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*本日、南無アッバの集い・講座、予定どおり行います*新刊句集『星屑のアダム』サイン本直売もあります。  

第111回「南無アッバの集い&平田講座」のご案内
2019年9月28日(土)
PM1:30~3:00
於:四谷・幼きイエス会

内容(予定):
・新刊句集『星屑のアダム』について
・摂理を詠む(続)
・苦しみからの神学

参加費:1,000円

どなたでもお気軽においでください。

前回欠席された方、初めての方、1回だけ参加の方も大歓迎!

どなたにもわかりやすいように進めますので、ぜひお出かけください。

テキスト・今後の日程・会場案内図

★変更・中止のお知らせ等は、このブログにアップしますので、お出かけ前に今一度、ご確認ください。


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要約・南無アッバの集い&平田講座第52回  

実施14-10-18
「余白の風」第236号掲載
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

〇前回まで、テキスト55頁■「痛み」と「悲愛」の第二段落、「共に」を巡って、野呂芳男氏の北森神学批判から、〝北森神学は、怒る神を前提とした父性原理が強く、戦後の日本人が欲した苦しみを共にしてくれる神ではなかった〟ということをお話ししました。

母なる神は、遠藤周作の「同伴者イエス」、井上洋治の「アッバ」、また青野太潮の「ために」でなく「ともに」のキリスト論などによって、ようやく開花してきたといえましょう。
 
次に進みます。

56頁A
「また彼(パウロ)は『ローマの信徒への手紙』八章で次のように言っています。

『つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。』(八章二一節)

ここでの被造物クティシスという言葉は、人間以外の生きとし生けるものをさしていると考えられますが、パウロはここで、この生きとし生けるものは、私たちと共にうめいている(スステナゾー)と言っています。

このスステナゾーという動詞はステナゾー、うめくという動詞にスン、共にという意味の前置詞をつけたもので、この共にというところに、人間中心主義をこえたパウロの、人間と生きとし生けるものとの深い共生感がうかがわれます。」

(『風の薫り』一九三~一九四頁 傍線平田)


「共に」という、パウロに見られる「共生の神学」の例示です。

この井上神父の言葉はここでは「人以外の生きとし生けるもの」との共生を強調していますが、「共にうめく」という所は「十字架の神学」を想起させます。

青野流に言えば、ただ共生するのではなく、「十字架」を共にする、という点が強調されるわけです。


 井上神父はご存知のように、晩年は老いの苦しみを正直に訴えていました。

これまでもお話ししましたが、そういうことを言う神父様というのは、私も見たことがない。

愚痴をいう神父というのはいましたが、こういうふうに弱みや寂しさを、あたかも逆告解のように、一般の私たちに率直に言える井上神父というのは、やはり人間的なプライドをこえて、イエスさまに、アッバさまに捕らえられていたからこそだったのではないか、と思うのです。


 そういう井上神父は、青野氏がいうような十字架の「弱さ」を共に生きた、すなわちパウロが言った「わたしもまたイエスのように」(一コリント二・三)という福音のポイントを生きられたのではなかったでしょうか。

だから晩年のあの神父の泣き言のような発言も、それをただ「神父ともあろう者が情けない」と受け取るのは、考えが浅い、ということになると思います。


「余白の風」入会案内
このブログサイドバーからメールでお問合せください。


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2019年度、南無アッバの集い&平田講座の日程  

「風編集室」主催の南無アッバの集い&平田講座「井上神父の言葉に出会う」を次の日程で行います。
途中から、または1回のみの受講も可能です。

○日程:原則として、毎月第4土曜日です。
2019年
2月23日(土)
3月23日(土)
4月27日(土)
5月25日(土)
6月22日(土)
7月27日(土)
8月24日(土)
9月28日(土)
10月26日(土)
11月23日(土)
12月28日(土)
2020年
1月25日(土)
2月22日(土)
3月28日(土)

○時間:13:30~15:00

○場所:幼きイエス会(ニコラバレ)会議室(03-3261-0825 四谷駅麹町口前)地図

○講師:平田栄一

○受講料:各回1,000円 当日、受付にてお支払いください。

○内容:下記文庫を補足しながら、井上洋治神父の説く日本人のキリスト信仰について考え、分かち合います。

○テキスト:『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫 525円 当日販売もあります。)

