う態度をとるんだね。
「金持ちの男」のときは、イエスの方から「『殺すな、姦淫するな・・・・』という掟をあなたは知っているはずだ」(マルコ一〇・一九)と言った。
でも今度は、本人に答えさせている、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と。
それで「律法の専門家」から返ってきた答えは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」
そしてイエスは、それを「正しい答えだ」と肯定する。
ここで、おや?って思わない?
「金持ちの男」には、「永遠の命を受け継ぐには、」「殺すな、姦淫するな・・・・」と答えておいて、今度はちがうじゃないかと。
ここが第一の疑問。これをどう考えればいいのか。

いま問題にしている「善いサマリア人」のたとえは、『ルカによる福音書』にしかのっていないんだけど、実はそれに近い話が、『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』に載っています。
『マルコによる福音書』一二章と『マタイによる福音書』二二章です。
それで『マタイによる福音書』にはこう書いてある。

<34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38これが最も重要な第一の掟である。39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」>

 この文脈では、すべての掟が、神を愛し、隣人を愛する、という二つ、というか一つの掟に集約されるんだ、とはっきり書かれているね。
 福音書以外で新約聖書に収められているパウロの書簡にも、こう書かれています。

<互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。>(『ローマの信徒への手紙』一三・八~一〇)

 だから、「金持ちの男」のときにイエスが答えたモーセの十戒も、当然この「愛」という一点に集約されているわけです。

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良寛の心  

話を戻します。
これまで、「金持ちの男」、そして「喫茶去」という二つの話から、〝自我相対化〟こそが幸福への道だ、ということを見てきました。

うらを見せおもてを見せてちるもみじ

これは、良寛が死の床で口ずさんでいたといわれる句です。
わたしが尊敬している井上洋治神父は、この句を次のように解説しています。

<秋の夕日をうけて、一枚のもみじが裏を見せて表を見せて散っていきます。その無心に散っていくもみじは、わたしたちのように表を見せて人にほめられたいとか、みどりの芝生に落ちて美しく死にたいとか、そういうことはまったく考えず、ただ無心に秋風におのれを任せきって散っていきます。もみじがもし一生懸命みどりの芝生に落ちようと努力して、みどりの芝生に落ちたとしても、そのもみじは、たかだかおのれの美しさをしか示してはいないでしょう。すべてを任せきって、どぶの中に落ちたもみじは、確かに泥まみれになり、みにくい姿であるかもしれません。しかしそのもみじは、さわやかな大自然の秋の生命を、秋風を、わたしたちに告げていてくれるのだと思います。>(『福音書をよむ旅』三三二~三三三頁)

わたしたちは、「俺が、俺が」といくら自己主張したところで、たかが知れているのです。
むしろ、たとえ人知れず、「みにくい姿で」一生が終わったとしても、「すべてを任せきって」まっとうした人生は、「さわやかな大自然の」「生命を」、「風」を──神の命を最大限に表現するものなのだというのです。
その〝泥まみれのもみじ〟としての生涯をまっとうした人こそイエスであるとして、井上神父は次のように結んでいます。

<孤独と屈辱と苦悩の中で、しかも最愛の弟子たちからも裏切られて、ひとり盗賊の間で死んでいった先生イエスさまの生涯は、確かに人間の目から見ればみにくい失敗と挫折の生涯としか見えないかもしれません。しかし、福音書の記者たちが告げるように、その生涯こそは、神の御子として御父の限りない悲愛の息吹きを、わたしたちの救いを告げているのだ、それが福音書の記者たちが語ろうとした神髄であったと思います。>

人間の歴史の中で数多く繰り返されてきた宗教戦争――「聖戦」と称して神の名のもとに殺し合いが正当化されてきました。
この過ちの根本はどこにあるのでしょうか。
それは、神の名を借りて自我の拡大をはかろうとする人間の罪にあるのではないでしょうか。
本来、宗教とはその正反対の姿勢を教えるものなのだと思うのです。
キリスト教の専売特許と思われている教えに「隣人愛」があります。
しかし私はあるとき、教え子から大変まじめに、「では、なぜ、人を愛さなければならないのですか?」と質問を受けたことがあります。
人を愛そうとすれば、裏切られ、利用され、けっきょく損をするだけではないのか、というわけです。
この問いにキリスト者は、どう答えるのでしょうか。
「それはイエスの教えだから」あるいは、「神は愛だから」と答えるのでしょうか。
たしかに聖書には、そのように書いてあります。

<あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたし(イエス)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。>(ヨハネ一三・三四)
<愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。>(一ヨハネ四・一一)

しかしこうした答えは、キリスト者に対しては愛の根拠とはなりえても(事実、これらの言葉はすべて、新約時代のキリスト者同士の文書で語られているものです)、一般の人たちにはもうひとつ説得力に欠けるものなのではないでしょうか。
現に、昨今の青年たちの間では、「なぜ人を殺してはならないのか? なぜ自殺してはいけないのか?」といったことが、まじめに問題とされているような状況なのです。

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〝天国〟とは  

〝あの世〟と〝この世〟の話が出てきたところで、もうひとつイエスの大事なメッセージを見ておきましょう。

<時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。>(マルコ一・一五)

これは、イエスが公生活のはじめに宣べ伝えたものとして、福音書に記されている重要な言葉です。
ここで「時」というのは一時間、一日、一年・・・・というように均等に時計で区分できるような物理的な〝時〟(クロノス)ではありません。
神の計画のなかで定められている、いわば救いの〝時〟(カイロス)を意味しています。
ですから「時は満ちた」を敷衍してみると、〝今や、救いという重大で濃密な時が海辺に潮が満ちるように押し迫ってきた〟というようなニュアンスになります。
次の「神の国」(バシレイア)というのは神が王(バシレウス)として支配する〓神の支配、すなわち神の救い・正義・平和が実現することを意味します。
『口語訳』の『マルコ』では、<時は満ちた、神の国は近づいた。・・・・>となっており、〝時が満ちる〝ことと〝神の国が近づく〟こととが並列に訳されています。
時が満ちてからその次にはじめて神の国が実現するのではないのです。
つまりこの二つのことがらは同時進行なのです。
ですから「時が満ちた」ということは、この歴史世界のなかにすでに「神の国」〓神の支配がはじまっている、ということになります。
「神の国」は、『マタイ』では「天の国」と表現されている言葉と同義です。
キリスト教で一般的に「天国」と言うとき、〝あの世〟〓彼岸の世界を指すことが多いのですが、しかしそれはあくまでも神が完全に支配する国〓「神の国」の一部を意味しているにすぎません。
けっして死んでから後にはじめて入る所ではありませんし、現世の生活とまったく関係なくある日突然実現するものでもないのです。

