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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

2018年度、南無アッバの集い&平田講座の日程  

「風編集室」主催の南無アッバの集い&平田講座「井上神父の言葉に出会う」を次の日程で行います。
途中から、または1回のみの受講も可能です。

○日程:原則として、毎月第4土曜日です。
2018年
4月28日(土)
5月26日(土)
6月23日(土)
7月28日(土)
8月25日(土)
9月22日(土)
10月27日(土)
11月24日(土)
12月22日(土)
2019年
1月26日(土)
2月23日(土)
3月23日(土)

○時間:13:30~15:00

○場所:幼きイエス会(ニコラバレ)会議室(03-3261-0825 四谷駅麹町口前)地図

○講師:平田栄一

○受講料:各回1,000円 当日、受付にてお支払いください。

○内容:下記文庫を補足しながら、井上洋治神父の説く日本人のキリスト信仰について考え、分かち合います。

○テキスト:『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫 525円 当日販売もあります。)

○問合せ:平田栄一 メール

*事前申し込みがなくても、参加可能です。

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罪人となられたイエスと共に  

南無アッバの集い&平田講座NO.77より


前回まで、井上アッバ神学の「共にいます神」をめぐって、ブルトマンの非神話化、実存的解釈の重要性についてお話してきました。

今回は、「共にいます神」をめぐって、10月の風の家30周年集会で取り上げた「悲愛」の「悲しみ」ということから、井上アッバ神学+青野太潮神学の十字架の意味についてお話しします。

井上神父はキリスト教で言うアガペーを、日本語でよく使われる「愛」ではなくて、「悲愛」と訳しました。このなかの「悲」というのは、仏教の方で言う「慈悲」や「大悲」の「悲」から連想したといいます。そして大事なことは、これらの「悲」には、単に悲しむというのではなくて、「共に悲しむ」「共に苦しむ」というときの、「共に」ということが含まれているということです。

それでわたしが思い出すのは、これはいつかの井上神父の講座か講演でもお聞きしましたし、個人的にお話ししているときにもよくおっしゃっていましたが、「人生というのは悲しいものだよ」と言うんですね。わたしはこの言葉を最初に聞いたとき、「おやっ?!」というか、正直ちょっと嫌な感じがしたのです。というのは、二十代で教会の門をたたき、神父様にたどり着いたのですが、なぜそういう求道を始めたかといえば、あの頃はあの頃で抱えていたいろいろな問題があり、そうしたことがもたらす「悲しみ」から脱却したい、というのがあったからです。つまり悲しみの解決を願って、期待して神父様を訪ねたのですね。

それがどうでしょう。神父様からは、人生はそもそも悲しいものなのだ、ということを聞く。たしかにしみじみではありましたが、わたしはそういうことを複数回、直接お聞きしたのでした。

しかしその後井上神父について少しずつ学んでいくにつれ、このように「身もふたもない」と思った「悲しみ」の問題が、実は井上神父がいう「悲愛」(アガペー)ということと密接に結びついていることを知っていきました。

10月の集会でも、若松さんが「悲愛」について基調講演をしましたが、座談会では「必ずしも悲しみがいやされることが、救いではないのではないか」という意見も出ました。

わたしもこれをきっかけにして、その後もこの「悲しみ」について改めて考えてみました。するとまず浮かんだのが、青野太潮先生がおっしゃっているイエス様の逆説的な福音ということです。すなわち、『マタイ』の山上の、あるいは『ルカ』の平野の説教として伝わっているイエスの言葉、「悲しむ人々は、幸いである」(マタイ5・4)「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6・20)という逆説の福音です。

これらは古来、いろいろな解釈がなされてきました。たとえば、ルカの「貧しい人々・・・」をマタイが「心の貧しい人々・・・」とし、日本の「共同訳」のようにこれを、「ただ神により頼む人々・・・」と解するなどといったようなことです。しかしどれも十分に説得的ではない。それは、これが「逆説」であり、逆説というのは理では説明できないからです。逆説が真理とわかるのは、経験的事実だからです。辞書で「逆説」を引くと、その例として「急がば回れ」というのがあげられています。これもあれこれ考えて真理だとわかったというより、たくさんの人が経験して、「ほんとうにそうだなあ」と納得したので、定着していったのだと思います。

その意味で、ベルクソンの影響を強く受けた井上神父が、頭でイエスの語った真理「について知る」だけではだめで、ほんとうに真理「を知る」ためには、体験しなければならず、そのために「新約聖書は実践指導書(ガイドブック)」である、といっていたことと通じます。わたしは、先ほどの座談会で出た「悲しみは必ずしも癒されることが救いではないのではないか」ということも、イエスのこの説教の逆説――「悲しむ人々は幸い」ということに通じるのではないかと思ったのです。

青野太潮先生の御説を参考にさせていただくなら、このイエスの福音の逆説は、十字架においてイエスご自身が身をもって証することになります。ご存知のように、マルコによればイエスは、十字架上で、あの有名な、不可解な、一見「神の子」らしくない、絶望の叫びをあげて息を引き取ります。

<わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか>(マルコ15・35)

これも古来様々に解釈されてきた箇所です。『ルカ』や『ヨハネ』は、この叫びを「神の子」らしい威厳とやさしさに満ちた辞世の言葉に換えた節もあります。史実は、単に大声を上げられただけかもしれません。井上神父は、死にゆく人の断末魔の意外な叫びだけをあまりにも重視するのは、イエスさまに失礼である、といった見解を持っていました。しかしわたしはこの箇所に関しては、青野先生の御説を支持しつつ、わたしの信じるところを述べたいと思います。

この箇所のショックな点は、まずイエスを「神の子」と告白する福音書にふさわしくないイエスの叫びを(おそらくあえて)載せていることです。すなわち、イエスが「アッバ」(パパ)と呼んで絶対の信頼を寄せていたはずの神に向かって、「自分は一生懸命アッバの御心にそって忠実に生きて来たではありませんか。それなのに最後の最後に、どうしてわたしを見捨てたのですか?!」と、アッバに嘆きとも、疑問とも、不信ともとれる抗議をしているということです。

そしてマルコは、この十字架の目撃者である異邦人のローマの「百人隊長」の口を通して「神の子」宣言をしているのです。つまり、アッバに不信の罪を犯した――自ら罪人となったイエスをこそ、「ほんとうに神の子なのだ」と宣言しているのが『マルコ』なのです。

青野氏は、信仰義認論は、パウロの十字架解釈だ、と言います。どういうことかというと、おそらくイエスに会った事もなく、また十字架の事件に立ち会ってもいなかったであろうパウロは回心前後、イエスの十字架刑死の意味について、一生懸命考え、黙想したのだと思います。

