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要約・平田講座12--100回記念特集  

前回まで、テキスト=『心の琴線に触れるイエス』(緑本)p.20からの佐古・井上対談を、引用元の『パウロを語る』まで遡りながら、お二人の神学の違いから、井上神学の特徴を探ってきました。

今回は、その最後の所、p.23「血」の話が出てきた所からです。


<井上「私自身が辟易するわけなんですね。ちょっと、どぎつくて。‥‥

私自身が血というと何か血生臭いという感じで、ちょっと辟易する感じがありますね、正直言って。

だから私はいつも十字架で思うんですけど、復活の、秋の空のような、すうっと澄んだ、平安の中にある十字架がほしいですね。

もし私が本当に芸術家だったら、私はそういう十字架をつくってみたいと思います。

十字架だけで、復活がないでしょう、普通は。

教会の屋根の上でも、十字架だけが立っているでしょう。

私は、あれはちょっとおかしいと思うんです。

復活に包まれていなきゃいけないと思うんです。」


佐古「それはそうです。」


井上「だから、十字架を見ているとき、その十字架のありがたさが、やっぱり後ろの御父の大らかな、それこそ秋の空のような静寂に包まれているというのがいいですね、私はやっぱり。」


佐古「それはよくわかります。井上さんのほうが文学者だね。美意識ですよ。(笑)」(一八六~一九〇頁)


これは、キリスト信仰の根幹である〝イエスによる救い〟をめぐって、佐古・井上両氏の「ニュアンスの置き方」の微妙な違いがよく出ている対話なので、わたしの記憶に強く残っているのです。>(『心の琴線に触れるイエス』p.23~24)



「生臭い血」を強調するのではなくて、「復活に包まれた十字架」、私見ですが、「犠牲」や「贖罪」といわれてきたことを否定するのではないが、それらを包含する「復活」を強調した方が、日本人への伝道には良いという意味かと思います。

「秋の空」「平安の中」「御父の静寂に包まれた十字架」等々、これらは、前回触れた『日本カトリシズムと文学』(戸田義雄編)に載っているシンポジウムの「女の子」の話、そのちょっと前でも、同じようなことを神父様が言っています。

十字架のヨハネ十字架

この絵は、十字架のヨハネの詩集の表紙絵ですが、

ダリ十字架

もう一枚のこちらは、それをヒントに二十世紀のスペインの画家ダリが描いたものです。


十字架、それは大変なことだし、キリスト者にとって大事なことなんですが、それを「たいへんだ!神の子が磔になって、おまえたちの罪のために今も血を流しているんだぞ!」っていうのは、それはそうとしても、どくどく血を流した所で終わるんじゃなく、それを全体としてそっと包む――おまえも大変だったなあ、御苦労さま!っていう感じでしょうか、そういう御父の暖かさ、アッバの安らぎが最後は欲しい、ということでしょう。

こういうのは、キリスト教の変形や異端ではないと思います。

力点や見方の違いです。


【挿話】「変形・異端」といえば、「風」87号でも触れたのでちょっと重複しますが、昔、隠れキリシタンが、長い潜伏の間に、伝えられた聖書を改作したという話があります。

「日本人のキリスト教受容」という点で興味深い話なので敷衍しながら、紹介します。


以下は、河合隼雄さんの『物語と人間の科学』(岩波書店)「隠れキリシタン神話の変容過程」という所からの話です。

たとえば「創世記」の『天地始(はじまり)之事』では、


・原罪が消える――アダムとイヴに「おまえたちは罪を犯したのだから、今から四百年間後悔しろ、そうすれば「はらいそ」に戻す」とデウスがいうのです。

こういうふうにアダムとイヴが許されたり、サタンも徹底した悪にならない。これは、日本人が絶対的な原罪や絶対的な悪を理解し難い、受け入れ難いという心性の表れだと河合さんはいうわけです。


・日本神話の「中空構造」――日本は多神教でいっぱい神様はいるけれども、真ん中にいるアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)は何もしない。真中が空いている。