<神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。>(ルカ一七・二〇~二一)

この句は、イエスの神の国宣教に対して彼に反対するファリサイ派が、「あなたは神の国が来る来ると言い回っているが、いったいそれはいつ来るのか」という質問に対して答えたものとされています。
前半の「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」というのは、神の国〓神の支配が〝ここからあそこまで〟というように、空間的に限定できるものではないこと、あるいはファリサイ派のように律法を形式的に遵守したからといって実現するようなものでもないことを意味しています。
しかしだからといって後半の「神の国はあなたがたの間にある」という句を、神の国が単に精神的な心の中の問題――いわば〝気の持ちよう〟のようなものとして解釈するならそれはイエスの宣教した〝神の国〟のリアリティを正しく伝えるものではないでしょう。

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神の国・永遠の命・救い  

ここでちょっと、聖書特有のキーワードについて触れておきたいと思います。
今とりあげている『マルコ』本文にある「永遠の命を受け継ぐ」とか「神の国に入る」という言葉を、ぼくは敷衍して、「いきいきと生きていく」って訳しているのに気がついただろうか?
いきなり「永遠の命」と聞くと、現代のきみたちはたぶん〝死んでからあの世で永遠に生きること〟ってな発想をするんじゃないかな。
そういう意味もないことはないんだけど、それだけじゃあまりにも一面的な解釈に過ぎる。
来世が大事であってそのためには現世の生活はどうでもいい、という発想はもともと、ユダヤ教にもキリスト教にもありません。
むしろ現世の生活・生き方のなかで播かれた種が来世で花開き完成する、といった考え方をする。
つまり、この世とまったく切り離されたかたちで、あの世、天国(神の国)、永遠の命があるわけじゃないんだね。
そのうえで、「神(天)の国に入る」、「永遠の命を受け継ぐ」、「命に入る」、「救われる」といった表現は、およそ同じような意味だと思っていいと思います。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ八・三六~三七)

ここにいう「全世界」とは、世界中のモノ――カネ・地位・名誉等々をさすだけではありません。
たとえば純粋に精神的営みと考えられる学問研究や趣味のようなものであっても、要するに〝本来自由な主体的であるべき自己〟の命を見失わせるようなものすべてを言っているのです。
また「命」とはこの世の命というよりは、〝永遠の命〟を意味しています。

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自我のこだわりが天国を閉ざす  

同じように、「金持ちの青年」にイエスが言いたかったこと、それは、こういうことじゃないかな。

君はたしかに真面目で、正直に道を求めている。たしかに先祖伝来の律法も怠りなく守っていることだろう。しかし、その純粋ではあるけれど、「おれ」はこれだけ頑張ってる、「おれ」はこれだけ施している、そういう心の根底にある「おれ」意識、自己中心性、それが砕かれなければ、ほんとうの救いはないよ。
それが証拠に、そういう君が当然のように親から継いでいる財産、それを全部捨てられるか、考えてごらん?

「喫茶去」は、禅師が三人のお坊さんの自己中心性を突いた所で終わっていた。だから、そのあと、彼らがどうしたかは、わかりません。
でも福音書の「金持ちの男」は、ここで立ち去っちゃうんだったね。

 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである(『マルコ』一〇・二二)。

 やっぱりちょっとかわいそうだけど、このあと「その人」がどうしたかは、書いていない。
 でもイエスは彼を「慈しんだ」んだから、きっとその寂しそうな後ろ姿を、あたたかく見守ってはいたんじゃないだろうか。
そして、そのあと、弟子たちとの問答が続く。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(二三節)

ここも、「財産のある」こと自体が、問題じゃない。
現にイエスの弟子には、たとえば「アリマタヤのヨセフ」などというお金持ちもいたしね(『マタイ』二七・五七)。
「財産のある者」が、あの「金持ちの男」のように、財産へのこだわりを捨てられないということ。
ほかのどんな掟でも、一〇〇パーセント守り、すべてをなげうったようにみえても、財産だけは捨てられなかった。
その一線、財産へのこだわりというのは、すなわち自我へのこだわりなんだね。
ちょっとむずかしい言い方をすると、無自覚な自我の絶対化が、具体的に財産のこだわりとして、表層意識に自覚された。
自我が絶対化し、自我にがんじがらめになっているから、「神の国に入るのは、なんと難しいことか」と、イエスはいうのです。
それよりも、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とまでいう。
これはイエス特有の誇張表現。ユーモアと皮肉も混ざっている。
これを聞いて弟子たち驚く。
なんで驚くかというと、さっきのぼくの敷衍訳でわかるだろうけど、当時のユダヤ社会では、お金や財産は、その人のよい行いに応じて神様が、ごほうびとして与えたものだという社会通念があったんだね。
つまり、財産を持っているってことは、善人の証明みたいなことになっていたわけ。
それをイエスは、否定するようなことを言ったから、弟子たちは仰天したんだね。
今の時代だったら、やたらに財産持ってると、「なんかあいつ、悪いことでもやったんじゃないか?」って勘ぐられちゃうかもしれないけど。
だから、財産を持っている善人が永遠の命を受け継げない、神の国に入れないっていうんじゃ、「それでは、だれが(いったい)救われるんですか?」ってことになるわけ。

<イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」>(二七節)