そうして得た結論は、イエスの「十字架」は、直接的にはイエスの生き方の「愚かさ」や「弱さ」や「つまずき」や「(律法による)呪い」を意味するが、しかしそのようにして生きて死んでいったイエスをこそ、神アッバは「よし!」とし、「しかり」を与えているのだということ。すなわち、十字架は同時に真の「賢さ」「強さ」「救い」「祝福」をも、逆説的に意味しているということ。
ローマ書四章五節では、「不信心な者」をそのまま無条件無制限に義とする神アッバが語られています。

<不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。>

ここには、イエスの十字架や死を罪の贖いと信じれば救われる、ということは一切言われていません。「不信心な者を」そのまま「義」とする――「よし」とする――神が受け入れてくださる、ということが大原則になっている。そのうえで、何にも「働きがなくても」そういう神さまを「信じる」=信頼するとき、その信頼がさらに「義と認められる」と言っているのです。例にあげられるアブラハムやダビデの例も、贖いを通しての義ということではまったく言われていない。

そしてイエスは、上のような逆説的福音を説きつつ、ご自身が十字架において絶望の叫びを上げ、「不信心な者」「つまずいた者」「罪人」となられた。「そのようにして」死んだイエスを神アッバは、太古の昔からの御心――無条件無制限のゆるし原則のとおり、「よし!」「しかり」「義」とし、復活させたのです。青野氏は言います。

<すなわち、決定的な救いの出来事としてのキリストの十字架の死は、まさに「弱さ」「愚かさ」以外の何ものでもないのであり、しかもそれこそが、弱く罪深く、そして神なき者が、ただ信仰によってのみ義とされるというパウロの教えに表わされているように、真の救いなのだということである。>(『「十字架の神学」の成立』一八頁、傍点原文)

あるいは、「荒井献氏への批判的対論」のなかでは、次のように述べています。

<いずれにしても、ここ(ローマ八・三b、引用者注)でイエスが「罪」あるいは「罪の肉と同じさま」における存在、すなわち「罪人」と考えられているということの中には、あの十字架の最期において神を疑い、彼自身の上に生起した不条理ゆえに神に抗議するという意味での「罪人」イエスという捉え方の反映はないであろうか。つまりイエスの十字架上の絶叫を凝視することに通ずる捉え方がないであろうか。しかし神は、まさにこの「罪人」イエスをこそ、救済をもたらす者とされたのだ、というのが、パウロの逆説なのではないのか。>(同書、二七三頁)

教会には一般的に、

<この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。>(ヘブル四・一五)

と伝えられています。イエスの生涯には徹頭徹尾「罪」がなかった、それ以外はわたしたちと同じだった、そのような「神の子」であるからわたしたちを救ってくださるのだ、というのが正式な教会の教えでしょう。

しかし、右に引用したように、イエスを「罪深く、そして神なき者」すなわち「罪人」イエスとして捉えるというのはタブーなのでしょうか? 異端でしょうか? 人間イエスの意図していなかった所で、「なんで私がこんな目に遭わなければならないのですか」と叫んで、嘆いて、自ら「不信心な者」となられたイエス。その「罪人」の頭をこそ、アッバは「無条件・無制限にゆるし」、「よし!」として復活させた。罪の極みまでわたしたちと「同様に」なり、今も「十字架に架けられ給いしままに」「うめき」つつ「共に」いてくださるイエス。

こうしたイエスこそ悲愛の頂点――十字架につけられ、わたしたちを救ってくださる、と言う信仰告白につながるのではないでしょうか。それはアッバにとって、イエスという「作品」における御業の完成です。

わたしたちも、アッバが大事にしてくださった「作品」――人生の完成をめざして、このようなイエスと共に、イエスにならい――弱さと罪深さのなかで、「うめき」つつも「南無アッバ」「南無アッバ」と唱えつづけること、それこそがアッバがわたしたちに望んでおられる生き方なのではないでしょうか。(2016-11-26)

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井上洋治神父第2回命日祭(3回忌)音録  

2016年3月13日(日)14~16時
於:幼きイエス会
主催:風の家
第2回命日祭(1)
第2回命日祭(2)

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5月24日(土)平田講座やります=井上神父の写真無料配布も!  

四月の井上神父を偲ぶ会には、多数ご出席いただき、ありがとうございました。
そのため私の講座は1回お休みとなりましたが、
今回も前回に引き続き、参加者の方から、一言ずつ、
井上神父様の思い出を頂ければと思います。

講座内容予定:○北森神学と井上神学比較、○サンドメルと井上神父、など。

なお、偲ぶ会で配布された神父様の写真、その他(L版)を無料配布します(50枚)。

はじめての方はサイドバーをご覧ください。

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井上洋治神父様のことを語り合いましょう!  

本日は、井上洋治神父のご葬儀に多くの方がご参列くださり、まことに有難うございます。

今週土曜日3月22日(土)の南無アッバの集い&平田講座は、皆さんの井上神父の思い出、また、神父の本や話の感想など、自由に語り、分かち合いたいと思います。

初めての方も含めて、アッバ神学に共鳴する方なら、どなたでもお出でください。

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次回、南無アッバの集い&平田講座「井上洋治神父の言葉に出会う」は3月22日(土)13:30~  

第46回、内容予告「十字架のイエスの痛みをめぐって、井上神父のサンドメルとの出会い」
北森嘉蔵、井上洋治、青野太潮の神学を手がかりに、日本人とキリスト教について考え、分かち合います。

 初めての方は、サイドバーをご覧ください(場所等)。

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講座「井上洋治神父の言葉に出会う」第44回は1月25日(土)13:30~  

内容(予定)
・イエスの神性と人性--ヘブル書より


☚初めての方は、サイドバーをご覧ください。

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平田講座要約(第三〇回下~第三一回上)  

2012・11、12=テキスト『心の琴線に触れるイエス』
p・41D(続)
「アッバの働きの場」として、苦しみや挫折を「素直に受け入れよう」としても、私たちにはなかなか難しい。それで前回、これは井上神父はあまり触れていませんが、『ローマの信徒への手紙』四章五節を紹介したのです。

ここに出てくる「不信心(不敬虔)な者を義(正しい者)とする神」ということを、もう一度確認したいと思います。最近、「信仰と行い」を巡って、改めて「信仰義認論」や「贖罪論」をかじっているのですが、先日(二〇一二年夏)、井上神父様と話した時、私が「パウロ主義の基本は信仰義認ですよね?」と質問したのに対し、井上神父は、「それが簡単には言えない」との返事をされました。