○問合せ:平田栄一 メール

*事前申し込みがなくても、参加可能です。



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要約・平田講座22--100回記念特集  

<テキスト『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)>

十字架のいろいろな意味を一覧し、井上神父の十字架=共苦の頂点を確認しました。

その上で、「信じる」とは何かをめぐり、カール・ラーナーをとっかかりにします。

p.34.5-E
<カール・ラーナーという現代のカトリック教会を代表する神学者は、次のように述べています。

「救いの意義の原初的な経験とは、ただ単純素朴に、『われわれは救われた、なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ、このことによって神が御自分の救いの意志を、歴史の上で現実的に、撤回不可能な形で世界的に実在させたからである』という経験であった。

これに対して、外から持ち込まれた解釈は、一つの可能性ではあるが、だからと言って絶対に不可欠なものではない。」

(百瀬文晃訳『キリスト教とは何か』三七六頁)>


彼の大きな働きは、他宗教との対話へ道を開いたことで、包括主義という立場が象徴的です。


キーワードとして「無名のキリスト者」という言葉があります。

これは、ラーナーの用語で、キリスト信仰を告白していなくても、客観的にキリストの救いに参与している人がいるということです。

井上神父もこの用語について「風」八一号で、「無記名のキリスト者」として「洗礼」の必要性に関して、一文を書いています。


それを要約すると――

1.洗礼はイエスの生前でなく、復活後にはじまった。


2.イエス以前の旧約時代の人はどうなるか?

→「自覚的信仰eplicit」に対して、「含蓄的信仰implicit」--神を信じ、神のことはなんでも受け入れる--によって救われる。

例えば、「望みの洗礼」=自覚がなくても聖霊の働きに誠実に開かれた心を持てば救われる。


3.救いの基本は「自我の明け渡し」にかかっている。

4.「記名のキリスト者」と「無記名のキリスト者」の違いは救いの可否ではなく、同じ「キリストの体」を構成するなかの「役割」の問題である。

--以上です。


百瀬文晃神父は、井上神学に通じる、「下からの神学」を重視する神学者です。

例えば、イエスはなぜ十字架にかかったのかを説明する場合、「上からの神学」では、「罪人の罪を贖うため」、というふうに、即目的論(for)や神学的意味に持っていきますが、「下からの神学」では、「悲愛を貫いたから」(井上)というように、まず一般の人が理解できるように理由(by)や歴史的原因を説いていきます。


ラーナーの『キリスト教とは何か』を訳した百瀬神父の「解説」には、「未来の神学、また日本の神学のためにこそ、ラーナーの神学から多くのことを学び得る」とあります。


つづく


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要約・平田講座21--100回記念特集  

<テキスト『心の琴線に触れるイエス』>

前回から十字架を悲愛=共苦の頂点とみる井上神学の意味を探っています。

その比較のため、ローマ帝国、ユダヤ教、そしてパウロなどの考えを学んできました。

もう一つ補足しますと、十字架を私たちに対する招き、抱擁とみる見方があります。

ミサの第二奉献文叙唱に「・・・・人々をあなたの民とするために、手を広げて苦難に身をゆだね・・・・」というのがそれで、マザーテレサなどもしばしば言及していたと思います。


p.33.1-E
<十字架による救いというものの「ニュアンスの置き方」が、質問をする牧師さんたちのキリスト教とは違うということです。けっして罪の問題そのものに関心がないわけではありませんが、こと十字架の受けとめ方という点でいえば、ここでも井上神学においては罪の問題よりも苦しみの問題に重心があるといってよいでしょう。>


十字架即贖罪という一義的な意味づけをするのではなく、共苦=悲愛の象徴、頂点と受けとめる方が、日本人には受けとめ易いと思います。


p.34.1-4
<■救いの原初的経験

たしかにキリスト教とは、「イエスをキリスト(唯一の救い主)」ととらえる信仰であることは間違いないのですが、その捉え方が問題なのです。

イエスを「信じる」というときの内実が問題になるわけです。>


「信仰」というとき、「信じるときの内実」とは、「何を」信じるかだけでなく、「どう」信じるかも含みます。

またこう自問しているとき、すでに私たちは「自分」中心の問いを発しているのかもしれません。

これが転換しないと、真の信仰にはならない。


ルターは「信仰のみ」と言いましたが、そのときの「信仰」とは、「神によって働く信仰」という意味だと自註しています。


『ガラテヤの信徒への手紙』五章六節を、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と訳していますが、ギリシア語原典は「ディ・アガ‘ペース」で、愛を介して(手段・媒介・原因)働く信仰ということです。