「見つめて」というんだから、さっきの「らくだが針の穴・・・・」のたとえのように、ここは、皮肉とかユーモアというレベルじゃない、イエスの確信を表明しているといっていい。
二一節で、「金持ちの男」に対しても、彼を「見つめ、」慈しんで言ったね。
イエスの真剣さ、誠実さがでている。
「人間にはできないが、神にはできる。」何ができるか?
第一には、いま問題の中心になってる「財産のある者(二三節)、金持ち(二五節)が神の国に入る」ことだね。
金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりむずかしいのに、神様ならそれを可能にしてくれる。なぜなら「神はなんでもできるからだ。」というわけです。
これ聞いたら、お金持ちは喜んだろうねー(笑)。
じゃあ、貧乏人は最初からお金がないから、神の国に入れるか、っていうと、そうでもない。
現に、旧約聖書には、さっきいった、富が神からの恩恵のしるし、っていう発想があったのと同時に、富む者は不正、貧しい者は正しい、っていう発想もみられる。
でも、さっき、財産を捨てること、目をえぐりだし、手足を切り捨てることが、すなわち、神の国に入ることとイコールじゃない、っていうのを見たことと同じ。
おれは貧乏だから大丈夫、ってなわけじゃない。
それは、今の文脈の中からも読みとれる。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(二三節)
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。(二四節)
金持ちが・・・・」(二五節)
「それでは、だれが救われるのだろうか」(二六節)

二三,二五節は、たしかに、金持ちを問題にしている。二六節は、当時のユダヤ教の常識から言って、善人の証明である金持ちが救われないのなら、いったい「だれが救われるのか」という疑問だったね。
だけど、これらにはさまれた二四節のイエスの言葉は、金持ちに限定した言葉じゃない。金持ちはもちろん、そうじゃなくても一般的に「だれでも、神の国に入るのはむずかしいのだ」と解釈した方が妥当だと思います。
それは、金持ちだろうが貧乏人だろうが、「おれ」―自我意識、自己中心性が邪魔をしているからです。
自力で、「おれが、おれが」といってる間は神の国に入れない。
ついつい前に出ようとする自分を、そっと脇へのけて、神に全幅の信頼を置く。
「神様、どうぞよろしくお願いします」っていう心。
それが、

「人間にできることではないが、神にはできる。」(二七節)

という意味です。

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恐い言葉の文脈  

同じような話が、ほかにもある。
たとえば、福音書の他の箇所に、こういうのがあります。

「・・・・もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」(『マタイ』一八・八~九)

なんだか、おどろおどろしい言葉だね。こういうのが、イエスの言葉として残されているんだね。
しかしこれも、だからって、手足をちょん切ったり、目をえぐり出せば、それで「命にあずかる(救われる)」ことができるか、っていうと、どうもそうじゃないらしい。
実際、中世にはいたんですよ、そういう、文字どおり生真面目っていうか、ほんとうにちょん切っちゃった人が!

この点は、あとでも述べるけど、聖書を読むとき大事な点なので、まず簡単に触れておきます。
福音書の記事は、大きく分けると、二つの種類がある。
<物語伝承>と<言葉伝承>。
だいたいは言葉伝承の方に、イエスの厳しい姿勢が多く伝わっています。
ただ、ここでも、どういう状況のなかでその言葉が語られたか、ってこと=文脈をよくみなきゃいけない。
そうじゃないと、ある言葉だけをポンと取り出して、「これじゃキリスト教は厳しくてついていけない」っていうことになりかねない。
 
右の恐ろしい言葉の場合、イエスが、目をえぐり出したり、手足を切ることそのものを要求してるんじゃないということは、この言葉が置かれた文脈をみれば、わかります。
まず、この言葉の直前、つまり『マタイ』一八章の最初の所を見てみよう。

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(一~五節)

つまり、「天国で一番偉い者はだれか」という弟子たちの質問に対して、それは、「自分を低くして子供のようになる人」だとイエスが答える。
で、そういう「一人の子供を受け入れる者は、わたし(イエス)を受け入れる」のと同じだ、というのです。
そして、そういう子供のように「小さな者の一人をつまずかせる者は、・・・・不幸である」(六~七節)。そういうことをするくらいなら・・・・と、さっきの恐ろしい言葉につながっている。
さらに、この言葉のあと、一〇節からは、次のように言っています。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちはこれらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔(みかお)を仰(あお)いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心(みこころ)ではない。」(一〇~一四節)

もう明らかだね。イエスがいいたいことの中心は、「手足をちょんぎれ」ってことじゃなく、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」ということです。
取るに足りないように見える「小さな者」を軽んじてはいけない、つまずかせるな!
実はそれができたとき、あなたも救われるんだよ、といってるわけです。

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自我を相対化する  

もう一度、「金持ちの男」をノックアウトした、イエスの言葉に戻ります。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)

だったね。
「あなたに欠けているものが一つ」っていうのはこの場合、「あんたは、根本が欠けている」ってことでしょ。
いろいろ同等にあるなかの「一つ」じゃないんだね。
決定的なものこそ、欠けている。それはつまり、自己が相対化していない、ということ。「おれ意識」でがんじがらめだってこと。
だから、気をつけなきゃいけない。この言葉だけ読むと、「欠けているもの」=「持ち物をすべて貧しい人に施すこと」と思っちゃう。違うと思う。
それは、こう考えれば明らか。
つまり、文字どおり持ち物を全部売り払って、すっからかんになって、人にあげて、イエスについていけば、この人は救われただろうか?ってね。
どうも違う感じがする? 逆は必ずしも真ならず。

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期待はずれの言葉  

そして第二の「期待はずれ」の問題。
「道を教えてくれ!」という気持ちに対して、「まあ、お茶でも飲め」なんて、間が抜けちゃうよ。
さあ、ここで、あの「金持ちの青年」の話でいった、ジャブとノックアウトを思い出さないかい?
そう、イエスが「金持ちの青年」の自我意識を叩くために、「おれは善い先生じゃない」「君は、持ち物を全部売れ」っていったね。
どちらも青年にとって意外で、期待はずれの言葉だった。
ぼくはこれと同じ事を、「禅師」はやったんだと思うんだ。
三人のお坊さんたちは、ものすごい努力家であるゆえに、そういう自分を絶対化し、正当化し、当然そういう自分にふさわしい言葉と待遇を期待する。
それをまず、へし折ること。自我をくつがえすこと。
「禅師」はそれをもくろんだ。
もっとやわらかい言い方をすれば、彼ら三人のがんじがらめの自我に対して、「禅師」は一服の茶を、あたかも鎮静剤として処方した。
そういう言い方もできるかもしれない。
イエスが、青年を「見つめ、慈しんで言われた」ように、禅師の目はおそらく、「お前さんがた、そうあわてなさんな。そんなに気負っていては見えるものも見えないぞ」と、やさしく諭すようなまなざしじゃなかったかな。
それを、言葉でなく、お茶をさしだして示した。
さすが、不立文字――悟りは心から心へ伝わるとして文字や言葉をしりぞける――の禅だね。