ただ、「信仰義認」といったとき、カトリックはプロテスタントより馴染みがないかもしれませんが、私は福音の要だと思っています。
しかしこのローマ4・5をよく見ると、それは「行い」に換えて「信仰」で救われる、というのではないのですね。【加藤常昭説教集から該当箇所を紹介】

皆さんは、この話をどう読まれましたでしょうか。あとで分かち合いの時にでも感想を聞かせてください。わたしとしては――合理主義の否定ということが、まずあるのではないかと思うのです。

1+1=2ですが、こういう人間の合理主義を信仰にあてはめて、カトリックが、信仰+行い=救い、とか、プロテスタントが、いやいや、信仰=救い、だとか・・・こういうのは皆、人間の合理的論理的思考を、神様にあてはめた教義にすぎない、ということ。「勧善懲悪」や「贖罪」や「償い」という発想も、人間の算術的な発想、観念であるように思います。

神様の法則はそれをどんでん返しする、驚くべき「福音」だというのです。ローマ4・5は、業績や行いに換えての信仰ではないし、まして律法に換えての、あるいはそういう律法を集約して「愛を掟」化をしたものではないということ。大前提に、「アッバ」と呼べる神は、日頃は「神などいないかのように生きている」=「不信心・不敬虔」な私たちを「無条件」で救ってくれる!ということが言われている。

悲しいかな、こういうとすぐ、人間は極端に走る心配がある――(参考までに紹介=五木寛之『親鸞』「造悪無碍」=悪を働くこと障りなし=本願ぼこり、あるいは反対に「専修賢善」=ひたすら念仏し善い行いに励むべし)
けれども根本は、青野太潮先生がいうように、神の「無条件のゆるし」は、「もしかしたら人間をだめにしてしまう可能性をはらむ」程のゆるし=福音なのです!

そう聞かされても、すぐ「ホンマかいな!!?」と疑う、その私=まさに「不信心」な、ダメな私を、さらにその下に手を差し伸べて、抱き取ってくださる。疑って下へ、下へ落ちていく程に、もっと下の方から救い上げてくれる。そういう神様に信頼すれば、救われる――ここまでくると、もう信頼するしかない、と追い詰められちゃう感じですね(笑)。

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明日、平田講座は予定通り実施します  

初めての方は、サイドバーの案内をご覧ください。

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平田講座要約(第二九回下~第三〇回上)  

2012・10・6=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

以下の段落は、具体的なことも含めて、井上神父らしさがよく出ているところなので、少しずつ区切って見ましょう。

p・41C
「私たちが神の御手に摂取される」とは、救いのことです。そしてこの傍線部に、はっきりと、イエスの全生涯・苦しみを「通して」私たちが救われるのだ、と言う主張が見えます。

「通して」というのは、私たちとイエスが、同じ人間として苦楽を共にし、一体化、同化するということです。そんなことは畏れ多いという人がいるかもしれませんが、イエスをスーパーマンのように持ち上げてしまうばかりで、人間イエスにならうということがないと、そこのところに親近感といいますか、井上神父の言葉を借りれば、エンゲージできない。あとで青野太潮氏の「私もイエスのように」という話を紹介します。

また井上神父が「贖罪」とか「犠牲」という言葉を使っていないということにも注目したいと思います。少し補足しますと、「贖罪論」は、キリスト教の専売特許のように思われていますが、いろいろな宗教にみられます。パウロは消極的に、ユダヤ教からその伝統を受け継いだだけ、という見方も出来ます。またルカには贖罪論はありません。

しかし、パウロ以降の教会史を見ても、常にユダヤ教的キリスト教への揺り戻し、優位があったと言えます。しかし、律法(行為)義認を否定した信仰義認にこそ、キリスト教の新味があるのだと思います。

私見では、井上神学の立場からこれを見ると、行為義認は父性原理、信仰義認は母性原理に基づくともいえるように思います。

p・41D
これは一九八三年の講演ですが、その十年余り後に行われた「信仰の世界がもたらしてくれるもの」と題した聖書講座の抜粋を、拙著『すべてはアッバの御手に』に載せました。その中に、次のような件りがあります。

「自分の人生が、もっと大きい大自然の命が表現される場だと考えれば・・・・耐えることができる。」(一四六頁)
人の目から見れば、つまらない小さな人生としか思えなくても、そこに「アッバの働きの場」としての意味を思うなら、大きな意味がある。そこに生きて死ぬ意味がある。そのためには、苦しみや挫折を「素直に受け入れる」心、アーメンと同意するということが大切なのだと思います。その根拠は、十字架における神の「しかり」にあります。

毎月の南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ 11/23(土)、12/21(土)

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本日13:30、予定通り平田講座実施します。  

ちょっと雨模様ですが、お気を付けてお出でください。
初めての方はサイドバーをご参照ください。

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9月28日、南無アッバ・平田講座、予定どおり行います  

初めての方は、下記参考に。

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南無アッバの集い&平田講座要約(第二九回 上)  

2012・10・6=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

復活において完成する救い、というテーマに入って、青野太潮神学を参考に、イエスの死と十字架を切り離して考える、その中で、贖いという問題をとりあげました。

伝統的な贖罪論の系列を考えるなら、罪=マイナスがゼロになるところまで、というイメージが強い。しかし井上神学にとっては、その先の復活で「澄んだ青空」のような、大きな希望のイメージがある。明るいイメージですね。私見になりますが、イエスの死までは怒られた子供が許されるまで、という感覚です。復活に行ってはじめてその子供が笑う。

ただ、使徒信条・信仰宣言のように時系列的に、十字架の次が黄泉に降って、次に復活して、昇天して・・・・ということではない。十字架即復活あるいは、イエスのサドカイ派との復活問答(マルコ一二章)から、イエスは御自身の復活以前にも、死人は生きている、という考えがあった可能性もある。

p・41
■十字架から復活へ
ここで「生老病死」にこだわったのは、やはり日本人にとっては、罪より四苦の解決の方が関心が深いと思ったから。
 病気・死・挫折など、人生のマイナスに逆説的に意義を見るキリスト教という視点は、遠藤さんも同じですね。その象徴としての十字架。ここも「十字架の神学」に通じる。青野氏によれば、「十字架」は「罪」や「贖い」に直結するのではなく、「弱さ」「愚かさ」「つまずき」に通じる。そこから逆説的に「救い」を見たのが、パウロ神学だと。

「十字架の逆説」とは、「人間にはどんなにそれが悲惨で弱弱しく見えようとも、神はそれを肯定的に見ている。そして、それでいいのだ、そこにこそ、神は「然り」を言っているのだ、と解釈する逆説」(青野『十字架の神学の展開』p・165、傍点平田)ということです。

