「南無アッバ」を生きる ホーム »○求道詩歌
カテゴリー「○求道詩歌」の記事一覧

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第226号 2017年5月発行  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ *選評

八王子・F・井上
カタクリの祈るかたちに魅せられて
痛みまた恵みとなりし南無アッバ
十字架の道ありがたく有りがたく
過越していただく命南無アッバ
後なんぼ大切になる南無アッバ

*②③ご親族やご自身の病、老いを真摯に受け止める姿が清々しい。「十字架の道」はけっして滅びの道ではなく、再生の道、再会の道であることを、主は証明されました。

練馬・魚住るみ子
紅梅にぽつり二輪ひらき初め咲き盛りゆくくれなゐぞ濃き
雪山に消えしいのち生命よ南無アッバ アッバ アッバ祈るのみ南無
愛用の手さげ失せたり南無アッバいきさつなべて覚えずありぬ
  『風の道』
復活節の今宵を君の額づけるパドヴァなる聖アントニオ教会

*②若き貴重な命が失われた事故。ご本人たちの無念と親御さんの悲しみは測り知れない。①同時期、新しい命が同じ自然のなかで育まれている。

名古屋・片岡惇子
囀りや目覚めよと声近くなり
生き様に残るものなし雪解川
残雪や解けたる傷は主のこころ
あなたの他行く道なきや四旬節
生かされて草餅美味しミサの後
復活祭古き衣を脱ぎきれず

*②「復活とは、神の懐に蘇ることだから、そういう切り口で考えるならば、神様の記憶に残っているというほうが、たしかなものかもしれない。・・・私の生きた証しも神様の中に残るということだと思えます。」(井上洋治『我等なぜキリスト教徒になりし乎』)九七頁)

豊田・佐藤淡丘
山おろす花となりけり山桜
葉桜や風を呼ぶさへあどけなし
乾坤や花の一撃目が眩む
白れんや天の蝋燭消さず待つ
遠目にも手招く辺り若葉摘む

日の出の時刻がお正月の頃から比べると、一時間程早くなりました。「会神の丘」への切り通しも足の下から明るくなり、ひとり祈る秘密の場所。ここも折からの曙光に照らされ、身震るいするほどの「しじま」を与えて下さいます。五体投地の我に囀りが被さります。アッバ・アッバ・南無アッバ

*とてもよい季節になりました。②花が散った後の「葉桜」が「あどけなく」初々しく感じられます。寒い世情と裏腹の自然に慰められます。

大阪・島一木
春立ちぬ讃美の声の湧き立ちぬ
十字架はひかり鶯けきよと鳴く
教会の名もなき草として萌ゆる

*①「立ちぬ」のリフレインが、新しい年度への期待を膨らませます。②あの「十字架」がなぜ「ひかり」なのか、そこがキリスト信仰のミソです。③名は消えて仕事は残る春の暮 栄一

昭島・新堀邦司
身の内に恙ありけり春遅々と
春二番三番相模は風の国
鎌倉に花を咲かせて基吉忌
今日からは残る寒さと呼ばれけり

*①「恙ない」に越したことはないけれど、アッバの業は「恙ある」時、所にこそ顕著に働く、という信仰。「私は弱い時にこそ強い」(二コリ一二・一〇)

高知・赤松久子
気がつけばアッバの恵み風薫る
聖五月おみ風さまよおいでませ
ち小さき街囲む山々春霞
原発は狂気の沙汰よ春の月
黄砂去り青き山々甦へる

*①そう、私たちはつい「アッバの恵み」を忘れてしまう。そんなとき草花や「風」が気づかせてくれます。②「おみ風さま」に導かれた井上神父の「風の家」も、発足三十一年目となりました。南無アッバ

東京・富山紗和子
年重ね晴耕雨読の時を得て「ありがたきかな」の言葉もれくる
きさらぎの小さき庭に光みち寒咲花菜ふきのとうつむ

*①これまで一生懸命生きて来たからこそ「晴耕雨読」が「ありがたい」。

蓮田・平田栄一
十字架の果てにおみ風薫りけり  ヨハ一六

イエスの苦難の死を通して、わたしたちに注がれる神さまの息吹=聖霊を、井上神父は「おみ風さま」や「守導者」などと造語した。勧善懲悪の恐い神でなく、どこまでも赦す神アッバ。そのまなざしは、おみ風さまにより、時間と場所をこえてわたしたちに届く。