この愛は神からの愛とも受け取れます。

ちなみにTEVという英語聖書は「what matters is faith that works through love.」とあり、この愛がどこからの愛とは書いていませんが、スルー=その愛を「通して」働く信仰という意味合いを明確にしています。


そもそも信仰=ピスティスは、むしろ「信頼」というべきでしょう。

井上神父様もそうだし、最近注目されている「ケセン語訳」聖書の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)氏なども「信頼」と訳すべきと言っています。

あちら様が主体で「お任せ」すること。

そう訳し変えただけで、ずいぶん日本語のニュアンスが違ってくる。

さっきの「おまえは何をどう信じるか」といったときの気負いもなくなる、という気がします。


話はそれますが、『マルコによる福音書』一章一五節は、ふつう、「・・・・福音を信じなさい」と訳していた所を、岩波訳聖書では「・・・・福音の中で信ぜよ」と、「福音」を信じる対象でなく、信仰者が置かれている「場」しています。

原語のギリシア語では「ピステウエテ・エン・トー・エウアンゲリオー」ですが、田川建三訳も「なかで」と訳しています。

日本人には、この方がピンと来るように思います。


つづく


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要約・平田講座13--100回記念特集  

第13回

これまでみてきた『パウロを語る』の引用部分を中心に、井上神学の救済論の特徴を見ていきます。


テキスト『心の琴線に触れるイエス』p.24からです。


A.
<■罪と苦しみ

イエスによる救いについて、旧約聖書の『イザヤ書』五三章は預言的に語っています。

有名な「主(苦難)の僕」に関する次の箇所から引用してみましょう。

(マタイ八・一七参照)>


ここでなぜ『イザヤ書』を持ち出したかと言うと、短い引用のなかで、罪と苦しみとイエス、この三者の関係をにおわせる旧約の箇所だからです。


・イザヤ書の概要を示しますと――

三大預言書『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』の一つ。

著者について、聖書自身は八世紀に活躍したイザヤに帰す。

が、学問的には三つ、少なくとも三人(以上)の著者がいたと考えられる。

一~三九章「第一イザヤ」、

四〇~五五章「第2イザヤ」=バビロン捕囚~帰還、

それ以後が五六~六六章「第3イザヤ」

新約聖書中、最も引用されている。

とくに、メシア預言の文脈=第二イザヤ、となります。


では「苦難の僕の詩」の中味を見ていきましょう。


p.25B.
<「彼(苦難の僕)が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであった‥‥(四節)


彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。


彼の受けた懲らしめによって

  わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(五節)」>


この「苦難の僕」については、古来いろいろ解釈されてきました。

①教会の伝統では「イエス」、

②集合的に「イスラエル民族」、

③その他の個人、預言者等々。


C.
<「主の僕」(キリスト教の解釈ではイエス)が背負ったのは、わたしたちの「病」や「痛み」(四節)であり、「背き」や「咎」(五節)であったとされています。

ここで「病」や「痛み」を〝苦しみ〟全般ととらえ、「背き」や「咎」は〝罪〟と読み替えてもよいと思います。

七十人訳聖書も、「この人はわたしたちの罪を担い、わたしたちのために苦しみを受けた」と訳しています。

するとイエスが担いかつ癒したのは、わたしたちの苦しみと罪の両方ということになります。>


「七十人訳聖書」=Septuaginta[ラ]ギリシア語訳旧約聖書です。

BC三~一Cにかけ、アレクサンドリアのディアスポラでヘブライ語からギリシア語へ翻訳されました。

七十二人が七十二日間で訳した、という伝説からきています。

新約の引用は主に七十人訳からなされています。

現存する旧約のヘブライ写本より古いので、本文批判では重要なものとなります。


ここでは、わたしは「主の僕」の主体を議論するのではなく、客体=背負ったものを問題にします。

罪と苦しみということです。


まとめてみますと、


病・痛み→苦しみ、

背き・咎→罪、


となります。



つづく


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要約・平田講座1(4)--100回記念特集  

つまり井上神学は、「イエス様は十字架にかかって復活した」というときの「十字架」や「復活」だけを強調するのではなく、お生まれになったときから、たとえ話も含めて、とくに、苦しんでいる人や病んでいる人に、どうやって接していたか、どういうまなざしをそそがれたかということを、重視していく、ということです。