また、「肯定的に思われることがらが常に即肯定的であるわけではなく、また否定的に思われることがらが常に即否定的であるわけでもなく、両者の間には、逆説的同一性が存在している」(p・175)という神学です。

毎月の南無アッバの集い&平田講座
於:四谷ニコラバレ 
9/28(土)、10/19(土)、11/23(土)

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本日13:30四谷講座あります。  

少し涼しくなるといいですね。
お気をつけてお出かけください。
南無アッバ

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南無アッバの集い&平田講座(第二八回)要約  

2012・9・15=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

キリスト教における「救い」表現を日本的に考えよう、ということから、日本人キリスト者の例を見てきました。そして最後は遠藤周作さんの『侍』から、日本的信仰の方向性を考えました。

p・38
■復活において完成する救い
佐古純一郎牧師の神学では、わが「罪」の解決に重点があり、それにはまずイエスの「十字架」が必要であるといいます。こうしてそれは「贖い」信仰を強調するものでした。一方井上神学は、「苦」るしみに目が向けられ、そのためには十字架を含めたイエスの「全生涯」に注目することになります。ここから共苦(悲愛)を中心とする神学が展開されます。その結果、どちらかというと「十字架より復活」というニュアンスが強くなります。

ちょっと補足になるかどうか、最近わたしは、青野太潮先生というパウロ研究者(前回触れた田川建三さんのICU=国際基督教大学での教え子)の「十字架の逆説」という考えに惹かれています。その青野先生によると、「十字架」が「贖罪」に直結するという記述は、実は新約聖書には一つもない!というのです。そうではなくて、イエスの「死」が「贖罪」に結びつく。だから少なくともパウロ神学を考えるときは、まずイエスの十字架と死は区別しなければならない、と。

さらに余談ですが、作家の高村薫さん――『マークスの山』の直木賞作家ですが、この方が「中央公論」五月号で、「宗教は日本を救うか」というテーマで書いています。そこで御自身が浄土真宗に生まれ、カトリックからプロテスタントを経て――この方もICU卒ですが――高村氏が、なぜ最後に禅宗に行ったかということを振り返って述べており、大変興味深く、傾聴に値します。

その中で、日本人はなぜキリスト信者にならないのか、という問いに、「原罪」や「贖い」という考え方を受け入れがたいこと、そして「摂理」信仰も受け入れられない、といったことを体験的に述べています。
わたしには、先の青野先生の主張と共に、この高村氏の考えも井上神学を補足しているように思われます。

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本日、予定通り、四谷講座おこないます  

お暑い中ですが、お気をつけてお出でください。
初めての方、未信者の方ほか、
井上洋治神父の提唱する、
日本的キリスト教に興味のある方なら
どなたでもどうぞ!

くわしくはサイドバーをご覧ください。

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あさって5月25日(土)予定通り、四谷講座やります。  

初めての方は、左サイドバーをご覧ください。

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南無アッバの集い&平田講座(第27回)要約  

2012・8・25=テキスト『心の琴線に触れるイエス』
p・38
前回、救い「表現」を日本的に考えるということから、遠藤周作さんの『侍』を紹介しました。
今日はもう少し、『侍』(新潮文庫)から言葉を拾ってみましょう。「侍」といっしょに太平洋を渡った商人たちが、次々と洗礼を受けようとするのを、宣教師ベラスコが感慨に耽る場面で、次のように述べます。

「私の思い通りになったのである。自分がとったこの術策が多くの善良な基督教徒から非難されることは知っている。だが日本を神の国にするためには並みの手段では叶わぬ。たとえこの商人たちが利のため、取引きと商いとのために、主と洗礼を利用したとしても、神は洗礼をうけた彼らをお見棄てにはならぬであろう。一度、主の名を口にした者を、主は決して放し給わぬからだ。そう私は信じたいのである。」(一六八頁)

こういうような物言いは、この小説の文脈から推して、西欧キリスト教のずいぶん身勝手な見方のように思えますが、アッバの無条件のゆるしと抱擁性という、イエスの一番言いたかったことを念頭に置いて受け取れば、どんな下世話な理由で洗礼を受けても(受けなくても)、信頼一つで救ってくださるアッバを表現しているとも言えましょう。遠藤さんの信仰も、もちろん代弁している所があると思います。ちなみに、うちの奥さんの場合は、仏教のお葬式は暗くて嫌だ、というのが、最終的に受洗に踏み切った理由です(笑)。

「パードレさまたちがどうであろうと、私は私のイエスを信じております。そのイエスはあの金殿玉楼のような教会におられるのではなく、このみじめなインディオのなかに生きておられる――そう思うております」(二〇九頁)
これは、インディオの中に定住した日本人の元修道士が、「お前は切支丹を捨てたのか」と「侍」に聞かれて答えた言葉です。

その他、エスパニアでの司教会議の席のベラスコの言葉(二九一頁)、帰途再び出会う元修道士の言葉(四〇三頁)、評定所へ向かう時の名言(四七九頁)など、日本人としてキリスト信仰に生きようとする私たちに、大きな示唆を与えてくれます。

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今月は4月21日(日)です!  

日曜日ですので、ご注意ください。
時間はいつもと同じです。
初めてお越しの方は、左サイドバーをご覧ください。

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3月23日(土)第34回平田講座  

予定通り、実施します。
初めての方は、左サイドバーをご覧ください。

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南無アッバの集い&平田講座(第26回)要約:「余白の風」第201号掲載  

2012・7・28=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

前回は、日本的に救いの「表現」を考えるということで、言葉や翻訳の問題から遠藤周作さんや三浦綾子さんを紹介しました。

p・38
遠藤さんは、「六十歳の男」(新潮文庫『夫婦の一日』所収――解説は井上神父)というエッセイの中で、四十代半ばで書いた『イエスの生涯』を書き直さなければならないと、言っています。大作『侍』(一九八〇年)を書き上げた後の発言ですが、これも最近新潮文庫で再読しました。これからの日本のキリスト教を考えるとき、いろいろなヒントがちりばめられていると、改めて感動しました。

遠藤さん自身が「この小説は僕の私小説みたいなものなんだよ。・・・・現在の僕の心境は、長谷倉の生き方、死に方の中に投影している」(解説「波」一九八〇年四月より)といっています。
今日は遠藤講座ではないのですが(笑)、日本のキリスト教を考える上で参考になりそうな言葉を、いくつか紹介します。

