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カテゴリー「『日本とイエスの顔』」の記事一覧

170-3 イエス VS ファリサイ派 (1)取税人への姿勢  

・ユダヤ社会で軽蔑された3種類の人:取税人・娼婦・重い皮膚病の人
・取税人とは
・これらの人に対するイエスとファリサイ派の対比→イエスを動かしたものが見える
・ファリサイ派とは
・安息日について
・立派なファリサイ派
・思いやりより裁くファリサイ派
・裁く前に受け止めるイエス


井上神父は、
福音書の時代背景や文化状況が丁寧に説明しながら、
イエスが、命をかけて大切にしたことを、
読み解いていく。


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166-170 憐憫と悲愛  

アガペーは無価値な者を含む愛

ただし、憐憫とは違う

『事件の核心』(G・グリーン)スコウビイの愛ならぬ憐憫による自己崩壊

憐憫は自己肯定の情熱であり、
アガペーのように自己転換しない

"アガペーは相手の立場で無心に共に泣く愛
→「悲愛」初出
→十字架の姿

マルコ2:13-17
歴史的イエスの明白な特徴:下積みの人たちとの交わり-ブルトマンも認める

この特徴から、イエスの生涯を貫くものが見えてくる


井上神学=アッバ神学での最重要なキーワード「悲愛」が初出する箇所。

相手と同じ位置に立って、
「共に喜び、共に泣く」「悲」の意味が強調される。

このあと、
アッバ神学の特徴が鮮明になる。


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164-6 フィリアについて  

フィリアは他者に開かれる

共通の価値を追い求める(アリストテレス、ストア評価)

フィリアの問題
価値追求の同士から脱落者・裏切り者が出ると糾弾-例:浅間山荘事件
敵より同士を最も恐れた離脱軍人の話⇒原罪の傷口

フィリアで結ばれたファリサイ派⇒罪人を切り捨てる


エロスからフィリアへ

エロスが、一方的な自己満足の危険があるのに比し、
フィリアは、相互に高めあうという意味がある。

しかし、それは「同士」という前提があってのこと。


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163-4 鎌倉仏教と芭蕉  

無限への憧憬としてのエロス
⇒古今調~鎌倉仏教開祖らの自己否定と転換

比較:芭蕉⇒「無」体験あったが、言葉にこだわった
⇒無による真の転換たりない

開祖は、美の創造にこだわらず、
作品は「指導」「配慮」を目的あるいは結果としての「汗」

「歌よむは罪か」⇒法然:詠む行為に執着するかどうかが問題


この部分は、2ページほどなのだが、
歌詠み?としては、気になるところ。

たとえば、私の場合、
短歌・俳句の一般誌への掲載と、
求道詩歌誌である「余白の風」作品とは、
どういう関係にあるか、
考えさせられる。

求道性と作品としての出来の問題。

広くは、宗教と文学の問題へ。


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158-163 エロスとアガペー  

プラトンのエロス論
-ディティーマ:もともと一つのものが求め合う情熱

感覚を超えて、イデアにまで昇る、
「自分にない価値を追い求める」ため「自己中心的姿勢」

人間は、神を求める場合も、
エロスから出発せざるをえない。

二人が一生を暮らすためには、
エロスを超えたアガペーが必要

エロスが真の自己を開花するには、
永遠の生命-場によって自己転換必要
→アガペーにより包まれる

「忍ぶ恋」「道ならぬ恋」は、妨害によって燃える
ルージュモンの「トリスタン・イズー」-恋愛(エロス)と結婚(アガペー)峻別

注目点
1.道ならぬ恋は死によってしか結ばれない
2.エロスを燃やすために障害をつくる

エロスを持続するには「絶えざる渇き」が必要
cf『狭き門』のアリサ-エロス賛美者


プラトンとルージュモンの物語によって、
まず、エロスの特色をつかむ。

ここでは、エロスは高められなければならないが、
頭から否定されるべきものではない、
という点に、注目したい。

私たちは、いきなり天使にはなれないのだから。


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156-158 愛は人を孤独から救うか  

様々な「愛」の使われ方

人間の最大欲求は「孤独からの脱却」(フロム)
→愛においてのみ可能

愛は「技術」である(フロムの結論)?