それに対して、「旧約」では中心にGodがどーんといて、すべてを作る。

そうすると河合さん曰く旧約の「何が正しいとか、何をなすべきであるとか、何がどうだという原理」=創造・律法・善悪などを明確にしようとする心性に対して、日本の場合は、「全体のバランス」がよかったらそれでよろしいと、いうふうになっているわけです。」


つづく


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ことばの力  

今生き026
今生き027


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14.五つの救済論  

このように復活を重視する井上神学を今度は、日本人へ向けた救済論という点から見ておきたいと思います。


神父は先に引用した論説「救いの神秘の表現について」(『風のなかの想い』七六頁以下)で、およそ次のように述べています。


まず、旧約ヤーウェ宗教を精神的背景として、イエスの死を「動物犠牲」と重ね合わせて理解しようとする「償い理論」は、「そのままでは現代日本の私たちにとって到底受け入れ難い」といいます。


次に、奴隷制度や捕虜の受けだしといった、主に古代ヘレニズム世界を精神的な背景に持っている「贖い理論」(「贖い」と訳されたギリシャ語リュトロンは「奴隷を買い戻すために払われる身代金」という意味)は、「現代日本の私たちにはやはり馴染みにくい理論といわざるをえないだろう」といいます。


また、法を重視するローマ社会を精神的背景とした「借金棒引き理論」(コロサイ二・一三~一四など)も、「私たちと神との間の関係が法律的用語で処理されていて、いまひとつ説得力に欠けているという感をまぬがれない」とします。


さらに、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラティア三・一三)という言葉に端的に表現されている、いわゆるキリストの「身代わり理論」については、「律法の呪いとか支配とかいうことも、そのままでは到底私たちには実感としてとらえられず、この考え方も何か一つ力不足の感をまぬがれない」といいます。


「ただこの表現を、自我の肥大による自我呪縛のむなしさ、というふうに解釈するならば、次の『初穂理論』とあわせて、現代の私たちにも近づきやすい救済論への手がかりとはなるように思う」とも述べています。


以上のように井上神父は、新約聖書中にみられる様々な救済論を検討した上で、先に引用したカール・ラーナーのいう救いの


「原初的体験を、日本人の心情の凝結である日本語で表現していこうとするならば、やはり方向としては『償い理論』や『贖い理論』ではなく『初穂理論』へと向かうべきではないだろうか」


と結論づけています。


つづく


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13.十字架から復活へ  

他にもイエスの十字架と復活について井上神父はさまざまに述べていますが、ここではとくに〝生老病死〟を念頭においた、「クリスマスが語りかけるもの」と題した講演(一九八三年)から引用したいと思います。



「この頃私は、挫折とか病気とか死とか、およそふつうには、人生でのマイナス面としか考えられていない、そして何とか避けることができれば避けたいというふうに考えられていることがらに積極的な意味を特に認めているところにキリスト教という宗教の特徴があるのではないかと思うようになりました。

そしてそれをもっともたんてきに示しているのが、あの苦悩と屈辱の中でのイエスの十字架上の死の姿であると思うのです。

裸で大衆の前で十字架につけられるという屈辱にたえるということは、イエスにとっては、ある意味で肉体的苦痛以上のものであったかもしれないと思います。


私たちキリスト者は、私たちが神のみ手に摂取されるしあわせをつかみえたのは、神が馬小屋から十字架までのあの色あせた、苦しみのスッテンテンのイエスの生涯を通してであったと信じています。

そしてそれはとりもなおさず、寝たきりの老人の生活が私たちの目にはどんなに悲惨と屈辱と無意味な苦しみの生活にみえようとも、神はそのような生活を通して人々の心に働きかけるのだということを信じているということであります。