侍と旅を共にする宣教師ベラスコの言葉、「日本人は奇跡や業(ごう)の話には心惹かれるが、キリスト教の本質である復活やすべてを犠牲にする愛について語ると、途端に興ざめた顔をする。」(一一四頁)――「奇跡」というのはご利益信仰へ、また「業」というのは因果応報的発想につながるかもしれません。

情熱的なベラスコに侍と同行した松木という同郷者が言います、「仕方がないではないか。俺は日本に育ち、・・・・日本は烈しきことを好まぬ。俺にはベラスコ殿のような方は奇怪にさえ見える。」(一二二頁)――感性の違いでしょうが、この「烈しきことを好まぬ」というのはよくわかる気がします。

かつて、私が井上神父に出会う前、一九八〇年だったと思いますが、東京の後楽園球場で「ビリーグラハム大会」というのがありました。当時あちこちの教会を巡って求道を続けており、プロテスタントのどこかの教会で聞いて、私もその大会に出かけていったのでした。

たくさんの人が来ていて、それだけでも圧倒されましたが、球場の真ん中に据えられた舞台から、通訳を通して朗々と語りかけるビリーグラハム氏の姿――「大衆伝道」のすごさを目の当たりにしました。

ふと隣に座っている母娘連れを見ると、話の中で引用されている聖書箇所を熱心にチェックしていました。そして、「聖書の言葉と違う・・・・」とか二人の会話が聞こえてくるのです。「そりゃそうでしょ。英語聖書から通訳が翻訳して伝えているんだし、第一翻訳された聖書だって日本語も英語も何種類もあるんだから・・・」などと、つっこみを入れたくなったのを憶えています。

最後に、氏が「さあ皆さん! 私は罪を悔い改めて、神様の愛に身をゆだねますと、いま決心された方は、どうぞ前に出てきてください。さあどうぞ」というのです。そして、観客席のあちこちから、次々と人々が前に出て行きます。先ほどの親子も連れ立って降りて行きました。私にはとてもそんな勇気はありません。がらがらになった観客席で私は、自分だけが取り残されたような寂しさと、しかしこれは何かが違うのではないか、という割り切れなさを感じたのでした。

こうしてその時のことをいろいろ思い返してみますと、欧米からの直輸入ではない、「日本人の心の琴線に触れる」キリスト教というのを私なりに意識しだしたのは、この頃からだったように思います。

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本日、予定通り平田講座実施します  

寒い中ですが、暖かくしてお出かけください。

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明日、予定通り第31回平田講座開催します  

寒い中ですが、よろしかったらお出かけください。

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11月24日(土)南無アッバの集い&平田講座  

予定通り実施します。くわしくはブログサイドバーをご覧ください。
雨模様で寒いですが、お気をつけておいでください。

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明日9月15日、予定通り、平田講座行います  

残暑厳しいですが、お気をつけてご参加ください。
南無アッバ

場所・時間は下のMenuでご確認ください。

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南無アッバの集いについて  

2012年5月26日=合同の集い小話=幼きイエス会にて

南無アッバのミサがなくなってから、毎月第二土曜日は山根さんの、また第四土曜日は平田が集いと講座を引き継いでいます。これらの集まりの特徴は共通して、カトリック・プロテスタント・未受洗者の方々がおり、そしてたいてい何人か初めての方も来られるということです。どちらもなごやかに、ざっくばらんに分かち合いをし、楽しく充実した時間を過ごしています。

しかし、実際に参加できなくても、「風」読者として、「アッバ讃句コーナー」や「余白の風」の投句を通じて、コミュニティが作られています。周作クラブなどもあります。

いま世間では、家族や地域社会の崩壊、独居、孤立問題が取りざたされていますが、新しいコミュニティは、近代までの血縁や地縁ではない、趣味や興味関心などによって、ゆるやかなつながりへと変化していくだろう、といわれています。

こうしたコミュニティの特徴は、先生から生徒という、縦の一方通行ではなく、相互に教え合い、「分かち合う」という特徴を持っており、その意味でも上下のない、ゆるやかな関係といえます。実際、私の講座でも、多くのことを私自身が学ばせて頂いています。

「風」八六号で山根さんが、「井上神父から私たち在世間キリスト者に渡されたバトン――これからの「風の家」運動について」でも触れていますが、「風」二〇周年特別号(七二号)で、井上神父は、「二十一世紀のキリスト者に必要な求道性は、西欧型の修道会の求道性でなく、この地球に存在する数多くの文化圏の中で生活している『在世間信者』の求道性の確立」と言っています。つまり、脱世間=縦糸と在世間=横糸を一つに織り成す在世間信者の求道性が求められているのです。

神学者で禅学も学ばれている佐藤研さんが、次にように書いています。「新しい定義のキリスト教は、カトリック・プロテスタント・正教という宗派の縦割りではなく、横割りに横断し、他宗教ともオープンに共鳴できる、いわば『共鳴共同体』を形成していくだろう。」そして「それは、真に寛容な共同体となるだろう」とも言ってます。「寛容な」とは母性原理を暗示しますし、この発言は、先の井上神父の「縦糸」「横糸」とも共鳴してくるように思います。

井上神父は具体的に、在世間信者の求道性の確立ための祈りが「南無アッバ」の祈りだとおっしゃっています。
わたしたちも、この単純な祈りを事あるごとに繰り返し口ずさみ、あるいは黙想し、味わい、実生活の真っ只中に、いつでもどこでも、アッバが、イエス様が、共にいてくださる信頼をいただけるようお祈りしましょう。
アッバ、アッバ、南無アッバ


南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ
9/15(土)、10/6(土)変則です御注意を。


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明日、予定通り、南無アッバの集い&平田講座あります!  

お暑い中ですが、お気をつけておいでください。
初めての方は、このブログ、「Menu」をご覧ください。
南無アッバ

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本日13:30予定通り四谷講座やります!  

猛暑の中ですが、ロンドンオリンピックの熱さに負けないよう、予定通り、南無アッバの集い=平田講座を行います。
終わったら、エルで冷たいものでも飲みましょう!

