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カテゴリー「『日本とイエスの顔』」の記事一覧

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問合せ 略歴 著書

170-3 イエス VS ファリサイ派 (1)取税人への姿勢  

・ユダヤ社会で軽蔑された3種類の人:取税人・娼婦・重い皮膚病の人
・取税人とは
・これらの人に対するイエスとファリサイ派の対比→イエスを動かしたものが見える
・ファリサイ派とは
・安息日について
・立派なファリサイ派
・思いやりより裁くファリサイ派
・裁く前に受け止めるイエス


井上神父は、
福音書の時代背景や文化状況が丁寧に説明しながら、
イエスが、命をかけて大切にしたことを、
読み解いていく。

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166-170 憐憫と悲愛  

アガペーは無価値な者を含む愛

ただし、憐憫とは違う

『事件の核心』(G・グリーン)スコウビイの愛ならぬ憐憫による自己崩壊

憐憫は自己肯定の情熱であり、
アガペーのように自己転換しない

"アガペーは相手の立場で無心に共に泣く愛
→「悲愛」初出
→十字架の姿

マルコ2:13-17
歴史的イエスの明白な特徴:下積みの人たちとの交わり-ブルトマンも認める

この特徴から、イエスの生涯を貫くものが見えてくる


井上神学=アッバ神学での最重要なキーワード「悲愛」が初出する箇所。

相手と同じ位置に立って、
「共に喜び、共に泣く」「悲」の意味が強調される。

このあと、
アッバ神学の特徴が鮮明になる。

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164-6 フィリアについて  

フィリアは他者に開かれる

共通の価値を追い求める(アリストテレス、ストア評価)

フィリアの問題
価値追求の同士から脱落者・裏切り者が出ると糾弾-例:浅間山荘事件
敵より同士を最も恐れた離脱軍人の話⇒原罪の傷口

フィリアで結ばれたファリサイ派⇒罪人を切り捨てる


エロスからフィリアへ

エロスが、一方的な自己満足の危険があるのに比し、
フィリアは、相互に高めあうという意味がある。

しかし、それは「同士」という前提があってのこと。

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163-4 鎌倉仏教と芭蕉  

無限への憧憬としてのエロス
⇒古今調~鎌倉仏教開祖らの自己否定と転換

比較:芭蕉⇒「無」体験あったが、言葉にこだわった
⇒無による真の転換たりない

開祖は、美の創造にこだわらず、
作品は「指導」「配慮」を目的あるいは結果としての「汗」

「歌よむは罪か」⇒法然:詠む行為に執着するかどうかが問題


この部分は、2ページほどなのだが、
歌詠み?としては、気になるところ。

たとえば、私の場合、
短歌・俳句の一般誌への掲載と、
求道詩歌誌である「余白の風」作品とは、
どういう関係にあるか、
考えさせられる。

求道性と作品としての出来の問題。

広くは、宗教と文学の問題へ。

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158-163 エロスとアガペー  

プラトンのエロス論
-ディティーマ:もともと一つのものが求め合う情熱

感覚を超えて、イデアにまで昇る、
「自分にない価値を追い求める」ため「自己中心的姿勢」

人間は、神を求める場合も、
エロスから出発せざるをえない。

二人が一生を暮らすためには、
エロスを超えたアガペーが必要

エロスが真の自己を開花するには、
永遠の生命-場によって自己転換必要
→アガペーにより包まれる

「忍ぶ恋」「道ならぬ恋」は、妨害によって燃える
ルージュモンの「トリスタン・イズー」-恋愛(エロス)と結婚(アガペー)峻別

注目点
1.道ならぬ恋は死によってしか結ばれない
2.エロスを燃やすために障害をつくる

エロスを持続するには「絶えざる渇き」が必要
cf『狭き門』のアリサ-エロス賛美者


プラトンとルージュモンの物語によって、
まず、エロスの特色をつかむ。

ここでは、エロスは高められなければならないが、
頭から否定されるべきものではない、
という点に、注目したい。

私たちは、いきなり天使にはなれないのだから。

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156-158 愛は人を孤独から救うか  

様々な「愛」の使われ方

人間の最大欲求は「孤独からの脱却」(フロム)
→愛においてのみ可能

愛は「技術」である(フロムの結論)?