ほんとうの愛のみが、
個々人でありながら一つである感応依存において、
孤独から脱却、互いに一致させる

これを命題として、
以下、なぜそうなるか考える。

イエスの愛は「アガペー」使用

パウロや福音記者ヨハネはヘレニズム文化の影響大

イエス以前はあまり使われていない「アガペー」


「第7章 悲愛」の始まり

本書の佳境に入る。

「愛は孤独から人を救い、幸せにするのか」
という、キリスト教の基本命題を、
このあと、丁寧に見ていこうとする。

このことを、
当然のこととして、
深く考えようとしない私たちは、
初心に帰る気持ちで、
いっしょに考えてみたい。


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152-155 理性ある磁石のたとえ  

磁石のたとえ再び
(八木誠一『キリスト教は信じうるか』ヒント)

理性・意識を持った鉄片は感応依存たらしめる磁場に気づかなければ、
互いに独立存在と意識。

しかし、感応依存に気づき、
体験しても、理性では「無」

永遠の生命-場は、
理性には「無」であり、
感応しようとする行為により体験するほか捉え得ない。

イエスの示した真理:「無」の場の構造は三位一体
--場の働きは聖霊による復活のキリストの愛

三位一体は、感応依存関係とは本質的に異なる

重吉詩「人は人であり・・・・」
風に委ね切る自然には、永遠の生命-場の輝きがある。


理性においては、どこまでも「無」である「場」を、
どのようにイエスは教えたか。

ここでも「行為」「体験」がキーワード。
八木誠一のこの本は講談社現代新書だったかと思う。

ちりも積もれば、
第6章終了。



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149-152 復活の身体とサイン  

「霊の身体でよみがえる」(1コリ15:42-44)とは、
身体がコミュニケーション=愛の連帯に不可欠であることを示す。

すなわち、「身体のよみがえり」とは、
永遠の生命-場に感応した愛のコミュニケーションである。

身体を持った人間には、伝達にサインが必要。

それは授受間の共通理解が前提となる。

イエスの教えを生きるとき、
無の原事実がロゴス・神の愛の合図(サイン)として受け取れる。

イエスの教えをほんとうに生きれば、
生きとし生けるものにアバの愛の語りかけが聞き取れる。

新約聖書は、無の原事実が神の愛の語りかけであることに気づかせてくれる。


「新約聖書は実践指導書である」という、
本の最初に書いたことをも、
敷衍される。

しかし、それはいわゆるマニュアル本という、
ニュアンスとは違うものである。


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145-149 可視性を超えて大切な復活の意味  

復活の不可視性の決定的証拠は、イエス死後3年以上経って「光」としてパウロに顕現したキリスト(1コリ15:3-9、使徒9:1-8)

復活のキリストは体験する以外とらえられない原事実であり、それゆえに様々に顕現する。

それは幻覚でなく体験であったからこそ、勇気ある弟子に変貌した。

その「体験の絶対性をあらわす」ためには、時代・文化で翻訳は変化すべきである。

復活・高挙のキリストが、われらの日常に共にある=永遠の生命-場になりきったということ。

復活のキリストは、時空間の制約を超えて、根源場として共にある。

したがって、どんな顕現か(可視性)は二次的となる。

たとえば、無心に咲く花・光り輝く朝露・死の床にある瞳・・・・あらゆるものを通して顕現・体験はありうる。


このあたりは、拙著『すべてはアッバに御手に』で、
私としても、こだわり続けて、書いてきたことです。

原稿を本にする時、井上師から、
「まあ、復活は一生のこと。
一生かけて、(勉強を)やってください。」
と、お言葉を頂いた。


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142-145 十字架から復活へ  

話は、十字架の意味の体験的獲得から、
キリストの復活という、信仰の核心に迫っていく。

使徒5:30-32の弟子の証言や
1コリント15:14のパウロの復活重視を引用するが、
復活の意味として、
「イエスの復活そのものは歴史的事実ではない」(143)と明言する!

復活は単なる蘇生ではない、というところまでは、
多くのキリスト者の賛同を得るだろうが、
霊の体をもつキリストの不可視性を強調する点には、
多くの反対論が、現在もある。

井上神父の復活論については、
私も非常に関心を持っており、
近年の『すべてはアッバの御手に』は、
ほとんどそのことに終始して書いた、
といってもよい。

総じて、
日本人キリスト者でなければ出てこない復活論といえる。

ここでは、
井上神父の復活論が、
主にレオン=デュフールの名著

に負っていることを、
付言しておく。


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