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第24回平田講座要旨=「余白の風」第197号より  

2012年4月=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

p・36
これまで、カール・ラーナーのいう「単純素朴な」信仰経験から、救い表現は多様でいいということを学び、それを日本的に考える場合の言葉・翻訳の問題に入りました。

最近の試みとして注目されている山浦玄嗣さんの「ケセン語訳」や「セケン語訳」聖書やがありますが、「表現の翻訳」ということを考えれば、おのずと文学的要素を無視することはできません。そこで、何人かの日本人キリスト教作家に触れておきたいと思います。

テキストに引用した井上良雄さんの言葉は、『近代日本キリスト教文学全集13 詩集』(教文館、1977年)の佐藤泰正さんの「解説」からの孫引きですが、同じ箇所には、草野心平の「日本のキリスト教に関する詩は、八木重吉の詩をもって私は最高としたい」という言葉も引用されています。

重吉は私も大好きな詩人ですが、今でもキリスト教の詩というと、ああいうひらがなが多い、易しい?詩が典型と見られる傾向があるかもしれません。昔、井上神父様と会話していたとき、「自分がが重吉の詩で好きなのは、みんな晩年――昭和二年(1927)死去――のもの」といっていました。井上神父はこの年に生まれています。重吉をまだ読んでいない方で、彼がどんな信仰を持っていたかを知りたい方は、『神を呼ぼう』(新教出版)がおすすめです。わたしは代父を頼まれたときは、よくこの本を受洗者にプレゼントしています。

p・37
つぎに、内村鑑三は「二つのJ」で有名ですが、全集が今までに何回も、新しく編集されています。最初に日本とキリスト教ということを意識した人で、イメージが武士道で固いですが、じっくり読めば、何か「後世への遺物」がみつかるかもしれません。晩年、「自分は無教会じゃなかったらカトリックに行ったかもしれない」と言ったというエピソードが残っています。

三人目は椎名麟三です。代表作としては『永遠なる序章』など。『私の聖書物語』のなかでは、「バカヤロー」の本だと思っていた「聖書」の復活記事(ルカ24:36-43)を読んで、贖罪ではなく、劇的な復活体験をしたという、プロテスタントとしてはめずらしい回心を語っています。「聖書」に書かれたキリスト信仰――生死を自由に行き来するイエスから、「ほんとうの自由」とは何かということを考えた人です。


南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ
7/28(土)、8/25(土)、9/15(土)

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「風の家」26周年記念 南無アッバ合同の集いより-画像と音声  

5月26日の集いは、お天気にも恵まれ、井上神父様の久しぶりのお話を聞くことができました。
会衆のなかには、「今までの話の中で、最高のものだった。今日聞けた人は幸いだ」という方もいらっしゃいました。(以下撮影:佐藤正広)
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以下、録音をYouTubeにアップしています。
ご感想などお待ちしています。
南無アッバ
1.南無アッバのうた
2.広谷和文先生講話(1)
3.広谷和文先生講話(2)
4.替え歌讃美歌夕焼け小焼け合唱
5.井上洋治神父講話(1)
6.井上洋治神父講話(2)
7.平田栄一 小話

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23-12 「余白の風」196号に載せた要約のつづき全部です  

処女作『日本とイエスの顔』の第一章は「ことばといのち」。

そこでは、講座でもやった「ゼノンの逆理」――アキレスと亀の競争――バレリーナの躍動感はスナップの細切れ写真ではわからない、という――理性知と体験知の対比――そのすぐ後に、「理性の言葉や概念」は各民族によって、切り口が違うといっています。

言葉で説明することの便利と限界ということ。個々の「言葉」を直訳・逐語的に一対一で対応させても伝わらない。

井上神父は、日本人にわかる「言葉」として翻訳する。例:「愛」→「悲愛」、「聖霊」→「おみ風さま」など。

しかし「贖罪」(罪を贖う)「犠牲」(罪人のために死んだ)などはめったに口にしない。これらをどう表すか。

二九頁に引用した「至らなさ」というのは井上神父のいう罪の要素の一つ。

また、私は『すべてはアッバの御手に』で井上神父の言う罪を、「申し訳なさ」「エゴイズム」とも分析した。

こういういくつかの要素、エレメントをもったニュアンスが神父の「罪」意識の内容です。

最近、日本語への翻訳の試みとしては山浦玄嗣さんの「ケセン語訳聖書」などもあります。

心に残ることば *余白

V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』より

「人間の不完全性にこそ意味がある」(52)

「それぞれ違った仕方で、『自分なりに』不完全なのだ」(53)

「ひとりひとりの人間が、なんらかの仕方でかけがえがなく、代替不可能で、代わりのない存在になるのです。」(53~54)

*不完全性は人の代替不可能性を示唆する。また、パウロのキリストの体論を想起させる。

次回南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ
6/23(土)

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23-10 文化間のニュアンス  

井上神父が、よく使うたとえですが、時計とか机とかいう個物の「言葉」なら一対一対応で翻訳して意味を伝えられる。
しかし、ちょっと精神的な「表現」になると、そのニュアンスを伝えるのは文化間では難しい。

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23-9 ■現代日本の神学を  

井上神父はまず、日本人には日本人の神学を、という発想の理由を述べます。
この前提として、翻訳の問題がある。すなわち「言葉の翻訳」「表現の翻訳」という問題。

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23-8 インカルの方向  

救いのunity(唯一性)は、その表現のuniformity(画一性)とは違う。
だから多様な文化内開花インカルチュレーションを認めることになるわけです。

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23-7 救い表現の多様性  

この「原初的経験」から出てくる救済論は、どれも「外から」の「解釈」だとラーナーはいう。
つまり「単純素朴」な救いの現事実からみれば、表現の多様性があっていいということ。

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23-6 ラーナーと井上神学  

まずアッバの、すべての人を救いたいという意思ありき、ということです。
このへんも主体があくまでアッバというところなど、井上神学によく通じます。

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23-5 無意識の信仰  

こういう構造があるから、ラーナーの「無名のキリスト者」とか「包括主義」というのは、キリスト教の明示的意識的信仰がなくても、いわば無意識でキリストに従っていれば救われるっていうことにつながるのだと思います。

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23-4 根本に神の意志  

もっとここのところをよく読むと、その経験は神の救いの意思の「実在」化がもとにある。
だから、究極的にはわれわれの救いは、信仰以前の経験さらにそれ以前の神の意思の実在にあるということ(信仰←経験←実在)。

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23-3 信仰以前の経験  

経験から信仰が生まれる、ということ。
それで「救い」の根拠は信仰以前の「経験」=宗教体験にあるということになる。

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23-2 カール・ラーナーの神学  

信仰以前の経験、だから「原初的」ともいえる。
これはわたしの解釈も含まれますが、ラーナーのラディカルさというのは、ふつう「信仰が大切だ」っていいますよね。
ところがラーナーの場合、われわれが信仰、信仰と、はじめに信仰ありき、と言っているその根本の保証が、救いの「経験」=事実にあると言っているようなところです。

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平田講座(23)要旨1  

2012・3・24=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

前回まで、「信仰」の内実をめぐり、3つの立場、そしてカール・ラーナーの「下からの神学」「無記名のキリスト者」を見てきました。今日は、引用部分の解釈からです(三四頁)。