「おれが、おれが」と自我が勝っているうちは本当の道は見えない、自我が一歩退いたところで見えてくるものがあるということです。
というわけで、この「喫茶去」という話は、「金持ちの青年」の話とすごく符合する、ってことを言いたかったのです。
洋の東西を問わず、どんな場合にも自分をともかく、ひとまず脇に置く――自我の相対化――ってことが、幸せになるためにはどうしても必要だ、という教えを学べると思います。

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やはり「おれ」意識が問題  

まず、同じ言葉をかけられたってことは、この人たち、立場や境遇がちがっても、根っこに同じ問題を抱えていたんじゃないか、って思うんです。
それは何か?
ズバリ!ボクはそれが、あの福音書の「金持ちの青年」と同じ、強烈な自我、「おれ」意識だと思うんです。
この話を読むかぎり、三人のお坊さんたちは、みんな真面目で、すごい努力家だよね。
どんな苦難もこえて道を求めてきた二人の「修行僧」たち。
でも彼らには、「おれはすべてをなげうって、あなたに会いに来たんだ」という気負いが感じられます。
とくに「二番目の修行僧」。彼には、「初心のあいつより俺の方が少しはましな・・・・」というおごりがなかっただろうか。
そして「院主」さん。
彼が「禅師」にした質問の底には、「おれは修行を重ねてやっとここまできた。今も忙しい毎日のなかで寸暇を惜しんで頑張っている」という思いが感じられます。
努力そのものは、もちろん否定すべきものじゃない。
学校だって、親だって、君たちに「努力しなさい」と教えている。ボクもそう思う。
しかしそこに大きな落とし穴がある。
自分が頑張って努力していると、知らず知らず、だんだん努力が一番、努力の量で人間に序列をつけていく――
あいつより俺の方が、俺はあいつより・・・・あげく、努力しない人間はダメなやつだ!
努力を絶対視するとそういうことになりやすい。
これ、実は努力だけじゃない。
学校のなかにもある。勉強も掃除もそのものは奨励すべきものだよね。
でも、勉強が絶対、掃除が絶対、となれば、おかしくなる。
絶対というのは普遍(時間や場所をこえている)ってことだよ。
ボクは、人間の営みには絶対ってのはないと思ってる。
どんな場合にも、時と場合がある。
勉強や掃除をいっしょうけんめいやること自体、立派なことだけど、それでいつでもどこでも勉強、掃除。
あげくやらないやつは、おかしな奴だ、おれはやってるのにあいつはやらない。
そんな人間は駄目な奴だ!
そういう意味で、いっしょうけんめいな人ほど危険だ、ともいえる。
ボク自身、カトリックというキリスト教の信者の一人なんだけど、自分に対する戒めも含めていえば、宗教は最も危ない!(笑)
なんせ神様、仏様を絶対視するわけだから。
ここがむずかしいところ。
神様、仏様のため、と思って努力していたことが、いつのまにか自分が中心になって神様の座についてしまう――。
このことには、またあとで述べましょう。

「喫茶去」にもどります。
「院主」さんは、そういう努力家だったからこそ、一番目と二番目の、努力段階のちがう修行僧に、同じ答えをするかがわからなかった。心のなかで、努力の序列をつくっている。
というわけで、三人ともが、それぞれ心の中に、「おれが、おれが」という自我をどうしようもなく抱えていたんだと思います。
ボクは、こういうふうに問題の根っこが同じだから、同じ「喫茶去」って言葉を、禅師は使ったんだと思うわけです。

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喫茶去――お茶を一服!  

ここで二つ目の話をします。
「きっさ喫茶こ去」という話です。
この話は昔の中国、唐の時代の話で、名僧じょうしゅう趙州禅師というお坊さんの言葉です。『趙州禅語録』という本にのっています。
以前ぼくが出した『俳句でキリスト教』(サンパウロ)という本に載せた文があるので、それを今、さらにやさしくしながら、話しましょう。(同書二四九~二五〇頁参照)

二人の修行僧が禅師のところに入門してきました。
その一人に、禅師が尋ねます。「あなたは以前、ここに来たことがありますか?」
修行僧は答えます。「いいえ、ありません・・・・」
すると禅師は言いました。「そうですか。まあ、お茶でもおあがりなさい(喫茶去=この場合の「去」は中国語の強調の助詞で「去る」という意味ではなく、しいて茶をすすめる、という意味)。」
そして、もう一人の修行僧にも同じように尋ねました。「あなたは以前、ここに来たことがありますか?」
二番目の修行僧は答えました。「はい、あります!」
禅師は言います。「そうですか。まあ、お茶でもおあがりなさい(喫茶去)。」
このやりとりを見ていた院主(寺の事務を執る僧)が不思議に思って、禅師に尋ねました。「和尚様、かつて来たことがある者にも、ない者にも同じように『喫茶去』と言ってお茶をすすめるのはどういうわけでしょう?」
すると禅師はその質問には答えず、「院主さん!」と呼びました。
あらたまって呼ばれた院主はあわてて「はい!?」と返事をしました。
そして禅師は言いました。「まあ、お茶でもおあがりなさい(喫茶去)。」

仏教のお坊さんが、よく座禅することは知ってるよね。
そのとき臨済宗という宗派などでは、「公案」っていうのを使うんだ。
たとえば、「犬狗仏性有也」(ケンクブッショウアリヤ)!なんてのがある。
ん?
犬や動物にほとけ仏になる性質があるか?って聞いているんだよ。
難しそうだねー。
こういうのを、宿題に出して、座禅しながら答えをみつけてきなさい!ってわけ。
ぼくは禅については門外漢だから、ほんとうの答えはわからない。そもそも何か一般的な答えが用意されているわけではないらしい。
この「趙州喫茶去」というのも実は公案の一つなっているのです。
だから、その本意は、きっと相当の修行を積まなければ解けないんだと思う。
でもここでは、お坊さんには怒られちゃうかもしれないけど、ちょっと教材として拝借しちゃいます(笑)。