従ってたとえ寝たきりの、元気な人の生活の足をひっぱることしかしていないようにみえる老人の苦しみの生活でも、キリスト者にとって無意味な生活というものはないのです。

それは、キリスト者にとって、私たちの生活の苦悩と挫折と屈辱は、すべてそれを素直に受容する限り、イエスの十字架の死の苦悩と屈辱にあずかるものだからです。

‥‥人の目には悪臭のただよう、みじめな死にむかっての何日かの生活も、それを素直に受け入れる限り、大へん大きな意味を持っているのだということだと思います。

それはイエスの十字架の死の意味にもつながっていくものです。


‥‥復活というのは、‥‥神の御手にあげられたイエスが、三次元の次元を越えた永遠の次元において、いまも私たちを見守っていてくださるということであります。


泥まみれになった一葉の紅葉が、己れを無にして無心に散ったが故に、秋風を私たちに告げているように、馬小屋から十字架までの一見色あせ挫折したようにみえるイエスの生涯もまた、神の働きの偉大さを告げるという、深い重大な意味をもっているのだということになるわけです。」

(『人はなぜ生きるか』一九七~二〇〇頁)


ここには、イエスのこの世(三次元)での全生涯――病人や罪人の友となり、惨めに死んでいった生涯が十字架に集約され、さらにそれが復活を通して、御父により超三次元の世界=神の国へとアウフヘーベン(aufheben)されたのだ、という信仰を読み取ることができます。

そしてわたしたちの苦しみを、十字架を頂点として共に担ってくださったイエスが、さらに復活を通して御父のもとへ、神の国へとわたしたちをまちがいなく送り届けてくださるのだ、という確信があるのです。


こうみてきますと、かの「対談」で語られた「十字架より復活・・・・」という井上神父の弁はむしろ、「十字架から復活へ」という意味合いを持ったものとして受け取るべきではないかと思います。


つづく


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12.復活において完成する救い  

これまで井上神学は、イエスの全生涯の重視、十字架の共苦(悲愛)的意味の強調、という特徴を持っていることを見てきました。


このことから発展して、佐古氏との対談で指摘されていた「十字架より復活」に重心を置くという点について考えてみたいと思います。


もう一度、当の対談のなかから井上神父の言葉を注意して拾ってみましょう。

( )内は前後の文脈から推してわたしが補足した言葉です。



「私は十字架というよりも、やっぱり復活じゃないかと思う」

「これからの私たち一人一人の苦しみというものを、あそこ(十字架)においてイエスはすでに受け取って、神様のもとにさし出してくださっている」

「(イエスの方から)こちらに来てくださって、みんなをぞろぞろと愛で包んで、また向こう(神の国=神の支配)に戻ってくださった‥‥。

私の人生を先につかまえてくださって、これからの死の苦しみを、もうすでに先に一緒に歩んでくださって、もう(神の国へ)行ってくださったから、私の人生は保障されている‥‥、キリストが(神の国へ)もっていってくださった。

自分が、実際は罪人なんですけれども、‥‥むしろ向こう(イエス)のほうが(先に私の弱さや罪深さを知って、母のような愛で私を包み込むことを)やってくださっている」

「私はいつも十字架で思うんですけど、復活の、秋の空のような、すうっと澄んだ、平安の中にある十字架がほしいですね。

‥‥十字架だけで、復活がないでしょう、普通は。

‥‥(十字架は)復活に包まれていなきゃいけないと思うんです。」

「だから、十字架を見ているとき、その十字架のありがたさ、やっぱり後ろの御父の大らかな、それこそ秋の空のような静寂に包まれているというのがいいですね、私はやっぱり。」



いかがでしょうか。

このように語る井上神父の救済論をひとことでまとめてみると、次のようなものになります。


イエスに出会った福音書のなかの人たちと同じように、罪や弱さや特に苦しみにあえいでいるわたしたちを、全生涯にわたって自ら手を差し伸べ、積極的に担ってくださっているイエスの共苦的=悲愛の姿勢は、十字架において頂点に達し、それがまるごと復活を通してアッバなる神に受け入れられ、神の国へと抱き上げられるのだ、と。

このようにイエスによる救いを語る場合、十字架を経て復活において完成するという点が強調されているところに、井上神学の大きな特徴があるのではないかと思います。


つづく


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11.現代日本の神学を  

この点に関して、井上神父は言います。

「ここで重要なことは、現代の日本の人たちにこの真理を説明するとき、二〇〇〇年前の弟子たちが使った表現を、そのまま鸚鵡のように繰り返すだけであってはならないということである。