その小さな、それぞれのたとえ話を聞かされた人や、イエス様が出会ったいろいろな人々がどのように救われていくか――そういう意味で言えば、イエス様は十字架にかかる前に、その人たちを救い、イエス様がその苦しんでいる人の身代りになった、という言い方もできると思います。

そこに小さな救いがある。いわば、大きな十字架と小さな十字架の二重写しになっている。


ですから、井上神父の本を読むと、一直線じゃなくて、いろいろな話の中に十字架があって、福音もある。

また違う話になると、そこにも小さな十字架を背負っている人がいて、それをまた助けるイエスがいる。

小さい十字架と復活を繰り返していって、最後に大きなイエス様のメインの十字架と救いが出てくる。

そういう構造になっています。

そういう意味では、どの本から読んでもかまわないと思います。


つづく


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要約・平田講座1(3)--100回記念特集  

そのずっと後ですが、U先生は、亡くなりました。

それで奥様が残されたのですが、この方もずっとカトリックに興味を持たれていました。

もと中学の先生で、もう退職されていましたが、歌人でしたから、そういうこともあって、この「余白の風」に原稿を頂いたこともありました。

ご主人が亡くなったあと、この奥様から相談を受けました。

「平田さんに、ちょっと、折り入ってご相談があるの・・・・」と言われる、「あなたは、カトリックになって何年にもなると思うけど、〝復活〟ってどういうことなんですか?」と。

「あなた、当然知ってるんでしょ?」みたいな感じで聞かれたんです(笑)。

それでしどろもどろ、当時知ってる知識で答えました。

なんで奥様が、復活に興味を持たれたかというと、実はこのご夫婦は、周囲がうらやむくらい熱烈な恋愛の末に結婚された。

結婚できなきゃ死んでやるみたいな(笑)

情熱家同士でしたから、駆け落ちして家庭作って・・・・という感じで――だから、自分が死んで復活するかどうかというより、先になくなった御主人に会えるか、ということが問題だったんですね。


御主人がなくなって、一人でだんだん老いていく。

U先生も癌で亡くなったのですが、こういうところで病気とか苦しみとか、さっき触れた告解にまつわる罪の問題とか、そして復活。

そういう問題というのは、日本人なりに大きな関心がもたれるんだろうなあと、感じたのです。

そして、こういうものが日本人として受け止められないと、なかなか洗礼というところまではいかないのではないかと思ったのです。


わたしたちも、遠藤さんや井上神父のように強烈な個性の持ち主と会ったときなどは、告解はどうしようかとか、洗礼受けたら教会に月何回いかなきゃならないかとか、そういうことは考えないでしょう。