平田講座要約(第四六回)2014-3続
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

ご遺体と半日いっしょにいて――暖かな一日でした――帰途、わたしはバスで目白に出ず、目白坂をてくてく降りて江戸川橋まで歩きました。風景はかなり変わっていますが、三十年前のことが懐かしく思い出されました。

求道の一心で、あの坂を汗だくになりながら登って行った夏の暑い日。個人的に初めて井上神父に会ったのが、あのカトリックセンターでした。そこでひとしきり、神父の本を間にして、いま考えたらもったいないような個人レッスンを受けたのでした。

問答が終わると、たいていは神父の方から「ところであなた、今日これから予定は?」と聞いてくださり、二人で目白坂を居酒屋へ下りて行くのでした。

最後は苦しまずに逝ったらしいと、四年前に私の父が同じ時期三月六日に逝ったときと同じ思いで安心していたのですが、お葬式に行って、カテドラルの最前列で、直接町野さんから聞いた、井上神父の最期は実は、つらい話でした。こうおっしゃっていました。
三月七日(金)午前四時頃、神父は不調を訴え、かなり苦しそうだったので、町野さんが「救急車を呼びましょうか?」と聞いたそうです。すると「うん」と返事をした。

それから三つの病院を回ったが、どこも救急扱いで早く対処してくれた。しかし途中苦しがって――もうそのときは片手がマヒしていたらしい――手を振り回して、「アッバ、アッバ、アッバ」と、もがくように繰り返していたそうです。かなり苦しそうだったということです。

それを聞いて、勝手に「安らかに・・・」などと思い込んでいたことを申し訳なく思いました。
神父はだんだん弱っていく中で、ゲッセマネの祈りを繰り返していました。今日は、井上神父が作った「苦しみのなかでの祈り」をコピーしてきました。これは、具体的にある信者さんのために作った祈りだと、言っていました。

最後は、三食とも町野さんが食べさせ、二、三分おきにトイレに行かせ・・・といった状態だったそうです。町野さんも限界だったと思います。私は思わず、町野さんの小さな手を握って「大変だったでしょう、ありがとうございました」と言いました。
晩年の井上神父は、話のたびに、老いの厳しさを語っていましたよね。

ここに、自分のサイトからダウンロードしたCDを持て来ました。二〇一一年の「風の家」二十五周年と翌二〇一二年の二十六周年の井上神父様の講話です。

このなかで神父は、老いの厳しさを語りながらも、「アンマン空港で聞いた男の子のアッバ、アッバという叫びを、毎晩思い出しながら、ゲッセマネの祈りのように、アッバ、アッバ、と唱えています。アッバはこういう私たちの祈りを必ず聞き入れてくださっていると思います。それは、今すぐどうこうとは言えないかもしれませんが、人生の最後の完成――死ぬ時に、その人にだけ、アッバが手を広げてお迎えに来てくださるのだ、そう思っています。」と、近況を語っています。

「しかし、それが最後の時まで続けることができるのか、はなはだ自信がないので、ここにおいでくださっている皆様に、私が最後の時まで南無アッバとお祈りを唱えて、アッバのお迎えを受け入れることができるように、お祈りしていただきたいと、思います。よろしくお願いいたします。私も、皆様の上にアッバの安らぎがありますように、お祈りさせていただきます。」と結んでいます。(つづく)


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時5/27(土)13時半、6/24(土)同、7/22(土)同

―――――「余白の風」入会案内―――――
↖サイドバーをご覧ください。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

枝の主日の枝に棘ある痛みかな  

今週の「聖書と典礼」表紙絵は「十字架のキリスト」

category: 平田栄一求道詩歌(4)

tb: 0   cm: 0

求道俳句誌「余白の風」第225号 2017年3月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ *選評

高知・赤松久子
人気(ひとけ)無き被災地に咲く桜花
薫風や君歩まれし南無の道
春の川グライダーの如き鳥一羽
川に落ち光つづける蛍かな
菜種梅雨憂さかかえつつ南無アッバ

*①東日本大震災から六年、多くの人たちの労苦が続きます。「主のわざに励みなさい。主にあっては、労苦は無駄になることはないからです」(一コリ一五・五八)