たぶん最初に出てくる「修行僧」は、若い人だと思う。
人づてに聞いていた、あこがれの「禅師」のところに、山を越え谷を下り、ようやくのことでたどりついた。
一刻も早く教えを聞きたい、そういう気持ちだったんじゃないかなあ。
そう、あの「金持ちの青年」を思わせるでしょ。
まじめで、一途な求道者だね。
それから、「二番目の修行僧」は、二度目か三度目の来訪かもしれない。
自分はさっきの初めて来た「修行僧」とちがって、ちょっと先輩格。
「喫茶去!」ではなくって、もうちょっと気のきいた、というか「悟り」に直結した言葉がもらえるかもしれない、そういう期待があったと思う。
そして、最後が「院主」さん。
「院主」っていうのは、お坊さんのなかでは、すごく高い地位の人です。
大きなお寺は、いろんな事務的な仕事があるよね。それを一手にしきっている、責任重大な人。
もちろんそういう合間を縫って、寸暇をおしんで一生懸命修行していたにちがいない。

この話の最大のポイントは、もちろん、繰り返し出てくる「喫茶去」だよね。
なんで同じ言葉を、ちがう三人の人たちに、オウムのように繰り返したかってこと。
禅師さま、バカの一つ覚え、みたいだよ(笑)。
もちろんバカじゃないさ! そこになんかわけがあるはず。
違う立場の人たちに、同じことを繰り返した、ということのほかに、もう一つポイントがあると、ボクは思う。
それは、この「喫茶去」ってのは、訳文みてわかるとおり、「まあ、お茶でもおあがりなさい」っていみだったね。
それを聞いた人たちのまったく期待していない言葉だってことです。
思惑ちがい、「なにそれ!?」って、がっくりくる言葉。
そういうことを、禅師はあえて言ったということに、二つ目のポイントがあるんじゃないかなあ。
つまりふたつまとめると、期待はずれの同じ言葉を繰り返した、っていうことだね。
ここまでの分析?は、たぶんみんな異論ないと思うけど――
さあ、どうしてだろう?
ここからは、想像力の問題。人によって答えはちがってくる。

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「おれ」意識の問題  

ぼくたちはいつも、なにかにしばられている感覚とか、将来への不安、そういうものから自由になることを願っていないかい。
どんな高尚な哲学を持ってきてもこの現実は否定しようもない。
この「金持ちの男」はある意味でぼくたち人間の代表といってもいいんじゃないかな、と思えてくるんです。
まじめに人生を考えよう、もっといきいきと生きていきたい、そういう希望を持ちながら、でもけっきょく「おれ」意識を捨てられない・・・・そこに根本の問題がある。なんか哀しいけど、これがぼくたちの現実なんじゃないかな、って思う。

この話でイエスは、結果的に彼を突き放したように終わっているけど、そうじゃない。
それは、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(21節)という言葉にもあらわれてるよ。この男がけっきょく財産を捨てられない、ってことはイエスはよく知っていたんじゃないかな。
それでも、この男に自分の中の「おれ」意識に気づかせる必要があった。そうしなければ、この人にほんとうの幸せはこない、そう思ったんだろうね、イエスは。
この男が無意識にこだわっていた「おれ」意識。それは、「財産を捨てろ」といわれて、やっぱり「捨てられない」財産へのこだわりとして顕在化、意識化された。気づかされた。

22)その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

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自分に当てはめて考える  

聖書は、文脈(コンテキスト)を読むことが大事だと、先ほどいいました。
でも、一度そういう文脈を学んだら、それだけでは十分じゃないのです。
今度は、それを、現在の自分の問題に引き付けて読まなければいけない。
今の自分に語られているものとして、解釈するってことです。
そういう二段構えの読み方ね。これは、聖書だけでなく、ひろく古典といわれる書物には、みな当てはまります。
そうじゃないと、古典は、ただの昔話で、今の「自分」の生き方に何の意味もない、他人事になっちゃうのです。したがって、退屈で飽きちゃう。
だから、古典は、あの人、この人で、それぞれ多様な読み方があっていいのです。
自分に引き付ける――こういうのを哲学では「実存」っていいます――つまり、実存的な読み方が大切ということ。
その一例として、さっきの話を、ぼくなりに解釈してアレンジしてみたのです。

「金持ちの男」は、神の掟をいっしょうけんめい守って、幸福をつかもうとしました。
原文19節の、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」っていうのは、「モーセの十戒」といって、キリスト教が出てくる母胎となったユダヤ教では、基本中の基本の掟だね。
ユダヤ教というのは、こういう掟=律法を怠りなく守ることで、救いに預かれる、って信じている宗教です。
でもこうした掟をいくらきまじめに守ってみても、どうも今ひとついきいきした充実感がない・・・・。先祖代々の掟をしっかり守れば救われる、と言われてきたのに、どうもちがう感じがする・・・・、とても正直で、誠実な青年の気持ちです。
でもなんでだろう?
ここからはぼくの読み、解釈になるわけだけれど、それは根本的に、自分がいっしょうけんめい掟を守ろうとすればするほど、「おれがこの掟を守る、おれが頑張る、おれ、おれ・・・・」という「おれ」意識にがんじがらめになっちゃっていたんじゃないかと思うんです。
イエスは、そこを突いた。
「善い先生!」という呼びかけに対して、イエスが「おれは違うよ」ってかわしたのがジャブだとすれば、20節「先生、そういうこと(掟)はみな、子供の時から守ってきました」と胸を張って答えたのに対して、今度は21節「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」っていうのは、ノックアウトだね。
でもね、「金持ちの男」に意地悪したんじゃないよ。
それは、21節の「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」という言葉からも明らかだ。
この男を思いやって、彼の「おれ」意識、自我にジャブをかまし、ノックアウトしたんだと思うんです。
そういうふうに、ぼくはこの話を読んでいます。