ほんとうの愛のみが、
個々人でありながら一つである感応依存において、
孤独から脱却、互いに一致させる

これを命題として、
以下、なぜそうなるか考える。

イエスの愛は「アガペー」使用

パウロや福音記者ヨハネはヘレニズム文化の影響大

イエス以前はあまり使われていない「アガペー」


「第7章 悲愛」の始まり

本書の佳境に入る。

「愛は孤独から人を救い、幸せにするのか」
という、キリスト教の基本命題を、
このあと、丁寧に見ていこうとする。

このことを、
当然のこととして、
深く考えようとしない私たちは、
初心に帰る気持ちで、
いっしょに考えてみたい。

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152-155 理性ある磁石のたとえ  

磁石のたとえ再び
(八木誠一『キリスト教は信じうるか』ヒント)

理性・意識を持った鉄片は感応依存たらしめる磁場に気づかなければ、
互いに独立存在と意識。

しかし、感応依存に気づき、
体験しても、理性では「無」

永遠の生命-場は、
理性には「無」であり、
感応しようとする行為により体験するほか捉え得ない。

イエスの示した真理:「無」の場の構造は三位一体
--場の働きは聖霊による復活のキリストの愛

三位一体は、感応依存関係とは本質的に異なる

重吉詩「人は人であり・・・・」
風に委ね切る自然には、永遠の生命-場の輝きがある。


理性においては、どこまでも「無」である「場」を、
どのようにイエスは教えたか。

ここでも「行為」「体験」がキーワード。
八木誠一のこの本は講談社現代新書だったかと思う。

ちりも積もれば、
第6章終了。

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149-152 復活の身体とサイン  

「霊の身体でよみがえる」(1コリ15:42-44)とは、
身体がコミュニケーション=愛の連帯に不可欠であることを示す。

すなわち、「身体のよみがえり」とは、
永遠の生命-場に感応した愛のコミュニケーションである。

身体を持った人間には、伝達にサインが必要。

それは授受間の共通理解が前提となる。

イエスの教えを生きるとき、
無の原事実がロゴス・神の愛の合図(サイン)として受け取れる。

イエスの教えをほんとうに生きれば、
生きとし生けるものにアバの愛の語りかけが聞き取れる。

新約聖書は、無の原事実が神の愛の語りかけであることに気づかせてくれる。


「新約聖書は実践指導書である」という、
本の最初に書いたことをも、
敷衍される。

しかし、それはいわゆるマニュアル本という、
ニュアンスとは違うものである。

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145-149 可視性を超えて大切な復活の意味  

復活の不可視性の決定的証拠は、イエス死後3年以上経って「光」としてパウロに顕現したキリスト(1コリ15:3-9、使徒9:1-8)

復活のキリストは体験する以外とらえられない原事実であり、それゆえに様々に顕現する。

それは幻覚でなく体験であったからこそ、勇気ある弟子に変貌した。

その「体験の絶対性をあらわす」ためには、時代・文化で翻訳は変化すべきである。

復活・高挙のキリストが、われらの日常に共にある=永遠の生命-場になりきったということ。

復活のキリストは、時空間の制約を超えて、根源場として共にある。

したがって、どんな顕現か(可視性)は二次的となる。

たとえば、無心に咲く花・光り輝く朝露・死の床にある瞳・・・・あらゆるものを通して顕現・体験はありうる。


このあたりは、拙著『すべてはアッバに御手に』で、
私としても、こだわり続けて、書いてきたことです。

原稿を本にする時、井上師から、
「まあ、復活は一生のこと。
一生かけて、(勉強を)やってください。」
と、お言葉を頂いた。

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142-145 十字架から復活へ  

話は、十字架の意味の体験的獲得から、
キリストの復活という、信仰の核心に迫っていく。

使徒5:30-32の弟子の証言や
1コリント15:14のパウロの復活重視を引用するが、
復活の意味として、
「イエスの復活そのものは歴史的事実ではない」(143)と明言する!

復活は単なる蘇生ではない、というところまでは、
多くのキリスト者の賛同を得るだろうが、
霊の体をもつキリストの不可視性を強調する点には、
多くの反対論が、現在もある。