八王子・F・井上
右近列福 四百年を経て平和
如月の恵み右近に集う杖
剣捨てて右近クルスと共に在り

*高山右近の生き様は、自分にとって本当に大切なものは何か、ということを常に考えるように、というメッセージのように思えます。

練馬・魚住るみ子
残生を幾年と数ふあらたまの朝(あした)の陽光(ひかり)満ちわたりたる
吹雪くとふ北国の空や南無アッバ日差しを背(せな)に浴みて歩めり
車内の人大方スマホをなぞりゐる隣席スマホに小人が踊る

*「今年卒寿の私などが来し方を省みて、戦後の社会の変化につれ、孫の世代あたりから、やり甲斐のある仕事を持ち、家事、育児を両立させる健気な生活を、素晴らしい思っています」(第三回Y’s Wonderful Women賞、本人メッセージより)。「残生」といわず、今後ともご活躍を期待いたします。

 名古屋・片岡惇子
優しさが溶す氷の温かき
春浅しゆるゆる下る道遠し
色紙には梅と墨濃くありがとう
祈りかな花芽立つ枝天を指し
存在や足の先まで日向ぼこ
祈りつつ天に向かひつ春うらら

*⑤日向ぼっこをして、足の先まで温まったとき、ふと「存在」ということが意識された、というのです。生きてやがて死ぬということの不思議、有難さ。

豊田・佐藤淡丘
二月尽小鳥が地面を早走る
堰音や稚魚が群れをり水温む
魚跳ねて時の移りし春を待つ
懇ろに踏めば応へる残る雪
雲雀野はト調短調輝けり

「あゝ俳句ができない」。そんなとき、近くを流れる二級河川を北に向って歩くことにしています。〝なでしこジャパン〟の前監督、佐々木則夫さんの好きな禅の言葉、それは、「歩歩是道場」。正に是、俳句道場に使えると、このごろ思うようになりました。一歩前進、二歩後退(?)。続けようと思っています。南無アッバ、南無アッバ

*「歩歩是道場」いい言葉ですね。私も毎日が「求道」「学び舎」と思って過ごしています。なんでも自分を統べる言葉を見つけると、焦りから解放されるような気がします。

大阪・島一木
守りたまへ秋の別れの聖少女
教会の隅の無花果実のなるか
ミサ終はり晴れわたる空小鳥来よ
綿虫や両手ひろげるイエス像
足もとに枯れ葉のつもるマリア像

*④イエスは十字架の苦しみのなかで、両手を広げておられる。意味深長です。十字架はキリスト教の中心とかシンボルなどと言われますが、十字架をどう捉えるかがキリスト教の真髄なのではないか、と最近思っています。

昭島・新堀邦司
ニコライの鐘のすがしき波郷の忌
ゲゲゲ忌は妖怪晴れに冬ぬくし
背伸びして待降節の燭点す
「豪快」といふ酒を酌み忘年会
身につきし独り暮しや年用意

*⑤先日、井上神父の第三回命日祭がありましたが、参加された方が口々に、帰天三年が経っても、ますます神父が身近におられるように思う、と感想を述べていました。天の国の奥様との対話をお続けください。

蓮田・平田栄一
春の日をあまねく入れしガラス窓 

ヨハ一四。イエスは「ガラス窓」のような方。そういう透明な方だからこそ、アッバの暖かなまなざしをそのままわたしたちに注いでくださる。しかし完全に、アッバの息吹を注ぐためには、イエスというガラスはこわれなければ――十字架上に死ななければならなかった。


平田講座要約(第四六回)2014-3
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

井上洋治神父の三月十七日の通夜、十八日の告別式においでくださった方、ほんとうにありがとうございました。
今日は、第四十六回目の講座になりますが、こういう時でもありますので、講座内容に先立って、皆さんの井上神父との思い出や、エピソード、あるいはお会いしたことがない方でも、本やお聞きになったお話の感想など、自由に語り合い、分かち合いたいと思います。

講座内容の方は、お時間あれば、やっていきたいと思いますので、ご了承ください。
最初に、私のとりとめのない話からさせていただきます。
井上神父訃報のことですが、私が受けた一報は、三月九日(日)第一ミサ中、朝八時三〇分ころ携帯が震えて、折り返しかけた山根さんから受けた電話。発信が山根さんで、こんな早くかかってきたので、電話で話す前に、いよいよ来たんだな、と思いましたから、驚きはしなかった。