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想像しながら読む  

この場面をもう一度、想像してみましょう。
「ある人」はイエスに「走り寄って」、「ひざまずいて」、いきなり、「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか。」といいます。
「永遠の命」っていうのがきっかかる。
現代のぼくたちにはちょっと違和感がある、むずかしい言葉だけど、それはこのあとゆっくり見ていくとして、少なくとも、こういう質問の仕方や言葉に、ただならぬものを感じます。
きっとこの「ある人」は、すごく真面目で一途な人だったんでしょう。
それはこの後の18~20節あたりのイエスとのやりとりからもわかります。
人生、いかに生きるべきか、ってことを真剣に考えていたんだろうね。
だからこそ、ともかく早くその解答を「善い先生」に教えてもらいたい、そういう気持ちが強かったんでしょう。
ここから以下、ぼくがこの話を、ちょっと大胆に意訳・ふえん敷衍(意味・趣旨などをことばを付け加えて、くわしく説明すること)して現代的にアレンジしてみます。
もとの『マルコによる福音書』の話と比べながら読んでみてください。
               *
ある金持ちの青年がイエスのもとに来て、真剣な面持ちで尋ねました。
――先生、どうか教えてください。ほんとうに人間らしく、生き生きと生きていくにはどうしたらいいのでしょう。
イエスは答えました。
――きみはすべきことを知っているじゃないか。
青年はいぶかしげに言いました。
――先生、わたしは世間の常識をわきまえ、親の言いつけもすべて守ってきたつもりです。学問を怠らず、目上の人たちにも礼をつくしてきました。しかしなぜか・・・・これでいいのだろうか、これがほんとうの自分の生き方なのだろうか?と、ふと不安に思うことがあるのです。心からの安心感がないのです。
イエスはそんな彼をじっと見つめ、心から同情し、そして言いました。
――きみの気持ちはわたしによくわかる。君は誠実で勤勉だし、心もやさしい。でもきみには一つだけ欠けていることがありはしないだろうか?
――えっ! どんなことですか? いままでのわたしにどんな手落ちがあるというのでしょう? どこかまちがいがあるのでしょうか?
――これから家にすぐ帰って、きみが親から継いでずっと大切にしてきた持ち物を全部売り払って、そのお金を貧しい人たちに分けてしまいなさい。そのとききみはほんとうに自由になるだろう。わたしについてくるとはそういうことなんだよ。
――そっ!そんな?! だってわたしが手にしている財産は先祖がいっしょうけんめい努力して、神様からご褒美として賜ったものではありませんか。それをわたしはずっと誇りに思い、無駄使いもせず大切にしてきたのに・・・・。
こうして青年は悲しい顔をして帰っていきました。どうしても自分の財産を捨てることはできなかったからです。
そのあと、イエスはこのやりとりを聞いていた弟子たちに向き直って言いました。
――財産を持っている者が、それに囚われないで生き生きと生きていくのはなんとむずかしいことだろう。
弟子たちは驚いて言い合いました。
――だれだって自分の才能や持ち物を大切にし、それで自己実現するために生きているのではないか。現在や将来の生活のために毎日いっしょうけんめい努力するのはあたりまえではないか。師はそれをいけないと言うのだろうか・・・・。だとしたらいったいだれが生き生きとほんとうの自由を得ることができるのだろうか? 
こう言う弟子たちの気持ちを、そして日々の生活のために誠実に努力している人たちのことを痛いほどわかっているイエスは、彼らをじっと見つめて言いました。
――まちがってはいけない。努力や才能あるいは財産そのものが悪いわけではない。ただ自分の努力や才能、ましてや財産の大きさでほんとうの自由が得られると思ってはならない。ほんとうの自由、ほんとうに生き生きとした生き方は何にも囚われない心にしか与えられない。あの青年のように、人間はどんなに誠実だと思っていても、意識できない心の奥底で何かしら自分のものだと思い込んでいるものに囚われているのだ。財産も才能もあるいはそれらをみがくために努力しようとする種さえ本来自分のものなど何一つもないのに、それらを自分に根源的なものと思い込んでしまう。そこに自分自身が、無から有を創った神になりかわろうとするエゴイズム〓罪があるのだ。そういう自己中心性があるかぎり人間はけっして幸福にはなれない。
弟子たちはすっかり暗い気持ちになってしまいました。
――では、どう人間が努力しても無駄なのだろうか・・・・。
イエスは彼らをさとすように続けました。
――神から賜ったいろいろな種を大切に育てることは人間の使命であり、それは神様の心にかなったことだ。しかし根本的なものはすべて神からのものであり、その種を開花させ完成させるのも神の働き、神の力によるものであることを忘れてはならない。けっして人間の力で自由が得られると思ってはいけない。人間にできるのは、ほんとうの自由を人間にお与えになりたいと望んでおられる神に協働することだけなのだ。中心はあくまでも神にある。このことをわきまえていれば、けっして人間の努力は無駄ではない。しかし人間はすぐにそれを忘れ、自分の力だけで何とかできると思ってしまうのだ。
弟子たちは落ち着きを取り戻し、表情も明るくなってきました。
――ではわたしたちがその大切なことを忘れないためには、どうしたらいいのでしょう?
 イエスはおだやかに答えました。
――それを可能にするのは・・・・

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都合の悪い言葉ほど史的事実!?  

ところが、イエスはこの呼びかけに対して、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(18節)と答えます。
このイエスの最初の反応は、どうだろう?
すぐ思いつくのは、イエスの謙虚さ、謙遜ってことだね。
「自分は『善い先生』などと呼ばれるほどの者じゃないよ・・・・」という、偉い先生だからこその謙虚さ――。
ただぼくは、それだけのことなのかな? とも勘ぐっちゃいます。
何かもう少し深い意味が隠されてやしないか・・・・どうだろう?