ここでちょっと面白いと思うのは、「救いの原初的な経験」と言っている所。
「原初的信仰」ではないんですね。

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予告:今週2月25日(土)南無アッバの集い&平田講座(第22回)  

メニュー(予定)
・南無アッバの祈り
・講座:カール・ラーナーの神学
・分かち合い
・風の家の祈り

講座後はカトリック喫茶エルへ。

くわしくは、このブログサイドバーをご覧ください。

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第21回南無アッバの集い&平田講座報告  

ご参加くださった皆様、寒い中をお出かけくださり、ありがとうございます。
また、お越しかなわなかった方のために、ご報告します。

今日のテキスト:『心の琴線に触れるイエス』p.33
<井上神父は、イエスの十字架を、人間の罪の犠牲(サクリファイス)としてよりも、「私たち一人一人の人生の苦しみをそこでいわばmitleidenして(共に担って)くれた」もの、あるいは「汚れを取り去った、神との調和を回復した」ものとして受け取っています。

十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛(「悲」は「共に」悲しむの意を含む)の頂点に位置するものと考えているのです。

ですから、「井上神学には十字架がない」ということにはならないのです。

十字架による救いというものの「ニュアンスの置き方」が、あの質問をした牧師さんたちのキリスト教とは違うということです。

けっして罪の問題そのものに関心がないわけではありませんが(この点に関してはいずれ改めて論じたいと思います)、こと十字架の受けとめ方という点に立てば、ここでも井上神学には罪の問題よりも苦しみの問題に重心があるといってよいでしょう。>


今日の学び
前回から、十字架=「共苦」すなわち「悲愛」の頂点と見る井上神学=アッバ神学との比較で、古来からの十字架の様々な意味を検討しています。

日本人の感性で、イエスの十字架にどう、実感を持って意味を見出すか、分かち合って行きたい思います。

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四谷の平田講座は今週土曜=12月17日(土)です  

クリスマスとの関係で、今月は第3土曜日となりますので、お気をつけください。
どなたも、ご自由においでください。
左サイドバー参照。

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第19回南無アッバの集い&平田講座(報告)  

11月26日(土)
出席者16名。
とくに、広島や会津など、遠方からおいでくださった方々、ありがとうございました。


テキスト『心の琴線に触れるイエス』p.32-33

十字架から復活へ

さて、その上で井上神父は、どちらかといえば「十字架というよりも復活」を救いの中心に置くと、先の佐古氏との対談で述べています。これはどういうことなのでしょうか。

そこでまず、井上神父が十字架をどういうものとしてとらえているのか、を見てみましょう。

井上神父は、牧師さんたちの集会で講演をしたとき必ず出るのが、「井上神学には十字架がないのではないか?」という質問だいいます。十字架がなければイエス教ではあってもキリスト教ではなくなってしまう、という心配が根底にあるのでしょう。井上神学に対して疑問を投げかける牧師さんたちが考えるキリスト教は、佐古氏に代表されるように、わが罪の自覚とイエスの十字架の犠牲・贖罪、それが救いの中心にあるようです。

しかし井上神父は、イエスの十字架を、人間の罪の犠牲(サクリファイス)としてよりも、「私たち一人一人の人生の苦しみをそこでいわばmitleidenして(共に担って)くれた」もの、あるいは「汚れを取り去った、神との調和を回復した」ものとして受け取っています。十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛(「悲」は「共に」悲しむの意を含む)の頂点に位置するものと考えているのです。

ですから、「井上神学には十字架がない」ということにはならないのです。


講座後は、いつものように、カトリック喫茶エルで楽しいおしゃべりの時間をすごしました。
南無アッバ

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10月29日(土)予定通り  

南無アッバの集い&平田講座を実施します。
くわしくは、
←サイドバーをご覧ください。

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第17回南無アッバの集い・平田講座報告  

レジメより
1.はじめに――南無アッバの祈り 皆で唱えましょう
アッバ アッバ 南無アッバ
 イエスさまにつきそわれ、
生きとし生けるものと手をつなぎ
 おみ風さまに包まれて
アッバ アッバ 南無アッバ

2.お知らせと報告
(1)井上神父、立川教会にてチェレスティーノ神父と共同司式ミサ(9/18)
 お説教(音声)を平田のブログ「南無アッバ」を生きるにアップしました。
(2)次回、平田講座の予定 第18回 2011年 10月29日(土)

3.講座
(1)前回まで
Ⅰ.井上神父の体験主義・実践主義 Ⅱ.井上神学の救済論――救いはイエスの全生涯から ■U先生の思い出 ■佐古・井上対談 ■罪と苦しみ ■イエスの全生涯を重視-史的イエス研究史概観
―――――――――――――――――――――――――――――
(2)ここから「心の琴線に触れるイエス」
p.30
H.福音書は~
I.しかし井上神父は~
p.31

4.質問と分かち合い

5.おわりに――「風の家の祈り」皆で唱えましょう
アッバ。
利己主義に汚れている私たちの心を、
あなたの悲愛の息吹きで洗い浄めて下さい。
空を行く雲、小川のせせらぎ、
一輪の野の花が捧げる祈りに合わせて、
私たちの祈りを
あなたの御前で澄んだものとして下さい。
人々の弱さ、欠点、罪を裁くことなく、
まずこれらを受け入れられた御子イエスの
悲愛の心に、私たちの心を近づけて下さい。
また、御子イエスが、
深い哀しみと痛みを背負って、
重い人生を歩んでいた人たちの心を映しとり、
受け入れ、友として生きられたように、
私たちにもそのような人々の心を映しとれる
友の心をお与え下さい。
苦しみも、哀しみも、喜びも、すべてを
あなたの御手から受けとることによって、
私たちの日々の生活が、あなたの悲愛の
息吹きの働きの場となることができますように。
主キリストによって アーメン。

*お時間のある方は、このあと喫茶店「エル」へどうぞ。

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音声・画像アップ「風の家」25周年・感謝の集い・井上洋治神父  

Youtubeにアップ
当日の写真
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たいへんお元気に話されていました。(2011年6月12日、四谷駅前主婦会館にて、録音:平田、録画:佐藤)

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第13回 四谷講座ノート 2011-5-28/2.井上神学の救済論(6) 罪と苦しみ-イザヤ書から  

講師:平田栄一(二〇一一・五・二八 四谷ニコラバレ)