井上神父の復活論については、
私も非常に関心を持っており、
近年の『すべてはアッバの御手に』は、
ほとんどそのことに終始して書いた、
といってもよい。

総じて、
日本人キリスト者でなければ出てこない復活論といえる。

ここでは、
井上神父の復活論が、
主にレオン=デュフールの名著

に負っていることを、
付言しておく。

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137-141 体験のなかで見えてくる十字架の意味  

独居老人を訪問したときの体験、
学生時代に見た蝉の死、
その他から、
死を前にした人間の無力、
助けることのできなかったうしろめたさを思う。

そして、生きることも、死ぬことも、
大変なことなのだと知っていくにつれ、
なぜイエスが十字架で屈辱と血まみれの死を迎えたか
がわかる気がしていく。

すなわち、十字架の意味の発見

自分に愛はないが、完全な愛を生きた人がいたなら。。。
イエスがみすぼらしい死を引き受けたことに、
大きな意味がある気がした。
と告白する。


このブログでも紹介しているように、
明日で、井上神父は、定例でずっと行ってきた四谷の
「南無アッバ」のミサを、最後にします。

ご高齢による決断ですが、
今こそ神父は、自身の「体験」をもって
イエスの十字架の意味を、
噛み締めておられることだろう。

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135-137 個人と世界の分裂  

個人の幸福より世界の不正を正せ!?という意見に対して
→健康と親切は矛盾しない。

「アガペーの姿勢は真の幸福に」

愛と正義は別の秩序
癌研究と介護は共に必要
正義や愛のためには自分の健康たいせつ

しかし、自分のいい加減さの苦味から十字架連想

救いは神だけと言い切れぬ後ろめたさ


個人の幸福と社会正義の問題は、
理屈をいろいろたてられるが、
簡単に割り切ることは、できない。

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133-135 ヨハネ福音書のロゴス  

感応依存の話から、ヨハネ伝のロゴスを説く。

生命=永遠の生命
ロゴスは永遠の生命-場を可能にする何か。

三位一体とは、
父・子(ロゴス)・聖霊が永遠の生命場で感応依存にあること

ヨハネ1:14から 
イエスは「磁化した永久磁石」
ロゴス自体がイエスに突入した。

したがって、イエスの死はどんな偉人の死とも決定的に違う。


このあと、
老病死を具体的に語っていくが、
その直前の、
神学的部分。

ロゴス論は、
誰にとっても難しいが、
井上師は、
これも感応相互依存関係をキーワードに、
思索を展開する。

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質問に答えて--神の業、人の業  

さて、ご質問の件です。

>神の創造は今、現在もであって<

そういうことだと、井上師の文脈からいえましょう。
神が「今ささえて下さっていなければ」我ら滅びる。

>であるならば、最近のこの世界は言葉で言い表せないほど変な感じを受けるのですが<

こういうのを、神学では、神義論といいます。
神は正しいのに、なぜこの世に悪がはびこるか、ってことですね。

>神の意思というものがこの世界に生きる皆の行いの流れの結果<

それはちょっと違うように、私は思います。
イエスの説く「神の国」は、からし種のたとえのように、
人間が寝起きして、知らないうちに「ひとりでに」成長して行きますから。

つまり、今現在、私たちの目にはわからない不可解なことが多くとも、
「南無アッバ」の心で、
不安があっても「あなたにお任せします」と、
おゆだねする、
難しいことですが、
それが私たちの信仰のめざすところだと思います。

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130-133 神の創造とは何か  

天地創造物語は、神が全存在を根源的に支える、主客を超えた原事実を示す。

アレオパゴスの説教(パウロ)を生物・環境一体観で考えるなら、
神は、生物・環境分化以前の「混沌とした生命的何か」をつくったということ。

「神が創る」とは、存在を支え続けることであり、
絵画的表現の奥をみなければならない。

芸術作品とちがい、
神が創造をやめれば存在そのものが虚無に帰す。

したがって、場との感応関係うしなえば、滅びる。

地獄とは、感応関係うしなった永遠の孤立である。

聖霊とは、自然・人間、我汝・・・を根底で一つの感応依存体として成立させる力
その成り立っている場が「神の国」
----------------------------
ここも学びの多い箇所。

天地創造、地獄、聖霊など、
キリスト教でよく使われる表現が、
個-全体の感応依存関係から、
演繹されていく。

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127-130 個と全体は感応依存関係で生きる  

各器官と体の関係、
生物と環境の関係を、
「一即多、多即一」の感応依存の関係ととらえる。
ただしそれは、
単に、対象化しうる個物同士の関係でなく、
一枚の紙から切り抜かれた絵のように、
すべてが、根源的な「混沌」から
分化したものと、
と捉える。
-----------------
自分と他者、
人間と環境、
生きとし生けるものが、
本源的一者から沸き出でたもの
との感を強くする。

どこか皆つながっている
という安心感が訪れる。

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122-127 死とは何か、根底場を掘り下げよ  

第6章
死ぬということは、何か?