ギリシア語を日本語に翻訳しなければ、日本人には新約聖書は読めないということは、誰でもすぐにわかることである。

しかし、実は表現についても全く同じことがいえるのであって、その表現をも現代日本人にわかりやすいように翻訳しなければ、決して今の人たちには理解できないのだということ、このことは決して忘れられてはならないことであろう。

現代日本のキリスト教神学が、どうしてもうまれてこなければならない理由がそこにある。」

(『風のなかの想い』七七頁)



あの二〇〇〇年前の「原初的経験」を、現代の、しかも日本に生きるわたしたちがどうとらえ、どう表現していくか、それを模索することが重要であり、それこそが現代のわたしたち日本人キリスト者の使命なのだというのです。


右の『風のなかの想い』の共著者である山根道公氏は、「初めて、(キリスト教の)信仰告白が日本の詩といわず、日本の文学的言葉となった」(井上良雄)といわれる八木重吉を語るにあたり、次のように書き出しています。


「ひとりの真摯な求道者が自らの日本的心性に従ってキリストの道を追い求め、ひとすじに生き抜いたなら、その生の軌跡はおのずから日本的でありかつキリスト的なものになるであろう。」

(同一四六頁)


ここにいう日本人キリスト者の「生の軌跡」とは、ひとり重吉のような詩人だけの問題ではありません。

明治期の思想家・内村鑑三は、「実験」という言葉を好んで使い自らの信仰体験を、彼なりに表現しようと苦心しました。

戦後の椎名麟三氏、先年亡くなった遠藤周作氏や三浦綾子氏も、日本人キリスト者としての信仰に生き、その表現に一生をかけました。


私事になりますが、わたしが最初に出版したエピグラム集『今を生きることば』(女子パウロ会)に対して、三浦綾子・光世夫妻から当時いただいたお手紙は、「・・・・どうかいよいよ信仰に立って、キリストを証しされるお働きをおつづけ下さい。

『今を生きることば』のような優れた証しの著を、またお書き下さり、ご活躍下さいますように。

全能者の御祝福を祈りつつ・・・・。」(一九九四年四月九日付)と結ばれていました。

わたしはこの言葉を、単なる社交辞令としては受け取っていません。

拙いながらも自分なりに、日本人としてキリスト信仰を正直に表現していくことは、わたしの責務だと思っているからです。


もちろん、いわゆる創作・表現活動に限りません。

イエスの弟子以来綿々と続く信仰を継承しつつ、これまで多くのキリスト者が悪戦苦闘してきた道のりに学びながら、心から納得できる神学を模索すること、そして生きること、それはすべての日本人キリスト者に課せられた使命なのだと思うのです。


つづく


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10.救いの原初的経験  

たしかにキリスト教とは、「イエスをキリスト(唯一の救い主)」ととらえる信仰であることは間違いないのですが、その捉え方が問題なのです。

イエスを「信じる」というときの内実が問題になるわけです。


カール・ラーナーという現代のカトリック教会を代表する神学者は、次のように述べています。


「救いの意義の原初的な経験とは、ただ単純素朴に、『われわれは救われた、なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ、このことによって神が御自分の救いの意志を、歴史の上で現実的に、撤回不可能な形で世界的に実在させたからである』という経験であった。

これに対して、外から持ち込まれた解釈は、一つの可能性ではあるが、だからと言って絶対に不可欠なものではない。」

(百瀬文晃訳『キリスト教とは何か』三七六頁)


イエスの生涯と死と復活を目の当たりにした弟子たちの「救い」の「原初的な経験」とは、人間イエスが神に救われ、神の救いの意志が実在化したことによって、同じ人間であるわれわれも救われた、という「単純素朴」なものだったというのです。

ここからいわゆる「刑罰代償説」他の様々な救済論(後述)が展開されていくわけですが、それら「外から持ち込まれた解釈は、一つの可能性ではあるが、だからといって絶対に不可欠なものではない」ということです。