そのとき葬儀の日程は決まってなくて、でも「これからは、井上神父が天国から私たちを見守ってくれるんだね」という、妙な安心感を持ったのを覚えています。

虫の知らせというのではないでしょうが、ここ二ヶ月くらい、たぶん、三・一一から三年という感覚も手伝っていたと思うのですが、個人的にもいろいろ目まぐるしい出来事が重なっていまして、思いついたのが、『死ぬ瞬間』で有名なキューブラー・ロス博士の『死後の真実』という講演集でした。遠藤さんは死の直前、この本を読んで「死ぬのが怖くなくなった」と言っています。これを再読したくなった。実は、ちょっとオカルトっぽいところも多々あるのですが、心休まる内容です。
それを再読しだして四、五日経ち、訃報が入ったのです。

お通夜の前日、このまえの日曜日ですが、白梅が咲き誇っていました。午前中は川越のミサに出て、午後は神父様のお顔を見に大司教館に行き、半日ゆっくりごいっしょしました。
安らかなお顔を拝見し、不思議と私には悲しみや寂しさの感じは薄く、生前以上に神父様を身近に感じるような安心感、遠くから見守っていてくださるというより、もっと近く、すぐそばにいつでもいてくださるんだ、という安堵感に、ずっと包まれていました。
先ほどのロスの本の影響もあるかもしれません。

生前ごいっしょに話している時、「私にはアッバがこう言っているように思えるのだよ」という言い方をよくしていたことを思い出します。それは何か難しい問題があって、お祈りした後の結論のようにおっしゃっていました。
そしてその結論は、たいてい、ご自身の反省の弁、ご自身が「控える」べき事を言う時に使われていました。「アッバがここではおまえが謝りなさいと言っているように思えるんだよ。」そんな言い方です。

そういうことを聞くときは、確信に満ちた偉い神父様というよりは、本当に一求道者として、アッバの示された道を、たどたどしくも、素直に、幼子のようによちよち歩いて行かれる姿を彷彿とさせました。
一九八〇年の暮れにお会いして以来三十三年間、私にはまったく気取ったところがなく、自然に接してくださいました。もちろんいつもはやさしかったですが、お怒りになることもありました。

それはたいてい、二人でお酒を飲んで、日本のキリスト教の問題というような話になったとき、生意気な私に対して発せられた叱責でした。
それで私が納得いかず、ぷんぷんして家へ帰ると、よく「今神父様から電話があったわよ」と妻が言う。中身はさっき怒ってしまったことに、私にじゃなくて、うちの奥さんに謝ってるんですね(笑)。そういうところがある方でした。
また、神父様のマンションでいっしょに飲んでいて、調子がでてくると、いきなり「南無アッバ!」と気合を入れて、次の一本を奥から持ってくる、なんてこともありました。

ともかく、神父様との多くの思い出と記憶は、たいていお酒と結びついています。今は飲むとすぐなんでも忘れてしまいますが、神父様と飲んだ時の話は、不思議と内容をよく覚えています。(つづく)


おしらせ:南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時3/25(土)13時半、4/22(土)同、5/27(土)同


―――――「余白の風」入会案内―――――
サイドバーをご覧ください。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

求道俳句誌「余白の風」第224号 2017年1月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ(*選評)

昭島・新堀邦司
日本海の秋は空より始まれり
高原に色なき風の吹く日かな
秋天は聖母マリアの藍ふかし
金秋の祝杯あげよボブ・ディラン
神在の出雲に暮し恙無し

*②「色なき風」――「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。」(ヨハネ三・八)信仰とは、自分の理解をこえていても、信頼して委ねること。

高知・赤松久子
ふとん干すヘルパーの背に春の風
老いの手にお札(ふだ)を握る四旬節
土佐の夏海(うみ)おみ風さまの歌うたふ
観じ得ず信ずるのみの我が身かな
髪の毛の数まで知られ南無アッバ

*不安はあっても、②「お札を握」って、④ただ「信ずるのみ」。しかし、⑤「髪の毛」一本まで知られている身は、アッバにお任せすればいい。老いの見事な境地です。

八王子・F・井上
ゆるされてゆるす賜 南無アッバ
師の言葉ふとよみがえる散歩道
南無アッバ老いの荷物を受け止めて
振り向けば軍靴は遠く兄二十歳
気が付けば姉妹そろって山姥に