これを掘り下げて行くと、
細胞のどこからどこまで、
という言葉的限定でなく、
「もの」や「本体」という立場の考えを、
「場」や「根底」という立場にまでへ掘り下げなければならない。

そのために、言葉の価値と虚構性を
再認識すべきである。
ーーーーー------------------
井上師が指摘した
臓器移植における「死」の疑問は、
現在、
脳死の問題につながっている。

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117-120 キリスト教信仰の核心  

前項、主客分離以前の憧憬ということから、
梅原猛氏の、日本人の美意識は、古今調、哀しみの美意識である、
ということをヒントに、
神父は、日本精神史に一つの推測をなす。

すなわち、万葉までの主客未分離状態から、
古今集の時代へと、
主客分離するなかで、
「根源的何か」から切り離されたという「流浪の意識」が芽生えた。

さらにそこから自己転換し、
再びその「何か」と一体体験を獲得したのが、
鎌倉仏教であり、芭蕉や良寛であったと。

彼らのように、
プネウマ(風)に任しえた人の命に触れた時、
われわれはプネウマに気づく。

キリスト教信仰の核心は、
プネウマ(磁力)による神の国(磁場)=「根源的何か」は
イエスを通して啓示されたと、
信じる信仰である。
---------------------------
第5章のしめくくり。
「流浪意識」の変遷推移は珠玉。

ようやく、というか、
はやいもので、というか、
『日本とイエスの顔』半ばまで来ました。

皆さま、お疲れ様です。

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115-7 ヨーロッパと日本  

「地中海的性格」に代表されるヨーロッパ精神は、
ものごとを理性によって区切り、
言葉によってレッテルをはり、
概念化する。

これによって、自然科学・資本主義は発達し、
便利さと公害をもたらした。

山の彼方をどこまでも追い求めるヨーロッパ文化
VS
足もとの川の源流への郷愁が日本文化

→日本人には、主客分離以前の根源への憧憬がある。
--------------
これらのことは、本書で繰り返し説かれるところである。
ただし、注意したいのは、
けっして、両文化の優劣をいうものではないし、
まして、そのことによって出来上がっている社会の
優劣でもない。

井上師の言いたいのは、
形成されたメンタリティの違いによって、
福音表現、求道方法もちがっていい、ということ。

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113-115 「アッバ」と呼びかけることの意味  

主客をこえた空が、
神の息であることをどう体験し、
知ることができるかを示したところに、
イエスの教えの意味がある。

またそれを可能にすしたところに、
イエスの生涯の意味がある。

それはどのように可能か?

幼子の心に立ち返り、
アッバに信頼すること。

ただし、「アッバ」は、
概念言葉でなない、
むしろ、自他同時体験の叫び、
自分をあらしめる根源的「何か」への呼びかけである。

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日本人はキリスト者かもしれない 112-114  

「言い過ぎでしょうか」と、但し書きしながらも、
井上神父は日本の精神史は、
「しらずしてイエスの説いた神の国、天の国、永遠の生命を求め続けてきていた」
という。
--------------
これは、キリスト教史においても、
画期的な発言だろう。

カール・ラーナーの「無(記)名のキリスト者」が想起される。

とすれば、日本人がキリスト信仰に入っていく時、
欧米に目を向けるのではなく、
むしろ、日本文化を十分に味わい直すこと、
その方が、イエスの教えに近づけるのだろう。

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色即是空 111-112  

般若心経の「色即是空、空即是色」
形あるものは形のない「空」によって成り立つ。
紙の表裏も然り

色即是空→万物の変化
空即是色→真の存在、真の実在と一体の空

小笠原長生の句が印象的

舎利子見よ 空即是色 花ざかり
---------------
今日の箇所は短いですが、
奥が深い。

人口に膾炙されている言葉ですが、
この言葉によって、
私たちの身の回りのものを眺めたとき、
不思議なリアリティがあります。

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大覚寺体験 p.109-111  

「20年近く前」といいますから、
フランスから日本に帰国した頃の話だと思います。

京都嵯峨野の「大覚寺」で、
大きな宗教体験をします。

それは、
生命への戦慄的感動、
生の繰り返しを眺める自分の生命の不思議さ、
「大きな不思議な力」によって「大きな生命の流れ」が
自分を乗せていく思いだった、
といいます。

人が生まれるということを、
医学的な合理主義では解けない、
宗教的な意味に目覚めた、
ということかもしれません。

大きな生命の流れに身を任す自分。。。

遠藤さんの「深い河」と
美空ひばりの「川の流れのように」を思い出しました。
(井上師は「ひばり」ファンです)

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無と風 107-109  

無を荘子・芭蕉・一遍から「風」をキーワードに理解します。

「荘子」の地籟・天籟のたとえ
-それぞれに特有の音をたてさせる天籟のように、
われらの喜怒哀楽・動物の鳴き声も、
すべて見えない何かによって生命を奏でている。

芭蕉「奥の細道」の冒頭「片雲の風」、
あるいは「風雲の情」「心匠の風雲」などは、
「天籟の風」を意識している。

一遍は「・・・・・居住を風にまかせ」
と記す。

「風」あるいは、「プネウマ」は
ご存知のとおり、井上師の機関誌の名称にも使われている。
神父の中ではいつも意識されているキーワード。

「神の国」理解に「無」がかかせず、
さらにそれは「風」をもって深まる。
注目すべきは、
その例証が、東洋の古典にあるということ。

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神の国は「流れ」「無」による理解 p.104-106   

神に国は吾らを包む「根源の大生命の流れ」であり、
その永遠の生命の流れは、吾らを包み込んで流れ始めている。

この流れに身をゆだねよ、そのとき、真の完成、喜び、愛を
味わうことができる。

これがイエスのメッセージ。

この神の国を理解するには、
「無」を理解するのが有益、と神父は言う。

古言〝火は火を焼かず、水は水を流さず〟
=A即非A(鈴木大拙)