つまり、「刑罰代償説」や「贖い理論」等は、けっして「イエスによる救い」の表現として唯一絶対のものではないということになります。


つづく


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9.十字架の意味  

さて、その上で井上神父は、どちらかといえば「十字架というよりも復活」を救いの中心に置くと、先の佐古氏との対談で述べています。これはどういうことなのでしょうか。


そこでまず、井上神父が「十字架」をどういうものとしてとらえているのか、を見てみましょう。


神父は、牧師さんたちの集会で講演をしたとき必ず出るのが、「井上神学には十字架がないのではないか?」という質問だといいます。

十字架がなければイエス教ではあってもキリスト教ではなくなってしまう、という心配が根底にあるのです。

どうも井上神学に対して疑問を投げかける牧師さんたちが考えるキリスト教は、佐古氏に代表されるように、「わが罪の自覚」とイエスの十字架による犠牲・贖罪、それが救いの中心にあるようです。


一方井上神父は、イエスの十字架を、人間の罪の犠牲(sacrifice)としてよりも、「私たち一人一人の人生の苦しみを」「mitleidenして(共に担って)くれた」もの、あるいは「汚れを取り去った、神との調和を回復した」ものとして受け取っています。

十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛(「悲」は「共に」の意を含む=後述)の頂点に位置するものと考えているのです。ですから、「井上神学には十字架がない」ということにはならないのです。


十字架による救いというものの「ニュアンスの置き方」が、質問をする牧師さんたちのキリスト教とは違うということです。

けっして罪の問題そのものに関心がないわけではありませんが、こと十字架の受けとめ方という点でいえば、ここでも井上神学においては罪の問題よりも苦しみの問題に重心があるといってよいでしょう。


つづく


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8.イエスの全生涯を重視  

神父は「救いの神秘の表現について」という論説のなかで、次のように述べています。


「結論から先に言ってしまえば、〝私たちが神の御手に迎え入れられることができるようになったのは、ひとえに十字架の死をも含めたイエスの全生涯のおかげなのである〟‥‥。」

(『風のなかの想い』七七頁 傍点原文 傍線平田 以下引用文について同様*サイトでは省略)


この「結論」としての一文は、全体としてみればキリスト信仰として至極当然のことをいっています。

しかし先の「対談」における佐古氏との「ニュアンスの置き方」の違いを思い出しながら、傍点・傍線部分に注目して読み返してみます。

すると、傍点部「ひとえに」という言葉は、「十字架の死」よりも、(それをも含めたイエスの)「全生涯」に直結しているということに気づくのです。ここにこそ井上神父の強調点があるのです。


初期キリスト教の最大の伝道者パウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、‥‥キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(一コリント一五・三~四)だと、簡潔に述べています。

パウロの宣教は徹頭徹尾それだけです。面白いことに、というか、不思議なことに、生前のイエスが何処で誰に何を語り、どう対したか、というイエスの具体的な生涯についてはまったくといっていいほど触れていないのです。


この点ではパウロと対照的に、井上神父はイエスの「全生涯」にこだわります。

十字架や復活はあくまでも「キリストの救いの業の最終点」であって、それがすべてであるとは考えないのです。これは、神父の問題意識が、より多く人生の苦しみの解決に注がれているからでしょう。

わたしたちの人生の苦しみを共に担い、歩んでくださる方としてイエスを捉えたとき、どうしてもイエスが具体的に生きた「全生涯」を問題にせざるをえないわけです。


そしてこの姿勢は、福音書を通じてイエスの全生涯を心の鏡として見つめるという態度――前項で述べた「新約聖書は実践的指導書である」という読み方につながるものです。


「キリスト者にとって深い自己洞察に至る道は、やはり『イエスを見つめる』ということであり、イエスという鏡に自己の至らなさを映して眺める勇気と謙虚さを持つことであろうと思います。」

(『私の中のキリスト』二一三頁)