さっきもいったように、福音書というのは、「イエスをキリスト(救い主)」と証言し、またその信仰を強めるために書かれた書物でした。
とすれば、それを書いている著者、つまりマタイやマルコなどの福音書記者にとっても、読者である原始キリスト教団(初期のキリスト教会)の人たちにとっても、イエスは当然、「善い先生」だったはずだよね。
ところがそれを否定するような言葉が、イエスの口から出た――。
これは、「イエスこそキリストだ、神の子だ」と宣言する福音書の趣旨や目的、原始教団の信仰に、あまり都合のいい言葉じゃない。
でも、そういう言葉が福音書には、ところどころ残っているのです。
さっきぼくは、福音書というのは伝記風の信仰書、といったけど、その意味は、ぼくたちが普通にいう「伝記」とはちょっとちがう。
つまり、年表を文章にしたようなかたちで、何年の何月何日に何があって、イエスはこういった、次には・・・・というようなことには、あまり関心が払われていないのです。
むしろ、福音書記者の関心は、「イエス=キリスト」を宣言するために、集めた資料を、けっこう自由に再構成しています。
こういう話を聞くと、たぶんきみたちがすぐ気にするのは、イエスはマリアが処女だったのに生まれたとか、奇跡を起こして水の上を歩いたとか、ただでさえ信じられないのに、そのうえ信仰のために史実をねじ曲げたような本が、いったいどれだけ信用できるか、ってことじゃないですか?
これ、「福音書の史実性」という古くから議論されていた問題です。
ここで奇跡をどう解釈するか、というのはまた別の機会にじっくり考えるとして、こういう福音書、あるいは新約聖書全体の性格から考えると、キリスト教にとって一見都合の悪いように見える記事ほど、史実性がある、とはいえないだろうか。
典型的なのは、ペトロや弟子たちの裏切り。

弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった(『マルコによる福音書』14・50)。

イエスの死後、初期キリスト教会のトップとなっていった弟子たちが、まっさきにイエスを裏切って、逃げてしまった。
こんなことは、どう見ても教会にとって都合のいいことじゃない。権威が傷つくでしょ。
そういうことを、ちゃんと記録しているのです。これは明らかに史的事実だと思います。
同じように、さっきのイエスの言葉、「オレは善い先生じゃないよ」というのも、実際イエスが語ったそのままの言葉なんじゃないかと思います。
当時の教会や信者に都合の悪いような言葉が、イエス自身の口からやはり実際に出て、多くの人が憶えていた。だから、簡単に削ったり、変えたりできなかったと推測されるからです。
それだけに大きな意味を持っていると、ぼくは考えます。
だから、このイエスの否定の言葉をもう少し、つっこんで考えてみたい。単にイエスの謙遜の思いから発した言葉じゃない、ということをね。

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文脈を読む  

ところで、『新約聖書』というのは、今は本屋さんに行くと、1冊になってるけど、最初から1冊の本じゃないんです。27冊の文章や手紙をまとめた合本です。
書かれた時期や場所、書いた人もいろいろです。それをのちの教会がまとめたんだね。
だから、ある言葉だけをとって比較すると、あっちではこういってるのに、こっちでは反対のことを言ってる、ってこともしばしばあります。
そもそも、27の文章や手紙は、今の本やテレビなんかと違って、不特定多数の人を対象に書かれてはいない。目の前の特定の人を相手に書かれています。
だから、書く動機やどういう読者を対象にしたか、あるいは参考にした資料の違いなどによって、表現も変わるのです。。
だから、そうした文脈(コンテキスト)をみなければいけない、ということです。(そしていずれ、それをこえることになります。。。。)
ただ、27書に共通なのは、「イエスがキリスト(つまり救い主)である」という信仰を宣言している書物だってことです。
「救い」とか「信仰」って何か?ということは、また、あとで考えましょう。
今は、そういう趣旨で書かれた『新約聖書』のうち、「福音書」というのは、イエスの伝記のような体裁をとった信仰宣言書、というものだと思ってください。

それから、もう一点。この「金持ちの男」の話とほとんど同じ話が、同じ新約聖書のなかの『マタイによる福音書』19章にも、『ルカによる福音書』18章にもあるのです。
こういうのを「並行箇所」といいます。そしてそれらは、微妙に言葉が違う。
なんでそうなるかというと、三つの福音書――これを「共観福音書」といいますーーのうち、一番古いのが『マルコによる福音書』。だいたい紀元六五年から七〇年代。
ちなみに、イエスが十字架刑で死んだのは、紀元三〇年か三一年です。
つぎに、マタイやルカが自分たちの福音書を書こうとしたときは、八〇年代なのです。ですから、すでに『マルコによる福音書』が出回っていたのです。もちろん手書きの写本ですが。
それを見ながら、マタイやルカが、独自の資料を加えて構成しなおした、というわけです。
ですから、たとえば、『マルコ』17節の「ある人」。
これが『マタイ』では、「一人の男」(19・16)あるいは「青年」(19・20)、『ルカによる福音書』では「ある議員」(18・18)になっています。面白いね。
こうやって、並行箇所を比較しながら読むと、他にもいろいろ面白いことがわかってくるんだけど、今回は、一番古い『マルコ』をメインに、読んでいきましょう。

「ある人が(イエスの所に)走り寄って、ひざまずいて尋ねた」という記述からは、この人のそのときの気持ちが察せられます。
かなり焦りというか、せっぱつまった感じです。
また、「ひざまずいて」というのですから、やっぱりこの人はイエスを尊敬していたんでしょうね。
今まで話したことはなかったんだろうけど、うわさで伝え聞いたりしてイエスのことはだいたい知っていた、すごい人らしい・・・・そんな感じでしょう。
そして呼びかける、「善い先生!」と。やっぱりイエスを尊敬していたことを思わせる言葉です。

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金持ちの男  

まずは、カネの話が出てきたところで、それにまつわる第一の話――
               *
17)イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
18)イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
19)『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
20)すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
21)イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
22)その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
23)イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
24)弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
25)金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
26)弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
27)イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(『マルコによる福音書』10章)
               *
「イエスが・・・・」という書き出しでわかると思いますが、この話は、『新約聖書』におさめられている「福音書」にある話です。
おカネにまつわる、有名な話なんですが、一般には25節の「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」っていうところだけが一人歩きして、こういうところから、「キリスト教ってきびしー!」ってよくいわれます。
う~ん、そうじゃない。いやそういう解釈も一つかもしれないけど、それだけじゃないんだよー!ってなことを、ちょっと言いたい気持ちもあって、この話を最初に選びました。