私が私であるのは、私ではない「スッカラカン」による
→対象化できない無
→無我となり、行じ体験するほかない

ここでも、井上師の体験主義的キリスト教が
発想の根底にあることがわかる。

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神の国は実現している p.101-104  

前回に見たように、
自ずから成る神の国は、
さらに、驚くべきことに、
イエスのおいては、完全な形で実現していることが示されます。

それは当時のユダヤ教での2つの「神の国」概念を超えるものでした。

そしてそれは、
イエスの中に充満して、
いわば、
「泉が地上に湧き出るように、梅の花から自然に快い香りがたちのぼるように、
そこから愛が私たちのいのちと生活に匂いでていくのです。」(103)

主役はあくまで、
神の国そのものにあります。

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「神の国」を「たとえ」る-『日本とイエスの顔』98-101  

イエスの公的第一声、
神の「バシレイア」が近づいたを解説し、
「神の国」=「天の国」=「生命」=「永遠の生命」に導く。

イエスは「神の国」を定義せず、すべて「たとえ」で語った。

その理由
①吾らがその中に包まれていること→外に立って言葉で概念化できない(第1章参照)
また、わたしたちが寄って立つ根源そのものだから。

②当時の生活実感から説くため
(これは、他のラビも行っていた。)

そして、以下、その具体的たとえとして、
3つの「種」のたとえ、
すなわち「からし種」「パン種」「ひそかに育つ種」に学ぶ。

共通点:神の国は、人間の力でなく、自らの力で成長する根源の力・原事実
→わたしたちに、童心に返って受け入れることをすすめる
=イエスのメッセージ

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09/23のツイートまとめ  

yohaku5

勝手ながら、「井上神父の本を読む」-『日本とイエスの顔』-は、こちらのブログhttp://yohaku5.blog6.fc2.com/に移動して、続けます。よろしくお願いします。コメントもブログの方へ。
09-23 09:12

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「アッバ」なる神 『日本とイエスの顔』92-97  

早いものです。第4章も今日で読了。

ちょっとずつやってるのですが、やはり、読者が具体的にいる、
というのは、ほんとうに励みになります。
皆様、ありがとうございます。

今後とも、
ときどきで結構ですから、
合いの手を入れてください!

さて、きょうは、第4章のしめくくり。

この章は、前章からの続きで、
前半、ちょっと難しいギリシア哲学の話などが出ましたが、
後半は、井上神学のキーワード「アッバ」に集中します。

予断ですが、わたしはかつて、この井上神学を、
「アッバ神学」と名づけましたが、
このネーミングは、神父ご自身も喜んでくださいました。

そして、今日の学び。
二つの代表的な、イエス様が残した<たとえ>で、
「アッバ」なる神を、説明しています。

2つとも、「ルカ」の15章からですが、
井上神学では、そのほかとくに、10章、18章が重要です。

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09/22のツイートまとめ  

yohaku5

(昨日の一部訂正)すなわち、「アッバ」は、イエス御自身が使っていたアラム語であり、本来幼児語で、今の日本で言えば、「パパ」「おとうちゃん」に当たる言葉。ユダヤ教の「怒りと罰と裁き」の神に対して、イエスは「アッバ」と呼び掛けたのです。
09-22 06:37

『日本とイエスの顔』86-92 アッバの意味する所を、初めて、まとまった聖書敷衍訳によって、深めています。http://yasuraoka.cocolog-nifty.com/toma/2005/12/post_5031.html こうした反論もありますが、
09-22 17:56

「南無アッバ」は、イエスにとってのアバが同じように私たちにとってもアバなのだということが、イエスが身をもって教えようとした大切な一事(ガラティア4・6、ローマ8・15)であったことを考え併せると、
09-22 17:59

イエスの意に添うのは、「南無イエス・キリスト」ではなく、「南無アッバ」でいいのではないかと、私は思います。
09-22 17:59

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09/21のツイートまとめ  

yohaku5

『日本とイエスの顔』82-86 しかし、イエスの生の実体験からは、神は単に「知られざる」ものではなく、愛と抱擁の神、「アッバ」と呼びうる方でした。
09-21 17:13