こうして、祈りやミサを通して「常に人間の同伴者として歩んでいるキリストが力強く現存しているというのがキリスト者の信仰である」(同二一六頁)といいます。


福音書は本来十字架の受難史であり、イエスの生涯はそこにいわば〝まえがき〟として添えられたもの(にすぎない)とまでいう神学者もいます。

たしかに福音書の構成は、時系列的に見れば、十字架と復活に向けて様々な伏線がはられ、集約されていく形をとっています。


しかし井上神父は、福音書におけるそのような十字架・復活へのベクトルと同時に、福音書に記されたイエスの全生涯の各場面、あらゆる部分に十字架と復活を見て取っているのではないかと、わたしは思うのです。

いわば、十字架を待たずに十字架を先取りし、復活を待たずに復活を見ている神学、そういう印象をどの著作からも受けるのです。

イエスの生涯の各部分を語りつつ十字架や復活も同時に語っているということです。こうした見方は、福音書がイエスと共に生き、十字架と復活による救いを目の当たりにした弟子たちの証言集であることを思えば、むしろ本来の趣旨にそっているものといえるのではないでしょうか。


さらに私見を述べさせていただければ、イエスによる救いに関して十字架と復活だけをあまりに強調して語ることは、教条主義的なキリスト教に陥る危険性が大きいのではないかと思うのです。

イエスの生涯・人となりを常に見つめ、イエスの人格からあふれ出る具体的な言動に触れることが、生き生きとしたキリスト信仰には欠かせないのではないでしょうか。

これは、原始キリスト教団のなかでイエスの生涯を語らないパウロ神学が隆盛してきたとき、マルコが最初の福音書を著そうとした動機とも一致します。


つづく


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7.罪と苦しみ  

イエスによる救いについて、旧約聖書の『イザヤ書』五三章は預言的に語っています。

有名な「主(苦難)の僕」に関する次の箇所から引用してみましょう。

(マタイ八・一七参照)


「彼(苦難の僕)が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであった‥‥(四節)

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって

  わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(五節)」


「主の僕」(キリスト教の解釈ではイエス)が背負ったのは、わたしたちの「病」や「痛み」(四節)であり、「背き」や「咎」(五節)であったとされています。

ここで「病」や「痛み」を〝苦しみ〟全般ととらえ、「背き」や「咎」は〝罪〟と読み替えてもよいと思います。

七十人訳聖書も、「この人はわたしたちの罪を担い、わたしたちのために苦しみを受けた」と訳しています。

するとイエスが担いかつ癒したのは、わたしたちの苦しみと罪の両方ということになります。


ユダヤ教世界では一般に、罪は苦しみの原因であり、苦しみは罪の結果と考えられていました。

ですからイエスの弟子たちが一人の盲人を見たとき、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(ヨハネ九・二)と質問したのです。

罪と苦しみはいわば比例関係にあると考えられていたのです。

(もちろんそれだけでは割り切れないからこそ『ヨブ記』のように、〝善人がなぜ苦しむのか〟という問題も提起されてはいたのですが。)

このときイエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない」(九・三)と宣言し、罪と苦しみの因果関係を明確に否定されたのですが、いずれにしろイエスは、人々の罪と苦しみの両方をひっくるめて背負い、癒す「神の子」として受け取られたわけです。

実際、福音書にある病気治癒の奇跡が行われるときには多くの場合、同時に罪のゆるしの宣言がイエスによって行われていることからも、このことは明らかです。

罪のゆるしと苦しみの解決、これはどちらもキリスト信仰の重大関心事であることに違いありません。


ただ問題は、この二つの課題に対するまさに「ニュアンスの置き方」なのです。

イエスによる救いについて、わたしの罪、人類の罪という問題の解決を中心に語るなら、十字架の犠牲、イエスの贖罪を強調するキリスト教になるでしょう。

これは先の対談にもとづいていえば、佐古氏がイエスによる救いには、「どうしても十字架を置かずにいられない」と語った視点、あるいはパウロがユダヤ人に対して語った視点に代表されます。


一方、井上神父の場合は、イエスによる救いはまず、「イエス・キリストご自身」にあり、十字架と復活は「キリストの救いの業のいわば最終点」である、というのです。


つづく


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