*①マタイ一八・三三。私たちは無条件無制限にアッバから「ゆるされて」いるという驚くべき事実!だからこそ他者を「ゆるす」ことができる。どちらも、まさに「賜」です。

練馬・魚住るみ子
小春日や卒寿四人のクラス会
身に余る賞気恥づかし秋うらら
日本YWCAよりシニアの為の賞を受く
スーパームーン今し昇るや冬の宵
自らの命を絶ちし愛し子の悌を抱き旅立てり君
   『風の道』
短かる命をわが子に賜ひたる御摂理を尋めむ母の胸はも

*「Wonderful Women賞」の受賞おめでとうございます。長年の音訳奉仕や熱心な作歌ゆえの結果と感服いたしております。今後ともご活躍をお祈りいたします。

 名古屋・片岡惇子
(フィリピン サンマテオにて)
主に押され南の島に発つ冬の日
冬の日や病みてなお道探しをり
路上の子の闇を見つめる南の冬
汗臭き子ら何思ふ目の光
目であいさつ異国の地でのクリスマス
冬の雲我が生き方の計り得ず

*②⑥わたしたちの求道は一生続くのだと思います。この頃昔のノートなど整理していて、今までばらばらだと思っていたことが、「求道」というキーワードで括れるように思い、何か合点できたような気になりました。

豊田・佐藤淡丘
真暗闇なほも一群れ鴨の声
寒北斗ひときわ長く尾を垂れる
弦月に指差し入れて剪られたる
池めぐり寒満月と睦みあふ
衛星の無音に流る夜寒かな

早朝、会神の丘に登るため、ちょっとの間切り通しを抜ける必要がある。冬至十日後先と言って、この時期一瞬ここで真っ暗闇に突入する。この闇の空間がとても神秘的であると同時に、この体感をとても貴いものとして、これを浴び独り悦に入っている。アッバ、アッバ、南無アッバ

*①神は神聖な「無」であり、人間にとっては直接の認識対象にはなりませんから、「闇」であるともいいます。その「真暗闇」であるアッバに、南無の心で人生をゆだねる、「会神の丘」への道はそのまま「南無アッバ」の祈りです。

大阪・島一木
教会といふ薄明に月を置く
讃美する虫か聖堂隅の闇
風そよぎ金木犀に聖歌湧く
聖歌隊解き放たれて秋深し
十字架の空より秋の風は吹く

*⑤〈自らの力に依り頼む「強い」生き方ではなく、イエスとともに、そしてこの世の苦難を強いられている人々とともに、「十字架」を担い続ける「弱い」生き方を選び取っていくこと。そこにこそ、真の「強さ」が、そして「救い」が逆説的に存在する〉(青野太潮『パウロ 十字架の使徒』(岩波新書)まえがき)

日立・武田孝一
天父地上を笑みて見賜うや秋日和
ヘブンリーブルー咲き切りて秋逝かんとす
南無アッバの友らの作読む秋日暖し
中天に百舌の声あり秋逝かす
友らの面偲び読み進むアッバの句

*③⑤井上神父がエレミアスからヒントを得た「アッバ」、そして晩年の境地、祈りとなった「南無アッバ」。著作選集第二弾も刊行開始され、少しずつ広まっているように思います。

蓮田・平田栄一
元旦やアバと呼ぶ霊賜りぬ
人生はマラソンなりや小正月
正月の上座に座る父はなし

あけましておめでとうございます。失礼ながら賀状にかえて、この場で新年のご挨拶とさせていただきます。
今年も共に、作歌作句をとおして、アッバの御心を求めて参りましょう。


平田講座要約(第四五回)2014-2-22

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
前回は、新年に青野先生からいただいたメールを紹介し、先生ご自身がお認めくださったとおり、青野神学やパウロの信仰義認論も、井上神父や遠藤さんと同様、基本的に母性原理にもとづくものであることを確認しました。

その上で、北森神学と井上神学の対比という課題に戻って、「十字架のイエスの痛み」をめぐり、御子イエスと御父アッバとの関係を考えてみたいと思います。

p・52「・・・だから私には~」(前号参照)の補足をします。

青野さんのいうパウロ神学から見ると、「イエスの十字架」にまず「弱さ」や「つまずき」を見るという視点は、井上神父にも北森神学にもないように思います。つまり、「弟子の裏切り」に対する「イエスの痛み」や、あるいは「私たちの罪」に対する「イエスの痛み」というとき、相手に傷つけられる「神の子」イエスという視点が強調され、「人間」イエスご自身の弱さやつまずきは強調されていないように思うのです。