この部分は、井上神学の第一のポイントです。これまで、2つの認識方法から、風土や環境がいかに思想形成に重大な影響を与えるかを、論じてきて、いよいよ、具体的に、イエスの思想のキーワードが説明されていきます。
09-21 17:16

その第一が、この「アッバ」です。p.85-86 に出てくる解説は、今後繰り返し様々な著作や発言でも繰り返されることになります。
09-21 17:18

つまり、イエスは、それまでのユダヤ教に神観を180度ひっくり返したということ。父性原理から母性原理の神を示した所に、イエスの第一の特徴をみる。これが井上神学の大きな意味です。またそれは、盟友、遠藤周作氏の神観でもあります。
09-21 17:25

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09/20のツイートまとめ  

yohaku5

まともな電話なら、留守電でも必ず、ちゃんと伝言を入れてくれます。
09-20 14:28

『日本とイエスの顔』79-82 言語を超えた神と理性の関係は、顔と目の関係に類比できる。目はけっして顔を見ることはできず、顔に支えられて役割果たす。同じように、理性(顔)は、それを支える「何か」を知ることはできない=存否を問えない。
09-20 16:54

しかし、その「何か」は考えられなくても、体験はできる。言葉を超えた神は、対象になりえない「無」にあらわれる-無は神の場。神は無を生き、体験する以外、己をあらわさない。
09-20 16:56

アレオパゴスの説教(パウロ):「知られざる神」は宮に住まず。アテネでは、神は理性にとって「知られざる」ものでしかなかった。
09-20 16:57

今週の学びスタート!
09-20 16:58

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09/19のツイートまとめ  

yohaku5

「或る 暗夜に、愛にもだえ 炎となって おお 幸いな冒険よ! 気づかれずに 私は出て行った・・・・・」こんな感じで、恋愛詩のような形で、続きます。美しいです。丁寧な語句注がついています。
09-19 06:49

本日は、安息日、ってわけでもありませんが、神学のお勉強はお休みー。西村京太郎を読んでます(笑)
09-19 18:27

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09/18のツイートまとめ  

yohaku5

しかし、しかし、今日も井上神学の学びを続けましょう。
09-18 14:59

『日本とイエスの顔』p.78-79 今日の箇所は、分量は少ないのですが、固有名詞や人名がいろいろ出てきまして、ちょっと苦手だな、って思う人もいるでしょう。
09-18 15:04

でも、憶えるんじゃなくて、ポイント=神父様の言いたいことは、何か、ってことを前後関係で考えれば、そうややこしいことは言ってないことがわかります。
09-18 15:05

つまりずっと、対象化できない、主客をこえた、「無」としか呼べない神、ということを語ってきたのですから、その文脈で、今日の箇所も、補足されていることがわかります。
09-18 15:07

ウラジミル・ロスキの言説が、紹介されます。ロスキは神父様が、思想的恩人として上げている人の一人。重要人物です。
09-18 15:13

言わんとするところをまとめると、西欧神学主流の、言語によって神を把握しようとする、カタファティズム VS
09-18 15:15

東方教会の一貫した流れとして、言語を拒否する神把握=アポファティズム、ということになりましょう。
09-18 15:16

井上神父様があげている十字架のヨハネは、カルメル会の人ですが、西欧では、めずらしくアポファティズム的聖人です。美しい詩をのこしています。
09-18 15:21

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09/17のツイートまとめ  

yohaku5

『日本とイエスの顔』p.77-78 前項を受けて、古代ギリシア教父3名の事例--神が対象化し得ない、「無」としかとらえようのない方であることを、学ぶ。
09-17 18:17

すなわち、バジリウス(4C)は「根底」としての神、ニッサのグレゴリオはあらゆる概念の否定に立つ神として、そして偽ディオニシモは、「言語」「知解」を絶し、すべての対概念を超える「~に非ず」としか言いようのない神として、定立させる。
09-17 18:23

只今、来週の講座に向けて準備中。ツイッター井上本通読の学びは、講座の準備にも役立ちます。しかし、今週のお仕事はちょっとハードだったので、けっこうきつい。
09-17 21:13

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09/16のツイートまとめ  

yohaku5

『日本とイエスの顔』p.75-77 ヨーロッパ・カトリシズムに伝統的な「類比概念」による神把握は、本来対象化しえない神を捉えるには賛成できない。ロシア正教、さらに東洋的「無」の考えを理解することが不可欠。
09-16 13:48

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09/15のツイートまとめ  

yohaku5

『日本とイエスの顔』p.73-75 前段の体験的認識から発展して、神の存否を問えない理由に至ります。すなわち、わたしたちがその中で生き、動き、生活している神を、外側に立って、ふつうの「もの」と同じようには語れないということ。
09-15 17:12