えいや!といって洗礼を受けちゃうかもしれない(笑)。

だけど一般の目から見れば、聖書を読んでも、こういうことでひっかかってくる人がいるのではないか、と。


これも余談ですが、このU先生の母方のお祖父さんというのは、埼玉県の東秩父村の村長さんを務めていた方です。

若い頃から求道心が強く、神道、仏教、プロテスタントいろいろな宗教に求道して、最後にカトリックになったのだと、U先生に聞きました。

上智のH・ホイヴェルス神父様から洗礼を受け、月に一回、何時間もかけて東京のミサにあずかっていたということです。

この方が、村で最初のキリスト者になった高田群次郎という人です。


ですから、高田氏のお葬式のときは、J・カンドウ神父とともに、当時上智の学長だったホイヴェルス神父もいらっしゃったというわけです。

さらについでながら、私事を述べさせていただきますと、そのときに、いわば鞄持ちとして若いフランス人の神父が一人ついてきました。

ローランド神父というパリミッション会の方ですが、そのときからU先生と神父様は親友になります。

そして三十年後、受洗したばかりの私が浦和教会に所属するとすぐ、そこの主任司祭としてローランド様がいらっしゃったのです。

そこで「尊敬する人」について二人でたまたま話しているときに、U先生がお互いにとって共通の恩師、親友だということを知ってたいへん驚きました。

本当に不思議な御縁としか言いようがありません。

(このローランド神父については、拙著『俳句でキリスト教』一二一頁参照)アッバのお導きを感じずにはいられません。


話を戻しますが、そんなところから、私も少しものを書いて、神学者とかではなくて、一般の求道者としてわかることを書いていこうと思ったのでした。


こうして、「復活」と「罪」というきっかけができたのですが、井上神学ではこれらをどのように受けとっているのかなと、とくに意識して考えるようになります。

井上神父様のひとつの特徴としては、たとえば「贖罪」とか「犠牲」とかは、ご本や話のなかにほとんど出てこない。これは佐古純一郎さんと対談をした『パウロを語る』にも書かれていますが、神父様ご自身は意識して使っていない。

「十字架の犠牲」とかですね。

それは生で言っても日本では通じない。

ですから「罪」から行くよりも――「罪」と「苦しみ」はキリスト教ではコインの裏表のようですけれども――どちらかというと、「罪」より「苦しみ」からアプローチした方がいい、それが井上神学のひとつの特徴と言えるのではないかと、思うのです。

もちろん、だからといって、罪を否定しているわけじゃありませんが――

それで、苦しみを中心にするとどうなるか。

いま図版の3(省略)を見ていただいてますが、その下の方、イエス様の全生涯を重視する発想ですね。

つまり「イエス様は十字架にかかって復活した」というときの「十字架」や「復活」だけを強調するのではなく、お生まれになったときから、たとえ話も含めて、とくに、苦しんでいる人や病んでいる人に、どうやって接していたか、どういうまなざしをそそがれたかということを、重視していく、ということです。


つづく


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要約・平田講座1(2)--100回記念特集  

 わたしたちの求道生活を導いてくださるのは、それはもちろん神父様ではあるのですが、その奥にはこの図の矢印で描いたようなイメージで、後ろに控えているアッバだということ。

アッバに呼ばれているということ。

あの世から呼ばれた――お迎えがくるなどと日本人のお年寄りは、半分冗談で半分本気で使うことがあるかもしれませんが、わたしはこれはいい表現だと思います。

あの世から呼ばれるというと、なにか死のことばかり考えているようですが、そればかりじゃない。

あの世っていうのは天の国の言い換えだと思うのです。

そういう意味で言えば、アッバが神の国から呼んでいる、導いている。

そしてそれは死んでから始まるのではなくて、もう今から始まっている、というのがキリスト信仰だと思います。


そういう意味で言えば、井上神父様の書かれたもの、言われたことにわたしたちが少しでも共通点を見つけていくということは、アッバが引っ張っているということと同じだと思います。

そういうふうに考えてわたしも連載を始めたのです。


連載では、「U先生」と書きましたが(『心の琴線に触れるイエス』17頁以下)、高校時代の恩師だった英語の先生のこともわたしが何か書こうと思った大きなきっかけになりました。

U先生は本来の専門はフランス語教育でしたので、カトリックに非常に興味を持っておられました。

で、わたしも妻も同じ高校の同窓生だったものですから、仲人をしていただいたり――ですから、井上神父様にも一度お会いになっています。

そういうことで、卒業後も何回かお宅にお邪魔していました。


で、わたしが洗礼を受けた報告に行ったとき、すごくびっくりされたのです。

「きみ、よく思い切ったね」というのです。

一九八一年のことです。

どうしてそんなにびっくりするのかなあ、と思い、話しているうちに、わかってきました。

先生はカトリックになりたいと思っていたのです。

ある意味じゃ日本よりフランスが好きなような方ですから、そういう意味では井上神父様と合わないかもしれませんが(笑)、カトリックになりたくても告解がダメだ、ということなのです。

もちろん信者ではないから、やったことはない。

わたしたちも同じですが、少なくとも私の場合は、告解のことをそこまで考えてはいなかった、あることは知ってましたが。

でも、U先生は、頭の方から入っていこうというか・・・・ともかく「よく、きみ、そういうことに耐えられるね」という調子なのです。

わたしは、「ああ、そういうものなんですかねえ」そんなに苦痛なのかなあ、などとその時思ったことを憶えています。


おそらくこの問題の裏には「罪」ということ、そして自分の犯した罪を人前でしゃべる、というカトリック教会の秘跡に対する日本人の感性、という問題があるのではないかと思ったのです。