わかりやすくたとえるなら、井上神父や北森氏のイエス観の方が、この点ではイエスの神(の子)性が全面に出ており、青野氏は人間性が強調――あえていえば「人間くさい」ように思います。こうした点にも、これまで青野神学が一般の教会に受け入れられてこなかった理由があるのかもしれません。

もっといえば、井上神学は、イエスの「やさしさ」を強調しているけれども、青野神学のようなイエスの「弱さ」は強調していないということです。その点では、遠藤さんの「無力なイエス」という感覚のほうが青野さんに近いかもしれません。

p・53
「・・・・私の場合もイエスの痛みというのはもちろんあります。けれどもその痛みというのが、御父の神様までいってしまうとね、なんかこうきついって言うか、息が切れるって言うかな‥‥。

やはりパウロってのは激しいでしょう。北森先生の場合はパウロが中心になっていますからね、私などには何かもう少しこう‥‥そこまで頑張らなくってもね。キリストが秋風に、こうなびいているような感じのところで何とかならないかなと、そういう感じで(笑)。なんていうかな、重すぎるっていうか。

‥‥私のイエスはやさしいのです。イエスのまなざしはやさしいわけですよ。」
(『日本カトリシズムと文学』一九五~二〇一頁抜粋)


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時1/28(土)13時半、2/25(土)同、3/25(土)同


平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』
定価800円+税。
聖母文庫☎095・824・2080。
サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円


―――――「余白の風」入会案内―――――
どなたでも参加できます。購読のみも可
*年六回奇数月発行
*年会費千円(送料共)
*採否主宰一任
*締切=偶数月二十日
*投稿・連絡先:メール
*本ブログ「南無アッバを生きる」に掲載します。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

求道俳句誌「余白の風」第223号 2016年11月発行  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(*選評)

大阪・島一木
教会は闇なり花火揚がる音
教会の塔に渦巻く星月夜
霊名はアウグスティヌス神父祝ふ
聖変化 台風の眼が通過する
十字架を胸に笑顔は爽やかに

*④⑤救いは必ずしも、直接的な幸福のなかにあるわけではない。私たちは今救われたい、この現状をなんとかしてもらいたい、と思うのだが、アッバの御考えは測り知れない。

昭島・新堀邦司
神木の香椎や今も青葉して
夏空や旅に出しまま寅次郎
遺されし絵に黙祷す敗戦日
みほとけは涼しくおはす浮御堂
別れ星遠くへ行つてしまひけり

*②米田彰男著『寅さんとイエス』という本が話題になっていますが、井上神父もすでに七九年、山田洋次氏との対談で、寅さんの魅力を語りながら、「あの笑いの陰にある哀しみにぼくはひかれた」(『ざっくばらん神父と13人』主婦の友社)と述べています。

高知・赤松久子
腰痛と知恵くらべかな冬の日々
南無アッバ念じ居るらしかまど猫
み手の上やんちゃに生きて南無アッバ
トマスにも恵みあふるるイースター

*②③「猫」に教えられる南無アッバ。神の国は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ二〇・一六)どころか、人間が後になり、動物が先になるかも。

八王子・F井上
南無アッバ人口膝の散歩道
もの忘れ多々ゆるされよ南無アッバ
好き嫌いすべてゆだねる南無アッバ
生きるとは老いとは烏瓜まぶし
秋草の小道故人の笑みに会う

*①②あちこちが不自由になる④老いの中で、生きるとは何か考えざるをえない。各自が生の意味を考えなさい、という宿題を解くべく老いが与えられているのかもしれない。③作者が見出した答えとも。

余生  練馬・魚住るみ子
風立ちて名知らぬま円ろ葉そよぎ居り更けゆく秋のあし音としも
南無アッバ手ざはり骨ほね痩身の卒寿の我やともあれ健やか
読み聞かせむ絵本探しぬ南無アッバ曾孫の顔を思ひ浮かべつつ
『風の道』
少年の涼しき瞳吊革へ手をのべゐたり席を譲りて

*①②一年の秋、人生の秋。③④何歳になっても、その歳はだれもが初めて生きる歳。作者は短歌のなかに、その新鮮さと人のやさしさを見出している。

愛と光の家での黙想会  名古屋・片岡惇子
台風に向ひ旅発つ縁の糸
沈黙こそ主との語らひ台風過ぐ
秋冷や雨滴の打ちし黙の時
黙想会頬に秋蚊の目覚めよと
コスモスの一色になり御堂飾る
秋冷や今ある時の息を吸ふ