■罪と苦しみ
 これまでみてきた『パウロを語る』の引用部分を中心に、井上神学の救済論の特徴を見ていきます。

A.【緑p.24】ここでなぜ『イザヤ書』を持ち出したかと言うと、短い引用のなかで、罪と苦しみとイエス、この三者の関係をにおわせる旧約の箇所だからです。
・イザヤ書概要――三大預言書『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』の一つ。著者について、聖書自身は八世紀に活躍したイザヤに帰す。が、学問的には三つ、少なくとも三人(以上)の著者がいたと考えられる。一~三九章「第一イザヤ」、四〇~五五章「第2イザヤ」=バビロン捕囚~帰還、それ以後が五六~六六章「第3イザヤ」。新約聖書中、最も引用されている。とくに、メシア預言の文脈=第二イザヤ。
では「苦難の僕の詩」の中味を見ていきましょう。

B.【p.25.1】この「苦難の僕」については、古来いろいろ解釈されてきた。①教会の伝統では「イエス」、②集合的に「イスラエル民族」、③その他の個人、預言者。

C.【p.25-5】「七十人訳聖書」=Septuaginta[ラ]ギリシア語訳旧約聖書。BC三~一Cにかけ、アレクサンドリアのディアスポラでヘブライ語からギリシア語へ翻訳。七十二人が七十二日間で訳した、という伝説。新約の引用は主に七十人訳から。現存する旧約のヘブライ写本より古いので、本文批判では重要。
ここでは、わたしは「主の僕」の主体を議論するのではなく、客体=背負ったものを問題にします。罪と苦しみということです。

まとめとして、病・痛み→苦しみ、背き・咎→罪。

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第12回 四谷講座ノート 2011-4-30/2.井上神学の救済論(5) --隠れキリシタン神話の変容過程  

講師:平田栄一(二〇一一・四・三〇 四谷ニコラバレ)

前回まで、テキスト=『心の琴線に触れるイエス』(緑本)p.20からの佐古・井上対談を、引用元の『パウロを語る』まで遡りながら、お二人の神学の違いから、井上神学の特徴を探ってきました。今回は、その最後の所、p.23「血」の話が出てきた所からです。

【緑p.23.7~朗読、以下同様】「生臭い血」を強調するのではなくて、「復活に包まれた十字架」、私見ですが、「犠牲」や「贖罪」といわれてきたことを否定するのではないが、それらを包含する「復活」を強調した方が、日本人への伝道には良いという意味かと思います。「秋の空」「平安の中」「御父の静寂に包まれた十字架」等々、これらは、前回触れた『日本カトリシズムと文学』(戸田義雄編)に載っているシンポジウムの「女の子」の話、そのちょっと前でも、同じようなことを神父様が言っています。井上神学と北森神学の違いを指摘した所で、緑本でも、このあとp.52あたりで出てきますが、そこでは端折ったところを含めて、お読みします。

【戸田p.195~】その絵【プリントを回す】これは、十字架のヨハネの詩集の表紙絵image007.gifですが、もう一枚のこちらは、image005_20110503190925.jpgそれをヒントに二十世紀のスペインの画家ダリが描いたものです。

十字架、それは大変なことだし、キリスト者にとって大事なことなんですが、それを「たいへんだ!神の子が磔になって、おまえたちの罪のために今も血を流しているんだぞ!」っていうのは、それはそうとしても、どくどく血を流した所で終わるんじゃなく、それを全体としてそっと包む――おまえも大変だったなあ、御苦労さま!っていう感じでしょうか、そういう御父の暖かさ、アッバの安らぎが最後は欲しい、ということでしょう。こういうのは、キリスト教の変形や異端ではないと思います。力点や見方の違いです。

【挿話】「変形・異端」といえば、「風」今号87号でも触れたのでちょっと重複しますが、昔、隠れキリシタンが、長い潜伏の間に、伝えられた聖書を改作したという話があります。「日本人のキリスト教受容」という点で興味深い話なので敷衍しながら、紹介します。

以下は、河合隼雄さんの『物語と人間の科学』(岩波書店)「隠れキリシタン神話の変容過程」という所からの話です。たとえば「創世記」の『天地はじまり始之事』では、

・原罪が消える――アダムとイヴに「おまえたちは罪を犯したのだから、今から四百年間後悔しろ、そうすれば「はらいそ」に戻す」とデウスがいうのです。こういうふうにアダムとイヴが許されたり、サタンも徹底した悪にならない。これは、日本人が絶対的な原罪や絶対的な悪を理解し難い、受け入れ難いという心性の表れだと河合さんはいうわけです。

・日本神話の「中空構造」――日本は多神教でいっぱい神様はいるけれども、真ん中にいるアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)は何もしない。真中が空いている。それに対して、「旧約」では中心にGodがどーんといて、すべてを作る。そうすると河合さん曰く旧約の「何が正しいとか、何をなすべきであるとか、何がどうだという原理」=創造・律法・善悪などを明確にしようとする心性に対して、日本の場合は、「全体のバランス」がよかったらそれでよろしいと、いうふうになっているわけです。」

つまり、旧約の重い神が正義と掟と罰=「俺の掟を守れ!さもなくば・・・・」っていうのとは対照的に、日本神話では全体のバランスがよければOKということになる。もちろん、どちらが正しいということではありません。日本人の「バランス」感覚は、見方によれば「あいまいさ」にも繋がります。

河合さんの論は、必ずしも「旧約」から律法を超えた「新約」の変化が明確ではないのですが、井上神学や日本人とキリスト教を考えるときに、大変参考になる研究だと思います。

その他に「隠れキリシタン神話の特徴として、神が「能動」的に「光あれ」というのではなく、神自らの「分身」として光を作ったり、母なる宗教性、円環的人生観――踏絵と償いを繰り返すことから暦を大切にしたとか、カインとアベルの話も、日本では農耕と牧畜を対立的に考えることには意味がないので削除されたりとか、いろいろ指摘しています。

テキストにもどります。
【緑p.24~】前回、井上神父が「義=美」ととらえている、ということを学びましたが、そういうことを含めて佐古氏が井上神父を「美意識」、「文学者」ととらえる直観は、言い得て妙ですね。このテキストでも私は「文学になった神学」ということで、第七章で述べていきます。続けて、

【緑L5~】求道中に私もいろいろキリスト教の入門書や教会を物色しましたが、やはり、佐古さんのような持って行き方の方が、あの頃はプロテスタントなんかではメジャーだったんじゃないでしょうか。それで井上神父に出会って、どこがどう違うのか、ということをずっと考えていて、受洗十年後に『パウロを語る』のこの部分を読んで、「あー、こういうところか」と「微妙なニュアンスの違い」――もやもやみたいなことがはっきりした、という感じだったのです。

category: 南無アッバの集い&四谷講座

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