つづく


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要約・平田講座1(1)--100回記念特集  

来たる10月27日は、南無アッバの集い・平田講座が100回目を迎えます。

これにちなんで、本講座記録の抜粋をアップしていきます。

まずは、その第1回から--

〇九年八月二十二日(土)、四谷ニコラバレ会議室にて

講師:平田栄一

早いもので、井上神父様にわたしが最初にお会いしてから二十九年が経ちました。

そのいきさつは今度の新刊『すべてはアッバの御手に』(聖母の騎士社)のプロローグに書きましたが、先ほど計算してみましたら、最初にお会いした一九八〇年といいますと、神父様が五三歳のときなんですね。

実はわたしが、いま五三なんです。

ですから、今のわたしの歳の神父様にわたしが会っていたんです。

だけど、今のわたしがもし、わたしのような青年に会って、「いっしょにお酒を・・・・」なんて言われたら、きっと断ると思います(笑)。

なんとなくかまえちゃうと思うんです。

でも、井上神父様はそうじゃなかったんですね。

すーっと会ってくれて――だいたい初日からお酒に誘われちゃうんですから(笑)。

それは驚きますよ、それまでのわたしは神父に酒を誘われるなんて、思ってもみなかったですから。

もちろんうれしかったです。


 それからお酒が病みつきになったわけではありませんが、神父様の所に行くと、まず、神父様の本にあちこち赤傍線を引っ張ったのを持って行って、「先生、ここにはこう書いてあるんですが、こっちにはそうじゃないのは・・・・」みたいなことを質問します。

するとたいてい、あまりいい顔はされない(笑)。

それで、「あなたみたいに、人が書いた本に線を引いてきて、本人の目の前でこれはおかしいって言う人は初めてだよ」などと言われました。

しかし、とってもよくしてくださって、本当に感謝しています。


 さて、お配りした図版の方をごらんください。

講座1図


ここに丸を二つ描いて、その中を矢印が貫いています。

これはどういう意味かと申しますと、今、わたしの方で自分のことを随分しゃべってしまいましたが、やはり、わたしだけでなく、皆さんの求道生活は、さまざまな環境、事情のなかに置かれているわけです。

わたしのように、就職浪人から具体的な求道が始まった人、あるいは学生さんで学校浪人がきっかけとか、御病気で長く療養されているとか、ご家族にいろんな問題があるとか・・・・。

で、そういうことと、井上神父様が書かれた本なり、ミサでのお話なり、いろいろテープや講演、NHKなどのお話などを聞かれたり、読んだりしたときに、これはまったく別の人――あの方はすごく偉いから、そういうふうに信じられるのだ、という感じで思っていると、いつまでも先に進まないんじゃないか――わたしもそうでした。

つまり、偉くてすごい、というところばり見ていると、自分との間に垣根というか敷居を作ってしまうことになる。

ですから、どこかで接点、この図でいうと、丸と丸が重なってる部分で共感をもって求道する。神父様の本を読んで、たまたま手に取った一冊がピンとこなくても、別のもので、神父様の求道生活を私たちの求道生活が追っていくような考え方でいけば、少しずつでも成長していくのではないかと思います。


 どうしてこんなことを最初にお話しするかというと、これは、神父様の本の読み方ということだけでなく、あとでまたお話しするかと思いますが、こういう感覚の問題が、キリスト教の原点と関係があると思うからなんです。

どういうことかというと、キリスト教の原初的な体験というのは、カール・ラーナーの言葉を要約すれば、「人間イエスは救われた。だから同じ人間であるわたしたちも救われる」という、単純素朴な一事でした。

つまり、イエスがキリスト=救い主だと断言できる原点には、イエスとぼくらは同じ人間なんだという感覚が、当時の人にあったということです。

誤解を恐れずにいえば、それがないとキリスト教は始まらない。

あの人は俺たちと違って、偉い人なんだ、出来が違うんだ、といった感覚だけじゃ、キリスト教は始まらなかったのです。


つづく


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日本人にわかるキリスト教を求めて

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