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社会で生きることの難しさ  

すでに君たちも知ってるとおり、現代ボクらが生きている社会は〝自給自足〟の原始社会じゃない。
つまり、自分が必要とする物やサービス――こういうのを経済学では〝財〟というんだけど、ここでは簡単に〝モノ〟としておきましょう――そういうモノすべてを、自分で生産するってことは、ほとんどないよね。買うのが基本。
資本主義の社会では、〝分業と協業〟によって互いにモノを生産し、それらをしじょう市場を通じて分配し消費する、そういうしくみになってる。
こうした生産・分配・消費の仲立ちをするのが貨幣(カネ)です。
そして原則的には法律に反しないかぎり、貨幣=カネがあればそれを元手(資本)として、〝何でも自由に〟生産し、あるいは自由に買って消費することができるのが、ぼくたちが住んでいる社会です。
さて、この資本主義社会の構造のなかで、ぼくら一人ひとりはどう考え、どう行動するだろうか、ちょっと考えてみたいと思います。
すぐ気がつくことは、こうした社会のしくみのなかでは、「この世のなかカネさえあれば・・・・」という〝拝金主義〟が知らずしらずのうちに蔓延していく、ということです。
それは、カネ自体を崇め奉るということではもちろんありません。
この場合、カネがモノ(ときにヒトも)を〝自由〟に動かしたり、貯めたりできる便利な道具・手段だということです。
平たく言えば〝カネがあれば何かと不自由しない〟ということです。

そうじゃないって言う人もいるかもしれないけど、大人たちが金や地位や名誉に執着するのは、こうした不安からの自由を求めてのことなんだね。
このへんで、最初に出した、カネと自由の問題がからんできます。
こういうカネやモノが、即解決を約束するものでないことは頭では十分わかっているんだけど、これらが〝とりあえず〟何も打つ手のない不安から一時的にも解放してくれそうな気がするわけです。
でも、これを下世話なこと、俗世間的として排除すれば人間の本質を見誤ることになる。
問題はそれから。〝とりあえず〟のことがその分をわきまえず、知らず知らずのうちに〝すべて〟――「目的」そのものとなってしまうことが多いんだね。
本質的に自己目的化しやすい性質がカネやモノにはある。
これらはすべて本来、ほんとうに自由になるための、あくまでも「手段」――通過点であるべきはずだったものだけど、ぼくら人間はいつのまにかそれを目的そのものと化してしまう危険があるわけです。
自己目的化すれば、それをできるだけ効率よく、より多く、より強く求めていくことになる。俗に言う〝欲に駆られる〟という状態です。
人間が本来自由であるべき主体的な自己を失って、欲望に振り回され、コントロールできなくなるわけです。
主客逆転。
もっとつっこんでいえば、人生の主人公はだれかってこと。

こう考えてくると、ここで問題にしなければならないのは、カネそのものではなく、カネと人間の関係、あるいはもっと根本的な問いとして「自由とは何か」また「どう生きれば真に自由になれるか」ってことだと思います。

それをこれから、大きく4つの話を題材にして、考えていこうと思います。

category: 高校「倫理」キリスト教

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ある卒業生の手紙から  

先日、数年前に卒業した教え子から久しぶりに連絡をもらいました。
分厚い手紙――彼女は大学生活を終えて、この四月から社会人になりました。
彼女が君たちと同じ高校三年生のとき、ぼくは彼女のクラスの「倫理」を受け持ったんです。
それがきっかけで、彼女の受験のために、小論文を見てやるようになって、だんだんいろんなことを話すようになりました。
今回の手紙には、大学側のすすめもあって受けた中堅の金融会社に就職が内定し一安心したこと、でもその後の入社研修で、内定時には知らされていなかった早出や残業が当然のことのようにあると聞き、心身とも弱い自分がそうした厳しい環境の中で果たしてやっていけるのかどうか不安になったこと、などが書かれていました。
その上で、「人間はこうしてがむしゃらに働いて、老いて死んでいくのでしょうか。そういう人生に何の意味があるのか改めてわからなくなりました・・・・。」と手紙を結んでいました。
ここで「改めて」と彼女が言っているのは、高校在学中にも何度か〝人生の意味〟といったことについて悩み、相談を受けたことがあったからです。
今はむしろこういう学生は少なくなっているのかもしれませんが、そのときどきの楽しみや遊びを見つけて、それで何の疑問も悩みもなく一生暮らせるかどうか。。。。むしろ彼女のような問題意識は、大人になる過程で、だれでもいつか一度は持たざるをえないのではないでしょうか。
そうした意味では、彼女の直面している問題は、ひとり彼女だけのものではなく、ボクらみんなの問題でもあるといえます。

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janre: 就職・お仕事

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大人になるとき不安が増す  

ぼくは年度末になると毎年不思議な気分になります。
長いようで短かった一年間の授業がともかくも終わったという安堵感。
それから、もっとああすればよかった、こうすべきだったという後悔と反省。
そして、これから始まろうとする新しい学期への期待と不安。。。。そういう感情が入り交じった複雑な心境です。
高校三年生になったきみたちはどうですか? 
やっぱりこの時期、多くの人たちにとって最大の関心事は〝進路〟じゃないですか?
進学するにしても就職するにしても、これからは今までのように〝ともだちとおんなじ〟というわけにはいかない。
自分で自分のことを決めなきゃならない。
それに、首尾よく進路実現したとしても、そこで自分はうまくやっていけるだろうか・・・・そういう不安が期待とともに強くなっていく。
そのうえ、なかには、家庭やからだ、病気の悩みを抱えている人だっているかもしれない。。。。人生、たいへんだよねー。
でも、子供はいつまでも子供でいるわけにはいかない。いずれ、大人にならなければならない。
“大人になる”ってことは、その場その場じゃなくて、将来に見通しをつけて行動できる、ってことだね。ということは、先々を考えて、当然、心配や不安も増えてくる。
だから、自分だけが不安なのだと思わないでください。みんな大人になれば、心配も増してくるものなのです。

category: 高校「倫理」キリスト教

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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求道詩歌誌「余白の風」

南無アッバの集い&平田講座

最後の南無アッバミサ

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