主客を超える世界の事柄。30年前に直接お話を聞いた時、この箇所を、顔(神)の中に存在する鼻(私たち)というたとえで話されたことを思い出します。たしか、八木誠一さんもそうしたたとえを使っていたように思います。
09-15 17:16

余談ですが、ここに出てくる「赤ちゃんはいくらですか」という例。本来、問えない、答えられない問題ととして、例示されていますが、現代社会の中では答えてしまう人もいるような御時世で、怖い気がしました。
09-15 17:20

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09/14のツイートまとめ  

yohaku5

『日本とイエスの顔』p.71-73 今日から、第2部に入ります。まず第1章を深め、例の「~ついて」知ることと、「~を」知ることの違いから、詩的認識が、体験的認識に近いことを示す。
09-14 17:06

こうした井上師の詩論を知ると、なぜ師が、散文とは別に、ずっと詩を書き続けてきたかがうかがい知れる。また、「体験的認識」は「同時に自分自身を語る」ことにもなる、という指摘は、説得力があるし、ごまかしのきかないものなのだ、という厳しさも伝わってくる。
09-14 17:11

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09/13のツイートまとめ  

yohaku5

また、受け入れる方も、これまでの日本のように、西欧キリスト教=正統キリスト教と鵜呑みにしてしまった現実があります。何が本質か、その本質はどう表現されれば、自分たちの心に響くのか、試行錯誤が繰り返されなければならないでしょう。
09-13 11:47

『日本とイエスの顔』p.65-67 早いもので、第3章の締めくくりです。井上神父はここで、キリスト教が明治以降、日本に土着しなかった理由を考察しています。
09-13 18:04

文明開化で入ってきた他の西欧文化は、多く文字を媒介としたので、日本的にアレンジできた。しかし、キリスト教は宣教師という生身の人間を媒介として入ってきた。したがって、その人間が受け止めたように受け止めることを強いられた、ということです。
09-13 18:07

キリスト教の本質である「苗」木ではなく、西欧で育った「大木」を無理に寝づかせようとした失敗ということです。私見ですが、たしかに、内村鑑三や八木重吉などは、当時の教会には馴染めず、最終的に、文字通り「聖書のみ」の独自の信仰形態を作っていった。
09-13 18:11

それは彼らなりに、正直な日本人的キリスト教だったのでしょう。内村や重吉の全集や詩が、今でも人気があるのは、私たち日本人として共感できるキリスト教表現が、含まれているからではないだろうか。
09-13 18:14

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09/12のツイートまとめ  

yohaku5

この時間になると、やはり気温は、ぐんぐんあがってきました。それでも、こちら、室内32度です。これで、涼しく感じちゃう(笑)。人間すごいですね。
09-12 14:39

さて、それでも、今日も井上神父様の御本を開きましょう。『日本とイエスの顔』p.62-65にかけての段落です。これまで、言葉、風土、そして新旧約聖書の非連続の問題を論じてきました。
09-12 14:42

暑さのせいもあって、こでめげているひとはいませんか?(笑)たしかに神父様の、この本は、一番学問的で硬いのです。それでも神父様ご自身、「学会ではなく一般向けに」という出版方針は、当初から貫いています。
09-12 14:47

昔、母から「するめべんきょうせよ」と教わったことを、思い出して、ちょっとずつ理解しましょう。わかりずらかったら、前に@nk3737さんが提案してくれたように、これよりあとに出版された本を並行してお読みになると、ずっとわかりやすくなると思います。
09-12 14:50

前置きが長くなってしまいました。今日のp62-65段落のポイントは、各自の文化のなかで開花すべきキリスト教-文化内開花(インカルチュレーション)の最初の例として、ギリシア・ローマがあげらる、ということです。
09-12 14:55

これも一般が誤解している、キリスト教は、他文化を排除して世界に進出した、というのは、ヨーロッパキリスト教であって、けっして本質的に排他的ではなかった、ということが、まず、強調されています。
09-12 14:57

少なくとも、ユスティヌス(2C)以降、ギリシャ・ローマ教父の時代には、それぞれの育った文化を下敷きに、キリスト教を理解、擁護してきた歴史があります。
09-12 15:00

つまり、世界宗教・普遍的な宗教になるということは、どこか特定の文化内でしか通用しない、あるいは理解できないキリスト教ではなくて、あらゆる民族・文化と結びついた、それぞれの受け取り方を可能にする宗教になるということです。
09-12 15:03