*①「縁」、時にアッバのはからいとしか思えない瞬間がある。②③④現代人に決定的に不足しているのが「沈黙」かと。饒舌すぎるネット、スマホかな。

豊田・佐藤淡丘
喜びの言葉は要らぬ落葉中
しろがね白銀の尾花ちぎりて土手下る
小鳥来る神の一葉落しけり
芋名月水に映りて揺らぎをり
鵙高音一瞬にして夜が明ける

今から十二年前、ひょんなことで「マザー・テレサ日々のことば」という本をもらいました。この中から「つつましい仕事から離れてはいけません」と教えられ、小学校の放課後の学童保育に、紙芝居を月に一度ですが、やらせてもらっています。マザーが今も見ているようでやめられません。南無アッバ

*あのマザーテレサにも大いなる信仰の危機がありました。「過去十一年をとおして初めて、わたしは暗闇を愛するようになりました。今わたしは闇が、イエスの地上における闇と痛みの非常に小さな部分であることを信じるからです。」(『来て、私の光になりなさい!』)

東京・中庭 栞
ほし草や眩しき限り陽のたぎる
炎天の丘に潮騒ぬける道
南仏に国境のなきせみしぐれ

*③まったくです。人為的な区別、差別であらゆることに色分け――分別をつけているのは人間だけ。

日立・武田孝一
最早死を口にせずなりし生徒一人帰寮せしめて長き夜の祈り
みどり児を主に捧げ来て浅夏の夜更けに妻と感謝の祈りす
煙突なきアパートの聖夜寝入りたる吾子のため赤き靴下吊るしやる
亡き子ある日籬より入り来る幻覚に生き来しという老婆の戦後
妻の弾く復活節賛歌に響合いてヒアシンスの花穂静かに揺るる

*初めてのご投稿ありがとうございます。どの歌にも信仰の姿勢、ご性格がにじみ出ています。「風の家」の活動にもご理解くださり、感謝です。

蓮田・平田栄一
弱さこそ神の強さや夏の川
どこまでもゆるす神なり五月尽

平田講座要約(第四三~四四回)2013-12/2014-01

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
(前号からの続き)この点――十字架において、神の本質から「痛み」を切り離し、イエスに限定しているという点――は「神中心主義」のパウロに近い――神が主、イエスが従――といえるかと思います。

第二は、井上神学のスタートが人間の罪一般(北森)ではなくて、歴史的具体的な「弟子の裏切り(の罪)」だということも、見逃せません。ここは「自分がイエスを傷つけたという実感がない」(『パウロを語る』)という発言と結びつきます。
この「父なる神」と「イエス」をどのようにくっつけ、切り離すかは、イエスの神性人性をどう捉えるか、という重要な、また多様な問題を含んでいます。キリスト教の歴史そのものといってもいいかもしれません。

アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした三二五年のニケーア公会議、ネストリウス派を異端とした四三一年のエフェソス公会議、単性説を異端とした四五一年のカルケドン公会議など、さまざまな論争が行われますが、結局、これは人間の歴史から見れば、わたしたちの正直な欲求が、キリストこそ神と人の橋渡し役(仲介者)となってもらいたい、ということの現れであり、そうであるなら、どうしても両性が同時に必要だったという証とも言えましょう。

〇第四四回
テキストより、p・52
<‥‥だから私には、十字架のイエスを本当に包み込んでいる更に大きな、何か手みたいなものを感じさせる‥‥。
‥‥確かに、十字架の血というのは、自分を裏切ってゆく人間を、やっぱり包み込むところに、流れるものなんだろうというふうな‥‥。そういうことはね、『愛を見つける』あたりでは、私も何となく感じたのです。だけど更にそれを、なんかね、こう、あの仏像に見られるような柔らかさというか、なんかこう最後に包んでないとね、ちょっとこう苦しくなっちゃうというか‥‥。>

井上神父は、裏切りをゆるす(包む)所に流れる十字架の血をイエスに限定しています。父なる神はその「痛むイエス」をさらに包んでいます。痛むイエスの十字架を同心円的に広げていくと、だんだん父なる神の方ではやさしさに包まれていく――癒やされていく、というイメージでしょうか。


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時11/26(土)13時半、12/24(土)同、1/28(土)同

平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』定価800円+税。聖母文庫☎095・824・2080。サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。見本サイドバー参照 購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*申し込み・お問合せ 余白メール

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop