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カテゴリー「○求道詩歌」の記事一覧

ヨハネ伝求道俳句1:34~  

神の子の証しを見たり春なかば

神の子を弟子らに示す彼岸かな

師の声に従う弟子ら地虫出づ

主に問わる心の在処(ありか)東風(こち)吹けり

「来て見よ」と信を誘(いざな)う春の雷


category: 求道俳句ヨハネ伝

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ヨハネ伝求道俳句1:30~  

後先を主と入れ替わり春めきぬ

人と人会わすご縁や氷解く

風にのり鳩は降りぬ薄氷(うすごおり)

春の道導かれては主と出会い

句作即祈りと成せり春の風


category: 求道俳句ヨハネ伝

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求道俳句ヨハネ伝1:22~29  

汝(な)は誰と問われしヨハネ雪下ろす

主を待ちて荒野に叫ぶ雪だるま

そこここにイエスは居らん寒の明け

春立ちてヨハネ退く時来たる

小羊に託す命や冴え返る



category: 求道俳句ヨハネ伝

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ヨハネ伝求道俳句1:15~20  

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category: 求道俳句ヨハネ伝

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ヨハネ伝求道俳句1:10~14  

世にありて世を造りたるイエスかな

主を拒むこの世の民や寒に入る

主の御名を信ぜし者よ神の子に

神の子が神より生まる寒の月

父の子となりたる言世に住めり


category: 求道俳句ヨハネ伝

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求道俳句ヨハネ伝1:4~9  

御言に命のありて今朝の春

闇照らす光を闇は悟らざり

御神より遣わされたるヨハネかな

証し為し光を宣べし洗者かな

もろもろの人を照らさん主の光


category: 求道俳句ヨハネ伝

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求道俳句ヨハネ伝1:1~3  

御言(コトバ)は初めにありて年明くる

神共に在ます正月南無アッバ

言即神と見抜けり初鴉

初めより神と共なる言かな

万物や言によりて在らしめり


category: 求道俳句ヨハネ伝

tag: アッバを呼ぶ,悲愛のこころ,星屑のアダム,求道俳句,「余白の風」,
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求道俳句誌「余白の風」第243号  

2020年3月
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

蓮田・平田栄一
十字架の果てにおみ風薫りけり

イエスの苦難の死を通して、わたしたちに注がれる神さまの息吹=聖霊を、井上洋治神父は「おみ風さま」や「守導者」などと造語した。

良いことをすれば祝福が与えられるが、悪いことをすれば徹底的に裁く、勧善懲悪の恐い裁判官のような神ではなく、慈父のように、母のようにどこまでも赦す神アッバ。

そのまなざしは、おみ風さまにより、時間と場所をこえてわたしたちに届いています。

春の日をあまねく入れしガラス窓

井上洋治神父は、イエスを「ガラス窓」のような方であると、よく説明してくれました。そういう透明な方だからこそ、アッバの暖かなまなざしをそのまま私たちに届けることができたのです。

しかし完全に、アッバの息吹を注ぐためには、イエスという「ガラス窓」は自ら毀れなければならなかった。それが十字架上の死であったのです。


豊田・佐藤淡丘
春耕の程よき雨となりにけり
川土手の右岸左岸と野焼あと
摘草にこれぞ和えもの我忘する
芝を焼く事に始まる父の智恵
畑を打つ遠くにあれば棒のごと

春の雨がしっとりと降ったあと、公園や学校のグラウンドに水たまりが出来ます。これを古い文章で「潦」(にわたずみ)いうそうですが、私の好きな言葉です。今朝もこの軟らかい土の道を歩いていると、天のお父さま(アッバさま)から頂戴した、静かで情のこまやかな愛を感じ思わず、南無アッバ、南無アッバと唱えてしまいます。

*日本語には同じ事象の言いかえがたくさんあります。それぞれが微妙にニュアンスが異なる。生粋の日本人でも一生かけても味わいつくせない趣があります。やはり「信仰」や「求道」に通じますね。


高知・赤松久子
電線に音符の如く鳥並び
友らとのずれを感じて南無アッバ
「死にたい」と言ふ娘(こ)に返す言葉無く
こんな時神父さまゐて下されば
追はれ去る良きヘルパーによせ書きをして南無アッバ
春を待ち木々が唱へる南無アッバ

*③お辛いですね。「~イエスさまにつきそわれ~」毎日お祈りしていますが、その度に人に寄り添うということがいかに難しいことかを感じます。④そんなとき天国の神父さまにそっとお話ししてみます。


ついの日 南無アッバ   練馬・魚住るみ子
耳もとへお口あけてとうながせばやうやく飲みこむとろみの食べ物
香をたき鐘打ち鳴らし人送る人生卒業の式ならめやも

*①昨年亡くなった母を思いだします。最後の数カ月は私のこともわからなくなったようですが、幼子に帰っていくようなその姿は、②アッバのお導きのもとに「作品」としての「人生を完成」していく光に満ちていました。


大阪・島一木
明日は枯れる 無花果の木のしげりかな
風かおる マリアはすわり聞いている
来い春よ 盆栽 散歩 夜は囲碁
パソコンで習う月面宙返り

*①ルターは「たとえ明日、世界が滅びようとも今日私はリンゴの木を植える。」と言ったという話がありますが、「無花果」自身は「どうせ明日枯れちゃうんだから、繁るのは止めた」となるでしょうか?


広島・金尾裕子
我が家の垣根にすみれみつけて南無アッバ
私のアンガーマネージメント南無アッバ
四旬節 神父様のまなざしを感じつつ南無アッバ


*「二〇二〇・三・八 神父様の命日に」と添え書きして、アッバ讃句ご投句下さりありがとうございます。

今年第六回の野の花命日祭は、ずばり井上神父御命日当日となるはずでしたが、だれもが予想しなかった新型コロナウィルス禍により、残念ながら中止となりました。

この災禍によって亡くなられた方をはじめ、苦難にあっているすべての人の為に祈りましょう。南無アッバ
  

福音歳時記・阿波野青畝
人来たらず磔刑イエズス凍てませど
主は来ませり主は来ませり燭凍てず
日脚伸びゆくまま進む聖書かな
ミサの鐘頓(とみ)に風花とびまさり

*①新型コロナウィルスの影響で、主日のミサが中止になっています。教会には「人来たらず磔刑のイエス」さまは何を思われているでしょう。③こんなときこそ御言葉をじっくり味わう四旬節でありたいと思います。


昭島・新堀邦司
八千歩あるきさざんか日和かな
三日目の味となりたるおでんかな
クリスマス・クランツ飾り友迎ふ
カナダよりメールの届く聖夜かな
四本のキャンドル灯しクリスマス

*①私も歩いています。ウォーキングから最近はスロージョギングに替えてみました。朗読聖書など聞きながら毎日二十分、なかなかいいです。なにせ歩くのにお金はかからない! 福音はすぐそばにある。


東京・岡村康子
夕暮れの雨音聴くや秋深し
糸瓜棚大振り小振りしばし立つ
陽だまりでキャンパスに向く冬浅し

*③「キャンパス」にはなりませんが、夜な夜な「南無アッバ絵手紙」のようなものを描いています。

【新刊】『星屑のアダム』平田栄一求道俳句集4 定価1500円+〒180円。


アンソロジー・井上神父の言葉

〇 原罪
小さな己れの我を絶対化してしまい、その結果他者をそのままの姿で受けとめることのできないようになってしまった閉ざされた姿----この生命の汚れをキリスト教では原罪という名で呼んできたのでした。(『日本とイエスの顔』選集1、三二頁)

<原罪とは、それが人であれ自然であれ、そのものをあるがままの姿において受けとめることのできない心の汚れともいえるでしょう。>(同書、三三頁)

 一般の人が読んだら神話としか思えないような、あの有名な創世記にある「アダムとイヴ」の話をどう解釈するか。聖書の字面だけ辿っていくと、あたかも昔アダムとイヴが蛇に誘惑されて犯した罪――「知恵の実を食べるな」と神様に言われていたのに食べてしまった――が、まるで遺伝するかのように現在まで脈々と受け継がれている――それが原罪なのだ、というふうに読んでしまうかもしれません。

この問いに対して井上神父は、それは「科学的真理」を教えているようなものではなく、まして遺伝の話などではもちろんなく、たとえてみれば「能の台本」を読むような態度で、この物語を読まなければいけないと言います。そのうえでこの物語は、私たちが知らぬ間に自己中心的な考え方・生き方に流されて、生きとし生けるものを根底から支えている「永遠の生命に浸りきることができず」、深い哀しみや悲劇を生んでしまうことを教えているのだ、と説いています。

自分の意志や努力ではのりこえられない弱さや自己中心の醜さによって曇り、自他を傷つけてしまう心性が確かに在る、そう気づいたとき私たちは、それを洗い清めていただきたい、と心から願うようになるのでしょう。

「余白の風」入会案内


category: 求道詩歌誌「余白の風」

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求道俳句誌「余白の風」第242号  

2020年1月
俳句や短歌をつくりながら、
「南無アッバ」の心を養いましょう。

作品とエッセイ *選評

蓮田・平田栄一
帳尻は神が合わせる朝の雪
      
福音書に<金持ちとラザロ>(ルカ16・19~31)という、イエスのたとえがあります。毎日ぜいたくに遊びくらしていた金持ちは、死んだあと陰府に下ります。一方、貧しかったラザロは天に上げられた、という話です。

アッバは私たちの狭い思いをこえて、この世とあの世を含めてトータルで考え、バランスをとってくださいます。悪いことが続くときも自分だけが損をしていると卑屈にならず、良いことがあっても当然と思わず、おごらず、いつも感謝しつつ安心して毎日を過ごしましょう。

イエスこそ近づき来たる冬の闇

イエスが十字架にかかって死なれた後、二人の弟子がエルサレムからエマオへと旅に出ます(ルカ24章)。彼らはペトロと同じように、生前のイエスを見捨てたのですから(マルコ14・50)、おそらくイエスを裏切った自己嫌悪を抱えながら、とぼとぼと俯むいて歩いていたことでしょう。

そこへイエスご自身がそっと近づいてきて、恨み言ひとつ言わずともに歩いて行かれます。弟子たちはそうとも知らず同宿し、ようやく復活の主であるとわかります。

悩み苦しみにあるとき、そうとわからなくても、わたしたちはけっして孤独ではありません。いつかかならず、「あのときも主が共におられたのだ」とわからせてもらえる時が来ます。


昭島・新堀邦司
蹴り上げしラグビーボール秋高し
八木節の太鼓勇むや豊の秋
新蕎麦の味も香りも信濃かな

*①「one team」が流行語大賞になりましたが、どの選手も全体の中で自分の役割をしっかり果たすことを心がけていました。私たちも「キリストの体」(一コリント12・7)の中で自分の使命を----との思いを深くしました。


豊田・佐藤淡丘
葉牡丹を生けて静けさ呼び戻す
「第九」聴く腸(はらわた)染みるティンパニ
寒林や頭上気を吐く碇(いかり)星(ぼし)
午前四時寒月光は夜の底
年迫る「遥かなる声」待つ南無アッバ

 今年も日記帳を買い替えるときになりました。現に一年も経つと、その時々の付箋も挟むので日記のお腹も膨らんで、今厚い姿で机の上に立っています。日記という「容れもの」、来る年も心を開いて使い、欠漏のないものとなるよう「おみ風さま」のお助けを願う今日このごろです。南無アッバ

*日記を丁寧につけておられる由、敬服します。私など、あちこちに書き散らしてばかりで、どこに何を書いたかすぐにわからなくなってしまう始末(笑)。ぜひ、一冊に続ける秘訣を賜りたいものです。南無アッバ


大阪・島一木
茨咲く なんと狭くてほそい道
早いです 無花果の実をさがすのは
夕焼けだ 時のしるしをなぜ見ない
無花果のしげる戸口を 主がたたく
世の終わり ヨナの鯨が口あける

*これらの句は皆、なんらかイエスの口から出た警告の言葉を題材にしています。しかし私たちが忘れてならないのは、これらはすべて、あちらさまから来る「福音」の中で語られている、ということです。まずその喜びの知らせに耳傾けましょう。


高知・赤松久子
温暖化台風までも狂はせり
イントネーションだめな私の高知弁
〝よさこい〟や国際色の強くなり
「全詩集」姿を見せぬ〝ポッポちゃん〟
遠雷や同じ病の友想ふ
片蔭に眠れる猫は南無アッバ

*⑤「同病相憐れむ」という言葉がありますが、同病ではないのに、これ以上にはない憐れみを持って下さるのが、私たちにとってはほかでもないイエスさまです。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(マタイ8・17)その悲愛の頂点が十字架です。


福音歳時記・景山筍吉
キリストのみ名に縋りて老いの春
元旦の燭をマリアに奉る
老妻と追悼ミサへ三日早や
給油受けし老婆日々快し日脚伸ぶ
風花やチャーチ口門広く開け

*①拙著『俳句でキリスト教』(サンパウロ)にも取り上げました。曰く<「縋りて」には、マイナスを契機に「み名」に全幅の信頼を寄せる意がこめられており>「老いの春」はけっして暗くない、と。

【新刊】『星屑のアダム』平田栄一求道俳句集4
 本句集には、既刊三句集に採らなかった438句 (最多数)を収録しました。定価1500円+〒180円 〇お申込みは平田まで。


アンソロジー・井上神父の言葉

〇 聖書に出会う

<聖書とはいったい何が書いてある本なのだろうか、ろくに聖書に関する知識も持っていなかった私は、翌日、木洩れ日の美しい雑木林の中を、そんなことを考えながら歩いたのを今もはっきりと覚えています。
それが私の人生における聖書とのいわば初めての真の出会いであり、また同時に、私の人生をとらえ、私の人生を完全に変えてしまったイエス・キリストという人との出会いなのでした。>(『日本とイエスの顔』選集1、一三頁)

人生のなかでは、ある本との出会いに、運命的なものを感じることがしばしばあります。とくに聖書との出会いは、キリスト者や求道者にとって、さらに特別な思い出と意味を心に刻む大切なものとなります。
井上神父のそれは、入信前の学生の頃、あるハンセン病病院を慰問したとき、「ガランとした病室のベッドの上に置かれていた」一冊の聖書だったといいます。自分が病者に対してとったぎこちない態度に「自己嫌悪」を感じながらも、「なにか、私はゆるされている、という」「暖かな思い」とともに、聖書に出会ったのでした。

キリスト者にとって聖書はいうまでもなく神さまからのメッセージ集です。苦しみや孤独に陥ったとき、または幸福のただなかにあるとき、あるいは人に勧められて手にするということもあるでしょう。しかしそれがどのような出会い方であれ、その根底に「アッバ」(パパ、おとうちゃん)と呼べる「暖かな」神の配慮――導きがあったのだ、と年を経るほど感じるようになります。

〇 新約聖書はガイドブック

<どんなに多くの書物を読み、知識をたくわえ、そこへ行く道を知っていても、そこへ向けて出発しようという一念を起こさない人は、ほんとうの意味でそのものを知ることはできないでしょう。
聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践的指導書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。>(『日本とイエスの顔』選集1、二七頁)

 右の言葉の前では、ものを知る方法について、二通りの方法がある、一つは「概念、言葉」による方法であり、もう一つは「体験」による方法だと井上神父は述べています。そして、ほんとうにそのもの「を知る」のは、体験的方法による、といっています。

 神父はこの本のあとがきであらためて、新約聖書を「真理そのものを伝える書であるよりも、まずどうしたら永遠の生命が得られるか、を教えた実践指導書としてとらえた」ことを述べ、それに対する予想される批判に答えています。そこでは「イエスをキリストと信じるということは」「イエスの教えを信じて生きること」であり、キリスト教は本来「キリスト道」なのだ、といっています。

 若い頃、自分の生き方に迷い、哲学から宗教に関心を持ったものの、神仏を「信じる」ということはどういうことなのか、わからなかった私は、井上神父のこの言葉――実践主義・体験主義的なキリスト教に出会って、この方について行こう、と思ったのでした。

 キリスト道は、それを生きている人にまねび、ついていくことから始まるように思います。



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category: 求道詩歌誌「余白の風」

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ヨブ記ひもとく雨上りに聞く雷鳴  『星屑のアダム』  

昨夕、フランシスコ教皇が来日。
38年ぶりという。
あの年1981年、ヨハネ・パウロ2世が来日した時
受洗した私

今朝、長崎で核廃絶のスピーチ
雨の中で熱心に耳を傾ける人たちが印象的だった。


category: 求道俳句一言

tag: 星屑のアダム,
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