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09/11のツイートまとめ  

yohaku5

『日本とイエスの顔』p.59-62 ユダヤ教→キリスト教の発展過程には、質的な非連続性があったことが述べられる。井上神学では、先の風土重視と並んで、とくに強調されること。(現代では、逆に連続性をいう学者もいる)
09-11 18:57

ただしこれは、ユダヤ教批判ではない。キリスト教が民族宗教から世界宗教に発展するには、非連続性は不可欠の要素であったということ。
09-11 19:01

ここでも、文化と結びつかないキリスト教はあり得ない、と主張し、「キリスト教は一つだから、アジアもヨーロッパもない」という発想に対抗する。
09-11 19:04

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09/10のツイートまとめ  

yohaku5

学びを続けます。『日本とイエスの顔』p.53-54のインドの伝説は印象的。恵みの太陽という発想は不変ではない。元凶の象徴という捉え方もある。
09-10 09:09

ここまで、風土の影響力がいかに大きいか、ヨーロッパ、日本、インド、砂漠で比較。
09-10 09:16

p56-57 神殿との距離、外国人支配の長さによっても、正統ユダヤ教から変質したガリラヤ地方。
09-10 09:31

p.59 イエスがユダヤ教民族主義を超え得たのは、ガリラヤの風土・文化とユダヤ教の形態を大きな要因とする。
09-10 09:51

(ここまでの学びから)わたしたちは、つい頭の中だけで考えてしまいますが、実際には、どんな偉大な思想も、その生まれてくる環境-温度・気候・地形・・・・・もしかすると食べ物・着るものにまで、影響されて、形成されるのではないでしょうか。
09-10 09:54

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09/09のツイートまとめ  

yohaku5

『日本とイエスの顔』第3章~p.50 エルサレムを中心としたユダヤ地方と、イエスの生まれ育ったガリラヤ地方の風土・歴史を対比し、イエスの思想・信仰が形成されていく必然を考察する。
09-09 11:40

そこには、キリスト教をユダヤ教と同様、父性原理の強い宗教という、一般の誤解を解きたい、井上神父の主張がよく表れている。
09-09 11:42

『日本とイエスの顔』p50-53 ガリラヤ湖の北、コラジン旅行で井上師が気づいた草と虫の声。これだけでも、明らかにユダの荒野とは異なる風土。このことから、和辻風土学に及ぶ。風土の力がいかに人間の考え方や文化形成に影響するか、はかりしれない。
09-09 12:40

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09/07のツイートまとめ  

yohaku5

「風」読者の皆さん、85号は着きましたか? 井上神父の「ご挨拶」巻頭文を、お読みかと思います。
09-07 22:34

なかには、すでに、http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/oshirase/100902shisaijinji04.htmをごらんの方もおありでしょう。
09-07 22:35

日本人の感性でイエスの福音を受け止める「風の家」の運動は、今後、第二世代に移っていくことになります。
09-07 22:38

井上師引退の寂しさは、もちろんですが、この運動がアッバのみこころにかなうものであれば、次々と精神のバトンタッチがされていくでしょう。
09-07 22:41

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09/05のツイートまとめ  

yohaku5

日本人とキリスト教というテーマで、今関心を持っている、内村鑑三について、1980年代初めに出た、全集をめくりながら、所感を述べています。
09-05 18:37

巻頭から、農漁業関係の専門的な文章がならび、最初に宗教関連の話が出てくるのは、1886年(明治19年)に書かれた英文、Moral Traits of the "yamatto-Damashi" ("Spirit of Japan")
09-05 18:54

改題では、〔「大和魂」(「日本の精神」)の道徳的特徴〕となっています。
09-05 18:54

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09/04のツイートまとめ  

yohaku5

というわけで、こちらで、日本とキリスト教について、引き続き考えます。
09-04 22:11

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07/26のツイートまとめ  

yohaku5

どんなにか背伸びをしてもアバ様の御手の中では一寸法師 #namuabba
07-26 11:24

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07/23のツイートまとめ  

yohaku5

明日は4回目の講座ですね。http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-1421.htmlお申し込み下さった方、暑い中ですが、お気をつけておいでください。講座後、いつもどおり、喫茶店エルでおしゃべりしましょう! #namuabba
07-23 08:44

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07/15のツイートまとめ  

yohaku5

その無意識の理を分析すると、「日本人とキリスト教」というテーマが見えてくるということでしょう。 #namuabba
07-15 16:31

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07/13のツイートまとめ  

yohaku5

「そのとき、イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱(しか)り始められた。」(マタイ11) 見ても見えていない私たちに、本質を見抜く目をお与えください。 #namuabba
07-13 10:38

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求道詩歌誌「余白の風」

南無アッバの集い&平田講座

最後の南無アッバミサ

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